| 阿 部 定 ・ 坂 口 安 吾 対 談 |
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坂口 おそくに伺いまして…。 阿部 もうガスも出ないんで、お茶も沸かせないから、これでも。(ブドウをすすめながら)いつも停電しましてネ、ちょっと前に点いたんですよ。(坂口氏の出す名刺を見て)坂口安吾先生ですか、ああ、そうですか。とてもいい本をお書きになって…。 坂口 僕はネ、阿部さんのこの前の事件も、あれくらい世間にセンセイションを起したものはありませんけどネ、しかし、あれは明るい意味で人人の印象に残ったもので、阿部さんを悪い人だと思った人は、あの頃一人もなかったのじゃないか、と僕は思うのですよ。《 阿部さんは下を向いてジッと聴いている 》それで今も阿部さんがいろいろと話題になるということは、やっぱり、どこかしらに人人の救いになってる、というような意味があるんだろうと私は思うのです。今度阿部さんは告訴されたけど、むしろ阿部さんの御心境や何かを、大胆率直にお話なさったほうが、かえっていい結果を及ぼすのじゃないかと思うのですよ。 阿部 はあ。… 坂口 阿部さんは大きな話題になったけども、阿部さんをほんとに悪い人間だと思ってる者は一人もありませんよ。文学の上から言いますと、あらゆる人間はそういう弱点を持っている。ただ阿部さんはそういうことを率直におやりになったというだけで、だからみんな同感して、なにか懐かしむような気もちがあるんじゃないかと思うのですよ。もし悪い犯罪事件でしたら、決してそんなにいつまでも問題になるもんじゃありませんよ。阿部さんがいつまでも問題になるのは、その意味で非常に名誉なことじゃないかと思うんだ。人間ていうものは身勝手なもので、いつだって自分の救いを求めているんですから、自分に不利益なことを何遍も問題にするわけがないんです。兇悪な犯罪を二度も三度も世の中が思い出すという例はないんです。織田作之助君は「妖婦」という小説を書いてますが、しかし、あれは題は非常に悪いんですけど、内容は決してあなたを傷つけるものじゃなかったと思うんだ。 阿部 先生とあの方と同じような書き方ですね。―そうじゃあないんですか。 坂口 まあ、大体は似てるかも知れません。 阿部 あとの人は、とても下品だもの、ね。 坂口 あなたの告訴されたあの本を書いたのなんか、文筆家じゃないんですよ。 ―で、阿部さんはこれからどうなさるお考えですか。 阿部 それはまだ考えてないんです、これから先のことは、ね。どうなるのか判らない…。 坂口 それはそうでしょう。非常によく判りますね。 阿部 それにこのことが早くきまりがつけばね。でも、どういうふうにきまりがつくのか判らないし、いま気もちが落着いてないんですの。自分の家を出ているし…。あたし、いま考えてみると、あの織田先生が書いたなら、こんなに怒ンなかったかも知れないわね。あんなに下品に書かないから…。 坂口 しかし世の中の評判というものを、そんなに問題にする必要はありませんよ。一体あなたはあの事件を後悔なさってますか―僕は悪い事件じゃないと思うけど。 阿部 そりゃア、別に後悔してませんね。今でも、あんなことしなきゃよかったかしらん、と思うけども、やっぱし、そうでしょうね。ちっとも後悔してないんです。死んだ人に悪いけどもネ。―それが自分でも不思議なんだけど。 坂口 いや、不思議じゃない。それが大切なことなんですよ。あなたはそういうことをハッキリおっしゃるべきですよ。 阿部 あたし、先生の本は好きなんですよ。最近の「堕落論」なんていうのネ、あれ読もうかと思ったけども、高いから…。 坂口 そうですか。じゃあ、ひとつ贈りましよう。 (しばらく沈黙) 阿部 あたしのことを、みんなが誤解してんのよ、ねえ。 坂口 そう。しかし…。 阿部 ほんとの気もちは、なかなか口で言ったって判らないけど、ただそんなことだけでそういうふうにしたっていうふうに思ってるから。 坂口 しかし、それはネ、案外そうでもないんですよ。