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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:83」を破折する(その四) 連載120回

妄説:83 「本尊模刻(もこく)事件」について簡単に説明してください。

「本尊模刻(もこく)事件」とは、昭和四十八年頃より創価学会が、学会や池田氏個人に下付された紙幅御本尊を、勝手に模刻して会員に拝ませた事件です。
 当時模刻された本尊は次のとおりです。 
 ①学会本部安置本尊
    (大法弘通慈折(じしゃく)広布大願成就・六十四世日昇上人)(S二六・五・一九)
 ②関西本部安置本尊
    (六十四世日昇上人)(S三〇・一二・一三)
 ③ヨーロッパ本部安置本尊
    (六十六世日達上人)(S三九・一二・一三)
 ④創価学会文化会館安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四二・六・一五)
 ⑤学会本部会長室安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四二・五・一)
 ⑥アメリカ本部安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四三・六・二九)
 ⑦賞本門事戒壇正本堂建立本尊
    (六十六世日達上人)(S四九・一・二)
 ⑧お守り本尊
    (池田大作授与・六十四世日昇上人)(S二六・五・三) 
 このうち、①の御本尊だけが、日達上人より許可され、現在も学会本部に安置されています。しかし他の七体は、日達上人から叱責(しっせき)されて、直(ただ)ちに総本山へ納められました。
 この事件は、昭和五十三年十一月七日に、総本山で開催された「創価学会創立四十八周年記念幹部会」で、辻副会長が「不用意に御謹刻(きんこく)申し上げた御本尊については、重ねて猊下の御指南を受け、奉安殿に御奉納申し上げました」と発表し、公式な立場で認めています。

破折:
12.会長勇退

(前回まで)
 昭和五十三年六月頃、反学会活動家僧によって、創価学会が紙幅の御本尊を勝手に板御本尊に「模刻」したという話が流れた。
 それはまったく事実に反するものであったが、反学会活動家僧らの騒ぎはやまず、昭和五十三年十一月七日、池田会長以下創価学会員二千名が、大石寺大客殿において、細井管長以下六百余名の僧侶に対し直接頭を下げる「お詫び登山」をすることとなった。 
 このことをもって、宗門は「御本尊模刻などの大謗法路線」があった証拠とする。事実無根の濡れ衣であったが、当時は信徒が法主の権威に逆らうことなど、考えられるものではなかった。
 学会を屈服させた宗門が、次に打つ手は池田会長の罷免であった。
 今回は、北林芳典氏の著書(『暁闇』報恩社 2002年12月)と、池田名誉会長の『随筆/新・人間革命』を交互に引用する。
            
(1)「修羅に怯えた臆病者」の学会幹部

 昭和五十四年に入ると、反学会活動家僧の創価学会組織切り崩しの動きは、ますます盛んになった。そうした折も折、創価学会副会長の福島源次郎が、福岡の大牟田会館でとんでもない発言をする。この当時、福島は妙な「師弟論」を振り回していたため、第一線からはずされていた。福島はその失地を挽回するため焦っていたのだ。福島は同会館においておおむね次のように話した。

「今回の一連の吊るし上げについては、僧侶が供養をフトコロにして、カツラをかぶってバーへ行って遊んだりしていることに、男子部員が義憤に駆られてやったことである」
「会長本仏ということは僧侶から起こった邪推である。会長が本山へ行ったりすると、〝先生、先生〟とみんなが慕っていくのに反して、猊下を誰もお慕いして近寄ろうとしない(猊下が通っても、どこのおじいさんだという感覚しかない)ところから、僧侶がやっかんで会長本仏などと邪推したのである」
「本山の宿坊は旅館等と同じで、宿泊費をとられるが、霧島研修道場は無料である。これは会長のポケットマネーでまかなわれているのである。会長先生の御恩にお応えしなければならない」
(『暁闇』)

 この発言内容により、宗門にも創価学会にも、大激震が走る。
 四月二日におこなうべく創価学会より申し出のあった、戸田第二代会長の追善供養の法要出席を細井管長が断った。そして日蓮正宗法華講連合会が、機関紙『大白法』の号外を四月三日付で出した。その報ずるところによれば、同会緊急理事会では、池田会長が務めていた日蓮正宗総講頭の辞任を勧告する決議をしたということであった。
 恩師の追善供養を拒否してきた宗門。池田会長は、どれだけ苦悶したであろう。このときこそ、学会の「師弟」の呼吸が合わねばならなかったはずである。だが、それは否であった。
               ◇
 しかも、創価学会中枢の一部には、局面をなんとか平穏に収束させようとする空気があった。何ゆえに師が攻撃の矢面に立っているのか、仏法に照らしてその本義を考える余裕を失っていた。それは、創価学会の不変の価値であるべき師弟不二を相対化させるものであった。今にして思えばまことに恐るべきことで、池田会長は暴虐なる衣の権威と戦う陣形をとり得なかったのである。
(『暁闇』)

 当時の学会内部の様相を、池田名誉会長が回想した。 
               ◇
 ある日、最高幹部たちに、私は聞いた。
「私が辞めれば、事態は収まるんだな」
 沈痛な空気が流れた。
 やがて、誰かが口を開いた。
「時の流れは逆らえません」

 沈黙が凍りついた。
 わが胸に、痛みが走った。
 ――たとえ皆が反対しても、自分が頭を下げて混乱が収まるのなら、それでいい。
 実際、私の会長辞任は、避けられないことかもしれない。
 また、激しい攻防戦のなかで、皆が神経をすり減らして、必死に戦ってきたこともわかっている。
 しかし、時流とはなんだ!
 問題は、その奥底の微妙な一念ではないか。
 そこには、学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった。
 宗門は、学会の宗教法人を解散させるという魂胆をもって、戦いを挑んできた。それを推進したのは、あの悪名高き弁護士たちである。
 それを知ってか知らずか、幹部たちは、宗門と退転・反逆者の策略に、完全に虜になってしまったのである。
 情けなく、また、私はあきれ果てた。

 戸田会長は、遺言された。
「第三代会長を守れ! 絶対に一生涯守れ! そうすれば、必ず広宣流布できる」と。
 この恩師の精神を、学会幹部は忘れてしまったのか。なんと哀れな敗北者の姿よ。
 ただ状況に押し流されてしまうのなら、一体、学会精神は、どこにあるのか!

 そんな渦中の、四月十二日、私は、中国の周恩来総理の夫人であるとう穎超女史と、迎賓館でお会いした。
 その別れ際に、私は、会長を辞める意向をお伝えした。
「いけません!」
〝人民の母〟は笑みを消し、真剣な顔で言われた。
「まだまだ若すぎます。何より、あなたには人民の支持があります。人民の支持のあるかぎり、やめてはいけません。一歩も引いてはいけません!」
 生死の境を越え、断崖絶壁を歩み抜いてこられた方の、毅然たる言葉であった。
(『随筆/新・人間革命/79』1999年4月27日)  

(2)嵐の「4・24」

 すべての状況を打開するため、池田会長は四月二十二日、細井管長に日蓮正宗総講頭と創価学会会長の辞任を申し出る。細井管長はそれを認めた。四月二十四日、創価学会は記者会見を開き、池田会長の辞任を公にした。以下、再び池田名誉会長の回想である。
              ◇
 やがて、暗き四月二十四日を迎えた。火曜日であった。
 全国の代表幹部が、元気に、新宿文化会館に集って来た。
 しかし、新たな〝七つの鐘〟を打ち鳴らす再出発となるべき、意義ある会合は、私の「会長勇退」と、新会長の誕生の発表の場となってしまったのである。
 大半の幹部にとって、まったく寝耳に水の衝撃であった。
 私は途中から会場に入った。
「先生、辞めないでください!」「先生、また会長になってください!」
「多くの同志が、先生をお待ちしております!」などの声があがった。
 皆、不安な顔であった。
「あんなに暗く、希望のない会合はなかった」と、後に、当時の参加者は、皆、怒り狂っていた。
 私は、厳然として言った。
「私は何も変わらない。恐れるな!
 私は戸田先生の直弟子である! 正義は必ず勝つ!」と。

 あまりにも 悔しき この日を 忘れまじ
   夕闇せまりて 一人 歩むを

 これは、四月二十四日に記された日記帳の一首である。
 わが家に帰り、妻に、会長を辞めたことを伝えると、妻は、何も聞かずに「ああ、そうですか……。ご苦労様でした」と、いつもと変わらず、微笑みながら、迎えてくれた。
(前出『随筆/新・人間革命/79』)  

(3)昭和54年5月3日

 一九七九年、すなわち昭和五十四年の五月三日――。
 間もなく、創価大学の体育館で、〝七つの鐘〟の総仕上げを記念する、第四十回の本部総会が行われることになっていた。
 本来ならば、その日は、私は、偉大なる広宣流布のメッセージを携えて、創価の栄光を祝賀する日であった。
 すべての同志が熱意に燃えて、楽しき次の目標を持ち、志向の光りを胸に抱きながら迎え喩く、歓喜の日であった。
 尊い広布の英雄たちが微笑をたたえ、共々に、珠玉の杯を交わしながら祝うべき日であり、大勝利の鐘を自由に打ち鳴らす日であった。

 しかし、嫉妬に狂った宗門をはじめ、邪悪な退転者等の闇の阿修羅が、この祝賀の集いを奪い去っていったのである。

 午後二時から始まる総会の開会前であった。
 妬みと滅びゆく瞋恚の魂をもった坊主を乗せたバスが、大学に到着すると、私は、ドアの前に立ち、礼儀を尽くして、彼らに挨拶した。
 ところが、坊主たちは、挨拶一つ、会釈一つ返すわけでもなく、冷酷な無表情で、傲然と通り過ぎていった。
 学会伝統の総会も、いつものように、学会らしい弾けるような喜びも、勢いもなく、宗門の〝衣の権威〟の監視下、管理下に置かれたような、異様な雰囲気であった。
 ある幹部が後で言っていた。
「冷たい墓石の上に座らされたような会合であった」
 激怒した声が多々あった。

