僕は『僕は友達が少ない』を三巻ぐらいまでしか読んでなかったと思う。
うろ覚えで申しわけないが、はがないは小鷹の一人称だけど、書簡体や日記体ではなかったと思う。もしかして日記体などならば、教えてください。
というわけで、まず『僕は友達が少ない』は小鷹のスタンダードな一人称。つまり、語り手(=小鷹)がある地点(それは特定された未来かもしれないし、不特定の未来かもしれないし、語っているまさにそのときなのかもしれない)にいるということを前提にする。
その場合、『僕は友達が少ない10』の見取り図はおかしい。
ラノベのレベルが日に日に下がっていくの、耐えられないんだけど pic.twitter.com/431q4yOkuN
— マッキー氏 (@magic_mackee) 2014, 6月 7
《位置関係はこんな感じだ←》と矢印つきで小鷹が地の文で語っており、そして見取り図が貼りつけてある。ということは、小鷹はこの見取り図の存在を認識しており、なおかつ文中に挿入したということだ。
つまり、小鷹はこの文章を書いた、ということでなければおかしい。だがしかし、小鷹の語りは日記体などではなく、心情をそのまま書くというふつうの一人称だ。ならば、この見取り図を挿入したのはだれなのか(物理的には平坂読か編集だが、立前としてはだれか)。
ミステリではこういう見取り図はよくある、という意見があった。
しかし、ミステリではちゃんと見取り図を挿入するための手順がある。
見取り図を挿入できるのは、三人称で神の語り手(語り手が作者の場合も多い)や、日記体の場合などだ。ミステリは基本的には三人称だと思う(信頼できない語り手を登場させない)ので、図が挿入されても違和感がない。
なので、ミステリでは見取り図がオッケーなのだから、はがないでもオッケーという理屈は成り立たない。
『僕は友達が少ない』は所詮フィクションで、見取り図を小鷹が認識しているというメタなことをしても、読者はべつにフィクションということがわかっているのだから、どうでもいいじゃん、というスタンスならばそれでいい(いいか?)。
とはいえ、小説の作法を知っているのならば、こんなことはしないはずであり、たとえ平坂読が知らなかったとしても、編集が訂正するはずなのだ。
あと、終わりも「僕はとても悔」で終わっているらしく、もしかしてこれが演出じゃないとすれば、全体的に時間が足りなかったんだろうな、と思う。
追記
もしかして小鷹が書いたという設定なのだとしたら、見取り図の「小鷹」の部分は「俺」にするほうが親切だと思う。
追々記
ふつうの一人称でも図などを載せる方法はある。
小説に挿入された図と同じ図が作中に登場する場合。
俺は彼女が差し出した紙を受け取った。
(図)
どうやら地図のようだった。
「俺はこの場所に行けばいいんだな?」
や
俺はやっと見取り図を書き終えた。
(図)
「みんな、このとおりに坐ってくれ」
などならば、違和感がないと思う。
もしかしてはがないがこのように書かれているかもしれない。あの画像だけでは判断ができないので、読んだかた教えていただけるとありがたいです。
もうちょっとわかりやすくまとめた記事
なぜ皆は『僕は友達が少ない』の図に違和感を感じないのか/なぜ僕は違和感を感じるのか - 転々し、酩酊