05 -<< 2014-06 -  123456789101112131415161718192021222324252627282930  >>07 -
 
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:96」を破折する(その六) 連載145回

妄説:96 「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違(たが)ふ時は(中略)即身成仏の血脈を承(う)くべき資格消滅せり」(有師化儀抄註解・富要 1-176頁)

 〔御文証の解釈〕
 御本仏への信心が、不善・不浄の邪心・迷信となり、仏意に背く姿となったときには、御本仏からの法水は、通路がふさがってしまい流れません。根本に信順しなければ、迷いの衆生となり、即身成仏の血脈・信心の血脈を受ける資格が消滅してしまいます。

 〔創価学会の解釈〕
○日顕(上人)は、仏意仏勅の学会を破門し、仏意に背(そむ)いた邪信の徒であり、「即身成仏の血脈」を受ける資格を失っている。よって御本尊を書写し、下付する資格も消滅した。(聖教新聞 H五・九・一九 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 この御文は「信心の血脈」についての一段ですが、学会は「学会こそ仏意仏勅の団体」という前提に基づいて、その学会を破門した日顕上人と宗門こそ「悪」であり「仏意に背いた邪信の徒」と解釈しています。
 しかし、仏意とは御本仏日蓮大聖人のお心であり、それは血脈相承として御歴代上人に受け継がれています。
 創価学会は昭和二十六年、宗教法人を取得する時に宗門と約束をしました。それは、
①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
②当山の教義を守ること
③仏法僧の三宝を守ることの三ヶ条を遵守(じゅんしゅ)することです。
 以来、総本山大石寺を根本と仰ぎ、この大原則を守りつつ宗門外護と、広宣流布への前進があったことは周知の事実です。
 しかし正本堂建立のころから、徐々(じょじょ)に仏法上の逸脱が現われ始め、ついに「昭和五十二年路線」で当初の三ヶ条の約束を完全に破棄し、学会は「仏意に従う団体」の資格を自ら放棄したのです。一度(ひとたび)は日達上人に謝罪し、反省をしたうえで正道に進むことを誓いましたが、平成二年の末に至り、その反省が虚偽であったことが明らかになりました。
 宗門から仏法の道理に基づく教導を受けながらも、「仏意に違う」姿となって反目し、誹謗を繰り返し、自らの団体が定めた基本原則をも捨て去ったために、学会は破門となったのです。
「即身成仏の血脈」を受ける資格を失ったのは創価学会なのです。
 この御文の真意は、本門戒壇の大御本尊と、唯授一人血脈相承を「仏意」と拝さなければ正しく理解できないのです。

破折:
13.火災直後の宗門 
(1)管長代務者は〝宗門の謗法〟を認めた

 昭和二十年六月十七日の午後十時半ごろ発生した大石寺の火災により、六十二世鈴木日恭法主が焼死した。このため一時、管長代務者となった中島廣政(日彰)は、昭和二十年九月の妙光寺彼岸会において、日恭の死は〝考えられないような不運〟が重なった結果であると話した。
              ◇
 ここに、日恭亡きあとの宗務を統括した管長代務者・中島廣政が、大火三カ月後の九月に品川・妙光寺で話した話の記録がある。この記録は、中島の話を直に聞いた信徒の竹尾清澄が「数日後」にまとめたものである。それによれば、中島は、
「皆様も御承知の大石寺の対面所、大書院及客殿が炎上し日恭上人が御焼死なさったことについて一言申上げます」
 と前置きし、出火の原因が、
「一所化の失火」
 であったとし、大火になったのは、以下の不幸が重なったためであったと公言した。
「書院には三百名の農耕兵が居りましたが或事情のため消火に協力出来ず門前にあった消防自動車は故障のため使へず上井出から来た戰車学校の自動車はガソリンを忘れたため是亦役に立たず富士宮では消防自動車が大石寺出火と聞き逸早く出動準備を整へたのでありますが署長不在のため命令を受けられず、空しく時を過ごし上野署よりの応援要請で馳著けた時は火は既に客殿に移り手の下しやうもないと云ふ此上ない悪條件揃ひであって洵(まこと)に宿命と申す外はないのであります」
 そのうえで、
「然し金口嫡々の法主上人が此くの如き御最期を御遂げになったと云ふことは僧俗共に深く考へなければならぬことで是は大聖人大慈の御誡(おんいましめ)であります」
 と結論しており、その後の話のなかでも、
「大聖人様の大慈の嚴誡でありませう 私共は深く省み奮然と起って行学の本道に邁進し廣宣流布の大願成就を期せなければなりません」
 と強調している。
(『地涌』第888号 1995年11月5日)

 中島はこのとき、出火原因が「一所化の失火」であることを認めている。やはり宗門の公式記録(※)は、都合の良いように創作したものであった。

(※)宗門は『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』(日蓮正宗布教会〈代表・細井精道〉昭和三十一年発行)において「丁度静岡市空襲の晩に此れ等の兵隊がガソリンを撒布して、將校室となつていた其の對面所の裏側の羽目に火を付けたのである」と記して朝鮮兵農耕隊による放火と捏造、宗門在籍者による失火の咎(とが)を転嫁したのである(前回「妄説:96」(その五)連載144回参照)。

 また中島は「宿命」と言った。すなわち法主の焼死は〝因果律〟の下にあり、謗法による〝罰〟であったことを認めていたのである。

(2)高僧が〝宗門全体に對する御罰〟と悔恨

 また久留米の霑妙寺住職、渋田慈旭大僧都が懺悔した言葉は以下の通りであった。
              ◇
 顧(かえり)みれば昭和二十年の六月時(とき)恰(あたか)も空襲酣(たけなわ)なる十七日の夜半それは終戦も間近い頃であつた。吾が總本山の不祥事件を地方の新聞でも初號(しょごう)活字の見出しで相當大きく取り扱つて居た、私は其の記事に引きつけられて空襲警報のサイレン等は勿論不感症になつてたゞ震へる手に其の記事を見守つて居た。何と云(い)う事だ、宗門は駄目だ、戦争も駄目だ、思はず大きな聲で一人言を云つて見た。どう考へて見ても御戒旦(ごかいだん)の霊場にかゝる不祥事が起らうとは實際割り切れぬ問題である。私は愛山護持の任にある本山の僧侶方のみを責むるには余りにも大きな問題である。宗門全体に對する御罰(おんばち)でなくて何であらう、今こそ宗門の僧俗一同の責任に於て深く惣懺悔(そうざんげ)をしなければならぬ。(中略)
 宗門も中古以来神天上等の法門などすつかり棚に上げて自然と世間の風潮になじんで軟弱化して来た事、特に戦争中は軍の一色に塗り潰ぶされて官憲の手前大事な国家諌暁等は勿論、眞の布教は封ぜられ結局時局便乗で進むより外は實際に手も足も出なかつた。大聖人の弟子として何と情けない事か、本山の霊場も當時は其兵團の本部に汚されて居た事等をも自省せずにはいられなくなつた。
(『宗報』昭和二十三年六月号「懺悔と復興」)

 宗内の高僧でさえ、この大不祥事の原因を「宗門全体に對する御罰」と受け止め、悔恨したのである。今この手記を読めば、ことごとく正鵠(せいこく)を射た指摘であると納得する。
 しかし現宗門は、これらの懺悔を「個人の感想」でしかないと言い、未だに宗門全体の謗法による厳罰であったことを認めようとしない。
 だが、管長とは〝宗門の意志を体する者〟であり、代務者は管長に準ずる者ではないか。その代務者の言葉が、単なる「個人の感想」なのか。宗門の高僧とは、それほど軽い立場にあるのか。
 宗門は一度、深く懺悔した。だが日顕宗はそれを否定した。ゆえに宗門は今に至るまで謗法が続いているのである。

14.法主の焼死が意味するもの

 本山の火災当日におけるエピソードが、管長代務者であった中島廣政の懐古談にある。
              ◇
 日恭上人がお隠れになる、その日ですね。私はその頃、財務の方を預かっていたから、ある用件を、行って申し上げた。それは、すっかりお聞きになった、帰ろうと思って奥を出て、次の間に来たら、「おい」と呼ばれた。「何ですか」と言ったら、「あれはな」という。「御相承に関するのは、こういうところに入れてあるから、あなた覚えておきなさい」と。「承知しました」と言って、私はそのときに奥を下ってきたけれども、〝まてよ、今日に限って日恭上人が変なことを言われたぞ。日恭上人に何か事がなければいいな〟と思っていた。そうしたところが、その晩でしょう。
 そのときに、日恭上人が私にお話なさった言葉を、その翌日か翌々日に、堀猊下がいらっしゃった時分に、一切のことを申し上げたら、堀猊下は「それは日恭上人は、それぐらいのことはあるはずだ」とおっしゃって、手帳へお書きになった。
 それから、次の猊下になられた日満上人にも、私はこのことを申し上げた。
(『大白蓮華』昭和三十二年十二月号・第七十九号)

 火災当日、日恭法主が死を予兆したかのような発言をした、との談話である。宗門はこれをもって法主は死を覚悟していたと言う。 

「日恭上人の御最期は確かに、明治維新における廃仏棄釈以来の神道中心の国家的謗法行為と、その結果としての戦争の世紀を総括される一切の責任を負われた崇高なお振る舞いであられたことは、その従容たる覚悟のお姿によって明白である」(『大白法』H14.9.1)

 日恭が「明治維新以降の国家的謗法」を総括してその責任を取った、とはいかにも大風呂敷に話を広げたものである。
 それでは中島廣政の話に登場した堀日亨師はどう思っていたか。日恭の直弟子であった大橋慈譲(神奈川県・正継寺)は、日亨師の当時の言葉を記している。
              ◇
 客殿の焼失され恭師の亡くなった理由をお伺いした。処が以外な解答かかえって来た。 私はもっともらしく信仰的意味づけがあると思ったら、何もなく唯原因あって焼けた、それ迄であると云う。
 即ち恭師は足腰の弱いのに二階に住んでおった。「私(亨師)は再三、貴師(恭師)は二階が好きらしいが、脚気等を起こして足腰が弱いのですからいざと云う時危険です。二階住いはやめなさいと注意しておったが、一向にやめないで、終りにあの様な最後を遂げた。二階住いしなかったら焼けなかったろうに。
 信仰的意味づけは立派であるが、それは事実と違うのではないか。原因結果しかない。」と、淡々と語られた。私は全くびっくりした。全く予想しないことであった。それは私は自分が思っている隠居さんと実際のイメージとは、相当の隔たりを予想しない訳には行かなかった。
(『大橋慈譲講本集』より堀日亨上人御指南)

 日亨師はあけすけに答えたが、大橋にとってはかなりのショックであった。前出の『大白法』が言うような「もっともらしく信仰的意味づけ」を期待していたのである。
 大橋は不遜にも、日亨師に対し「見損なった」と言わんばかりの不満を手記に洩らしている。裏切られた思いなのであろう。
 しかし、大橋の意に沿うようなことを日亨師が話さなかったからと言って、それを恨むには当たらない。日亨師の言うことは事実であり、また日恭が「足腰が弱い」ことを平素から気にかけていたのである。
              ◇
 日恭法主が逃げ遅れた理由は肥満で、足腰も弱かったためであった。堀日亨上人は、日恭について次のように書き残している。
「(日恭は)酒は一升程も飲んでいたが、酩酊して前後不覚になることはなかった」というから、余程の大酒飲みだったようだ。
「脂肪は摂取過ぎ」だったとのことだから、肉食を好む生臭坊主だったことが分かる。更に「運動不足の為か老年にはビヤダル(樽)式に腹部が肥満して不格好で不健全の体に見え足弱であった」「阿蘇火山に誘引せし時の先達の愚老が大に迷惑して世話のやけた事夥しかった。山登りばかりで無く、平地の歩行も予が健脚には及ばず」と。
(『フェイク』第1216号 発行=11.06.29)

