「流儀はいろいろありうると思うんだけども」という話を、哲学者の鶴見俊輔さんが40年前、ある対談でしていた。続けて、自分の流儀はまず単純に線を引いてしまうことであり、複雑な状況を全部考えていくと生きる信念は出てこないような気がする、と言っている。
▼信念とは「人を殺すのはよくない。人を殺したくない。それだけの話」だという。それでは生きられない、平和自体がどこかで人を殺すことで成り立ち、人を殺す体系に自分は守られてきたのかもしれない――。そうとは重々知りつつ、ナマコのようによたよたしながらでも理想を立てていたい、と鶴見さんは語っていた。
▼いま、同じ流儀で信念を持つ人がどのくらいいるかを想像する。1枚はこの国が経験した戦争という鏡、もう1枚は憲法という鏡、2枚に映る自らの姿を確かめながら生きてきた人は、稀(まれ)というほどには少なくないだろう。そういう人々の多くは鏡を眺めて、信念はまんざら頓珍漢ではなかった、と思ってきたはずである。
▼複雑な現実を考えてみろ、それで生きられるのか――。その一撃をナマコのごとき理想に加えるのが、集団的自衛権を認めるという人たちの流儀である。信念もあろう。流儀はいろいろあっていい。あっていいが、ここへ来て安倍首相の急ぎすぎが気になる。ナマコの理想など踏みつぶして行けばいい、という話ではない。
鶴見俊輔、春秋