2014-06-13 宮内『ヨハネスブルグの天使たち』
■[書評]宮内『ヨハネスブルグの天使たち』:嫌いではないが背景設定が無理すぎ
ヨハネスブルグの天使たち (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
- 作者: 宮内悠介
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2013/05/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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うーん、困ったなあ。
全体的な雰囲気は嫌いではない。トーンはモノローグ調。戦争あるいはスラム化等した雰囲気の中で、荒んだ心を抱える語り手がある種の人間的な感傷に浸るという連作集となる。ちなみに感傷というのは決して悪い意味ではない。本書のような世界観――あるいは「ポスト伊藤計画」的な世界観――からすれば、後ろ向きのアナクロだけれど、でもそれが人間をよくも悪しくも人間たらしめているものではあるんだから。
が……その背景世界の作り方が、ぼくにとってはまるっきり説得力がないのだ。
冒頭の「ヨハネスブルグの天使たち」は、資源が枯渇して内戦に陥った南アのヨハネスブルグで暮らす少年の話。そこの高層ビル(なかなか目立つので、ヨハネスブルグに行くといやでも目につく)が、歌う人型ロボットの落下試験に使われていて、でもそれが放棄されているので、ロボットたちはひたすらエレベーターでビルの高層階に上がってはとびおりる、というのを繰り返しているそうな。
えー、ESKOMはいまでもまともに電力供給できずに停電ばかりしてるくせに、スラム化した後のビルのエレベータを動かし続けられるほどの給電ができる余裕があるんですね、すげえ!
……というのは揚げ足取りではある。が、こういう揚げ足取りの箇所が無数にあると――そしてそれが基本的な設定の根幹に関わる部分ばかりだと、ぼくはあまり話としてのリアリティを感じられなくなる。
話としてはあまりバランスがよくなくて、前半7割を使ってその少年の子供時代の思い出話となる。で、そこから少年は突然大学に通い、内戦を停戦に導くだけの政治力を獲得する。その一方で、そのガールフレンドはロボットに人間意識を転送する技術を開発する。だけれど、停戦直前で一部の派閥がヨハネスブルグに侵攻しました。少年(だった現大統領)は悲しみと絶望に浸り、一部の人間の意識を、かつて落下を続けていたロボットたちに転送して砂漠に送り出し、唯一自意識を獲得したらしいロボットとともに修羅の道に進む。残り3割、つまり20ページほどでこのややこしい話を駆け抜ける。
で、このまとめだけでも、背景が支離滅裂なのはわかると思う。
まず内戦とやら。北部連合と南部連合が内戦をしているというんだが、何のために? 南アの資源が枯渇してるそうな。内戦続きで経済的にも壊滅、外国も介入したがらない。すると、両者は何をめぐって内戦してるの?
なになに、北部連合はいまの優位を手放したくない。南部連合は、いつか北部連合に支配されるのがいやだ。それで争ってるんだという。
結構。でもそれなら、内戦が起こる必然性がそもそもない。南部が優位な部分に停戦ラインを引いて、お互い相手に手出しせずにバランスを保つことができるはずですけど。南部はケープタウンくらいおさえて、北部はヨハネスブルグとダーバンとブロムフォンテーンと残りを確保しておけばだいたいよいのでは? なぜそこで戦闘するの? 著者はそれが「利権」だという、通常、「利権」というのは何か具体的な資産や収入源や市場に対する利権だ。でも著者は、それがすでに存在しないという。じゃあ何の利権?
そして主人公が穏健な連邦制みたいなもので内戦を終了させようとする。でもそのとき、南部連合の一派が突然ヨハネスブルグを攻撃したそうな。なぜ???? かつての白人支配への遺恨らしいんだけど。でも南部連合は、北部連合に支配されるのがいやな連中の集まりですよね? その時点で攻撃して何かいいことあります? そしてそれに対して白人がテロで抵抗したら、主人公はそいつらを捕まえて皆殺しにする。えーと……連邦制を成立させるんなら、北部と南部の合意がだいたい成立しているのに一派だけ暴走したその連中の親玉をとっつかまえて制裁を加え(それにより北部南部の結束をかためて)、抵抗した白人たちはレジスタンスってことでまつりあげ、死んだ人は殉教者にして、これまた結束のシンボルにするのが当然だと思うんだけど、なんでその白人を皆殺しにするんですか?
