47.ある天使の舞

 

                     泉一(いずみいち)(きよう)(ちゅう)

 

 フィギュアスケートで最も印象に残っている選手は、何と言っても、アルベールビルオリンピック銀メダリストの伊藤みどり選手である。彼女のトリプルアクセル(3回転半)ジャンプは今でも脳裏に焼き付いている。彼女がトリプルアクセルをするときは息を呑んでテレビを見た。当時、女子選手はダブルアクセルが限界でトリプルアクセルは不可能だと言われていたが、その不可能を可能にしたのが伊藤選手である。彼女はトリプルアクセルを1988年の愛知選手権(公式戦)で始めて成功させ、翌年の世界フィギュアスケート選手権でも成功させる。世界中の女子選手が伊藤選手の独走を抑えるため、トリプルアクセルに挑むが、1992年のアルベールビル五輪までにトリプルアクセルを成功させた女子選手は伊藤選手とトーニャ・ハーディング選手の二人だけである。トリプルアクセルが如何に難しい技か分かる。伊藤選手がアルベールビル五輪でトリプルアクセルに成功して以降未だに挑戦者成功者共にいないのである。

 アルベールビルオリンピックの伊藤選手はオリジナル・プログラム(現在のショートプログラム)のコンビネーション・ジャンプで転倒し4位と出遅れ、フリー演技でも最初のトリプルアクセルで転倒したが、再度挑戦したトリプルアクセルを決めて銀メダルを獲得した。優勝したのは無難に演技をこなした日系アメリカ人のクリスティ・ヤマグチ選手だった。

伊藤選手が最初のトリプルアクセルで転倒したときはテレビの前で溜息が出た。それでも、彼女が二度目にトリプルアクセルを決め銀メダルを手にしたときは拍手喝采した。当時は手足が短くスタイルの良くない日本人は芸術点で劣り、オリンピックのフィギュアスケートでメダルを取ることなど、夢物語に思われた。その不利を技術で補い、高度な技で銀メダルを日本にもたらしたのである。

カルガリーオリンピックで優勝したカタリナ・ビット選手が「観客はゴム鞠が跳ねるのを見にきているわけではない」と暗に伊藤選手を揶揄した。そのため「フィギュアスケートは芸術かスポーツか」と言う論争を生んだ。カタリナ・ビット選手は1984年サラエボオリンピック、1988年カルガリーオリンピックで金メダルを獲得、1984年、1985年、1987年、1988年の世界選手権で四度、女王に輝いた偉大な選手である。その彼女が後に「カルガリーの真の金メダリストはみどりだった」と認めている。私はNHK杯だったと思うが、ビット選手の「カルメン」の演技をテレビで見た。バレーを基礎にしたミスのない正確な美しい演技だった。動的な魅力では伊藤選手に劣っていたと思うが、その正確さと美しさは、やはり群を抜いていた。

「フィギュアスケートは芸術かスポーツか」難しい問題である。その難しさはフィギュアスケートの歴史を見ると分かる。冬は寒く降雪が少ないオランダではアムステルダム周辺の運河は氷結する。狩人は獲物を市場に運び、兵隊は敵より早く行動するため訓練し、大衆は氷上でのバランスを取るスリルに打ち興じていた。この勝手気儘な氷上滑走の姿勢に「型」が生まれた。これが十六世紀にオランダ貴族によって創造されたフィギュアスケートの原型である。

1498年のスケートの守護神、セイント・リッドウイの木版画にはダッチ・ロール滑走を可能にする木部に金属を取り付けたスケートが描かれており、大主教であったオラウス・マグウスは平らに研いだ鉄製の滑走面を有するスケートを目撃したことを1555年に記述している。ダッチ・ロールの誕生はその前後と推定される。ダッチ・ロール技術と滑走具は1650年後半を前後してイギリス、北ヨーロッパ、スカンジナビアの諸国に紹介され、王室、貴族の上流階級の間で高尚なスポーツとして行われるようになる。1772年イギリス砲兵隊副官であったロバート・ジョーンズによって「スケーティングに関する論文」が出版される。この指導書の発刊によりフランス、ドイツのスケート熱が高まり、フランスでは上流階級のリクリェーションとして、ドイツでは一歩進んだ研究がなされ、1790年頃G・U・S・ヴィースによって四つの異なったエッジによる滑走、チェンジ・エッジ、フォワード・アウトサイド・スリー等が随筆として発表される。

