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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:82」を破折する(その一) 連載115回

妄説:82 「昭和五十二年路線」とはどういうことですか。

 昭和五十二年当時の創価学会が、「人間革命は現代の御書」「会長に帰命(きみょう)する」「寺院は単なる儀式法要の場」などの指導を行ない、日蓮正宗の教義から逸脱(いつだつ)し、独立路線を企(くわだ)てたことです。
 学会の『山崎・八尋文書』(昭和四十九年四月十二日付)には、「長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固める」とあり、また『北条文書』(昭和四十九年六月十八日付)にも「長期的に見れば、うまくわかれる以外にはないと思う」とあるように、当時の創価学会は宗門を実質的に支配して乗っ取るか、それができなければ分離独立するという陰謀(いんぼう)を計画していました。そして昭和五十二年に至って、学会に批判的な僧侶を学会本部に呼びつけての吊(つ)るし上げを始め、池田氏や学会幹部は会合のたびに宗門批判、僧侶攻撃を行ない、ついには御本尊模刻などの大謗法路線を突き進んだのです。
 これが昭和五十二年路線といわれるものです。
 しかし、創価学会は、日達上人の御叱責(しっせき)と宗門の指摘を受け、その責任をとって池田氏が会長を辞任し、大幹部全員が登山して謝罪することによって、日達上人は、再びこのような過(あやま)ちを犯さないことを条件として一応収束(しゅうそく)の形をとられたのです。

破折:
1. 「供養」の語で眼の色が変わった宗門
(1)〝昭和五十二年路線〟とは学会を陥れるための命名

 昭和五十二年路線とは、池田会長の昭和五十二年における講演を踏まえて宗門が名付けたものである。この前後年における一連の出来事を「第一次宗門事件」と言う。
 昭和五十二年一月十五日、関西戸田記念講堂で開催された第九回教学部大会における池田会長の講演「仏教史観を語る」の原稿には、次のような箇所があった。

「かつての民衆のなかから生まれ、みずみずしく躍動した仏教が、沈滞・形骸化していった大きな要因のなかに、仏教界全体が〝出家仏教〟に陥り、民衆をリードする機能を失ったという事実であります」
「現代において創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果たしているといえましょう」
「その供養が仏法流布に生かされるならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想があります」
「すなわち、学会の会館、研修所もまた『近代における寺院』というべきであります」
(『聖教新聞』昭和五十二年一月十七日付)

(2)講演の内容はすべてが道理

 今、この講演を新たに聞いて、違和感を感ずる箇所は何一つない。至極もっともと、首肯する内容ばかりである。正論であるだけに、宗門はなおのこと熱(いき)り立ったと見える。

〇「仏教界全体が〝出家仏教〟に陥り」とは、名指しはしないが当然に宗門も含まれる。かつて学会員は、宗門史では日目上人以降、九世日有師、二十六世日寛上人と飛び飛びに教わる程度で、あとは小説『人間革命』に登場する法主の名を知るくらいであった。詳しく明かされなかった理由は、宗門史は信心に益しない話ばかりのゆえである。
 ① 日目上人御遷化の後、四世日道とこれに反目した日郷とが派閥抗争し、土地の帰趨を巡り七十二年にわたる「訴訟沙汰」に終始し、大石寺が疲弊・衰微したこと。
 ② 十二世・十三世・十四世の貫首(管長)が十代で就任し、若年の法主を支えるため「法主本仏論」の邪義が発生したこと。
 ③ 十七世日精は十箇寺を超える末寺に「仏像を造立」したこと。
 ④ 金沢・伊那・尾張で過酷な法難があったが、宗門は難を恐れて保身を図り、手を差し伸べず「信徒を切り捨てた」こと、等々。
〝出家仏教〟とは、こうしたものを含んでいたのである。