 会場からの私への拍手も、遠慮がちであった。
 また、登壇した最高幹部は、ほんの数日前の会合まで、私を普通に「池田先生」と言っていたのが、宗門を恐れてか、ただの一言も口にできない。
 私をどうこうではない。
 それは、強き三世の絆で結ばれた、会員同志の心への裏切りであった。
 婦人部の方が怒っていた。
「どうして、堂々と、『今日の広宣流布の大発展は、池田先生のおかげです』と言えないのでしょうか!」と。
 私が退場する時も、戸惑いがちの拍手。
「宗門がうるさいから、今日は、あまり拍手をするな。特に、先生の時は、拍手は絶対にするな」と、ある青年部の最高幹部が言っていたと、私は耳にした。
 恐ろしき宗門の魔性に毒されてしまったのである。言うなれば、修羅に怯えた臆病者になってしまったのである。

 しかし、私を見つめる同志の目は真剣であった。声に出して叫びたい思いさえ、抑えに抑えた心が、痛いほど感じられた。
 体育館を出た直後、渡り廊下を歩いている私のもとに駆け寄って来られた、けなげな婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない。

 会合が終わり、特別の控室にいた高僧や坊主どもに、丁重に挨拶をしたが、フンとした態度であった。これが人間かという、そのぶざまな姿は、一生、自分自身の生命に厳存する閻魔法王に、断罪されることは、絶対に間違いないだろう。
 仏法は、厳しき「因果の理法」であるからだ。
 私は思った。
 宗門と結託した、学会攪乱の悪辣なペテン師たちは、これで大成功したと思い上がったにちがいない。彼らは、「これで、計画は着々と準備通りに進んでいる。これでよし! これで完全勝利だ」と計算し、胸を張っていた。
 その陰湿さと傲慢さが、私には、よく見えていた。
 私は、ずる賢き仮装の連中の実像を、その行動から見破ることができた。

 この陰険極まる、狡猾な連中には、断固として、従ってはならない。いかなる弾圧を受けようが、「忍耐即信心」である。
 学会は、蓮祖の仰せ通りの信仰をしている。死身弘法の実践である。柔和な忍辱の衣を着るべきである。
 学会に敵対する彼らは、蓮祖の姿を借りて、真実の仏の使いを道具にし、利用し、破壊しているのである。
 これが、恐ろしき魔性の荒れ狂った、現実の実態であった。
 あまりにも悲しく、あまりにも情けなかった。
 本来、宗教は、人間の幸福のためにあるものだ。
 それが、坊主の奴隷になり、権威の象徴の寺院・仏閣の下僕になってしまうことは、根本的に間違いである。

 私は、重荷を、また一層、背負った気持ちで、皆と別れ、自宅には帰らず、神奈川文化会館に走った。

「今朝の新聞に、先生のお名前が出ていました」
 神奈川文化会館で、側近の幹部が教えてくれた。
 この三日付の読売新聞には、日米国民の「生活意識」調査の結果が掲載されていた。
 その中に、日本人が「尊敬する人物」に挙げた上位二十人の第六位に、私の名前が出ているというのであった。

 上から、吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、そして、昭和天皇と続き、その次が私である。
「会長勇退」直後の五月三日に、このような記事が出たことに、私は不思議なものを感じた。
 また、同志の皆様が、懸命に私を応援してくださっているようにも思われた。

 数日後、ある識者の方からいただいたお手紙は、この調査のことを非常に驚かれ、こう結んであった。
「現存する人物では、民間人の第一位です。
 そして、日本の宗教界では、貴方、お一人だけです。まさに宗教界の王者です。どんなに、戸田会長がお喜びになるでしょうか!」
(『随筆/新・人間革命/80』1999年5月1日)

 一方で山崎正友は〝してやったり〟と有頂天であった。細井管長は完全に山崎が操る傀儡(くぐつ)と化し、事態は山崎の〝魔の設計書〟通りに進んで行ったのである。
               ◇
 五月三日、創価学会第四十回本部総会がおこなわれた。これには細井管長が出席した。細井管長は出たくないと言っていたが、大宣寺住職の菅野が説得したものだ。細井管長は菅野に、
「総会で、どうしゃべったらいいかわからないから、山崎さんに聞いてくれ」(同)
と述べたという。事後、山崎は、
「僕の書いた原稿を猊下はそのまま読んだ」(同)
と、浜中に話したという。山崎は五月四日付で日蓮正宗法華講大講頭になった。大講頭になった山崎は、
「天下の創価学会の会長と僕は同格だよ。池田さんの上だよ。戸田会長と並んだよ」(同)
と語った。
(『暁闇』)

(4)「獅子は伴侶を求めず」

 再び池田名誉会長の回想から。
               ◇
「大事には小瑞なし、大悪を(起)これば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし」(御書1300P)とは、日蓮大聖人の絶対の御確信であられる。
 誰が何と言おうが、私は私の信念で勝つことを決心した。
 そして、ただ一人、今まで以上の多次元の構想をもちながら、戦闘を開始した。
「獅子は伴侶を求めず」とは、よく戸田先生が、私に言われた言葉である。
 一人、孤独になった私は、無言のうちに、必ずや、真実の伴侶はついてくるであろうと信じていた。
 師弟の両者が一つの姿で、無限に戦い、舞い、走り、勝利しゆく。私は、その新しき時代の、新しき伴侶を待っていた。
 神奈川の地は、世界に通じる港である。
 ここから、私は「一閻浮提広宣流布」との大聖人の御遺言を遂行する、決意を新たにした。そして、「正義」という二字を書き記した。
 この意義を深く留めて後世に伝えてほしいと、側にいた数人の弟子に託した。
 五月五日のことである。

 いったん帰京した私は、東京の開拓の新天地、第二東京の拠点の立川文化会館に向かった。
 すでに、夕方近かった。
 別な世界を見る思いで、まさに沈みゆかんとする夕日の光景を、しばし呼吸した。
 夕暮れの立川に着くと、その清楚な頬に頬ずりしたいような、憧れの月天子が、顔を見せてくれた。
 私は一詩を詠んだ。

 西に 満々たる夕日
 東に 満月 煌々たり
 天空は 薄暮 爽やか
 この一瞬の静寂
 元初の生命の一幅の絵画
 我が境涯も又
 自在無礙(むげ)に相似たり

 この日、五月十一日の日記に記したものである。
 世界の創価学会は、太陽と同じく、太陽の生命で、永遠に転教を休むことなく、進みゆくことであろう!
 また、断固、勝っていくことであろう!
(前出『随筆/新・人間革命/80』)
              ◇
 この後、池田名誉会長は自由に会合に出席することもできなければ、創価学会機関紙にその勇姿が報じられることも制限された。池田名誉会長はこの創価学会最大の危機にあたって、八月下旬より創価学会草創の功労者宅を訪れ座談会をおこなった。創価学会に再び師弟の絆は蘇り、座談会で同志の談笑の輪が拡がった。戸田会長が戦後、焼け野原に一人立ち広宣流布の歩みを始められたと同様に、地を這うような池田名誉会長の戦いが展開されたのである。それによってしか創価学会は「時流」を変えることができなかった。今にして思えば、この時、池田名誉会長が〝能忍の人〟でなければ、多くの人が法に迷った。能忍は慈悲より発するものであるといえる。
(『暁闇』)
                          (続く)

日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:83」を破折する(その三) 連載119回

妄説:83 「本尊模刻(もこく)事件」について簡単に説明してください。

「本尊模刻(もこく)事件」とは、昭和四十八年頃より創価学会が、学会や池田氏個人に下付された紙幅御本尊を、勝手に模刻して会員に拝ませた事件です。
 当時模刻された本尊は次のとおりです。 
 ①学会本部安置本尊
    (大法弘通慈折(じしゃく)広布大願成就・六十四世日昇上人)(S二六・五・一九)
 ②関西本部安置本尊
    (六十四世日昇上人)(S三〇・一二・一三)
 ③ヨーロッパ本部安置本尊
    (六十六世日達上人)(S三九・一二・一三)
 ④創価学会文化会館安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四二・六・一五)
 ⑤学会本部会長室安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四二・五・一)
 ⑥アメリカ本部安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四三・六・二九)
 ⑦賞本門事戒壇正本堂建立本尊
    (六十六世日達上人)(S四九・一・二)
 ⑧お守り本尊
    (池田大作授与・六十四世日昇上人)(S二六・五・三) 
 このうち、①の御本尊だけが、日達上人より許可され、現在も学会本部に安置されています。しかし他の七体は、日達上人から叱責(しっせき)されて、直(ただ)ちに総本山へ納められました。
 この事件は、昭和五十三年十一月七日に、総本山で開催された「創価学会創立四十八周年記念幹部会」で、辻副会長が「不用意に御謹刻(きんこく)申し上げた御本尊については、重ねて猊下の御指南を受け、奉安殿に御奉納申し上げました」と発表し、公式な立場で認めています。