それで主人公はすっかりたそがれてしまい、なんか南北融和も内戦停止も絶望だあ、みたいな雰囲気になってるんだけど、そんな必要はまったくないと思う。かえってチャンスじゃない! とぼくは思うんだが、たそがれたいんならそれはいいよ。だれか有能な側近が引き継ぐことでしょう。
が、その主人公は表の政治を捨てて、最後に人間の意識をロボットに転送するという、裏のプロジェクトが進んでいるというんだけど、これまたぼくは、だれの意識をなぜ転送したいのかよくわからない。表向きは死んだことにしたいけれど、でも殺したくないやつがたくさんいるということならわからんでもない。ひょっとして、殺された白人たち? でもそうとも書かれていないんだよね。だいたい――あんたの意識はあそこのロボットに転送しときました、と言われたって、ぼくならここにいるこの自分が殺されるのはいやだけどなあ。
そしてその転送されたロボットたちは(なんせエネルギー供給なしで数十年にわたり勝手に落下試験を自主的に続けてきた連中だから)飲み食い何もなしにいくらでも動けるので、砂漠にでかけて自分たちの国を作ったそうな。えー、で、そいつらそこで何するんですか? そして主人公がこれから歩む「修羅の道」って何のこと?
みんな勝手にかっこつけて感傷にひたるんだけれど、何を言ってるのかぼくにはよくわからんのだ。ぼくはレソトと南アとに、のべ三ヶ月くらいしかいただけなので(ご近所のマラウイまで入れれば半年くらい)、南ア情勢を十分に理解していない部分もあるんだろうけれど、でももっとマクロな認識が変すぎるのでは。
そしてその次は、絶賛のアマゾンレビューにおいてすら、よくわからんと苦言を呈されているニューヨークのお話。マンハッタンがスラム化して、9.11跡地の再開発が進まない。そこでロボットDX9に当時貿易センタービルにいた人間たちの行動を植え付けて、飛行機に突っ込ませて9.11を再現し、それで再開発を進めようというプロジェクトが持ち上がった、というんだが……
これ読んだだけで????と疑問符だらけになるのが人情でしょう。なんで9.11をロボットで再現すると、再開発が進むんですか? オレが投資家であるにしてもテナントであるにしても、そんな生々しいことやられたら尻込みするよ。かえって再開発進まないじゃん! それでスクワッターどもを皆殺しにできるんなら話は別だけど、それならもっと楽な方法がありそうなもんだ。
そもそもニューヨークがスラムになっている話も理解不能。マンハッタンの地価があがりすぎて、金持ちでもそこに住めなくなったので、そこに移民スクワッターが流入したというんだ。あのですね、市場原理ってものがあって、だれも住めない――地代を払えない――土地は収益を上げないから、そもそも地価が上がるわけないでしょう。だれかが住めるまで地価が下がるのが普通だよ。そして、マンハッタンは常にスラム化するのを運命づけられてるとかいうんだが、マンハッタンがインナーシティ問題でそんなひどい状況になったことって、何度もありましたっけ? 50-60年代の一回だけでは? ここらへんの状況については拙訳のジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』の解説を読んでほしい。それとスラムの位置づけについては、同じく拙訳グレイザー『都市は人類最高の発明である』を参照。
- 作者: エドワード・グレイザー,山形浩生
- 出版社/メーカー: エヌティティ出版
- 発売日: 2012/09/24
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そしてさらに、スキナー流の行動科学の話がたくさん出てくる。正直いって、これが何のためにあるのかぼくにはさっぱりわからない。お話に何の貢献もしていないんだもの。その貿易センタービル内の人々を再現するにあたり、その行動さえ再現できれば意識も再現できる、という理屈づけのためらしい。が、そもそものプロジェクトが苦しいので、そこで意識を再現するかどうかがそんな大きな問題になるとも思えない。ちなみに、この短編が発表された年からして仕方ないんだけれど、スキナーの『自由への挑戦』はこれまた拙訳で『自由と尊厳を超えて』として改訳されているので、是非お読みください。