〇「僧」の意義を問えば、出家者の団体だけでなく、本来は在家を含む修行者の集まりを意味する「僧伽(そうぎゃ)」(〝サンガ〟の音写)であった。「創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果たしている」とは、正鵠を射た言葉である。その意味で「学会の会館、研修所もまた『近代における寺院』というべき」なのである。

〇 創価学会は設立時より日蓮正宗の下部機関ではなく、独立した宗教法人であり、「寄付」ないし「財務」を募る資格がある。それを「供養」の言葉に置き換えたところで、何の不都合もない。

(3)〝在家は供養を受ける資格がある〟――九世日有師

〝「在家の身であっても供養を受けられるという思想」があります〟とは、第九世日有師の言葉に認められる。

「俗人なれども信心無二の人を供養する意は、御抄にいわく能持の人の外に全く所持の妙法を置かずと、能持の人は道俗男女に依らず法華経なり、末代悪世の法華経とは色体巻軸なし、能持の人を指して当時の法華経とは高祖も祖師もかって遊ばして候なり」(『有師談諸聞書』)

(在家であろうとも、信心無二の人に供養をする意義は、御書に仰せの通り、能(よ)く法華経を持(たも)つ人の外に、妙法というものが存在するわけではない。この能持の人は、僧俗・男女を問わず、法華経そのものである。末代悪世の法華経の体とは、巻物の経典ではない。能持の人を指して現時の法華経であると、日蓮大聖人も日興上人も言われたことである〈趣意〉)

 在家であっても「能持の人」であるなら、僧侶と同様に供養を受けることができる、と明言されている。

(4)学会は宗教団体だから供養を受けられる――日達法主

 前年の昭和五十一年六月十八日に、細井管長(日達法主)は室蘭・深妙寺における説法の中で、こう述べている。

「学会には賽銭箱が無いのに決まっておる。それで御供養を受けたって、それは、学会はやはり一つの宗教団体である。御供養を受け、或いは寄付を募集する。そりゃあ皆んな、自分の学会員、信徒、それ等から貰うんで少しも恥ずることも無ければ、世間で批判することの筋合も無いのでございます」

 細井管長自ら、学会が在家であっても「御供養」を受ける資格があることを認めていたのである。しかし宗門は、学会が同じことを言うと反発するものらしい。
「供養」の語には、坊主にとっては最大に敏感な響きがある。彼らにとって供養とは〝寺に納められるべきもの〟との思い込みがある。それが学会の会館、研修所まで「寺」となれば、〝我々は食い上げとなる〟との思いに至ることとなる。
「供養を独占したい」(カネに対する妄執)、「信徒の分際で」(僧俗差別)と相俟って、第一次宗門事件は宗門僧侶の中から一気に噴出した。彼等は池田会長の講演を「日蓮正宗の教義から逸脱」したものと決めつけ、「独立路線を企(くわだ)てた」云々と誹謗したのである。
 だが宗門とくに細井管長が、学会に対し一方的に不信感を抱くようになるのは、昭和四十七、八年頃からであった。〝昭和五十二年路線〟とは、あくまで宗門がためにする命名にすぎない。

