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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:96」を破折する(その一) 連載140回

妄説:96 「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違(たが)ふ時は(中略)即身成仏の血脈を承(う)くべき資格消滅せり」(有師化儀抄註解・富要 1-176頁)

 〔御文証の解釈〕
 御本仏への信心が、不善・不浄の邪心・迷信となり、仏意に背く姿となったときには、御本仏からの法水は、通路がふさがってしまい流れません。根本に信順しなければ、迷いの衆生となり、即身成仏の血脈・信心の血脈を受ける資格が消滅してしまいます。

 〔創価学会の解釈〕
○日顕(上人)は、仏意仏勅の学会を破門し、仏意に背(そむ)いた邪信の徒であり、「即身成仏の血脈」を受ける資格を失っている。よって御本尊を書写し、下付する資格も消滅した。(聖教新聞 H五・九・一九 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 この御文は「信心の血脈」についての一段ですが、学会は「学会こそ仏意仏勅の団体」という前提に基づいて、その学会を破門した日顕上人と宗門こそ「悪」であり「仏意に背いた邪信の徒」と解釈しています。
 しかし、仏意とは御本仏日蓮大聖人のお心であり、それは血脈相承として御歴代上人に受け継がれています。
 創価学会は昭和二十六年、宗教法人を取得する時に宗門と約束をしました。それは、
①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
②当山の教義を守ること
③仏法僧の三宝を守ることの三ヶ条を遵守(じゅんしゅ)することです。
 以来、総本山大石寺を根本と仰ぎ、この大原則を守りつつ宗門外護と、広宣流布への前進があったことは周知の事実です。
 しかし正本堂建立のころから、徐々(じょじょ)に仏法上の逸脱が現われ始め、ついに「昭和五十二年路線」で当初の三ヶ条の約束を完全に破棄し、学会は「仏意に従う団体」の資格を自ら放棄したのです。一度(ひとたび)は日達上人に謝罪し、反省をしたうえで正道に進むことを誓いましたが、平成二年の末に至り、その反省が虚偽であったことが明らかになりました。
 宗門から仏法の道理に基づく教導を受けながらも、「仏意に違う」姿となって反目し、誹謗を繰り返し、自らの団体が定めた基本原則をも捨て去ったために、学会は破門となったのです。
「即身成仏の血脈」を受ける資格を失ったのは創価学会なのです。
 この御文の真意は、本門戒壇の大御本尊と、唯授一人血脈相承を「仏意」と拝さなければ正しく理解できないのです。

破折:
1.学会の宗教法人設立に〝約束〟は無い

「創価学会は昭和二十六年、宗教法人を取得する時に宗門と約束をしました」とあるが、まずこれが大ウソである。当時の『聖教新聞』には次の通り記される。
               ◇
 宗教法人設立に 
  本山より三箇條の要望
   戸田會長病苦を押して登山
(『聖教新聞』昭和26年12月20日)

 記事によれば、本山で戸田会長より宗教法人設立に対する決意が述べられた後、細井庶務部長より次の通りの話があった。
               ◇
 之に対して細井庶務部長より
  学会が宗教法人となる事については法的の問題であり、何ら指示するような意志はないが、宗務院として
 1、折伏した人は信徒として各寺院に所属させること。
 2、当山の教義を守ること。
 3、三宝(仏・法・僧)を守ること。
 右の三箇条を登山要請の趣旨とした。
(前出『聖教新聞』)

〇「学会が宗教法人となる事については法的の問題であり、何ら指示するような意志はない」

 細井庶務部長の言葉通り、本山から学会の宗教法人設立にあたって「指示」をしない、すなわち「条件」「前提」「約束」を付与するものではない。ゆえに「当初の三ヶ条の約束」とあるのは言い掛かりである。

〇「宗務院として……右の三箇条を登山要請の趣旨とした」

 あくまで宗務院の「要請」であるが、それが「学会が宗教法人となる事について」の制約となるものではない。すなわち「自らの団体が定めた基本原則」などではない。
 
 以上の通り、学会は言質を取られるようなことは、何一つ無いのである。
 それでも、戸田会長は翌年の昭和27年10月から月例登山会を開始するなど、当時困窮していた本山の再建に尽力してきた。
「慧妙」が次のように言う。

「御宗門を外護申し上げる目的で設立された『創価学会』なのである。それ以外の目的は何処にも存在しない」(『慧妙』2011年6月16日付)

 戦時下の宗門と同じ思考である。軍部政府の弾圧を避け、宗門の保身のために〝神札甘受〟〝神宮遥拝〟等、ありとあらゆる謗法を犯し、大聖人の正義を腐したのである。
 宗門の輩にとって、「御宗門を外護申し上げる……それ以外の目的は何処にも存在しない」とあることは、昔から何も変わっていない。「大聖人の仏法を遵守する」ことは、「何処にも存在しない目的」に過ぎないのである。
 これに引き替え、大聖人の仏法を「宗門内外の謗法」から守ったのが創価学会である。
 外なる身延も、内なる宗門も、ともに謗法の塊りであった。法脈を継いできたはずの宗門は、当時すでに〝白法隠没〟の姿にあった。この「時」を感じて出現したのが、創価学会である。

2.「昭和五十二年路線」とは

 これは宗門が意図的に命名した言葉であり、正しくは「第一次宗門事件」である。詳細は「妄説:82」で述べた通りであり、ここでは概略を綴る。
 昭和五十二年一月十五日、関西戸田記念講堂で開催された第九回教学部大会の中で、池田会長(当時)が「仏教史観を語る」と題して行った記念講演において、
「在家の身であっても供養を受けられるという思想があります」
等の発言を、宗門では問題にした。
 これを契機に、宗門では反創価学会の僧侶(「活動家僧侶」と呼ばれた)が、盛んに学会批判を行い、それが全国の末寺に飛び火し、住職が葬儀や御講の場で学会批判をし、脱会者作りを始めていった。
 反学会の僧侶にしてみれば、僧俗を区別する基準の一つは、「供養を受けることができるかどうか」にある。僧侶の思い込みによれば、供養を受ける資格があるのは僧侶だけである。よって学会が「供養」という言葉で寄付を受けることは、「池田会長を本仏とする謗法」であると、強引な論法で糾弾したのであった。
 しかしこの前年の昭和五十一年六月十八日、細井管長(日達法主)は室蘭・深妙寺における説法の中で、こう述べている。

「学会には賽銭箱が無いのに決まっておる。それで御供養を受けたって、それは、学会はやはり一つの宗教団体である。御供養を受け、或いは寄付を募集する。そりゃあ皆んな、自分の学会員、信徒、それ等から貰うんで少しも恥ずることも無ければ、世間で批判することの筋合も無いのでございます」

「供養」と「寄付」と、言葉は変わろうとも、同じ認識にある。さらには在家であっても供養を受ける資格がある、ということを細井管長自らが、認めていたのである。
 本来であれば、この通り何ら問題のないことである。だが活動家僧侶は、学会幹部の言葉尻を次々とらえて問題とした。また、それまでは本山の許可を必要としない事例であっても、「御法主上人の了解を事前に取ったか」と問い詰めた。だがそのたびごとに、池田会長が細井管長と直接話し合い、紛争の火種は消されたのである。
 ところが、学会の顧問弁護士(当時)の山崎正友が、その堕落した生活を池田会長に見抜かれて叱責を受け、そこから池田会長を逆恨みし、僧侶の権威を利用して、池田会長を追い落とすことに躍起となっていく。
 その山崎は、昭和四十八年頃から本山の仕事に携わるようになっていた立場を利用し、細井管長に近づくと同時に、活動家僧侶を煽り、本山とマスコミとに次々と虚偽の情報を流し、細井管長と池田会長との離間策を図ったのである。
 活動家集団と山崎が起こす騒ぎのたびに、信心に疑いを起こし、大聖人の仏法から離れていった信者は少なくなかった。広宣流布の流れが停滞することを憂うる、大多数の純真な人々を、これ以上悩ますことができないため、学会は苦渋の決断をせざるを得なかった。
 すなわち、学会幹部一同が細井管長に謝罪する形で、事態を収束することとなり、池田会長は勇退した。
 だが、その経過を問うことなく、宗門は当時の学会が「謝罪した」形をもって、今なお「仏法上の逸脱」に及んだ根拠とする。

3.「年分得度」の若手僧侶集団

 昭和五十二年から五十四年をピークとする第一次宗門事件の中心は、「年分得度」の若手僧侶であった。何故に彼等が、このような僧俗の和を乱す輩となったか。それは、彼等が宗門内部の腐った体質の中で純粋培養され、それが時節に符合して一気に世に出た、〝精神の畸形集団〟だったからである。
 それは一体どういうことか、彼等の病理性を知る上で、「年分得度制度」と言うものを確認しておきたい。 
         
① 所化のほとんどが学会出身
      
 第六十六世・日達上人の就任に伴い、宗門では昭和三十五年三月から、年分得度制度が始まった。これは本山で一括して得度者を採り、現法主の弟子として大坊で育成する制度である。
 当初、日蓮大聖人が十二歳で清澄寺に登ったことに倣い十二歳の少年を対象としていたが、その年に十二歳になるということは三月時点では小学六年生にあがる前であり、転校等の問題もある。そのため、後に対象はその年に中学一年生にあがる者に変わった。
 それまでは各末寺の住職が弟子を取って面倒を見ていく、いわばマンツーマン式の指導法であったが、宗門の所化・学衆は集団得度、集団教育という新しい時代を迎えた。
 その第一期は二十二人、その内一人だけが寺族、すなわち僧侶の子息で、残りは皆、創価学会員の子息であった。この年分得度制度により、毎年二十五人前後の者が得度し、日達上人の直弟子となった。単純に計算しても、十年間で二百五十人、二十年間で五百人を超える僧侶が誕生することになる。
 ところが、問題はその育成だった。当時の宗門には二十数人の小僧を教育するだけの体制が整っていなかった。本山で手の空いている者は、大学を卒業して本山に一年在勤する所化しかいない。必然的に彼らが小僧を面倒見ることになった。しかし、子供を教育した経験のない彼らの中には、暴力を振るう者もいた。また、代々坊主の所化の中には学会批判を口癖にしていた者も少なくなかった。
(『転落の法主』エバラオフィス 青年僧侶改革同盟・渡辺雄範著 2004年4月28日発行)

② 軍隊さながらの大坊生活

 希望に燃えて本山に入った少年たちを待っていたのは、先輩に対する絶対服従と暴力による制裁だった。まるで軍隊さながらの大坊生活が始まる。そこで小僧は、僧俗差別の考えを徹底して教え込まれていく。
 僧侶になった、出家したということ自体が信心のある結果である。だから、これからは信心を深めることは一切、考えなくてよい。折伏もしなくてよい。題目もあげてはいけない――これが所化の歓迎の言葉だった。
 学会出身の少年たちは、両親が信心に励む姿を見て育った。だから、信心とは勤行・唱題、折伏のことだと思っている。そう思って唱題すると、本山の所化たちは、もっともらしい顔をして言った。
「僧侶は題目をあげる必要はない。僧侶が題目をあげていると、この僧侶には何か悩みがあるのではないかと、信者が不審がる」――まさにへ理屈である。しかし、小僧たちは洗脳されたように、誰も題目をあげなくなってしまった。
 所化たちは小僧の前で、学会批判を繰り返す。次第に小僧の目にも、真剣に唱題し、折伏している信徒の姿が愚かなものに映りだす。いつしか、大坊では、創価学会の悪口を言わないと僧侶ではないという雰囲気ができ上がっていった。
 得度したばかりの小僧は池田会長が本山に来ると、「先生!」と大喜びで手を振った。しかし、大坊生活は純粋な少年の心を破壊してゆく。小僧たちは池田会長を「池田さん」と呼ぶようになり、やがて呼び捨てにするようになる。
(同)