19世紀になるとドイツはナポレオン戦争により技術研究が休止するが、フランスでは優雅で芸術的な滑走動作が研究され飛躍的発展をとげる。一方、イギリスでは滑走動作の美しさよりも新しいターンをともなった弧線滑走方法、スケートを幾何学的な見地から捉えようとする研究が行われた。

1831年G・アンダーソンがダブル・スリーを、1868年の再版でカナダ人の発見であることを但し書きしてループ図形の原型をその著書に発表。1860年〜1861年ヴァンダーベルと、その協力者ヴィザムはフォワードとバックワードのカウンター・ターン(インサイド)に成功、1880年ヴィザムがブラケット・ターンとその全体図形を発表。1881年モンタギ―ュ・モニエーウイリアムスがロッカー・ターンの図形滑走方法に取り組み発表。これらの人々による研究集団(イングリッシュ・スクール)により開発された図形、ターン(フィギュア)は長い間スクール・フィギュアと称され、1896年に開催された第一回世界選手権以来今日に至るまで競技における規定種目(コンパルソリー・フィギュア)の原型となっている。

1763年ロンドンを訪れた25歳のアメリカ人画家のB・ウエストはフィラデルフィア・スタイルの優雅なスケーティングを行い、イギリス人の喝采を浴びた。このスケーティング技術は全アメリカに徐々に広まって行った。

ニューヨーク生まれのジャクソン・へインズはバレーの教師としてはともかく、スケート・ブレードのデザイナーとして、また、スケーティングにバレーのポーズ及びダンスのステップを取り入れたスケーターとして有名になった。彼は1863年の非公式の全アメリカ・チャンピオンとなったが、一般大衆には高く評価された反面、優雅さを強調するあまり誇張された体の動きとスケーティングの未熟さを理由にイギリスの主流をくむスケート愛好家から酷評された。彼はイギリスで数回エキジビションを行ったが、保守的なイングリッシュ・スクールの人々に「ファンシー(奇妙な)スケーティング」と呼ばれさげすまれた。しかし、彼はウィーン、ブダペスト、ベルリン、レニングラード、スカンジナビアにおいてエキジビションを行い、ウイーンにおいて大成功をおさめた。彼はモーツァルト、シューベルト、ヨハン・シュトラウスの音楽に合わせてマーチ、ワルツ、マズカル、クワドリルのリズムでダンスのステップを氷上で演技した。音楽の都ウイーンの人々は今まで誰も試みなかった音楽、舞踏、スケーティングの融合の美に大きな感銘を受け、彼を尊敬した。その技術指導を乞われた彼はウイーン・スクールを設立し、後継者を育成する。

彼の後継者アービング・ブロカウ(1906年アメリカ・チャンピオン)やルイス・ルベンスタイン(1878〜89年カナダ・チャンピオン)等によってその技術がアメリカ、カナダへ導入されインターナショナル・スタイルと呼ばれるようになる。これが現在のフリースケーティングの原型である。

フィギュアスケートは狩人や兵隊、一般大衆の遊びとして始められたものであり、その当初は純粋にスポーツの要素だけで成り立っていた。その後、王室や貴族の上流階級の間で高尚なスポーツとして行われるようになる。この「高尚な」という部分に他のスポーツにはない芸術性が入り込む余地があったのではなかろうか。単なるスポーツなら四分間で難しいジャンプやスパイラル、スピンを何回決めるかにより、運動能力の優劣を競えばいい。しかし、上流階級の人々は、そのようなスポーツではなく、そのものに美を求めたのである。それ故、このスポーツの採点は難しい。ある国の審判はスポーツ性に、ある国の審判は芸術性に比重を置く。そして、美とは主観が決めることなので多くの問題がある。イギリス、ドイツ、フランス、アメリカ、ロシア、日本では、恐らく、美の感じ方が違うだろう。それ故、私のような素人が見ていて、どうしてという疑問が生じるのが必然的なのかもしれない。

トリノオリンピックのショートプログラムは一位サーシャ・コーエン選手(アメリカ)、二位イリーナ・スルツカヤ選手(ロシア)、三位荒川静香選手(日本)だった。どうしてこのような順位になったのか、私には良く分からないが、三人の中で一番美しかったのは荒川選手だった。私は彼女の演技にオーラさえ感じた。しかし、美だけでは勝てないのが、このスポーツの難しさである。