- 作者: B・F・スキナー,山形浩生
- 出版社/メーカー: 春風社
- 発売日: 2013/04/12
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話全体としては、飛行機でビルに突っ込む役の存在が、自分のその役割を考えるにあたり、己をここまで導いてきた人生上のできごとやら何やらを回想し、それがどこまで行動プログラミングなのかを感傷的に思案し、そこにイスラム自爆テロ戦士たちの主体性の問題を考えつつ、最後は貿易センタービルの設計者であるミノル・ヤマザキが二本のビルの間に見ていたという希望への突入を演じさせる、というのがやりたかったのはわかる。でもそれなら、無理に背景を作らずにそこだけストレートにやればよかったと思う。
その次、船戸与一みたいな中央アジア内紛に身を投じる日本人戦士みたいな話がいくつか続く。そして最後は東京のスラム化した団地に暮らす人々が、DX9に意識を転送して落下するゲームに興じる話。
さてその中央アジアの話で、いきなり主人公が、なぜバーミアンの仏像は破壊されたのか、と質問されるところがある。すると主人公は延々と、モフセン・マフルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』を暗唱してみせる(でもなぜか各小説の最後にある主要参考文献にこの本は入っていない)。東京の話では、戦争と建築の関わりでテレジンの話が出てくるんだが、これは五十嵐太郎の本の引き写し(これは参考文献に入ってる)。それで団地をある種の荒廃と非人間性とのシンボルに見立てて、テレジンとの対比をしたいみたい。これ自体ちょっと苦しいと思う。が、それはまあいい(ル・コルビュジェは『パリの未来』でそんな議論を本気でしているし)。
アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ
- 作者: モフセンマフマルバフ,Mohsen Makhmalbaf,武井みゆき,渡部良子
- 出版社/メーカー: 現代企画室
- 発売日: 2001/11
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でもいずれもあまりにひねりがない。さっきのミノル・ヤマザキの話でもそうなんだけれど、ネタもとを一つ見つけたら、それをそのままストレートに話の中に導入してしまい、それが非常に唐突でおさまりの悪い印象をあちこちで与えている。特に『仏像は破壊されたのではない』のところは、これがあまりにひどすぎる。もう少し自分の中で咀嚼して出してくればと思うんだけど……
伊藤計画的な小説作法を見事に受け継いでいるのは確か。戦争とか内戦、スラム、荒廃とかを背景に、人間の弱さを繰り出すような構成ね。そして伊藤計画と同じくぼくの訳しているような本からのネタをがんばって散りばめてくれるのも嬉しいところ。スキナーの翻訳とか、あの短編が書かれる前に出ていればお役にたてたのに…… その意味で、期待はできそうなので、次回作とかもまた読むことはあるんじゃないかとは思う。繰り返すけど(コピペするけど)全体的な雰囲気は嫌いではない。トーンはモノローグ調。戦争あるいはスラム化等した雰囲気の中で、荒んだ心を抱える語り手がある種の人間的な感傷に浸るという連作集となる。ちなみに感傷というのは決して悪い意味ではない。本書のような世界観――あるいは「ポスト伊藤計画」的な世界観――からすれば、後ろ向きのアナクロだけれど、でもそれが人間をよくも悪しくも人間たらしめているものではあるんだから。
だから、本書を読んで、誉めたいなあとは思うんだ。そしてネットで本書を誉めている人々の記述を見ても、評価されているのはその感傷部分だよね。でも、あと五歩くらいぼくにとっては足りない。このぼくが格別にひねていて、特に本書についてはほとんどのネタについて背景知識がありすぎるので、本書にとってはそれが可哀想な形で作用しているとは思う。一般の人はここまで考えないとは思う。でも――それは明示的ではない印象としてみんな感じるとは思うんだよ。もう少し。もう少しきてくれれば……