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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:85」を破折する(その二) 連載125回

妄説:85 模刻(もこく)作業に携(たずさ)わった赤沢朝陽の社長は、昭和四十九年秋ごろに「日達上人は数体の御本尊の模刻を承知されていた」(聖教新聞 H五・九・三〇 取意)といっていますが、どうでしょうか。

 最近になって、赤沢氏は「昭和四十九年秋ごろに、日達上人は模刻について承知されていた」と発言していますが、その内容は事実と違います。
 なぜなら、菅野慈雲師の手記には、昭和五十三年一月の日達上人のお言葉として
「今、赤沢朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤沢に行って調べて来るように」(大日蓮 573-77頁)
と仰せられたことがはっきりと書かれているからです。
 これによって、日達上人が本尊模刻の実態を初めて耳にされたのが、昭和五十三年正月のことであり、これを報告したのが赤沢氏本人であったことがわかります。赤沢氏は、学会が秘密にしてきた本尊模刻を日達上人に報告した張本人なのです。
 日達上人が、その後、昭和五十三年六月二十九日に、総本山大講堂で行なわれた教師指導会で、
「学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった」(大日蓮 390-44頁)
と仰せられています。ですから池田大作氏の
「実は『本門事の戒壇は正本堂』という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)だ。板本尊で文化会館の七階の座敷に安置してある」
という昭和四十八年十二月二十九日の第二回御義口伝受講者大会における発言当時はもちろんのこと、赤沢氏がいう四十九年当時にも、日達上人が本尊模刻を全く御存じなかったことは明白です。
 赤沢氏の発言は、実にいい加減なものなのです。

破折:
5.反逆者による謀略
(1)元教学部長・原島嵩

「第二回御義口伝受講者大会における発言」なるものが、反逆者の謀略によって仕組まれたものであったと暴露した記事がブログ上にあり、そのまま掲載させていただく。

 →ブログ:
斧節【onobusi】2005-12-06〈慧妙の大嘘をわらう 4〉の項
               ◇
 投稿者:旗坊  投稿日: 4月22日(日)20時43分04秒

 更に御本尊謹刻についての問題で「慧妙」は、反逆者・原島のメモを利用して、またまた大嘘を放っているので破折したい。云く、
  
 まず、学会は〝数体の板本尊模刻は、すでに昭和49年に日達上人より許可を得ていた〟などというが、こうした作り話も、昭和49年以前から、学会が勝手に板本尊を模刻してきていれば、全てが崩壊してしまう。そして、以下は、それを示す池田発言(昭和48年のもの!)の記録。
「実は『本門事の戒壇は正本堂』という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ。板本尊で、まさしく化儀の広宣流布の800万は、明確に終わった。文化会館の7階の座しきに安置してあるのだ。これは、私が受けたもの。私が拝ませてあげよう」(昭和48年12月28日/第2回御義口伝受講者大会より)
 ここでいう「板本尊」とは、昭和48年8月23日御書写の「賞 本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊を、池田が授与された後、直ちに模刻・複製してしまった板本尊である。これで明らかなごとく、学会では昭和49年以前から、すでに勝手に板本尊を作っていたのだ。

 私の手元に、発行者日蓮正宗僧侶有志、昭和56年1月10日発行の『宗務院・学会記録文書』なる冊子がある。これは約20年前に、第一次宗門問題で大騒ぎしていた坊主たちによる文書だが、この140ペ-ジに、日達前法主の了解後に学会として謹刻したが、問題の沈静化のために当時の奉安殿に納めた7体の板御本尊の目録が掲載されている。その一番目に「賞 本門事戒壇正本堂建立  昭和49年1月2日 お認め」とある。また、昭和49年1月4日付の聖教新聞は、昭和49年1月2日の初御開扉の終了後のお目通りの席で、日達前法主から池田先生に、この「賞 本門事戒壇正本堂建立 」の御本尊が賞与されたことを報じている。

 こら、ウソつき「慧妙」よ、ええかげんにせえよ。
『賞 本門事戒壇正本堂建立 』の御本尊が先生に授与されたのは、昭和48年でなく昭和49年になってからであることは明白ではないか。紙幅本尊としてまだ授与されていない御本尊をどうして昭和48年の夏に板に刻むことができるのか?
 このように諸資料をつなげば、この昭和48年12月28日・第2回御義口伝受講者大会の記録そのものがウソであることがすぐわかる。これは原島自身のメモであり、筆跡を公開すれば原島のウソだとすぐバレてしまうので明かすことができないのだ。
 当時大騒ぎした正信会の坊主たちはなぜか今は御本尊謹刻問題には沈黙したままだ。なぜなら、御本尊の謹刻を口頭であれ日達前法主が許可了解していたことをよく知っているからである。
(以上「斧節」より引用)

「第二回御義口伝受講者大会における発言」との記事(『継命』80年9月15日号収載)は、反逆者・原島嵩が書いたものである。
 この記事を根拠として「慧妙」が〝昭和48年8月23日御書写の「賞 本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊を、池田が授与された後、直ちに模刻・複製してしまった〟などと学会を誹謗した。
 だが上記の記事は全くの捏造であることが判明している。

