「命のビザ:杉原千畝編」
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埋もれた功績
時空伝がまだ第二部書いていない中、少し偉人伝を復活します。
アンネの日記の本が各地で破られた悲しい事件があった事から、ユダヤ人の悲劇について考えてみると日本には大きく人道に尽くした埋もれた偉人が浮かび上がってきます。
ナチスからユダヤ人を救った功績で世界中から賞賛され、ユダヤのゴールデンブックにも最上位クラスに記されている陸軍人の樋口季一郎(ひぐち きいちろう)と杉原千畝(すぎはら ちうね)も双方同様に人道上人類史において評価されるべき行動でありますが、双方ともこれだけの功績にも関わらずしっかり語られてきているとは程遠く、どちらかというと杉原千畝の方が多くの比重で語られています。
世界から2人は「日本のシンドラー」と呼ばれていますが、樋口季一郎がより語られていない理由は彼が軍人だった事での軍人美化は戦後のタブーとされている側面からの影響は少なくないと思われます。
樋口はユダヤ人を数万人も救い、終戦時武装解除された中でのソ連の北からの不当な侵攻に立ち向かい北海道を死守した日本からすると英雄なはずですが、ソ連からは恨まれ東京裁判で戦犯にされそうになります。
しかし、ユダヤ人の恩返しのロビー活動により助けられ、ポーランドやユダヤ組織からは偉人として語り継がれている中、日本からは現在まで一切の功績が称えられる授章などはありません。
樋口季一郎の功績は以前に児玉源太郎偉人伝で詳しく書いていますので、ここまでとして、今回は杉原千畝の功績を少し紹介します。
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した事から始まった第二次世界大戦。
その時代にリトアニアの日本領事館の領事代理だった杉原千畝による「命のビザ」発給は有名な話であります。(現在日本の教科書でも紹介している所も出てきております。)
「命のビザ」について少し話させて頂きます。
1940年(昭和15年)、ドイツ占領下のポーランドから逃げてきたユダヤ系難民はポーランドと接しているリトアニアへ大量に押し寄せました。
しかしリトアニアはソ連に占領され、ソ連は各国の大使館や領事館を閉鎖させます。
そのような中、日本領事館はギリギリまで業務を続けていました。
そのリトアニアの領事をしていたのが杉原でした。
杉原のいたリトアニアのカウナスという地は日本人は一人もいない地です。
そこにいる理由はドイツとソ連の情報を得る理由もあり、当時日本随一のロシア通の杉原が赴任していました。
杉原のロシア語は隣の部屋から聞こえた時にロシア人同士の会話だと誰もが思ったほど堪能で、ロシア語だけでなく、英語・フランス語・ドイツ語などを巧みに使いこなしており、外交官であると同時の近隣各国の諜報機関や勢力などから水面下で情報も得て、亡命してきたポーランドの諜報機関ともパイプが深く、表の外交官として外務省と連絡を取る事と別に陸軍参謀本部にもドイツとソ連の衝突間近などを報告していた裏の面もあります。
ドイツの諜報機関が国境付近でピクニックだと言っていた杉原に不審を抱いて目をつけており、日本・満州国・ポーランドとの繋がっている事を突き止めた記録がある事からも間違いなさそうです。
そのような中、ユダヤ人が迫害に遭っている惨状も熟知していました。
そして杉原の領事館の前に日本領事館を最後の頼りにしたユダヤ系難民が殺到し始めます。
服装は必死に逃げてきた事からボロボロな老若男女が柵の前に集まり助けを求めています。
難民の中には大人だけでなく、弱り切っている子供も少なくありませんでした。
杉原の日本人の中に染み付く弱い者を助ける心が全ての足枷を上回る決意をします。
ビザの発給対象がパスポート以外でも形式を問わず、領事が最適当とみなして独断でビザを発給し続けました。
結果を知る人が見れば当たり前に思うかも知れませんが、究極の有事になった時は、大きく2つの意見が衝突するはずです。
人が都合で作った決まりより本来人間に備わっているべき人道が優先順位が上だと思うタイプと決まりや規律を重視する考えの2つです。
これは人間の資質と信念に繋がる事で、どちらの言い分も譲らない面も考えられます。
戦中も戦後も杉原の行動に対して認める認めないは日本国内でも意見が分かれます。
