物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2014-06-13

生産性のある言葉と行動にフォーカスしないと、無駄な人生に終わる

2013-11-23 「AともいえるがBともいえる」とか言う人の役立たなさ

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20131123


ちきりんさんのこの記事を読んで、本当にそうだな、と思いました。


生産性という言葉がいいのかわからないですが、解決と結果に結びつくものにフォーカスして、言葉と行動を起こさないと、人生は本当に無駄に過ぎ去ります。


たとえば、ネットの世界で、よく炎上とかがあるじゃないですか。もしくは粘着で、ある人の意見を攻撃したり、嫌いな作家さんのAmazonで悪口を書き続けたり。僕は、本当にああいうの意味がよくわからないんですよね、、、というのは、人生の無駄づかいじゃないか?って思って、なんか理解に苦しむんですよ。なんというか、全然生産性がない。そういう時間があれば、別のもっと生産性の高いことに集中すれば、もっと幸せになれると思うのに、、、って。ああいう人たちって、本人自身も強がってわかっていないのですが、とにかく現状に不満がある、自分が不幸せで、虐げられているという自己認識なんですよね。なので、他者に攻撃的になる。自分が抑圧されて余裕がないので、公平で広い視野で物事を見ることができない。他者の振る舞いがほとんど自分への攻撃として変換されるようなんですよね。ようは、相手を引きずりおろしたい。だけれども、ほとんどの場合は効果のないことばかりをしているわけです。かりに引きづりおろすのに成功しても、それで攻撃した人が幸せになるかっていつお、実は全然そんなことはない。それは目的が完全に間違っているから。要は生産性がない。、、、自分自身が幸せになるには、物凄く意味のないことを、頑張ってやり続けているわけで、、、そんな暇があったら、自分が幸せになること、できることに邁進すればいいのに、どうしてそんな無駄な(=自分が幸せには全く効果のないこと)ばかりするんだろう?って不思議になるんですよ。


解決方法は、僕には「幸せになる(=満足する・充実する)」ための努力をするしか、答えがないと思うんですよ。そこに、集中する。それ以外は無駄。まぁ、人生の課題ってやつは、ほとんどこれになると思います。幸せの定義はもちろんいろいろあるんで、要は自分が満足できる状態になって、人生と自己を肯定できる状態という風に考えればいいと思います。



では、しあわせになる方法は?という風に考えたときは、解決方法は僕のイメージでは、下記のような手順になります。


まずは、


1)なぜ自分が幸せじゃないのかの現状分析をする(=問題点を把握する)


2)とりあえず1)で出てきた問題点を仮説として、それを解決する方法を考える(=仮説と解決法の設定)


3)解決する方法を実践する(=実践しつづける)


4)実践が効果的でかつ、1)と2)の課題設定(=目的)に直接的な改善に結びついていることを評価し続ける(=結果と目的の連関性の確認)


これだけです。


ただし、これらにはものすごい付帯条件があって、それぞれの条件をよくよく認識しないとすぐ罠に落ちて、虚偽問題に騙されたまま人生を浪費します。


まずは、「1)なぜ自分が幸せじゃないのかの現状分析をする(=問題点を把握する)」ですが、僕がよく、ナルシシズムの地獄という言葉で表現するのですが、人間は、視野がとっても狭い生き物です。また、いったん心理的に唯我論的な、オレが、オレが、の状態になると、自己空転を始めて、止まりません。


なので、まず重要なのは、自分が公平で広い視野でものを見ているかを、確認しなければなりません。なので、自分と反対意見と思われる極と極と常に、それが正しいのではないか?と疑ってかかって、考え続ける必要性があります。(これには教養がいるので、長期的には、読書と勉強がないとだめです)


また、論理的なだけでもだめです。目的は自分の幸せのためなので、ミクロの関係性の部分での意見を聞かないとだめです。いいかえれば、親兄弟、友人、学校の友人、先生、会社の上司、部下、同僚など、自分い直接的に関係ある人の意見を、よく聞くかねばなりません。特に、自分が嫌いな人や自分の敵の意見!!がもっとも重要だと心得ましょう。ミクロのいても考えた方は同じです。極と極で、全体感を持って、鳥瞰図でとらえないといけません。学生ぐらいの人は、親兄弟(一人も欠けないで全員に等分に意見を聞かねばなりません。聞くというのは、従うのではないですよ!(よく勘違いする人がいるのですが)。ちゃんと相手の立場を考え抜いて、俯瞰的に見ながら、本気で理解しようとするというだけで、従うことではありません。


