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『僕は友達が少ない』の見取り図のなにが悪いのか - 転々し、酩酊
『僕は友達が少ない』の図についての僕の考察記事は上記のリンクですが、
どうやらわかりにくいようなので、ざっとまとめる。
まず『僕は友達が少ない10』の例のページを読んでわかるとおり、小鷹は《位置関係はこんな感じだ←》と語っており、矢印の先には位置関係を示した図が挿入されている。
ということは小鷹はその図の存在を認識しているということだ。
ならばその図が小説内に挿入されるためには、(この文章を書いている)小鷹が文中に挿入するか、(作中の登場人物である)小鷹が作中で手に入れたり、自分で書いたりして、文中に挿入された図とまったく同じものを見ていなくてはならない。
だが、この図は小鷹が位置関係を見て抽象化したもの、つまり想像したものだ。
小説において語り手の想像というのは文章で表現されている。それ以外はありえない。
もし語り手の想像が文章以外で語られると、それはもはや小説ではない。
現実に生きる私たちは、基本的に自身があつかえる言語で思考している。それを文字という記号に置き換えたのが、現代小説におけるスタンダードな一人称の地の文、「意識の流れ」である。
だから、小説の一人称の語り手の場合、語り手の思考をトレースする形で読んでいる私たちは、文字以外のもの(絵や図)が出てくると驚く。普段、思考するときに図を思考することなんて滅多にないからだ。
もちろん図を想像することはある。もしかして、作中で小鷹が、俺は位置関係がどうなっているか図を想像してみた。と言って、小説に図が挿入されていれば違和感がなかったかもしれない。だが、その場合、図を想像する必然性がいるし、僕には必然性が思い浮かばない。
だからスマートに図を小説内に挿入するためには、小説自体を小鷹が書いたもの(つまり読者がいると想定している)とし、読者に向けた親切として挿入する*1。もしくは、小鷹が図を見る(=小鷹の思考をトレースしている私たちも図を見る)という形で、小説に挿入する。というようなことでなくてはいけない。
「小鷹が図を見る(=小鷹の思考をトレースしている私たちも図を見る)という形で、小説に挿入する」というのは変かと思われるかもしれないが、むしろ、語り手が見たものをいちいち語り手が描写する、というほうが変なのだ。
たとえば、
『私は二メートル先で地面にゆっくりと黄色いチョークで、おたんこなす、と書いている少女を見た。』
というような描写は小説でよくあると思うが、私たちはこういう思考をしているだろうか。いや、していないだろう。視覚情報は視覚情報として受け取っているはずだ。決して言語に置き換えはしない。
だからむしろ、一人称の語り手が見たものを見たまま小説に挿入するのは不自然なことではない。
以上を読んでもらうとわかるとおり、僕ははがないの図の挿入のされかたに違和感を持った。だが、多くの読者は違和感を持たなかったようである。それは、この問題の発端であるマッキー氏もそうである。マッキー氏は言葉で語れることを、なぜ図で語ったのか、という部分を問題としている。僕とは問題の捉えかたが違う。
先にも書いたが、語り手が見たものをいちいち語り手が描写する、というほうが変なので、見たものをそのまま挿入する、というのは僕は肯定的に捉える。
だが、今回のはがないの件は、見たものをそのまま挿入しているのではなく、一人称の語り手である小鷹が想像したものが挿入されている。これは問題だ。
そして、なぜ多くの読者がはがないの図に違和感を感じなかったのか、であるが、僕はこう推察する。
ライトノベルは挿絵というものがメタ的に、つまり作者や編集によって挿入されている。その挿絵は、ときおり一人称である語り手自身が描かれるときもあって、挿絵は語り手が見たものではない。
そのようなメタで読者は何度も何度も没入を阻害されていた。しかし、没入できなければおもしろく読めないので、読者は意識的か無意識的にかメタをメタだというふうに感じないよう自分を変えていったのだ。
だから、はがないの図もとてつもなくメタ的なものであるのに関わらず、読者はメタだとは思わなかった。違和感を感じなかったのだ。
異論は受けつけております。
*1:ミステリの場合はこれ。作者自身が出てくるとか、登場人物が書いているなど、読者に向けて書いている体をとっているので図を挿入しても違和感はない