破折:
10.御本尊返納の理由は〝勝手に模刻〟したとの「印象付け」

 前回と同様、北林芳典氏の著書(『暁闇』報恩社 2002年12月)より引用する。
              ◇
 山崎はさらに〝もう一手〟を打ってきた。創価学会本部三階安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊以外の七体を、創価学会側から本山に納めさせるという〝調停案〟である。
 この〝調停案〟には、細井管長の娘婿である東京国立・大宣寺の住職・菅野慈雲も一枚噛んでいた。先述したように、七体の板御本尊は大宣寺を経て、大石寺奉安殿に移された。これにより、七体の板御本尊を創価学会が勝手に「模刻」したかのような状況が作られてしまったのである。
 しかし、事実はそれを覆している。
 ここで、参考のため、「〝法主〟不許可で模刻」とされた八体の板御本尊について述べておく。
 関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊は、昭和五十年十月二十日、大阪・蓮華寺住職の久保川法章以下十一名が出席し、「開眼法要」が営まれた。そのことは、翌二十一日の『聖教新聞』に報じられている。
 本部三階師弟会館安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊と「賞与御本尊」の板御本尊の入仏法要は、昭和五十年十月二十三日、総監・早瀬の導師によっておこなわれている。このことは翌二十四日付の『聖教新聞』に報じられている。
 創価文化会館内・広宣会館の板御本尊については、昭和五十年十一月十七日、学会本部師弟会館において総監・早瀬の導師で「牧口初代会長三十二回御逮夜法要」がおこなわれた際、総監・早瀬が、広宣会館の板御本尊の入仏法要をおこなっている。
 昭和五十二年十一月九日には、学会創立四十七周年慶祝法要のために創価学会本部を訪れた細井管長他六名が、師弟会館安置の板御本尊、「賞与御本尊」の板御本尊、広宣会館の板御本尊の前で、読経唱題をおこなっている。このことは、翌十日付の『聖教新聞』で報じられた。
 宗門側は、創価学会が御本尊を板御本尊として謹刻したことについて、知らないどころか、『聖教新聞』で報じられたものだけでも四体の板御本尊について入仏式をおこない、創価学会本部にある三体については、細井管長自らが礼拝していた。にもかかわらず、入仏法要が公然と報道された三体(うち二体は細井管長自身が拝んだ)を含めた七体の板御本尊を、大石寺に納入するよう創価学会側に命じたのである。ただし、「三体」の入仏式というのも、公に報じられた記録にのみ基づくものである。
 これは、どのような事実を示すのか。『聖教新聞』に報道されていない他の四体の板御本尊もまた、報道された三体と同様、正当に謹刻されたものであることを示している。なぜなら「謹刻」の許可が出ていないことが明白であるなら、それだけを棄却させればいいのである。この七体の板御本尊の大石寺への返却はあくまで、創価学会が涙を呑んでおこなった〝外護〟の行為であった。
 創価学会側が細井管長の許可なく板御本尊に謹刻することなど、当時の信仰観からしてあり得ず、日蓮正宗御用達の仏師である赤澤朝陽が勝手に謹刻することもまたあり得ないことである。
 細井管長自身が拝んだ三体の板御本尊のうち、本部三階の板御本尊については、「許可した覚えがない」と言いながらもそのまま安置を認め、「賞与御本尊」と広宣会館安置の二体の板御本尊については、大石寺に返納させた。この事実は〝法主〟が自らのメンツを守るために、事実過程を無視し、御本尊をご都合主義的に取り扱ったことを示している。
 なお、細井管長は昭和五十年十月十二日に池田会長と話し合った際、
「謹刻した御本尊については、僧侶二、三人で拝むようにしてください。それで結構です」(記録文書より)
と述べていた。それらのことからして、創価学会が御本尊を勝手に「模刻」し、あたかも別の本尊を作り出したかのように言う反学会活動家僧らの主張は、まったく事実に反するものである。

11.魔(山崎正友)が法主(細井管長)を〝指南〟する

 だが、創価学会は僧俗和合のために、細井管長と山崎との間で作り上げられた「決着」のレールの上を走らざるを得なかった。不本意なことではあったが、創価学会には七体の板御本尊を大石寺に納めるしか、道は残されていなかったのである。それのみが反学会活動家僧らを鎮める方法であり、細井管長の〝権威〟を保つ手立てであった。
 昭和五十三年十一月七日、池田会長以下創価学会員二千名が、大石寺大客殿において、細井管長以下六百余名の僧侶に対し直接頭を下げる「お詫び登山」をすることになった。 この時、創価学会を代表して「反省」の弁を辻武寿副会長が述べたが、本来なら「模刻」の問題は解決済みのことであり、細井管長も六月二十九日に、「つつくな」と言っていた。十月三日には、以下のような宗務院の「院達」も出されていた。

「①九月二十八日、学会模刻の板本尊は本山に奉納せられた。
 ②学会本部安置(三階)の板本尊は猊下の承認。
 ③よって、板本尊に関して論議無用」

 しかし、細井管長は反学会活動家僧らから、この「お詫び登山」の際、本尊「模刻」の問題に関して、創価学会側に謝罪をさせてほしいとの強い要望を受けていた。このため、十一月七日に大石寺大客殿において辻副会長が読み上げる原稿には謝罪の言葉が盛られた。その原稿に細井管長は事前に目を通した。その原稿にあった「ご謹刻申し上げた御本尊」との文言に、細井管長は「不用意に」との一言を加筆し、「不用意にご謹刻申し上げた御本尊」とした。創価学会側はただそれを呑むしかなかった。この文言は、大石寺大客殿において僧俗代表の前で発表され、翌日には『聖教新聞』にも掲載された。
 しかし、これだけ誠意を尽くしても、反学会活動家僧たちはおさまらなかった。それどころかますます創価学会を侮り、攻撃を仕掛けてきた。細井管長もそれを止める様子すらなかった。
 実はこれに先立ち、山崎は細井管長に対して、「現下の状勢(ママ)について」という文書を渡している。その文書には次のように書かれていた。

「情勢は、宗門側にとって極めて有利に、学会側にとってはことごとく作戦がはずれた形ですゝんでいます」(「現下の状勢について」より一部抜粋)
「会長の本心は口惜しさと復しゅう心で一杯であります」(同)
「学会側がしかるべき姿勢を十一月に示した後(但し、会長退陣はまだ無理と思われる)は、宗門としても、一応和平に応じなくてはならない。但し、檀家作りは、止めない」(同)

 山崎はこの文書の他にも、同日、「海外について」との文書を細井管長に渡している。そこには次のように書かれている。
「宗門に、『海外部』を設置すること。海外経験者の僧侶を集め、(現に海外寺院にいる人もふくむ)これを統括する意味で、菅野先生をキャップとして発足する。
 これまで海外は〝別法人〟という名目で宗門は手が出せなかったが、宗務院にはっきりした機関を置き、海外の寺院僧侶を直轄させることによって、海外の諸問題を直接すい上げ、宗門として学会側及び現地法人に発言し対抗できることになる」(「海外について」より一部抜粋)
 その目的は、創価学会の海外組織を根こそぎ宗門の直接支配下に置こうとするものであった。

 十一月七日の「お詫び登山」以降も、反学会活動家僧の檀徒作りの動きは止まらず、逆に以前よりもその勢いは増していった。僧俗一致のために妥協の産物として生み出された、辻副会長の「不用意に御謹刻申し上げた御本尊」云々の「不用意に」の文言が、檀徒作りに弾みをつけたのである。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:83」を破折する(その二) 連載118回

妄説:83 「本尊模刻(もこく)事件」について簡単に説明してください。

「本尊模刻(もこく)事件」とは、昭和四十八年頃より創価学会が、学会や池田氏個人に下付された紙幅御本尊を、勝手に模刻して会員に拝ませた事件です。
 当時模刻された本尊は次のとおりです。 
 ①学会本部安置本尊
    (大法弘通慈折(じしゃく)広布大願成就・六十四世日昇上人)(S二六・五・一九)
 ②関西本部安置本尊
    (六十四世日昇上人)(S三〇・一二・一三)
 ③ヨーロッパ本部安置本尊
    (六十六世日達上人)(S三九・一二・一三)
 ④創価学会文化会館安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四二・六・一五)
 ⑤学会本部会長室安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四二・五・一)
 ⑥アメリカ本部安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四三・六・二九)
 ⑦賞本門事戒壇正本堂建立本尊
    (六十六世日達上人)(S四九・一・二)
 ⑧お守り本尊
    (池田大作授与・六十四世日昇上人)(S二六・五・三) 
 このうち、①の御本尊だけが、日達上人より許可され、現在も学会本部に安置されています。しかし他の七体は、日達上人から叱責(しっせき)されて、直(ただ)ちに総本山へ納められました。
 この事件は、昭和五十三年十一月七日に、総本山で開催された「創価学会創立四十八周年記念幹部会」で、辻副会長が「不用意に御謹刻(きんこく)申し上げた御本尊については、重ねて猊下の御指南を受け、奉安殿に御奉納申し上げました」と発表し、公式な立場で認めています。

破折:
7.ふって湧いた御本尊模刻問題

 前回(その一)においては、当時の学会幹部の回顧から、板御本尊の謹刻が宗門によって〝謗法〟と誹謗された経過を辿った。
 今回からは、北林芳典氏の著作(『暁闇』報恩社 2002年12月)より、謀略を起こした張本人、山崎正友(注記1)の側から、その暗躍の実態を明かしていく。もう一人の主たる人物は、山崎によって操作された情報を細井日達管長に逐一伝えた、正信会僧侶の浜中和道(註記2)である。
               ◇
 昭和五十三年六月頃、創価学会が紙幅の御本尊を勝手に板御本尊に「模刻」したという話が、反学会活動家僧の中に流れ始めた。山崎も一時は浜中和道に、
「学会のほうでは、あれは猊下が会長さんに、ハッキリ『いいよ』と許可を出したと言っているんだよね」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
などと言っていたが、そのうち、
「その御本尊問題を取り上げて、ガンガンやったほうがいいですよ」(同)
などと、反学会活動家僧らに言い始めた。
 結局、この騒ぎを収めるため、九月二十七日、創価学会によって謹刻された八体のうち、七体の板御本尊が東京・国立の大宣寺に運ばれ、翌二十八日に大宣寺から大石寺奉安殿に納められた。
 大石寺に運ばれた七体の板御本尊は以下のとおりである。
 「賞本門事戒壇正本堂建立」の脇書のある池田会長への賞与御本尊(細井日達管長書写)
 「大法興隆所願成就」の脇書のある関西本部常住の御本尊(水谷日昇管長書写)
 創価文化会館内・広宣会館の御本尊(細井管長書写)
 創価学会会長室の御本尊(細井管長書写)
 創価学会ヨーロッパ本部の御本尊(細井管長書写)
 日蓮正宗アメリカ本部の御本尊(細井管長書写)
 池田会長のお守り御本尊(水谷管長書写)
 これら七体の板御本尊が納められたにもかかわらず、その後、この本尊「模刻」問題は創価学会に暗い影を投げかける。創価学会による本尊「模刻」に疑念を持ち、脱会する者たちも多く出た。
 昭和四十九年一月二日、池田会長は「賞本門事戒壇正本堂建立」の脇書のある御本尊を細井管長より下付された。一月十日に学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。翌十一日、総監・早瀬日慈より、
「御本尊に関することは、一応申し上げました」(『記録文書』より)
と返事が来た。
 また、昭和四十九年九月二日、大石寺雪山坊でおこなわれた連絡会議においては、創価学会本部三階の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」との脇書のある第六十四世・水谷日昇管長書写の御本尊を板御本尊に謹刻することについて、創価学会側より宗門側に申し入れがなされた。
 翌三日、教学部長・阿部信雄より、創価学会理事長・北条浩宛に、
「一応、申し上げました。猊下ご了承です。後程、お目通りの時、先生からお話がある旨申し上げておきました」(同)
との返事があった。
(『暁闇』より。以下同じ)