③ 大坊は信心の根を断つ「魔界」

 かつて学会員は、富士大石寺こそが〝現世の浄土〟と、勝手に想像をこらしていた。だが、僧侶として育成される少年等にとっては、幼少からの信心を抜き取られる〝異世界〟であった。
「僧侶になった、出家したということ自体が信心のある結果である。だから、これからは信心を深めることは一切、考えなくてよい。折伏もしなくてよい。題目もあげてはいけない」
 それは「信心の根」を断ち、魔道に引き込む言葉であった。彼らはこの「魔界」たる大坊で純粋培養され、精神の畸形となって長じてゆく。
               ◇
 年分得度が始まって七年目になると、小僧は小学校六年から高校三年まで、七学年で百五十人を超える集団となった。しかし、相変わらず、本山には学衆を教育する機関はない。大坊は無法地帯になっていった。先輩が後輩をいじめる。子供の世界は残酷である。程度を知らない中学生は相手が失神するまで殴りつける。この異常な暴力に耐えきれず、還俗する者も出てきた。
 大坊の小僧は富士宮の中学・高校に通っていたが、不良と呼ばれている者たちも「大坊」と聞くと逃げ出した。毎日、殴られて育っている大坊の小僧は喧嘩では既にプロだった。彼らは言った。「殴られるのは怖くない、慣れている。喧嘩は怖がったほうが負けだ」と。そして、不良たちは言う。「ヤクザと大坊には手を出すな」と。事実、大坊の小僧は地元のヤクザともめたこともあった。
 年分得度の一期生が大学を卒業して本山に在勤しはじめたのは、昭和四十六年の春からである。この年から、無任所教師が増え続けることになる。彼らは暇をもてあまし、学会批判に明け暮れていく。
(前出『転落の法主』)

 宗門において「教師」とは、寺の住職たる資格を持った僧侶を言う。本来なら、末寺の住職として寺務に忙殺されている立場である。ところが教師の数ばかり増えた結果、どこかの住職が死ぬのを待って、その後釜に入ることを望むしか、展望が見えない状態であった。
 彼らは本山という狭い世界の中でしか、物を見ることがない、いわば世間知らずである。末寺という現場にあって汗を流すこともなく、学会員に接することもないから、これまで摺りこまれた「僧俗差別」の観念、さらに「法華講よりも学会が下」との認識を、一歩も出ることがない。
 無任所教師達は、自らの不安定な立場に対する不満をぶつけるかのように、学会を攻撃することこそ自分等の仕事である、と錯覚していった。僧侶・所化の間で、自分より少しでも弱い立場の者を虐める体質が、学会に振り向けられたのである。

4.〝悪の権化〟山崎正友
(1)山崎の〝悪の一代記〟

 学会に刃を向ける者に、稀代の犯罪者・山崎正友が加わった。彼は虚偽の情報を流すことによって無任所教師達を煽り、またマスコミにも創価学会を毀謗するニセ情報を流し続けたのである。
 山崎の目的は、学会が仏法に逸脱しているとして、その責任を取らせて池田会長を追い落とすことであった。前述の若手僧侶達を焚き付けて「正信会」を結成させ、学会を誹謗中傷させたのは、そのためである。
 山崎は、学会の顧問弁護士という立場を利用し、宗門の土地問題に関わっている上から、〝土地ころがし〟で巨億の金を儲けていた。その金の一部が、山崎が本山を懐柔する上で役に立ったことは言うまでもない。晩年の細井管長に狡猾に取りいった山崎正友は、〝法主〟という玉爾を握った。
 その細井管長が急逝したため、山崎は次なる日顕に取り入ろうとしたが、あからさまな利権追求の下心を見抜かれ、失敗した。すると今度は「日顕には血脈相承がない」と週刊誌に載せ、激しく日顕を攻撃する側に回ったのである。
 正信会の僧侶達は、先師細井管長の弟子である。彼等は山崎の手記をもとに、昭和五十六年一月には、〝日顕には法主の資格がないことを確認してほしい〟との裁判を起こした。そのため、正信会は日顕から擯斥(ひんせき)処分を受け、百七十人もの僧侶が宗門から追放されている。
 一方、山崎が儲けた金はしょせん泡銭(あぶくぜに)であった。「悪銭身につかず」の譬え通り、夜の巷で散財し、また自ら経営する事業に失敗するなどして、負債がかさみ、自ら捏造した学会攻撃の記事をネタにし、学会から三億円を恐喝せしめたのである。
 これに味をしめた山崎は、さらに五億円を恐喝しようとしたが、学会からの告訴により昭和五十六年一月に逮捕、懲役三年の実刑判決を受け、刑務所に収監された。
 山崎は出所後、激しく攻撃してきた日顕と手を組み、さらに学会攻撃の謀略を重ねた。元教学部長の原島嵩に学会の内部資料を流出させた手口はもはや使えず、虚構の文書を作り上げていくしか方法は無かった。宗門は今でも、原島や山崎が書き下ろした捏造文書の類を学会攻撃の根拠としている。
 2008年7月6日、ともに学会を裏切った原島嵩が死去、同年12月29日、謀略の限りを尽くした山崎もまた死去した。死因は急性腎不全とされる。

(2)実弟・山崎浩三氏が痛憤の手記
 
 山崎正友の実弟、山崎浩三氏が聖教新聞に手記を寄せた。読むほどに、山崎正友の人間性を欠いた姿が知れるのである。
              ◇
 希代のペテン師・山崎正友。その悪逆非道は、何の罪もない家族までも地獄の底に陥れるものだった。ここでは山崎正友の実弟である山崎浩三氏(岡山市在住、支部副壮年長)の手記を緊急掲載。大悪人・山崎正友の黒い正体を浮き彫りにする(見出しは編集部)。

① 長兄の〝遺言〟「正友には気をつけろ」

 昭和54年3月、山崎家の信心の柱であった長兄・輝男が亡くなって、今年は17回忌にあたります。その長兄が病床の薄れる意識の中で言った言葉が、今も私の耳朶(じだ)に残って離れません。それは「正友には気をつけろ」というものでした。
 今になって思えば、長兄は正友の本性を見抜いていたのでしょう。しかし、京都大学在学中に司法試験に合格、弁護士をしていた正友が東京で何をしていたのか、岡山にいた家族は、ほとんど知りませんでした。私も当時は、この長兄の言葉の意味が理解できませんでした。
 しかし、その直後から、この長兄の言葉通り、正友の悪事が次々と発覚。そして山崎家もまた、正友により、まさに嵐に見舞われたように、地獄に突き落とされ、家族の人生は、ずたずたにされたのです。
 私たちの母は、岡山市内で旅館業などの事業を営み、若干の借金はありましたが、その借金も家族皆で力を合わせて完済し、まさに一家はこれからという時でした。
 驚くべき事実が明らかになりました。何と、我が家の土地(名義は母と母が代表を務めていた会社)のほとんどが、東京にいる正友個人の借金の担保にされていたのです。
 家族が知らぬ間に、兄・正友が、兄を溺愛(できあい)する母に取り入って担保保証の印鑑をつかせていたことが、「シーホース」の経営が悪化したことによって、はじめて発覚したのです。
「一体、全部でいくらあるんだ」と聞いても、「大きいんじゃ、大きいんじゃ」とうろたえるばかりの母。結局、その額は総計二億三千万円――。突然、降ってわいた気の遠くなるような借金に、目の前が真っ暗になりました。
 それからのことです。正友は岡山に帰って来ては、「早く土地を売れ。でないと俺の立場がない」「印鑑をついたんだから、出ていくしかないだろう!」と、脅すようにまくし立てるばかり。その姿は、まるで兄とは思えない、やくざの取り立てのようでした。
 旅館業など商売で生計を立てていた我が家にとって、その土地を手放せ、ということは、野垂(のた)れ死にをしろ、ということと同じ意味でした。私は、正友の身勝手さに心の底から怒りを感じました。
 逮捕の直前、正友は私にいいました。「もう俺はいないと思って、母の面倒をみてくれ」。正友にとって「母の面倒をみてくれ」とは、母が印をついた借金、すなわち自分の借金を私に尻拭(ぬぐ)いしろ、ということではないか。こうして、正友は巨額の借金を、私たちに押しつけていったのです。
 正友が逮捕されてからというもの、今度は金融機関から幾度となく返済の催促の電話が我が家にかかってきます。針の筵(むしろ)のような日々でした。
 私も必死の思いで働きましたが、どんなに頑張ろうとも二億三千万円という額は、簡単に返済できるものではありませんでした。
 昭和54年から62年にかけて、やむなく我が家の資産のほとんどを売却し、正友の残した借金を全額返済しました。
 また、正友による多額の借金が発覚した直後、自分の将来に拭い難い不安を抱いた私の妻は、「正友とつながりがあることが怖い。これ以外にも、いくら借金があるか分からない」と、小学生の娘を残して私のもとを去ってしまいました。
 彼女もまた、正友による〝犠牲者〟です。
 その後も、正友の影はついて回りました。金融機関に融資を頼んでも、会社に「山崎正友」名義の株が少額でも残っているというだけで、〝山崎正友と関係がある〟と見なされ、融資をしてくれないのです。正友が犯した数々の経済事犯、詐欺的行為からすれば、それも当然でしょう。
 まさに、正友により、我が家も、真っ暗な出口のない地獄に包み込まれたようでした。しかし、私には逃げたくても逃げる場所がありませんでした。残された母と娘、妹たちの生活を支えなければなりません。私は自分自身と戦うしかなかったのです。
 以来今日まで十余年、精米業、米・酒の販売・配達、さらにコンビニエンスストアの経営と、まさに寝る間もなく働きずくめで、ようやく事業も軌道に乗りました。この間、地区部長もやらせていただきました。学会から離れず、戦わせていただいたことが、私の誇りでもあります。
 それにしても山崎家の一番の〝被害者〟は末の妹でしょう。正友の奸計(かんけい)により昭和63年、シーホース社長のM氏と、いわば〝政略結婚〟をさせられた妹は、正友の事務所で秘書として働いていました。しかし、秘書とは名ばかりで、仕事の内容はタイプとお茶くみ。側にいた妹でさえ、正友が何をしていたのかは全く知らされなかったのです。
 そんな中、シーホースの倒産、正友の逮捕、M氏との離婚……。妹にとっても嵐のような出来事でした。まさに、自分でも何が起こっているのか分からないままに正友に翻弄(ほんろう)され、紙屑(かみくず)のように捨てられたのが妹の青春だったのです。
 ある夜、当時まだ東京にいた妹から電話がありました。思い詰めた彼女は「二人の子どもを抱えて、このまま電車に飛び込む」というのです。
 私と母は必死で説得。何とか思いとどまらせることができました。しかし、正友にずたずたに傷つけられた妹の心の傷は、決して癒(いや)されるものではありません。
 妹の人生をここまでめちゃくちゃにした正友。その身勝手な行為は、もはや人間ではありません。その上、自分の悪行を悔(く)いることなく学会攻撃を繰り返すなど、畜生以下の所行と断ぜざるを得ない。

② 黒い画策は所詮〝敗者の嫉妬〟

 長兄・輝男の葬儀も、正友にとっては、兄の死を悼(いた)むどころか、〝実力者〟を気取る自らの権威の誇示の場でしかありませんでした。忙しい広布の活動の最中で、会員の皆さんに迷惑をかけてはならないと、親族だけで密葬を執り行うこととなりました。それが、短い生涯を広宣流布に生ききった長兄の遺志であると家族の皆が確信したからです。
 しかし、正友だけは違いました。正友は、今思えば、彼が手なずけていた正信会の坊主たちでしょう、全国から坊さんを集め「これは、どこどこの坊さんだ」などと葬儀の場でも偉ぶるばかり。坊さんから「先生」と呼ばれ、得意絶頂になっていました。また、生花を指しては「これは俺が助けてやった会社からだ」などとうそぶく始末です。
 しかし、それらも正友本人の力でも人徳でも何でもなく、すべて学会との関係を勝手に悪用してだまして手にしたものだったのです。
 最後に正友が岡山の実家を訪れたのは、平成三年の入牢の直前でした。車で通りかかった正友は、「元気か」などと告げると、逃げるように去って行きました。
 それ以来、平成5年の出所後も、正友は岡山の実家に一度も立ち寄らないばかりか、私には自己を悔いる一本の電話もありません。
 兄・正友――。あなたは、私に入会を勧めた時に自分が言った言葉を覚えていますか。一家の中で最後まで入会しなかった私に対し、あなたは「もし家族全員が学会員であることを理由に非難されるようなことがあったとしたら、お前は一人だけ逃げようというのか」と罵(ののし)り、家族が皆で入会することの大切さを力説していたではないですか。
 そのあなたが、入会を勧めた学会が、もし間違っていたというのなら、なぜ真っ先に、家族に対し、なかんずく私に何も言いに来ないのか。まず家族に話しに来るのが筋ではないか。でも、そんなことは一度もなかったではないか。
 つまり、あなたの本心は自分が正しいという自信がないからです。それでいて、陰に隠れてコソコソと〝黒幕〟を気取って謀略を続けている姿は、何と卑怯で、何と姑息で、何と惨めなことか。そんな正友に、学会をうんぬんする資格など、毛筋ほどもないのです。
 間違っているのは、あなたの方であることは、家族の誰もが分かっています。その証拠に、いまだに私たち兄弟は一人も、脱会していないではないですか。
 幼少のころから母に甘えるのがうまかったあなたは、何の苦労もなしに育ちました。そんな中、正友の〝負けず嫌い〟という性格は、〝勝つためには手段を選ばない〟という性癖にねじれていったのです。
 私と将棋をしても、負けた時には盤をひっくりかえして私に殴りかかってきました。また、ボクシングを教わったと言って私を練習台にした時も、一発でも私のパンチが届いた時には、鼻血が出るまで狂ったように殴り続けました。今思えば、正友の本性を物語るような出来事です。
 しかし、正義のない〝負けず嫌い〟など、所詮、嫉妬でしかありません。あなたが池田先生、学会に対して懲りることなく繰り返す謀略の数々は、まさしく「敗者」の狂った「嫉妬」のなせる所行以外の何ものでもない。自分が「悪」であり「敗者」であることは、あなた自身が一番分かっているはずです。

