あれから4回目の春。
ふるさとを離れ新たな土地で暮らす事を決めた夫婦がいます。
あの日津波で5人の家族を亡くし2人だけが残されました。
3人の子どもたちはまだ10代でした。
家族で暮らしていた大川地区は壊滅的な被害を受けました。
いつも家族の中心にいた子どもたち。
突然奪われた現実を前に夫婦の溝は深まっていきました。
幾度となく訪れた離婚の危機。
それでも2人は夫婦の絆をつなぎ止めてきました。
そして今子どもたちの記憶をつなぐため新たな命を授かりたいと願っています。
夫婦2人になって3年余り。
現実と向き合いながらどう生きていけばよいのか。
夫婦の日々の記録です。
全校児童108人のうち74人が犠牲となった石巻市立大川小学校。
私たちは震災直後ここで子どもを亡くしたという夫婦に出会いました。
(鈴の音)2人は津波で自宅を流され仮設住宅で暮らしていました。
もともと7人家族だった今野さん。
震災で浩行さんの両親そして3人の子どもを亡くしていました。
大川小学校の6年生だった大輔くん。
長女の麻里さんは高校3年生。
次女の理加さんは高校2年生でした。
震災前今野さん家族が暮らしていた大川地区は北上川沿いにありました。
河口から4km上流にあった大川小学校。
そこから更に1km上流に今野さんの自宅がありました。
あの日津波は川を遡り地区は壊滅。
大輔くんは小学校で被災し2人の娘と浩行さんの両親は自宅で被災したと見られています。
震災から1年がたったこの日ひとみさんは浩行さんを連れて地区の慰霊祭にやって来ました。
ひとみさんが手作りした3つの灯籠です。
「いつも明るく元気で」。
3人の子どもたちに生前毎日かけていた言葉を記しました。
はあ〜。
夫婦で一緒に子どもたちを供養したいというひとみさん。
その傍らで浩行さんは別の思いを抱いていました。
子どもたちに死をもってでも償おうとする浩行さん。
そこまで自分を責めるのには理由がありました。
震災の2日前大きな地震があったため浩行さんは家族会議を開きました。
その時過去の経験から地震が起きても津波はここまで来ないと子どもたちに話していたのです。
母として精いっぱいの供養をしたいというひとみさん。
一人で子どもたちの墓に通い続けていました。
この日は長女の麻里さんの誕生日。
二十歳になるはずの日でした。
成人式を楽しみにしていた麻里さんのために振り袖姿の写真を合成して作ってもらいました。
ひとみさんから子どもたちへのプレゼント。
月日とともに仮設住宅を埋め尽くすようになっていました。
しかし決して戻らない子どもたちに日々をささげる妻の姿は浩行さんにとって負担になっていました。
子どもを亡くした自分の責任を突きつけられる思いがしていたのです。
供養への思いが強いひとみさんにいらだつ浩行さん。
その隔たりは夫婦の危機にまで及びました。
2人が出会ったのは浩行さんが28歳ひとみさんが二十歳の時でした。
交際から1年後2人は結婚。
ひとみさんは大川地区の今野家に嫁ぎました。
2人が初めて授かったのは女の子でした。
麻里さんの誕生以来2人はおとうさんおかあさんと呼び合うようになりました。
その2年後には更に新しい家族が。
次女の理加さんが生まれると今野家は一層にぎやかになりました。
そして長男大輔くんの誕生。
今野家の跡継ぎとして厳しくも温かい目で育てていきました。
大きな病気やケガもなく成長していった子どもたち。
3人は家族の宝そのものでした。
夫婦の距離が縮まらない中ひとみさんは一人で大川小学校に足を運ぶ事が多くなっていました。
多くの児童が学校の管理下で亡くなったあの日。
大輔くんが残したという言葉がずっと気になっていたからです。
この目の前が校庭ですね。
地震発生後津波が来るまで50分近くもの間校庭にとどまっていたという子どもたち。
こっち側ですね。
その時の大輔くんの様子を助かった児童が教えてくれたのです。
息子たちはなぜ亡くなったのか。
その理由が分かれば死の責任を負い続ける夫の苦しみも和らぐのではないか。
そう考えていました。
お盆を迎えたこの日ひとみさんは浩行さんを連れて自宅があった跡地にやって来ました。
ひとみさんは自分から距離を置こうとする浩行さんを見守り続けていました。
自分にとってただ一人残った家族。
ひとみさんは一緒に生きていきたいと考えていました。
息子の大輔くんの誕生日です。
大輔くんが毎年楽しみにしていた誕生日ケーキ。
買ってきたのは浩行さんでした。
中学2年生になっていたはずの大輔くん。