 ①「昭和48年8月23日御書写」ではなく「昭和49年1月2日 お認め」の御本尊と諸記録にある。

 ②「昭和49年1月2日の初御開扉の終了後のお目通りの席」において日達法主より池田会長に賞与された〝紙墨の御本尊〟が、前年の昭和48年12月28日(第2回御義口伝受講者大会当日)においてすでに〝板御本尊〟に御謹刻されてあるはずがない。

 資料に当たってみれば、底の浅い謀略であった。しかし、このようなことは決して珍しくない。正式な宗史をも、捏造に捏造を重ね、〝作り話〟を記してきたのが宗門である。その体質は、反逆者の血にも通っている。

(2)反逆の母子

 原島は、母子二代にわたる反逆者であった。昭和二十年代に原島の母(原島精子)が派閥を作り、戸田会長に叱責されたことが知られている。
               ◇
 原島昭(故・嵩の実兄)が「慧妙」の十月一日付に「私が見た創価学会」と題し、我田引水の駄文を書き殴っている。戸田第二代会長のもとで広布勝利の道を拓いた池田名誉会長の若き日の戦いの足跡に泥を塗り、原島家のことを自画自賛。知らない人が読むと、昭や反逆者・嵩の母である原島精子が学会の基礎を築いたかのように錯覚させられるデタラメな記事である。
「昭和十三年、私の二つ違いの弟・嵩が生まれ、私が三歳、弟が一歳を過ぎた頃、母が、創価学会を通じて日蓮正宗に入信しました。その翌年には、父も母に説得されて入信しました。入信してからの両親の布教活動は、子供の眼から見ても驚くべきもので、蒲田支部の基礎を作っていった」といった具合で、 以下は略す。
 幼児が驚く布教活動とは一体、どんな活動か?
 雉も鳴かずば撃たれまい?? 昭クンが必要以上に母親を宣揚し、他人の功績を愚弄するから、ここに真相を記す。実際は、原島精子は蒲田支部の基礎を作るどころか、学会内に派閥を作ろうとしていた。そのため、草創期の諸先輩の原島精子に対する評価は厳しい。
 事実、昭和二十七年二月十日付の聖教新聞には注目すべき記事がある。それは「監査部指令」として文京婦人部長の原島精子に対して「辞任を命ず。会長より許可あるまで謹慎する事。又その支部員は今後その指導及び意見に依存して行動した場合は同じく監査の対象とする」と記されている。
(左の記事を参照 ※)
 当時、監査部があって、組織を乱したり、学会精神に反する者を対象に監査して不適任者には辞任を求めたのだ。原島が辞任を命じられた理由は派閥作りであった。「派閥を断じて作るな」というのが戸田会長の厳命で、精子を「信用できない」と叱責。派閥が生まれると、そこから信心の澱(よど)みをもたらす。そんな事があってはならないというのが学会指導である。
 謹慎していた精子が、当時の文京支部幹事の口添えによって学会復帰が許されたのは約半年後の九月二十五日のことであった。
 反逆した嵩も教学部長の頃、後輩に対し「俺に付け」と迫り、己の一派を作ろうと画策していたが、誰も相手にしなかった。
 精子と嵩の母子は、二人揃って学会の組織を攪乱。昭クンは仕事もできず、給与だけを貰っていたようだ。忘恩は人間の最大の恥だ!
(『フェイク』第1061号 2009年10月14日)

(※ 該当記事)
  監査部組織再強化
   肅清次々斷行の方針
 今年度の各支部における整然たる組織の再強化は一段と命令権の確立が徹底し折伏行進の歩調が整えられて、今まで育って来た新進気鋭の新人が活躍する舞台面が開けて来た。
 こゝにおいて学会監査部ではこの組織を乱したり、命令権の尊厳を傷つける等の学会精神に反する者を対象として徹底的な粛清を断行する方針を取り各支部にその監査の眼を光らせることになった。某支部に対して行われている如く調査も済み次第次々と発表されるであろう。
  監査部指令
 左の者はその任に不適任とみなし辞任を命ず。会長より許可あるまで謹慎する事、またその支部員は今後その指導及び意見に依存して行動した場合は同じく監査の対象とする。
 文京婦人部長  原島 精子
(『聖教新聞』昭和27年2月10日付)

 原島の稚拙なウソを鵜呑みにした宗門は、今さら引っ込みもつかない立場に追い込まれている。

6.「日顕の連絡ミス」を学会に責任転嫁との推測

 再び〈慧妙の大嘘をわらう 4〉の記事より。
               ◇
 慧妙はこうも言っている。

 日達上人は、学会の「板御本尊にしたい」という意味は、今までの日昇上人の紙幅御本尊はおしまいして、新たに日達上人に板御本尊の御下附を願い出るものと、このように思われて、そういう意味で御承知であったということ。