最も分からなかったのはフリー演技でコーエン選手は一度転倒し、二度目は転倒しそうになって手をついた。スルツカヤ選手は一度転倒しただけだった。それなのにコーエン選手が銀メダルでスルツカヤ選手は銅メダルだった。私は反対だと思った。

フリーでは二人が転倒し、荒川選手だけが採点にならないイナバウアーを取り入れ、ノーミスの演技をした。その美しい演技に感動した観客は彼女にスタンディング・オーベーションの拍手を送った。その先にあったものが金メダルだった。

 

平成17年12月23日〜25日に行われた第74回日本選手権大会では荒川静香選手はショートプログラムで首位発進したが、優勝したのは村主章枝選手で2位浅田真央選手、3位荒川静香選手、4位恩田美栄選手、5位中野友加里選手、6位安藤美姫選手だった。この時点で実力的には浅田選手が1位であると思われたが、年齢制限でオリンピックには出られず、4位の恩田選手、5位の中野選手は6位の安藤選手より持ち点が低く、村主選手、荒川選手、安藤選手がトリノオリンピックの代表選手に選ばれた。

村主選手は股関節を痛めながら涙の逆転優勝だった。全日本選手権五回優勝。世界フィギュアースケート選手権2002年、2003年銅メダル。2002年のソルトレイクシティオリンピック5位入賞の実力者であり、この時点で、私は浅田選手が出ないので金メダルは期待できないが、銅メダルの最有力候補に村主選手を置いていた。その次に荒川選手だった。荒川選手は2004年の世界フィギュアスケート選手権の女王である。何となく侮れない存在だった。安藤選手は体調を崩していたのでメダルには届かないと思った。

素人の私の予想に反して、専門家の間では村主選手より荒川選手に期待する向きが多かった。特にアルベールビルオリンピックの銀メダリスト伊藤みどりさんなどは荒川選手に期待を込めて金メダルの予想をしていた。私はまさかと笑ってテレビを見ていたが、それが現実になったのだから驚きだった。

トリノオリンピックのショートプログラムで僅差の3位につけた荒川選手をプロスケーター佐野稔氏は銀メダル候補に上げた。優勝はスルツカヤ選手だった。氏は神業的な演技をしているスルツカヤ選手にミスは期待できないと言っていた。私の予想は優勝コーエン選手、銀スルツカヤ選手、銅荒川選手だった。何となく審判の採点がコーエン選手に甘く思えたからである。しかし、佐野稔氏はコーエン選手がフリー演技でミスをすることを知っていたのであろう。彼の予想ではコーエン選手は銅メダルだった。

フリー演技が始まると、コーエン選手は始めのジャンプで転倒し、その次のジャンプでも大きく体勢を崩して手をつき得点が伸びなかった。次に滑った荒川選手の演技は素晴しかった。水の流れのようなスケーティングは他の選手にないもので、その優雅な舞を見て、私は勝手に東洋的な美だと思った。しかし、そうではない。あの水の流れのような滑らかな滑りは他者の追随を許さない荒川選手自身の特質である。それはカタリナ・ビット選手が「カルメン」で見せたバレーに裏打ちされた美と異質な美だった。最近、日本スケート連盟のトップの公私混同したような杜撰な経営が問題になり、その責任をとって辞任した、元日本スケート連盟フィギュアスケート強化部長の城田憲子監督が、日刊スポーツの紙面で「彼女のようなスケーターはどこを探してもいない」と言っている。それほど荒川選手は他の選手にない特質をもった選手である。また、佐藤有香解説者はNHKの実況放送で荒川選手の終盤の滑りを「ショートプログラムのときの倍くらい良い伸びのスケートですね」と2006年3月6日、日本テレビでニコライ・モゾロフコーチは「彼女の滑りで良かったと思うのは、終盤でもエネルギッシュに滑っていたことなんです」と言っている。私はテレビを見ていて他の選手にないダイナミックな滑りだと思った。きっと、本番はテレビでは感じることのできない、鳥肌が立つような迫力に満ちた滑りだったと思う。荒川選手の滑った後の選手が、何故か小さく見えた。