③ 「御書」より「週刊誌」の無信心

 私には、忘れられない出来事があります。ある日、私が仏間で勤行をしていると、東京から来た正友が後ろに立っていました。私が振り返ると、正友はいきなり「浩三、週刊誌読んだか」というのです。当時、正友がマスコミを使って学会破壊の謀略を企(たくら)んでいることなど、知る由もなかったのですが、私は、この時、もはや正友の信心は完全に狂っていることを実感しました。
 亡くなった長兄は常々私に「暇があったら御書を読みなさい、題目をあげなさい」と指導してくれました。一方、仏壇の前で、御本尊に手を合わせるでもなく「週刊誌を読め」という正友。浅学非才な私でも、どちらが正しいかは比較するまでもありませんでした。私にとって、二人の兄はまさに「善」と「悪」、「正」と「邪」をはっきりと示してくれたのです。「善悪」「正邪」は学力でも、肩書でもない。ただ純粋な「信心」にあるのです。そして、私は今日まで、その長兄の示してくれた信心の道を進んできたつもりです。もし、今、長兄が生きていたなら、正友を私以上に厳しく責めているでしょう。
 母に愛され、勉学も優秀な兄・正友に対し、二歳の時に両目の視力を失い、勉強も遅れるばかりだった私は劣等感すら抱いていた時期もありました。しかし、だからこそ、努力するしかなかった。その後、視力障害も克服。あなたの残した理不尽な借金もすべて返済し、平成二年には、ささやかながら自社ビルも建て、一室を広布のために会場として使っていただいています。
 そして、私は母、娘、妹とその子どもたちの生計を支えながら、懸命に働いています。貧しいながらも、信心だけは愚直に貫いてきたつもりです。
 兄・正友にたぶらかされ、学会を離れていった同志の皆さんのことを思うと、我が家の不幸など、比べものになりません。池田先生、会員の皆さまには山崎正友の弟として、お詫びの言葉もありません。本当に申し訳なく思うばかりです。
 山崎正友という〝現代の提婆達多〟を兄に持つことは、私の最大の宿命です。しかし、仏法は勝負である以上、断じて負けるわけにはいかないのです。
 広宣流布に進む仏意仏勅の団体・創価学会――。この池田先生と私たち会員の絆(きずな)は、正友の黒い謀略などで切れるものではありません。私は今後も、広宣流布のため、学会のために戦い続ける決意です。それが、山崎正友の弟である私にできる、唯一の〝償(つぐな)い〟の道であると決心しています。
(『聖教新聞』1997年7月2日)

 学会の同志を裏切るだけでなく、家族まで地獄に落として顧みなかった山崎。だが、実弟は不退の信心で見事立ち上がり、山崎は行くべきところに行った。
 かつて山崎は「ゆっくり刑務所で療養しとくよ」と勘違いして入所したが、塀の中は生易しいものではなかった。今、山崎は「七重の鉄城」の中で、何を思っているであろうか。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:95」を破折する(その二) 連載139回

妄説:95 「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違ふべからざるなり」(有師化儀抄・富要 1-64頁)

 〔御文証の解釈〕
 仏の御意を信ずれば、仏の御意がその信ずる心に流れ通いますから、信も血脈も法水も同じ意味となります。信心が正しければ信心上の筋目はすべて正しくなります。

 〔創価学会の解釈〕
○御本尊を強盛に信心で信ずるのが「信心の血脈」であり、これ以外の血脈を求めてはいけない。「法体の血脈」などというのは後世に作られた言葉にすぎない。(聖教新聞 H五・九・一二 取意)
○大聖人御所持の法体である妙法は、御本尊への信心・唱題によってのみ受け継がれるのであり、この「信心の血脈」以外に法主だけに伝わる「法体の血脈」などない。(同)
○「信心」こそ肝要であり、「血脈」と言っても「信心」以外の何物でもない。(創価新報 H五・九・一五 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 創価学会の解釈は基本的に誤っています。それは「血脈」「法水」という、本来(ほんらい)御本尊に具わる法義と、凡夫の「信心」とを混同しているからです。そして教義の根本となる法体の血脈を否定しているのです。
「法体の血脈」と「信心の血脈」という血脈の二義からみれば、この御文証は信心の血脈について説かれています。日達上人は、昭和五十三年七月に
「信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、どこから出てくるかということがもっとも大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人のご当体たる本門戒壇の大御本尊であります。ゆえに、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の法水は流れないのであります。大聖人は、一代聖教大意に、『此の経は相伝にあらざれば知り難し』と申されております。また日寛上人は『口伝にあらざれば知り難し、師資(しし)相承(そうじょう)故あるかな』と申されております。師資相承とは師より弟子に相承することであります」(達全 2-5-592頁)
と仰せられています。
「法体の血脈」と「信心の血脈」の総別の二義の立て分けをよく知らなければなりません。

破折:
4.「口伝」「相承」を受け継ぐ者は誰か

「口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな」(日寛上人)

 前回(その一)では、日興上人は大聖人に常随給仕され、師匠の心中を体得されたゆえに大法を授けられたことを述べ、さらに「師匠の心中を体得」された、そのことがすなわち〝「口伝」を受けられた〟意義にあるとした。
 今回詳説するに、「心中を体得」とは、単に師匠が示される「法門を理解」したことを指すのみではない。師の説かれる法門を聴聞し、それで如何に振る舞うかが、最も問われることなのである。

 兄弟抄(一〇八七㌻)にいわく、
「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」

(この法門を説くならば、必ず魔があらわれるのである。魔が競い起こらないならば、その法が正法であるとはいえない。止観の第五の巻には「仏法を持ち、行解が進んできたときには、三障四魔が紛然として競い起こる(乃至)だが三障四魔に決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」等と書かれている。止観のこの釈は、日蓮が身にあてはまるばかりでなく、門家一同の明鏡である。謹んで習い伝えて、未来永久に信心修行の糧とすべきである)

 兵衛志殿御返事(一〇九一㌻)にいわく、
「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」

(必ず三障四魔という障害がでて来るので、賢者は喜び、愚者はひるんで退くのです)

〝難を乗り越える信心〟こそ、大聖人の御意である。それを実践してこそ、真正の弟子である。故に「口伝」「相承」を受け継ぐ者とは、〝大聖人の御意を体する者〟である。
 その信心の試金石とされた時の、最大とされるものは二度あった。大聖人御在世時と、太平洋戦争の前年より終戦までのことである。
 
 新尼御前御返事(九〇七㌻)にいわく、
「かまくらにも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」

 真正の弟子とは、まことに数少ないものである。この通り幕府の弾圧下、数多の弟子が退転した中、日興上人をはじめ御弟子方、四条金吾ら篤信の檀那達が艱難に耐え、大聖人の教団を守り抜いたのであった。

5.「口伝」を〝身で読んだ〟のは学会のみ

 大聖人御在世時に比べ、戦時下の弾圧の時は様変わりであった。宗門に在籍する僧侶のすべてが保身に入ってしまい、法主は学会幹部を本山に呼び出し、神札を甘受するよう指南したのである。
 この謗法を粛然と拒否した牧口会長を始め、学会幹部はまもなく一斉に逮捕され、宗門は巻き添えを恐れてただちに信徒除名に及んだ。
 当職の法主は難を恐れ、表に出てこない。いったい「法体の血脈」を受け継いだ高僧というものは、大聖人の正義を声高に説くべき時に、口をつぐむ「唖法」の行に入るものか。
              ◇
 唖法(あほう)というのは、「バカ」という意味に、今日では使っているが、このアホウの意味は、人間のことばを忘れる修行をした尊者のことを言うのである。そして、偽日蓮宗の導師なるものは、まったく、このアホウの手を打つのである。
(戸田会長『広宣流布の姿』昭和25年5月10日 『大白蓮華』巻頭言より一部抜粋)

 上記は偽日蓮宗(=他宗)の導師を指摘したものであったが、日蓮正宗法主も同類であったとは、皮肉なものである。信仰が問われる試金石の段にあっては、法門の〝正〟も〝偽〟も通用せず、誰もが難を避けていたのである。
 僧侶が自ら依って立つところ(存在意義)を喪失した以上、袈裟を脱いで還俗すべきであった。彼等宗門の正体は、禿頭の在家と変わらない。
 宗門が学会幹部を除名処分にし、降りかかる弾圧から逃げた時、大聖人の法孫は消滅したのである。
 獄中にあった牧口会長は、最後まで大聖人の正義を訴え続け、死身弘法の生涯を閉じた。ただ一人従った戸田理事長は病躯となり、出獄した。この不退の信心の源は、誰より「口伝」を受けたゆえか、「相承」を授かったためなのか。
 だが、大聖人は霊鷲山にお帰りになって六百五十年以上も経ち、また法主が在家に口伝・相承を伝えるわけはなく、獄中には御本尊も御座さない。
 この厳然たる事実から証明できること、それは「口伝」なるものは〝面授〟すなわち顔を見合わせての法門の伝授を意味するのではなく、「相承」とは〝切紙伝授〟の言葉にあるような〝相承書〟をやり取りする儀式を言うのでもない、
 学会の会長が ① 御書を身読し、② 大聖人の意を体したこと、これこそ「口伝」「相承」を受け継いだ姿と言えるのである。

 御講聞書(八四二㌻)にいわく、
「謗法不信の失を見ながら聞きながら云わずして置かんは必ず無間地獄へ堕在す可し」

 大聖人は、謗法に染まった国土を憂い、一天四海に「ここに正法あり」と大獅子吼され、諫暁の書を為政者に提出されたのである。
 時代が移り、〝全国民に神札を配布する〟との、軍部による日本開闢以来の大謗法が出来した秋(とき)に当たり、大聖人に続き立ったのが学会である。これが、地涌の菩薩がその真の姿を現した時であった。
 満天下に「口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな」との文を身で読んだ者は、学会以外、誰もいない。

6.「法体の血脈」とは非科学的・非道徳的な神話

 宗門の言う「教義の根本となる法体の血脈」なる語が、宗開両祖の法門のいずこにあるか。『化儀抄』(第九世日有師の発言録)等にも、そのような語は存在しない。宗門は化儀抄などを持ち出して、返って馬脚を現わしたのである。
 宗門はこうも言う。

「法体の血脈を否定するなら『二箇相承書』も否定することになる」

 これも話のすり替えである。二箇相承書とは、日蓮大聖人より日興上人に相承された、厳然たる「事実」を指す。かたや法体の血脈とは「神話」である。
 これは「事実」と「神話」とを重ね合わせ、正当化しようとする無理・無法の論法である。虚偽を織り交ぜて信じ込ませる手法は、日顕宗の得意とするところである。
「法体の血脈」を詳説すれば、〝どれほど劣悪、貪欲、淫蕩、粗暴な者であろうとも、法主の地位に就きさえすれば大聖人の御内証を受け継ぐ〟との、まことに「非科学的・非道徳的な神話」である。
「法体の血脈」については、当の法主がありのままを述べている。