[注記]
(1)山崎正友
「元創価学会副理事長・元顧問弁護士。『山友(やまとも)』と略称されることもある。(中略)1970年代に起きた日蓮正宗との『昭和52年路線問題』においては積極的に関わりを持ち、弁護士として日蓮正宗と創価学会の調整役を務めた。(中略)その際、役務上知り得る情報や人脈をたどり、総本山大石寺と創価学会の間に入り、離反工作と関係調整を繰り返し、『第1次宗門問題』を陰で主導した。静岡県下の土地売買によって不相応な巨額な利益を手中にし、秘密裏に営利企業を設立するなどした。
 1981年、山崎は宗門との問題をねたに創価学会をゆすり3億円をせしめ、さらに5億円を要求した。しかし、この行為によって恐喝罪で逮捕された。裁判では、山崎の主張は50数箇所にわたり虚偽であると裁判官から指摘を受けている。1991年、懲役3年の実刑判決を受け栃木県の黒羽刑務所に収監された。」
(Wikipedia ウィキペディア「山崎正友」より)

(2)浜中和道
「(山崎正友が)創価学会除名以前から正信会僧侶の浜中和道と一体になり創価学会への糾弾を強めていた。ところがその後浜中の夫人との不倫が発覚し浜中とは犬猿の仲に。浜中は山崎の行状などを記録し非難する著作を残している。山崎正友の葬儀で喪主を務めた山崎夫人は、浜中和道の元夫人である。」
(前出「山崎正友」の記事より「正信会入会そして脱会」の項)

8.細井管長は事前に許可していたのに……

 また、反学会活動家僧らは、この御本尊を謹刻する際に、御本尊を写真に撮ったことを問題にしているが、それはこれまでも宗門でおこなわれていたことである。
 たとえば、当時、日蓮正宗御用達の仏師であった赤澤朝陽では、堀米日淳管長の時代においては、保田妙本寺の万年救護本尊を写真に撮り、十体の板御本尊を謹刻した。また、細井管長の時代にも日向・定善寺の御本尊を写真に撮り、七体の板御本尊を謹刻している。
 一般に紙幅の御本尊を板御本尊に謹刻する場合、紙をそのまま板に貼り付けて彫ると、紙の厚みのため、板に刻まれる文字が細くなる。そのため、板御本尊にする場合は、最初から薄い紙を使用している。近代においては写真に一度撮り、薄い印画紙に焼きつけたものを板の上に貼って彫刻するという方法が取られるようになっていたのである。また、広島県福山市の正教寺の場合、客殿安置の板御本尊が大きすぎたため、細井管長の指示により、一度でき上がった板御本尊を写真に撮り、縮小して彫り直した。
 写真を使う以前は、薄い紙に臨書(見ながら模写すること)するか、「籠抜き」といって、御本尊の上に薄い紙をあてがって文字を写し取り、その薄紙を板の上に貼って彫刻する方法もあったという。
 ともあれ、細井管長は創価学会がこれらの板御本尊を謹刻することについて、自ら許可していたことを忘失していたと思われる。しかし、それを忘れていた細井管長にしても、昭和五十年一月十日、庶務部長・藤本栄道に次のように話をしている。

「日昇上人御本尊の彫刻については、前に話しがあったかどうか記憶ない。許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から『板御本尊にしました』という報告はあった。個人が受けた御本尊だから、その人又は会の宝物だから、どのように格護しようと他がとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは、前からも行なわれている。御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない」(庶務部長・藤本が書き止めた『藤本メモ』より一部抜粋)

 この「日昇上人御本尊」とは、創価学会本部三階に安置されていた「大法弘通慈折広宣流布大願成就」との脇書のある御本尊のことである。
 赤澤朝陽の社長であった赤澤猛は、細井管長から板御本尊謹刻について直接指示を受けた模様を、詳細な書面として残している。

「それは、この本部師弟会館の御本尊様の御謹刻の依頼を受けてとりかかったかどうかという頃ですから、昭和四十九年の十一月頃と思います。何かの仕事のことで、日達上人にお目通りしたときのことです。私は、仕事柄、猊下にはしばしばお目通りしておりますので、正確な日付は、ちょっとわかりません。日達上人は私と会うときは、ことが御本尊様の話になるときは、たとえ高僧でも他の人はさがらせますので、このときも大奥の対面所で二人きりの面談でした。
 そのときの本来の用件が済んで、日達上人は立ち上がって部屋を出て行こうとされたのですが、思い出したように私のそばに来られて、『そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫っているんだよね』とおっしゃったのです。私が、『そうです。池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが、お聞きになっていませんか』と申し上げますと、『いや、池田会長から聞いているよ』と言われました。さらに日達上人は、『ほかのもやっているね』と言われましたので、私は、『はい、やっております』とお答えしました。日達上人は、『そうか。あと五、六体やらせてもらいたいと言っていたな』と言われて、部屋を出て行かれました。
 この日のやり取りは以上ですが、これからわかるとおり、日達上人は、学会本部が師弟会館の御本尊やその他の御本尊を私のところで御謹刻していることは、すべて御承知でありましたし、今後さらに五、六体の御本尊を御謹刻することも御了解されていました」(『陳述書』より)

 赤澤はすでにこの時、細井管長の決裁を受けた「賞与御本尊」の謹刻を終え、創価学会本部三階の師弟会館に安置された「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の本尊の謹刻にあたっていたのだから、「あと五、六体」ということになれば、細井管長が創価学会に対し自ら裁可したと認識していた謹刻御本尊の数は、全部で七、八体であったことがわかる。

9.僧俗和合のため、反論しなかった創価学会

 ところが昭和五十三年になると、細井管長は反学会活動家僧の雰囲気に押され始めた。昭和五十三年六月二十九日に全国教師指導会がおこなわれたが、この時、細井管長は以下のように発言する。
「学会の方で板御本尊に直した所があります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩をしないように」(『蓮華』昭和五十三年七月号)
 この「知らなかった」という細井管長の言い分は、前記したように、昭和四十九年一月と九月の連絡会議で創価学会側からなされた板御本尊謹刻の申請を自ら事前に承諾したという事実に反する。また、板御本尊を彫った日蓮正宗御用達の仏師・赤澤朝陽社長であった赤澤猛の証言にも反する。
 創価学会は僧俗和合の大義、そして当時の宗内を広く覆っていた「法主に反論することは謗法」といった宗教的禁忌観の故に、
「それらの板御本尊の謹刻については、細井管長の許可を得ていた」
とは言えなかった。細井管長が忘却したのか、意図的であったのかは別にして、許可したことを〝法主〟自らが明言しない状況では、創価学会側はそれが事実であったとしても、板御本尊の謹刻が管長によって事前に許可されたものだったと反論できなかったのである。
 反論すれば僧俗の対立は決定的になるし、細井管長が事実に反してでも「許可していない」と言い張れば、当時の状況では創価学会からの脱会者はとどまることがなかっただろう。繰り返すが、当時の創価学会員の多くは、〝法主〟を「唯授一人血脈相承」の体現者と信じていた。また、宗門を外護する立場にある創価学会が、細井管長の権威を失墜させるわけにもいかなかった。
 とはいえ、細井管長にしても、この本尊「模刻」問題がこれ以上深刻化し、創価学会側より事前承諾の経過が公表されれば、退座によって引責するしかなくなる。
 そこで、事前承諾の有無には言及せず、細井管長が現状を追認する〝御指南〟を出すことにより、決着が図られることとなった。
「今まで本部として謹刻させていただいた数体の板御本尊について御指南を仰ぎ、猊下よりすべて学会本部の宝物としてお納めくだされば結構ですとのお話があった」(昭和五十三年九月三日付『聖教新聞』)
 しかし、こうした政治的決着が通用するような反学会活動家僧たちではなかった。
 九月十四日、大分県別府市の寿福寺において、創価学会の原田稔副会長、野崎勲青年部長、原島嵩教学部長と、反学会活動家僧である佐々木秀明、渡辺広済、山口法興、荻原昭謙、丸岡文乗、菅野憲道らとで話し合いがもたれた。この時佐々木は、細井管長から口止めされている本尊「模刻」問題について、学会側を詰問した。
 佐々木はこの会談の後、浜中和道に次のように電話をしている。
「一つだけ大事なことを教えてやるよ。原島が認めたぞ。『御本尊を何体、作った?』と聞いたら、ブルブル震え出して『八体です』って正直に答えたぞ。じゃ、詳しくはまたな」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
 この佐々木からの電話を受け、浜中は山崎に電話を入れた。
「『今、佐々木さんから聞いたんだけど、学会は八体も御本尊を作っていたんだって。原島さんが認めたって言ってたよ。これじゃ、御前さんがなんと言っても大問題になるよ』
 すると山崎氏は、含み笑いするような声で、
『知ってるよ。僕が原島にそう言えって言ったんだから。坊さんのほうから出た話じゃ、猊下も怒るかもしれないけど、原島がしゃべったんだったら、猊下も怒りようがないでしょう。これで安心して坊さんたちもガンガンと学会を攻めれるよ。野崎たちも泡くっていたけど、あとの祭りだよ。ハッ、ハッ、ハッ』
と、笑いながら話した」(同)
 細井管長の政治的決着を、〝玉〟を握った山崎がひっくり返した瞬間である。八体の板御本尊の「模刻」という〝大事件〟は、反学会活動家僧の口から口を経て、たちまちのうちに全国に広がった。もはや〝政治的決着〟などで収まる状況ではなくなった。現状を追認する政治的決着では、細井管長が反学会活動家僧らから突き上げられ、批判の対象とされてしまう。創価学会側も〝実は事前承認だった〟と言えない立場である以上、燎原の火の如く広がるデマに反論する術はなかった。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:83」を破折する(その一) 連載117回

妄説:83 「本尊模刻(もこく)事件」について簡単に説明してください。

「本尊模刻(もこく)事件」とは、昭和四十八年頃より創価学会が、学会や池田氏個人に下付された紙幅御本尊を、勝手に模刻して会員に拝ませた事件です。
 当時模刻された本尊は次のとおりです。 
 ①学会本部安置本尊
    (大法弘通慈折(じしゃく)広布大願成就・六十四世日昇上人)(S二六・五・一九)
 ②関西本部安置本尊
    (六十四世日昇上人)(S三〇・一二・一三)
 ③ヨーロッパ本部安置本尊
    (六十六世日達上人)(S三九・一二・一三)
 ④創価学会文化会館安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四二・六・一五)
 ⑤学会本部会長室安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四二・五・一)
 ⑥アメリカ本部安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四三・六・二九)
 ⑦賞本門事戒壇正本堂建立本尊
    (六十六世日達上人)(S四九・一・二)
 ⑧お守り本尊
    (池田大作授与・六十四世日昇上人)(S二六・五・三) 
 このうち、①の御本尊だけが、日達上人より許可され、現在も学会本部に安置されています。しかし他の七体は、日達上人から叱責(しっせき)されて、直(ただ)ちに総本山へ納められました。
 この事件は、昭和五十三年十一月七日に、総本山で開催された「創価学会創立四十八周年記念幹部会」で、辻副会長が「不用意に御謹刻(きんこく)申し上げた御本尊については、重ねて猊下の御指南を受け、奉安殿に御奉納申し上げました」と発表し、公式な立場で認めています。

