アニメがすっげー面白い・・・んだけども、ここでは原作の話をちょっとだけ。
アニメを見ていて、つくづく面白いマンガだったなぁと思い返すに。
何が面白かったのかなぁと改めて考えたので、ちょっとだけ書いてみる。
スポーツマンガ・・・それも、連載マンガともなれば、どうしても避けては描けない要素がある。
「才能」ってやつとの距離感だ。
才能っていうのは語弊があるかもしれないので、ここではその定義を「主人公の努力だけではどうにもならない要因」としておく。
スポーツマンガで連載をしようと思えば、どうしたって、主人公は試合に勝たないといけない。
ほとんどの場合は、勝ち続けないといけない。
そうしないとお話にならないし、連載にならない。
で、主人公が勝ち続けるために、必死で努力する姿が描かれるわけだ。
それが、所謂「スポ根」なんて言葉を生んだ。
とはいえ。
努力だけで勝ち続けるってのはやっぱりちょっと納得し難いわけで。
「勝つ必然性」ってのをちゃんと描こうとすればするほど、そこには才能という要素が絡んでくる。
例えば、元祖スポ根である「巨人の星」だって、そもそもあのちゃぶ台オヤジの基に生まれたことから、主人公の才能だと言えるだろうし。
キャプテン翼なんてのは、才能のかたまりだ。
YAWARA!!なんかも、主人公の圧倒的な才能ありきのマンガだった。
あるいは、主人公にそこまで極端に才能がない代わりに、そのまわりに天才を配置するパターンもある。
まあ、代表的なのは「スラムダンク」の流川だろうけど。
「はじめの一歩」の鷹村とか、「しゃにむにGO!!」のるういとか。
以前紹介した「あさひなぐ」だって、こっちのパターンだと言えるだろう。
まあ、何が言いたいかっていうと、どういう書き方であれ、スポーツマンガってのは「才能」っていうファクターを避けては通れないということで。
ただ、その割にはその「才能」とどう向き合うのかっていうことに関しては、ピンポン以前はあまり突き詰められてこなかったように思う。
それは、ほとんどのマンガが、あるか、ないか・・・という二択でしか「才能」というファクターを捉えてこなかったからだろう。
さてさて前置きが長くなった。
ピンポンがすごかったのは、「才能」に振り回されるキャラクターのパターンをほぼ網羅してしまったことにある。
「才能」を持て余すスマイル。
「才能」を受け入れ、ストイックにそれを追求するドラゴン。
「才能」に憧れ、どうしても届かないアクマ。
「才能」がないことに気付き、それを受け入れるチャイナ。
ただ単純に持てるもの、持たざるもの、ということではなくて。
持っているが故の孤独とか、もたないが故のかっこよさまで含めて、あらゆる角度から、この「才能」というファクターに迫り、多面的に浮かび上がらせた。
加えて、このマンガが凄まじいのは、主人公「ペコ」の存在で。
要するに、この男は「才能」はあるが、その「才能」に甘えている存在なわけ。
徹底的に、弱者をバカにし、その「才能」のなさをコケにする。
それが、敗北を知ることで、一念発起し、最終的にはヒーローになるっていう・・・・・これだけ書くと、なんとも、よくある成長譚なわけだけども。
このマンガは、この敗北の過程・・・・あるいは、スマイルに抜かされるまでの間を執拗なまでに丁寧に描いていく。
ほんと、どん底に落ちるまで、容赦なく敗北をつきつける。
でも、よく考えてみたら、「才能」に自惚れて、相手を見下すキャラクターってのは、主人公というよりは、相手役のテンプレだ。
つまり、作中のペコが味わう屈辱は、全てこれまでのスポ根マンガで相手役が、それこそ物語の外側で味わってきた屈辱なわけだ。
まあ、このペコが一番わかりやすいと思うのだけども。
他の登場人物でも、すべて、それぞれが「才能」に対して何らかの決着をつけることを迫られる。
で、松本大洋という人が巧いのは、その決着をすべてそれぞれの敗北を通して描いたということで。
チャイナは言わずもがなだけども。
例えばドラゴンの、負けた時の表情とか。
それを見たアクマの名言「少し泣く」とか。
そういうのが「才能」を単なる物語上のアイテムではなく、キャラクターの生き方を決めてしまう、何か決定的な・・・あるいは運命的なものとして位置づける。
で。
なんだかんだあって、最終的にペコは、再びトップに上りつめる。
「おかえり、ヒーロー」という言葉を受けながら。
そこには圧倒的なカタルシスがあるわけだ。
でも、そのカタルシスは、先の台詞からもわかるように、ライバル兼親友である、スマイルの視点から描かれる。
そこには、「圧倒的な才能」に打ちのめされる幸福・・・とでも言うべきものがある。
強いはずの人が、やっぱりちゃんと強いということを、実感できる快感。
これって、つまりは、僕たち一般人・・・「才能」を持たざるもの達が、例えばプロスポーツ選手のプレイだとか、プロの作家の凄まじい作品に触れた時に感じる、ほんの数ミリの嫉妬まじりのカタルシスに似たカタルシスだろう。
先に、この物語は、「才能」を巡るあらゆるファクターを描ききったと書いたけども。
才能を描くということは、それに敗れる人を描くということでもある。
で、敗れるってことは、悔しいことではあっても不幸なことではない。
才能を描くとともに、負け方もまた、多様に多彩にそして魅力的に描いたことで、このマンガは、才能を、いわゆる「持ってる」やつと、「持っていない」やつっていう二元論で分けられるものではないってことを証明した。
才能はあるか、ないかではなくて、あるとないの間には無限のパターンがあり、グラデーションがある。
で、そのグラデーションを描いたことで、結果的にこのマンガは、スポーツマンガというよりは、「才能」を巡る全ての分野における、普遍的な物語として機能してきた。
だからこそ、連載当時から18年たった2014年にアニメ化されても、何の違和感もないのだろう。
てなわけで。
アニメはめちゃめちゃかっこいいです。
で、それを機会にあらためてピンポンの普遍性に気づいたという話。
マンガを押入れの奥にしまっちゃった人こそ是非、アニメは見るべき。
追記
松本大洋の魅力って、「瞬間」が引き伸ばされてスローモーションに感じる快感ってのがあると思うのだけども。
アニメ版はそれを凄まじく分かっている感じがしていて。
なんとも、見ていて気持ちがいい。
上で書いたような理屈とは無関係に、単純に、見心地がいいっていう意味でもオススメです。