彼女の優勝はコーエン選手、スルツカヤ選手のミスによるところが大きいが、2006年2月27日のテレビ朝日の放送、NBCフィギュア担当プロデューサー、アラン・ブラム氏は「何日も練習していましたからライバル達がどんな演技をするか、みんな分かっていました。荒川が凄い演技をしているので、自分達はミスが許されないと思ったのです」と言っている。その結果、スルツカヤ選手は荒川選手が気になり練習に集中できず、コーエン選手はフリースケーティング当日の六分間のウオームアップでジャンプに異変をきたした。そしてメダルに無欲な荒川選手に対し両選手は金メダルを求めて自滅したのである。

しかし、コーエン選手、スルツカヤ選手がプレッシャーを克服してノーミスの演技をしていたら、どちらかの選手が金メダルを獲得し、僅差で荒川選手は銀か銅メダルに終わり、それにもかかわらず、荒川選手の演技が一番美しく、優勝者より多くのスタンディング・オーベーションの拍手を浴びるという、奇妙な現象が生まれたかもしれない。また、世評は極めて気紛れなものでるから、あそこでイナバウアーをやらないで三回転ジャンプを一つ入れていたら金メダルがとれたのにと批判したかもしれない。それは兎も角、荒川選手の金メダルは芸術性に劣ると言われた、日本のフィギュアスケート界にとって、革命的な出来事ではなかったろうか。彼女は頑なに採点にならないイナバウアーを取り入れ、メダルにこだわることなく、三回転、三回転のコンビネーション・ジャンプを封印して美を求め、金メダルを獲得したのである。

西洋人のようにスタイルの良くない日本人は芸術性に劣り、その克服のため伊藤みどり選手のトリプルアクセルを始めとして、高度なジャンプ技術を生み出した。荒川選手は三回転、三回転のコンビネーション・ジャンプ、安藤選手はギネスブックにも載る女子世界初の四回転ジャンプ、浅田真央選手はフリー演技で二度、トリプルアクセルを決め、中野友加里選手もトリプルアクセルを決めている。恐らく、ジャンプの技術では日本が世界のトップを走っているだろう。それに加え日本の選手が長年抱き続けたコンプレックスを克服したのが、今回の荒川選手の優勝である。

それは芸術性でも日本人が西洋人と互角に戦える証であった。金メダルの荒川選手、銀メダルのコーエン選手、銅メダルのスルツカヤ選手、三人の中で一番スタイルが良く美しかったのは荒川選手だった。

私の世代は殆んどの日本人が胴長短足だった。それが西洋的な食生活に変わったせいか、この頃の若者は結構、手、足の長い人がいる。特にフィギュアスケートの選手は昔に比べ、スタイルが良くなった。技術、芸術性に優れた日本選手の出現は日本のフィギュアスケート界に新たな一ページを加え、柔道、レスリング、マラソン、体操、シンクロなどと肩を並べる、お家芸になるのではなかろうか。浅田真央選手を始め、優秀な若い選手が輩出しているので次回のバンクーバーも楽しみである。

荒川選手は競技以外の場面で色々なことを考えさせ、感動させた。2006年2月26日テレビ朝日で五才でスケートを始め、七才で長久保裕コーチの指導を受け、小学校六年生のとき始めて出場したジュニアの国際大会1994年3月(スロベニア)トリグラフ・トロフィー1位、1994年9月アルプス杯ネベルホーン・トロフィー1位、1994年全日本フィギュアスケート・ジュニア選手権1位、そして父親は一サラリーマンが、このレベルの選手を育てる経済的な大変さを語り、母親は色々なアルバイトを続けながら娘のコスチュームを自ら縫ったこと、普通の高校生のように遊びたかった時期、2004年4月早稲田大学教育学部社会学科に入学、2001年12月全日本フィギュアスケート選手権ソルトレイクシティオリンピック代表争い敗退、卒業論文「メディアとスポーツに関する考察」よるマスコミの克服、2004年3月27日(ドイツ・ドルトムント)世界フィギュアスケート選手権優勝等々が放映された。

その中で荒川選手が一足15万円もする履き潰されたスケート靴の山を見て「親不孝者だよね」と言い、放送の最後の方で「やりたいこともやらないで、買いたいものも買わないで、もう、全部私のために投資してくれて、これから一生かけて、両親が生きている間は、自分が支えていけたらと思いますね」と真剣な眼差しで言ったときは涙が出た。しかし、涙を流しただけで済まされる問題ではない。日々、値が変わるので正確な数字は分からないが、国には九百兆円以上の莫大な財政赤字があり、台所は火の車であるが、このような十年に一人出るか、出ないかの逸材に対して、国民はその家族に経済的負担が掛からないように税金で、きちんとした手当てをする必要がある。幾ら国が借金まみれだとはいえ、このような贅沢が国民にあっても良いではないか。そうでなければ寂しすぎる。世界中の人々が彼女の演技を見て感動し拍手喝采を送り、東洋の女神と讃えたのである。私も感動した。私は彼女の演技を見て、これほど大和撫子が美しく誇りに思えたことはない。