 日亨師が「二階住いはやめなさいと注意」したのに聞き入れなかった、このことは、日恭が峻厳なる因果律の果報を受けることがすでに決定していたため、と納得するのである。火災当日になって日恭が死を予兆したというのも、逃れるすべはないことを感じたためであろうか。
 そのゆえに「御相承に関するのは、こういうところに入れてあるから、あなた覚えておきなさい」と言い置いたわけであるが、それも大火災の中でどうなったか。このことは回をあらためて話したい。
 日恭は、本来なら火事で被災するような状況下にはなかった。日恭はそのころ本山に住まっていなかったが、火災当日になってにわかに本山に宿泊することとなったのである。 
              ◇
 ① 日恭は耳が悪くなり、上井出地区の寿命寺に逗留して、その近くにあった戦車学校の軍医に治療をうけていたが、この日に限ってわざわざ登山した
 ② 有力信徒が登山すると連絡があり、無理を押して登山したが、その信徒は急用で来なかった
 ③ 上井出から迎えが来たが、それを断って大奥に泊まった
(前出『フェイク』)

「偶然が重なる」と言うことは仏法にはない。すべての物事が、因果律のもとで作用した結果である。
 それに対し前出の『大白法』のように、死亡した法主の周囲で勝手に美化すれば、仏法の道理を誤って解釈することになる。それに、安易に人情に落ちてはいけない。
 それでも日亨師は、大橋慈譲は日恭の直弟子であり、その師匠である日恭が「大聖人大慈の御誡(おんいましめ)」すなわち罰を蒙った、等の直截な言い方をしては大橋には酷である、そう配慮してか「二階住いはやめなさいと注意した……原因結果しかない」との、卑近な例をもって説明するに留めたと思えるのである。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:96」を破折する(その五) 連載144回

妄説:96 「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違(たが)ふ時は(中略)即身成仏の血脈を承(う)くべき資格消滅せり」(有師化儀抄註解・富要 1-176頁)

 〔御文証の解釈〕
 御本仏への信心が、不善・不浄の邪心・迷信となり、仏意に背く姿となったときには、御本仏からの法水は、通路がふさがってしまい流れません。根本に信順しなければ、迷いの衆生となり、即身成仏の血脈・信心の血脈を受ける資格が消滅してしまいます。

 〔創価学会の解釈〕
○日顕(上人)は、仏意仏勅の学会を破門し、仏意に背(そむ)いた邪信の徒であり、「即身成仏の血脈」を受ける資格を失っている。よって御本尊を書写し、下付する資格も消滅した。(聖教新聞 H五・九・一九 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 この御文は「信心の血脈」についての一段ですが、学会は「学会こそ仏意仏勅の団体」という前提に基づいて、その学会を破門した日顕上人と宗門こそ「悪」であり「仏意に背いた邪信の徒」と解釈しています。
 しかし、仏意とは御本仏日蓮大聖人のお心であり、それは血脈相承として御歴代上人に受け継がれています。
 創価学会は昭和二十六年、宗教法人を取得する時に宗門と約束をしました。それは、
①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
②当山の教義を守ること
③仏法僧の三宝を守ることの三ヶ条を遵守(じゅんしゅ)することです。
 以来、総本山大石寺を根本と仰ぎ、この大原則を守りつつ宗門外護と、広宣流布への前進があったことは周知の事実です。
 しかし正本堂建立のころから、徐々(じょじょ)に仏法上の逸脱が現われ始め、ついに「昭和五十二年路線」で当初の三ヶ条の約束を完全に破棄し、学会は「仏意に従う団体」の資格を自ら放棄したのです。一度(ひとたび)は日達上人に謝罪し、反省をしたうえで正道に進むことを誓いましたが、平成二年の末に至り、その反省が虚偽であったことが明らかになりました。
 宗門から仏法の道理に基づく教導を受けながらも、「仏意に違う」姿となって反目し、誹謗を繰り返し、自らの団体が定めた基本原則をも捨て去ったために、学会は破門となったのです。
「即身成仏の血脈」を受ける資格を失ったのは創価学会なのです。
 この御文の真意は、本門戒壇の大御本尊と、唯授一人血脈相承を「仏意」と拝さなければ正しく理解できないのです。

破折:
12.大石寺炎上

 日蓮大聖人の正義を奉じたゆえに、官憲の咎めるところとなった牧口会長は、昭和十九年十一月十八日、巣鴨拘置所で七十三年の死身弘法の生涯を閉じた。
 その翌年、昭和二十年六月十七日の午後十時半ごろ、大石寺の大奥対面所の裏より火災が発生した。それは大奥・大書院・六壺・客殿など五百余坪を焼失し、翌朝四時ごろまで続く大火となった。
 火がおさまって後、大奥(法主の居室)の焼け跡から、二階に泊まっていた管長、鈴木日恭の焼死体が発見された。大石寺の火災で死亡したのは、日恭ただ一人であった。

(1)火災の原因
① 宗門の公式記録 ~〝朝鮮兵の放火〟と捏造

 火災の原因は何であったか、どうして法主は焼死したのか。宗門の公式記録文書には次の通り綴られる。
              ◇
 先づ其の出火から言えば、大石寺大奥の管長居室は二階建の座敷であつて、其の三間程距てた所に応接室の對面所という建物があつた。世界大戰も漸く苛烈になつて來て、陸軍では朝鮮の人達を悉く兵隊として、全国の各地に宿泊せしめて居たが、大石寺も其の宿舎となつた為め数百名の朝鮮人の兵隊が大石寺の客殿から書院に宿泊して居つた。そして此れを訓練する將校が二十数名も對面所に宿泊していたのである。
 丁度静岡市空襲の晩に此れ等の兵隊がガソリンを撒布して、將校室となつていた其の對面所の裏側の羽目に火を付けたのである。其の為め火は一瞬にして建物の全部に燃え上つたのである。其れが為めに將校は身の廻りの者(ママ)を持つて僅か三尺の縁側の外に逃げるのが漸くであつたのである。火はやはり殆ど同時に管長室に燃え上つたのである。侍僧は階下に寝ていたが、反対側の窓を破つて、之れまた漸く逃れたのである。此時には一山の者が駆けつけたが、最早や、手の施し樣もなかつたのであつて、忽ちのうちに二階建は焼失して了つたのである。一同は其れよりも延焼を防ぐべく努力したが、遂に客殿、書院、土蔵を灰燼に帰せしめたのである。
(『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』日蓮正宗布教会〈代表・細井精道〉昭和三十一年発行)

 だが、この公式記録文書は極めて信用し難い。
              ◇
 同書は大石寺の出火の原因を朝鮮兵農耕隊になすりつけ、それも放火によるとした。これは、まったく許すことのできない捏造である。
 捏造のボロは出るもので、静岡空襲があったのは六月十九日深夜から二十日にかけてであり、大石寺に大火があったのは、同月十七日夜から十八日未明にかけてである。日時が違っている。
(『暁闇』北林芳典著 報恩社 発売日:2002.12)

 日時を誤るなど記録書として杜撰であり、また放火と断定し、犯人を特定するが、何の証拠も挙げていない。
  1.放火現場を目撃した者は、誰か。
  2.ガソリン散布の痕跡・証拠物件等は、確認されたか。
  3.警察の検証結果に、どう記されたか。
 本書の記載とは裏腹に、その様に決めつけた意図が問われる結果となっている。すなわち犯人は「内部以外の者」でなければならぬ、との宗門の意向が読み取れるのである。

② 河辺慈篤の証言 ~〝所化の寝タバコ〟から類焼

 火災現場に居あわせた者からの証言を聞き取った者が複数いる。証言者の名は、河辺慈篤。火災当日に、六十二世鈴木日恭法主の奥番の勤務にあった。
              ◇
 河辺はこの時、出火の原因についても言及し、
「ともにいた所化の増田壌允が自分のところに来て、『今、押入れの中で煙草吸ってて、ボヤを出しそうになった』と言ったので、『ちゃんと始末したか』と聞いたら、『小便かけて火は消した』と答えたので安心して寝ていたところ、一時間くらいして火事になった」
 と述べた。河辺の分析では、布団の綿についた火は消えにくいので「小便」くらいでは消えなかったのだろう、ということだった。
(前出『暁闇』)

 出火の原因は、所化による「タバコの火の不始末」であったと言う。もとよりオフレコであるが、火災当日の法主の侍僧の発言には、説得力がある。
 寝タバコが火元ならば、兵隊やガソリンの出番はない。しかし宗門としては、「宗門在籍者の不祥事がもとで管長を焼死させてしまった」と、宗史に載せることはできず、〝見てきた様な嘘〟をつくしかない――。
 作り話で他人に罪をなすりつけ、事件を取り繕うとしたことは、宗教者として決して許されない。だが、これが宗門の体質である。
 ともかく「唯授一人血脈相承」は、法主の死亡で断裂してしまったことは間違いない。

(2)法主の遺体
① 宗門の公式記録 ~「法主は自決」

 公式記録の続きである。
              ◇
 夜が明けて、さっそく管長室のあたりを調べたところ、日恭上人の御遺骸を灰の中に見出したのであった。一山の大衆はじめ村人も、ただただ涙にくれるばかりであった。それで、その御遺骸を、慎んで御墓所に埋葬申し上げたのである。何にせよ、夜を日についでの空襲に、戦火相次ぐ時、葬送は一山と近隣の村人で虔修したのである。
 その後、話は、その日一日の上人の御様子のことが折りにふれて語られるのであるが、各人の語る結論は、上人が覚悟の上で焼死をなされたということである。(中略)
 また灰燼の中から上人の御遺骸を見出したのであるが、それは御寝所の部屋でなく、御内仏安置の部屋であり、その御内仏の前あたりにうつ伏せになっておられたと思われる姿勢が拝せられたこと、その他いくつも話はあるが、いずれ上人が戦場のごとき大石寺に於て兵火の発するのを見て、ついに力の及ばざるを御考えなされて、むしろ自決なされたと拝せられる。
(前出『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』)