 では、日達前法主の失念やウソでなく、このような誤解のもとになったのは学会の責任とでもいうのだろうか。さきほどの『宗務院・学会記録文書』によれば、

「当時藤本師の連絡を受けた阿部師は、謹刻の連絡はいただいたはず、と9月3日のお目通りの件について述べているが、もし阿部師が9月2日の連絡会議での学会側からの要望を、学会独自で謹刻するとの心証で受け止め、且つ翌日のお目通りの際の報告並びに日達上人のOKのお言葉を、学会側で謹刻することに対する許可として受けとめたとすれば、御法主一人の御大権としての御本尊観に対して、重大なる認識の相違があつたとはいえまいか。もし上人(日達前法主)が当時ありのままを述べられれば、一切の責めは当時宗務当局に及んだことは必定であり、それを深くおもんばかられての御処置(論議禁止の院達と7体の御本尊の奉納)であった」(『宗務院・学会記録文書』5p)

 つまり彼らは、当時教学部長であった日顕の連絡ミスが招いた事態だと述懐しているのである。また日達前法主が、論議禁止の院達を出したり、7体の御本尊の奉納を学会に求めたのも、日顕や藤本〈を〉はじめとする当時の宗務院当局を守るためであったことを明かしているのである。いずれにせよ、学会や池田先生が謝罪しなければならない理由など本当はひとつもなかった問題だったのだ。
(以上「斧節」より引用)

 本項(その一)では、「それは私が知らなかった」との細井管長の言葉が二様に判断できる、と述べた。すなわち、①「失念」と②「責任転嫁」とである。
 ところが上記に引用された文書(『宗務院・学会記録文書』)においては、③「日顕の連絡ミス」が推定されており、それを隠蔽するための諸工作であったとする。
「日顕の連絡ミス」はすなわち、「宗務院当局のミス」であり「管長の責任問題」に発展する。日顕にしてみれば、絶対に真相が漏れてはならない話であり、登座後も藤本や菅野をしばらくは重用していた事実もうなづける。
 ただし学会側としては、以上の話は本来的にありえないはずである。
               ◇
 学会の御本尊謹刻のことは、日達上人は、最初からもうご存じでした。これは日達上人からも、また池田先生からも、私は直接お話を伺(うかが)っているんです。先生からお話を聞いたのは、昭和四十九年の一月でした。
 細谷 それは、御本尊の謹刻を開始する前ですね。
 赤沢 そうです。前年の四十八年の暮れに、学会本部から、「学会の御本尊を何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。
 それで年が明けた一月に、池田先生にお会いした折、先生のほうから「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、〝大事にするためなんだからいいんだよ〟とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。
(『聖教新聞』1993年9月30日)

 今回の妄説に「四十九年当時にも、日達上人が本尊模刻を全く御存じなかったことは明白です」とあるが、上記の通りこの年の一月、池田会長が口頭ではあるが、日達法主に御本尊の御謹刻を申し入れている。
               ◇
 四十九年の秋ごろでした。仕事のことで、大奥の対面所で日達上人とのお目通りがありました。本来の用件が終わって、猊下はいったんお帰りになろうとしたんですが、思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤沢で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。私が「そうです」と答えますと、猊下は「他のもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げると、「うん。池田会長から聞いているよ。あと五、六体やらせてもらいたいと言ってたな」と言われて、部屋を出ていかれたんです。
(『聖教新聞』1993年9月30日)

 四十九年当時、日達法主が学会より申請した御本尊の御謹刻を了承したことは、間違い無い事実であり、その発言内容からして、学会で従来より礼拝してきた御本尊の御謹刻のことと認識していたことは明白である。
 それでは、なぜ「新たに日達上人に板御本尊の御下附を願い出るもの」(『慧妙』)と捉えたとされるのであろうか。
 新たに会館を建設したために御本尊を申請するのであれば、当然に御下付を願い出る話であったろう。だが少なくとも学会本部の御本尊となれば、〝従来より礼拝してきた御本尊の御謹刻〟と認識するのが自然ではなかろうか。
 六十四世水谷日昇管長の書写になる、昭和26年5月19日付の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊を礼拝してきたのに、何ゆえにその学会本部常住の御本尊を仏壇よりお下げして、当職の法主に新たに御本尊を書写してもらう必要があるだろうか。話が不自然である。
 真相は今一つ不明である。だが日達法主には〝二面性〟(自語相違)があることも考えられよう。
 だが結局、御謹刻の件は法主が「論議禁止」とした。それは正信会の若手僧侶による宗内の混乱を収拾するためだけではない、日達法主が学会より御本尊の御謹刻にかかる申請があった際、〝従来よりご安置の御本尊の御謹刻〟と認識したか、〝新たな板御本尊の御下付願い〟と受け止めたのであったか、この点を学会が筋道立てて追及すれば、法主の体面にかかわる問題となったからである。
 法主の胸の内は、遂に究明されないままとなった。
 それにしても、日顕のやり口は汚い。しばらくは先師・日達法主の「論議禁止の院達」を厳守していたものの、学会を破門して後は、すべての御謹刻を〝学会の単独行動による謗法〟と断じたのである。
 悪が己を守るには、他者を悪に仕立て上げるに限る。それは御書に仰せの通りである。

