私36歳。人生の後半に差し掛かった。何度も書いているが、私の人生の前半は世間基準、他人基準に合わせられない自分に悩んでばかりだった。それは精神分析学者カール・ユングの言葉を借りれば、利き手でない方の手でものを書き続けようとする感覚。
皆が出来ている事が出来ない、皆が楽しんでいる事が楽しめない。私の全ては「皆」が基準で、自分の本音は二の次。そもそも自分の本音についても考えた事がなかった。とにかく私は駄目な人間だという思いから抜け出せなかった。
そして今、人生の折り返し地点に来て思う事。もう世間基準、他人基準に振り回されない。自分の考え方や行動が、他人と違っている事に悩みたくない。
自分の欲求を最優先にする。誰に批判されようと、呆れられようと、馬鹿にされようと、自分の気持ちを大切にしたい。利き手を使って人生を描きたい。
残りは誰でもない「自分」として生きたい。自分が満足する生き方をしたい。我慢はしたくない。苦痛を感じながら、自分を無理やり変えるなんて事はしたくない。自制の努力はしたくない。短所の裏側にある長所に目を向けたい。
世間が「正しい」と言っている事でも、自分がそれに合わないのであれば、従わない。自分のやり方を見つけたい。メディアで嫌というほど目にする「常識」に関わるコラム。
結婚する為に必要な~、30代でするべき~、人に好かれる為に~。そんなメディアの言う事にいちいち頷かない。読むなら「暇つぶし」として。
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「あなたの為を思って」と直接言う人には近づきたくない。私は、あなたのその自己満足に付き合いたくない。その代わり私も他人に干渉はしない。頼まれない限りは、口はを挟まないようにする。
あなたの価値観と私の価値観、お互い理解できないのは当たり前。その代わり「そういう人もいるんだな」と存在を知っておく事は大切。そうして、お互いに良い距離感を保っていたい。
他人の人生は他人のもの、私の人生は私のもの。それは家族であっても。だから他人をコントロールしようとしてはいけない。他人にお節介は焼かないし、私も焼いて欲しくない。
今の私は残りの人生を「余生」だと思っている。36歳で余生だなんて早過ぎる?でも、5分後に死神が現れて死を宣告されるかもしれない。
誰でも死神とご対面する日が来る。目の前に死神が現れた時に初めて「ちょっと待って!私まだ他人の道しか歩んでないよ!」と気付いてももう遅い。死神は1秒だって待ってくれない。
死神とご対面した瞬間に私達は目の前が暗くなり、何も見えなくなり、何も聞こえなくなり、何も感じなくなり、そうして意識を失っていく。サヨナラ。
年齢なんて関係なく常に「余生」という感覚でいいと思う。死神に会うまでの余生なのに、自分を押さえ込んで苦しみながら世間に合わせるなんてバカバカしい。死神もきっと人間は愚かだと笑ってる。
「自分らしさ」という言葉はあまりにも月並みだけれど、行き着く先はやはりそこだと思う。
死神に会うまでの余生だから、やりたい事はやるし、やりたくない事はやらない。友人に誘われても気が乗らなければ断る。関係が壊れる事なんて心配しない。
自分に正直になる事で壊れてしまうような関係は、相手がこちらをコントロールしようとしているという事だ。そんな関係なら私の人生には必要無い。だって余生なのだから、もう面倒な人には関わりたくない。
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そうは言っても、自分の思い描く道だけを歩めるわけではないのが人生で、残念だけれど時には無理をしなければならない場面もある。けれど、そんな時でも常に「余生」という気持ちだけは忘れずに、我が道を自分で選んで進んで行きたい。
死神を常に意識している人ほど自分に正直に生きているな…という印象が私にはある。
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