2014-06-11
「LILIUM-リリウム 少女純潔歌劇-」分かったこと。分からないこと。ネタバレ。
今日もおつかれさまでした。
みなさんの書かれるリリウムの熱い感想ブログが面白すぎて、本日帰宅後、唸りっぱなしでした。
そう解釈されるのか、と膝を打つ思い。
ちなみにこちらでまとめられていらっしゃいますよ。「LILIUM-リリウム 少女純潔歌劇-」-解説・アフタートークショー・小ネタまとめ
ネタバレを含む感想をどう扱おうか悩んだものの、もうここまでネタバレが出ているのならば、公開で出しちゃっていいんじゃないかと半ば開き直りです。
それもどうかと思いつつ、でもあまりに面白くて、このお祭りにどうしても参加したくなりました。
というわけで、前回は、全くネタバレの無いリリウムを書きましたが、今回は観劇していて感じたことをそのまま書いています。ネタバレも含みます。
なお、観劇と感想を書くにあたっての状況は下記のとおりです。
・6/7夜に観劇しました。
・TRUMPは未見です。以下リリウムからの感想になりますので、背景等間違っていたらごめんなさい。
・もう一回観に行きたい! の前に、初見時に感じたことと次回への宿題探しを兼ねて。
基本的には、物語の流れに沿って特に印象深かったことを時系列順に書いています。
それでは、以下はネタバレになります。
暗闇に浮かびあがる百合の花とシルベチカ
物語の幕が開き、真っ暗だった舞台に光が刺すと、そこに広がる情景。それは息を飲むほどに美しい。
暗闇に浮かび上がる白い百合たち。
パンフレットを読んだところ、この演劇は、花言葉を大事にしているらしい。
百合の花言葉は純潔。開演し、物語の世界に光が差したとき、観客が初めて目にする景色は、既にその世界観を示しているわけですね。
そこに歌いながら出てくるのが小田さくらちゃん演じるシルベチカ。
最初が小田ちゃんの歌で始まるというのは、舞台初心者である娘。ヲタにとってはものすごい安心感がありました。
果たして、彼女たちが舞台女優、あるいはミュージカル女優として見たときにどうかっていうのは、正直分からないんですよ。
前の記事でも書いたんですが、あくまで絶対評価として「凄い」のであって同じような商業演劇や、あるいは女優さんたちと比較して「凄い」という評価はできない。
少なくとも観劇素人の私にはできないです。
だから、「ミュージカルの世界」における歌として、ハロプロが通用しているかは分からないです。少なくとも。
でもハロプロという世界におけるミュージカルであれば、これ以上ない安定なんですよね。
この始まりが小田ちゃんって、何気ないことのようでかなり重要なことです。彼女の歌で世界観を作っている。
だからこそ、観客としては安心して物語に入っていけるわけです。
竜胆と紫蘭
twitterだとファルス役の工藤、リリー役の鞘師、マリーゴールド役の田村が圧倒的に賞賛されている印象ですが、私個人的には竜胆役のふくちゃと紫蘭役のかにょんはかなり重要な役どころだと思います。
この世界観の理論そのものだといっていいと思います。
まず、ふたりのデュエット曲「繭期のティーチング」がものすごく重要で、この曲のふたりのパートで世界観のほとんどを説明しているといっても過言ではありません。
曲中は小田ちゃんがフリップを提示し、世界観の構築に一助するわけですが、はっきり言ってふたりの歌が客席に伝わらなければ終わりです。
この世界観を説明しないと、最後の「前提」の逆転というという物語に組み込まれた最大の仕掛けが利かなくなってしまう。
ふたりはポーカーフェイスでありながら、重要な仕掛け人でいなければならないのです。
ただ、ふたりともソツなく歌い上げるので、その凄さがいまいち伝わっていないようで、なんだか残念なのです。
それは、もちろん上に挙げた明らかに目立つ主役級の役どころではないわけですよ。
ただ、この世界観のロジックを握っているのは彼女たちですし、「真実を知りながらも(ただしイニシアチブを掌握されているので、どこまで自分の記憶として認知していて、どこからがTRUMPに消されて、あるいは書き換えられているのかは分からない)クランを守るためにTRUMPに強力することを決めた」というとても難しい役どころだと思います。
難しいのに、それをあえて演技には出せないわけですよ。なにも知らない振りをしなければならない。
末満さんがかにょんの説明に書いていた「器用貧乏」という言葉を思い出さずにはいられないところです……
