低線量被曝を受け続けていた60年代からの20年
今回の「美味しんぼ」騒動で改めて思ったのですが、私たち日本人は、福島事故で広島・長崎以来初めて「被曝」したと思っているんでしょうか?
よく反原発派の皆さんは、福島を広島・長崎やチェリノブイリと比較するのは好きですが、その間に日本のみならず北半球を放射能だらけにした事件をお忘れになっては困ります。
まずは福島事故以前の日常食の放射線量をご覧ください。
●福島事故以前の日常食が含有する放射線量(Bq/人日)
試料 | 年度 | セシウム137 | ストロンチウム90 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
最小値 | 平均値 | 最大値 | 最小値 | 平均値 | 最大値 | ||
日常食 | 2005 | 0.0071 | 0.031 | 0.17 | 0.02 | 0.04 | 0.1 |
2006 | 0.0085 | 0.042 | 0.56 | 0.021 | 0.039 | 0.091 | |
2007 | 0.01 | 0.028 | 0.066 | 0.022 | 0.037 | 0.1 | |
2008 | 0.00811 | 0.025 | 0.1 | 0.024 | 0.036 | 0.056 |
・2008年の1日分の食事のセシウム137の摂取量・・・0.025ベクレル/㎏
・同ストロンチウム90 ・・・0.036
この原因は、カリウム40のような自然放射性物質ではなく、セシウム137、ストロンチウム90てすから人工由来です。
この時期から言って、チェルノブイリと中国核実験の影響だと考えられます。
チェルノブイリは欧州を広域に汚染しましたが、1950年代から80年代まで続いた核実験は北半球全域を地球規模で汚染しました。
これは地下核実験と違って、地上に据えつけて爆発させるために大気圏内の気流に乗ってしまうためです。(写真 ユタ州の小型核の大気圏内実験。)
1950年代からの大気圏内核実験の総数は500回を超え、放出された放射性物質はチェルノブイリ事故の800万倍に達すると言われています。
また1950~1960年代の10年以上にもわたる人工放射性核種の降下量累積は、今回の福島原発事故の放射性物質の堆積にほぼ匹敵します。
そこでこのセシウム137の1955年から2005年までの日本に降下した放射性物質の降下した量をみてみます。
(図 田崎晴明「やっかいな放射線とむきあって暮らしていくための基礎知識」より)
このクラフは東京新宿区で測定されたものです(東京都庁による)最大時は、驚くべきことには1965年の1700ベクレル/㎡弱です。
1990年までの降下量の総計は約7600ベクレル/㎡となります。なお、通常セシウムは134と137の合計で表記しますので、だいたい2倍強ていどがセシウム合計です。
福島事故の結果を見ておきます。もちろん今回の事故の影響のほうがはるかに大きいわけですが、全国規模で総計7600ベクレル/平方mもの放射性分室が降下していたことは覚えておいたほうがいいでしょう。
(グラフ同上)
この大気圏内核実験と福島事故の大きな違いは、核実験の汚染が福島事故と違って全国規模でしかも約20年もの長きに渡ったことです。
では、この時期の日本全国の成人男子の放射性物質の摂取量の推移を見てみましょう。
(下図 高度情報科学技術研究機構「人体内セシウム40年の歴史」より)
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=09-01-04-11 60年代中葉には極めて顕著なセシウム体内量の急増がありました。500ベクレルを越えて記録されています。
「核実験は1963年以前にその大部分が行われ、わけても1957,1958両年と1961,1962両年に行われた核実験は体内量を著しく増加させた」(同)
「1962年大気圏内核実験停止条約が締結され、大規模な大気圏内実験は中止されたが、フランスはなお数年後まで、1964年10月に新たに核保有国となった中国は1980年10月まで大気圏内核実験を継続した。中国による核実験の影響は地理的に近い日本で体内量の推移に明らかな変化を与えた。」(同)
これを現在の南相馬市の体内放射線量と比較してみましょう。
●南相馬病院の坪倉正治医師と、東京大学の早野龍五氏によるホールボディカウンター(WBC)の測定と分析結果
「南相馬で測定した約9500人のうち、数人を除いた全員の体内におけるセシウム137の量が100ベクレル/kgを大きく下回る。」
また大気圏内核実験によりストロンチウム90が世界にバラまかれました。
ですから、この時代に成長期を迎えた世代は今でも骨髄にストロンチウムを含有していることが分かっています。
昭和時代の成人の死体解剖の骨格分析から、当時で1~7ミリシーベルトのストロンチウムが見つかっています。
まぁ、まさに私の世代ですな(涙)。しかし、特に私たちの世代に白血病が多いというデータはありません。
さて、この60年代に降った大気圏内放射能汚染は、徐々に減っていき、再びピークが来たのが1986年のチェルノブイリです。
・チェルノブイリ原子力発電所事故の影響
「1986年5月1日から体内量の上昇が始まり、この事故の日本人への影響が検出され始めた。1986年は前年の約2倍の年平均体内量、事故影響の最大は1987年に出現した54Bqであった。その体内量は1960年初期の核実験による体内量の減少速度と同じく、1.8年の半減期で推移した」(同)
以上を見れば、日本人は過去に20年間に渡って放射性物質を7600ベクレル/㎡を浴びて、体内に500ベクレル超の放射性セシウム137を蓄積していた経験を持っていたことになります。しかも全国規模で。
除染はおろか一切の防護措置も、食品基準もなくまったく平常どおりの生活をし続けていました。
もし低線量被曝脅威論者の言うことが正しければ、この恐るべき被曝によって白血病や小児ガン、甲状腺ガンが特に子供に多く発症していねばなりません。
ならば、1960年代から遅くとも10年以内に多発せねばなりません。つまり1970年代に、日本の幼児死亡率が激増し、平均寿命を押し下げていなければならないはずです。
では、日本はこの60年代から平均寿命を見てみましょう。そのような現象が1970年代に起きているでしょうか?
逆に60年代から、日本人の平均寿命は右肩上がりに伸びています。この平均寿命の伸びは幼児死亡率の改善です。
私はこれで、放射性物質が安全だなどと言うつもりはいささかもありません。
しかし事実として、私たち日本人はかつて福島事故以上の被曝期間を経験したということを忘れるべきではないと思います。
さて、「美味しんぼ」のおかげで、思わざる放射能シリーズになってしまいましたが、いったんこれで終了します。
「美味しんぼ」騒動で私がホッとしたのは、一部の人たちを除いて国民が冷静だったことです。
特に現地・福島は、あのような周回遅れの煽りに動じることなく、自治体を先頭に毅然とした対応をしました。
「DASH村」で農作業を指導してきた三瓶明雄(さんぺい・あきお)さんが6日午前8時頃、福島市内の病院で死去されました。
故郷の村を離れざるを得なくなったことがなんらかの影響を与えたのでしょう。その意味で、彼もまた原発事故の犠牲者のひとりなのかもしれません。
享年84歳でした。合掌。
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.※参考文献
・田崎晴明「やっかいな放射線とむきあって暮らしていくための基礎知識」
・「人体内セシウム40年の歴史」
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=09-01-04-11
※福島県放射線量測定マップhttp://fukushima-radioactivity.jp/
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