たとえば、母親と仲が良くて、父親を軽蔑して毛嫌いしているのならば、父親の意見こそをたくさん聞かなければなりません)と教師の意見が、たぶんもっとも有効な客観視点です。彼らは、全体感を持って、かつ利害関係があってみているので、とっても自分に都合のいい表現ばかり使って、搾取しようとするでしょうが、たくさん話を聞き続けて(時間+量)いけば、非常に有効な情報となります。ちなみに、他人は、相手を搾取しようと洗脳しようとするのが普通ですので(特に家族や教師が愛情という名でうそをつき無意識にするケースが多い)、そのためにも、読書をして、自分の意見を持って、極と極を見て全体ぞを知ったうえで、極端に騙されないようにする必要性があります。地図がなければ、すぐ騙されてしまいます。


ちなみに、身近な人の話と位置情報が重要なのは、自分の人生の構造は、身近なミクロの関係性の構造に支配されているからです。自分を取り巻く(特に親など金で自分を支配している人の利害構造は重要)利害関係の構造を金と情の2つの面からきちっとマップにして俯瞰できるようにしておかなければなりません。自分お行動は、それらミクロの関係性の構造の奴隷なのですから。


次は、


2)とりあえず1)で出てきた問題点を仮説として、それを解決する方法を考える(=仮説と解決法の設定)


僕は、動機の確認と呼んでいます。もしくは、その人が「ほんとうにしたいこと」などというふうに、このブログの物語分析では、ずっと物差しとして使ってきました。問題点の設定と仮説の方向性を考えるには、


自分が本当に何をしたいか?


を知らなければなりません。けど、ちなみに、「自分が本当に何をしたいか?」なんて言うのを知っている人はいません。また、実際、わかりません(笑)。40になるペトロニウスは、まだ自分が本当に何をしたいかなんてわかりません。本当の自分も探せていません(笑)。


けれども、この動機の根源を設定しないと、分析なり解決なりの方向性が散漫になって、何にもできなくなってしまうのです。なので、とりあえず焦点を作らなければなりません。仮説というのは、嘘でもいいから、無駄にならないように焦点を作れ、という意味です。


戦術論ですが、「自分が本当に何をしたいのか?」を、物凄く赤裸々な欲望でセットして、1)-4)のサイクルを回して見るとよいのです。たとえば、僕は、高校から大学の頃に小さな目標を立てたのですが、、、、あっと、ここで重要なのは、なるべく赤裸々でド汚くいやらしい直接的でプリミティヴな欲望がいいということです。人間は、自分にたいして欺瞞とうそをつく生き物なので、きれいごとで考えてしまいがちです。そうならないように、なるべき露悪的に、いやらしい目標を立てます。どーせ、仮ですし。たとえば、僕は、いい大学にはいって、周りの人間を見下そう!とか、そういう目標を立てました(笑)。あとはですね、世界中を見て回りたかったので、無理してでも大学に入ったらバックパッカーで中東に行こう!(アラビアのロレンスが大好きでした)とか考えました。もう一つは、いろんなタイプの女の子とHがしたい!(笑)という目標を考えました。まぁ、すげぇプリミティヴですよね。これ、紙に書いて、具体的にどうすればいいかを、悶々と考えました(笑)。ああ、、、そうそう、最初に目標思考の意識を持ったときは、なるべく改善できる可能性があるもので、身近なことがいいのです。本当は最初は、クラスの友達と仲良くする!とかでもいいんですが、そういう小さな地味重ねというか課題設定、解決のサイクルを回した実績に後で、少し大きめのものにいくといいです。どうせ、継続していくうちにすべての目標は全然違うものになります。テキトーでいいのです。


まぁ、ちなみに、僕は、いろいろ考えているうちに、結局のところ、自分に自信がないんだな、、、ということに結論が到達して、自信をつけるにはどうすればいいのか?。ということで、前に記事で書いた、プライドとコンフィデンスの違いに行きつくことになりました。この話は物語三昧読者にはおなじみの話です。コンフィデンスを獲得しようと思うと、それは小さな実感の積み重ねでしかありえない、というクンフーのお話です。この話は、ベイシックスキルで延々と書いているのでここでは割愛します。


そんで、都立高校に通う、運動が時にできるわけでもなく、成績が特にいいわけでもなく、彼女もいない、家が金持ちでもない、かっこいいわけでもない、やりたいこともない、という「ないないづくし」の普通の高校生に自信をつける、、、言い換えれば、他者と差別化できるポイントで、なおかつ、実際にできること?ってなんだろうと、延々と考えたんですが、、、、、


なにもなかったっす!!!!


