好きなことを真剣に突き詰めていくとキャリアになっていく。

NHK 『あまちゃん』 音楽担当大友良英氏

03旅路人生篇

 師匠のもとを飛び出したことを契機にギターはいったんやめ、もともと自分の原点とも言える電気楽器を使った「ノイズミュージック」を追究し始める大友氏。アルバイトをやりながら、ずっと好きな音楽をやれればと思っていたのが、海外から声がかかって年の3分の1は海外ツアーという生活に。「食えなくてもやっていく」気持ちが揺らぐことがなかった「音楽」は、大友氏の思いに応えてキャリアを築いていった。

ギターはいったんやめて「電気楽器」でライブ。
バイトをしながら、好きな音楽をやれればいいやって。

  高柳さんに隠れてコソコソとライブをやっていたのが、ジャズ雑誌のライブ評に載ってバレまして。僕も素直に謝ればいいのに、突っ張りまくっちゃって、ああ言えばこう言うの大げんかに。高柳さんのことを大好きなのに、もう会うとけんかになるからいられなくなって飛び出しちゃいました。
 飛び出したときは、もうギターは無理だと思いました。師匠への反発もあって別の方法でやりたいってのもあったんだと思います。ターンテーブルとかいろんな電気楽器はもともとやってたんで、そっちでライブをするようになりました。ライブをやっても持ち出し(余分にかかった費用を自分で負担する)に近いから、普段はアルバイトをしてました。当時の80年代後半はバブル景気で、『アルバイトニュース』(anの前身)も分厚くて、バイトはいっぱいありましたよ。
 カセットテープ工場で、バームクーヘンみたいなやつに録音してテープを作ったり、社交ダンス用の特殊な床を張ったり。音楽とは関係のない雑誌のライターとか、塾の先生も。
 月の半分働いて20万くらいになってましたね。ライブをやっても演奏者は3人で、見る人も3人みたいな特殊な音楽で儲かるとは思えないから、月の半分だけ働いて好きな音楽をやれればいいやって。

ヨーロッパをはじめ海外をツアーで周り、
1年の3分の2くらいは自分の家にいなかった。

 初めてバイトをしなくてよかった年が92年、33歳のときだったと思います。僕は「ノイズミュージック」と、フリージャズの文脈で即興演奏と呼ばれる「インプロバイズド・ミュージック」っていう、両方のジャンルを股にかけてました。海外では「ジャパノイズ」なんて言葉もあるくらいで、日本のアンダーグラウンドシーンはおもしろいって評判も立つようになって、ポツポツ仕事が来るようになったんです。国際電話も高いから、手紙でやりとりしたりして。
 最初は香港で、次いでオーストラリア、ヨーロッパ、アメリカってコンサートをやって。
92年頃には、1年のうち3分の1くらいは海外をツアーしてましたね。ほんと急に名前が出だして。
 その頃、僕はメジャーな会社ともつながりがなかったんです。だから海外のプロモーターは口コミで、日本では独自に評判が出てきて、90年代に入ると「新宿ピットイン」を、そこそこ満員にできるようになってました。
 最初から音楽で食えないのはわかってましたから、どんなに食えなくても音楽をやっていく気持ちは、20代の頃から一度も揺らがなかったです。だから海外に行くようになり、ギリギリとはいえバイトをしないで食っていけるようになったときは本当にうれしかったですね。
 海外と日本国内を渡り歩いて、1年の3分の2くらいは自分の家にいなかったかな。そのころ、香港から田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)という中国の大物監督の映画音楽をやらないかって、ファックスが来たんです。映画の音楽はすごくやりたかったから、チャンスに飛びつきました。
 その『青い凧』って映画が、政府から中国国内での製作を禁止されたいわく付きで。そのせいで、『青い凧』が出品されたカンヌ映画祭を、中国政府がボイコットしたんです。それでスキャンダルになり、世界中の新聞に載って、日本の新聞にも載って。東京国際映画祭で賞も獲ったから、日本でも映画の仕事が来るかもって思ったんですけど、しばらく来なかったですね(笑)。その後、93年から97年までの間に、中国と香港で映画音楽を7本作りましたね。
 ちょうど中国の映画が終わった97年、入れ替わるように日本の映画とテレビドラマの音楽の依頼がほぼ同時に来たんです。

 中国映画『青い凧』の映画音楽を製作後、97年までに7本の映画を担当して「映画音楽家」としてのキャリアを積んでいった大友氏。日本で映画・テレビの音楽の仕事が来たのは、それぞれ意外な相手からだった。以降『あまちゃん』を含め、70本の映画・テレビの音楽を手がけた大友氏が語る「劇伴(劇中音楽)」の魅力とは。


  1. 01 職人矜持篇
  2. 02 音楽原点篇
  3. 03 旅路人生篇
  4. 04 制約歓迎篇

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