2. 〝法主〟(細井管長)に〝魔〟(山崎正友)が付け入る

 さかのぼって、昭和四十七年十月、正本堂の完成法要が行われた。当時、我々学会員は御供養の勧募趣意書に「正本堂建立は、実質的な戒壇建立」との細井管長(日達法主)の趣旨を信じ、赤誠の御供養に参加した。だが、正本堂完成の直前になって勧募の趣旨が変更され、宗門より「現時における事の戒壇」と発表されたのである。
 仏法の深義が改変された事実に、精神的に衝撃を受けたことは、未だに生命に刻まれている。それでも正本堂が建立されたことで、当時の会員には「これで立板に水が流れるように、すべてうまく行くよ」(幹部指導)との期待感があった。
 だが正本堂の意義改変は、単に〝文言の訂正〟で終わるものではなかった。それは〝正しい仏法の意義〟そのものを変えたに他ならず、仏道の流れが大きく変わることを意味していた。今振り返れば、一つの時代の「終わりの始まり」であった。
 このころ宗門・学会の上層部では、波が逆巻きはじめていた。渦の中心にいたのが細井管長であり、動かしていたのは学会の顧問弁護士・山崎正友である。当時のことは、次の記事に詳しい。
               ◇
 実は、この頃よりさかのぼることおよそ一年前、細井管長の身内に、深刻な事態が起きていた。細井管長の娘の一人は、当時、大石寺に一人しかいなかった理事・早瀬義孔の妻であった。早瀬義孔は総監・早瀬日慈の甥にあたる。細井管長のこの四十近い娘が、東京・中野の歓喜寮で住職を務めていた二十四歳の山田容済と駆け落ちをしてしまったのだ。山田は、住職を辞め還俗するとまで言い張った。
 この早瀬夫婦の不仲は、夫・早瀬義孔の乱脈な女性関係に一因があったと言われている。だがこの一件は、単なる痴情のもつれというわけにはいかなかった。細井管長と総監・早瀬の同盟関係、勢力的には妙観会(細井系)と法器会(早瀬系)の結束すらもぶち壊しにするものだった。妙観会の中心人物の一人で、細井管長の娘婿である菅野慈雲は、それまで大石寺に登山するたびに、同じく細井管長の娘婿である早瀬義孔が住職をする本住坊に泊まっていたが、早瀬の離婚後は立ち寄ることさえしなくなり、それにともない妙観会の者たちも早瀬のもとに出入りしなくなった。
 細井管長は身内の不祥事に心を痛め、さらには宗内基盤の安定を欠くことによる不安にさいなまれることになる。
 この不安が投影されたせいか、細井管長は、それまでの鷹揚な風格を徐々に失い、発言のブレが目立つようになった。〝法主〟の不安定な感情と発言のブレは、宗内に大きな混乱を生む。法器会を束ねる総監・早瀬が東京・池袋の法道院に居住し、創価学会側との窓口となっていたことも災いした。細井管長は総監・早瀬が創価学会と親密になりすぎていると考え始めたようで、創価学会側の真心を尽くした言葉も、細井管長の耳にまともに入らなくなる。その細井管長の心の隙に、創価学会批判の妖言が入り込んでいく。
(『暁闇』北林芳典著 報恩社 2002年12月出版)

 上記に「この頃」とあるのは昭和四十八年であり、細井管長が身内の不祥事に悩み、徐々に自律神経失調の症状を呈していったのが、奇しくも昭和四十七年、正本堂完成の年である。
〝法主〟(細井管長)に〝魔〟(山崎正友)が付け入るとは、何と皮肉なことであろうか。

 法華初心成仏抄(五五六㌻)にいわく、
「人に吉(よし)と思はれ人の心に随いて貴しと思はれん僧をば法華経のかたき世間の悪知識なりと思うべし」

(人によく思われ、人の心に従って、貴しと思われる僧は、法華経の敵であり、世間の悪知識であると思いなさい)

 山崎は僧にあらずとも、稀代の〝悪知識〟であった。細井管長の猜疑心に巧みに付け入った山崎の魔のささやきに、宗門も学会も大きく揺さぶられていくこととなる。
 あえて因果律に求めるわけではないが、宗門、とりわけ法主が学会との僧俗和合を破すに至った原因を遡れば、正本堂建立にかかる法主の「両舌」(=二枚舌)に至ると言っておきたい。単なる偶然では片づけられない。
 だがその話はいったん措き、以降、北林芳典氏の著書を資料として話を進める。北林氏は山崎正友の指示の下に仕事をした経緯があり、山崎の裏事情をよく知る立場にあった。次回との二回にわたり、本著書より抜粋、あるいは概略して引用する。
 なお、本書(『暁闇』著者:北林芳典 報恩社 2002年12月出版)は現在も入手可能であり、インターネットにも全文掲載されている。
 