ただ、ふたりの役柄にはそんな「器用貧乏」なんだけど「仲間思い」で、だからこそ「あえて知らん顔して悪役になる」かにょんの優しさや、「力を持っている」けれど、それを全面的には出さずに、ひたすら「御館様」を支える「縁の下の頑張り屋さん」のふくちゃんの強さがにじみ出ている気がして、実はすごく役柄と本人たちの適正を見ているんだなぁと思わずにはいられませんでした。
不思議とスマイレージとモーニング娘。'14というグループにおける、彼女たちの立場と重なって見えるんですよね。
まーちゃんがマーガレットを引き寄せたことへの期待感
正直私が一番にわくわくさせられたのは、やっぱりこの子だったと思います。まーちゃん。
それこそ、大げさに言えばガッツポーズで立ち上がりたくなるほどに(笑)
ああついにこの子は、こういう役柄を引き寄せるようなアイドル性を確立させつつあるのかと。
What is LOVE?あたりからまーちゃんの使い方がアイドルらしくなってきましたし、司会を務めたのハロ!ステを見ていても思うのですが、実は今の娘。には珍しい正統派アイドルも目指している子なのではないかと思うんですよね。この子。
ただ単純にスキルを求めているのではなくて、かわいくあろうとする。空気を読むし、それこそかなりきちんとしたセルフイメージをきちんと持っていると思います。
もっといえば、アーティストや歌手ではなく、「アイドル」になること、「アイドル」でいることを実は(道重リーダーを除くと)かなりしっかりと考えている子なのではないと思うわけです。
だからこそ、そういうまーちゃんにいよいよ「いかにもすぎる」役どころを引き寄せたというのが凄く面白かったし、これからがますます楽しみになりました。
「プリンセス・マーガレット」、名曲ですよね*1。
ところどころ語尾が上ずって疑問系になるのがすっごくかわいいんです。まーちゃんの歌い方によくあってます。
ちなみにまーどぅー視点で見るとこの劇わくわくしすぎてたまらないです(笑)
マーガレットのまーちゃんとファルスのどぅーですからね。
お互いに個性が際立ちすぎていて、全くかかわりの無いキャラクター同士なのに、まるでバチバチと火花が散るのが見えるようです(笑)
ファルス=TRUMPの種明かしによって物語の「前提」が「設定」になるカラクリ
クランというのは、不老不死、すなわち永遠に死ぬことのできないTRUMPが孤独で心をざわつかせることのないよう、血盟議会が作り上げた施設。
そうだとするのならば、物語の序盤で監督生である竜胆と紫蘭が教えていた「繭期」や「お薬」の説明は果たしてどこまで正しいのかという、物語の前提そのものが崩れ始めていくわけです。
このあたりが前半のふわふわとした「夢」と後半の「現実」との対比なのだと思いますが、1時間以上かけて作ってきた世界観と設定を一瞬して壊し、逆転させるというトリックはなかなか背筋が凍るものがあります。
そして、この前提の崩壊が起こったとき、それでは「現実」の意味でのこの世界におけるロジックを知っていたのは、果たして誰なのかという疑問が生じるんですよね。
物語の設定を語る竜胆と紫蘭でしょうか。確かに劇中でもファルスはこう述べていますし。
「ふたりは僕の考えを理解してくれ、協力してくれているのだ」と。既に300年も生きているのだと。
果たして「理解している」ことは何を示すのか。
というのも、このあとの展開で300年も生きて、ファルスの考えを理解していることは一瞬にして意味を成さなくなるから。
少女たちはどこまで知っていたのか。「知っている」ことは果たして何を意味するのか。
クランのなかの「真実」に気がつき、動揺するヴァンプたちに対してファルスが講じた手段は、彼女たちのイニシアチブを取り、全員の記憶を操作すること。
リリーとスノウを除く少女たちは、それまで起きていた惨劇を全く覚えていないかのように、いつものように動き始めます。
竜胆と紫蘭も薬を飲むよう、いつもどおりうら若きヴァンプたちに指導を始める。そこには、それまであった「現実」が忘れ去られ、「夢」が続く。
「理解している」ことを述べた直後でのこの「すべてがリセットされる」という光景の違和感ったら無かったですね。
結局、「理解」なんてTRUMPのイニシアチブを持ってすれば意味がなくなってしまう。
だからこそファルスの求めるものは、シルベチカを初めとした少女たちが求めものとは異なるんですよね。
私を「忘れないで」、つまり私がいなくとも思い出だけは残してほしいという不確かなものではないんです。
彼にとって思い出なんて意味がない。認識なんてイニシアチブでどうにもできてしまうから。