普通の、高校生にできることなんか、ステージや世界を変えることなんか、なんもなかったっす(笑)。しかも、そもそも手持ちのリソースもない。いろいろ恵まれたいたと今思い返すとわかるのですが、当時は、自分の心がナルシシズムの檻に閉じ込められたオレオレプライドくんだったので、友達もなにもいない状態なので、孤独で、何にもないんですよね。



ちなみに、いろいろ目標立てて頑張りましたが、、、中学校、高校時代で、解決したりうまくいったことは、何一つなかったです。



じゃあ意味がなかったか?というと、この時のトラアンドエラーは、大学や社会人になって、物凄い有効になりました。人間なにが、どこで役に立つか、全く分からないものです。中学や高校の学校空間は、弱肉強食で物凄い原始的な「万人の万人に対する闘争」の世界なので、赤裸々です。ここで、凄い組織論や人間関係を悩みつくしていると、あとで物凄い有効になるのです。人間、長いスパンでは、苦しんだことはまず無駄になりません。中学や高校で苦しんだこと、逃げずに悩み続けて、考え続けてあがき続けたことそのことが、それ以降の人生の非常に重要なスキルとなったんですよね。こういう赤裸々な、人格を盗み壊しあうような恐怖の学校空間で、どう人を動かすか?、どのように自己を保つか?、未来が見えない中でどのように生き抜くか、偏差値しか基準がない中でどのようにるル−ルをブレイクするか?、持てる要素が何一つないのにどうやって女の子と仲良くするか?、こういう人間関係をコントロールするには、どのようなスキルを長期的に身に着けなければならないか?、、、などなど、僕のその後の人生のスタイルはすべてこことで出てきています。そして、その有効性は、数十年たってアメリカの企業の経営者になっても、また続いています。高校時代や中学時代の悩み尽くして苦しみぬいた分析や、自分い必要なことなどは、いまこのような立場になってもまったく変わりません。


ちなみに、パンピーじゃない人も世の中にいて、こんな悩みやトラアンドエラーなしで軽々と「自分がほんとうにしたいこと」を見出して、人生を驀進する人も、いるにはいます。けど、物事は統計的に考えましょう!。そんな神様からのコーリング(=呼びかけ)みたいなのがあるような、選ばれた人間は、ごく少数です。数パーセント。常識的に考えて、残り90%以上のパンピーに入ると自分で想定するのが、ベターです(笑)。統計的に考えれば、そこの平均をクリアすればいいので、難しくなくなるはずです。受験勉強だってそうです。なんか、物凄いいい大学に受かる頭のいい人を目標に想定するんですが、そんなの無駄。合格点の平均点を1点クリアするのが目標の戦いなのです(苦笑)。トップのやつらと同じ土俵とルールで戦うのなんか、人生のむだむだぁぁぁぁぁ。。。と思います(ジョジョ風)


話がそれた。


「自分の本当にしたいこと」。動機を探す話でしたね。これもね、考え続ける、、、、その過程が答え(ああ、答えをいっちゃった。。。。)なので、結論があると思わないほうがいいです。その時出た結論は、その時のもので、すぐ変わります。けどいいのです、課題は、仮説は、トライアンドエラーで修正していくものなので、まずは課題、仮説(=目的)を設定するのが重要です。鶏と卵の議論で、本当の目的とは何か(=自分とは何か?)は無駄な虚偽問題です。まずは目標は何でもいいのです。いい女を抱きたい。かっこいい彼氏をゲットしたいでも、なんでもいい。いったん、目標を設定して、達成して、それが自分の幸せに資したのか?というトライアンドエラーの運動に自分が入ることが重要です。


ちなみに、中学高校生なんかに自分の人生は、まず変えれません。上記の、選ばれた数パーセントの人ならオリジナルな人生を生きるかもしれませんが、自分がそうかも?、そうなりたい!と悩む時点で、そういう人ではありません(笑)。なので前にも書きましたが、学生ができることは一つです。福沢諭吉の答えと一緒です。