3.「報告書」を「計画書」と強弁

 当時の学会幹部から池田会長に提出された「山崎・八尋文書」(昭和四十九年四月十二日付)及び「北条文書」(昭和四十九年六月十八日付)は、ともに学会幹部で顧問弁護士であった山崎正友が造反時に、〝創価学会に独立の下心あり〟と喧伝し、宗門僧侶を煽(あお)るために持ち出し、公開したものであった。

(1)「山崎・八尋文書」

「山崎・八尋文書」は、山崎正友と八尋頼雄弁護士の連名とされているが、八尋弁護士は山崎の書いたものを清書したにすぎない。元々の山崎手書きの原文は、山崎正友の恐喝事件裁判で裁判所に提出されており、八尋弁護士が単に清書役であったことは公的に確認されている。文書には、次の記載がある。
               ◇
 本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて二とおり考えられます。一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向う三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です。本山管理に介入することは、火中の栗をひろう結果になりかねない危険が多分にあります。
(『山崎・八尋文書』)

「仕掛け」「背後を固める」などと、策略家の山崎正友らしい文言である。しかしこの山崎提案は、池田会長によってはっきり不採用にされている。

(2)「北条文書」
① 細井管長が疑心暗鬼の様相に

 次に「北条文書」すなわち「北条報告書 宗門の件」は、北条副会長(当時)が、香港・中国への訪問を終えて帰国した池田会長に宛てて書いた報告書である。
               ◇
 報告書冒頭には、
「広布の前途を大きく開いて帰国された先生に、このような報告を申し上げることは洵に残念なことであり、且つ申し訳ない限りでありますが……」
とあり、
「自分からこんなことを云ったことは黙っていてほしい。ただでさえ、にらまれているのだからと、念を押しながら話してくれたことです」
として、東京墨田区・本行寺住職の高野永済(日海)の注目すべき発言が記録されている。
「法華講の登山会のあと、講頭たちが来て、猊下から大変な話をきいたと云ってきた。『会長本仏論』というような話だった。『とんでもない。そんなことあるわけない。そんな話に紛動されてはいけない。うちはいままでどおりやっていく』と云ったら、講頭たちもすっかり安心した。 ①総監も困っていた。『大日蓮』には載せないといっていた。『大白法』も不穏当なところは削らせた。『蓮華』は猊下がやっているので、手が出せない。頭をかかえていた。 ②猊下は、前は先生が直接いろいろ話をされたが、最近は総監に話をされている。猊下を辞めさせて、総監を猊下にしようと思っているのではないかと、疑っているんじゃないか。 ③妙観会が勢力をもって来ている。そうでない人は、心に不満を持っているが、口には出さない。このやり方も大へん不公平だ。私もいろいろ云ったが、何にもならず、今度は宗会に出るのもやめた。 ④日蓮正宗世界センター(インターナショナル)が出来、その会長に先生がなられるときいた時、猊下は、私がその下になるのかといった。なぜそんな事を考えるのだろう。先生が猊下をないがしろにする筈がない。それに俗のことは坊さんは何もわからないんだから。 ⑤五月三〇日の寺族同心会の時も、猊下はキリキリしていたらしい。何のはなしだったか、皆、見当がつかないようだ。学会と斗えというのかと思ったら、寺を守ってしっかりやれとも云ったし、一体、何のことを云ったのか、と出席者の話だ。
 かつて蓮華寺や大乗寺を切り、学会を守った同じ人が、全然今度は逆のことを云うので困ってしまう。
 中外日報でさえ、会長先生をあれだけほめているのに、身内でこんなことじゃあ、しようがない」(「北条報告書 宗門の件」より一部抜粋)。

② 「日蓮大聖人はお喜びかもしれぬが、私には関係ない」(細井管長)