竜胆と紫蘭に対する「理解者」という言葉の寂しい響き。実際は、それすら彼の手のなか。
絶対者だからこその寂しさから、彼は解放されることがないわけで。
だからこそ、不老不死=もう一人の神の誕生という確実なものを求めるしかない。
永遠の「死」であるTRUMPと、一瞬の「生」を生きようとする少女たち
少女たちの儚さを表現していたのがたけちゃん演じるカトレアだと思います。常に「つまらない」と口にし、楽しいことを求めている。
それは、一見すると(ファルス、リリー、スノウ、マリーゴールドといった役どころと比較してしまえば)大きな意味を持ち得ないように見えますが、この演劇が「永遠の死」と「一瞬の生」をテーマとすると実は重要な役どころだと気がつかされます。
矛盾するようですが、私はカトレアの存在を、以下ふたつの意味で劇におけるキーパーソンだと捉えます。
(1)繭期の日常が大人へと移行していくなかでの「一時的な期間」と認識していることの象徴
(2)終わらない日常、永遠性の象徴
まず(1)ですが、これは説明するまでも無いのですが、「退屈ではない今とは違う世界」がどこかに存在するという希望があるからこその、「退屈な今」なわけですよね。
竜胆と紫蘭は言います、「このクランで繭期を過ごし、いつの日か立派なヴァンプになるために」と。
彼女たちにとって、繭期とは一時的なものであり、いつかは立派な「大人」になる。
そして(2)。これはファルスにイニシアチブをとられる前後で最も明確になる特徴です。
それまで耳につくほどに叫んでいた、「遊びましょう!」「鬼ごっこしましょう!」といった“退屈をしのぎ”の言葉が、夢の前提が崩壊した世界においては、意味が変わってくるわけです。
「遊びましょう!」というなんでもない、退屈しのぎの、維持知的な無垢な一言が「永遠に続いていく」という違和感を、私たちは身をもって感じることができる瞬間。
それが繭期という大人になるまでの一瞬を憂ていているのではなくて、彼女にとってはそれこそが生きることそのもの。
観客側に、クランの理論の崩壊をまざまざと突きつけるがゆえの、「日常性」の象徴となってくる。
物語の前半では「変わらぬ日常」をオーバーな動きで憂い、それがむしろ観客の笑いを誘うのですが、その笑いこそが後半の永続的な日常性を仕立てている。
あのたけちゃんの曇りなき無邪気さこそが、前半と後半で意味合いが大きく変わってくるこの物語、前提部分を実は支えているんですよね。
多くを語らずとも絶望を理解できる圧倒的なラスト
この舞台はなによりもうまいと思うのは、最後の「救いようの無い絶望」が言葉にしなくとも非常に分かりいいということです。
ファルスという永遠の死を生きるTRUMP=「悪」と、一瞬の生を求める少女たち=「善」という二項対立の構造において、最後にリリーは「永遠の繭期」=永遠の死という夢から覚め、一瞬でも自分の生を生きるために、仲間のイニシアチブを取り、次々と自殺させていきます。
それは一方で、永遠の死を生きる孤独がゆえに、同じように不老不死のヴァンプを作ろうとしていたTRUMPへの復讐であり、死ぬことによって自分たちの命を生きるという倒錯した価値観における出来事です。
この時点で、客席における私たちにとって舞台上は残酷極まりありません。
倒錯した世界における舞台上では、自ら死を選び永遠を捨てることは正義なのですが、若い少女たちが美しい自らの身体に躊躇無くナイフを突き立てていくその光景は、どう見ても狂気に満ち溢れています。
それでも、それが唯一の永遠に打ち勝つ「正しさ」なのだという認識があってこそ、死を受け入れるわけです。
しかし、天に召されていく少女たちのなかで、リリーだけは違います。「あなたは、私たちとは一緒に来られない」、仲間に告げられ目覚めたリリー。
確かにナイフは心臓を突き破ったはずなのに、まるで痛みすら感じない。
ファルスは孤独に耐えかね、繭期の少女たちに不老不死を授け、自分とともに永遠を生きさせようとした。
少女たちは、いや、リリーはそれを「悪」として、仲間を殺し自らも死を選ぼうとした。
そこには対ファルスという対立構造があるからこその選択であり、自らの死に疑問が無かったからこその覚悟であったはず。
だけど、何度ナイフを突き刺そうとも死ぬことが出来ない。薬を800年間にわたり飲み続けたリリーは既に不老不死のTRUMPになっていたから。
抗おうとした永遠の死に抗うすべはもう無い。友と生きようにも、仲間はすべてほかでもない自らの手で殺してしまった。
待ち受けるのは孤独で、永遠に死ぬことが出来ない、「永遠の死」という絶望。
