矢野久美子
ユダヤ人の運命はまったく偶然でも特別でもなく、逆に社会の状態を正確に反映し、その構造のひび割れを具体的なおそろしい現実として示す正確なモデルとなっていることが、明白だったのだ。
(ハンナ・アーレント『ラーエル・ファルンハーゲン』大島かおり訳、みすず書房)
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東日本大震災の年に入学式が中止となり、不規則なかたちで新生活を始めた学生たちが、卒業年度を迎えた。ゼミの集まりなどで、あの日のそれぞれの経験、感じたこと、今思うことなどを、語りあうことがある。大学は、これからの社会で生きる力を与えることができただろうか。原発をはじめとする諸問題と向き合い、批判的な意識をつちかった学生たちが、就職面接などで苦労することは少なくない。そのとき、彼女たちは感じている。「やっぱり考えてほしくないのだな」と。
日本社会のひび割れた構造は、3.11以後、ますます明らかになっている。今こそそれぞれの場で語り合い、知恵を出し合わなければならないと思う。しかし、学生たちが出てゆく社会では、考えることさえ勇気を必要とするところにまできているのだ。
冒頭の言葉は、18世紀のベルリンに生まれたユダヤ女性、ラーエル・ファルンハーゲンについてアーレントが書いた、ある伝記のなかの一文である。ラーエルは、ユダヤ女性として生まれたことに苦しみ、ドイツ社会への同化を望み、ドイツ人であるファルンハーゲンと結婚した。しかし、彼女は考えること、「物語る」ことを手放すことができず、「成り上がり者」になるか「賤民」として生きるかで苦悩する。その結果、近代社会に吹き上がるユダヤ人排斥の嵐のなかで「賤民であること=社会の外の存在であること」をあらためて自分に課したのだった。
アーレントによれば、「成り上がり者」は体制内の上昇・出世を望み、現状の変革を望むことはなく、「自分自身以外のことに関心をもつ能力」を失う。「ほんのわずかの失敗にもたちまちもとの社会的虚無の奈落へと突きおとされて、みじめったらしい成功崇拝へしがみつかざるをえない」。そうした「成り上がり者」の社会に同一化するならば、考えることは放棄せざるをえなくなる。
それに対して社会から追放されている「賤民」には、厳しい生存条件の傍らで、「生を全体として眺める展望」や「人間の尊厳、人間の顔への敬意」をもつ可能性が開かれる。傷つき、感じ、考えることで、より多くの現実を手にすることができる。ラーエルは、「真のリアリティ」を生きる誇りを選んだ。
「成り上がり者」と「賤民」という二者択一は、極端に見えるかもしれない。けれど、「ひび割れ」を見るか見ないか、見ることを生きるか否か、という問いを立てるとき、やはりひとは選んでいるのだ。苦しいなかでより多く生きる勇気、その勇気を支える勇気を一つずつ増やしていくこと、そのことの価値を伝えていきたい。
(やの くみこ・思想史研究者)