2014.6.13 11:30

【乾坤一筆】「大球才」と呼ばれた名捕手・久慈次郎に注目

昭和初期、名捕手として鳴らした久慈次郎氏。「大球才」とたたえられた

昭和初期、名捕手として鳴らした久慈次郎氏。「大球才」とたたえられた【拡大】

 「大球才」と呼ばれた名捕手が紙面でよみがえった。昭和初期に早大、社会人「函館オーシャン」で活躍した久慈次郎である。きっかけは日本ハム・大谷翔平投手(19)のプロ初完封勝利(5月13日、西武戦)。大谷は久慈と同じ岩手県出身。試合が行われた函館は久慈の愛した土地で、球場正面に久慈の銅像があった。縁を感じさせる白星が時代を超えたコラボレーションにつながった。

 久慈は1934年の日米野球に主将として出場。沢村栄治の1失点、9奪三振の快投をリードで支えた。1939年、捕手のけん制球が後頭部に直撃した影響で40歳で死去。早大野球部稲門倶楽部発行「白球の絆」によると、早大初代監督の飛田穂洲は技量、人格ともに備わった久慈を「大球才」とたたえ、突然の死を悼んだという。

 日本野球機構は、久慈も出場した日米野球から本格的なプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(現巨人)の結成をプロ野球誕生と位置づけた。1934年のことである。80周年の今年、12球団の代表選手が野球殿堂博物館を見学する。

 すでに日本ハム、楽天、西武、ロッテが訪問した。昔のグラブなどを食い入るように見つめた大谷は「勉強になりました」と振り返った。選手会・嶋基宏会長(楽天)は「野球の博物館があることを知らない選手もいる」と現状を明かす。来年以降、新人研修会で見学する案もある。球界全体で歴史教育に取り組む機運が高まってきた。

 プロ野球よりも長い歴史のある大学の伝統校はどうか。1901年創部で久慈の母校である早大は毎年、初代野球部長である安部磯雄が眠る雑司ケ谷霊園(東京・豊島区)の墓に詣でる。1910年創部の明大は試合前、島岡吉郎元監督の胸像前で「えいえいおう」と声をあげて出陣する。OBの講話も日常的に開かれ、建部精神を学び、野球部愛を育む教育を大事にしている。

 夏までに12球団の選手が同館を見学する。久慈を含む殿堂入りした方の表彰レリーフが掲額される殿堂ホールは、歴史の重みを醸し出す独特の空間である。球界の先人は、後輩を温かく迎えてくれるだろう。 

■上野 亮治(うえの・りょうじ)

 2001年入社。ヤクルト、阪神、オリックス、巨人担当を経て、14年から日本野球機構(NPB)担当。鹿児島・鶴丸高野球部では主将。母校の甲子園出場を夢見る。早大では野球部に所属。

(紙面から)