② 河辺慈篤の手記 ~「法主の覚悟」

 もう一つ、公式記録ではないが、法主の焼死を物語る者の手記がある。記載者は、前項で火災原因を打ち明けた河辺慈篤である。
              ◇
 その内に、背中の方が熱いので目を覚ますと、部屋の周圍のガラス戸が燃え、寝ている布団に燃え移っていた。私はビックリして飛び起き、大坊中庭を突っ切り、大奥階下に駆け付けた。O師と大奥階下東端の雨戸を蹴破ると、既に階下は猛煙に包まれ、入れる状態ではなかった。それでも何とか中に入ることが出来ないものかと、階下の周圍に右往左往しているところへ、誰かが「御前様は無事避難された」という声が聞こえたので、O師と私は「では御宝蔵だ」と、御宝蔵に駆け付けてみると、既に戒壇の御本尊と御宝物は無事避難された後だった。(中略)
 火災が下火になった頃、誰かが「御前様の姿が見えない」と云い出した。全員が上人を必死になって捜したが上人を見つけることができなかった。私はそれでもと思い、大奥焼け跡の焼棒杭(やけぼっくい)をどけながら、上人を捜していると、大奥二階の内仏安置の部屋の処に、上人が、お姿の上体を御宝蔵の方向に向かわれ、お頭は大腿部の間にお俯せになり、「覚悟の死」と思われるお姿で御遷化されておいでになった。この時、私は「もし御前様が避難しようと思えば、寝室の隣の部屋(内仏様御安置)に行くことが出来たくらいなのだから、北側のベランダのある部屋に御宝蔵側はガラス戸と欄干があり、そこから空襲時の用意に常備してあった非常梯子を使って避難出来たのに」と思った。しかし、今にして思うと、上人は當時の幾つかの決意を覚悟するものがあったと拝するのである。(中略)
 上人が戒壇の大御本尊に向かわれ、お詫び申し上げる姿勢で御遷化されていたことは、その御覚悟の姿と拝するものである云云。
(「日恭上人第五十回遠忌御逮夜法要」の折、遺弟代表の大橋慈譲〈神奈川・正継寺〉の追憶談において紹介した河辺慈篤の手記より〈『大白法』H6.7.1〉)

 宗門の公式文書と、法主の奥番(侍僧)であった河辺慈篤の手記とは、内容がほぼ一致する(一致しないと具合が悪い)。

③ 『地涌』からの通信 ~ 峻厳なる罰の姿

 ところが、宗門による一方的破門通告(1991年〈平成3年〉11月28日)が出された後、それまでの日恭焼死の公式記録内容を覆す出版物が発刊された。
              ◇
「昭和二十年六月十七日、大石寺は炎に包まれた。対面所裏より出火した炎は対面所、客殿、六壺、大奥などを焼き尽くした。朝四時まで燃え盛ったといわれる炎は、第六十二世日恭の生命を奪った。焼け跡から発見された日恭の焼死体は、仏法の厳しさを示して余りあるものであった。日恭は、客殿一階部分の、主に従業員などが食事をしていた食堂の一角にあった竈(かまど)で発見されたのである。日恭は竈の中に下半身が嵌まり込み焼け死んでいた。しかも無残なことには、下半身と腹わたは焼けず、生身のままで上半身のみ黒焦げとなって死んでいたのであった。
 日恭は前日、静養先の隠居所からたまたま大石寺に戻り、火事の夜、客殿二階にあった管長室に泊まった。日恭は巨躯と病気のために歩行困難であった。
 その日恭が火に巻かれ、速やかに逃げることができなかったのは無理からぬことであった。恐らくは火事のため客殿二階の床が焼け落ち、日恭は一階に落ち、意識のあるまま竈に嵌まり込み、逃げるに逃げられないまま焼け死んだと思われる。上半身のみ焼け、下半身と腹わたが残った死体が、そのことを物語っている。
 時の法主が本山で無残な焼死をしたことは、仏法の因果からして当然のことであった。軍部の猛威を前にして恐怖し、御書削除、御観念文の改竄、そして神札甘受と大聖人の教えを次々と打ち捨て、その上あろうことか、仏意仏勅の団体である創価学会(当時・創価教育学会)を自己保身の故に見捨てた宗門に、厳罰が下ったのだ」(筆者注 日恭は大奥に隣接する「奥台所」の竈にはまり込み焼け死んだと、後に判明した)
(「『地涌』からの通信・別巻(1)資料編」著者:不破優 はまの出版 1993年3月22日初版発行 引用:『地涌』第679号 1993年7月15日)

 宗門側の反論に対し、『地涌』はこう書いている。
              ◇
 この文について『慧妙』は、「読むも汚らわしい文章だが、『文は人なり』とはこのことであろう。学会の御歴代を貶(おとし)めんとする体質がにじみ出ているではないか」と、反論の冒頭に書いている。
 まず、念を押しておきたいのは、「『地涌』からの通信・別巻(1)資料編」の発行者は、日蓮正宗自由通信同盟の不破優で「学会」ではない。今後ともくれぐれも間違わないよう気をつけてもらいたい。
 では、本論に入る。この文章は、「御歴代を貶めんとする」目的で決して書いたのではない。仏法の因果律の厳しさを読者に知ってもらおうとしたものである。したがって、この文章それ自体が汚らわしいのではなく、日恭の死が汚らわしいのである。
 この事実を、まず明確に認識する必要がある。竈に嵌まり込み、上半身が焼け焦げ下半身と腹ワタが焼け残った死体について、耽美的な文章をもって表現できる人はいない。
(前出『地涌』第679号』

 前述の記事内容につき、後日に判明した事実は次の通りである。
              ◇
 日恭がはまり込んだ竈は、日恭が寝所として使っていた二階建ての建物に接する平屋の奥台所(対面所とは三尺の廊下を隔て、向かい合う)の竈と思われる。おそらくは寝所二階より奥台所の屋根づたいに逃げようとして、屋根を踏み抜き、竈にはまり込み逃げるに逃げられず、生きながら焼かれ死んだものと推測される。
(『地涌』第888号 1995年11月5日)

 日恭焼死の真相を明かした者、それは前述の「日恭上人第五十回遠忌」において、遺弟代表の大橋慈譲が読み上げた手記を書いた人物、すなわち河辺慈篤である。

④ 河辺が法主焼死の真相を語る

 河辺慈篤から日恭焼死の様子を聞いた人物による証言である。
              ◇
 所化として当時、現場にいた河辺慈篤に私は、鈴木日恭の死の真相を聞いたことがある。
「日恭上人が亡くなられた時は、どんな様子だったんですか?」
 河辺からは思いもよらぬ言葉が発せられた。
「ありゃー、二回、焼いたんじゃ」
 河辺は、火災がおさまった後、鈴木日恭の姿が見当たらないので、必死になって探し灰燼の中から発見したと話した。河辺によれば、発見された鈴木日恭の遺体は凄惨を極めており、大奥の大釜の中に太った身体がずっぽりとはまり、はらわたが生焼けとなり、上半身黒焦げだったという。河辺の目撃談を私は東京・新橋の第一ホテルで聞いた。(中略)私が河辺から鈴木日恭の焼死について聞いた時は、後藤隆一(元(財)東洋哲学研究所所長)も同席していた。
(前出『暁闇』)

 河辺の目撃談を聞いた人は、他にもいたらしい。
              ◇
 所化時代、この焼死体を現場で目撃した河辺は近年、瞼に焼きついた衝撃のもようを、
「アレ(日恭)は二度、焼いたんじゃ……」
 と、改めて半焼けの死体を荼毘に付したことを述べ、前記した日恭の死体のもようを知人に語っていたということである。
(前出『地涌』第888号)

 この峻厳なる事実から導き出されること、それは御書の仰せをあだおろそかにする者は、法主と言えど臨終の際、恐ろしい相を現ずるということである。

 顕立正意抄(五三七㌻)にいわく、
「我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず等云云」
 
(我が弟子らのなかにも、信心薄い者は臨終のときに阿鼻地獄の相を現ずるであろう。そのときに日蓮を恨んではならない)

⑤ 河辺の脳裏に刻まれた悪夢

 当時の状況を再現した実録小説から、火災現場での緊迫した様子がうかがえる。
              ◇
 紅蓮の炎が空に向かって咆哮しながら客殿を覆った。
 その炎は野に放たれた獣のように暴れ狂い、大石寺を飲み込もうとしていた。顔を向けるだけで皮膚が焦げ付く火炎の熱さに誰も近づけない。その地獄の業火の如き炎が蛇のように頭をもたげ、自分に襲いかかってくる。叫び声をあげる気管が熱で焼かれ、その苦しさから自分で自分の首を掻きむしる――そんな悪夢に何度もうなされた河辺慈篤は、宗門の秘史として自分が目撃した生々しい光景を何人かだけに語ったことがある。

「御前さんは、竈の中に下半身がはまり込んだまま焼け死んでいた。上半身だけが黒焦げで下半身と腸は生焼けだった。逃げ遅れたんだ。そして、大奥の二階が崩れ落ちた時に、御前さんも一階の食堂に落ち、そのまま竈にはまったに違いない……」

 初めて話を聞いた者は、その酸鼻な情景を思い浮かべ、文字どおり息をのんだ。竈にはまって動けないまま焼け死ぬ。まるで地獄絵図だ。聞いてはいけない話を聞いてしまったと後悔する者もいた。
 昭和二十年六月十七日、午後十時半頃、大奥対面所裏の部屋から出火した炎は翌朝四時まで燃えつづけ、大奥対面所だけでなく客殿、書院、六壺などを焼き尽くした。この時、河辺は所化として本山にいた。
「火事だ!」という誰かのわめき声に驚いて寝床を飛び出した河辺や本山の僧侶たちは慌てて、日恭法主を捜し回った。日恭法主はその火事の前日に静養先の隠居所から大石寺に戻り、大奥に泊まっていたのだ。
 河辺ともう一人の所化が大坊の廊下を走って大奥へ行こうとしたが、生命を持ったように暴れる炎が彼らの行く手を阻んだ。二人はいったん外に出て、大回りをしてようやく大奥に駆け付けた。しかし、大奥の雨戸は閉まっており、中からカンヌキが掛かっていて開けることができない。
 河辺は「御前様はどちらに!」と叫んだ。本山の僧侶たちは混乱していた。ある者は「学寮にいらっしゃるはずだ」と言い、またある者は「きっと寿命寺に避難されたに違いない」と言う。河辺らはやみくもに本山の中を走り回った。蓮蔵坊にも行ってみたが、そこにも日恭法主の姿はなかった。
 ある僧侶は付近の檀家の家の、玄関の戸を叩きながら、「御前さんを見かけませんでしたか?」と尋ねて歩いた。そのただならない様子に檀家たちも何か大変なことが起こっていると感じた。
 木造の建物は一度燃え出すとその火の勢いは時間とともに増していく。消防団が駆けつけたが消火作業は遅々として進まず、とても誰か人を捜索できる状態ではなかった。あとは火がおさまるのを待つしか手立てはなかった。
 六時間にも及んだ火の手の勢いは本山の東側の建物すべてを焼き尽くし、ようやく満足したかのように弱まった。そして、夜が明けてから現場検証が始まった。ところどころで火はまだ踊るように揺れ、息をするとむせるほど煙は充満していた。
 本山の役僧たちは消防団員と一緒に、まだくすぶっている残骸をよけながら、まっすぐ大奥に向かって足を急がせた。しかし、大奥があった場所のすぐ手前まで来たところで、皆、足がすくんで動けなくなった。そこはちょうど大奥の食堂があったところだ。そしてそこには大きな竈が焼けただれてはいたが、その形状のまま残っていた。そしてその竈の中から黒い物体が木が生えたように突き出ている。役僧たちの後に付いてきた河辺は煙でしみる目をこすって視線を凝らした。それが人間の屍骸だと気づくまで数秒かかった。
「ああー」
 河辺は言葉にならないうめき声をあげた。
 焼け跡から発見された日恭法主の焼死体の詳細な状況は長い間、ごくわずかな者しか知らなかった。それは、あまりにも無残な姿であった。
(『転落の法主』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著 エバラオフィス 2004年4月)