勉強しろ!!!です。


そもそも勉強できるなんて恵まれた状況はなかなかないのです。無駄な悩みをやっている暇あったら、ひたすら勉強する。学問ですね。これ狭い定義にしちゃダメっすよ。経験の幅をできる限り広く深くしろといっているので、異性と付き合う(同性と付き合うでもいいっす)とかだって本気でやりぬいてる限り、十分勉強だと僕は思います。


3)解決する方法を実践する(=実践しつづける)


次は、目の前の具体的なことにフォーカスする。「できること」にフォーカスする。できるだけ結果に対して効率を上げるってのが重要です。たとえば、ダイエットとか、まさにこの効率性から離れている無駄なものです。だって、結果(=目的)が全然わからないんですから。やせることは、手段であって、目的ではないのに、手段が目的化しています。やせて、みんなにちやほやされたり愛されることが目標ならば、まったくもって連関がありません。やせたからって、みんなから愛される保証なんかないじゃないですか?。目的は、みんなから愛されると、赤裸々に考えるべきです。また「みんな」って誰だ?という問いも重要です。不特定多数は、無駄です。身の丈にあったことしか考えるべきではありえません。実践の場では、「できること」でないと無駄です。


ようは、1)-2)を念頭に入れつつ、すぐに「できる」ことにフォーカスして、かつ、それが、1)-2)の目的に効率的につながるものに、集中するべきなんです。このあたりの生産性に対して、執念が薄い人は人生を損します。別に無駄に終わって悪いか!といわれれば、もちろん、悪くはありません。僕はそういう無駄な人生は、幸せじゃないので、やだ、というだけです。ちきりんさんのブログでのとおり、Aということもありうるし、Bもありうるということほど、無駄な意見はありません。生産性ゼロ。なので、このとにかく目的を念頭に置いて、ちゃんと解決を志向するという生産性の率の意識は常に持ちましょう。人生は有限です。人間に与えられた唯一の平等なものは、時間です。僕は仕事をしていると、この生産性に敏感かどうか、行動がこれを軸に律せられているかどうか、というのは、一瞬でわかります。無駄な人は、感情の承認要求(=おれの愚痴を聞いてくれ)とかそういうのが多すぎます。会社や仕事、社会は、他者と利害を分け合う公共の場所です。それがわかってない人が大半です。真x、あそういう人は、ぜっていいい仕事できないし、評価もされないだけだけどね。資本主義社会は、結果で評価されます。


そして、重要なのは、3)は、できるまでやり続ける!!!


これが重要です。勘違いしているのは、目的のレベルが高ければ高いほど、3)の具体的実践の時間は物凄く長くかかるうえに、過酷です。よく自己実現の本なんかで、勘違いするのは、1−2)を設定したら、それで望みはかなう!などという嘘つけっ!!!!的なロジックと言い回しが多用されているところです。そんわけあるわけないじゃないですかっ!。


重要なのは、継続すること、、、、執念でやり続けるという強い持続意識です。


もちろん、目的の明晰さ、常時目的の正しさの確認、それに対する手段の生産性の確認、これが、常に回っていないければなりません。


それが、


4)実践が効果的でかつ、1)と2)の課題設定(=目的)に直接的な改善に結びついていることを評価し続ける(=結果と目的の連関性の確認)


です。だって、目の前の直接的に解決に連関することをやっていれば、数日もすると改善の手ごたえは、目的に到達しなくとも、絶対に感じるはずです。感じなければ、手段が間違っているんです。女の子を抱きたい!と思ったら、なにするか?っていうと、、、、もちろん自分ができることを考えなければならないんですが、まずは、普通に、服装を清潔にせいておしゃれをしろよ、ということですよ。次に、自分が話せる女の子には、自分の話「ではなくて」ちゃんと聞いてあげよう、ってなるはずです。相手に立場に立つ、というのは、古今東西、次代を問わず、人間にはとてもできないことなのです(笑)。これだけで、中学や高校生は、劇的に周りは関係が改善されるはずです。女の子に出会えないなら、当然、出会えるところに行くしかないですよね。男女がいる部活に入る、生徒会でも委員会でも、なんでもそういう場はあるにきまっています。どんな人が持てるかなんて、決まっています。周りのために、自分を少し横に置いてコミットできる人です。一時期的には、損もたくさんするでしょう。搾取されやすいですから、いい人は。けど、長期で、ぜったい見ている人はいます。そういう「行動」も起こしてなくて、俺は女にもてないとか、キモオタとか非モテとか、ただのひがみです。まぁ、こじらせて、社会に出てもそれが続いて内面が汚くなってら、そりゃー出会いもないし、無駄でしょうけどね。