人間ていうものは二つの心があるから、一つの心でエロ本を面白がる。しかし、もう一つの心、内面では、ちっともあなたを悪いと思っていない。そういうもんですよ。 阿部 あたしはみんなもそうなんじゃないかと思うの。あたしみたいな考えを持ってて、ただしなかっただけのことなのね。 坂口 無論そうなんです。そうなんですよ。だから、みんなあなたに同情してるんですよ。ただエロ本を読む気もち、読者の気もちというのは別ですからね。それはネ、あなたがモデルであっても、なくても、問題にしなくってもいいんですよ。 阿部 でも、いい人が書けば、あんなゲビた書き方はしないでしょう。 坂口 それは勿論そうですね。 阿部 ずいぶんへンなふうに書いてるけども、いい人の書いたのは下品でない、ね。あんなバカバカしい、あれじゃあ、ほんとに可哀そうだ。…でも、いくらあたしがこういうふうに言っても、世間の人は、やっぱし見直してはくれないだろうと思ってね。 坂口 しかしネ、それは問題にすることないですよ。自分が理解される、されないじゃなくてネ、根本は自分ですよ。 阿部 でも、告訴しなけりや、あたしは世間の人に誤解されてたんですのよ。告訴したから判ったけど、今まであんたが本を出したり、お芝居したりして、お金儲けしてたと思ってた、なんていう人があるんです。ずいぶん浅間しい誤解ね。可哀そうだわ。 坂口 僕はこういうことを思うんですよ。新聞なんていうものが、阿部さんは死者の冥福を祈っているとかそういう生活をしているとか書くでしょう。それがいけないんだと思う。むしろ阿部さんが大胆に自分の心情を吐露されれば、みんなに判ると思うのです。僕は万人が自分の胸にあることだと思うんですよ。あなたはそれをおやりになっただけなんだ。だから、万人が非常に同情したんです。だから、ヘンな言いわけはなさらんほうがよろしいんだ。 阿部 あたしは言いわけはちっともしてないんです。あの人をああいうふうにしたことについては、あたしは言いわけはしないんです。あれはあれでいいんです。あたしは今でも満足なんです。あんなことをしなけりやよかった、なんて思ってないんです。だけど、世間がただ肉慾のことだけであたしがしたように思うでしょう。そのために少し言ってるんです。それと、あたしが隠れて一生懸命まじめに暮していたのに、それをこういうふうに騒いだでしょう。毎日毎日寝られない日ばっかし続いたんです。ラジオなんかでも云うしネ、とてもいやだったんです。だから、とにかくこういうことを無くなしてもらいたいと思って告訴したんですの。ほんとは、あたしがうまく書ければ、自分の気もちを書いてみたいくらいなんです。あたしには書けないからね、あたしに代って書いてくれればと思うけどネ、そういう人もないし…。人の気もちはむずかしいからね。 坂口 むずかしい、まったく。 阿部 ずいぶん手紙なんか来るんです。ほんとにあたしを思って言ってくれる手紙なんか、とても嬉しいんだけど、石川県だの九州だのでやってるお芝居なんて、ほんとにひどい。あたしを軽蔑してるんですよ。そんなことをしちゃ可哀そうだわ、死んだ人が。…それもあたしが何か浮ついたことしてる時なら、まだいいけどね。…お芝居なんてびどいのよ。あのことから裁判の所もやるんですって。だから、弁護士なんかが出てくるらしいわ。でも、若い学生さんからまじめな手紙をもらったりすると、嬉しいですわ。 坂口 みんなそう考えてるんですよ。そういう手紙をよこさない階級も、みんなそうなんですよ。―僕は阿部さんなんか、一番純情な人だと思うんです。そういう純情一途な思いを、阿部さん自身が少しも偽らずに言ってしまえばいいんです。それがエロになる筈は絶対にないんだ。純情一途の思いというものは、決してエロになりっこないですよ。そういうことが大切だと思うんです。 阿部 でも、あたしがあの時のことを後悔していないッて言ったならば、ずいぶんおかしく響くでしょうね。 坂口 いや、響きません。僕は絶対に響かんと思う。 