⑥ 河辺発言の真意

 河辺慈篤が洩らした六十二世鈴木日恭法主の焼死の有り様は、「日恭上人第五十回遠忌」の折に読み上げられた、河辺本人の手記内容とは大違いである。同一人による証言が、ここまで異なるものか。
 河辺の打明け話は、もとよりオフレコである。宗門にはすでに公式記録が存在する以上、一個人として何を表明できようか。
 宗門はこの話を「毒々しい作り話」「与太話」「頭の中で作り上げた、妄想の産物」等と言う。しかし、「法主の奥番」という目撃証言者として最重要の立場にあった僧、河辺慈篤から聞いた話とあれば、与太話では済まない。
 現場にいた者でなければ、誰もが耳を疑う衝撃的な言葉が、妄想だけで出るわけがない。
 だが、河辺の話しぶりには明らかに「師匠への不遜の念」が感じられる。そもそもが、不祥事と言える「横死」の実態を暴くなど、師匠の恥をさらけ出すことになる。なぜ、そこまでするか。
 前出の実録小説の筆者は、河辺の心理をこう読み解く。
              ◇
 法主の無残な焼死体を直接見た体験は、河辺に大きな衝撃を与えた。しかも、日恭法主は河辺の師僧であった。その師が、たとえ法主でも地獄の業火に焼かれて死ぬこともある。果たして日顕の最期はどうなるのか。「C作戦」に深くかかわった自分もその罪を受けるのか。そんな底知れぬ不安のせいだろうか、河辺は、客殿の火事の悪夢を繰り返し見ていた。(前出『転落の法主』)

 大聖人の誡めに違背し謗法を犯せば、法主であろうと横死に遭う。この厳粛な事実を目の当たりにした河辺には、もはや師匠への畏敬の念は消えていたのであろう。
 宗門の側では、当時の消防団員の証言等をもって反論する。だが、法主の遺骸に実際に立ち会った関係者の多くは鬼籍に入っている。河辺の話を聞いた者で名前の挙がった後藤隆一氏も、近年(二〇〇九年十二月末)逝去した。歳月が流れ過ぎた今、これ以上の話が進展することはない。
 宗門が学会破門等、破仏法の行為に及ぶことが無ければ、宗史における不祥事、ことに法主焼死の真相を聞いた者は、墓場まで持って行ったことであろう。だが、宗門が破和合僧の大罪を犯した上は、真実を明かし糾弾しないわけにはいかない。
 我らとしては、一山の謗法の責めを負うべき法主に下った、因果律の果報の厳しさに慄然とするのである。

 聖人御難事(一一九〇㌻)にいわく、
「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」

(過去および現在の末法の法華経の行者を軽蔑したり、賎しんだりする国王や臣や万民は、はじめは何事もないようであるが、必ず最後には滅亡の悲運に堕ちないものはない)

 軍部政府に迎合し、難を避けるために、徹底して謗法を犯し大聖人に違背、あまつさえ大聖人の正義を訴えた真正の法華経の行者たる学会を破門・信徒除名とした宗門。世法は騙しおおせても、仏法の因果律からは逃れられない。
 本山の大火災に加え、法主が焼死。この厳然たる罰こそ、宗門の諸悪を証明するものであった。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:96」を破折する(その四) 連載143回

妄説:96 「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違(たが)ふ時は(中略)即身成仏の血脈を承(う)くべき資格消滅せり」(有師化儀抄註解・富要 1-176頁)

 〔御文証の解釈〕
 御本仏への信心が、不善・不浄の邪心・迷信となり、仏意に背く姿となったときには、御本仏からの法水は、通路がふさがってしまい流れません。根本に信順しなければ、迷いの衆生となり、即身成仏の血脈・信心の血脈を受ける資格が消滅してしまいます。

 〔創価学会の解釈〕
○日顕(上人)は、仏意仏勅の学会を破門し、仏意に背(そむ)いた邪信の徒であり、「即身成仏の血脈」を受ける資格を失っている。よって御本尊を書写し、下付する資格も消滅した。(聖教新聞 H五・九・一九 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 この御文は「信心の血脈」についての一段ですが、学会は「学会こそ仏意仏勅の団体」という前提に基づいて、その学会を破門した日顕上人と宗門こそ「悪」であり「仏意に背いた邪信の徒」と解釈しています。
 しかし、仏意とは御本仏日蓮大聖人のお心であり、それは血脈相承として御歴代上人に受け継がれています。
 創価学会は昭和二十六年、宗教法人を取得する時に宗門と約束をしました。それは、
①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
②当山の教義を守ること
③仏法僧の三宝を守ることの三ヶ条を遵守(じゅんしゅ)することです。
 以来、総本山大石寺を根本と仰ぎ、この大原則を守りつつ宗門外護と、広宣流布への前進があったことは周知の事実です。
 しかし正本堂建立のころから、徐々(じょじょ)に仏法上の逸脱が現われ始め、ついに「昭和五十二年路線」で当初の三ヶ条の約束を完全に破棄し、学会は「仏意に従う団体」の資格を自ら放棄したのです。一度(ひとたび)は日達上人に謝罪し、反省をしたうえで正道に進むことを誓いましたが、平成二年の末に至り、その反省が虚偽であったことが明らかになりました。
 宗門から仏法の道理に基づく教導を受けながらも、「仏意に違う」姿となって反目し、誹謗を繰り返し、自らの団体が定めた基本原則をも捨て去ったために、学会は破門となったのです。
「即身成仏の血脈」を受ける資格を失ったのは創価学会なのです。
 この御文の真意は、本門戒壇の大御本尊と、唯授一人血脈相承を「仏意」と拝さなければ正しく理解できないのです。

破折:
10.神札甘受の〝踏み絵〟

 昭和十八年六月二十七日、学会幹部は宗門から登山を命じられる。新聞連載当時の『小説人間革命』には、その時の有様が描かれていた。
               ◇
 笠公〈小笠原慈聞〉は破門せられ、堀井〈堀米泰榮・のちの日淳上人〉尊師は内務部長の位置を離れた。ガサ公は野にある虎の如く宗門に喰ってかかつてゐる。
 牧田〈牧口会長〉先生の一行はこの空気の中に登山したのであつた。客殿の隣りにある広書院へ通された、正面には日恭上人、お隣りにすこし座を下つて堀御隱尊猊下が着座されている。すこしその下手に新らしき内務〈庶務〉部長渡辺慈公〈渡辺慈海〉尊師がお座りになつている。正面にむかつて下座に牧田先生の一行は静粛にかしこまつていた。
 慈公尊師が牧田先生に向つて
『牧田さん、今度登山をお願いしたのは折入つてよくお話したい事があるのです、それは外でもないが神札の問題です』
『ハツ』と云つて牧田先生はあらたまつた。巖〈戸田会長〉さんと他の一行は何だ神札の事かと云う様にケロリとした顔をしていた。
『貴方の会では神札を焼かせたり神棚をとつたり、又神札を受けないそうじゃありませんか』
『それはどう云う事なのでしょうか』
と牧田先生もけげんそうな顔をされた。
『時勢がこの様な時勢だから、神札だけは各寺院でも一応は受取る事にしたのです、貴方の会でも神棚や神札にふれん様にしたらいかがですか、そうして頂きたいと此方は希望するのです』
 牧田先生は決然と言上した。
『神詣でのついでに宗祖聖人へお目通りに来られた尼をおしかり遊ばしたと云う話も承わります、御開山上人の身延離山のその原因に地頭波木井が三島神社へ供養した事がある、と承わつて居ります。牧田は決してそんな事は出来ません』
 慈公尊師
『何事もおんびんにやつてもらいたいと云う主旨なのです』
『天照大神は天皇陛下の先祖であつてかえつて我々がズケズケおまいりするのは不敬になるとしているだけなのです。今少し強く申し上げたいと思いますが、時ではないと思うので、これでも心掛けているつもりです。ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな』
『一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい』
 あまりの言葉に何事にも無頓着な巖さんでも、やれやれこれは困つたもんだわいと思い出した」(昭和二十八年十二月六日付『聖教新聞』より一部抜粋。〈 〉内は筆者加筆)
(『地涌』第667号 1993年6月10日)

 上記は聖教新聞に連載当時のものであるが、単行本の『小説人間革命』には掲載されていない。割愛されたのは、当時の宗門への配慮のためとされる。
 この年の二月、宗門の内務部長に、法主の国家諫暁を熱心に勧めた牧口会長であったが、本山からわざわざ呼び出された趣旨は国諫どころか、今また神札甘受という謗法を重ねる話であった。
 これ以上、法主に何かを期待したところで無駄である上は、言いたいことも控えるしかなかった。牧口会長一向は虚しい気持ちで下山した。 
               ◇
 牧口会長に随行した神尾武雄理事(当時)は、
「直諫を終えて帰路につき、塔中を歩いていたときに牧口先生は転び、手にけがをされた。ちょうど、ザクロのように傷口があき、血がしたたった。牧口先生は『言うべきことを強く言わなかった罰だ』と申された。手を抑えながら、石川自動車のところまで来て、手を洗われた」(『創価新報』平成五年七月七日付)
と、戦後、述懐している。なお、牧口会長が「言うべきことを強く言わなかった」という表現を用いるときの〝言うべきこと〟とは、罰論のことである。

 日蓮大聖人曰く。
「而るに日蓮・世を恐て之を言わずんば仏敵と為らんか、随つて章安大師末代の学者を諫暁して云く『仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり慈無くして詐わり親しむは是れ彼の人の怨なり能く糾治する者は即ち是れ彼が親なり』等云云、余は此の釈を見て肝に染むるが故に身命を捨てて之を糾明するなり」(大田殿許御書)

【通解】(真言師が法華経を破壊してきたことを知りながら)日蓮が世間を恐れてこのことを明らかにしなければ、仏の敵となってしまうであろう。したがって、章安大師が末代の学者を諫めて、涅槃経疏巻八に「仏法を破壊し乱すのは、仏法の中の怨(敵)である。相手を思う慈悲がなく、いつわって親しむ(相手の誤りを責めない)ということは、相手にとっては怨(敵)となるのである。よく、その誤りを責める者は、相手にとって真の味方なのである」と言っている。私はこの釈を見て心肝に染めたがゆえに身命を捨てて正法を破る者を追放するのである。
(『地涌』第696号 1993年9月7日)

 戸田理事長(当時)は、次の通り回想している。
               ◇
 御開山上人の御遺文にいわく、
「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(御書全集一六一八ページ)
 この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには、
「一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諌暁の時ではないか。なにを恐れているのか知らん」と。
(『創価学会の歴史と確信』上)

 神札甘受は、軍部政府が全国民を対象とした〝踏み絵〟であった。学会がそれを敢然と拒否したことは、当時の為政者の眼には不遜な者と映ったであろう。

11.学会幹部の逮捕 ~ 謗法の坂を転げ落ちる宗門

 学会幹部が登山した翌月の七月六日、牧口会長、戸田理事長ともに逮捕された。治安維持法違反、神社に対する不敬罪の容疑である。
 その前月の六月十六日には、日蓮正宗の僧侶・藤本蓮城が不敬罪並に人心惑乱事件で検挙され、同年八月二十二日に起訴された。
 宗門は、牧口会長ら創価教育学会の人々を破門(信徒除名)処分にし、藤本蓮城を一宗擯斥(僧籍剥奪)処分にした。大聖人の正義を貫き難に遭った僧俗を切り捨て、累が及ぶのを逃れようとしたのである。
 謗法をやかましく言う学会員が居なくなり、宗門は益々謗法を積み重ねて行く。同年十一月一日、日蓮正宗宗務院より出された「院達」は「明治節奉祝実施要綱」といい、次の通りの「実施方法」が載せられた。
               ◇
「(一)各家庭に於ては『国民奉祝の時間』に夫々宮城遥拝を行ふこと。
 (二)官公衙、学校、会社、工場、船舶、団体等に於ては奉拝式を行ひ且必勝祈願をなすこと
 (三)官国幣社以下神社に於ては明治節祭を執行せらるゝにつき市町村民はなるべく参拝と必勝祈願をなすこと
 (四)その他の場合にありては国民各自『国民奉祝の時間』を銘記し同時刻には夫々在処に在りて宮城遥拝を行ふこと」
 宮城遥拝を行うとは単に、皇居に礼をすることではない。宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)と現人神である天皇に対する拝礼であり、その根底にはもちろんのこと神道がある。
 ことに(三)に注目しなければいけない。神社への参拝を奨励しているのである。
(『地涌』第33号 1991年2月2日)

