ジョージ・オーウェル『1984年』

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

読みました。
歴史的背景とか政治的背景から考察するのは俺にはちょっと無理っぽいので、今回は極力考察なしで、簡単に感想だけ書くようにしたい。ネタバレあります。

連想した作品

根拠が古い作品ってことくらいしかないんだけど、今のディストピア観に大きく影響を与えた作品なんじゃなかろうか。広く読まれてきたそうだし。そんなわけで、読んでいると今までに見たディストピア映画のことを頻繁に連想した。『未来世紀ブラジル』とか『12モンキーズ』とか『リベリオン』とか、そういうの。本当は映画だけじゃなくて小説作品にだって影響を与えているだろうと思うけど、俺はその手の小説をこれまで全くと言っていいくらいに読んでこなかったのでよく知らない。しかしまあ、普通に考えるとこれ以前にも「ディストピア」の系譜は脈々とあったのだろう。

連想ついでに、ディストピアものではないけど、部分的な関連性から連想したものも挙げておく。

憎悪週間にビッグ・ブラザー!コールを連呼する描写から、ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』とか、映画の『[es]』なんて作品を連想した。人間は集団心理に弱いんである。それで言うと『ミスト』なんて映画もその手の部類だろうか。人が極度の不安や興奮状態にある時、精神を安定させるために多数派への同調が自然となされるのだろう。

洗脳

憎悪週間は典型的なカルト宗教的洗脳のやり口に酷似している。憎悪週間にあたって、2週間ほど前からと書いてあったか、仕事量が激増して人々は疲弊する。くたくたに疲れさせて頭の中を空にしたところで、人を閉じられた空間に集め、テレスクリーンから流れるプロパガンダを眺めさせ、大音量で聴かせる。そうすると、空っぽになっていた頭の中にスッと教理が流れこむ。そんでもって、それを眺める集団に自発的熱狂を強制する。これですっかり、植えつけるべき教理が対象者へ内面化されるのである。

こういうやり方は今でこそカルト宗教くらいしか使わないんだろうけど、どこから来たかというと多分ミリタリーな領域からだろう。国が民間人を兵士として使う上で、まずもって重要なのは兵士を愛国者にすることである。お国のためであれば死も厭わない。むしろ、殉死することが本望である。そういう考え方を植え付けられた兵士は、そうでない兵士に較べて抜群に高いパフォーマンスを発揮する。そういう兵士を養育するためのプロセスとして教育が組み込まれていた流れから、現在の学校教育にもこれに近いものは散見される。それから、ブラック企業にありがちなちょっと頭のおかしい感じの新人研修も、この洗脳手法をお手本に作られていると考えて良いだろう。

象徴としてのビッグ・ブラザーとゴールドスタイン

主人公が暮らすオセアニアは「党」によって統治されている。面白いな、と思ったのは、この党に名前がないこと。そもそも他の党なんてないから名前など必要ないのだ。党の代わりに、この党を事実上統べるとされる一人の人間の名前が出てくる。「ビッグ・ブラザー」なんてのは人の名前としてどうなのって感じであるが、別に人間の名前である必要などないのだ。というか、明記されたわけではないけど、普通に考えるとそもそも「ビッグ・ブラザー」は人間ではない。

これは多分、日本における「天皇」と同じようなものだ。俺が日本人なので天皇を連想しただけだが、多分「王」なら大体同じだろう。要するに「ビッグ・ブラザー」はただの象徴にすぎない。崇拝の対象としては党とかいうよく分からない集合体よりも一個の人間であった方が好都合だから、そういう人がいるということになっているのだろう。

天皇(てんのう)は、歴史的には日本の君主であり、大日本帝国憲法においては日本の皇帝(神聖にして侵すべからざる統治権総攬者)、日本国憲法においては日本の象徴及び日本国民統合の象徴とされる

GHQ天皇をそのままにしておいたのは、本当のところは知らないから予想だけど、多分そういう象徴となる者が一人いたほうが、統治するのに都合が良いからだ。人は人を崇拝するのである。神が人間の形で想像されるのはそのためだ。

党を率いるビッグ・ブラザーと同じように、党に対向する勢力である「ブラザーフッド」を統べるのもまたひとりの人間であるが、やはり「ゴールドスタイン」と呼ばれる彼もただの象徴である。ビッグ・ブラザーもゴールドスタインも、人々の目に直接触れたことは一度としてない。

これも明記されているわけではないから予想なんだけど、「ブラザーフッド」や「ゴールドスタイン」も党が行なうガバナンスにおけるキャンペーンの一環だろう。やはりこれも宗教的なやり口である。というか独裁制を強いている以上は信仰が不可欠な訳で、党のあらゆる手法は全て歴史的な宗教の手法に則っている。信徒の結束を高めるのは、共通する敵の存在を認識することだ。

一般的な共通の敵は名義上の交戦国である「イースタシア」か「ユーラシア」のどちらかである。おそらくほとんどの人間にとってはその二つのうちの一国家こそが敵であり憎悪の対象となる。ゴールドスタインへの憎悪もまたプロパガンダによって誘導されるが、これはゴールドスタインを設置した主目的ではない。憎悪の対象は漠然としたもので結構で、ひとりの人間としての象徴性が活きてくるのは、彼が崇拝の対象となった時のみである。多分。