比較級の世界


さて、僕がよく比較級の世界は、無駄だ、いつもいいます。


これ、どういうことか?というと、他人と比べることは、人生を盗まれる物凄く無駄な感情だってことです。



上記の1)-4)のプロセスの中で、常に意識し続ける、重要な最優先ポイントは、生産性と「手ごたえ」です


要は、3)の部分なんです。1)-2)と4)って、目的が変われば、すぐ変わってしまいます。そして上記で書いたように、目的なんてすぐかわリます。環境変化で。本当の自分もありません(笑)。それらは、長期的に考え続ける課題であって、答えはありません。精確に言うと、答えは、考え続ける過程にあるのです。


なので、ようは、日常生活して、自分が何かを変化させている、改善させている、そしてそれが自分の設定した目的の方向に収束しているという実感がある人は、人生を前向きに生きていることになります。


クンフーの話で何度も語っていますが、具体的な「手ごたえ」というのは、それ自体が楽しいものなので、目的が消失していても、意識しなくとも、「それ」だけで楽しく生きられるのです。永遠の日常を生きる知恵は、これだと僕は説きました。しかしながら、それだと、ただ散漫な人生で、「何かを成し遂げる」ことはできないし、「自分の人生をコントロールして支配する」ということはできないです。なので、その「手ごたえ」が、何に資しているのか?、どの方向へ漠然とでもいいのか向かっているのを常に問い続ける必要性があります。


たとえば、具体例で挙げると、このブログです。このブログに意味があるか?というと、全くないです。はじめたときは目的もありません。いまも、目的は、ほぼないです。何が目的かといえば、「書くことの手ごたえ」が僕にとって幸せでストレス解消になるし、書くことによって思考が深まり、友人とのおしゃべりが楽しくなるので、、、、ぐらいです。


けど、戦略的目標は、いろいろ途中で考えだしました。せっかく文を書くのだから、文章でお金もらってみたい!とか(これ、もういくつも実現しています)。あとは、僕は全く違う業界で仕事をしているので、業界の凄い人と友達になりたい!とかですね。まぁ、わかると思いますが、僕相当もう業界に知合い、、、いやもう、かなり親友っぽいレベルでたくさん友達ができました。20年後ぐらいに、会社をリタイヤしたら、そんな連中と、会社でも起こしてなんか遊びたいよね!とか考えたりしています。セカンドラウンドライフの話ですね。


僕にとって、どんなメリットがなくとも「書くのが楽しい!」ということは、僕が見つけ出した究極の幸せポイントです。誰が見たくても、こういうものは書き続けています。発表を全く意識していない小学生時代から日記や思考の大量な文章が残っています。でも別に僕は、評論家になりたいとか、小説家になりたいとか、ライターになりたいとか思ったことは全くありません。完全なる趣味ですもん。僕にとっては、まったくリアルの人生にはあまり関係のない事柄でした、、、が、、、まぁ、20年後ぐらいに、なにか仕事にできるぐらいにはなっていると思うんですよ、今の僕の持つネットワークは。まぁ、いまでもできるけど、今は僕が自分の好きな仕事があるので。


これって、手段から目的が生まれた例ですよね?


また、そもそもが「無から有を生み出すポイント=自分が好きなこと=自分がほんとうにしたいこと=手ごたえ」


とリンクしているので、非常に安定しています。何もしなくても書いていると、コンフィデンス(=自信・自己信頼)が高まるサイクルが回っているわけですから。これが、人生のリアルステージに起きていると、物凄い正のフィードバックが、帰ってきます。わかりますよね?。


えっと、比較級の世界の話でした、、、、


えっとね、1)-2)のものを考えるポイントでもっともやばいのは、他人との比較なんです。要は、嫉妬という感情。これが、物凄い判断を狂わせます。特に他者との比較というのが、物凄い害なのは、


もっとも重要な3)の自分がほんとうにしたいことの手ごたえの積み重ねで、かつ解決思考で生産効率がいいこと


これに対するアクションを起こすのに物凄い妨げになるからなんです。


わかると思いますが、生産性が高いものである最大の条件は、


自分にすぐにできること


に、フォーカスしていなければなりません。しかしながら、比較級の世界の囚われている人は、まずは、自分がアクションしないで「相手を引き摺り下ろそう」と考えがちになります。比較している時は、比較のランキングの中で、相手が落ちてくれれば、自分が相対的に上がったように感じるという錯誤を感じるからです。しかしこれは