 大聖人の教えに殉じた僧俗が獄舎にある時に、軍部に迎合し「時節柄、当然である」と謗法を重ねゆく宗門。七百年前、日本国民を救済せんと立ち上がられた、大聖人の御事績を継ぐ者は、宗門ではなかった。
「日蓮大聖人の御心」を「仏意」と拝して従うのが学会であり、「唯授一人血脈相承」を「仏意」と拝するのが宗門であった史実から、はっきりと次の通り断言できる。「唯授一人血脈相承」とは、「日蓮大聖人の御心」に敵対する「悪」そのものであると。
               ◇
「一身一家の私益に目が眩み、社会国家の公益を害する人を悪人という。衆生の済度を目的として起った宗教を一宗一派の生存繁栄に利用する職業宗教家のごときは悪の最大なるものではないか」
(牧口会長『価値判定の標準』)

 宗門が己の地位の保全のみを願う集団であり、決して「大聖人と同意」の弟子でないことは、牧口会長は見抜いていた。それでも牧口会長は、宗門の自浄作用を望み促したのであったが、それは一方的な思い入れでしかなかった。
 結局は、牧口会長が喝破した通りの宗門であった。彼等こそは「衆生の済度を目的として起った宗教」(日蓮大聖人の仏法)を「一宗一派の生存繁栄に利用する職業宗教家」である。それが「悪の最大なるもの」であることは、日顕宗のやり口を見れば一目瞭然である。

 兵衛志殿御返事(一〇九一㌻)にいわく、
「すこしも・をそるる心なかれ・過去遠遠劫より法華経を信ぜしかども仏にならぬ事これなり、しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」

(少しも恐れる心があってはならない。過去遠遠劫より法華経を信じたけれど、仏になれなかったのは、これによるのです。潮が干るときと満つるときと、月の出るときと入るとき、また、夏・秋・冬・春の四季が変わる時には、必ず普段と異なることがあります。凡夫が仏になるときもまた同じです。すなわち、仏になるときには、必ず三障四魔という障害が出て来るので、賢者は喜び、愚者はひるんで退くのです)

 三障四魔に怯んだ宗門は、その後どうなったか。本抄には、こうもお認めである。

「千年のかるかやも一時にはひとなる百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり」(同㌻)

(千年間もたった苅茅も一時に灰となってしまい、百年の功も一言で破れるというのは、物事の道理です)

 かるかや(苅茅)は、茅葺(かやぶき)の屋根をふく材料である。火気に遭えば一時に燃え尽きてしまう。七百年にわたる宗門の伝統も、祖師の御精神に背けば、忽ちに失われてしまう。
 宗門・本山はまさにこの御文を身で読み、文字通りの様相を現出したのである。すなわち昭和二十年六月十七日のことであり、次回に詳しく述べたい。

(参考)
 なぜ神札はいけないか (戸田会長)
               ◇
[質問]:御本尊を受けて、ほかに神札とかお守りを持ってはいけないのは、なぜですか。

 これはいちばん大事なところです。神札とかお守りには、邪鬼といいまして、その紙によこしまな鬼の力がこもっているのです。
 紙には天照大神と書いてあります。だがその紙に天照大神がいるならいいのです。天照大神がおりますならば、この大御本尊様のために働きますから、ほんとうの天照大神です。
 ところが書かれた紙には、天照大神の力はなく、人を不幸にする力があります。たとえていえば、次のようになります。コップの水は清らかな水です。大御本尊様と同じとします。ここに仁丹が一粒あります。仁丹だからいいけれども、これを汚物だとします。これをちょっと、ほうり込む、そうするとこの水はどうなりましょう。少ないからいいではないかといえますか。汚物の粒を入れたのです。にごった水になって、功徳どころでなくて害になりましょう。このなかにバイキンなんかはいっていたら、なおたいへんなことになるでしょう。
 ですから、ちょうど天照大神という神札のなかには邪神邪鬼の命がはいっています。こういうことをいうと、むかしの軍人や天照大神を信じている人などは、私をにくむけれども、日蓮大聖人様がおっしゃっているのだから、これはしようがありません。
 日蓮大聖人様の御書をみてごらんなさい。こんなに厚いのです。この御書には絶対に間違いがないのです。この御書のなかでおっしゃっているのです。
 それなら、おまえそんなこといってもだいじょうぶかといいますが、それはだいじょうぶです。天照大神の札を千枚もってきたって私は敗れません。なぜかといえば、私は妙法蓮華経の信者だからです。そんなものは一つの題目で退却します。
 なぜか。もしそれが天照大神というなら、私には文句があります。千枚でも一万枚でも、天照大神は一人だから、そんな何人もいやしません。ここへ出てくればいいのです。
 証拠があるではないですか。
「葦原(あしはら)の千五百秋(ちいおあき)の瑞穂(みずほ)の国はこれわが子孫の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(なんじ)皇孫いでまして治(しら)せ。さきくませ。宝祚の隆(さか)えまさんことまさに天壌と窮(きわま)りなけん」
と、これしか天照大神はいっていないのです。
 天照大神は
「この日本の国というものはニニギノミコトおまえ行って治めなさい。おまえの系統の栄えること天地とともにきわまりない」
これだけの約束でしょう、国家を護るという約束でしょう。しかるに、今度の太平洋戦争において、負けたことは事実ではないですか。
 しかも大きなことをいって、あのころの軍人は「出てこい、ニミッツ、マッカーサー」と歌までつくって、いざマッカーサーがきたらペチャンコになってしまったではないですか。
 日本の空をいま、日本人が自由に飛べますか。こんなに負けさせて、天照大神が役目を果たしたかといって聞きなさい。天照大神を連れてきなさい。日本では他の神々は、ことごとく天照大神の子分です。
 そうでしょう。天照大神よりえらいという神々がおりますか。天照大神がいちばんえらいのです。その次が八幡大菩薩、この二人がそろっていて負けさせるということがないではないですか。神さまもへったくれもありません。
 というのは、ほんとうは天照大神は悪くないのです。日蓮大聖人様御出現いらい七百年、南無妙法蓮華経を日本民族が唱えないために、神天上説といいまして、天照大神は日本の国にいらっしゃらないのです。
 だから罪は、天照大神にありません。ではあの天照大神と書かれた紙にはなにがはいっているか、日本をほろぼす命がはいっているのです。日本をほろぼす命だったならば、われわれの一軒一軒の家をほろぼすくらいは平気ではないですか。そんなものをおいたら、ちょうど水の中へ汚物を入れたものを飲んでいるようなものです。御本尊様を持つといえども功徳はないのです。
(『戸田城聖全集』第二巻 質問会編) 

 これは「神天上の法門」を、やさしく解説した指導である。

 立正安国論(十七㌻)にいわく、
「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」

(世の中は上下万民あげて正法に背き、人々は皆悪法に帰している。それゆえ、守護すべき善神はことごとく国を捨て去ってしまい、聖人は所を辞し他の所へ行ったまま帰って来ない。ために善神・聖人にかわって、魔神・鬼神が来、災いが起こり、難が起こるのである)

 四条金吾許御文(一一九六㌻)にいわく、
「八幡大菩薩の御誓(おんちかい)は、月氏にては法華経を説いて正直捨方便となのらせ給い、日本国にしては正直の頂(いただき)にやどらんと誓い給ふ。而(しか)るに去(い)ぬる十一月十四日の子の時に、御宝殿をや(焼)いて天にのぼらせ給いぬる故をかんがへ候に、此の神は正直の人の頂にやどらんと誓へるに、正直の人の頂の候はねば居処(いどころ)なき故に、栖(すみか)なくして天にのぼり給いけるなり」

(八幡大菩薩のお誓いは、インドでは釈尊として法華経を説いて「正直に方便を捨てて」と宣言され、日本においては八幡として「自分は正直の人の頭(こうべ)に宿ろう」と誓われた。このことから、去る弘安三年十一月十四日子の時(夜十二時ころ)、鎌倉八幡宮の宝殿を焼いて天にのぼられた理由を考えてみるに、この八幡神は正直の人の頭にやどると誓ったのに、正直の人の頂がないので居る所がないため、栖をなくして天にのぼられたのである)

 諸天善神が「天上」に在(いま)す有様は、御本尊にお認めである。すなわち御本尊を拝すれば、天照太神、鬼子母神等は、中尊の妙法五字に向かい奉り〝合掌向仏〟の姿にある。ゆえに御本尊に題目を唱えるとき、諸神は法味を受け我らの諸天善神となるのである。

 御義口伝巻上(七二二㌻)にいわく、
「向仏(こうぶつ)とは一一文文皆金色の仏体と向い奉る事なり合掌の二字に法界を尽したるなり、地獄餓鬼の己己(ここ)の当体其の外三千の諸法其の儘(まま)合掌向仏なり」

(向仏とは、妙法蓮華経の一一文文が、みな仏の生命である、また、ことごとく仏の真実の言々句々であると、信解して向かいたてまつることである。われわれの立ち場から言えば、大御本尊は仏の当体であると拝することが、向仏という意味である。合掌の二字に、法界のすべてを摂しつくしているのである。したがって、地獄、餓鬼の己己の当体、そのほか三千の諸(もろもろ)の現象は、そのまま妙法の当体であり、合掌向仏しているのである)
(池田会長『御義口伝講義上』昭和40年4月2日発行)  

 だが御本尊の外にあっては、謗法充満の国土ゆえに神は宿らず、天上に去ってしまった。よって〝天照大神の神札〟や〝鬼子母神の絵像〟などには、善神の代わりに「日本をほろぼす命」、「一軒一軒の家をほろぼす」ほどの、邪神邪鬼の命が入り込むこととなる。
 軍部の命令により、日本の全戸に天照大神の神札を持たせたのである。とてつもなく甚大な謗法と言わざるを得ない。それがゆえに、第二次大戦における日本国の被害は、大聖人御在世時における元寇の、何百・何千倍もの災厄となったのである。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:96」を破折する(その三) 連載142回

妄説:96 「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違(たが)ふ時は(中略)即身成仏の血脈を承(う)くべき資格消滅せり」(有師化儀抄註解・富要 1-176頁)

 〔御文証の解釈〕
 御本仏への信心が、不善・不浄の邪心・迷信となり、仏意に背く姿となったときには、御本仏からの法水は、通路がふさがってしまい流れません。根本に信順しなければ、迷いの衆生となり、即身成仏の血脈・信心の血脈を受ける資格が消滅してしまいます。