 この頃、世界広布の要となる上記の「日蓮正宗世界センター」について細井管長は、創価学会側による宗教法人大石寺の会計整備と合わせ考え、創価学会の日蓮正宗・大石寺支配の一環と考えるようになっていた。
 昭和四十九年五月九日に北条副会長が細井管長に目通りした際、管長より次の通りの発言があった。

「国際センターを作ることは結構だが、学会で作りなさい。日蓮正宗は別個にしてくれ。関係なしにしてくれ。海外では、寺院はいらぬ、坊主は帰される。日蓮正宗はいらないのでしょう。創価学会が増えるけれど、日蓮正宗には関係ない。日蓮大聖人はお喜びかもしれぬが、私には関係ない」
(『記録文書』より)

 これに対して北条副会長は、
「そうではありません。日蓮正宗を包括するなどということは絶対にありません」(同)
と述べ、国際センターについて説明したが、日達法主はまったく理解するふうがなかったという。
 実直な性格の北条副会長は、文書の中で
「九日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。……かえすがえすも残念です」
と心情を吐露したうえで、次のように分析した。

「猊下の心理は、一時的なものではない。今、こんな発言をしたら宗門がメチャメチャになってしまうことも考えないのではないか。困るのは学会だと思っているのだろう。宗門は完全な派閥で、猊下と総監とは主導権争いになっているのではないか。長期的に見ればうまくわかれる以外にないと思う」(『記録文書』より)

 池田会長は、この「北条文書」に接しても、宗門外護の姿勢は変えなかった。しかし宗門側はこれらの文書をもって、「創価学会は宗門を実質的に支配して乗っ取るか、それができなければ分離独立するという陰謀(いんぼう)を計画」云々との根拠とした。
 あくまでも「報告書」であったが、宗門はこれを「計画書」であるとの強引な解釈を下したのである。

4.正本堂の土地問題

 この当時、細井管長(日達法主)が学会不信となった原因の一つに、本山の会計や帳簿の不整備の問題がある。
 昭和四十八年六月二十一日、富士宮市議会の上杉三郎副議長、内藤寛前富士宮市議、渡辺春雄(富士宮半野地区の法華講員)は、細井日達管長と池田大作創価学会会長とを、富士宮署に告発した。
 告発の内容は、正本堂建設にあたって富士宮市の市道を無断で占拠し使用している、ということであった。
 告発人の一人であった法華講員の渡辺は、
「正本堂は学会が作ったのだから、猊下を告訴するのではなく、池田会長だけを告訴するのだと思って、告訴状に印を押した」(記録文書より)
などとうそぶくありさまであった。
 当時、富士宮は不穏な雰囲気だった。大石寺が元・上野村のみを地元扱いしてきたことも、他の富士宮市民の反感を買う一因となっていた。
 大石寺に対する地元の不満はあまりにも大きかった。月数十万の登山者がバスで素通りするだけで経済効果はゼロ。おまけに、登山バスによる排気ガスと渋滞で市民は大迷惑。しかも、大石寺は宗教法人であるため市に固定資産税も納めておらず、さらに、農地法に違反して取得した土地についても、他人名義にしながら、実は宗教法人の所有とし、同税を払っていなかったのである。
 大石寺に関する評判は、悪いものばかりであった。
「富士宮の花柳界は大石寺の坊さんによって買い占められてしまった」
「偉いのは料亭で芸者遊びをし、若いのはクラブや特殊浴場に出入りしている」
「役僧がF病院の院長と芸者を争い、勝って身受けし、沼津市に囲っている」
 創価学会側にしてみれば、土地や道路の処理は、総本山大石寺が一手におこなっていたので安心しており、法律違反をやっていようとは夢にも思っていなかった。池田会長は、総本山大石寺の法的処理がズサンであったために、巻き添えで告発されたのである。
 当時、大石寺の土地台帳と登記簿謄本とをつき合わせると、それが合わず、ために会計士、弁護士らはそれを一つ一つ、つき合わせ、基本財産の台帳作成を、一からやり直していた。大石寺の宗教法人として取りそろえておくべき諸表の不整備は、目に余るものがあった。
 創価学会は外護の精神の上から、本来、大石寺がやるべき基本財産の台帳の整備までしていたのであったが、細井管長は、道路問題にかこつけ大石寺の余剰金を調べに来ていると考えていた。
 創価学会に宗門の会計を支配されると邪推し、学会が懐を探りに来た、と捉えたのだった。細井管長の猜疑心は止まることを知らず、学会の誠意は届かず、抜き差しならないところまで来ていたのである。