破折:
1.「板御本尊にするのは自由です」――日達法主

 もしも御本尊の謹刻が「法主の許可」を得ないと〝謗法〟とされるならば、かつて自宅の御本尊を板に謹刻した信徒等は、すべて謗法の者であったことになる。
 謗法である根拠は、文証として何一つ存在しないゆえ、御本尊に〝坊主の存在意義〟を懸けた宗門の輩が、根拠を〝法主の許可〟に求めた故の結果である。仏法上の論議など何も起こらなかった。
 これは学会を誹謗してきた正信会が着目してから、急に騒がれ始めた事件である。
               ◇
 秋谷 この件については、学会としては日達上人の指南に基づき発言を控えてきたが、ここまで先師を冒涜(ぼうとく)し、ウソを重ねるのなら、後々のためにも、ここで、御本尊謹刻の真相、経緯についても明確にしておきたい。
 辻 賛成です。この問題は、学会が宗門を守ったのであって、学会には一点も非がなかったことを、是非明らかにしておきたい。あの御本尊の謹刻は、当時、間違いなく日達上人の了解も得たうえで謹刻したものなのです。
 秋谷 その通り。当時の経過について言いますと、昭和四十九年に、学会は創価学会常住の御本尊はじめ数体の御本尊を、将来にわたり大切にお守りするために板御本尊に謹刻させていただきたいと、時の日達上人に願い出たのです。
 それに対し、日達上人からは、「御本尊は受持した人のものですから、信心の上で大切にするのであれば、板御本尊にするのは自由です。他の人がとやかく言うものではありません。紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」という趣旨の、お話があったのです。これが真相です。
(発言者:秋谷会長、辻参議会議長、原田副会長、斉藤教学部長、高橋婦人部書記長、谷川青年部長 『聖教新聞』1993年9月15日)

2.「謗法でも何でもない。素晴らしいことだ」――河辺慈篤(北海道大支院長)

 辻 日達上人はこの他にも、「僧俗には、最高の技術をもって大御本尊を守護申し上げる責任がある」「御本尊を守り、法を守って永代まで伝えなければならない」等と、御本尊をお守りする信心の大切さについて、昔から折に触れ言われている。
 斉藤 もともと、紙幅の御本尊を板御本尊に彫刻することは、宗内では昔から行われてきたことで、問題にする方がおかしいのです。例えば、堀上人は、紫宸殿(ししんでん)御本尊を謹刻した板御本尊を拝んでいた。末寺でも、保田の妙本寺では十体、日向の定善寺では七体、紙幅の御本尊を写真にとり、謹刻している。宗門では紙幅を板御本尊にすることは、本来騒ぐことでも何でもないことなのです。
 原田 だから、学会も日達上人の了解を得て、昭和四十九年より、本部常住の御本尊など全部で八体の御本尊を、順次、板御本尊に謹刻申し上げたのです。そもそも、総監の藤本が「あれは、謗法ではない」と法廷で証言したではないですか。ところが、あの「大白法」によると、藤本は公(おおやけ)の法廷でウソをついたことになる(大笑い)。それこそ大問題だ。
 高橋 全くそうですね。
 谷川 このことは、当時の問題をよく調べたといわれる河辺慈篤(かわべじとく=北海道大支院長)も、昭和六十三年四月に行われた一般得度九期生に対する指導会で「正信会は御本尊模刻について大謗法だといっているが、そんなことはない。やはりこのことについても、日達上人からそのような御指南を得ていた。謗法でも何でもない。素晴らしいことだ」と説明しているということです。
 高橋 ということは、もともと問題になるようなことではなかったということですね。
 原田 その通りです。ここに昭和五十年一月四日付と、五十年七月十七日付の聖教新聞の記事があります。創価学会本部や関西本部の常住御本尊などを板御本尊にしたこともハッキリ出ています。しかし、当時は何の問題にもならなかったのです。
(同)

3.学会攻撃の材料とした正信会と山崎正友

 谷川 この問題のおかしいところは、すでに公になってから二、三年経過した昭和五十二年ころから急に騒がれ始めたことです。後にいわゆる正信会となって宗門に反逆した若手坊主たちが、山崎正友と結託して意図的な学会攻撃の材料として、この謹刻を問題があるように仕立て上げたからです。
 秋谷 とくに、これが宗内でことさら騒がれた昭和五十三年当時は、若手が宗門執行部を突き上げ宗内は無政府状態で、宗務院と何を話してもすぐ若手に壊されるという状況でした。日達上人も大変に心を痛められていた時です。
 斉藤 そんな異常な宗内状況の中で、正信会に学会の謹刻御本尊のことを質問された日達上人は、昭和五十三年六月の教師指導会で「学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩(けんか)しないように」と発言したことがあります。
 谷川 この中の、「それは私が知らなかった」という部分を今回の「大白法」は、だから法主の許可はなかった、という根拠にしようとしていますが。
 秋谷 そう、これもあの時の正信会の輩(やから)のマネをしているんだ(笑い)。正信会はこの発言を、学会の謹刻は事前の承認を受けていなかったということで利用しようとした。そして更にしつこく追及した。すると、別の時には、〝学会から願い出はあったが、後で正式な申請の書類が出てくると思っていたが来なかったのだ〟との説明がなされたりした。
 辻 あの日達上人の話の結論は、「こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩しないように」というところにあった。つまりあれは、日達上人が、最終的に宗門も〝了解し、承認したのだから騒ぐな〟と、正信会を納得させ、問題を収めようとした発言だったのです。このあたりの日達上人の正信会僧侶に対する話を正信会が悪用し、問題をくすぶらせたともいえる。
(同)

4.板御本尊は〝僧俗差別の象徴〟

 秋谷 そうです。しかし実際は、この書類の件も、当時そのような書面を出す指示もなかったし、そのための手続きや方式もなかった。それに、何より、日達上人が直接、池田先生に明確に了解されたことであり、それで十分であると私どもは考えたのです。それは当然のことでしょう。
 谷川 現に宗内でも、四国大支院長の安沢らが当時出した小冊子のなかで、学会の御本尊御謹刻については、日達上人が認可されたものだとハッキリ言っていますね。
 斉藤 そうです。その小冊子の中では、正信会の中心者が、早瀬日慈や日顕らの証言と問題の経緯を踏まえて、次のように言ったことを紹介している。「今こちら側でこの件をついてゆけばそれでは事実はこうと聖教で公表するだろう。かかる事態になれば、法主上人の御徳にきずがつくことは免れない。故にこの件に関しては是以上言うべきでない。宗務院として強制力のある通達をもってこれを達しなければならない。この件に違反すれば宗制宗規に照らして厳正な処置を取らねばならないと考える」と。
 高橋 先ほど河辺慈篤が、御本尊謹刻は謗法などではないと言っていた話がありましたが、日顕はもちろん、あの河辺や安沢たちも皆、事実を知っていたということですね。
 谷川 先日ある僧侶から聞いたことですが、当時大方の宗門僧侶の間には、学会の御本尊謹刻が教義上の「謗法」だという感覚など、全くなかったというんです。それが騒ぎになったのは、坊主には、寺は板御本尊で会館は紙幅御本尊だから〝寺の方が会館より上〟という愚かな上下意識があり、その〝差別〟が崩されて、信徒が来なくなり御供養が減ることが怖(こわ)かった。これが実は本音だったというのです。
 辻 なるほど。宗内ではその程度だったのだろうね。それこそ御本尊は寺の配布物、販売物としか考えていない宗門の体質がよく出ている話だ(笑い)。この邪教そのものの心根(こころね)の下劣さを、大聖人はどれほどお怒りになられることか。
(同)

5.「一切論議を禁止する」――日達法主

 原田 さて、話を戻しますと、謹刻問題がにわかに大きくなる中で、学会としては、あくまで日達上人の指南に基づくべきであると考え、昭和五十三年九月二日のお目通りで、謹刻した御本尊についての御指南を求めたのです。
 秋谷 その時、日達上人は「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です」との話をされました。私もその場にいて間違いなく聞いています。そして学会は、その通り、翌日の聖教新聞に報道しました。すると、活動家僧侶側は、今度はこれを材料に「また猊下は学会にだまされ、利用された」と、日達上人に詰め寄り、騒いだのです。
 高橋 日達上人がお目通りで話されたことを、そのように曲げて取るとは、よほど性格が曲がっていたのですね、当時の正信会も。本当に悪辣(あくらつ)です。
 谷川 そのお目通りの後の九月末、最終的に学会は、創価学会常住板御本尊以外の七体の謹刻御本尊については、本山に納めました。これをとらえて、御本尊を返したのは学会に非があったからだ、などと日顕は言わせていますが、この真相はどうだったのですか。
 原田 その理由はただ一つです。実は、日達上人の娘婿(むすめむこ)で学会との折衝(せっしょう)役になった大宣寺の菅野慈雲(すがのじうん)から、「猊下は活動家僧侶との板挟(いたばさ)みで、学会を守るために苦しんでいる。猊下の立場を考えて、板御本尊については、本山に納めてくれないか。そうしてくれれば、問題はすべて収まるから」という趣旨の話があったのです。
 学会としては、経過からしてこれに応じなければならない理由は何一つありません。しかし、とにかく宗内が反学会の活動家僧侶の決起で揺れに揺れ混乱している。したがって、こうした宗内の異常状態を収拾することが最優先課題でした。ゆえに日達上人を守るために、学会常住以外の七体の板御本尊を本山に納めたわけです。
 高橋 今から考えれば、信じられないほどの譲歩(じょうほ)を学会はしたのですね。
 秋谷 結局、これも日達上人を守り、僧俗和合をしようとの思いからです。だから、板御本尊を本山に納めた直後、日達上人に「こちらは御指南を守って言わないのに、活動家僧侶がまだいろいろ言っています。これでは全く困ります」と申し上げたところ、日達上人は「分かった。それでは院達を出します」と言われ、これらの経緯をすべて踏まえ、昭和五十三年十月三日付の院達を出し、「今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切論議を禁止する」とされたのです。
(同)