 開目抄下(二二四㌻)にいわく、
「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲(てんごく)に未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂(おも)い我慢の心充満せん、或は阿練若(あれんにゃ)に納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って自ら真の道を行ずと謂って人間を軽賎(きょうせん)する者有らん利養に貪著(とんじゃく)するが故に白衣(びゃくえ)の与(ため)に法を説いて世に恭敬(くぎょう)せらるることを為(う)ること六通の羅漢の如くならん。
 是の人悪心を懐(いだ)き常に世俗の事を念(おも)い名を阿練若に仮(かっ)て好んで我等が過(とが)を出さん、常に大衆の中に在って我等を毀(そし)らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗(ひぼう)して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂(い)わん、濁劫悪世の中には多く諸の恐怖(くふ)有らん悪鬼其身に入って我を罵詈毀辱(めりきにく)せん、濁世(じょくせ)の悪比丘は仏の方便随宜(ずいぎ)の所説の法を知らず悪口(あっく)し顰蹙(ひんじゅく)し数数擯出(しばしばひんずい)せられん」

(悪世の比丘は邪智で、心は諂曲であり、いまだ得ていない悟りを得ていると思い、我慢の心が充満している。あるいは人里離れた閑静な場所に衣をまとい、静かな所で真の仏道を行じているといい、世事にあくせくする人間を軽賤する者があるであろう。私利私欲を得る目的で在家のために法を説いて、その結果、形の上では六通の羅漢のように尊敬されるであろう。
 この人は悪心を抱き、つねに世俗の事を思い、閑静な場所にいるという理由だけで、自己保身のため、正法の行者の悪口を並べ立てるであろう。常に大衆の中にあって正法の行者を毀(そし)るため、国王や大臣や婆羅門居士およびその他の比丘衆に向かって誹謗して、我等の悪を説いて「これは邪見の人であり、外道の論議を説いている」というであろう。濁劫悪世の中には多く諸々の恐怖する事件があり、悪鬼がその身に入ってわれら正法の行者をののしり、批判し、はずかしめるであろう。濁世の悪比丘は、仏が方便随宜の説法をしていることに迷い、経の浅深勝劣を知らず、正法の行者に悪口し、顔をしかめ、しばしばその居所を追い出すであろう)
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:85」を破折する(その一) 連載124回

妄説:85 模刻(もこく)作業に携(たずさ)わった赤沢朝陽の社長は、昭和四十九年秋ごろに「日達上人は数体の御本尊の模刻を承知されていた」(聖教新聞 H五・九・三〇 取意)といっていますが、どうでしょうか。

 最近になって、赤沢氏は「昭和四十九年秋ごろに、日達上人は模刻について承知されていた」と発言していますが、その内容は事実と違います。
 なぜなら、菅野慈雲師の手記には、昭和五十三年一月の日達上人のお言葉として
「今、赤沢朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤沢に行って調べて来るように」(大日蓮 573-77頁)
と仰せられたことがはっきりと書かれているからです。
 これによって、日達上人が本尊模刻の実態を初めて耳にされたのが、昭和五十三年正月のことであり、これを報告したのが赤沢氏本人であったことがわかります。赤沢氏は、学会が秘密にしてきた本尊模刻を日達上人に報告した張本人なのです。
 日達上人が、その後、昭和五十三年六月二十九日に、総本山大講堂で行なわれた教師指導会で、
「学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった」(大日蓮 390-44頁)
と仰せられています。ですから池田大作氏の
「実は『本門事の戒壇は正本堂』という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)だ。板本尊で文化会館の七階の座敷に安置してある」
という昭和四十八年十二月二十九日の第二回御義口伝受講者大会における発言当時はもちろんのこと、赤沢氏がいう四十九年当時にも、日達上人が本尊模刻を全く御存じなかったことは明白です。
 赤沢氏の発言は、実にいい加減なものなのです。

破折:
1.日達法主は〝謹刻〟を事前に了承していた

 聖教新聞誌上座談会での赤澤朝陽社長の証言は、93年9月と97年10月の二回、足掛け四年にわたる。二回とも証言内容に揺らぎが無く、信憑性が極めて高いと納得し得る。
 これに対する宗門の論拠は、上述の妄説にある通り、二点ある。

 第一点は「何体彫刻したのか、赤沢に行って調べて来るように」と細井管長(日達法主)が命じたとあるが、一つは「架空の話」との見解、もう一つは赤沢社長の居ないところで細井管長が言ったとの仮定である。

① 「まったくの作り話」
 赤沢社長の証言からして、細井管長は昭和四十九年当時、池田会長からの御謹刻の申請を了承していたのは明らかであり、それを打ち消すのは「作り話」でしかない。それは座談会で一致した見解である。
 昭和四十九年の一月、口頭で池田会長が細井管長に御謹刻を申請した。
 同年秋ごろ、赤沢氏が細井管長に目通りして本件が終わってから、細井管長より赤沢氏に話しかけ、学会本部の御本尊の謹刻を赤澤朝陽が請け負っていることを承知しており、池田会長から「あと五、六体」の御謹刻の申し入れがあったことをも告げている。細井管長は謹刻を了承していたのである。