5.山崎正友の謀略

 細井管長が情緒不安定であることに困惑していたのは、学会や、僧俗和合に協力してきた住職等に留まらず、管長の補佐役たる早瀬総監も同様であった。同月二十七日、早瀬総監は、大願寺において山崎正友に次のように話した。

「猊下の本心はわからない……五月十二日も先生のお話はよく伝えた。そのとき、明るい表情で聞いてくれた。ところが、他の人と会ったり、場面がかわると、全くちがった態度になる。この二重性はずーっとです……私は総監をやめようと思った……私の弟子は早くやめろという。理事からもそう云われた。皆心配している……猊下は感情家だが、今度はそればかりではないように思う」

 これに対し山崎は「我々は純粋にお山を守ってきた。猊下は仏様と思ってきた」と述べたが、早瀬総監は「山崎さん、それは間違いですよ」と返したという。
 山崎正友が、心から細井管長を仏様と思っていたかどうかは、次に引用する山崎の言葉から一目瞭然である。ともかく山崎の狙いは、宗門と学会の双方に食い込み、その立場を利用して、本山の土地ころがしで大金を得ることにあった。山崎は後に、次のように述べたという。

「細井管長の心をつかまえたのは、本山より払い下げられた土地売買で浮いた金・五千万円を直々に渡したからだ。細井管長といえども、しょせん坊さんは金だよ。オレがどう言って細井管長に金を渡したと思う。そこがミソだよ。『私ごとき者が手続きの都合上、やむなく大金を手にしました。私には浄財であるこのような金を使う資格はありません。猊下、お使いください』。こう言って渡したんだよ。どうだ、うまいだろう」

 山崎は墓苑建設でトンネル会社を使って差益を得たり、裏リベートをもらったりなどで、計四億五千万円を不当に手にする。この時山崎は三十九歳、当時、大学卒の初任給は約九万円であった。

6.宗門僧侶が学会を「危険視」

「学会に批判的な僧侶を学会本部に呼びつけての吊(つ)るし上げ」とあるが、詳細は一切記載せず、宗門はただ学会を誹謗するのみである。
 そもそも宗内における反学会感情の遠因は、宗門僧侶の体質にある。いわゆる「代々坊主」の家系の師弟は、それ以外の僧を見下す。創価学会出身の僧侶は、さらに見下される。常に上下の差が定め置かれるこの世界では、信徒として歴史的に新参者である学会員は、僧侶の目からすれば、最も下位の身分であるとする風潮があった。
 昭和五十二年の年初、発行前の富士学林機関誌『富士学報』が創価学会本部に届けられた。届けたのは当時、教学部長だった阿部信雄。そこに掲載された、当時二十八歳の菅野憲道の論文は、創価学会を批判するものであった。

「しかし乍ら、日蓮正宗信徒がふえるにつれて、一部には大聖人の仏法の一断面を恣意に解釈し、枝葉に拘泥して本幹を忘れるが如き本末転倒の我慢偏執の輩がでてきたのも事実である。創価学会の中では会長本仏論などという事が半ば公然といわれた事もあったし、今に元妙信講は国立戒壇という一形式論に執着して、法体相承せられる御法主上人に悪口雑言を加え、本門の戒壇を無きものとしようとしている。その他の泡沫的異分子を枚挙する暇はないが、内外ともに百鬼夜行の様相を呈しはじめている……今、宗門の内外を問わず邪義が新たな装いをもって出現しているが、我々はその装いに惑わされずにその本質を見極め、一々にこれを破していかなければ、後世に一大遺恨を残す結果となるのではないだろうか」