ゴールドスタインは一般的にはよく分からないけど何か悪いことしてるらしいから我々の敵であるみたいな感じだと思うが、党の独裁に疑問を感じるようになった主人公ウィンストンなど党からすれば不真面目な国民にとって、対抗勢力を統べるゴールドスタインは崇拝すべき人となる。そうして撒き餌をちらつかせることで、オブライエンなど実質的に働くエージェントがエサに近づく不穏分子を一本釣りできるようになるのだ。あな恐ろし。

量質転化

シェイクスピアの悲劇『マクベス』に出てくる魔女のセリフにこんなものがある。

きれいは汚い
汚いはきれい

要するにこれは、美醜なんてものは易々と入れ替わるものであって、表面だけ見ているとあんた死にまっせ、ということである。

美醜はパラダイムによって決定される。今美しいものが100年後も同じく美しいとは限らないのだ。今でこそスラっと痩せた女性が美しいけど、昔は土偶みたいなボッテリしたのが美しかったんである。おかめ面した貴方は生まれる時代間違えたな。

趨勢を握る価値観こそが正義である。「それっておかしくねえ?」と思うようなことでも、皆が「おかしくねえよ」と言えばおかしくねえのである。ある醜いとされるものを美しいとする価値観を持つ人の数が増えてくると、ある時その醜さは美しさに切り替わる。ヘーゲル先生によれば、こういう働きをして量質転化の法則と呼ぶそうだ。

党の掲げるイデオロギー「イングソック」がいかにおかしなものであろうと、それは読者である我々にとっておかしいというだけであって、そのイデオロギーに満たされた世界ではそれこそが正しいものとなる。異常なのはそれに疑問を持つウィンストンのほうである。党やその信仰者がウィンストンを異常者と罵るのは、ある意味正しい。

何をもって死とするか

話は戻って連想作品。トルストイの『人生論』なんて本を思い出した。人生論なんてタイトルがついているけど内容は死生観についてだ。『1984年』でもウィンストンやオブライエンが死について議論していたけど、その辺の話を読んでトルストイを思い出した。トルストイ曰く、生というのは魂の一つの発現の仕方である。転じて、物質的な死は魂にとっては死ではない。これもまたひとつの状態である。つまり、トルストイは生と死を時間的に捉えた。

よく言う「あの人はまだ、私達の心のなかに生きているわ……」なんてのは、多分にトルストイ的考え方だと言える。そういう意味で、オーウェルが描いたこの作品における死のあり方こそが、おそらくほんとうの意味での死であると言えるのだろう。その人が生きたあらゆる痕跡が抹消されれば、現在過去未来あらゆる時間軸においてその人が生きていたということにはならない。生もなければ死すらない。完璧な「死」だ。

ウィンストンとジュリアが拘束される時、テレスクリーンから「君たちはもう死んでいる」と声がする。いやいや、まだ生きてるでしょ、と普通なら思うところだけど、これは要するに、彼らが抹消された時点で過去の彼らも等しく死んでしまうので、拘束された段階で、そもそもまだ胎内にいた段階からして、彼らは死んでいるということになる。

党はこれと同じ手法で、人だけではなく情報も殺す。「記憶穴」に吸い込まれたが最後、その情報は物質的に死んでしまう。そんでもって、それを記憶している人の数をそうでない人の数が上回るので、吸い込まれた情報は実質的に、吸い込まれた時点で完全に死んでしまう。

党のスローガン

冒頭から繰り返し登場するスローガン。

戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり

怖いのは、これが必ずしも誤りであると言えないことだ。ある意味でこれらは正しい。条件付きとは言えこのスローガンが肯定出来てしまうのは、現実に多少なりとも党のイデオロギーに類似した部分があるからだろう。だからこの作品にのめり込める。1984年における世界観の異常性を為す根本原理のこれを必ずしも所詮は創作と一笑に付すことが出来ない以上、この異常な世界のお話もそこそこに現実味を帯びてくる。

記号的な「ディストピア」の要件を満たすために極端な設定を盛り込みつつも、読者を惹きつけるためにある種現実的な要素をこうして序盤から散りばめる工夫がなされている。オーウェルすごい。

二重思考

この作品の鍵になる概念が「二重思考」と呼ばれる思考能力である。

相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E6%80%9D%E8%80%83

これを行なう能力こそが、オセアニアでは求められる。

この二重思考の操作を完璧にコントロールしてみせるのが、主人公ウィンストンを陥れた党中枢のエリートであるオブライエンだ。彼はエリート党員と党を覆そうとするブラザーフッドの一員の二つのキャラクターを使い分けることでウィンストンを陥れた。彼は党の独裁が永久に続くことと、その党を覆すことをパラレルに信奉した。どちらか一方を信奉する状態にある時、もう一方への信奉を完全に忘れる。

