聞き手・木村司
2014年6月11日02時33分
■わたしと沖縄戦:上
来年は戦後70年。そう聞くと、わたしは、那覇市で暮らす祖父の言葉を思い浮かべます。
「生き残っているのが申し訳ない」
1945年3月末、祖父のふるさと、慶良間(けらま)諸島・慶留間(げるま)島に米軍が上陸した。当時15歳だった祖父はそこで三つ上の姉の首をしめかかった。ヤシの葉をひも代わりに自分の首をしめもした。米軍に捕まる前に死ななければいけない、と。
沖縄戦の体験を一度だけ話してくれた祖父。この70年、どんな思いで過ごしてきたんだろう。ずっと罪悪感、傷を抱えたまま。どれだけ苦しんできたんだろう。祖父を通じて感じ取れる痛みが、わたしが唯一感じ取れる戦争の事実。その痛みがわたしにとっての沖縄戦なんだと思う。(聞き手・木村司)
◇
那覇市で生まれ、高校卒業まで過ごしました。戦没者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」や、たくさんの女学生が亡くなった「ひめゆりの塔」など、本島南部の戦跡には小さいころから親に連れられて行きました。
学校でも沖縄戦のことは身近でした。6月23日の慰霊の日が近づくと、校内で写真展がある。「白旗の少女」や、ぼろぼろの着物をきた老婆がガマからでてくる姿。遺体が折り重なった写真。本当に衝撃で、夜になるのが怖くなってしまうほどでした。
でも、近くで暮らす祖父の戦争体験は知りませんでした。学校で沖縄戦のことを知り、祖父にも聞きたかったけど、切り出せなかったんです。家庭で戦争の話がでそうになると、祖父はきまって席を外し、どこかへいってしまう。そんな姿を見て、口に出してはいけない話題なんだ、と感じていました。
初めて体験を聞く機会がおとずれたのは上京して7年ほどたった2007年。沖縄戦の集団自決をめぐる歴史教科書の記述が問題になっているときでした。
ニュース番組のリポーターをしていて、ディレクターの何げない提案をうけて祖父に話を聞かせてほしいと頼むと、引き受けてくれたのです。
祖父のふるさと、慶留間島に初めて渡り、15歳のときの体験を聞きました。
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朝日新聞社会部
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