「口伝なるものは、完器にして初めて可能なんじゃよ。破器・汚器の者であれば、猊下と雖も何にもならんということに気がつかないんだから困ったもんじゃ。
 おかしくって。
 猊下というもの、法の取継ぎに過ぎんのだよ。嘘をつく者、如才のない者は論外だよ。だけどな、いずれそのうち、平僧や信徒を迫害しぬく猊下も出てくることだろうよ。」
(五十九世堀日亨師談話『亨師談聴聞記』 昭和二十六年 夏 〈大橋慈譲記録〉)

「口決相承というものは、信仰のたまものじゃよ。信仰もなく、学もなく、行もなく、親分・子分の関係を強いるヤクザの貫首が、いったい何を伝授するというのかね。
 今、もしこの様なことを言って公けにすれば、宗門はまだ小さいし、また伝統を破壊することになると思って、じっと黙っているところだよ。」
(同 昭和二十六年 冬)

「ワシが猊下をなぜ二年でやめたと思う。猊下というもの、あれは政治家だよ。
 俗の奸物がなるものであって、学問をやる者がめざすところのものではありゃしない。」
(同上)

 法主経験者の発言だけに、実体験による説得力に溢れて余りある。「法体の血脈」はその虚構の事実を我らの前にさらけ出した。このような誑惑など、もう沢山である。

7.何度も登場する法主本仏論

 大聖人の仏法から逸脱した教義には、決して従ってはならない。日顕宗が説くところの、法主が本仏であり本尊であるとの、法主本仏論のことである。
 この邪義の起こりは、十二世日鎮(十四歳の若年で管長に就任)の世話役であった左京日教が宗内に通達した文書であることは、すでに知られたところである。だが、それで立ち消えたわけではない。
『日蓮正宗聖典』に、このような邪(よこしま)な文書がある。

「大石寺事は金口の相承と申す事候て、是の相承を受くる人は学不学によらず、生身の釈迦日蓮と信ずる信の一途を以て、末代の衆生に仏種を植えしむる事にて御座候」(『富士宗学要集』5-271)

(大石寺の大事として、金口の相承という事がありまして、この相承を受けられる人は、学問の有無にかかわらず、生身の釈迦・日蓮であると信ずる信仰のもとに、末代の衆生に仏の種を植えさせる事であります〈趣意〉)

「若し身の能徳を以て貫主と定めば学者を信じ非学者を謗して仏種を植えざるのみならず、謗法の咎(とが)出来(しゅったい)して無間地獄に入り候わんこと不便に思し召し、其器量の善悪を簡(えら)ばず、但相承を以て貫主と定められ候」(同)

(もしもその身の徳分をもって貫首〈管長〉と定めるなら、学問の有る者を信じ、学問の至らない者をののしって仏の種を植えないだけでなく、謗法の罪が出来て無間地獄に入ることになっては哀れとお思いになり、その人の器量の善し悪しでは選ばず、ただ相承を受けた事実をもって管長と定められたことであります〈趣意〉)

 いかに大聖人の仏法を弄ぶ、大誑惑であることか。
 江戸時代、十八世日盈(にちえい)が病死したので十七世日精が再登座したが、支援者の敬台院(徳川家康の曾孫で、徳島藩主の正室)と仲違いし、江戸の常在寺に逃げて来ていたため、大石寺が二年間、住職不在になっていた。
 そこで、敬台院を折伏教化した要法寺派の法詔寺日感の推薦で、日舜を十九世として要法寺から迎えたのであったが、日舜は日精からの相承を受けておらず、日顕の登座のときと同様、宗内に不信感が渦巻いた。そこで、日感が日舜の大石寺入山に際し、法主の権威を高めるため檀家頭に送った書状が、くだんの文書である。
 趣意は、学も徳も無い僧であろうとも、相承を受けた以上は〝生身の釈迦日蓮〟であるから、誹謗した者は地獄に堕ちる、と言うのである。
(参照:『フェイク』第622号 発行05.09.28)

 左京日教も上述の法詔寺日感も、ともに「造仏・読誦」を唱えた要法寺系の僧侶である。彼らが大石寺に入ることにより、謗法も共に流れ込まないわけがない。しかも「日蓮正宗聖典」に収載されているのである。宗門がどれほど謗法漬けであったか、知れるというものである。
 この文につき日顕は、平成九年夏の教師講習会で、
「これは前から大石寺の信心のあり方をきちっと説いた文として尊いものと思っておった」
と力説した。何のことはない、日顕自ら〝「身の能徳」も「器量」も無い法主〟であることを、率直に認めているのである。
 現在の宗門は、謗法と戯言とに満ち溢れた邪教である。

 祈祷抄(一三五五㌻)にいわく、
「何なる経文ぞや、若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事(ひがごと)をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり」

(どの経文に説かれているのか、もしその証拠が無ければ、誰が信ずることができようか。このような僻事ばかりを構えるから邪教というのである)
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:95」を破折する(その一) 連載138回

妄説:95 「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違ふべからざるなり」(有師化儀抄・富要 1-64頁)

 〔御文証の解釈〕
 仏の御意を信ずれば、仏の御意がその信ずる心に流れ通いますから、信も血脈も法水も同じ意味となります。信心が正しければ信心上の筋目はすべて正しくなります。

 〔創価学会の解釈〕
○御本尊を強盛に信心で信ずるのが「信心の血脈」であり、これ以外の血脈を求めてはいけない。「法体の血脈」などというのは後世に作られた言葉にすぎない。(聖教新聞 H五・九・一二 取意)
○大聖人御所持の法体である妙法は、御本尊への信心・唱題によってのみ受け継がれるのであり、この「信心の血脈」以外に法主だけに伝わる「法体の血脈」などない。(同)
○「信心」こそ肝要であり、「血脈」と言っても「信心」以外の何物でもない。(創価新報 H五・九・一五 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 創価学会の解釈は基本的に誤っています。それは「血脈」「法水」という、本来(ほんらい)御本尊に具わる法義と、凡夫の「信心」とを混同しているからです。そして教義の根本となる法体の血脈を否定しているのです。
「法体の血脈」と「信心の血脈」という血脈の二義からみれば、この御文証は信心の血脈について説かれています。日達上人は、昭和五十三年七月に
「信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、どこから出てくるかということがもっとも大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人のご当体たる本門戒壇の大御本尊であります。ゆえに、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の法水は流れないのであります。大聖人は、一代聖教大意に、『此の経は相伝にあらざれば知り難し』と申されております。また日寛上人は『口伝にあらざれば知り難し、師資(しし)相承(そうじょう)故あるかな』と申されております。師資相承とは師より弟子に相承することであります」(達全 2-5-592頁)
と仰せられています。
「法体の血脈」と「信心の血脈」の総別の二義の立て分けをよく知らなければなりません。

破折:
1.「信心」と「血脈」とは同義

 一代聖教大意(三九八㌻)にいわく、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」

 ここは「相伝」すなわち〝日蓮大聖人が説かれた御法門〟の通りに信受しなくしては、正しく法を会得することはできない、と誡められた御文である。
 宗門のように〝大聖人の仏法は法主のみに相伝される〟と読み替えることは許されない。何ゆえこのような曲論となるのか。
 御文を拝する都度、御書全集に立ち帰り、前後の御文を拝した上で大聖人の御真意を確認しなければいけない。
 宗門のやり口である〝切り文〟のままでは、どのようにも読まされる。特にこの御文は宗門坊主が妄説を吐く上での常套文句とされており、恐れ多いことである。

 同抄にいわく、
「此の経は何なる人の為ぞや、答う此の経は相伝に有らざれば知り難し所詮悪人・善人・有智・無智・有戒・無戒・男子・女子・四趣・八部総じて十界の衆生の為なり、(中略)総じて十界の衆生・円の一法を覚るなり此の事を知らざる学者・法華経は我等凡夫の為には有らずと申す仏意恐れ有り」

(この法華経はどのような人のために説かれたか。答う。この経は相伝でなければ知ることができない。所詮、悪人・善人・有智・無智・有戒・無戒・男子・女子・四悪趣・八部、総じて十界の衆生のためである。〈中略〉総じて十界の衆生は純円一実の法を悟るのである。このことを知らない学者が法華経は我ら凡夫のためではないといっているが、仏意に反していると恐れるべきである)

 法華経とはすなわち「観心本尊抄」に明かされた御本尊であり、日興上人に御相伝された大法である。

「口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな」(日寛上人)

 師資とは師匠と弟子である。師匠は日蓮大聖人の御事であり、弟子は日興上人である。
 日興上人は大聖人に常随給仕され、師匠の心中を体得された。それが「口伝」を受けられた由縁である。それゆえ日興上人は五老僧等と境界を異にするのであり、唯一人、師匠より大法を伝授されたのである。
 常に我らは宗開両祖の御教示通り、「御書根本」に信行を全うするよう励むべきである。
 なお「教義の根本となる法体の血脈」とは、無論のこと「信心の血脈」以外にない。ただし「法主だけに伝わる法体の血脈」などは「有名無実(うみょうむじつ)」である。

2.貶された「凡夫の信心」
(1)宗門が学会を詰る

 次の九世日有師の言葉の解釈をめぐり、かつて宗門は学会を詰ったのである。

「一、上人仰に云く、此の経受持之人信心無二にして余事余念なく南無妙法蓮華経と唱え奉り候へば其の当位に即身成仏上行菩薩也と申す証文之有り、神力品に云く、爾時上行等と云云、只是れ等の専是也。
 一、又云く、高祖日蓮聖人の御抄には、日蓮は日本国の一切衆生の親なりと遊して候も今は人の上にて候。但今の師匠在家にてもあれ、出家にてもあれ、尼・入道にてもあれ信心無二にして此妙法蓮花を能く進むる人乃ち主師親也、能く能く心得へし」
(『聞書拾遺』)

(一、日有上人の仰せには、法華経を受持する人が信心無二に他事なく南無妙法蓮華経と唱えたてまつれば、その身のままで成仏し上行菩薩となるとの証文が有る。法華経神力品に「爾時上行等」とあるのはこのことを言うのである。
 一、また言われるには、日蓮大聖人の御書には、日蓮は日本国の一切衆生の親であると仰せであるが、今は人の上の仏であらせられる。現今の師匠とは、在家であろうと、僧侶であろうと、(在家の)尼・入道であろうと、信心無二にこの法華経(御本尊)をよく弘める人のことであり、すなわち大聖人に同じく主師親の三徳を具備された人である。よく心得ておきなさい)

 この御文の趣旨に従い、かつて学会では以下の論文を掲載したことがあった。
                ◇
 主師親の三徳は仏が備えている根本的資格であって、我々の九界の凡夫にはそうした徳はないとするのは大きな誤りである。なぜなら、九界の衆生も一念三千の当体であり、仏知見を具えているからである。その仏知見を開き示し悟らしめ入らしめるのが仏の使命である。我々にとって仏知見を開く鍵は何かといえば〝信〟に尽きる。以信代慧の原理によって、御本尊に対する尊敬すなわち信心によって仏智を開き顕わすことができるのである。そこには主徳も師徳も親徳も一切含まれている。
(宮本忠憲論文 『大白蓮華』47年5月号)

 古文書(『聞書拾遺』)の文言に沿った、丁寧な通解となっている。ところが宗門は、「我々」は「凡夫」であるゆえ、文面通り読んでは「行き過ぎ」であると言って、詰(なじ)ったのである。

「信心修行に関する指導の中で、あえて凡夫の我が身に主師親三徳が備わることを強調する必要はありません。我々は体の仏であり、我々凡夫が仏知見を開いたとしてもその処に主師親が備わるというのは行き過ぎであります」

 大聖人と衆生との間には、越えられない溝があるとするのが、宗門の解釈である。ましてや衆生と言っても僧俗の別があり、在家に主師親三徳が備わるとなれば、僧の立場が無い――。言葉には出していないが、僧侶の頭には僧俗差別の念がこびり付いて、消え去ることはない。