大局をどこで見るかで決まるのです。
人道と言う点を大局と見るか、日本の敗北とその先の悲劇を回避する為に強い側につかなければならないとする大局の違いです。
以前日本の領海に侵入してきた中国船が海上保安庁の船に体当たりして来た事の映像を、公開した事で賛否両論が出た事と全く同じ事です。
物事の道理や正しい事と国益のどちらを優先するかの問題です。
杉原は約6000人のユダヤ系ポーランド人、リトアニア人にビザの発給などをして、ナチスの迫害に遭った多くのユダヤ人をシベリア鉄道でウラジオストク経由で脱出させました。
条件の遥か及ばない条件の難民を日本国内に大量に送り込んできた事に人道上と言えども現地の惨状を見ていない者からすると理解されない事でもありました。
この時期は日独伊三国同盟の締結間近の国難の瀬戸際と思われている時期でもあり、ソ連からはコミンテルンの勢力や満州や中華民国でも困難を極め、更に一番の問題でもあるアメリカとの関係修復も打つ手が無い状況下でした。
当時圧倒的強さを誇っていたドイツの存在は日本を守るためには無視できない存在でもあったのです。
これは、日独伊三国同盟が日米開戦に繋がったとする意見もありますが、それは結果を知っている現代人が後出しジャンケンの如く判断するのはフェアではなく、結果を知らない当時の人がその背景の中で悩み、議論をして決断したという事で歴史は見なければ事態や困難は正確には見えてきません。
外務省は杉原の行動を反対していたのも事実で、本気で非難する者も戦後でもいたのは事実でありますが、当時の外務大臣の松岡洋右の行動から見えるものもあります。
松岡は、公的な立場で日独の同盟を進める立場であり、杉原にビザ発給条件について厳守を言い渡していますが、陰で難民の対応に奔走していたユダヤ支援者の小辻節三から難民の惨状を聞き、「難民が入国するまでは外務省管轄だが、入国したら内務省に管轄が変わる。そして、滞在延期は各地の責任者の権限に委ねられている。」と教えたのは松岡でもあります。
表向き非難してもそれが全てではない面もあり、松岡外務大臣は立場上で出来る範囲の事をしていた形跡があります。
更に杉原は、理解の得られない外務省相手に頭脳で勝負します。
発給条件に満たない者を大量に脱出させている事を問題視する指示に反論するとビザが無効にされる事も考えられるため、工業家(十分な所持金もありアメリカへの入国も確実な人達)に確認するなどと言ってまるで気づかないでいる事を装い、あらゆる時間稼ぎをしながら次々にビザを発給して脱出させます。
その間、ペンを離す事のなかった杉原の腕は限界を超えており、動かなくなっては夜中に妻のマッサージで回復させながらひたすらビザを発給し続けます。
命がそれだけ救えるからです。
他国の領事館などはとっくに退去している中、ソ連の再三の退去命令も厳しさを増す中、ベルリンへの異動命令が無視できない程限界にも達しており、1か月以上寝る間も惜しんでビザを発給しつけましたが、いよいよ時間稼ぎも誤魔化しも限界に達します。
杉原はカウナスを出なければならなくなりますが、列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けました。
車窓から渡されたビザも書き続け、汽車が走り出し、杉原は「許してください。もう書く事が出来ません。皆さんのご無事をお祈りしています。」と頭を下げました。
駅にいた難民から「スギハラ、私たちはこのご恩を忘れない。そしてもう一度会いに行きます。」と叫ぶ声と感謝で泣きながら列車を追いかける人達など見えなくなるまで杉原を見送ったそうです。
記録に残されているビザだけで2000を超え、しかも作業を優先して途中から数の記録をやめていますので記録外の数は判明しませんが、一家族で1枚で済んでいた為に6000人とされているより多いとも考えられもします。
わざと時間稼ぎしてしていた本国への発給条件についての回答は公使館を閉鎖した後に送っていました。
杉原の行動はロシアからの退去命令の圧力、ドイツからはユダヤ人救出への敵視、更に日本国内からも間近に日独伊三国同盟が控えている中で表だっての協力は得られないという八方ふさがりの難局の中で行っていたという点です。
ドイツからは杉原はユダヤ人救出した事で強い反感を持たれていました。
当時の状況下で想像すると杉原の行動は自身の保身を捨てたと言う程度の軽い行動とは違います。