阿部 それが心配だから、ほんとのことはなかなか言えないのよ。 坂口 決してへンに響きませんよ。ほんとうのことを言うのが一番大切なんじゃないかナ。 阿部 あたしが後悔してないと言っても、先生ならば、そこをうまく考えるわね。今までの小説を読んであたしが知ってるから、そう思うんだけど、世間の人は、あんなことをして悪いと思ってないのかッて、また誤解するでしょう。 坂口 そんなものじゃない。 阿部 先生なら、この深い気もちは判っていただけるだろうけど、あたしは、今あの人がいれば嬉しい、なんてことも思わない。―そういう立入ったことは、あたしは言うの厭なんだけど。 坂口 それは阿部さんの場合だけじゃないですよ。 阿部 本に書くっていうことは、ほんとに後に遺るからね。うっかりしたことを喋べったら、なんだ、後悔してないのか、なんて思われるでしょ。そうじゃなくてネ、ねえ、あたしの気もち判るでしょうよ。 坂口 よくわかりますよ。 阿部 あたしはいま安心しているんですよ。あの人がいないから安心しているんです。あたしは安心して、自分ですることをしちゃったから、今度はまじめに、そういうふうな感情のない人と一緒にいるんです。ただ漠然と一緒にいるんです。ちっとも感情なんかないんです。その人には申訳ないけど…。さりとて、あたしなんか学もないし、手に職もないから、独りで生活していくっていうのは、やっぱり結婚生活に頼らなくちゃならないでしょ。だけども、愛情なんていうことは、あれ以来あたしは全然抛っているんです。だから、あの人がいないほうがいいと思って、安心して暮しているんです。静かに暮しているんです。信仰生活もしてますけど。坂口 しかし、あの人だけが問題じゃないでしょう。私はやっぱり、あなたのもっと重大な時機はズッと前にあったんだらうと思うナ。 阿部 どういうこと? 坂口 あなたのもっと若い時、幸福になっていればよかった。そういう時代があったんだらろと思ふナ。 阿部 そんなこと、なかったわ。 坂口 一度も? 阿部 ええ。割りと恵まれなかったんですもの。自分の出発点が間違っていましたから…ですから、ほんとの愛情を持ったとか、このまんま死ぬまでこの生活が続いたらいいと思うような境遇になったことがないんです。で、あの時だけそういう気もちになって、それが最後になっちゃったわけなんです。だから、あの人が奥さんも何にもない人だとしたら…。それでもああいうふうになったかも、それは判ンないけど…。だからあたしにとっては初めの終りなんですよ。今はもう全然そんな気もちがないの。 ラジオなんて、ずいぶん言ってたわ。終戟後ふた月くらいの時と、それから憲法発布の時ね、昭和十一年度の事件だって、二・二六がどうのこうのッて、そのあとであたしのことを…。それから新聞でも書いたけど、厭だなア、まだあたしのことを言って、と思ったんです。それでも我慢していたんですけどネ、「りべらる」に出て、そのほかにも出て、また夏ごろラジオで言ったんです。そうして単行本が出て、とても厭ンなっちゃったんです。ほんとの気もちを出してくれればいいけど、ただ男とふざけることばかり書いてるんだから…。織田さんが書けば、それほど怒ンないかも知れない。 坂口 「妖婦」は途中までですけど、決して悪いものじゃないんです。 阿部 それでも名前を出せば厭ですけれど。 坂口 じゃあ、阿部さん、若い時、ほんたうに夢みたいに男が好きになった、ということはなかったんですか。 阿部 とにかく最初騙されてネ、―騙されたっていうとおかしいけれど、子供みたいな年のころで、好奇心もあってネ、そのころ処女じゃなくなったんです。それから後は転々といろいろに暮してましたから、そういうふうな時がなかったんです。ですから、あれが初めてなんです。あの三十二の、あの時がね。その時まで結婚生活は全然なくて、世帯を持っても蔭の生活だとか、芸妓をしてたとか、かりに旦那があっても、それは好きッていうんでなくてネ、商売の、フーッとした生活でしょう。心からその人を好いたッていうことは、初めてだったんですよ。