② 「正確を期すための配慮」
「赤沢に行って調べて来るように」と細井館長が言ったとあるのは昭和五十三年一月とされる。仮にそうであったとすれば、当時の状況として、正信会の悪侶が熾烈な学会攻撃を行なっていた渦中であるゆえに、細井管長が配慮し〝正確を期すように〟指示した、と受け止めるのが自然である。
 これに対し宗門は細井館長の誠意を逆手に取り、管長が「初めて耳にされた」と恣意的に読んでいることになる。しかし管長が発言したとされる記録(『大日蓮』)を見てもそのように強弁し得る文言では無く、宗門の主張は〝こじつけ〟でしかない。

 第二点の「それは私が知らなかった」との細井管長の言葉もまた、二様に取れる。

① 「失念」
 証言にある通り、少なくとも昭和四十九年中は、細井管長は御謹刻の件を覚えていた。それから四年後、すでに七十歳を超えた管長が失念したとしても、年齢を考慮すれば有り得ることである。だが、それほど大事な用件を失念するのか、と言われてもやむを得ないであろう。

② 「責任転嫁」
 宗門中枢が正信会の若手僧侶達の勢いに押されていた状況下で、細井管長が自らの立場を有利にするために、あえて学会をスケープゴートにしたとの見方である。
 当時の宗内は、正信会僧侶から法主を〝リコールすべき〟との声が上がったほどの、無政府状態に近かった。細井管長は日顕のように宗内に恐怖政治を敷くような性格ではなかったことからすれば、保身のために学会に責任転嫁した、と考えられないことはない。
 だが、法主を名乗る者が五戒の一つ、〝不妄語戒〟を破ったとは思いたくない。前出の「失念」であってほしいが、かつて「正本堂御供養趣意書」に「実質的な戒壇建立」を宣しておきながら、正本堂完成の直前になって「現時における事の戒壇」(=仮の戒壇)と、仏法上の深義を改変したのであり、そうした前歴を有する人である。
 晩年の細井管長は〝気分屋〟の誹りを免れないところがあり、真相は不明である。
 ともかくも、学会は赤誠の外護を尽くしてきたのであり、宗門未曾有の功労者であった。
 一方、細井管長は魔(山崎正友)に魅入られたまま、面授相承すら叶わずに逝去し、「日蓮正宗」の法脈を終焉させた。魔は日顕に深く入って、「日顕天魔宗」を立ち上げた。今の日如は、天魔二世である。

 念仏者追放宣旨事(九五㌻)にいわく、
「毒気深く入つて禁じても改むること無く偏に欲楽を嗜んで自ら止むこと能わず」
               ◇
 高橋 ところで、「院達」では、また御本尊謹刻(きんこく)のことを持ち出しているようですね。
 細谷 〝日達上人に無断で模刻するという非法行為を犯した〟〝日達上人の厳しい御叱責(ごしっせき)を蒙(こうむ)って、総本山にその模刻本尊を納めた〟などと、もっともらしい作り話を並べています。
 辻 事実は、日達上人は明確に了解されていたし、御謹刻した御本尊を本山に納めたのも、宗門側のたっての要請を受け、日達上人を守るために学会が敢(あ)えて譲(ゆず)ったことだ。この前の座談会(本紙九月十五日付)で述べた通りです。
 細谷 そもそも日顕は、御本尊謹刻を正信会が騒いでいることに対して、「日達上人違背の大罪人である。〝触れるな〟といわれたものに触れることは謗法と断じます」と自分で言っていたではないか。
 高橋 全く正信会より何十倍、何百倍も悪いですね。
 秋谷 そう。日顕は、当時の教学部長、総監代務者としてこの件の事情は十分わかっているのです。だから、明らかに嘘(うそ)をついている。そこで、それを明らかにするために、当時、御本尊の御謹刻に、日蓮正宗御用達の仏師(ぶっし)としてかかわった赤沢朝陽社長の赤沢さんに座談会に入ってもらい、当事者として真実を証言してもらいましょう。
(発言者:秋谷会長、辻参議会議長、細谷副会長、斉藤教学部長、高橋婦人部書記長、谷川青年部長 『聖教新聞』1993年9月30日付)

 以下、2項・3項で宗門が引用した聖教新聞(1993年9月30日付)に収載した赤沢氏証言の全容を挙げ、更に4項で宗門への反論として四年後の新聞紙上(1997年10月18日付)で赤沢氏が再度、宗門の嘘を暴く。