言葉にするとこれだけ必要となる「救いようの無い残酷さ」を、鞘師演じるリリーは言葉にせずともやってしまうのです。
うら若き彼女の叫びと、痛々しいほどに心臓にナイフを突き立てるさまは、その光景だけで私たちに絶望を与えてくれます。
孤独な永遠を、自ら仲間を殺し、望まなくして選んでしまったヴァンプ。
このラストの光景が多くを語らないにも関わらず、観劇していて辛いほどに分かってしまうので、うまく出来ているとは思うんです。
なにより、鞘師の演技力と演出の賜物だと思うんですが。
ただし、分かりやすいからこそ逆に見えなくなっていることが多々あると思います。
一見分かりやすく「凄い」からこそ、見えにくくなってしまっていること、「凄い」に内在されてしまって議論にあがりにくくなっていることがあると思うのです。
そのなかで私が気になったのがこの点です。「なぜ誰も永遠を望まないのか」ということ。
誰一人永遠を望まないということ
実は観劇し終わってしばらく経ってから最も疑問に思ったのがこの「なぜ誰も永遠を望まないのか」ということでした。
TRUMPという永遠を生きられる可能性があるのならば、少なくともひとりくらいは、その永遠に逆に執着する子がいたっておかしくないと思うんですよね。
スノウがそういった思惑を一番に持っていたのではないかと想像しますが、そんな彼女も最後にはマリーゴールドの怨む気持ちを逆手にとって、自ら死を選んでしまうわけですし。
ただ、ここで永遠ではなく一瞬の「自分」を選ぶことこそが、実に少女らしいのだと受け止めることもできます。
それこそ純潔な少女の所以なのだと。なにも知らない、穢れ無き少女だからこその、残酷な正義感*2。
劇中でシルベチカによっても表現されます。現実に時が経ち、醜く老けてしまった自分を見せるくらいなら死を選ぶと。
このあたりも無垢な少女だからこその成立する世界ですよね。永遠よりも一瞬の美しさを望むといいうこと。
その儚さがファンタジックで美しいんですが、またどこまでも残酷。美しさにこだわるあまり死を選ぶ倒錯した価値観は背徳的ですらあります。
そしてこの残酷な正義感こそが、実は何よりも怖いと私は思います。
もし、この展開をもしリリーが予想していたのなら、彼女は果たして同じように仲間をイニシアチブを掌握したでしょうか。
無垢だからこそ、自分こそが正しいのだと過信し、狂気すらまとっていったこと。
それは、ファルスと同じ孤独なTRUMPになってしまったという絶望と同じくらい恐ろしいことだと思うのです。
ファルスの「貧血」の意味は?
最後に。劇中何度か貧血の様子(振りを含む)を見せるファルスですが、一体これは何の伏線なのかと。
これが毎晩自分の血から薬を作っているからこそ、血が足りていないという表現ならばあまりに短絡的だとは思うのですが。
実はそれ以外の結び付け方が思いつかないのです。というかそもそもヴァンパイアって貧血になるんでしょうか。あれ、貧血だから人の血を求めるのかしら……
これだけ壮大な世界観を作り上げているので、こんな短絡的ではない意味があると思うのですが、分かりません。
これは次に見に行くときの宿題でもあります*3。
*1:ただのいしよしヲタの私ですが、最近のまーちゃんは一時期の梨華ちゃんをすっごく彷彿とさせるんですよ。いよいよザ・アイドルの様相を呈してきたところ、空気が読めないようでいて実は仕事に真面目で負けず嫌いなところ。リリウムで与えられたこの曲、それこそカントリー娘。に石川梨華(モーニング娘。)の「はじめてのハッピーバースデイ!」や彼女のソロ曲「理解して!>女の子」みたいな空気を感じたんですよね。これらの曲が、当時正統派アイドルだった梨華ちゃんだからこそ集まってきたように、「まーちゃんだからこそ」っていう。それは他ならないまーちゃんだから、この曲が生まれたんだろうなって。そこに凄く熱くなりました。わくわくしました。まーどぅーがふたりともリリウムでそういった「まーちゃんだからこそ」、「どぅーだからこそ」に巡り合えていて、まーどぅー好きとしては見逃せませんでした(笑)
*2:ただ、もっと正確にいえば、少女たちの死を望んだのは他でもないリリーであって、本当に殺された少女たちが死を望んでいたのかは分からないんですよね。ただ、ファルスから永遠に生き続けるという現実を知らされたときの彼女たちの狂気や、シルベチカの生き様(自ら死を選ぶ)を見ていると、やはり永遠を望みはしないのではないかという気がしますが。
*3:感想ブログを拝見したところ、どうやらこの点がTRUMPとLILIUMを結びつける接点のひとつのようですね。