現代河原者として生きる――明度の高い社会に闇を引き戻す

時代の変化を乗り超えて

 

ーー そもそもなぜ筑豊へ向かったのでしょう?

 

なんでだろうね……でも最初は東京でやるつもりはなかった。

 

お芝居の世界にいる人、つまり、大学に入って劇研にいて、そういう流れのなかから自分たちで旗揚げしようというような人だったら、有名な劇場を目指すんでしょうけど、ぼくらはそうじゃなかった。大八車を引いて、炭鉱住宅長屋をめぐったんです。

 

 

ーー 水族館劇場を見ると、水の迫力が想像以上で、これはふつうの劇場ではできないなと思いました。

 

まあ、お金をかければできるかもしれないけど、これだけ危険なものはできないでしょうね。全部人力ですから。機械でやってはおもしろくない。

 

 

ーー 装置を動かすチェーン一つとっても、すごい太さですよね。あれがふってきて間違って当たったら脳しんとうではすまないのでは……

 

ちゃんと計算してます。でもね、芝居の最中はぶつかっても痛くないですよ。

 

 

ーー それだけ集中している。

 

してる。痛くないです。一公演一回は誰かがケガをしてるみたいな劇団ですから、終わったら骨折してたとかしょっちゅうあります。

 

 

ーー 筑豊に向かった時からそういう意気込みだったんですか?

 

いやあ、そんなことないです。あらかじめ、何か、はっきりと言えるものがあったわけじゃなかった。ただ、まだ20代だったから、「ここにはいたくない」みたいな感じが強かったんじゃないかな……。ドキュメンタリー作家の上野英信さんがまだ存命で、けっこう影響を受けていました。

 

 

ーー ドキュメンタリーと言えば、布川徹郎[*1]さんも撮られていたとか。

 

それは曲馬舘の最後の旅芝居です[*2]。布川さんはそのあと病気をされて、長く作品を作れない時代があって。ほんとの晩年にうちに来て、撮らせてくれとおっしゃったんで、どうぞと言いました。出演もしました。

 

[*1] 布川徹郎 ドキュメンタリー映画作家。1942〜2012年。

 

[*2] 『地獄の天使 昭和群盗伝』1978年。その旅を記録した映画『風ッ喰らい時逆しま』(布川徹郎)は1979年に公開された。

 

 

ーー 完成する前に亡くなられてしまったんでしょうか。

 

そうですね、フィルムも入っていたかどうか……。それぐらい、ボロボロになっていました。若い人は布川徹郎がどういう映画作家だったか知らないから、ぼやぼやしてないでパイプの1本ぐらい運べよとか怒られて。ぼくは、布川さん、最後の夢を見てるんだなと思って、お好きにさせていました。

 

 

開演前の太子堂八幡神社。境内で芝居をさせてほしいという申し出を、「ご祭神・八幡様と、末社に祀られる芸能の神・弁天様が導いた奇縁」と受け入れた宮司の理解と厚意により実現した。

開演前の太子堂八幡神社。境内で芝居をさせてほしいという申し出を、「ご祭神・八幡様と、末社に祀られる芸能の神・弁天様が導いた奇縁」と受け入れた宮司の理解と厚意により実現した。

 

 

ーー そうやって時代が変わっていくなかで、水族館劇場は生き残っていますよね。最近も、20代30代の新人が入ってきていますし。

 

お金にならないのにね。

 

 

ーー どういうところに引きつけられているのでしょうか。

 

劇団の中軸の40歳ぐらいの人にかんしては、第二次ベビーブーマー世代なんですよ。全共闘世代のお子さんたちが多くて、ということは、わりとリベラルなお父さんが多い。こういうものに飛び込みやすい環境にあるんじゃないかと思います。ぼくの時なんか勘当ですから。曲馬舘に入るって言ったら、河原乞食になるのかって言われました。田舎に帰ってきて百姓やれ、地道に生きろ。河原乞食なんて恥ずかしくて世間様に顔向けできない、と。

 

だけど今の若い人たちは、親御さんがわざわざあいさつにきて、「今度娘がお世話になります」って言うから、びっくりしちゃうよね。「好きなことをやらせてあげたいんです」っていうんですね。

 

 

ーー 時代は変わったなという感じですか。

 

日本が豊かになったんだと思います。少なくとも物質的には。大学に行く人が増えて、余剰時間が増えて、みんな何していいかわかんなかったんだと思う。ぼくらの世代の親は、ぎりぎり、食うので手一杯という世代です。そのなかでも余裕のある層は生まれていたのでしょうけど、ぼくは貧乏だったから。

 

戦後、高度経済成長を果たして一億総中流みたいな時代がありましたけど、その頃はホームレスはいなかった。日本はよくできた社会主義だって揶揄されるような時代があったと思うんです。けれど、やっぱり平成になってから、世界の情勢とグローバル化だと思うんだけど、日本もその余波を受けて社会がどんどん壊れてきて、露骨に貧富の差が広がっていった。そういうなかで、水族館劇場の意味がまた逆に浮上してくるっていうことは、あるのかもしれません。

 

あと、生き残っているとしたら、ぼくなんかが、ちょっとポップだったってことが大きいんじゃないかしらと思います。もともとぼくは学生運動をやってないので。ラジカリズムっていうのは、頭では理解できるし好きなんだけども、同時に、ポップなもの、消費されるものも嫌いじゃないんです。矛盾してますね。曲馬舘や驪團の時代は、どこまでラジカルであるかが問われ続けたわけですが、それだけではもうやっていけない。それは嘘すぎる。それにぼくは、偽ものとか、まがいものであるということにもあんまり反発しない。そういう感覚が受け入れられる土壌というのが、やっぱり時代とともに変わっていくんですよね。

 

 

今回の演目のために建てられた野外劇場。公演が終わると解体され、もとの景色に戻る。撮影:宮村洋一

今回の演目のために建てられた野外劇場。公演が終わると解体され、もとの景色に戻る。撮影:宮村洋一

 


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