長久保裕コーチはテレビのインタービューに答えて「見たときですね、まず、並外れた運動能力っていうんですか、ダイヤはダイヤだったんだなっていう・・・要するに泥を払っただけで光り始めちゃったっていう感じですよね」と言っている。その主人公の荒川選手は無欲な選手で2004年の世界選手権で優勝したとき引退を決意する。彼女は記者や関係者に「次はトリノですね」と言われ戸惑い悩む。しかし、周りのものは誰一人彼女の引退を許さなかった。両親さえ「自分で決めなさい」といっても同意はしなかった。彼女は誰か一人でも同意していたら引退していたとあっさり言っている。その無欲さは奇妙を通り越して、滑稽にさえ思えた。世界選手権で優勝した選手に対して、誰が「あんた、もうこれ以上の演技はできないから引退した方がいい」などと言うだろうか。中にはお世辞で「次はトリノですね」と言う人がいても、そんな失礼なことを言う人は滅多にいない。

今回のトリノオリンピックは参加国、地域数80、参加人数2633人(男子1627人、女子1006人)、7競技84種目で行われた。メダルを獲得した選手は252人、金メダルに関していえば、たった84人の選手が獲得しただけである。残りの2381人の選手は参加することに意義のある選手だった。こうしてみるとメダルをとることが、どんなに大変なことか分かる。

多くのアスリートがメダルをとることよりも、オリンピックに参加することを夢見て、厳しい練習をし、国内大会を勝ち抜き、オリンピックの代表権を得ているのである。そのこと自信が名誉なことである。荒川選手には、その意識が欠落していたように思えてならない。周囲が見るほど自分の才能を信じていなかったとも言える。

また、中学三年間の私は一番になりたくないという時期、普通の高校生のように遊びたい時期、2001年12月全日本フィギュアスケート選手権ソルトレイクシティオリンピック代表争いのときはアルバイトをしていて、そのお店でヤクルトのぺタジーニやラミレスに会ったとか、等々は人間臭い弱さを感じさせる。村主選手のようなスケート一筋の良い子ではなく、案外、指導者泣かせの難しい選手だったのかもしれない。長久保コーチは2006年2月25日の日刊スポーツで「中学三年間の私は一番になりたくないという時期がなかったら、もっと、早く世界女王になっていた」と言っている。しかし、彼女の言動に感じられる何とも言えない奥の深い魅力は、その時期があってこそのものだろう。2006年2月27日テレビ朝日の「しーちゃん」荒川選手と安藤美姫選手の知られざる絆は荒川選手の誠実な人柄を窺わせた。

人間的な弱さを何処かに秘めた彼女であるが、彼女には他のアスリートにはない凄さがある。それは意を決して試合に臨んだときの凄さである。2004年の世界選手権では、この試合を自分のスケートの集大成と考え母をドイツに呼んで臨み優勝し、今回のオリンピックでは、その代表選考試合の日本選手権のときは、そんなに調子は良くなかったが、二ヶ月ほどの間に世界選手権で優勝した曲「トウーランドット」に変え、採点にならないと封印していた「イナバウアー」を演技に取り入れて臨み優勝した。

村主選手は努力の人、荒川選手は天才と言われる所以は、恐らく、この凄さにあるのだろう。彼女も人に見えないところで並外れた努力をしているだろうが、その努力の跡が中々見えてこない選手である。二ヶ月たらずの間に、どうしてあんなに変身したのか。驚きである。