2.赤沢朝陽社長が語る御謹刻の真実

 赤沢 はい。赤沢猛です。よろしくお願いします。私どもは、明治四十年に日蓮正宗御用達となって以来、日顕が理不尽にも学会を破門する事態に至るまでの間、宗門の御本尊の御謹刻に関する業務は、一手に引き受けてまいりました。実際に、学会本部の御本尊などを御謹刻したのも私どもですし、その真相もよく知っています。
 高橋 ぜひ、真実を語ってください。
 赤沢 私は立場上、宗門のこと、法主のこと、個々の坊さんのことなど、いろいろなことを知っています。しかし、今までは、私は言わないできました。特に、御本尊に関することは、口外しないできました。
 しかし、御本尊謹刻は、宗門では昔から普通にやっていることです。それを謗法呼ばわりするとは、日顕は全く事実をねじ曲げています。日達上人を無視するやり方にも、とても我慢できません。何よりも、大聖人様に弓を引く日顕は、絶対に許せません。ですから私は、真実を残すために証言させていただきます。
 谷川 よろしくお願いします。御本尊謹刻の経緯の件ですが、当時の日達上人は、どのようにおっしゃっていましたか。
 赤沢 ええ。学会の御本尊謹刻のことは、日達上人は、最初からもうご存じでした。これは日達上人からも、また池田先生からも、私は直接お話を伺(うかが)っているんです。先生からお話を聞いたのは、昭和四十九年の一月でした。
 細谷 それは、御本尊の謹刻を開始する前ですね。
 赤沢 そうです。前年の四十八年の暮れに、学会本部から、「学会の御本尊を何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。
 それで年が明けた一月に、池田先生にお会いした折、先生のほうから「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、〝大事にするためなんだからいいんだよ〟とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。
 高橋 明快ですね。池田先生と日達上人の間で、よく話し合われていたのですね。
 秋谷 そうです。昭和四十九年の初頭に、日達上人と池田先生との間で、御本尊謹刻の件で話があったのは、事実なんです。日顕宗は猊下に無許可でやったなどと嘘(うそ)を言っているが、学会には、猊下に黙ってやらなければならない理由など何一つないわけです。それに、〝大事にするためなんだからいいんだよ〟との日達上人の指南は、まさしく信心が大切であることを示されたものです。ですから、学会の御謹刻というのは、本来、全く間違いはなかったのです。
 赤沢 もう一つ、日達上人が最初から了解されていたことも、私は直接、確認しています。それは、同じく四十九年の秋ごろでした。仕事のことで、大奥の対面所で日達上人とのお目通りがありました。本来の用件が終わって、猊下はいったんお帰りになろうとしたんですが、思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤沢で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。私が「そうです」と答えますと、猊下は「他のもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げると、「うん。池田会長から聞いているよ。あと五、六体やらせてもらいたいと言ってたな」と言われて、部屋を出ていかれたんです。(同)

3.学会攻撃のための難癖

 斉藤 ところで、日達上人の了解もちゃんとあるのに、なぜ、学会は七体の板御本尊を本山に納めたのか、当事者の赤沢さんは疑問に思われたでしょうね。
 赤沢 そうなんです。先日のこの座談会を拝見しまして、宗門からの要請という事情があったことを、私も初めて知りました。当時は、どうしてこのことが問題にされるのか、なぜ、最終的に奉安殿に納めなければならないのか、さっぱりわかりませんでした。いずれにしても、学会を攻撃するための難癖(なんくせ)だろうとは思っていましたが、「一切論議を禁止する」と院達を出したはずの宗門自身が、今回これを持ち出したことに本当に驚き呆(あき)れています。
 細谷 この謹刻のことについて、当時の宗門の見方はどうだったのですか。
 赤沢 いや。それもですね、あれは昭和五十八年暮れでしたが、ある寺の入仏式が終わって、私の車に札幌・日正寺の秋山海学さんら老僧が二人乗って来たんです。その時、二人が「赤沢さん、御本尊模刻のことはどういうことなの。あんたのとこでやったの」と聞くものですから、「ええやりました。猊下も知ってるよ、といわれてましたよ」と答えると、「それじゃあ、問題ないんだなー」と納得していました。
 辻 そうですよ。全く問題はなかったと知りながら、日顕の策謀(さくぼう)に加わっている坊主はとんでもないね。
 谷川 ところで、大宣寺の菅野慈雲などは、御本尊謹刻のことで五十三年一月の初めに、日達上人から「今、赤沢朝陽の社長が年始のあいさつにきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊にしたと聞いた。何体彫刻したのか、赤沢に行って調べてくるように」と言われて調査したなどと言っていますが。これについては、どうだったのですか。
 赤沢 いや。それも全く違いますね。年始のごあいさつは、そのころ毎年しておりましたから、五十三年も年始にうかがったことは間違いありません。しかし、そんな話は出ませんでした。
 高橋 日達上人は御謹刻のことを当初からご存じだったわけですから、そのときにそのような話が出るはずがありませんよね。
 赤沢 菅野住職が、この問題が騒ぎになってから一度見えたことはありますが、それは御謹刻御本尊のあくまで確認だけで、それ以上のことではありませんでした。
 辻 菅野は前回の宗門問題のとき、山崎正友の進言で作られた宗門海外部の部長に、やはり山崎の後押しでついた男です。やったことといえば、宗門のいうことを聞かなければ「日蓮正宗の信徒団体とは認めがたくなる」などと脅しの「海外部通達」を出し、韓国などの海外信徒組織の檀徒化に狂奔(きょうほん)しただけだ。
 細谷 その通達にしても、山崎が書いたシロモノです。結局、海外部長を辞(や)めさせられ、山崎正友の操(あやつ)り人形として策謀に加担しただけの愚かな人間が、今更そんなことを言っても、だれにも信用されませんよ。
(同)

