現代の河原者であり続ける
ーー でも80年代後半から90年代という、バブルとその後の時代がありましたよね。その頃はどう過ごしてこられたのか。
つらかったですよね。その時はね。劇場では、野田秀樹さんや鴻上尚史さんが活躍されて、小劇場ブームと言われていました。
ーー 当時は、興行主が、どこかに若くていきのいい劇団がいないかと探していたような時代だったんですよね?
そうですね。そういう話もきたりしましたね。でも、そういうのがやりたいわけじゃないから。
95年ぐらいかな、演劇批評家の松井憲太郎さんが、新宿梁山泊とうちを見比べて、まったく違うと言われたんです。新宿梁山泊は唐十郎の系譜にある劇団なんですが、洗練された都市型のエンターテインメントに昇華していくだろう。一方で、水族館劇場は「わけがわからん」と。もしかしたらこの集団は演劇ではなくて、大いなる放浪芸的なもののほうに可能性があるのかもしれない。
そう言われた時に、なるほどなと思いました。と言うのは、お芝居の上手い下手ということに、ぼくはあんまり興味がないんです。リアリティーということには興味があるんですけど。だから今回もものすごく下手な人というか、素人も出ます。たとえば、大島渚は主演に素人を使ったでしょう。あれはすごくよくわかります。やっぱり、おもしろくないんです、プロの俳優は。
それに、歌えて踊れてダンスができてっていうことをやろうとしたって、それは劇団四季にはかないません。スタイルがよくて、歌の才能があって、踊りも踊れる人が一日何時間も訓練してるわけだから。一糸乱れぬパフォーマンスをやるよりも、バラバラのものをやったほうがいい。
ーー 出る人によって桃山さんの書くものも変わりますか。それとも自分のなかに書きたいものがある?
ぼくは全部当て書きですから。どの人がいるかで変わります。自分のなかに書きたいものなんて、ないと言えば嘘だけど、基本的にはないと自分では思っています。自分の書く台本は、集団を束ねていくための接着剤だとしか思ってない。一人ひとりみんな技を持ってるから、ダメなところも含めてね、そういう個性を生かすことしか考えてないです。だから発声練習もしない。いろんなことを訓練すると、慣れてきちゃうんですよ。レベルの低い人は上がるかもしれないけど、だいたいみんな似たようになっちゃう。6点とか7点の人ばっかりいても、おもしろくないでしょ。
ーー 突出する人がいなくなりますか?
うーん、いなくなるのかな、どうなんだろうね……突出する人の真似をするでしょうね。だからね、あれ嫌いなの、演劇メソッド。そういう意味では、演劇が嫌いですから。
ーー そうなんですか。
自分たちがやってることを演劇だと思ったことないし。
ーー じゃあ、水族館劇場はなんなんでしょう。
サーカステントに似てるんじゃないのかな。ほんとに。
ーー 今年もうちの町にきてくれたわ、みたいな。
そうですね。芸術とかオリジナリティーとか、大っ嫌いです。ものごとって、きれいに意味づけできるものばかりじゃないじゃないですか。矛盾したものを矛盾したままでとらえる視点があったほうがいいんじゃないのかなと思っている。
ーー ただやっぱり、サーカステントや河原乞食という言葉は、頭ではわかるんだけど、リアリティーが薄いと言いますか、それってどういうことなんだろうって。
日本の社会の明度が高くなって、暗闇がなくなってきたんです。たとえば、ぼくの小さい頃はこういった神社に行くと乞食が本堂の縁の下に住んでいました。赤襦袢のお姉さんがいて。寺山修司の世界ですよね。でもああいう光景はもうない。コンビニの明かりが24時間煌々と照らされるようになった。小劇場の人たちは、現代のそういう、明るい不安みたいなものを非常にうまく表していると思う。等身大の痛みっていうのかな。
一方で、明度の高い社会から切り捨てられた人たちがいる。永山則夫もそうだし、去年やった踊り子の一条さゆりもそうです。今もいますよ。写真家の鬼海弘雄さんが浅草の裏でずっと写真を撮っていますよね。あそこに写っているような人たち。この人、何して生きているんだというような。
この前もびっくりしたんだけど、新横浜の駅で、背の高いおばあちゃんが二人で乳母車を持ってエレベーターに並んでいたの。で、降りてきたら、おばあちゃんじゃなくて男だったの。二人とも。しかも乳母車に乗っているのは赤ちゃんじゃなくてリカちゃん人形だった。相当ショッキングな絵でしたよ。