6.〝為(ため)につくられた〟黒いワナ――聖職者による謀略

 辻 もう一つ言わせてもらいたい。あの院達の後の、昭和五十三年十一月七日に本山で行われた代表幹部会で、私の話の中で、「不用意に御謹刻申し上げた御本尊」という表現があります。しかしあれも、当初の私の原稿にはなかったのに、幹部会の直前の前夜になって、宗門側の強い要請があって、〝不用意〟という言葉を挿入(そうにゅう)させられたんだ。
 谷川 それはどういう理由からだったんですか。
 辻 宗門側の言い分は、これを入れてくれないと、騒いでいる反学会の活動家僧侶が納得しない。彼らが納得しない限り、学会がこの「十一・七」でいくら僧俗和合のための方針を徹底しても事態の収拾にはならない、というものだった。まことに不本意ながら、僧俗和合実現のためにやむをえず、ああした表現になったのです。
 秋谷 当時の異常な宗内状況のため、以上のような複雑な経緯をたどったが、ここでも分かるように、御本尊の謹刻は、法義上も、また本来、手続き上も何らの問題もなかったのです。日達上人自身の指南にもある通り、あくまで御本尊を大事にしたいとの信心の上からなされたものです。
 斉藤 そうですね。本来、創価学会が大聖人の「信心の血脈」を継承する、真の「和合僧団」であるということからも、全く問題となることではないですね。
 秋谷 そう。それが〝大問題〟のようになったのは、宗内が、正信会や山崎正友に蹂躙(じゅうりん)されるという事態の中で、学会攻撃の作戦として〝為(ため)につくられた〟材料だった。これこそ、全く罪ないことで、学会に黒いワナを仕掛けた、中世暗黒時代のような聖職者による謀略だったのです。 
(同)

「池田氏は正式な手続きをとらず」と宗門は言うが、その言葉が〝意義を有する〟には、「正式な手続きを取ることが定められて以後」でなければならない。
 それが「手続きを要さない時代」にまで適用されれば、どうなるか。すべてが「許可なく」行われたものとされ、「勝手に」行なったこととなる。過去に遡って許可を取ることは〝不可抗力〟と言うものであり、〝理不尽〟この上無い。
 宗門の暴力団さながらの〝因縁付け〟の体質は、現在まで続くのである。
               ◇
 大坊の小僧はよく、「ばれなければ、何をやってもいい」と言う。この言葉は単に小僧たちが作り出したものではなく、小僧たちの心を侵食している宗門の体質が生み出したものである。(中略)
 平成六年五月に行われた「全国教師・寺族指導会」で日顕は「学会のね、誹謗なんてね、ウソもあれば本当もあるだろう。けれどもね、それでもって我々が手を、警察でもって、手に手錠を掛けられるということがありますか?」と話している。これは裏を返せば、「手錠をかけられない限りは何をやっても構わない」ということになる。日顕には、僧侶としての節度や常識を規範として行動するという発想が欠如している。善悪の基準が自己の欲望に基づいているのだ。
(『実録小説 大石寺・大坊物語』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)

 当時の学会は何よりも〝法を傷つけてはならない〟との思いがあった。そこを宗門に付け込まれたのである。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:82」を破折する(その二) 連載116回

妄説:82 「昭和五十二年路線」とはどういうことですか。

 昭和五十二年当時の創価学会が、「人間革命は現代の御書」「会長に帰命(きみょう)する」「寺院は単なる儀式法要の場」などの指導を行ない、日蓮正宗の教義から逸脱(いつだつ)し、独立路線を企(くわだ)てたことです。
 学会の『山崎・八尋文書』(昭和四十九年四月十二日付)には、「長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固める」とあり、また『北条文書』(昭和四十九年六月十八日付)にも「長期的に見れば、うまくわかれる以外にはないと思う」とあるように、当時の創価学会は宗門を実質的に支配して乗っ取るか、それができなければ分離独立するという陰謀(いんぼう)を計画していました。そして昭和五十二年に至って、学会に批判的な僧侶を学会本部に呼びつけての吊(つ)るし上げを始め、池田氏や学会幹部は会合のたびに宗門批判、僧侶攻撃を行ない、ついには御本尊模刻などの大謗法路線を突き進んだのです。
 これが昭和五十二年路線といわれるものです。
 しかし、創価学会は、日達上人の御叱責(しっせき)と宗門の指摘を受け、その責任をとって池田氏が会長を辞任し、大幹部全員が登山して謝罪することによって、日達上人は、再びこのような過(あやま)ちを犯さないことを条件として一応収束(しゅうそく)の形をとられたのです。

破折
7.山崎正友の情報操作でふくらんだ細井管長の猜疑心

 本項における記事は、北林芳典氏の回顧による出版物(『暁闇』報恩社 2002年12月出版)からの引用である。
               ◇
 昭和五十二年一月、菅野憲道(管理人注:創価学会を批判した論文を『富士学報』に載せた若手僧。前項6.参照)が創価学会本部に詫び状を持参した頃より、山崎正友は細井日達管長に対して情報操作を始める
 操作された情報を細井管長に伝えたのは、のちに大分県竹田市・伝法寺の住職となる浜中和道であった。浜中は妙信講対策のため、『破邪新聞』を発刊する過程で、山崎との関係ができていた。浜中は少年得度の一期生で、昭和三十五年、小学校五年生の時に、大石寺において得度していた。菅野も少年得度一期である。
 昭和五十二年当時二十八歳の浜中に、山崎の伝えるウソが創価学会と宗門を離間する操作情報であると判別する能力はなかった。まして、同僚の菅野が創価学会に詫び状を取られたと聞いて感情的になっており、山崎の話す内容のほとんどを生真面目に細井管長に伝えた。
 山崎が、私(注:『暁闇』筆者の北林芳典氏。以下同じ)が初めて浜中と会った直後、
「浜中は猊下のお耳役だから気をつけろ」
と言っていたことは前述したが、いよいよ当人が「お耳役」として浜中を利用し始めたのである。
 この事実を創価学会側はうすうす知っていたが、浜中が平成十二年十月、『回想録』を著したことにより、その詳細が初めて明らかとなった。以下、『回想録』を軸に、山崎がいかに細井管長を掌中の〝玉〟にしていったかを明かしていく。なお、この「断簡十六」(注:『暁闇』第16章)における引用文は、註記のない場合を除き、すべて浜中和道の『回想録』からである。
 創価学会の中に邪義が発生しているかのように記した菅野憲道の論文をめぐって、創価学会と宗門が緊張関係にある時、山崎は浜中に次のように話したという。

「池田さんは、日達上人の弟子を吊し上げて、その責任を猊下にとらせ、そのあとに阿部さんを据えようとしているんです。和道さん、そのことを大至急、猊下の耳に入れて、くれぐれも気をつけるよう言って下さい。明日になれば、今日の会長の講演のゲラが手に入りますから、それも至急、届けて下さい。
 ただし、まだ私の名前は出さないほうがいいな。いや、こそっと内緒で言って下さい。『私はいざとなれば、必ずお山につきます。それまでは情報を私が伝えますから、名を出さないように』と」

 浜中はその後、その話を大石寺の御仲居・光久諦顕に伝える。御仲居の光久は、細井管長の全幅の信頼を受けていた側近中の側近であった。
 山崎はこのように、細井管長の心にある猜疑心をいっそう大きくふくらませるよう工作すると同時に、昭和五十二年一月十五日、関西戸田記念講堂で開催された第九回教学部大会における池田会長の講演「仏教史観を語る」の原稿を、『聖教新聞』に掲載される前に細井管長に渡そうとした。(中略)
 山崎は、この池田会長の講演を報じた『聖教新聞』のゲラを、浜中を通していち早く細井管長に届け、点数を稼ごうとしたのである。山崎が浜中にそのゲラを渡したのが一月十六日。浜中は新幹線で三島駅まで行き、そこで御仲居の光久自らが運転する車に乗り大石寺へ。大石寺では通常、管長が僧侶に会う時には対面所を使うが、浜中は細井管長が居住している大奥の廊下で細井管長と会った。浜中は細井管長に「仏教史観を語る」のゲラを渡すと同時に、
「『〝道〟のつく奴は、みんな悪い』と学会が言っています」
と話した。細井管長の直弟子は、管長の道号(出家した時の名前)である「精道」より「道」の一字を、自身の道号につけてもらっていたのである。
 細井管長は、内通してきた山崎への謝辞を浜中に伝えた。
 浜中がこの細井管長の謝辞を山崎に伝えると、山崎は新たな情報とて、創価学会青年部長・野崎勲が、「仏教史観を語る」が講演された関西戸田記念講堂に「伸一会」のメンバーを結集し、
「これは伸一会対妙観会の戦いだ」
と檄を飛ばしたと浜中に伝えた。
 しかし、私も伸一会のメンバーとしてこの時の会合に参加していたが、そのようなことはまったくなかった。山崎の離間策に基づくデマである。山崎は浜中を煽り、反創価学会の感情を高ぶらせた出家(以下、反学会活動家僧と称する)が結集するように勧め、そのために東京・新宿の京王プラザホテルの一室を手配した。この時同ホテルに集まったのは、浜中ら六名程度の青年教師であった。

8.僧俗を離間させ巨利を得ようと図る山崎

 二月に入って山崎は、東京・国立の大宣寺住職で細井管長の娘婿である菅野慈雲を通じ、自らが細井管長と直接会えるように、浜中に取り計らってもらった。山崎は、東京・文京区西片の大石寺出張所において細井管長と会った。この会談は無論、創価学会に対して内密であった。
 浜中は同年五月十一日、大分県竹田市の伝法寺住職として赴任した。しかしその後も、山崎より掴まされた操作情報を細井管長に伝え続けた。
 伝法寺の落慶法要の前日、早くも山崎から電話が入った。細井管長への伝言依頼である。
「学会は今度は週刊誌を使って日蓮正宗僧侶のスキャンダルを大々的に流すと言っていますよ」
 山崎はこのような伝言をその後も何回かおこなうが、「日蓮正宗僧侶のスキャンダル」が報じられることはなかった。当然のことだろう。世間では、創価学会は知っていても、日蓮正宗の存在などほとんど誰も知らないからである。その日蓮正宗の坊主が何をしようと、ニュースとしての価値はない。
 浜中は落慶法要終了後、山崎が伝えたスキャンダル暴露の話を細井管長に伝えた。細井管長はこの話が気になったようで、数日後、浜中に電話を入れている。