4.赤沢朝陽社長の反撃

 前項の対談より四年が経過し、赤沢氏が再び証言する。
                  ◇
 佐藤 ところで、十月一日付の「大白法」には、当時、日達上人の仲居だった光久諦顕(関東大支院長)がノコノコと登場し、ウソ八百を並べています。
 八矢 私も一読して、思わず噴き出してしまいました(笑い)。よほど四年前の赤沢さんの証言が効(き)いているのね。何ら明快な反論もできずに、ただ「疑点に思います」「信用するのもばからしい」といった調子で、個人攻撃に終始しています。
 森田 そう。所詮(しょせん)、言っていることは、平成四年四月一日付「大白法」に掲載された菅野慈雲(東京・大宣寺)の受け売りだ。これこそ「信用するのもばからしい」言い掛かりばかりだが、せっかく当時の経緯をすべて知っている赤沢さんがおられるわけだから、ここでしっかりと破折(はしゃく)しておいたほうがいい。
 佐藤 光久の難クセの第一は、〝昭和五十三年初頭に、日達上人から菅野に対し、「今、赤沢朝陽の社長が年始のあいさつにきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊にしたと聞いた。何体彫刻したのか、赤沢に行って調べてくるように」と依頼があった。そのこと自体、日達上人が知らなかった何よりの証拠である〟というものです。
 赤沢 前にも言いましたが、この話はまったくの作り話です。第一、年始のあいさつには、私だけではなくたくさんの方が来られています。そんな所で私一人が、しかも御本尊に関する重要な話などできるはずがありません。もしあったと言うなら、その場にいた大勢の人たちが証言しているはずですよ。
 秋谷 そうですね。この光久の話は明らかに矛盾している。だいたい日達上人は、昭和四十九年の段階ですでに御本尊の謹刻(きんこく)については了解されていたんです。それなのに五十三年になって、そんなことを聞くわけがない。これはもうまったく作られた話です。
 赤沢 そうです。それに私は日達上人から直接、最初から了解されていたことを伺(うかが)っています。
 原田 そうでしたね。確か、四十九年の秋ごろ、大奥の対面所で目通(めどお)りした時のことでしたね。
 赤沢 はい。その時、猊下(げいか)は本来の用件が終わり、いったんお帰りになられようとしたんです。それが思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤沢で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。
 八矢 それで赤沢さんは、どうされたんですか?
 赤沢 もちろん「そうです」と答えました。すると猊下は、「ほかのもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げたところ、「うん。池田会長から聞いているよ。あと五、六体やらせてもらいたいと言ってたな。大事なものだから、気をつけてやってください」と言われ、それで部屋を出ていかれたんです。
 秋谷 明快ですね。学会本部常住の御本尊をはじめ、他の御本尊についても、日達上人は昭和四十九年の段階で明確にご存じだったわけだ。まったく光久も無責任な発言をするものだな。
 赤沢 本当にそう思います。こと御本尊のこととなると日達上人は厳格で、必ずそばにだれもいない時に話をされていました。それが役僧であろうと側近であろうと、だれかいる時にはそうした話は一切口にされませんでした。
(『聖教新聞』1997年10月18日付)

 宗門の嘘が、また暴かれた。細井管長(日達法主)及び日顕と、直々に言葉を交わしてきた赤沢氏の証言には、千鈞の重みがある。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:84」を破折する(その二) 連載123回

妄説:84 「お守り御本尊」を模刻することはあるのですか。

「お守り御本尊」は一個人に与えられ、随身(ずいしん)すべき御本尊ですから、板に模刻するなどということは、本宗伝統の化儀に照らして全くありえないことです。
 創価学会会長であった池田大作氏は、自分の「お守り御本尊」を撮影拡大し、勝手に模刻したうえ、昭和五十一年十月二十八日に東北研修所で「この板本尊を永久に東北の守りとして置く」
旨の発言をしました。
 後に日達上人の命令を受けて学会の模刻本尊を調査した菅野慈雲師の手記にも、
「特にお守御本尊を彫刻したことに対して、(日達上人の)お怒りのお言葉があったことを記憶しております」(大日蓮 573-78頁)
と記述されています。

破折:
8.「化儀」とは後付けの儀式(その3)〝変造本尊〟の数々

 宗門の歴史においては、賞与本尊・導師本尊・未来本尊・戦勝祈願本尊等、宗開両祖の教えに無いものを乱発してきた。御書のどこを拝しても、このように変造された御本尊は見られない。