 〔創価学会の解釈〕
○日顕(上人)は、仏意仏勅の学会を破門し、仏意に背(そむ)いた邪信の徒であり、「即身成仏の血脈」を受ける資格を失っている。よって御本尊を書写し、下付する資格も消滅した。(聖教新聞 H五・九・一九 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 この御文は「信心の血脈」についての一段ですが、学会は「学会こそ仏意仏勅の団体」という前提に基づいて、その学会を破門した日顕上人と宗門こそ「悪」であり「仏意に背いた邪信の徒」と解釈しています。
 しかし、仏意とは御本仏日蓮大聖人のお心であり、それは血脈相承として御歴代上人に受け継がれています。
 創価学会は昭和二十六年、宗教法人を取得する時に宗門と約束をしました。それは、
①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
②当山の教義を守ること
③仏法僧の三宝を守ることの三ヶ条を遵守(じゅんしゅ)することです。
 以来、総本山大石寺を根本と仰ぎ、この大原則を守りつつ宗門外護と、広宣流布への前進があったことは周知の事実です。
 しかし正本堂建立のころから、徐々(じょじょ)に仏法上の逸脱が現われ始め、ついに「昭和五十二年路線」で当初の三ヶ条の約束を完全に破棄し、学会は「仏意に従う団体」の資格を自ら放棄したのです。一度(ひとたび)は日達上人に謝罪し、反省をしたうえで正道に進むことを誓いましたが、平成二年の末に至り、その反省が虚偽であったことが明らかになりました。
 宗門から仏法の道理に基づく教導を受けながらも、「仏意に違う」姿となって反目し、誹謗を繰り返し、自らの団体が定めた基本原則をも捨て去ったために、学会は破門となったのです。
「即身成仏の血脈」を受ける資格を失ったのは創価学会なのです。
 この御文の真意は、本門戒壇の大御本尊と、唯授一人血脈相承を「仏意」と拝さなければ正しく理解できないのです。

破折:
8.牧口会長の獅子吼

 昭和十六年十二月八日、軍部政府は突如「帝国陸海軍は、本日未明、西太平洋に於て、米英軍と戦闘状態に入れり」と放送し、ハワイ海戦の戦果を発表した。国民は大勝利の報に酔ったが、牧口会長はひとり憂いていた。
               ◇             
「緒戦の華々しい戦果で安心できる日本じゃない。いや、日本は危ない!」  
(中略)
「日本の政治、経済を論ずるまでもない。日蓮大聖人が弘安三年の五月に、『諸経と法華経と難易の事』と題する一遍を認(したた)められて、富木殿に与えておいでになるが、その中に、『仏法は体のごとし、世間はかげのごとし、体曲れば影ななめなり……』と仰せられている。残念ながら、今の日本が、その通りで、体は曲がっており、影はななめになっている! 国民の魂を培(つちか)う教育は、その有力な影の一つなのだが、この牧口は、永年教壇に立ってきて、絶望に近いものを感じている!」
(中略)
「立上がりの一突きで、相手が土俵を割って、それで勝負がつくのは、国技館の相撲だ。死命を制するまで闘争を繰返すことになると、全体の力がものをいう。緒戦の戦果に安心できない所以だし、この牧口の眼には、華々しい戦果に酔って、早くも、国民の間に、米英を見縊(みくび)る傾向が現われたのが映っている!」
(中略)
「仏法が乱れて体の曲がっている日本、歪んだ影の国民の間に、この傾向がひろがると、真剣なものを奪ってしまって、国運を賭したこの戦争を、桟敷で酒を呑みながら見物している国技館の相撲のように、戦争は軍部と兵隊がして、国民は高みの見物になる! それでは勝てない。ことに日本は中国を相手に戦うこと五年で、国力を消耗しており、満を持して欧州の戦乱にも参戦しないでいる米国との力には大きな開きがあると見るのは、具眼者(ぐげんしゃ)の常識なのだ」
(『小説人間革命(下)』戸田城聖著 聖教文庫)

 日本が無鉄砲な賭けに出る為政者に率いられて行くのは、あまりにも危うい。さらには、それに気づかない国民も可怪(おか)しい。牧口会長のように、冷静で深刻な観察をしている人は見かけなかった。 
 しかし、「体が曲がっている」のは国家だけではない、この日本を護るべき肝心の宗門が曲がっているのである。国を正すべき仏法が謗法の陰に隠れていて、どうやって日本を救うのか。
 牧口会長は昭和十七年十一月二十二日、創価教育学会第五回総会の講演で、次の通り指摘した。
               
「日蓮大聖人御在世当時の天台宗は、現今の日蓮宗の中でも『日蓮正宗』に相当すると思はれる。さらば従来の日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問わねばなるまい。そして魔が起こらないで、人を指導しているのは『悪道に人をつかはす獄卒』ではないか。しからば、魔が起こるか起こらないかで、信者と行者の区別がわかるではないか」

 真言の謗法を取り入れ邪教と化した天台宗の故事を以て、日蓮正宗が同じ道を辿っていると喝破したのである。

9.国家諫暁の決意
             
「日本は危ない!国家諫暁をしなければ、日本は惨澹たる結果を招く!」
(前出『小説人間革命(下)』)

 牧口会長が沈痛に響く声でそう言い出したのは、昭和十七年十一月下旬のことであった。
 この年二月、日本は英軍を降伏させてシンガポールを占領、つづいて三月にはボルネオ島、セレベス島を占領して、ジャワの蘭印軍を降した。五月にはフィリピン最後の要塞コレヒドールを陥落、ビルマに突入した。戦果は華々しいが、兵站は広がるばかりであった。
 米は配給になり、衣料は点数の切符制になり、商店に品物がなくなった。日華事変で消耗した日本の国力が、底をつきだしていたのである。
 そこへ、六月中旬のミッドウェー海戦で、日本は航空母艦を幾隻も失い、巡洋艦も沈没し、鍛練を積んでいた海鷲の多数を殺された敗戦を、当局は国民の士気と戦意の阻喪を恐れて隠してしまい、大本営は軍艦マーチ入りで大勝利を報じた。
 このように日本が勝機を失ったのは、開戦してわずか半年である。だが国民は目隠しをされたまま虚偽の戦果を吹き込まれ、前線の険悪な様相も知らないでいた。
 日本を守るべき宗門はと言えば、軍部政府の弾圧を恐れ、ひたすら戦争協力に励んで汲々としていたのである。だが遡れば、蒙古の襲来が近づく国難の時、大聖人はどう振舞われたか。

 立正安国論(三十㌻)にいわく、
「早く天下の静謐(せいひつ)を思わば、須(すべから)く国中(こくちゅう)の謗法を断(た)つべし」

 御書を拝し、牧口会長は念願したであろう――今こそ日本国の危難を救うべく、正法興隆に立ち上がる秋(とき)である! 一宗の法主が国家諫暁を決意すれば、宗門全体の曲った姿勢も正されよう。そのときこそ僧俗ともに大聖人の御精神を体し、異体同心の一丸となって国家諫暁を成し遂げ、日本国の曲った姿勢を正さん、と。
 昭和十八年三月、牧口会長は神田の学会本部に集まった幹部の前にいた。
               ◇
「諸君、われわれが、どうなるであろうかなどと考える前に、今、もし、日蓮大聖人が御出現になったら、どうされるであろうか」
 牧口常三郎は創価学会の幹部十四、五人を前にして、烈しい気魄の籠っている声でそういった。
(中略)
「蒙古の襲来とは比較にならない、この重大な局面を迎えて、七百年前の大獅子吼が、今なされないと断言する者があろうか。大聖人は断じて国家諫暁をなさるであろう! また、弟子共も不惜身命の心をもって、大聖人に従うであろう。いや大聖人が、今、御出現になって、われわれ弟子檀那の姿を御覧遊ばされたら、どのように強くお叱りを蒙るか! どのような顔をして、大聖人にお目通りできるか!」
(中略)
「日蓮正宗の潰(つぶ)れることを恐れて、なにになる! 仏法の力によって、日本を栄えさせてこそ、大聖人はお喜びになるのではないか! 総本山の安泰のみ願うのは、弟子の道ではない!」
 牧口常三郎が涙に濡れた頬を拭おうともしないで厳然と言い放つと、腕組みになっている巌さんの肩が、びくッと動いた。しかし、ほかの者は呑まれた形で茫然となっている。
 日本商事の女事務員が階段を駈登ってきた。
「社長さん、総本山からお見えになりました」
 巌さんは眼鏡を光らして腕組を解いた。
「先生、お迎えにまいりましょう」
(中略)
 今日は総本山大石寺から、御法主上人猊下を護って、身延との合同問題に頑強に反対している内務部長の本江尊師が、牧口常三郎の主張する国家諫暁について意見を述べるために、創価学会を訪問してくるので、幹部十四、五人が集まっていたのだ。
(中略)
「本江さん、この日本の危局を救うために、国家諫暁は絶対になすべきだと信じます」
 本江尊師がティーテーブルを前にして椅子に腰を下ろすと、それを会長の牧口常三郎をはじめ、理事長の厳さんその他が取巻き、牧口常三郎はまともに向き合って口を開いた。
「しかし、これは、牧口個人がなすべきではない。当然、法主猊下がなさるべきであって、尊師方から進言されるべきではないのですか。勿論、信徒として、恐れ多いことですが、この牧口からも申し上げる覚悟でおります。いかが、お考えになりますか」
 牧口常三郎の声は静かであったが、鋼のような強い響きがあった。
 本江尊師は凹(くぼ)んで見える眼を大きく見開いて、ティーテーブルの向こうから、牧口常三郎の顔をしげしげと眺めはじめた。
 その青白い顔には当惑の色が浮かんでおり、悲しみの色も浮かんでおり、どこか、憤(いきどお)りの色も混っている。
 しかし、尊師は唇を固く結んで開かない。
 湯呑のおいてあるティーテーブルを中心に、沈黙の重苦しさが漂い拡がって行く。
「牧口さん、それは出来ない」
 数分の後、本江尊師が沈黙を破った。その瞬間、牧口常三郎の薄い眉毛が震えた。
「今は時期でない。時期が早いといってもよい」
「これは可怪(おか)しい!」
 牧口常三郎は怫然(ふつぜん)と色をなして、刺すような視線になった。
「時期は、むしろ遅い! 国家が、この大戦争をするに当たって、国土世間に、強く尊い生命が把持(はじ)されなかったら、どうするのです! 国家諫暁を、猊下に申しあげて下さい!」
 牧口常三郎の両眼が炯々(けいけい)と光って、挑みかかる口調であった。
「いや、国家のことを思えば、同感でありますが、宗内が乱れて一致しないのです。宗内が一致しない時に、どうして! 国家諫暁ができますか。情けないことながら、私一人の力でこの流れは堰(せき)止められない。今、あなた方がこの問題で騒ぎ立てるなら、宗内は紛糾するばかりです」
「あなたは宗内宗内というが……」
 牧口常三郎の顔に剛毅さが漲(みなぎ)ってきた。
「大聖人の御意思をそのまま実行しようというのに、なんの障りがありましょう! 万一、日蓮正宗が潰れたとしても、仏法の力によって国家が立上がれば、大聖人はお喜びになりましょう! 仏法は観念の遊戯ではない! 国を救い、人を救うものです! 救わなければならない時に、腕を拱(こまぬ)いていて救わないのは、仏智に背くものではないか!」
「理論としては、あなたのいう通りだ。しかし……」
 本江尊師は強く肚をきめてきたらしく、顔に青さは加わったが挫(くじ)けなかった。
「実力が、これに伴わない今、われわれとしては、身延との合同を防ぐのに手いっぱいなのです。要するに、国家諫暁は出来ないということです。あなた方の行動が、総本山の存立を害しないよう、それを、この本江はお願いしたいのです」
 一瞬、ティーテーブルを挟んで向き合っている本江尊師と、牧口常三郎を中心に集まっている創価学会幹部との間に冷ややかな空気が漂った。
「当創価学会は、創立以来、総本山に害を及ぼした覚えはありません」
 牧口常三郎は声を荒立てはしなかったが、眉根を嶮(けわ)しくして苦々しい表情になっている。
「歴史が証明している以上、今後も、そのようなことはありません。ただ、われわれは仏意に添おうとしているのです」
「断じて、今は出来ません。このことはハッキリ申し上げます」
(前出『小説人間革命(下)』)