三十くらいになってそんなことはおかしいかも知れないけど、それはほんとのことなんです。一生、恋しない人もあるから、ね。 坂口 今はもう気もちはズッと落着いておられますか。世間の悪口とか、そんなことは別にして、家庭の生活は、生きる満足とか慰さめとかいう、毎日毎日が楽しいと感じておられますか。 阿部 ええ、このことが始まるまでは、平凡に静かでしたね。その代り、熱もなかったけど。毎日が楽しくて楽しくてという生活ではなかったけど、ごくあり来りの、朝起きて、ごはん食べて、夜になったら寝るっていう、ただ平凡なスーッとした生活なんです。ですから、今までいた家の近所の人から手紙が来て、あなたがそうだったなんて信じられない、帰っていらっしゃい、なんて言ってくれるんですよ。 今度はあたしネ、いい意味で働いてみたいと思んです。そんなことを宣伝して儲けるなんて、そんな汚くじゃなくネ、社会事業なんていっちゃあ大きいけど、あんなことをやった人が今度はこんなことをやってる、偉いねッて言われるようなことをやってみたいと思うんです。それが何だか、まだ判らないけど。 あたしも吉井マサ子になりきって、かりにも浮ついたこともなく、一つには信仰もありましたけど、それで満足して、これでいい、あたしがあんまり幸福じや、死んだ人に申訳ない、と思って静かに暮してたんです。それがこういうふうになっちやって、今さら引っ込みがつかないでしょ。だから、どうせウンと言われたんだから、今度は偉いと言われることをやってみたいと思うんです。何かいいことを、ね。 坂口 それはいいことですね。 阿部 あたし、学問があればいいんだけど、言うことや書くことがうまくないから…。坂口 そんなことないですよ。世間のそんなことは問題にしないほうがいいですよ。阿部 あたし、立派に書くことができれば、本を出してやりたいくらいですよ。 坂口 世間ていう奴は物好きだから。 阿部 これからどうやって暮したらいいか、今の人はこの騒ぎが起きてから、どこかへいっちゃったんですよ。あたしは吉井マサ子で結婚してましたからね。知らないで夫婦になったんでしょうけど。 坂口 そんな、逃出すなんてないですよ。そんな人とは離れてもいいと思いますね。 阿部 今度はあたし、チャンと阿部定で配給を取ろうと思ってるんです。 坂口 かえってそれがいいですよ。 阿部 でも、家庭が破壊されちゃったんです。あの発表があって、夫が家を出てから、もうやがて一ト月になりますもの。 坂口 強く生きることですよ。 阿部 そう? 坂口 あなたがしっかりしていくのが、かえって非常にいいことなんです。 阿部 あたしの今までの間に間違ったことっていうのは、あれだけなんですものね。まだほかに沢山いろんなことがあるのならば、しようがないけど、あれだけだったんですもの。 坂口 いや、間違いといっても、純粋な意味で間違いということは、ちっとも悪いことじゃないんだから、これからだって、あなたが間違いをやったって、ちっとも悪いと思っていないんです。 阿部 みんなだって、自分の男に対してそう思ってるだらうと思うんですよ。ただ、いろんなことを考えて止すだけでしょ、きっと。だから、何でもないでしょうね。 坂口 そうですよ。強く生きるといいんだ。阿部定を隠して生きるなんていいことじゃないですよ。 阿部 ええ、今度はチャンと出して、偉いわねッて言われるようなことをやりたいと思ってるんです。 坂口 それはいいですね。しかし、それからがむずかしいですよ。その時に腐ったりしたらダメですね。闘いですから。 阿部 どうしたらいいでしょう。 坂口 それはあなたの情熱の問題だ。それをあなたがやり通そうという、命懸けみたいなものを持って事に当らなければダメですよ。人にちょっと言われて引っ込んだりしちゃあ…。 阿部 ええ、今度は…。 坂口 じゃ、強く生きてください。あんまり晩くなりますから失礼します。 阿部 そうですか―。何にもお構いできませんで…。 (昭和二十三年) |
| ( 参 考 ) 阿 部 定 の 事 |