(2)〝信心無二に広宣流布する人〟こそ〝師匠〟

 前出の『一代聖教大意』を再読しよう。

「此の事を知らざる学者・法華経は我等凡夫の為には有らずと申す仏意恐れ有り」(三九八㌻)

 大聖人は御自身も含められ「我等凡夫」と仰せである。九世日有師は大聖人の御意のままに、前項の言葉を述べたのである。
 末代の「此の事を知らざる学者」(=宗門)が、なにゆえに大聖人の御言葉をさえぎることがあろうか。
 我ら学会の信心は、大聖人、日興上人の御教示から、一歩たりとも逸脱していない。ましてや学会が折伏弘教に邁進する姿は、宗門の化儀を確立した日有師の言葉通りの振舞ではないか。

「出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直(ただ)しきなり。高祖已来の信心を違(たが)へざる時は我れ等が色心妙法蓮花経の色心なり」
(九世日有師『化儀抄』第二十七条 『富士宗学要集』第一巻 六四㌻)

「仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり、仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違へぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄(しんぜんしょうじょう)の妙法蓮華経の色心となるなり」
(五十九世堀日亨法主『有師化儀抄註解』第一〇九条 『富要』第一巻 一七六㌻)

 宗開両祖の御精神に叶わない宗門の教義に従うならば、「法水は流れない」。これをもってしても、「法主だけに伝わる法体の血脈」など、ありえないことが知れる。

3.「相伝」「口伝」の意義

「相伝」「口伝」の語を恣意的に用いるのは、禅宗がその起源であろう。

 撰時抄(二七四㌻)にいわく、
「禅宗と申す宗は教外別伝と申して釈尊の一切経の外に迦葉尊者にひそかにささやかせ給へり、されば禅宗をしらずして一切経を習うものは、犬の雷をかむがごとし、猿の月の影をとるににたり云云」

(禅宗という宗派は教外別伝といって、仏の真の悟りは釈尊が一切経の外に迦葉尊者に密かにささやき伝えたと主張している。したがって禅宗を知らずに一切経を学ぶ者は、犬が雷にかみつくようなものであり、猿が月の影をつかまえようとするのに似ている、と言っている。

 日顕宗の言い分は、この禅宗の主張と同じである。しかし大聖人は「文証を重視せよ」と仰せである。真正の「口伝」とは、あくまで大聖人の御著作、日興上人の御文でなければならない。

 蓮盛抄(一五三㌻)にいわく、
「仏は文字に依つて衆生を度し給うなり……若し文字を離れば何を以てか仏事とせん」

 ゆえに後加文や、出処不明の「相伝」「口伝」の類などは、絶対に信じてはいけない。すべての法門は、宗開両祖の御書・御文に帰一しなければならないのである。

 聖愚問答抄上(四八一㌻)にいわく、
「されば我等が慈父・教主釈尊・雙林最後の御遺言・涅槃経の第六には依法不依人とて普賢・文殊等の等覚已還(とうがくいかん)の大薩埵(だいさった)・法門を説き給ふとも経文を手に把(と)らずば用ゐざれとなり、天台大師の云く『修多羅(しゅたら)と合する者は録して之を用いよ文無く義無きは信受す可からず』文、釈の意は経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり、伝教大師の云く『仏説に依憑(えひょう)して口伝を信ずること莫れ』文、前の釈と同意なり」

(それゆえ我らの慈父・教主釈尊は、雙林最後の御遺言である涅槃経の第六巻には「法に依って人に依らざれ」といって、普賢・文殊等の等覚已還の大菩薩が法門を説かれても、経文によらなければ用いてはならないとある。
 天台大師は「経典と合うものは記録してこれを用いよ。経典に文がなく義のない説は信受すべきではない」といっている。この釈の心は経文に根拠が明らかであるものを用いよ、文証の無いものは捨てよ、ということである。伝教大師は「仏説に依って、口伝を信じてはならない」といっている。前の釈と同意である)

「大菩薩」と崇められるほどの人であっても、その言葉が経文を基準とし、経文に合致していなければ、その人の言うことは用いてはならないとお認めである。ここで「仏説」とはすなわち御書である。御書の仰せに違背する口伝の類など、信じてはならない。
 かつて日達法主は、自身の相承の内容について「堀上人が全部出してしまったので、特別なものは何もない」と述懐したというが、明快である。
 これが日顕であれば、「唯授一人の血脈相承」の中身とは何か、と問われれば、〝法主の権能〟とばかりに、
「甚深の相承の義に関して、知りもしないことをいい加減にいうものではない」、
「甚深の内容は、余人が知ることなどできるはずもない」
等々、常套文句で投げ返すのが常である。知らないものは、言えるはずもないのである。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:94」を破折する(その三) 連載137回

妄説:94 「当(まさ)に知るべし、此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王(けんのう)と成(な)って愚王(ぐおう)を誡責(かいしゃく)し摂受(しょうじゅ)を行ずる時は僧と成って正法を弘持(ぐじ)す」(観心本尊抄・新編 661頁、全集 二五四頁)

 〔御文証の解釈〕
 上行菩薩などの四菩薩は、化儀の折伏の時には、賢王と成って愚王の謗法を戒めて正法に帰依させ、法体の折伏・摂受の時には、僧となって「法華折伏破権門理(はごんもんり)」の道理にまかせ、正法を護持し弘通する。

 〔創価学会の解釈〕
○自ら「順縁広布の時」を作り、至難の御本尊流布を敢行し、多くの民衆を現実に不幸の底から救ってきたのは、創価学会以外に断じてない。ゆえに、創価学会こそ「賢王」の団体であり、仏勅(ぶっちょく)を受けた「地涌の菩薩」の集いに他ならない。(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 かつて創価学会は、歴代会長の指導のもとに折伏弘教に邁進(まいしん)し「順縁広布の時を作り」「賢王とよばれ」「地涌(じゆ)の菩薩の集い」かと思われた時もありました。
 しかし池田大作氏は、正本堂建立前後より始まった「五十二年路線」において、御本尊模刻をはじめ、数多くの大謗法を犯しました。
 今回は、以前にもまして、日蓮正宗の根本命脈(めいみゃく)である本門戒壇の大御本尊を冒涜し、唯授一人の血脈相承を否定して、創価学会を破門にまで至らしめ、今は「ニセ本尊」を作って配布する大謗法を犯しています。
 したがって現在の創価学会は、草創期以来の日蓮正宗の信徒団体ではなく、ただ単なる新興宗教になり下がっていますから、大聖人の仏法を広宣流布する団体でもなく、まして「賢王」や「地涌の菩薩の集い」でもないのです。

破折:
6.〝犯僧〟日顕が自身を大聖人に重ねる

 日顕は一審での〝シアトル裁判〟で敗訴し、売春婦との破廉恥事件を起こした事実が認定された。それでも宗門は事実を認めようとせず、「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」なる〝駆け出しの小僧〟に反論させたのが、以下の戯言である。
              ◇
 さらに貴殿ら創価学会と離脱僧は、不埒千万にも、御法主日顕上人猊下に対し、〝貴殿は、東京地裁で裁判長から買春の事実を認定された、日本宗教史上、唯一無比の破廉恥宗教家〟などと大欺瞞の誹謗を行っている。なぜ貴殿らは、こうまでして嘘をつくのか。東京地裁下田裁判長のクロウ事件に対する不当判決は、貴殿ら創価学会が東京高裁の、創価学会にとって屈辱的和解に応じた時点で、すべて無効となったではないか。仏法上はまったく無価値とはなっても、一応世間では宗教法人として認知されている創価学会が、国民の規律として遵守すべき法律を、曲解し否定する、そんなことは絶対に許されない。
 仏典には、仏が様々に無実の悪口罵詈を受けられたことが説かれている。また御本仏日蓮大聖人は法華経の行者の御振る舞いの故に「犯僧の名」一天に響くと仰せである。このことを思えば、日顕上人猊下が今日、貴殿ら悪逆の創価学会と離脱僧から誹毀讒謗の限りを受けられていることは、まさに今こそが、日蓮大聖人御遺命の僧俗一致の真の末法広宣流布への出発の時であることを証明するものと言わねばならない。
(「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」HP「五、無実の日顕上人を誹謗する創価学会の虚言」)

 御書を弄び、大聖人と日顕とを重ね合わせるなどと、日顕宗とはいよいよ以ての邪教である。

 四恩抄(九三六㌻)にいわく、
「日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず只法華経を弘めんとする失(とが)によりて妻子を帯せずして犯僧(ぼんそう)の名四海に満ち螻蟻(ろうぎ)をも殺さざれども悪名一天に弥(はびこ)れり」

(日蓮はそうした妻子も持たず、魚や鳥をも食べず、ただ法華経を弘めようとしているだけで、それを失(とが)にされて、妻子を持たずして破戒僧の名が国中に満ち、螻(けら)や蟻(あり)さえも殺さないのに悪名は天下にはびこってしまった)

 本抄に〝犯僧(ぼんそう)〟とあるのは、妻子を蓄え、また魚鳥を食す僧侶のことである。大聖人は、そのような破戒僧でないにも関わらず、法華経を弘めようとするゆえに犯僧とされた、と仰せである。
「妻子を蓄え、また魚鳥を食す」だけでも破戒僧である。まして日顕は「売春婦と関係に及んだ」とあっては、前代未聞の破戒僧と言うべく、還俗させられて当然である。

 日興遺誡置文(一六一九㌻)にいわく、
「一、先師の如く予(よ)が化儀も聖僧為(た)る可し、但し時の貫首(かんず)或は習学の仁に於ては設(たと)い一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も衆徒に差置く可き事」(日興上人)

 日顕は件の「邪義小僧班」に、能化の名で「三宝一体とは、まさに本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、その内証において、一体不二の尊体にましますということであります」(『能化文書』平成三年九月六日付)などと書かせた。
 今回も日顕は「仏が様々に無実の悪口罵詈を受けられた」と、自身を大聖人になぞらえる慢心を小僧共に代弁させている。
「『犯僧の名』一天に響く」との御文を「買春坊主」の行状に読み替えるとは、実に大不敬の極みである。

7.シアトル事件裁判は「学会側の大勝利」

 宗門は、仏法を曲げて法門を捏造するのを得意とするが、法律は曲げようがない。
「不当判決は、貴殿ら創価学会が東京高裁の、創価学会にとって屈辱的和解に応じた時点で、すべて無効となった」(邪義破折班)などは、まさに噴飯ものである。
 学会は一審で完全勝利し、その判決内容は裁判所に永久保管されるのであり、学会の正義は証明されたのである。これ以上、宗門の訴訟沙汰に付き合う必要は無い。
 東京地裁は平成十二年三月二十一日、判決文で「阿部の供述は信用することができない」など17カ所にわたって日顕の嘘を指摘した。
 また「阿部は、(中略)売春婦らと、右ヌード写真撮影ないし性行為の料金の支払について、トラブルになった」と明確に認定するなど、『創価新報』等の記事の真実性を認め、創価学会側全面勝訴の判決を下した。
 これに対し宗門側が控訴。東京高裁で控訴審の審理が行われたが、高裁は平成十三年七月から宗門側に対し、訴えを取り下げるよう強く勧告してきた。
 平成十四年一月三十一日、宗門側は訴えそのものを全面的に取り下げ、創価学会側がこれに同意する内容の和解が成立した。
「学会側が同意」とあるのは、訴えの取り下げには訴訟法上、相手方の同意が必要であり、高裁は創価学会側に対して同意を勧告、学会側がこれに同意する形で、和解の成立に至ったのである。
「不当判決は……すべて無効となった」(前出「邪義破折班」)と言うのは、宗門のぬか喜びに過ぎない。シアトル事件の第一審判決は、裁判所に公式記録として保管され、厳然と残るのである。それがどういう効果をもたらすのか、承知していないと見える。
 宗門にとっては確かに「屈辱的和解」(同)であろう、地裁の決定を不満として、高裁に訴えを起こしたのに、自ら取り下げたのである。
「名誉毀損事件でこんな一方的な取り下げは極めてまれなケース」(学会側:宮原守男弁護団長談)であった。