全くの虚偽問題


です。


だって、自信(=しあわせ)というのは、「自分が行動で起こした結果が帰ってきて、それが自分の立てた目標とリンクしている生産性」の中にある「手ごたえ」の積み重ねのコンフィデンス(=自己信頼=おれはできるという実感!)にあるんです。なので、物凄い悪手なんですよ。比較級の「相手を引き摺り下ろす」というのは。これを嫉妬もしくは、僕はルサンチマンと呼んでいます。全く自分の幸福を改善させない、悲しい無限ループです。


受験生を例を取りましょう。僕も覚えがありますが、受かるかどうかわからない、と怯えて、集中力が失せて、どんどん成績が悪くなります。これは、目標の到達点のことばかり考えて、目の前の「やること」をやっていない状況です。また、なぜ怖いかというと、周りにできる人がいて、自分とその人の差が、自分を落ちこませるのです。もちろん人間だもの、比較級の世界に入るのは、当たり前のことです。けど、この比較級の世界の誘惑をどう断ち切るかが、人生を充実して生きる重要な分岐点となります。受験生を例にとると、まずもっと戦略戦術的に考えて、英語の成績が悪かった、基礎ができていないとなれば、まずは、基礎単語のさらなる完璧暗記です。短文でもいい。1日にできる数は限りがります。たとえば1万単語覚えなきゃいけないとなると、気が遠くなって、できない、、、と凹みます、、、。けど、3日間。50個づつ、完璧じゃなくとも、まる一日かけて全力でやれば、150個できます。自分が抜けていた150個をカバーできるようになると、長文読解は、劇的に読める量が改善します。、、、これ、やれば手ごたえで、絶対物凄いビビットにわかるはずです。おおそうか、、、と2週間やったら、、、700個ぐらいになります。ここまでやったら、物凄い実感があります。


けどね、、、その700を2週間で覚えるうちに、物凄いできる人は、1万個ぐらい覚えてしまいます(苦笑)。この「差」に人は絶望します。


なんだけど、それって、むだむだぁぁぁ!!!っていいましたよね?。比較の対象が、無駄なんです。そんなできるやつは、違う世界の人々なんで、無視なんですよ(苦笑)。自分の身近にいない人なんか比較して無駄ですもん。例えば学校同級生とか会社の同僚でいても、そういう人は、自分と全く違うんだから、対象外!!!に考えましょう。比較級の感情は、物凄い無駄なルサンチマンを生み出して、負の無限ループの空転に入ります。そうして、「目のこと」「自分にできること」で生産性のあることだけに継続しましょう。本当に集中して、手ごたえのサイクルにうまくはいれたら、3日やれば、実感があるかどうかわかります。1か月で人生は変わるぐらいの感じがします。3か月続ければ、本当に変わります。そして、、、、それを超えると、別にそれが特別なことではなくて、誰もがやっている「普通のこと」というちょっとした失望が訪れます。。。。


が、ここで我慢して、3年続けたら、、、、もし、3年も生産性のある手ごたえをクンフーできたら、最初の時に、対象外だと思っていた前を走っている絶望的に遠いと思っていた人と、あれ、いつの間にか肩を並べていることに気づくでしょう。相手はさらに先を走っているかもしれません。けれども「ある一定レベルの基礎条件」をクリアーすると、競争は、ランキングトーナメントでの順位づけではなくなります。


そうです、ルールが変わるのです。いや、もう少し精確に言うと、ルールを自分で作りだすという選択肢が、レベル20(ベギラマを覚えた!ルーラを覚えた!)ぐらいこえると、生まれるのです。そこでは、ルールブレイカーとルールクリエイター同士での、めちゃくちゃ高度な競争があります。


ここに至ると、、、、はじめに先を走っているフロントランナーは、家が金持ちだったり、才能の初期値が高かったりという「持てるもの」であったことはわかるんですが、ルール自体を変える戦いの土俵になると、下から這い上がってきたほうが、はるかに強かったりします。なぜならば、中途半端に才能がある人には、そのルールでしか生きられなくなっていたり、ルールが変わってどん底に落ちたときの感情ケアができなかったり、ようは、ルールの激変に弱い人が多いからです。何事も、強さと弱さは相対的です。何がいいことかなんてわからないのです。



長くなって、何が言いたいのかまたわかんなくなってきたけど、だいたい、これまでの僕の思考を総まとめで来ているはずなので、まぁ、よし、としよう。