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水車を後世に伝えたい

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かつて西野一帯は一面に水田が広がり、水辺には籾すりや精米に使われる水車の音が響いていた。 そんな懐かしい風景や地域の歴史を後世に伝えたい――。

■西町地区
  前鼻正守さん


 先祖は広島県から

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▲ 町内会やボランティア活動に忙しく、趣味をもつ暇がないという前鼻さん。
 西野は明治期に入植した先人たちの多大な努力により、かつては札幌でも有数の米どころであった。
 この地に住む前鼻さんの先祖も明治17年に広島県より同郷の山田、竹本、理寛寺、山末家と共に北海道(現在の北広島市)に入植したという。
 「最初の場所は沢が狭かったため翌18年に、より良い土地を求めて西野へ移住し、荒野を開拓したと聞いています」
 西野で不動産会社を経営する前鼻正守さんは仕事の手を休め、祖父から聞いたという前鼻家の由来や入植当時の話を聞かせてくれる。
 「前鼻家の歴史は、三代目の山本豊吉氏が江戸時代に広島の城主である浅野四十二万石の殿様の足軽として仕え、のちに小姓に取り立てられたときに“前鼻藤七”と改名したのが始まりです。前鼻になって私で四代目になりますが、先祖が開拓してくれたおかげで、私の祖父の代では既に農業を営んでいましたよ」
 傾斜地の多い西野では、田植えも稲刈りも機械に頼ることなく全て手作業で行われていたため人手がいくらあっても足りないほど忙しかったという。
 「小学生でも手伝える仕事は手伝わないといけないので、学校が終わってすぐにやらないとよく怒られたものです」
と当時をこう振り返る。


 西野米は評判だったが・・・

 「私は昭和26年に妻と結婚したのを機に分家し、2町9反歩の水田 に米を作って生活をしていましたが、忙しいときは手間替えや出面さんを雇って作業をしましたよ」
 昔は必要な人手を確保するために他の農家に手伝いに行き、お互いに人手を確保する“手間替え”をして皆で助け合って生活していたという。
 「西野の新米は寿司米に使われるほど美味しかったんだけど、米のみだと一年に一度しか収穫ができないでしょ。そうすると不作の年は満足するだけのお金にはならず、その年は生活が厳しいんですよ」
 そんな事情もあり、水田を畑作に転換する農家が増え、さらに昭和40年代に入ると市街地の拡大が進み、水田が住宅地へと急激に姿を変えていった。
 けれども前鼻さんは水田はやめずに畑作と平行して続けていたが、昭和44年に奥さんがアキレス腱を切って田植えができなくなったのを機に農業をやめることにしたという。
 「翌年に近隣の3人と宅地造成をし、その土地を売って不動産業を営むことにしたんです。農業をやっていたときは常に天災による稲の倒伏やイモチ病などが心配で、収穫するまで気が気でなかったから、魅力とかそんなのを感じている余裕なんかなかったなぁ・・・」
と懐かしそうな表情を浮かべた。


 水車復元への取り組み

 前鼻さんは現在、西野と昭和の連合町内会と農事組合で形成する『西野地区に水車を復元する会』の会長であり、水車復元に向けた取り組みを行っている一人である。
 「きっかけは、平成15年に加藤啓世(たかよ)副市長が西区の区長として赴任してきたときに、平和の奥にある最後の水車をご覧になられたんですよ。そのときに『何とか復元して残せないだろうか』と提案があり、翌年に同会が発足することになりました」
 誰よりも地域に愛着を抱いていた前鼻さんであるから、水田耕作によって形成された街の歴史に対する思いもひとしおである。
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▲ たくさんの人たちの協力により、本が完成しました。
 まず、最初に取りかかったのは西野地区にどのぐらいの水車があって、どのような形式の水車を使われていたかを実際に使っていた人から話を聞き、分布図などを作成することだった。
 「調べてみると水車は地形に合わせていろいろな種類(天水(てんみず)押水(おしみず)、らせん、タービン)があり、傾斜地の多いところでは、上から水をかける「天水型」が使われ、平坦なところでは用水を流れる水を利用して押し回す「押水型」が多く使われていることがわかったんです」
 さらに昭和20年ごろには140基もの水車があったことがわかり、これらの歴史と合わせて先人たちの英知も記録として残せないだろうかという話になり、本を発行することにもなった。
 「この『水車は語る』はJAにも協力頂き、千部発行して西区の農家などを中心に配布したんですよ」
 また今年6月には新聞で紹介されると電話での問い合わせが約70件もあり、予想以上の反響の大きさに驚かされたそうだ。


  地域のシンボルとして

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▲ 平和に残されていた最後の水車を基に、設計図を起こし復元します。
 西野にあった最後の水車も老朽化のため昨年取り壊されたが、西区の総合公園である五天山公園に2009年、“地域の歴史を伝える施設”として水車が復元されることに決まっている。
 「発足から数えて、これまで17回集まりました。本も完成し、先月の会議で復元する水車の位置もほぼ確定したので今後の活動回数は少なくなっていくでしょう」
 一歩一歩着実に夢に向かって進んでいる様子に、前鼻さんは満足そうな笑顔を浮かべ、こう語ってくれた。
 「西野は琴似発寒川が流れ、背後に三角山などの山並みを連ねた自然環境に恵まれた地域です。この環境を未来の世代に引き継ぐとともに、『もみすり用水車』を復元することで、
先人たちの英知と努力を学び、地域の人たちが共通の郷土認識をもつことで、環境保全の象徴としてこれからの街づくりの力にしたいと願っています」
 この歴史を刻む水車が過去から未来への贈り物として、西野の歴史を後世に伝える大切な役割を担っていくにちがいない――。



 お忙しいところ、取材にご協力下さった前鼻さんありがとうございました。

(2007.7.10取材)

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