消してフ〜ッて。
大輔くんを前に浩行さんは思いを語り始めました。
(取材者)生きてさえいてくれれば?そうそう。
生きたかった子どもたち。
浩行さんは「死にたい」と口にする事はなくなっていました。
そして共に生きようとしてくれた妻の存在にも気付き始めていました。
暮らしが失われたままの大川地区。
子どもを失い夫婦だけが残された遺族たちはこの先をどう生きていくのかそれぞれの決断を迫られていました。
この夫婦は大川小学校の3年生だった息子を亡くしました。
2人にとってたった一人の子ども。
50歳を過ぎた今家族が途絶えてしまう危機感を募らせていました。
震災から2年が過ぎた頃2人の仮設住宅には1足の小さな靴が置かれるようになりました。
夫と共に歩んでいくためにもう一度子どもを育てたい。
願いを込めてひとみさんが用意したものでした。
妻の願いに浩行さんも応えようとしていました。
子どもを授かる事ができれば亡くなった子どもたちの記憶をつないでいけるのではないかと考えていました。
それから3か月後。
40歳を過ぎたひとみさんは不妊治療を続け体外受精に踏み切りました。
妊娠しているかどうかその結果が翌日に分かる事になっていました。
まだビデオ回して。
アッハハハ…。
浩行さんはひとみさんの体を気遣い買い物や家事を手伝うようになっていました。
翌朝検査を受けるため病院に向かった2人。
3時間後。
ひとみさんの落ち込みぶりは浩行さんの想像以上でした。
ばあさんだった。
「どうだった?」って。
治療にかかった費用は70万円ほど。
治療を続けるかどうかひとみさんは悩んでいました。
ひとみさんは治療を中断し震災後に始めたホテルの仕事を再開しました。
一日8時間日々の仕事に没頭しようとしていました。
震災後3度目のお盆。
浩行さんがひとみさんを連れて自宅があった近くの川辺にやって来ました。
3人の子どもたちを送る灯籠。
今回初めて浩行さんが自ら作りました。
ひとみさんが何よりも大切にしてきた子どもたちの供養。
妻の気持ちに報いていく事が今の自分にできる事だと考えていました。
震災から3年を前に2人はある決断をしました。
大川小学校の事故の検証を求めて裁判所に訴える事にしたのです。
浩行さんは自分の責任を感じながらも真実を知りたいという妻と共に名前を連ねる事にしました。
(追悼のサイレン)東日本大震災から3年。
2人は大川小学校で祈りをささげました。
(サイレン)あの日の子どもたちを思う浩行さん。
黙とうが終わっても一人顔を上げる事はありませんでした。
今年4月。
2人は仮設住宅を出る事にしました。
部屋に入りきらなかった子どもたちの写真や遺品を収めてあげたいと自宅を再建したのです。
2人が暮らす事にしたのは大川地区からおよそ20km離れた高台の住宅街です。
子どもたちのために作った3列の棚です。
あの日大輔くんが背負っていたランドセル。
あの日理加さんが持っていた財布。
あの日麻里さんが着ていた体操着。
(子ども)ママちゃんと見てて!久しぶりに夫婦で外出したこの日。
遺族の友人とやって来たのはかつて子どもたちと遊びに来ていた自然公園でした。
目を向ける事ができなかった子どもたちの姿。
決して戻る事のない命…。
その現実を受け止め2人は踏み出す一歩を探し続けてきました。
あの日から3年余り。
子どもたちを思い今を生きようとする2人の姿です。
(梶田)僕が言ってるのは2014/06/03(火) 00:40〜01:25
NHK総合1・神戸
地方発 ドキュメンタリー「ふたり〜わが子を亡くした夫婦の歩み〜」[字]
津波で3人の子どもを失った夫婦。別れに衝撃を受けた2人は、それから何度も離婚を考えたが、いま、もう一度子どもを授かりたいと思い始めた。夫婦の歩みを見つめる。
詳細情報
番組内容
東日本大震災で3人の子どもを亡くした夫婦。長男は、児童74人が犠牲となった宮城・石巻の大川小学校に通っていた。家族を失った衝撃から夫婦には離婚の危機が何度も訪れたが、夫婦の絆はつなぎとめてきた。ふたりは亡くなった子どもたちの記憶をつなぐためにも、もう一度子どもを授かりたいと、わずかな可能性にかけて不妊治療にも取り組んできた。“ふたり家族”になって4年目、夫婦の歩みを見つめる。
出演者
【語り】木村多江
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
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