「そうか、そこまで学会はやるのか。だからワシはみんなにいつも言っているんだ。僧侶は身の回りをきれいにしろと」

 細井管長は山崎の術中にまんまとはまり始めた。
「また、何か山崎さんから聞いたら、ワシの耳に入れてくれ」
 この細井管長の礼を浜中が山崎に伝えた。(中略)
 山崎はもはや軍師気取りであった。
 山崎は細井管長を焚きつけると同時に、週刊誌を使って創価学会攻撃を始めた。山崎は僧俗を離間し、その後、調停に入ることにより、巨利を得ようと考えていたのだ。
 のち、昭和五十三年、山崎は私に以下のように語ったことがある。

「創価学会が日蓮正宗に寄進する寺院や墓地の建設を、一手に引き受けようと思うんだ。本山はオレに任せるよ。百カ寺を寄進し、それに全国に何カ所か墓園を建設すると、一千億円はくだらないぞ、一割マージンとしてもらっても百億円だ。二億、三億は、はした金だ。土地取得の権限を任せられるだけでもすごいぞ」

 しかし、山崎が考えていたのはそれだけではなかったであろう。かつて山崎は、立正佼成会を分断して別教団を作り、その黒幕となって甘い汁を吸おうとしたことがある。その彼の本性からしてみれば、創価学会の一部を切り取るか、あるいは創価学会それ自体を乗っ取ることすら考えていたとしても不思議ではない。山崎の目には、宗教が金儲けの手段にしか見えなくなっていたのだ。
 富士宮の土建業者である日原博から得た裏金で、月七百万円もの遊興費を散財していた山崎は、より多くのあぶく銭を手にしようとした。その手段として日蓮正宗を操り、創価学会を圧迫する。和解策として寺院を創価学会に寄進させる。果ては創価学会の乗っ取りすら考えるようになった。自らの欲望を満たすために、あらゆる手段を弄し始めたのだった。恐るべき奸智の持ち主である。しかも、それを何年もかけてやるのだから、常人の想像を超えている。

9.出家に在家の誠意は通じなかった

 この頃、山崎は浜中の紹介で御仲居の光久と会っている。

「会談は、ほとんど一方的に山崎氏がしゃべりまくった。光久師は、それにうなずくより他はなかった。話の内容は、私が山崎氏よりずっと聞かされていたことばかりであったが、光久師にとっては、私を通じて聞くのと、直接、山崎氏の口から語られるのとでは、その迫力といい、生々しさといい、新たに聞く思いであったであろう。山崎氏は、池田会長の宗門攻撃の狙いが、日達上人の退座にあること、宗門乗っ取りにあることを、一挙に光久師に述べたてた」

『週刊文春』昭和五十二年十月十三日号は、
「池田独裁を倒せ! 全国ほう起した学会革命軍」
と題する記事を掲載した。脱会者が九州・大分の寿福寺に三百名、集まったのである。この『週刊文春』を見た細井管長は、住職の佐々木秀明に激励の電話を入れている。
 創価学会は事態の収拾を図るため、十一月十七日、池田会長より総監・早瀬日慈に、創価学会内で検討中の「僧俗一致の原則(案)」を見せた。この時、総監・早瀬は、ブラジルより帰国した関快道(のち東京・狛江の仏寿寺住職)を同道し、菅野憲道とともに創価学会本部に挨拶に訪れていた。
 ところがその直後、「僧俗一致の原則(案)」が各末寺に出回った。これを見た反学会活動家僧の佐々木秀明、山口法興の両名が、十一月二十八日に細井管長と会う。山口が、
「この『(学会の)宗教法人上の自立性を十分尊重する』というこの一項は、大変な問題だと思うんです。これは是非、粉砕していただきたいと思うんですが」
と意見具申したところ、細井管長は、
「そうだよ。粉砕じゃない。これはもう(学会と)手を切んなきゃだめだと思うんだよ」
と明言した。この細井管長の言葉はカセットテープに録音され、反学会活動家僧の間にダビングされたテープが出回った。
 この内容は浜中から山崎にも伝えられた。山崎は忠臣面して、北条浩副会長にその「情報」を入れる。創価学会側は深刻であった。池田会長は僧俗一致のため、信徒としての礼を尽くし細井管長に「御寛恕」を願う。昭和五十二年十二月四日のことだった。(中略)
 しかし山崎は、池田会長の誠意でもって細井管長の疑念が晴れることのないよう、すでに手を打っていたのだ。この宮崎県日向市・定善寺での池田会長の「御寛恕」願いの二日前、山崎は、御仲居の光久へ以下のように伝えてくれと、浜中に依頼している。

「『池田さんが、〈今度は一旦、頭を下げるけど、その後、ただじゃおかない〉と言って、〈坊主のスキャンダルを全部、暴露する用意をしろ〉と野崎たちに指示をしましたよ。あの人は、台風の間、頭を下げて、それが過ぎたら必ず復讐する人だから、くれぐれもお気を付け下さい』と御仲居さんから猊下に伝えてもらってよ」

 この伝言は御仲居の光久を通さず、浜中より細井管長に伝わることになる。場所はサンホテルフェニックス。伝言を聞いた細井管長は次のように語った。

「そうか、山崎弁護士がそう言ったか。ワシも、もしかしたらそうじゃないかと思っていたんだ。だから池田さんにワシは、どうかそういうことをしないでくれという意味で、わざわざ池田さんの前に行って、手を畳について頭を下げたんだ。そうか、やっぱりな」

 さらに細井管長は、
「今まで、池田さんと一緒だったんだ。池田さんは隣のホテルに泊まっているよ。明日、一緒の飛行機だったら、ワシは嫌だな」
と感情を丸出しにした。今まで一緒に話していた人物より〝一つの伝言〟のほうが信用できるのである。これでは誠意をもって話しても無駄としか言いようがない。細井管長は一宗を率いる者としての自信に欠けていたし、七十歳という高齢もあり、諸行事に疲れていたとも思われる。それにしても、あまりに単純な手口に次々と乗せられてしまう人である。昭和五十二年はこのようにして暮れた。

10.山崎が書いた「ある信者からの手紙」

 昭和五十三年、ある一通の密書により、思い上がった出家たちによる創価学会攻撃が本格化する。(中略)
 細井管長は創価学会に対抗するため、反学会活動家僧を大石寺に集め、自分を突き上げる芝居を打てと佐々木に依頼する。佐々木は当時浜中に、次のように語っている。
「最低でも百人ぐらいは行くだろう。御前さんも『一人でも多く集めろ』と言っていたから、『猊下、御安心下さい。最低、百人ぐらいは来ます』と言ったら、喜んでおられたよ」
 反学会活動家僧らには、このように細井管長からの「御内意」が伝えられていたのだ。(中略)
 この一月十九日の反学会活動家僧らの集まりを前にして、山崎は細井管長に密書(怪文書)を送る。その怪文書は図らずも、集まった者たちの反創価学会意識をいっそう高揚・暴発させることとなった。のち、この怪文書は「ある信者からの手紙」と呼ばれる。浜中にこの怪文書が渡されたのは前日の十八日。同日、浜中は大石寺塔中の妙泉坊に着き、同坊住職・光久の妻がこの怪文書を清書する。
 浜中が細井管長にこの怪文書を渡したのは、反学会活動家僧たちが開いた集会の直前であった。集会には約百五十名の教師が集まっていた。それらの教師は口々に創価学会の指導が日蓮正宗の教義に違背していることを述べた。その話を受け、細井管長が山口法興に山崎の書いた怪文書を読み上げさせる。(中略)
 この時集まった者たちを主体に、翌昭和五十四年七月、「正信会」が形成される。これらの者たちのほとんどはのちに擯斥処分されるに至った。だが、どう言いつくろおうとも、正信会の信者は創価学会から脱会した者をかき集めたにすぎず、新入信者の獲得はおろか、次代への信仰の継承すらまともにできていない。この現実の姿からして、力量のない若僧らが驕慢に溺れ、池田会長への瞋恚の思いを燃やしたにすぎないといえる。

11.池田会長自らが細井管長と直談判

 二月九日、大石寺大化城において「時事懇談会」が開かれた。この「時事懇談会」には、先に創価学会が提示した「僧俗一致の原則(案)」を元にした宗務院案が、事態の沈静化をめざして提示された。宗務院案では、檀徒作りをできるだけ避けるように配慮がなされていた。ところがこの宗務院案に対して、開会早々、細井管長が挨拶の中で水をさす。

「こういう状態になって来て、我々もこれから先如何なる困難があろうとも、宗門として宗門を大聖人様の仏法を守る宗門として例え小さくなろうとも、どうあろうとも是れは真直に切り抜いて行かなきゃならんという考えも、もっております。それが本音です。建前は仲良くして行こう、本音と建前が違うと近頃言いますけれども、この通りであります」(『時事懇談会記録』より)

 この「時事懇談会」は紛糾する。宗務院の総監・早瀬、教学部長・阿部が反学会活動家僧らから吊るし上げられ、嘲笑の対象にされた。この会場の雰囲気に押され、総監・早瀬はこの「時事懇談会」の主旨を要約し、
「第一に先程提出致しました宗務当局の案は撤回致します」(同)
と述べ、
「今後学会とやって行くにはどうしたら良いか」(同)
「学会と別れてやっていくか」(同)
という二つの内容のアンケートを宗内で取るとした。アンケートの期限は二月末日。
「一代坊主」の細井管長の勢力は、昭和三十五年に年分得度を始めて以来、着実に肥大化し、「代々坊主」の早瀬、阿部らの勢力に拮抗するまでになっていた。その上さらに、「代々坊主」の中で、長年、反創価学会の爪を隠してきた者たちがその存在を顕在化させつつあった。アンケートの結果が、「創価学会と手を切る」という、細井管長の「御内意」に沿ったものになることは目に見えていた。
 二月十二日、池田会長は事態打開のために大石寺に行き、細井管長と直接話した。残された道は、細井管長に会長自らが直談判するしかなかったのだ。
 二月十三日、池田会長は熱海の東海研修道場に山崎を呼び、
「生活を正し、ちゃんと家に帰って、しっかり勤行せよ」(記録文書より)
「側近づらをするな。(浜中)和道のようなチンピラとつきあうな。宗門問題から手を引け」(同)
と厳しく指導した。
 二月十四日、池田会長は再び大石寺に出向き、細井管長と話を詰めた。その結果、二月九日に決まったアンケートについては、
「いかにしたら仲良くやれるか」(『時事懇談会記録』より)
という内容に修正された。
 反学会活動家僧たちは、
「御前さんが、何十億かの御供養を学会からもらうことになったので、アンケートを修正された」
と、今度は掌をかえしたように、細井管長の悪口を言い始めた。信者たる創価学会員に対しては、「血脈付法の御法主上人」という宗教的権威をもって圧しながら、自分たち弟子はいささかの尊崇の念も持たず、自分の師匠を金に転びやすい人格の持ち主であると思っていたのである。
 宗務院は二月十六日、気の変わりやすい細井管長の対応を見越してのことか、
「どうすれば創価学会と仲良くやっていけるか」
という項目だけにしぼったアンケートを急ぎ宗内に配布した。