そういうどはずれな、べらぼうな人たちが見えにくくなっているでしょ。ぼくはやっぱり、闇をぐんと引き戻したいみたいな気持ちがある。向こうからおいでおいでされて、入ったら帰ってこられないような、怖い闇というか。実際にぼくは曲馬舘に手招きされてこの世界に入り、もう戻る道はないわけですから。
でも、若い子は、もともと人間が持っているはじまりの意識みたいなものを、どこかで持っているんだと思うんですよ。昭和だとかいつの時代だとか、そういうものじゃない、世界の「はじまり」というのかな。ただ、その感性は大人になるにつれて摩耗したり、削られていく。それを削られないうちに水族館と出合うと、こういう世界があったんじゃないかということを感受するんだと思います。
これは自己否定的に思うんだけど、今の若い人たちにとっては水族館劇場はノスタルジックな色合いが強いんだと思う。だから、「三丁目の夕日」みたいなものと、近いんだと思う。
ーー そうかもしれません。
ぼくは嫌いだけど、それでもいいと思ってるの。21世紀になって社会はさらに酷薄としてきたから、ノスタルジックな色合いのものが好まれるのかもしれない。「三丁目の夕日」なんてウェルメイドな作品で、毒気はあんまりないですよね。唯一、氷を使う冷蔵庫が電化製品にとってかわられて、捨てられているのを見て氷屋がかなしげな表情をしているのがちょっと印象に残ってるぐらいで、全体としてはあの時代はよかった的なところでおさまっていますよね。これが大ヒットするんですから、人間は勝手なものです。自分たちが捨ててきたものを懐かしむ。浄化作用なんですよね。
ぼくはセットでバラックを建てるけど、狙ってやっているわけじゃなくて、自然にそうなってしまう。筑豊に行って炭鉱住宅に行ったら、ほんとにボロボロのバラックしかないわけです。それが目に焼き付いているから、作るだけ。それを見て懐かしいと思うのは、「三丁目の夕日」が懐かしいと思うのと同じ感覚だと思います。これは仕方がない。
それで見に来てくれて、それだけではないメッセージみたいなものが、かすかにもし届くのであれば、それはその人が育てていってくれるだろうと、そういうふうに考えてるんです。それは育てるものであって、消費されないものなんです。ノスタルジーは取り入れます。でもそれは糖衣錠のようなもので、おなかの中に入ったら甘いノスタルジーは溶けて、あれは何だったんだろう、あの人たちはなんであんなことをやるんだろう、じゃあ自分は何がしたいのだろうと、飲み込んだ毒がきいてくるように、考えてくれたらいい。
ーー 年末から正月にかけてのさすらい姉妹[*3]の寄せ場路上巡業で、上野公園でやられてたのを見たんですけど、寒空の下で、よくわかんない人たちがいっぱい見てるっていうのがおもしろかったです。
炊き出しやって集まってきたホームレスの人たちと水族館のファンが一緒になって見るっていうのがおもしろいんです。どこからどこまでが芝居だかわからないっていうのが、ぼくが狙っていることです。前に路上でやった時、セットで作ってあったポストに本当に手紙を投函したおばさんもいたしね。セットだからダメですってあわてて止めて。
[*3] さすらい姉妹 水族館劇場の別ユニット。山谷などの路上巡業を行う。
ーー 劇場では起こらないことですね。
それも芝居なんだよね。それも芝居なの。ぼくは台本をどんどん書き換えちゃうんだけど、台本が間に合ってなくても、みんなが台詞を覚えてなくても、芝居ができあがってなくても、幕を開けちゃう。作品の出来には自信ないけど、これだけ2カ月かけて30人の人間が朝から晩まで作ってきたことにかんしては自信があるから、それを見せればいい。台本は時の運で、いいものが書けるときもあれば、なんにも書けないときもある。それを全部見せれば、客は何らかの反応を示すだろう。そういう感じでやってますね。
<水族館劇場 2014年公演 Ninfa 嘆きの天使>
出版社:羽鳥書店( 2013-06-20 ) 定価:¥ 6,264 Amazon価格:¥ 6,264 単行本 ( 396 ページ ) ISBN-10 : 4904702417 ISBN-13 : 9784904702413
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