最初、二重思考ってのは要するに「ふりをする」ことだろうかと思ったのだけど、それはウィンストンの二重思考能力が未熟であるがゆえだった。矛盾する二つの考えをどちらも等しく信じる能力こそが二重思考の真髄らしい。

現実を見るに、能力としての完全な二重思考こそほとんどありえないように思うけど、近いものは実は身近にあるのではないかと感じる。能力としての、というのはつまり自身でコントロールできるものとしての、という意味なんだけど、そうではない二重思考については割りとありふれている。

端的に言えばアイロニカルな没入である。虚構であるとわかりながらもそれに没入できることは、まあそれなりに二重思考的だろう。「それなりに」であって「まさに」ではないのは、その没入がアイロニーを伴うからだ。そうである以上没入にも限界があるように感じるけど、現実的にはこれが限界だろう。

無理やり連想作品を引っ張りだすと、『コードギアス』なんかは二重思考が用いられていた。絶対遵守の力を自らに行使して記憶を改竄することで、ようやく二重思考に至る。他にもアニメ作品で同じようなものがあった。『デスノート』とか『シュタインズゲート』でもやはり、記憶を操作するか、自身を騙すことで二重思考を用いていた。『シュタインズゲート』の場合は同一人物とは言え異なる主体なので少し怪しいけど。

とまあこんな風に、二重思考を駆使することはアニメの主人公級のはいぱーうるとらスゴイ能力な訳であって、それを現実にやろうというのはまあ無理がある。無理があるけど出来るとすごい。無茶苦茶役立つ。俺は二重思考を習得したい。

……というところを見るにつけ、俺はやはり意志の力って絶大だなあと思うわけです。

人間の備える能力の低さにしろ、それ故に介入出来ない周囲を取り巻く環境の不条理性にしろ、我々にとっての限界値ってのは結構低めに設定してある。そういう不条理を眼差し続ける強かさってのは要するに意志力な訳だ。そんで、なおかつその不条理の中にあって生存の基盤となる振る舞いをし続けるのにも意志力を要する。

自らの思考を自らの意思で統制する二重思考ってのは要するに、上に書いたような意志力を2つ合わせたものよりも大きいわけだ。それを得ようとするのは、密室の扉を開く鍵を密室の中から取り出そうとするようなものだ。土台無理である。

無理なので、我々は自らをキャラ化することでコスト削減を試みる。でっち上げたキャラクターを自身に憑依させることで、人はより高いパフォーマンスを発揮出来る。『マスク』なんて映画はまさにこの話である。

しかし、これでもやはり限界がある。キャラクターの設計は基本的に役割に基づくが、どうしても自己と役割の分断を意識してしまう。その帰結が「もぅマヂ無理。。。」である。自己としてのキャラクター、つまり正確を決定づけるのもやはり役割だろうとは思うけど、それは自身のキャラクターとして内面化される性質に相反する自己がそもそもない状態においてのみしか成立しないのではないか。根本的に自我は不可逆的なものなのだろう。そんなわけなので、完全なダブルシンクが出来ない以上、過剰なキャラ化コミュニケーションの行使は界王拳が如く我々自身に負担をかける。これは普通に生活する上でも注意すべき点なんだろう。

その他

ニュースピークについても何か書こうと思ったけど巻末の付属資料を読んでいないからあんまり口出ししないでおく。『時計じかけのオレンジ』でも自然言語を元にした人工言語が使われていたけど、ナッドサットは作品の中では自然言語であるのに対して、『1984年』で用いられるニュースピークは作品の中でも人工言語であった。言語は音韻論や形態論、統語論、意味論なんかの点から自然に効率化されていくけど、ニュースピークは人為的な効率化によって生み出された。現実でも似たような試みがあったけど失敗している。『1984年』においてもその辺の人工言語の普及の難しさがしっかり描かれていて感心する。党は国民の思想を統制したいが、思想に物理的介入を加えるのは不可能である。そこで、思想の材料となる言語を媒介に、思想への介入を試みようというわけである。なるほど面白い。

ディストピアに限らないけど、極端な状況に置かれた人間がいかに変容するのかを見たり考えたりできるのが面白い。主人公についてだけではなくて、それを取り巻くあらゆる立場の人がどう振る舞いどう思考するようになるのか。そういうことについて、書き手の想像を読むのも面白ければ、それを受けて自分で考えてみるのも面白い。

『1984年』の場合、世界大戦前後あたりの政治的背景を掴んでから読むとしっかり文脈を追えてより面白いんだろうけど、ある意味では文脈を共有していないほうがニュートラルな目線から読めて面白いのかも知れない。一度知らない状態で読めば、後々知ってから読むことでまた楽しめる。一作で二度美味しい。

終盤の「方法はわかるが動機がわからない」への答えである「権力が欲しいから権力を欲する」とかその辺のあたりについてこそ書くべきだったんだろうけど、いまさら思い出した。結構重要なポイントだと思うけど、これは読書会の場に回したい。

読むのに時間はかかったけんども、それなりに楽しく読めた。終盤は一気に読んだ気がする。内容が小難しいわけでもないし文体もライトだから、集中さえすればサラッと読めるだろう。