森島氏が描くC大阪の未来「柿谷が8番をずっと着ていることを願ってます」【拡大】
セレッソ大阪の背番号「8」。現在、日本代表でも中心選手として期待される、FW柿谷曜一朗が背負うこの背番号は、このクラブにとって特別な重みを持つ背番号だ。1991年、高校を卒業した一人の選手がC大阪の前身であるヤンマーディーゼルサッカー部に加入した。後にミスターセレッソと呼ばれる森島寛晃だ。日本リーグ時代から18年間、C大阪一筋でチームをけん引。現役を退いた今でもアンバサダーとしてC大阪を支えている。森島氏が長く背負った背番号8は、香川真司、清武弘嗣、そして現在の柿谷に引き継がれ、森島氏の思いを受け取った後輩たちは今や日本代表に欠かすことのできない選手に成長した。C大阪の未来を知る上で、彼以上の適任者は他にいないだろう。
外から見るしかなかった日本初のプロサッカーリーグ
日本初のプロサッカーリーグであるJリーグが発足したのは1993年だが、ヤンマーは森島氏の一つ上の世代からプロサッカー選手契約を始めていた。森島氏にもプロ契約選手という形で誘いがあり入団に至ったのだが、当時のヤンマーは日本リーグ2部に降格したところだった。Jリーグ設立の際に候補として名乗りを挙げたものの、Jリーグが定める基準を満たしていなかった。そのため当時は、「プロリーグが始まるといってもピンとこなかった」という気持ちだったという。しかし、外から見るしかなかったJリーグについて、「ヤンマーサッカー部は、身内が(スタンドの)どこにいるかわかるくらいの雰囲気だった。だから、誰もがあそこ(満員のスタジアム)でプレイしたいと思っていた」と当時を振り返る。
プロサッカーリーグ発足から2年後、Jリーグ加盟を果たしたC大阪には、同じ大阪に目標とすべきチームがあった。Jリーグ発足時から一部で戦うG大阪だ。当時、大阪でサッカーといえばG大阪と言われるほど両クラブの知名度には大きな差があった。森島氏は日本代表に初招集され、サッカーファンの間では知られた存在になっていたものの、C大阪と当時のG大阪との差について、「大阪のチームなら、ガンバの選手?」、「G大阪の森島さん」と言われることがあったと振り返る。「Jリーグに上がった時はそれが悔しいというか。G大阪よりも強くなって、大阪といえばセレッソと言ってもらいたいという思いでやってきた」と言う森島氏は、G大阪との大阪ダービーは、「やはり特別」なのだと断言した。とはいえ、ともに関西を代表するクラブとなった今、優勝争いに食い込み関西を盛り上げていきたいという。そのために求められるのは、やはり結果だろう。森島氏は、2005年にJリーグを制したG大阪を例に出し、「ガンバも一つのタイトルがチーム全体、選手だけでなくチーム自体を常勝軍団に変えていった」と分析する。