当時の背景から杉原の行動によって本人がどういう目に遭うかのリスクが考えられたかと見てみると、実際の歴史の結末と違いますが、当時圧倒的の力を誇っていたドイツに恨まれる事はドイツの協力で仮に日本側の勝利で終わったとしたならば重罪、反対にドイツの協力を得られずに敗北すると日本政府からは責任を追及され、共に死にも値する罪になる事も考えられたかも知れません。
それだけの覚悟があったと言えます。
更に間近で情報戦の真っただ中にいた杉原はドイツとソ連の開戦が近いと知っており、本国へも伝えていましたが、国内はアメリカとの激突回避に向けての議論と戦略でヨーロッパの状況は後回しにされていた点と日本陸海軍は都合のいいようにドイツとソ連は開戦しないはずだと決めつけていたような面もあります。
ポーランド政府はこの時の感謝として1996年、杉原千畝の功績を称え、功労勲章コマンダー十字章を授与しました。(樋口季一郎も授与されています)
1968年(昭和43年)にイスラエル参事官が杉原と会いました。
その参事官は28年前にカウナスで杉原のビザを受給して助けられた人で杉原のカウナスを去る列車に向かって「もう一度あなたに御礼を言いに会いに行きます。」と叫んでいた当時の青年でした。
二人は涙を流して固い握手をしたのです。
その翌年(昭和44年)、杉原のビザで助けられた一人でもあり、イスラエルで大臣となっていたバルハフティクは、杉原と再会します。
そして彼は過去の記録を閲覧できるようになった事で初めて杉原が日本の決まりと指示やソ連からの退去命令に背いてビザを発給していた事を知りました。
更に杉原が1947年に外務省を退職通告書が届いた事によって依願退職していた事とその経緯を知り、「日本政府は20年前から杉原の名誉を称えてほしいと頼んでいるが何もしてくれていない。」と語りました。
ドイツ人のジャーナリストもこの事について「戦後日本の外務省はなぜ杉原のような外交官を表彰せずに追放してしまったのか?なぜ他では存在しないような彼の功績を教科書で手本にしていないのか?なぜ劇作家はドラマにしないのか?なぜ新聞もTVも取り上げないのか?」と抗議しています。
他にも杉原のビザによってカウナスからアメリカに渡ったゼル氏は、杉原の外務省をクビになった事を知って憤慨し、病気になっていたにも関わらず「外務省に抗議する」との手紙を杉原の元に送っています。
戦中の日本人の行動の美化は全て否定されてしまうGHQによる占領下によって卑屈にされた、なったなどの敗戦国の悲しさの面もあります。
更に外務省内に杉原の事を「政府に逆らったのだから国賊であり、許されない事だ」「ユダヤ人に金をもらってやったのだから金には困らないだろう。」との意見も根強くあったのです。
またカナウスの現地で一緒だったはずの唯一の家族以外の居合わせていたはずの同僚もメディアでは杉原の命のビザの話には口を閉ざして名誉回復に動くことは無かったそうです。
それらの内外の影響から杉原千畝の人道の功績は目立たなくされてしまっているのかも知れません。
また杉原が外務省を追放したのではなく、当時の各省庁の大規模な縮小策によるリストラの一環で1/3が退職した一環だとの意見も聞きますが、第一級のソ連通の杉原をシベリア抑留のまだ続くソ連との戦略的な関わりの重要性を考えると1/3に入るなど在り得ない事でもあります。
また国内の政治学者の一人である小室氏は、「この事は人道的立場からやむを得ざる訓令違反であり、失策ではない。杉原元領事は戦後直ちに呼び戻すべきであったし、日本外務省は日本の戦後の外交的立場を大きく高める絶好のチャンスを無くした。」と杉原に対する免職を批判しました。
訓令違反と数千人の命がどちらが大切な事なのか人間の根底が見える出来事であったと言えます。
当時の杉原の人柄を知る親しい人は「わかる人だけがわかってくれればいいと言い訳も言わない人だった」と語っています。
ビザの発給を受けた人は「私たちユダヤ人がかつて歩んだ暗い道の中で杉原さんの星だけが輝いていた。」との言葉を残しています。
杉原は自らのした事を認めて欲しいなどと思ってはいなかった。
生前彼は「当たり前の事をしただけだ。」「新聞やTVで騒がれるような事などしていない。」と言っていました。
「杉原千畝編 完」 |
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