12.出家の本質を見抜いていた山崎

 二月十八日、反学会活動家僧が大石寺に集まり、細井管長に「目通り」した。その「目通り」の前、彼らは大石寺塔中蓮東坊に集まり、集会を開いた。
「御前さんは創価学会の金に転んだ」
という話が、あちらこちらでひそひそとささやかれた。
「御前さんは、もともと学会と手を切るつもりはなかったんだ。ただ、池田会長を押さえつけたかっただけなんだ。そのために、俺たちを二階に上げて梯子を外した。もう俺は、ウチの檀徒にも、学会にも、御前さんが学会と手を切るとおっしゃったと、話してしまった」
「猊下をリコールしよう」
「猊下不信だ。我々は猊下個人を守るのではなく、猊座を守る」
とまで言い始めていた。
 彼ら反学会活動家僧にとって都合のよい「己中の猊座の尊厳」が、早くも誕生し始めた。御本仏である日蓮大聖人の尊厳はあっても、葬式仏教と出家社会の奢りを都合よく象徴する「猊座の尊厳」などというものは、もとよりない。
 ともあれ、蓮東坊で意思統一した者たち約百四十名が、細井管長に「目通り」した。細井管長は次のように話した。

「なんとしても、手を切るのはやめてくれ。一千万信徒の成仏が、かかっている。どうか許してくれと、向こうの大将が言ってきたんだ。二回も来たんだ」
「それなのに、坊さんとして、それでも手を切るなどとは言えない。だから今度だけは、様子を見ると言ったんだ」

 このように細井管長が話しても、反創価学会の感情にとりつかれた者たちの疑いを氷解させるには至らなかった。細井管長は、二月二十二日に宗門の全教師を集めて説明をすると言った。
 この「目通り」の様子はカセットテープに録音されており、山崎は浜中からその録音テープを受け取って聴いた。
「ハッ、ハッ、ハッ、猊下もタジタジだね、これは」
「僕の出番は、まだまだあとだよ」
 山崎は、宗門内で顕在化した反創価学会のうねりが出家の本質に根ざしたものであり、それが消えることはないと見抜いていたのだった。
 二十二日、第二回目の時事懇談会が、前回と同じく大化城でおこなわれた。そこで細井管長は次のように話した。

「池田会長が二回も来て、詫びてきたならば、許すのが僧侶の慈悲である」
「しかし、それも今度だけである。その条件として、宗門の全教師から、学会に対する注文をアンケートに集計して突きつける。もし、向こうが、それを飲まなかったら、それはそれで切る、切らなくてはならない。そのアンケートは、最初は、学会と手を切るという一項目が入っていたが、学会の方からそのような〝手を切る〟などというアンケートが出ただけでも、大変な混乱になってしまう。どうか止めてくれと頼んできたので、その項目を除外したのだ」

 だが、出席者たちは細井管長の説明に納得しなかった。細井管長は、
「お寺に来たいという人は、来いと言えばいい。お寺に来て信心したい人は、お寺の檀徒にして、どんどん扱っていけばよい。だから檀徒名簿を作りなさいって、言っているんだ」
と述べた。細井管長は山崎が書いた「ある信者からの手紙」の示す作戦に沿い、檀徒作りを緩めようとはしていなかったのだ。
 この第二回時事懇談会の内容を聞いた山崎は、
「猊下も結構、僕の意見を取り入れてくれたみたいで油断はしていないね。さすが親分だよ」
と述べた。

13.山崎が次々と流すデマ情報に翻弄される細井管長

 三月十四日、大石寺大講堂に全国の教師五百名が集まった。細井管長は、
「破門せずに学会と協調する方向で協議を進めてもらいたい」
と基本路線を示した。宗務院がアンケート結果に基づいて作成した「協調案」が示された。
 このままでは創価学会と宗門との間が和合すると見た山崎は、暗躍を始める。山崎は大石寺に行き細井管長に会った。この頃すでに、山崎は細井管長の信頼を受け、ほぼフリーパスで会えるようになっていたのである。この時の「目通り」の模様を、山崎は次のように浜中に話した。

「池田さんのお詫びは、あれはポーズだということだよ。腹の中で池田さんは、〝今に見ていろ〟と思っているよ。だから、手をゆるめちゃダメなのだよ。そのためにも、学会の教義のおかしい所を全部チェックして、それを使って檀徒を増やさなくちゃならない。いざとなれば、マスコミだって、宗門の味方をするよ。『そういうマスコミを僕がキチッと押さえています』と言ったら、猊下も安心していたよ。もう、猊下の腹は決まっているね。いざとなったら手を切るって」
「ともかく、猊下に『どこまでも、学会に甘い顔をせずにいて下さい』と言っておいたよ。猊下は、僕の『言うとおりにする』って言っていたよ。『宗務院が作った九項目の学会への協調案も出さない』って言っていたよ。これから、もっと面白くなるよ」

 三月三十一日、恒例の妙観会の集いが大石寺でおこなわれた。この前日、山崎は浜中に、細井管長への進言書「今後の作戦」を託した。この時、山崎は伝言を浜中に託した。
 浜中はこの時の模様を次のように記している。

「『その手紙とは別に、山崎さんからの伝言があります』
と言って、私は山崎氏の言葉を思い出しながら、日達上人に話し始めた。
『さすが、御法主上人です。池田会長を恐れずに、ハッキリと手を切るとまでおっしゃりました』
と、私が話すと、突然、日達上人は、
『バカ言え、ワシだって、本当は恐いんだ』
と、大声を出され、机の上に両手を広げられた。その手がかすかに震えていた。
 その時、私は日達上人がいかに悲愴な決意で、一月、二月を過ごされたか、やっとわかった思いであった。私が黙っていると、日達上人は私が目の前にいることを今、気づかれたかのように手を元どおりの位置に戻すと、
『それで』
と、先を促された。
 私が、
『池田会長は、御前さんのことを後白河法皇と言っています』
と言うと、日達上人は苦笑いをしながら、
『あの連中は、ワシのことをなんとでも言うだろう。言いたい奴はなんとでも言えばいい』
と、言われ、
『ワシの写真をケシカランと言って踏みつけるような連中だからな』
と、言われた。
 妙観会全員でのお目通りの時、私は後ろのほうに座っていたため、よく聞き取れなかったが、どこかの住職が日達上人に、
『猊下の写真を踏みつけるように、学会の幹部が指導しています』
というようなことを報告しているのを思い出した。私が山崎氏の伝言を全部、伝え終えて辞する時、日達上人は、
『よろしく言ってくれ』
と、山崎氏への言葉を私に残された」

 池田会長が細井管長のことを「後白河法皇」と言ったことなどない。もちろん、創価学会幹部が細井管長の写真を踏みつけるように指示したこともない。だが、細井管長におもねるため、このようなありもしない「極秘情報」が、末寺住職たちから細井管長に報告されていたことがわかる。
 しかし、細井管長は、このような情報がいったん頭の中に刷り込まれると、それを覆すことはまずなかった。

14.細井管長を入院させて洗脳

 この頃、『週刊新潮』『週刊文春』が、さかんに創価学会批判の記事を連載している。これらの週刊誌の報道について山崎は、浜中に、

「今度の新潮の記事、読んだ? どう、うまく書けてる。これは誰が仕組んだと思う?」
「誰がこんな仕掛けができると思うの。全部、僕がやらせているんだよ。猊下にも、こそっとそのことを言っておいてよ。これから、まだまだ学会のことを新潮も文春も、徹底して叩きますよってね」

 山崎の週刊誌操作は、当時、山崎のそばにいた人物も証言している。山崎は「フジイ」という偽名を使い、創価学会についての操作情報を流した。山崎は受話器にハンカチをあて、声色を変えて『週刊新潮』編集部にたれ込んでいた。
 山崎は細井管長に対し、マスコミに大きなルートがあるように装っていたが、舞台裏はこのような犯罪者まがいの情報操作を一人でおこなっていたのだ。

 この頃、細井管長の心臓の調子が悪くなった。浜中がそのことを山崎に洩らすと、山崎は嬉々として、笹川良一(当時、日本船舶振興会会長)が経営している病院(笹川クリニック)の院長を紹介すると言った。その院長とは、東京・築地にある聖路加病院の日野原重明(現・聖路加国際病院理事長)であった。この頃、山崎は笹川の三男・陽平と親交があった。
 笹川の紹介がきいて、日野原は細井管長の主治医となることを了承する。その結果、細井管長は五月十八日から二十四日まで、聖路加病院に検査入院する。この検査入院中の二十三日、細井管長は笹川記念館のライフ・プランニング・センター(前出、笹川クリニック)を訪れている。その後、細井管長は一カ月に一回、同センターに通うようになり、そのつど山崎が同伴する。
 この頃山崎は、笹川クリニックの細井管長のカルテを見せ、
「〝玉〟を掌中にした」
と周りの者に自慢している。山崎はこの時のことを昭和五十四年の池田会長勇退ののち、ある人物に自慢げに話している。

「俺が最初にどうやったか。まず、猊下をほかの情報から遮断した。そのあいだは俺と御仲居にしか会わなかった。そうしておいて、いろいろなことを吹き込むんだ」

 山崎にとって細井管長を入院させる真実の目的は、とことん自分の欲得に利用するために洗脳することにあったのだ。
                           (了)
 

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Author:墨田ツリー

 
 
 

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