良く荒川選手のライバルとして、村主選手が取り上げられる。過去には、そんな時期もあったかもしれない。しかし、荒川選手は女子マラソンの高橋尚子選手を一番尊敬するアスリートだと言っている。高橋選手はシドニーオリンピックの女子マラソンの金メダリストである。私はマラソンが一番好なスポーツである。マラソンレースは殆んど欠かさずテレビ中継を見る。彼女の出場したレースも何度も見た。彼女は2000年3月に行われたシドニーオリンピックの代表選考の名古屋国際女子マラソンでは右腕骨折、食中毒による入院等のアクシデント見舞われながら奇跡の優勝を遂げ、2000年9月のシドニーオリンピックで優勝、2001年9月のベルリンマラソンで世界新記録(当時)を達成、2002年11月の東京国際女子マラソンは肋骨の疲労骨折で欠場、2003年3月の世界陸上選手権パリ大会の女子マラソン代表入り断念、2003年11月のアテネオリンピック代表選考の東京国際女子マラソンレースで中間点でのスタミナ切れによるまさかの敗退、優勝エルフェネッシュ・アレム、2位高橋尚子2時間27分21秒でアテネ代表入りを逃す、2005年11月東京国際女子マラソンに右足筋膜炎の怪我を押して出場し、2時間24分39秒の好タイムで優勝、2位シビレ・バルシュナイテ、3位エルフェネッシュ・アレム、そして現在に至る。

こうして見ると、高橋選手は非常に怪我の多い選手である。その怪我を克服して奇跡とも思える優勝をするから、感動も大きい。それに何よりも感心することは、彼女のレースは勝っても負けても、ある種の爽やかさを残すことである。アテネ代表選考レースの東京国際女子マラソンでアレム選手の2位に敗れたときも「ガス欠しちゃった」とあっけらかんとしていた。彼女にとって、恐らく、マラソンレースはライバル選手との戦いではなく、自分の怪我との戦いだったのだろう。彼女には他のアスリートには余り感じられない、強い克己の世界がある。

荒川選手は高橋選手を尊敬する過程で、高橋選手の持っている克己の世界を学んだのではなかろうか。恐らく、スルツカヤ選手、コーエン選手、村主選手、安藤選手、等々の強敵を意識することなく、自分に打ち勝ち自分の演技に集中した結果の優勝である。

そのとき彼女ほど変化に富んだ豊かの表情を見せたアスリートも、また、いない。周囲の歓喜乱舞をよそに、ぎこちない笑みを浮かべ「ビックリのひと言、まさか、私が取れるとは思っていなかった。未だに、ちょっと信じられません」と言う彼女がテレビ画面に映し出された。そして、表彰台で金メダルを頂、何処かにはにかみを含んだような笑みを浮かべて観客に手を振り、静かに君が代を口ずさんだ。君が代が終わると、伏せ目がちに、じっと、金メダルを見つめた。

私には伏せ目がちに、じっと、金メダルを見つめる彼女の姿が印象的だった。あのとき、彼女は何を見つめていたのだろうか。それは彼女に聞いてみなければ分からない。ただ、何となく、私には、彼女はアスリートではなく、アーチストのように思われた。

私はDVDに撮った彼女のフリー演技を見るたび感動する。それは好きな音楽を飽きないで何度も聴くのと同じである。

 これは単なる私の推測であるが、あのとき、彼女はアスリートとしての自分ではなく、アーチストとしての自分を見つめていたのではなかろうか。そのひとつは敗者に対する慈しみの思いであり、もうひとつは十一歳の彼女がフィギュアスケートに抱いた思いである。

金メダル、銀メダル、銅メダルの差は、恐らく紙一重であった。八年前の長野オリンピックで荒川選手も自分の実力を出せないまま13位に終わった。オリンピックで普段の自分の実力を発揮することは非常に難しい。スルツカヤ選手は「エキシビジョンではジャンプの失敗なんてしない。でも試合では何が起きるか分からない」と言っている。荒川選手も毎日練習していた三回転、三回転のコンビネーション・ジャンプを跳ばなかった。

彼女は、もしかしたら、金メダルの向こうの自由な世界に、一人のアーチストとして、本当の演技を見つめていたのかもしれない。それは十一歳の彼女の思いにつながる。2006年2月27日テレビ朝日に十一歳の荒川選手が映し出された。普通の子供なら「オリンピックに出て金メダルを取りたい」とか「どんな色のメダルでもいいからメダルを取りたい」と言うのに、非凡な彼女は愛くるしい瞳を輝かせて「オリンピックに1位じゃなくても出て、結構、心に残るような、自分で満足する演技をしたいと思います」とインタービューに答えている。荒川選手のトリノオリンピックの金メダルは、この十一歳の無垢な少女の思いの結実であり、あの時、既に勝利の女神はオリンピックの金メダルを彼女に与えることを約束していたのではなかろうか。

 

  平成十八年六月七日(水)    了

 

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