8.第一審判決は今も厳然と残る

『大白法』には、学会が勝利した一審判決が無効になったと書いてある。はたしてそうか。
              ◇
 特筆すべきは、宗門が訴訟を取り下げ創価学会側がこれに同意することにより、クロウの話だけを一方的に採用した、あの東京地裁・下田判決は、ついに東京高裁において無効と化したことである。
 創価学会側は、宗門の訴訟の取り下げを、宗門が事件が存在しなかったことの主張・立証を放棄したなどと、あたかも自らが勝利したかのように書き立てているが、もし宗門が主張・立証を断念したのであれば、訴訟の取り下げではなく、「控訴の取り下げ」をすることになる。控訴を取り下げれば、1審判決は確定し、その効力は維持される。これに反して「訴訟の取り下げ」は、相手方である創価学会の「同意」のもとでなされるものであって、訴訟は初めからなかったものとなり、1審判決も効力を失うのである(民事訴訟法262条)。
(『大白法』平成十四年二月二日 号外)

 学会側の宮原守男弁護団長が、第一審判決が今後もたらす「効果」を明瞭に述べる(『聖教新聞』平成十四年二月八日付より)。

① 一審判決は裁判所に公式記録として保管される

 ――「大白法」は、民事訴訟法262条をあげて、1審判決は「無効と化した」などと言っていますが。

 宮原 まったくのごまかしです。宗門側は、その条文の1項(※)で、訴えを取り下げた場合には訴えなかったものとみなすと規定されていることを言っているのですが、この規定は、それ以上に1審判決の内容を取り消したり、無効にするというものではありません。

 ――第1審判決は、有効に存在しているということですか。

 宮原 当然です。まず第一に、下田裁判長が下した1審判決は裁判例として厳然と残り、裁判所に公式記録として保管されます。「創価新報」の報道が名誉毀損だという訴えを取り下げたわけですから、「創価新報」の報道と、全文250ページにわたってそれが真実であると認定した1審判決は、厳然と残っているのです。

② 一審判決は別の裁判での証拠(=書証)となる

(宮原) また第二に、今後、別の裁判で日顕氏の遊興事実や人間性が問題になった時には、1審判決は証拠として、そのまま使えます。「創価新報」の記事を真実と認定した、1審判決は、この事件に関する直接かつ唯一の裁判所の公式の認定として、日顕氏という人間を判断するうえで実に重要な証拠となるでしょう。

 ――なるほど。

③ 一審判決は「無効だ」として再訴することができない

 宮原 さらに第三に、1審判決後に訴えを取り下げた場合は、二度と同じ訴えを起こすことはできないのです。先ほどの民事訴訟法262条の2項(※)に定められているのに、宗門側はそれを隠しているのです。宗門側が本当に〝1審判決は無効だ〟というのなら、もう一度裁判を起こしてきたらいいんですよ。そうしたら、こちらが1審判決を出すだけで、たちまち向こうの訴えは却下となります。そのような効力のある判決が、どうして無効などといえるのでしょうか。

 ――「無効」どころか、有効な判決として厳然と残っているのですね。

 宮原 そのとおりです。宗門側が1審判決を「無効化」したいのなら、控訴審の場で、それを覆す判決を得るしかなかったのです。

 ――ところが日蓮正宗は、それができなかったわけですね。

 宮原 そうです。結局、訴えを取り下げてその機会を自分で放棄してしまった。しかも、二度と同じ訴えを起こすことはできないのですから、1審判決は事実上、確定し、宗門側がそれを覆す機会は永遠になくなってしまったわけです。まさしく、創価学会の全面勝利です。だから、創価学会としては訴えの取り下げに同意することにしたのです。

 日顕宗は法律の〝一次的効果〟に目が奪われ、その文言の奥にある〝二次的(派生的)効果〟に配慮しなかったようである。
 宗門側が高裁に「訴えの取り下げ」を申し出たところ、学会側が同意した。この願ってもない成り行きに、宗門側は狂喜乱舞した。もしも学会側の同意が無ければ、法律の手続きの上で「訴えの取り下げ」はできなかったのである(※ 第261条第2項)。
 ともかく再度の敗訴を避けられ、日顕の面目は立ったことが宗門側の主眼であり、派生的効果など念頭に無かったのであろう。
 彼等はこれで〝一審(東京地裁)の敗北を取り返し、同点に持ち込んだ〟と思い込み、「勝訴判決以上の大勝利」との、宗門らしく〝国語の理解能力〟がいぶかられる詭弁を用い、囃し立てた。
 だが、これによって一審判決は、「取り返しのつかない敗北」の記録として未来に保管されゆくこととなったのである。ここに思い至れば、愕然とするであろう。
 すなわち日顕が〝聖職者にあるまじき醜態〟〝恥知らずの行為〟に及んだ事実を認定した一審判決が、裁判所に公式記録として永遠に保管されることとなったのであり、またこれが存するために、日顕は再び「かかる不当な判決は到底承服しがたい」(『大日蓮』)と、一敗地にまみれた東京地裁判決を覆す機会を、永遠に失ったのである。

(※)民事訴訟法 第261条第2項

 2.訴えの取下げは、相手方が本案について準備書面を提出し、弁論準備手続において申述をし、又は口頭弁論をした後にあっては、相手方の同意を得なければ、その効力を生じない。ただし、本訴の取下げがあった場合における反訴の取下げについては、この限りでない。
              ◇
 これは、積極的に争う姿勢を見せた相手方も勝訴判決を受ける正当な利益があるため、その同意なしに、一方的に訴えを取り下げうるとすれば、公平に反すると解されるためである。
(『民事訴訟法講義ノート』平成国際大学法学部講義資料 H.P.より一部抜粋)

(※)民事訴訟法 第262条第1項

 1.訴訟は、訴えの取下げがあった部分については、初めから係属していなかったものとみなす。

「係属」とは、訴訟事件が裁判所の判決手続の対象となっている状態を言う。よって上記の趣旨は、「初めから訴えなかったものとみなす」の意である。
〝訴えの取下げ〟により、訴訟係属が遡及的に消滅し、一審判決も効力を失う。ただし「効力を失う」とは、「消滅する」ことではない。事実や事実の記録自体までもが消滅するわけではないから、調書を他の訴訟で〝書証〟として用いることができる。
〝書証〟として公文書については、真正に成立したものと推定される(民事訴訟法第228条第2項)。
 ゆえに宮原弁護団長の指摘通り、一審判決は ① 裁判所に公式記録として保管され、② 別の裁判での証拠となる。
 これらの効果は、宗門側が見落としていたであろう。たとえ知っていたとしても、不利な話を進んでするわけがなく、口を閉ざしているのである。

(※)民事訴訟法 第262条第2項 

 2.本案について終局判決があった後に訴えを取り下げた者は、同一の訴えを提起することができない。
              ◇
 訴えは、終局判決が下された後でも、確定するまでは取り下げることができるが、終局判決が下された後に訴えを取り下げるときは、再び同一の訴えを提起することは許されない(再訴の禁止、第262条第2項)。
 これは、判決に不服のある原告が訴訟係属を消滅させ、新たに同一の訴えを提起することを防ぐためである。
 また、本案判決を受けたにもかかわらず、自ら訴えを取下げることによって、裁判による紛争解決の機会を排除した原告に対する制裁の意義も併せ持つ(最判昭和52年7月19日、民集31-4-693)。
(前出『民事訴訟法講義ノート』)

 上記解説文の最後の文言は、まさに宗門の立場を説明している。
 すなわち一審判決を受けた後に、自ら二審での訴えを取り下げたことは、この裁判によって事実が明らかになり解決されうる機会を消滅させたのであり、裁判を提起した原告(=宗門側)に対する制裁(ペナルティ)として、再訴が禁止されるのである。
 宮原弁護団長の言う通り、③「日顕はシアトル事件で無実であった」として再び裁判を起こすことは、永久にできなくなったのである。

9.何ら反証できなかった宗門

 またも『大白法』の戯言である。
              ◇
 ところで東京高裁は、「事実を確定するには、証拠上、時間的にも空問的にもまた言語上ないし制度的にも、通常の訴訟に比して、格段に多くの障害があ(る)」とし、「これ以上事実の解明に努力すること」は適当ではないとした。創価学会側に立証責任があること、言いかえれば創価学会側に事実を確定する責任があることを考えると、事実の確定に格段に多くの障害があるとの見解は、東京高裁の創価学会側に対するきわめて厳しい姿勢を示すものである。
(前出『大白法』)

 これも、宮原弁護団長が快刀乱麻に切って捨てる。
              ◇
 ――「大白法」は、和解条項の第1の2(※)の「事実を確定するには……通常の訴訟に比して、格段に多くの障害があり」という部分について、〝この記載は事実についての立証責任がある創価学会側に対する高裁の厳しい姿勢を示している〟などと言っていますが。

 宮原 これも、まったくのごまかしです。宗門が本当に高裁は〝事実の確定ができない〟という心証だと思うのなら、あくまでも判決を求めたはずです。宗門側は、自ら訴えを取り下げざるを得なくなった事実を言い繕うために強がっているに過ぎないのです。

 ――すると、この記載はどういうことですか。

 宮原 まず、高裁はけっして、障害があるから〝事実の確定ができない〟と言っているのではなく、〝これ以上事実の解明に努力することは、宗教団体としてふさわしくないという和解条項の第1の1(※)の趣旨に合わない〟と言っているのです。つまり、この記載は、裁判所が宗門側に対して、訴えを取り下げさせるための理由付けをしている部分です。

 ――1審では学会側は立証責任を完全に果たしたわけですね。

 宮原 そうです。したがって、控訴審では宗門側が事件がなかったことを積極的に反証しなければならなかったにもかかわらず、何ら新しい証拠を出すことはできなかった。だからこそ、1審同様、裁判所から取り下げを勧告されたというのが真実の経緯です。ですから、この記載が高裁の創価学会側に対する厳しい姿勢を示すものだなどと言えないことは明らかです。

(※)和解条項 第1の1
 1.本件訴訟の係属そのものが、控訴人ら及び被控訴人らにおいて、それぞれの教義をひろめ、儀式行事を行い、信者を教化育成して、その維持、発展を図っていく上で、相応しくなく、むしろその妨げとなるおそれがあること そして、控訴人ら及び被控訴人らのそれぞれの多数の信者等も、本件訴訟が、早期に、かつ、できる限り双方の宗教団体としての尊厳を損なわないで、終息することを希求していると推測されること

(※)和解条項 第1の2
 2.本件訴訟の最大の争点は、控訴人ら代表役員のおよそ40年前のアメリカ合衆国ワシントン州シアトル市内における行為が何かという点にあるところ、その事実を確定するには、証拠上、時間的にも空間的にもまた言語上ないし制度的にも、通常の訴訟に比して、格段に多くの障害があり、これまでの双方の当事者、代理人の努力自体は多とするものの、これ以上事実の解明に努力することが上記1の趣旨に沿うとはいい難いこと

10.宗門が言えなくなった〝事件は捏造〟等の誹謗

 さらに『大白法』の妄言である。
              ◇
 次に第2の2において、当事者双方は相互に、今後、クロウ事件の争点にかかる事実の摘示、意見ないし論評の表明をしないことが合意されたが、これは実質的には、池田大作および創価学会は、今後、クロウ報道により宗門や御法主日顕上人猊下に対する名誉毀損行為をしてはならないことを意味する。宗門側はクロウ報道の被害者であり、創価学会側が報道しない以上、宗門側がすすんでクロウの話を取り上げることなどないのであるから、この条項は双方に向けられた形をとってはいるが、実質的には創価学会側の報道を厳禁することに主たる意味を有している。
 最後に「追記」として記載されたのは、「(クロウ訴訟の)争点にかかる事実の存在を単純に否認すること」は構わないというものであるが、この事実の存在とは、クロウの話が真実という意味ではなく、単にその発言内容そのものをさすのであり、これは宗門側がクロウの主張した事実を否認することは差しつかえないことを、念のため明らかにしたものである。
(前出『大白法』)

 再度、宮原弁護団長が宗門側の迷妄を突く。
              ◇
 ――宗門は、シアトル事件に関する「創価学会の報道を完全差し止め」とも言っていますが。

 宮原 差し止めなんてありませんよ。一体、和解条項のどこに、報道差し止めなどと書かれているのですか。和解条項の第2の2(※)は、相互に名誉毀損になる行為をしないという意味に過ぎません。