 この論文では、宗門、法主を外護してきた創価学会と、逆に宗門、法主を撹乱し攻撃してきた妙信講とが、同じレベルで取り上げる。そればかりか、創価学会の中に「邪義」が出現していると、妙信講と同様に危険視するよう注意を喚起しているのである。
 具体的な証拠を挙げることもせず、あるはずもない「会長本仏論」をあげつらい、「我慢偏執の輩」、「百鬼夜行」等の誹謗中傷を繰り広げる。
 いわれなき非難には、学会は断固立ち向かう。菅野は最終的に一月二十日、創価学会本部に詫び状を持参し、謝罪した。しかし、宗門はこれを「つるし上げ」と呼ぶのである。
 菅野は決して反省などしたわけではなかった。菅野ら、反学会意識の強い僧たちは、細井管長が亡くなる直前の昭和五十四年七月四日、大石寺蓮東坊において、正信会を形成するに至る。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:81」を破折する 連載114回

妄説:81 学会では「御授戒の儀式は、昭和十二年ごろ牧口会長が宗門に依頼して始められたもので、古来不変の伝統などはない」といっていますが、本当でしょうか。

 御授戒は大聖人御在世当時から行なわれていました。
『最蓮房御返事』に
「結句は卯月(うづき)八日夜半寅(とら)の時に妙法の本円戒を以て授職潅頂(かんじょう)せしめ奉る者なり」(新編 587頁)
とあり、この「授職潅頂」とは御授戒の意味です。
 また、江戸時代には金沢の信徒が受戒したことが日寛上人の書状から伺えます。(前項参照)
 ただし戦前から戦後にかけて厳しい言論統制と布教の抑圧があり、地方では御授戒を行なう機会がなかった寺院もありました。だからといって「御授戒は学会のはたらきかけによって始められた」というのは間違いです。

破折:
1. 御授戒の儀式の始めは「昭和十二年ごろ」

 宗門の妄説「百問百答」においては、最蓮房への「受職潅頂」の同じ御文のみ、繰り返し収載する。しかし、たった一つの事例を根拠に「本宗の御授戒は大聖人の時代からとり行なわれてきた」ことにはならない。
「信徒にウソをつくことが宗門の大事な勤め」であろうと、こう何度もウソを付かれては食傷気味である。同じ解答をもって返すしかない。
 大聖人が授戒された御弟子は最蓮房ただ一人。他は僧俗ともに、御授戒の記録は無い。
              ◇
 本来、日蓮大聖人の仏法に特別な戒などない。受持即観心なのだ。したがって、御授戒という儀式もなかった。
 日亨上人は末法の本門戒について、
「あるいは、日什の古記に関係のなき広き富士でも、受戒の定規はなかったろうと思う。それが、近古に至って、にわかにその式が新設せられたのではなかろうか」(『富士日興上人詳伝』創価学会発行 ※)
 と述べられている。
 御授戒は、大法弘通の時を感じた牧口常三郎創価学会初代会長が、昭和十二年頃、入信の儀式として宗門側に提案し、おこなわれはじめたものである。
 このとき、宗門の大勢は御授戒に反対であった。牧口会長の発案を諒とされ、用いられたのは、当初、歓喜寮(中野区)と砂町教会(江東区)に過ぎず、あとから常在寺(豊島区)が追っておこなった経過がある。
 このことについて、和泉創価学会最高指導会議議長は、
「当時の新入信者は、いくつもの邪宗を遍歴したうえで入信するケースが多かったので、正しい信心への〝けじめ〟をつけさせ、信心のくさびを打って退転させないために、授戒の儀式をうけさせたのである」(『聖教新聞』平成三年十二月二十五日付より引用)
 と懐古されている。
 この御授戒発足の経過からいっても、御授戒の儀式の有無が成仏不成仏を左右するものではないことがわかるだろう。生涯を通じ南無妙法蓮華経を護持することが、なによりも大事なのである。
 そのことは、『続 日蓮正宗の行事』(日蓮正宗宗務院発行)に、
「大聖人の下種仏法においては、釈尊の法華経の最も深い意義の上から、一心に妙法蓮華経の五字、すなわち三大秘法の御本尊を受持し、一生涯信仰を貫いて行くことが、一切の戒や道徳の根本であると教えています。ゆえにこれを受持即持戒というのです」
 と記されていることからも明白である。
(『地涌』第434号 1992年6月9日) ※聖教文庫下巻 P196