 牧口会長の渾身の説得にもかかわらず、内務部長は首肯しなかった。信仰の次元が、全く噛み合わなかったのである。
 牧口会長は、大聖人の御事績に続き、日本を破滅の道から救わなければならない、それには国家に大聖人の正義を説く〝諫暁〟こそが「仏意」に従うもの、と説いた。
 これに対し内務部長は、身延との合同を防ぐこと、すなわち組織の保全こそが第一番の問題としたのである。
 現在の宗門は、法主が国家諫暁をしなかったのも、数多の謗法を犯したことも、すべては「唯授一人の血脈相承」の断絶を防いだゆえのこと、とうそぶく。別名「法体の血脈」とも呼ぶこれら妄説が、宗門管長を〝特別の存在〟たらしめ、よって管長自ら大聖人に違背し仏法を損なって止むことの無い「魔道」の根拠となっていた。
 もしも「即身成仏の血脈」が存していたら、法主は大聖人に従い、艱難に立ち向かったであろう。殉教に至れば、法主は「聖人」として即身成仏したであろう。だが法主信仰に堕ちていた宗門は、その醜い俗物の正体を晒しただけであった。
 識者は、牧口会長の心情を次の通り捉えている。
               ◇
「日蓮正宗が大事なのでなく、法華経の三大秘法を奉じて、日蓮が生き行動したように、戦争政策をすすめる政府を直諫することが一番大事なことを確認したのである。もしそれをしないならば、有名無実の日蓮の教え、日蓮正宗があるにすぎないことを知ったのである」
(『牧口常三郎』池田諭 著 1969年 日本ソノ書房刊)

 日蓮大聖人は為政者の弾圧に一歩も引かれず、日興上人は地頭の謗法を許さず大聖人ゆかりの身延を離山された。法華経の行者たる御振舞いである。
 だが、末代の後嗣(法主)が大聖人の御精神を見失い、宗内に「有名無実の日蓮の教え」しか残っていなくて、それでどうして国が護られよう。「仏意に違う」姿とは、この宗門の実態を言うのではないか。

 立正安国論(二六㌻)にいわく、
「国亡び人滅せば、仏を誰(たれ)か崇(あが)む可(べ)き、法を誰か信ず可きや。先(ま)ず国家を祈って、須(すべから)く仏法を立つべし」

(国が亡び、人びとが滅するならば、仏をだれが崇(あが)めるであろう。法をだれが信ずるであろう。まず国家の安泰を祈って、しかるのちに仏法を立てるべきである)

 御書は必ず真実を説かれる。宗門という〝組織〟の消長を危惧しているときではない、日本国の破滅が、目の前に迫り来ようとしていたのである。
 大聖人は国に警鐘を鳴らされ、難に遭われた。だが法華経を身で読まれたゆえに、遂に御本仏の本地を顕されたのである。
 牧口会長もまた、正法の灯が消えゆくのを黙って見ているわけにはいかなかった。国家諫暁こそ、仏意に背いた日蓮正宗を正道に帰せしめる、唯一残された道だったのである。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:96」を破折する(その二) 連載141回

妄説:96 「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違(たが)ふ時は(中略)即身成仏の血脈を承(う)くべき資格消滅せり」(有師化儀抄註解・富要 1-176頁)

 〔御文証の解釈〕
 御本仏への信心が、不善・不浄の邪心・迷信となり、仏意に背く姿となったときには、御本仏からの法水は、通路がふさがってしまい流れません。根本に信順しなければ、迷いの衆生となり、即身成仏の血脈・信心の血脈を受ける資格が消滅してしまいます。

 〔創価学会の解釈〕
○日顕(上人)は、仏意仏勅の学会を破門し、仏意に背(そむ)いた邪信の徒であり、「即身成仏の血脈」を受ける資格を失っている。よって御本尊を書写し、下付する資格も消滅した。(聖教新聞 H五・九・一九 取意)

 〔創価学会の解釈に対する破折〕
 この御文は「信心の血脈」についての一段ですが、学会は「学会こそ仏意仏勅の団体」という前提に基づいて、その学会を破門した日顕上人と宗門こそ「悪」であり「仏意に背いた邪信の徒」と解釈しています。
 しかし、仏意とは御本仏日蓮大聖人のお心であり、それは血脈相承として御歴代上人に受け継がれています。
 創価学会は昭和二十六年、宗教法人を取得する時に宗門と約束をしました。それは、
①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
②当山の教義を守ること
③仏法僧の三宝を守ることの三ヶ条を遵守(じゅんしゅ)することです。
 以来、総本山大石寺を根本と仰ぎ、この大原則を守りつつ宗門外護と、広宣流布への前進があったことは周知の事実です。
 しかし正本堂建立のころから、徐々(じょじょ)に仏法上の逸脱が現われ始め、ついに「昭和五十二年路線」で当初の三ヶ条の約束を完全に破棄し、学会は「仏意に従う団体」の資格を自ら放棄したのです。一度(ひとたび)は日達上人に謝罪し、反省をしたうえで正道に進むことを誓いましたが、平成二年の末に至り、その反省が虚偽であったことが明らかになりました。
 宗門から仏法の道理に基づく教導を受けながらも、「仏意に違う」姿となって反目し、誹謗を繰り返し、自らの団体が定めた基本原則をも捨て去ったために、学会は破門となったのです。
「即身成仏の血脈」を受ける資格を失ったのは創価学会なのです。
 この御文の真意は、本門戒壇の大御本尊と、唯授一人血脈相承を「仏意」と拝さなければ正しく理解できないのです。

破折:
5.〝仏意〟〝御本仏日蓮大聖人のお心〟とは

〝仏意〟〝御本仏日蓮大聖人のお心〟とは何をもって答えとするか、それは大聖人の御事績に明らかである。

 ① 「立正安国」 ②「謗法呵責」 ③「不惜身命」

 すなわち大聖人は時の為政者に『立正安国論』を提出され、国を安んずる正法を明らかにし、これを阻む念仏の謗法を呵責された。そのため幕府や念仏者等により弾圧・迫害を加えられるも、不惜身命の御精神で一歩も引かれなかった。
 しかし、宗門が言う「仏意に従う団体」とは、「『宗門・法主』に従う団体」を意味するものであり、決して「『日蓮大聖人』に従う団体」のことではない。
 そのことは「仏意とは御本仏日蓮大聖人のお心であり、それは血脈相承として御歴代上人に受け継がれています」との、長たらしい言葉が表わしている。この文を煎じ詰めれば「仏意」とは〝宗門法主に帰結〟することとなる。
 宗門ではその根拠を「血脈相承」に求める。だがこの概念は、日本中のいかなる宗教にも存在しない妄説である。
 そもそもが、日蓮大聖人の御著作にも、日興上人の御文にも説かれず、むしろ要法寺系の流入僧による「創作文」がそのもとである。経典にも御書にも依処を求めない奔放さが嵩じ、遂には仏道からも逸脱した妖言となっていく。

「開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わる」

 日顕のこのような戯言は、病理学で言う〝誇大妄想〟の典型的な症例である。誇大妄想には自分に〝特別な力〟があると信じる等の症状があり、恐るべきは、その〝心の病〟を多くの人に感染させることである。
 ともかく、宗門に「血脈相承」なるものが流れていたかどうか、史実から検証したい。

6.謗法に明け暮れた宗門

 宗門が太平洋戦争当時の軍部政府に迎合し、御書発刊停止、御書字句削除、神宮遥拝、神札受容等の種々の措置を行なったことは、これを「仏意」と言うのか、「謗法」ではないか。宗門は五老僧の邪宗日蓮宗と同じ謗法を犯したのである。

 唱法華題目抄(四㌻)にいわく、
「謗法と申すは違背の義なり」

 謗法を犯すこと、それは大聖人への違背である。「御本仏日蓮大聖人のお心」が宗門のどこにあると言うのか。
 さらに臆病にも宗門は、学会に神札を受けるよう〝指南〟したが、牧口会長はこれを敢然と拒否した。大聖人の弟子を名乗る者なら当然のことである。
 法主に「御本仏日蓮大聖人のお心」が受け継がれているなら、大聖人に続き殉教の道を歩んだはずではないか。それが法主自身の手で、大聖人の正法正義が捻じ曲げられたのである。「唯授一人血脈相承」なぞ有名無実、なんら存在しなかったことの証左である。

 弟子檀那中への御状(一七七㌻)にいわく、
「各各用心有る可し少しも妻子眷属(けんぞく)を憶(おも)うこと莫(なか)れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛(ばく)を切つて仏果を遂げしめ給え」

(各々も用心しなさい。少しも妻子眷属のことを憶ってはならない。権威を恐れてはならない。今こそ生死の縛を切って成仏を遂げなさい)

「仏意に従う団体」とは、「難を乗り越える信心」をもって御書を身で読んだ信徒の団体・創価学会である。権威を恐れることなく、大聖人の正義を説き、正法を立てて殉教したのである。
 これに対し、「難を避ける信心」が宗門であった。いや、もはや信心は無い、謗法を重ねた「違背」であった。宗門は今に至るまで、戦時中の謗法を大聖人に懺悔申し上げていない。
 臆病法主と保身の宗門はさて措き、命を捨てる覚悟を以て国家諫暁に及んだのは、在家の牧口会長であり、創価学会幹部であった。
 昭和十八年七月六日、牧口会長と戸田会長とが逮捕された。宗門は関わりを恐れ、創価教育学会員を信徒除名処分とした。さらには、ただ一人逮捕されていた日蓮正宗の僧侶・藤本蓮城も擯斥処分にして僧籍を剥奪した。
 これら大聖人の真の弟子を切ったことにより、宗門の「不善不浄の邪信迷信」(『有師化儀抄註解』)が確定し、終戦前夜になって峻厳なる因果律の果報が本山に下されたのである。
 これらのことを、時の法主・六十二世鈴木日恭と、学会の牧口会長を中心に、詳しく論じて行きたい。
 鈴木日恭管長の宗門が、軍部政府の弾圧を恐れるあまり、大聖人の仏法を次々と歪めていったことは、多くの書物・文献に述べられるところである。

● 御書の発刊禁止(昭和十六年八月二十四日、院達)
● 御書の要文十四か所の文字削除及び引用禁止(昭和十六年九月二十九日、教学部長名)
● 勤行の観念文を国家神道風に制定(昭和十六年八月二十二日、院達)
● 観念文における大御本尊と大聖人への讃文の削除、日興上人への南無を削除(同)
● 開戦を賛美、戦意を鼓舞(昭和十六年十二月八日、訓諭)
● 尽忠報国を勧む(『大日蓮』昭和十七年一月号、新春の挨拶)
● 伊勢神宮の神嘗祭当日の午前十時、各在所における神宮遥拝(ようはい)の徹底(昭和十七年十月十日、院達)
● 日蓮正宗報国団を結成、戦争協力・献金等の事業(昭和十七年十一月十九日)
● 教師錬成講習会を大石寺で開催、寺院の庫裡に神札を祀るよう徹底(昭和十八年八月)
● 明治節に神社に参詣しての必勝祈願を徹底(昭和十八年十一月一日、院達)