 ――しかし、宗門側は和解条項の追記(※)をあげて、〝宗門側が事実を単純に否認することは差し支えない〟とも言っています。

 宮原 単純な否認とは、ただ「事実はなかった」としか言えないということです。追記の部分は、それを言うだけならば名誉毀損にはならないだろう、という当たり前のことが書かれているだけです。宗門側が言えるのは、これだけなのです。「クロウ夫人はウソつき」であるとか、「創価学会は事件を捏造した」などと言うことは一切できなくなってしまったのです。

 ――昨年、日顕が出した『真実の証明』なる〝言い訳本〟はどうなるのですか。

 宮原 当然、日顕氏はあの本も、今後は出せなくなったのです。現に宗門側自ら、そのことを認めて、この本などシアトル事件に言及する書籍等の販売・頒布を差し止めるよう、1月31日付で宗内に通達しています。

 ――発言を差し止められたのは、むしろ宗門の方なのですね。

 宮原 そういうことです。むしろ、単に訴えを取り下げただけの場合はもちろん、敗訴判決の時でさえ、あれこれ理由を付けて事実はなかったと言うことはできるわけですが、この条項により、日顕氏は単に「なかった」としか言えなくなってしまった。

 ――まさしく、創価学会側の大勝利ですね。

 宮原 そのとおりです。「大白法」の表現を借りれば、宗門にとっては「敗訴判決以上の大敗北」ですよ。シアトル事件は、これで永遠に決着がついたのです。

(※)和解条項 第2の2
 2.控訴人ら及び被控訴人らは、相互に、今後、上記第1、2記載の争点にかかる事実の摘示、意見ないし論評の表明をしない。

(※)和解条項 追記
 和解条項第2、2は、相互に名誉毀損にあたる行為をしないことを確約する趣旨のものであり、同第1、2記載の争点にかかる事実の存在を単純に否認することはこれに抵触しない。

11.「勝訴判決以上の大勝利」とは大誑惑――勝利は「勝訴判決」あるのみ

 宗門は「勝訴判決以上の大勝利」などと〝意味不明・不得要領〟の言辞を弄し、人々を煙に巻いているが、要は誑惑(たぶらかし)であり詭弁である。
「勝訴判決」以外に、勝利は無い。宗門は「敗訴判決以上の大敗北」(宮原弁護団長談)なのである。
              ◇
 東京地裁での主文
一 甲事件、乙事件及び丙事件原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は、甲事件、乙事件及び丙事件原告らの負担とする。

 東京地裁で原告(宗門側)の請求は退けられ、訴訟費用も全額を負担した。宗門は一審二審をとおして、千四百万円もの印紙を貼った。大惨敗である。
 学会は「勝訴判決」を勝ち取った。大勝利である。
 宗門側は未練たらしくも、東京高裁に提訴したが勝訴の見通しが立たず、やむなく取り下げた。学会が取下げに同意し、和解が成立した。〝勝負なし〟ではない、実はこの措置により「再訴の禁止」事項に該当、宗門は永久に同様の裁判を起こせなくなった。一方で、学会が勝利した一審判決は、裁判所に公式記録として永久保管されるのである。
 宗門がどうしても「阿部は、(中略)売春婦らと、右ヌード写真撮影ないし性行為の料金の支払について、トラブルになった」等と断じた一審判決を「かかる不当な判決は到底承服しがたい」(『大白法』)として認めないと言うなら、再度、裁判を起してみればよい。
 ここで学会が一審判決を持ち出せば、たちまち訴えは却下される。すなわち一審判決は「無効」どころか、「唯一最強の判決」なのである。
「東京地裁・下田判決は、ついに東京高裁において無効と化した」(『大白法』)とあるのは、実は宗門が二度と取り返しのつかない〝負の資産〟である一審判決、その「屈辱の記録」が永遠に存することを、ひた隠しにしているのである。
 邪義破折班が学会に投げかけた言葉は、そのまま返してあげよう。「なぜ貴殿らは、こうまでして嘘をつくのか」。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:94」を破折する(その二) 連載136回

妄説:94 「当(まさ)に知るべし、此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王(けんのう)と成(な)って愚王(ぐおう)を誡責(かいしゃく)し摂受(しょうじゅ)を行ずる時は僧と成って正法を弘持(ぐじ)す」(観心本尊抄・新編 661頁、全集 二五四頁)

 〔御文証の解釈〕
 上行菩薩などの四菩薩は、化儀の折伏の時には、賢王と成って愚王の謗法を戒めて正法に帰依させ、法体の折伏・摂受の時には、僧となって「法華折伏破権門理(はごんもんり)」の道理にまかせ、正法を護持し弘通する。

 〔創価学会の解釈〕
○自ら「順縁広布の時」を作り、至難の御本尊流布を敢行し、多くの民衆を現実に不幸の底から救ってきたのは、創価学会以外に断じてない。ゆえに、創価学会こそ「賢王」の団体であり、仏勅(ぶっちょく)を受けた「地涌の菩薩」の集いに他ならない。(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 かつて創価学会は、歴代会長の指導のもとに折伏弘教に邁進(まいしん)し「順縁広布の時を作り」「賢王とよばれ」「地涌(じゆ)の菩薩の集い」かと思われた時もありました。
 しかし池田大作氏は、正本堂建立前後より始まった「五十二年路線」において、御本尊模刻をはじめ、数多くの大謗法を犯しました。
 今回は、以前にもまして、日蓮正宗の根本命脈(めいみゃく)である本門戒壇の大御本尊を冒涜し、唯授一人の血脈相承を否定して、創価学会を破門にまで至らしめ、今は「ニセ本尊」を作って配布する大謗法を犯しています。
 したがって現在の創価学会は、草創期以来の日蓮正宗の信徒団体ではなく、ただ単なる新興宗教になり下がっていますから、大聖人の仏法を広宣流布する団体でもなく、まして「賢王」や「地涌の菩薩の集い」でもないのです。

破折:
4.29年前の旧悪を暴露された日顕

 1992年(平成四年)6月17日付の「創価新報」等が、1963年(昭和三十八年)3月、阿部日顕が宗門初の海外出張御授戒で訪れたアメリカ・シアトルで、売春婦とトラブルを起こし警察沙汰になったことを報じた。
 宗門側はこれを名誉毀損として創価学会を訴えた。日顕は宗内に向け、次の通り述べている。
               ◇
(前略)しかるに、突如として、それより29年後の平成4年6月に学会員のクロウ・ヒロエなる者が、私の、シアトルに一晩宿泊した際に売春婦と関係を持ち、料金のことでトラブルを生じて警察沙汰になったということを、微に入り細にうがって作り上げ、学会機関紙に大々的に報道いたしました。もとより全く身に覚えのない私は当初、呆然といたしましたが、そののちも、これでもか、これでもかという学会の攻撃に対し、事実無根の認定を取るために、やむをえず平成5年12月15日、東京地裁に民事提訴をしたのであります。
(第37回法華講連合会総会での日顕の言葉より一部抜粋)

 だが、次項でのクロウ夫人の証言を辿れば、「警察沙汰」となった際、日顕はクロウ夫人によってその場から救済されたとある。夫人からすれば、「もとより全く身に覚えのない」と主張する日顕を見るにつけ、「呆然」とならざるを得ないであろう。

5.変質者の正体が明らかに

 以下、東京地裁におけるクロウ夫人の証言の様子が再現される。
               ◇
 東京地裁でクロウ夫人が日顕シアトル買春事件を証言した
 証言が売春婦におよぶと傍聴席の坊主らはみなうつむいた

 昨夜来の雨もやみ、雲間から太陽の光が射しはじめた。十月二日午後一時三十分、東京地方裁判所民事十二部五〇六号法廷、外の天候の変化など無縁な張りつめた時間が経過している。
 証人席には、紫がかったピンクのシックなスーツの装いに身を包み、パールのネックレスをし、黒のハンドバックを携え、黒い靴をはいた一人の婦人が落ち着いた雰囲気で座っている。
 黒の法服をまとった三人の裁判官が入廷し、一段高い裁判席に座った。中央が篠原勝美裁判長裁判官、右陪席は生島弘康裁判官、左陪席は岡崎克彦裁判官。
 傍聴人席一列目には、日顕宗渉外部長・秋元広学、教学部長・大村寿顕、庶務部長・早瀬義寛、海外部長・尾林広徳などの顔が並ぶ。買春の当事者である日顕の息子・大修寺住職の阿部信彰は二列目に座っている。
 その他、仲居・駒井専道、渉外部主任・梅屋誠岳、法忍寺住職・水谷慈浄、アメリカの妙信寺住職・高橋慈豊などが確認された。日顕宗側の総勢は、約十五名前後。
 創価学会側関係者も、柏原ヤス参議会副議長をはじめとする十数名が傍聴していた。
 書証提出手続きの後、裁判長が人定質問。つづいてクロウ夫人が、
「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」
 と、しっかりした声で宣誓をおこなった。この間、法廷内はシワブキひとつ聞こえない緊張した雰囲気。
 クロウ夫人の証言は、被告(創価学会)代理人・宮原守男弁護士の質問に答えるかたちで進められた。
 まずは、クロウ夫人の経歴、信仰歴が語られた。そして、日顕シアトル買春事件の核心に向かって、証言が進められていく。
 クロウ夫人の証言のあらましは、つぎのようなものであった。
               
 一九六二年十二月二十一日、長男出産。九日後の十二月三十日に夫が死亡。年が明けて一九六三年の一月三日に夫の葬儀を終え、その直後の一月十五日にシアトル支部が結成され支部長となった。三月におこなわれる第一回海外出張御授戒を大成功させようと必死の思いだった。
 三月十九日、カワダ・ケイコ宅の御授戒場に日顕を迎え、法衣の着替え。子供部屋で着替えたが、カーテンに隙間があったのでシーツで押さえていたら日顕が、
「まるでストリップ劇場みたいですね」
 と、まったく場違いな声をかけてきた。さらにあきれたことに、
「アメリカでは、ああいうエロ写真は簡単に手に入るんですってね」
 と、まるで低俗な店で働く女性に言うような言い方で話しかけた。まったくバカにされたような感じがした。
 御授戒を八時~九時ごろ終え、軽食、懇談の後、ホテルへ十時ごろ送った。カワダ宅にもどって懇談したり、シカゴ行きの準備をしていたら、午前二時ごろシアトル警察の警察官より電話があった。
 あわてて警察官が指定した場所に、自分の車(一九六〇年型シボレー)に乗って向かった。七番街から左折し、パイク通りに入ったすぐ右側にパトカーが停まっていた。二人の警察官がおり、日顕は一人の警察官の胸によりかかるようにして泣いていた。
 日顕はクロウ夫人に、
「道に迷った……」
 と話したが、あとは声にならなかった。
 一人の警察官が、私(クロウ夫人)に説明したところによると、
「この男は、スカートをめくる仕草をしながらカメラのシャッターを切るジェスチャーをし、札束を見せつけ、ヌード写真を撮らせてくれと売春婦に頼んだ」
 また、警察官が言うには、日顕は、
「二人の売春婦と部屋にいた」
 とも語っていた。
 私はその話を聞いて、このままでは予定されている明日のシカゴ行きがダメになると思い、日顕の無実を訴えた。日顕が高い位の僧侶で、宗教目的でシアトルを訪れたもので、決してそのような行為をおこなう人ではないと話した。
 私の懸命な説得により、結局、日顕は「リリース」(釈放)してもよいということになった。日顕の代わりに私が警察署に行くことになり、とりあえず日顕をホテルにもどし、二度と外出しないよう念を押した。
 私がシアトル警察についたのは、深夜の三時であった。私は、英語のできない日顕をバカにしている、売春婦に会わせろと、現場でも要求したが、訪れた警察署でも訴えた。警察は、
「売春婦には会えない」
 と言った。それに対し私は、
「ホラ、ごらんなさい」
 と言って、さらに必死に抗議をした。すると、それまで物静かだったもう一人の警察官が、
「あの男は、もう一人の売春婦と性行為が終わっているんだ。それをめぐるトラブルだ」
 と私に説明した。