2.正式な制定は昭和41年、「古来から」は大ウソ

 ちなみに、現在のような御授戒文に統一されたのは、昭和四十一年二月九日付の「院達」によってである。制定の理由書には、
「授戒文に関する現状は、各寺約十指に余る夫々の様式により実施しており、その中には、二、三意義に於て、過不足と思われるものも認められる。従って宗門的見地より統一する必要があると思われる」
 と記されている。このとき、現在の授戒文である、
「一、今身より仏身に至るまで、爾前迹門の邪法邪師の邪義を捨てて、法華本門の正法正師の正義を持ち奉るや否や(持ち奉るべし)
 一、今身より仏身に至るまで、爾前迹門の謗法を捨てて、法華本門の本尊と戒壇と題目を持ち奉るや否や(持ち奉るべし)
 一、今身より仏身に至るまで、爾前迹門の不妄語戒を捨てて、法華本門の不妄語戒を持ち奉るや否や(持ち奉るべし)」
 が定められた。御授戒の歴史は意外にも浅いのだ。御授戒をしなければ「邪教」ということなら、昭和十二年より前の日蓮正宗は、「邪教」ということになる。
(前出『地涌』)

[資料]
 院第一〇一三号  
  昭和四十一年二月九日
           日蓮正宗宗務院 ㊞
 全国住職主幹並事務取扱者殿 
  一、授戒文制定に関する件
 今般、宗門に於る授戒文を左の通り制定した
 ので、今後統一して実施されたい。
 右、通達する。
           記
  一、今身より仏身に至るまで、爾前迹門の邪
  法邪師の邪義を捨てて、法華本門の正法正師
  の正義を持ち奉るや 否や (持ち奉るべし)
  一、今身より仏身に至るまで、爾前迹門の謗
  法を捨てて、法華本門の本尊と戒壇と題目を
  持ち奉るや否や      (持ち奉るべし)
  一、今身より仏身に至るまで、爾前迹門の不
  妄語戒を捨てて、法華本門の不妄語戒を持ち
  奉るや否や        (持ち奉るべし)
                    以上

3.授戒文の原形は日蓮宗か

 前項で紹介した『院達』の授戒文は、昭和四十一年二月九日付である。「御授戒は大聖人御在世当時から行なわれていました」と言うわりには、日付がずいぶん新しくはないか。
              ◇
 では、今の授戒文はどこから来ているのか? 
『日蓮宗仏事行事集』(石川教張編)に日蓮宗の授戒について「授戒 ─ 今身より仏身に至るまで、本門の本尊・題目・戒壇を持つことを誓う」と書かれている。
 また、日蓮宗には「御経頂戴」という儀式がある。勤行の後に法主が「今身より仏身にいたるまで、よく持ちたてまつる」と唱え、信徒も唱和する。どう考えても、今の宗門の授戒文は日蓮宗を真似ているとしか思えない。
(『新改革通信』126号 平成23年11月19日)

 宗門とは「徹底してウソをつく輩」、そして「常に身延との同座を願う者」であると慨嘆せざるを得ない。
                           (了)
 

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Author:墨田ツリー

 
 
 

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