 宗門はこうした事実を反省するどころか、〝当時はそれが当然のことであった〟として恥じ入ることのない鉄面皮ぶりである。

●「軍部の圧力を回避するための一時的な方便として、形どおり発表したにすぎないものであった、といえよう」(『慧妙』H15.1.1 昭和十六年八月二十四日「院達」について)

●「無用の混乱を避けるための形式的な通知に過ぎない」(昭和十七年十月十日「院達」について)

●「神札受容は、実質をともなわない形式的対外的配慮に過ぎなかった」

「形どおり」「形式的」と、言い訳ばかりである。〝心の中では従っていない〟と言いたいらしい。
「形の上」でなら、仏法者しかも僧侶が戦争翼賛まですると言うのか。だが宗門は、〝当時は宗教界全体でそうしていたのだ〟とうそぶく。

●「戦時下という特殊な状況に鑑み、当時の宗教団体その他の各種団体が行っていた戦争翼賛の一般的形式的儀礼の一種に過ぎない」(昭和十六年十二月八日付「訓諭」について)

●「宗教界が戦争協力を強いられたのは『時代のすう勢』であり、宗門もその『一翼をになった』だけのことである」

〝周囲の誰もが行なっているから、そうしたに過ぎない〟と、何らの反省もない。しかし戦争を遂行する体制に協力した事実に、変わりは無い。

 佐渡御書(九六一㌻)にいわく、
「日蓮御房は師匠にておはせども余(あまり)にこは(剛)し我等はやは(柔)らかに法華経を弘むべしと云んは螢火(ほたるび)が日月をわらひ蟻塚(ありづか)が華山(かざん)を下(くだ)し井江が河海をあなづり烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべしわらふなるべし」

(僻人等が、日蓮御房は師匠ではあるが、あまりにも強すぎる、われわれは柔らかに法華経を弘めようというのは、螢火が日月を笑い、蟻塚が華山を見下(くだ)し、井戸や小川が河や海を軽侮し、烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)を笑うようなものである)

 大聖人御在世当時も、幕府の権威に畏れをなした門下がほとんどであり、大聖人の教えを説くことを差し控えた。上記の御文は、そのような小人共を笑ったのである。この小人共が後の宗門に生まれてきて、軍部政府の弾圧に屈したのである。

7.「身口意の三業」

〝王法〟(世俗の権力)に媚びへつらい、それで通ったとしても、〝仏法〟において「面従腹背」が許されようか。
 日寛上人が出家する以前のこと、身・口・意が不一致の修行者の姿を見て、正しい信心のありかたに思いを致したことが発心のきっかけとなったとされる。

「幼名を市之進と云う、志学の頃江戸に出で旗本の舘に勤仕す、天和三年癸亥十九才の夏納涼の為に門前に彳(たたず)む時に六十六部の修行者来る、師彼に問うて云く口に弥陀の名号を唱え心に観音を念じ納る所の経典は法華経なり、若し爾らば身口意不相応に非ずや等と云云、行者忽(たちまち)閉口して去る」
(『続家中抄』第四十八世日量)

 市之進(若き日寛上人)の目にとまった六部は、口に唱えるのは南無阿弥陀仏であり、心に念ずるのは観音で、所持する経は法華経であると語ったので、市之進がそれならば身口意が相応しないではないかと問うたところ、六部は閉口して立ち去ったという。
 この通り「身口意の三業」が相応しなければ、真の仏法者ではない。日寛上人は「面従腹背」などという卑怯な振舞いは、決して許されなかった。

「私に云く、常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わざれば、心が謗法に同ずるなり。口に折伏を言わざれば、口が謗法に同ずるなり。手に珠数を持ちて本尊に向わざれば、身が謗法に同ずるなり」
(『如説修行抄筆記』)

 目前の難から逃れるため仏法を腐(くた)して、それで仏法者と言えようか。如説修行抄の「意(こころ)」を忘れた者が、宗門である。

「よいことをしないのは悪いことをするのと、その結果において同じである」

 牧口常三郎初代会長の箴言(しんげん)である。謗法を見て見ぬふりをするのは、謗法に加担することとなる。まして宗門は、軍部政府に睨まれる前に、進んで謗法を重ねていったのである。
 日寛上人の御教導を守り通したのは、創価学会のみであった。戦時中に宗門が犯した所業は、宗史最大の謗法である。

 新尼御前御返事(九〇七㌻)にいわく、
「かまくらにも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」

 鎌倉幕府による弾圧下では、千人のうち九百九十九人が退転してしまったと、仰せである。それでも、難を乗り越えて正法を護った弟子檀那がいたからこそ、後の世まで令法久住された。
 ところが、太平洋戦争当時の軍部政府による宗教弾圧のもとでは、宗門はその全員が退転者となっていたのである。

[参考]
〇 藤本蓮城: 
(『地涌』記事より一部抜粋)
 蓮城房は、(昭和十八年)六月二十五日には不敬罪の容疑で行政検束され、拷問による取り調べを受け、七月三十一日には東京刑事地検に送局となり、さらに検察庁において取り調べを受けていた。
 その取り調べの最中、蓮城房は体調をくずし、浅草署から浅草寺病院に移された。(中略)
 蓮城房は、浅草寺病院で創価教育学会に対する弾圧事件についての話を聞いて、つぎのように語ったという。

「自分は袈裟を許されて百日だ、僧侶の最下等の僧侶であるけれども、僧だ。在家だけが法難にあってこれはおかしいんだ。僧俗一致して法難に逢うというんなら話は分かる。だからその中の僧の自分は一番末輩だけれども、自分がその僧籍をケガした一番下であるけれども、自分もそうなった事でよかったんだ。しかし牧口さんは大変にお気の毒だなあ」(弾正講幹部・片爪氏の回想による。大塚興純著『蓮城師の法難を偲びて』より)

 満五十五歳の蓮城房が、満七十二歳という高齢で入獄している牧口会長を思いやったものと思われる。在家の前に難に逢わんとする僧こそ、真に身軽法重の僧といえる。(中略)
 蓮城房は、東京区裁判所の公判で、「失言を取り消します」と言えば助かると言われたが、「僕の言ったことは失言といえるけれども、日蓮大聖人の言ったことだから失言とはいえない」と、譲らなかったという。(中略)
 蓮城房は、極寒の地・長野刑務所で昭和十九年一月十日に獄死した。享年五十五歳、長野刑務所に送られて、わずか一カ月前後の命であった。(中略)
 蓮城房の一宗擯斥処分(僧籍剥奪)について触れておく必要があるだろう。(中略)その処分の理由は、『蓮城師の法難を偲びて』(大塚興純・弾正教会第二代主管の著書)によれば、
「一、蓮城は危険思想の所有者なる故
 一、所化の分際にて資格なく弘通し宗制宗規に違反せる故」
という驚くべきものであったという。日蓮大聖人の教えを信じ行じている者を、「危険思想の所有者」と決めつけるほど、当時の宗門は狂っていたのである。かつ「所化」が「弘通」したことも、僧籍剥奪の理由とされたのである。評するべき言葉もない。
 こういった理不尽な理由で宗門は蓮城房の僧籍を剥奪しながら、殉教の後も僧籍を回復せず、在家のそれも墓参りだけする檀家なみの戒名をつけた。殉教の僧に対する、実に冷酷非道な仕打ちである。(中略)
 なお、ここで明記しておきたいことは、獄にあってよく法を護持した真正の僧・藤本蓮城房について、日蓮正宗はこれまで、まったくといっていいほど真実を公表してこなかった。また、ふさわしい顕彰もなさなかった。
 それは、ひとえに戦中における日蓮正宗の旧悪が露呈することを恐れたが故である。そのため、日蓮正宗においては、いまでは蓮城房より日恭が尊ばれ、正邪は転倒している。この狂いが、いま日顕という魔僧の跳梁を許しているのである。
(『地涌』第706号 1993年11月15日) 

〇 六部: 
 六十六部の略。廻国巡礼のひとつ。書写した法華経を全国六十六ヵ所の霊場に一部ずつ納める目的で、諸国の社寺を遍歴する行脚僧。鎌倉末期に始まる。江戸時代には俗人も行い、鼠木綿の着物を着て鉦(かね)を叩き鈴を振り、あるいは厨子を負い、家ごとに銭を乞い歩いた。(広辞苑)

〇 身口意不相応のこと:
(『日寛上人伝』より一部抜粋)
 師の諱(いみな)は日寛(初め日如と云う)字(あざな)は覚真、大弐阿闍梨堅樹院と号す、寛文五(乙巳覆燈火)八月八日卯の上の刻の誕生なり、俗姓は上の野州、館林、前の城主酒井雅楽頭の家臣伊藤某の子なり父を浄円と云ひ、継母を妙順と云ふ、八歳にして実母に別れ養母の撫育に依つて成長し幼名を市之進と云ふ。
 志学の頃より江戸に出でゝ旗本の館に勤持す。天和三年癸亥の夏(十九歳)勤の暇に納涼せんが為め門前に徘徊す、時に六十六部回国の修行者至る、師修行者に問うて云く笈(おい)の後ろに書き附けある「納め奉る大乗妙典六十六部」とは如何なることぞや、行者答へて云く日本六十六箇の観世音菩薩に法華経一部充(ずつ)を納め奉りて後世得楽を祈るものなり、師又問うて云く腰に小金鼓を鳴らして口に何事を誦するや、行者金を鳴らして無常を示し口に摂取不捨の名号を唱ふ、師又復問うて曰く口に弥陀の名号を唱へ心に観音を念じ納むる所の経典は法華経なり若し爾らば身口意相応せざるにあらずや、行者忽(たちまち)に閉口し我は俗なり其ノ義を知らずと言つて去りぬ、
 爰(ここ)に門番佐兵衛と云ふ者あり側に在りて之レを聞き讃嘆して止まず、師云く全く修行者を詰むるにあらず、吾レ多年普門品を夏書して浅草の観世音に納む、夫レ観音を信念し口に弥陀の名号を称へば譬へば汝に向つて六兵衛と呼ばんが如し汝答ふべきや、其ノ上納むる所の普門品の題に妙法蓮華経とあり全く弥陀の名号なし、爾れば観音を念ぜば妙法の題目を唱ふべし例せば吾レを伊藤市之進と云ふが如し、妙法の五字は観音の苗字なり何ぞ余経の苗字たる弥陀の名号を唱うるの里あるべけんや、此の事他年不審に思ふ故に修行者に問ひしなり、佐兵衛曰く善き問ひかな吾レ菩提寺にて常に教化する所是レなり、謂はゆる妙法蓮華経の五字は十方三世の諸仏の御師範、一切衆生成仏得道の大導師なり。
(『日寛上人伝』 四十八世日量)

〇 夏書:
 げがき。夏安居(げあんご)の期間中、経文を書写すること。夏安居とは夏(げ)の期間、外出せずに一所にこもって修行をすること。
                          (続く)
 

プロフィール

Author:墨田ツリー

 
 
 

最新トラックバック

 
 

カテゴリ

 

検索フォーム

 
 
 

ブロとも申請フォーム

 

QRコード

QR