 この証言につづけて、クロウ夫人はシアトル警察で、出頭したことを認める書面、現場での説明と警察署での説明が同じであることを認める書面、日顕について責任をもつ旨の書面、以上三つの書面に署名をおこなったことを証言した。
 すべての署名を終えたところで、二人の警察官の上司が、
「あなたは強い女性だ。こんな時間まで本当にご苦労さま」
 と、クロウ夫人にねぎらいの声をかけたということである。すべてが終わったのは、午前四時前。クロウ夫人は一睡もせず、日顕のシカゴ行きの準備をした。
 クロウ夫人は、これらの証言を落ち着いた雰囲気で切々と語った。
 クロウ夫人の証言が売春婦に及ぶと、日顕宗の坊主らはみな下を向き、悄然としていた。阿部信彰は、父親である日顕の破廉恥な行為をどのような思いで聞いたのだろう。日顕宗の坊主らは、一様に顔をこわばらせ、法廷を去っていった。
(『地涌』第883号 1995年10月3日 日蓮正宗自由通信同盟)

6.全く懲りない日顕

 買春した日顕を取り調べた警察官が2名とも生存していた
 クロウ夫人は再会したそうだから日顕も会ったらどうだ

 十月九日午後一時三十分より三時二十分まで、東京地方裁判所民事十二部五〇六号法廷において、日顕シアトル買春事件についてのクロウ夫人の証言がおこなわれた。クロウ夫人は黒地に金の模様の入ったシックなスーツに黒い靴、黒いハンドバックの装いで証言席に座った。
 クロウ夫人は、創価学会側の宮原守男弁護士の尋問に答え、きわめて落ち着いた調子で証言をおこなった。
 まずクロウ夫人は、一九六三年三月二十日の朝の模様について証言した。日顕は、十九日から二十日にかけての深夜、売春婦と性交をおこない、二人の売春婦と金銭的トラブルを起こし警察沙汰となった。
 それでは、その事件の衝撃醒めやらぬ二十日の朝から昼まで、日顕はどのような様子だったのだろうか。以下、クロウ夫人の証言に基づき、記述していく。

 私(クロウ夫人)は、ホテルの日顕の部屋に和食の朝食を届けた。そのとき私は、同日未明、シアトル警察署において書類に署名し一件落着したことを日顕に報告した。すると、日顕は無言で深々と頭を下げた。そのときは、他の婦人も同行していたので、それ以上の話はしなかった。
 その後、つぎの出張御授戒先であるシカゴに行くため、ホテルからシアトル空港に向かった。空港で、シアトルのメンバーからのお土産を渡した。日顕は、その紙袋を開け、中身をすぐ確認した。中身は、シアトルの観光名所などを撮った絵ハガキなどであった。
 それを見たあと、日顕は私に、
「ああいう写真は、空港では売っていないんですね」
 と尋ねた。私は、日顕の言う「ああいう写真」の意味するものが、いかがわしい写真であることがすぐわかった。
 私は、
「空港では売っていません」
 と答え、心の内で、
「なんという人だ。頭がおかしいのではないのか」
 と思った。
 シカゴ行きの飛行機は、通路をへだてて左右に三列ずつの座席が並んでいた。座席は、当初、日顕が窓側、一つ座席を空けて、通路側に私が座るよう指定されていた。
 ところが日顕は、私に座席をかわるように要請した。二人は座席を交替して、日顕が通路側に座った。
 しかし、希望の座席に座ったのに、日顕はなかなかシートベルトをつけなかった。金髪のスチュワーデスが、日顕のシートベルトをつけるために、前かがみになって日顕のシートベルトに手を伸ばした。
 そのとき、日顕が右手でスチュワーデスの胸をつかんだ。スチュワーデスは小さな声を上げて後ずさりした。スチュワーデスは気を取り直して、再びシートベルトをかけようとした。今度は、日顕はスチュワーデスの腹部に頭をこすりつけた。
 昼食時となり、同じスチュワーデスがランチを座席まで持ってきた。スチュワーデスは、ランチを運ぶワゴンを日顕の座席脇にピタリとつけ、日顕の動きを封じていた。日顕は、このシカゴに向かう機内を、カメラを持ってフラフラし、乗客に断りもしないで写真を撮って回った。
 この飛行機の中で、私は日顕に事件のことを聞いた。日顕は、
「喉が渇いたので、ホテルの外に酒を飲みに出た。このとき、夜景がきれいなのでカメラを持って出た。右に右に歩いていっているうちに、道に迷った。金髪の女の人と一緒にコーヒーを飲んだ」
 などと、私に話した。その後のことを聞いても、日顕はトボけるだけだった。日顕は、私が現場で事件当夜、日顕から直接聞いた話とも違うことを言った。この日顕の話の内容や、話し方、表情を見ていて、私は、
「本当のことを言っていない」
 と思った。
 同じ年の五月三日、日大講堂において第二十五回本部総会が開かれた。私は、この本部総会に出席し支部旗を拝受した。その総会終了後、日達上人の控室に貞永アメリカ総支部長(当時)と共に呼ばれた。控室には日顕もいた。その日顕をそばに置き、日達上人は私に対し、
「本当に、シアトルではお世話になりましたね。私は、コレのことはよく知っています」
 と御礼を言った。それを聞いた日顕は、あわてて立ち上がり、テーブル・クロスに顔がつくほど深々と頭を下げた。
(『地涌』第884号 1995年10月11日 日蓮正宗自由通信同盟)

7.クロウ夫人に〝贈り物攻勢〟

 十月九日における地裁でのクロウ夫人の証言が続く。
               ◇
 一九八〇年十二月、日顕が〝法主〟となってアメリカを訪れた。このとき、ロサンゼルス妙法寺住職・坂田正法を通して日顕が会いたいと言っている話が私にあったため、NSAの許可を受けてロサンゼルス空港に出迎えた。
 私は、出迎えの人たちのもっとも後ろにいたが、日顕はツカツカと私の前まで来て挨拶をした(ここで、クロウ夫人と日顕が映っている写真が証拠提出された)。
 一九八三年におこなわれた、私の娘であるジュディーの結婚式に際しては、文京区西片にある日顕の自宅(大石寺東京出張所)から、私の自宅へ日顕からの御祝が届けられた。
 娘のジュディーには星月菩提樹の念珠、私にはインド翡翠の念珠が、それぞれ贈られ、娘への念珠の入った箱には、
「御祝 阿部」
 という熨斗紙がかけられていた。
 この御祝の品が〝法主〟日顕から私のもとに届けられていることは、私が話してもいないのに結婚式をおこなった妙法寺住職・坂田が知っていた。
 結婚式のリハーサルをやったとき、坂田がその日顕からの御祝の件を話し出し、結婚式で贈呈式をやることになった(その結婚式のビデオには、坂田の挨拶が記録されている。クロウ夫人はその英語の挨拶を文章化し、日本語の翻訳をつけて陳述書として証拠提出した。その陳述書によれば、坂田は挨拶の中で明確に「この念珠は日顕からの贈り物である」ことを述べている)。
 その後、日本に私が来たとき、いつものように日顕から届けものがあった。私は返礼品を日顕に届ける時間がなかったので、知人に託し日顕の自宅(大石寺東京出張所)に送ってもらった。このとき、知人宛に日顕の女房・阿部政子から、
「クロウさんからの預かり品を送ってもらってありがとう」
 といった趣旨の手紙が送達された(クロウ夫人から、この手紙も法廷に証拠として出された)。
 私のところには、「歳暮」も届けられたことがある。
 その「歳暮」は「阿部政子」名で私の自宅に届けられた。私は、このときの「税関告知書」を現在も所持しており、その書面には、送られた品が「ドライド・レイヴァ」であったことが記されている。「ドライド・レイヴァ」とは「海苔」のことである(この「税関告知書」も、クロウ夫人より証拠として法廷に提出された)。
 私は、日顕から個人的に御礼を何回も受けてきた。
 私が、日顕がシアトルで起こした事件について二十九年間誰にも話さず黙ってきた理由は、そのことを話せば創価学会や宗門に傷をつけることになる、あるいは栄えある「第一回海外出張御授戒」に拭い難い汚点を残すことになると考えたから。
 私は、一九六三年五月三日に支部旗を授与されるために出席した本部総会で、この事件について絶対に他言しないことを心に誓った。

8.日顕を庇って法主に登座させてしまった慙愧の念

 その私が、この事件の真実を公表するに至ったのは、平成二年十二月、日顕が池田名誉会長を日蓮正宗総講頭職より突如、実質的に罷免したことにはじまる。
 海外にいた私は突然の総講頭罷免に驚き、直接に事情を問いただすため日顕宛に書状を書いた。しかし日顕は、まったく無視。その後も、日顕が添書登山を実施し創価学会組織の切り崩しをはかり、ついには、創価学会を〝破門〟する狂乱の様を見て、
「私が黙ってきたことにより、こんな〝法主〟にふさわしくない人を、その地位に座らせてしまっている……」
 と、私は悩みに悩み、このことを公表すべきだと考えるようになった。そのような折に、聖教新聞社の横田政夫記者が、アメリカ広布の草創期の戦いについて電話で取材してきた。
 横田記者は、一九六〇年の池田名誉会長の初訪米などについて聞いた後、
「一九六三年の第一回海外出張御授戒のとき、道に迷った日顕を助けたことがあるそうですね」
 と、私に聞いてきた。私は、その横田記者の問いに対し、即座に、
「いや違うんです、そうじゃないんです」
 と否定し、シアトルの事件について、かいつまんで話をした。驚いた横田記者は、改めて翌日、私から直接、詳しく取材した(横田記者の取材は、平成四年五月。のち六月十七日付『創価新報』に、同事件についての記事が掲載された)。
 私は、事件当夜、日顕を取り調べた二人の警察官と、本年に入って再会した。
 一人は、ミスター・スプリンクルで、三月に会った。互いに顔を見て、すぐわかった。ミスター・スプリンクルは事件の真実について、どこにでも出て証言すると語っている。
 もう一人は、一カ月前に会った。この人物は、私が事件当夜、激しく抗議した相手であった。その人物も、私のことをよく覚えていた。

 クロウ夫人は、以上のような証言をおこなった。この証言により、日顕の異常なまでの性欲のみならず、事件後に日顕がクロウ夫人にひとかたならぬ気遣いをしてきた経過が明確となった。
 さらにはクロウ夫人の口から、日顕シアトル買春事件において日顕を取り調べたシアトル市警察の警察官二名と、本年に入って再会していた事実が証言されたことは、買春の事実をあくまで否定し通そうとする日顕にとって致命的であった。
 一九六三年三月二十日未明、シアトルの売春街で顔を合わせた四名は、三十二年後の今日にあっても全員が生存していたのだ。そのうち、日顕を除いた三名が、日顕シアトル買春事件の夜のことを覚えている。
 これでもまだ日顕はシラを切り通し、日顕宗あげてクロウ夫人をウソつき呼ばわりするのだろうか。
(同)

9.宗門は最初から事件を知っていた

 クロウ夫人が真実を語るまで、学会には「道に迷った日顕を助けた」としか話が伝わっていなかったが、宗門では当初から、事実が知れ渡っていた。
 故・渡辺慈済師の回顧によると、事件から一か月経った三十八年四月下旬のことである。細井管長(日達法主)の娘婿である菅野慈雲が「慈済さん知ってるかい?」と切り出して、次の通り話し出した。

「教学部長が、アメリカで事件を起こして、大失敗したそうだよ!」

 菅野慈雲が知っていたのは、日顕が「道に迷った」どころの騒ぎではない、「事件」を起こし、「大失敗」したことであった。
 当然ながら、細井管長の耳に達しないわけが無い。本部総会終了後、細井館長の控室にクロウ夫人を呼び入れ、わざわざ御礼を言ったとあるのは、事件の重大性を物語っている。

「本当に、シアトルではお世話になりましたね。私は、コレのことはよく知っています」

〝道に迷った日顕〟を助けた御礼の文言ではない。日顕が「あわてて立ち上がり、テーブル・クロスに顔がつくほど深々と頭を下げた」のも、無理からぬことであった。
 宗門では法主が〝白〟と言えば、〝黒〟も〝白〟でなければならない。宗内に知れ渡っていた日顕の醜聞も、その日顕が猊座に居るとなれば、初めから無かったことにしなければならない。それが宗門という〝嘘つき集団〟の宿命である。
                          (続く)
 

プロフィール

Author:墨田ツリー

 
 
 

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