(1)賞与本尊

 日顕の父の第六十世・阿部日開は昭和六年の日蓮大聖人第六百五十遠忌に際して「永代尊号付きの賞与大曼茶羅」「大曼茶羅」というように、寄付金の多募により御本尊に差別を設けて、御本尊を金儲けのために利用した(「御遠忌記念事業費寄附金募集及び賞與規定」より)。
(『フェイク』第1323号 発行=12.09.09)
 
 故・渡辺慈済師は宗門が賞与本尊を乱発してきた史実を明らかにした。
              ◇
 本来、御本尊は信仰の根本であり、拝むためにあるが、いつの間にか大石寺では、賞与御本尊を謝礼として出すから御供養をするように呼び掛けるようになっていた。(中略)
 御本尊授与の精神については、日興上人が、「志(こころざし)有る者には本尊を授与し給ふに時を選ばず」とされていたように、信心の志が何より大事である。
 私が仕えた堀上人も、「私は、御本尊を多く授与しなかった。また、金を出すから御本尊を書いてくれ、と言ってくる檀家もいるが、広宣流布のために認(したた)める御本尊はよいが、お金のために御本尊を授けることはしない」と話されていた。
 ところが、大石寺では賞与御本尊を乱発し、この結果、檀家では一軒で十体も二十体も御本尊を持つようになり、御本尊を単なる宝物としてしか扱わなくなっていた。
 これでは、檀家が正しく信仰できるはずがなく、根本の御本尊の取り扱いがいい加減なのだから、謗法まみれになるのも当然であった。
(『日蓮正宗〝落日の真因〟』渡辺慈済著 発行所:第三文明社)

 宗門の側は、このような「変造本尊」にかかる言い訳を用意している。次は、ネットに掲示された問いとその回答である。
              ◇
 日蓮正宗には、日蓮大聖人、日興上人の教えに則っていない、「賞与本尊」「導師本尊」「未来本尊」「戦勝祈願本尊」等の存在が確認されています。これは日蓮正宗の謗法を証明するものと考えてよろしいでしょうか?(『YAHOO!知恵袋』)

(回答)
 まず、「賞与本尊」に関しては、我々よりも貴方方創価学会池田氏が最も熟知しているはずです。
 正本堂落成当時、時の御法主日達上人が、創価学会の功績を讃えられ、池田氏に特別に授与されたものであることはご存知ですよね。ですから、「賞与本尊」に対する批判派(は)[ママ]、即ち、かの池田氏に対する批判となるのです。
 さて問題は、この「賞与本尊」を池田氏が独断で流用し、御法主上人の許可無く勝手に模刻し、創価学会会館に安置したことで、日達上人から当時厳しい訓戒を受けることとなり、後日、池田氏等の謝罪とともに、総本山に納められており、二度と日の目を見ることなく今日に至っております。
(前出『YAHOO!知恵袋』)

 この事実無根の誹謗に対しては、「妄説:77」で破折してある。

〈正本堂賞与御本尊の御謹刻〉
 〇 昭和四十九年一月二日  池田会長が日達法主より「正本堂賞与御本尊」を賜る
 〇 昭和四十九年一月十六日 赤沢氏が池田会長より御謹刻の依頼を受ける
 「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、〝大事にするためなんだからいいんだよ〟とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」(池田会長より赤沢氏へ)
 〇 同年二月 彫り始める
 〇 同年四月三十日 学会本部に納める

〈学会本部常住御本尊の御謹刻〉
 〇 昭和四十九年九月二日 学会と宗門の連絡会議において、学会本部常住の師弟会館の御本尊が議題に上がる(板本尊への御謹刻の件)

 当時、宗門の教学部副部長であった水島公正が言い出した話では、〝学会が正本堂賞与御本尊を板御本尊にしたいと願い出をしてきたのは昭和四十九年九月二日。ところが、実はそれよりも五カ月も前の四月には彫刻が終わっていた〟とあった。
 だが、この昭和四十九年九月二日というのは、学会と宗門の連絡会議が行われた日のことであり、ここで議題に上がった板御本尊とは、学会本部常住の師弟会館の御本尊のことで、「正本堂賞与御本尊」のことではない。
 またその会議には、当時、総監代務者だった日顕自身も宗門側の責任者として出席しており、日達法主に報告していたはずであり、日顕自身が一番よく知っていることである。
〝嘘を重ねて言えば本当に聞こえる〟、昔ながらの謀略を怠らない宗門である。

(2)導師本尊

 御書に書かれていない「導師本尊」「導師曼茶羅」(天照大神、八幡大菩薩の代わりに閻魔法皇と五道冥官を配し、右上に「即身成仏の印文也と書き、上方の右と左に「毎自作是念以何令衆生」「得入無上道即成就佛身」と書いてある)を身延派の真似をして創作。これを葬儀の際に「故人の成仏に不可欠」などと偽っては、多額の戒名料と併せて金儲けのために悪用。
 なかには御供養、お車代、お食事代に加えて「導師本尊」の使用料を別途、迫加請求する貪欲な坊主もいる。
(前出『フェイク』)

〝授戒文〟(「妄説:81」参照)の文言と同様、御本尊を葬儀用に改変することまで、大石寺は身延を見習ってきたのか。しょせん、宗門は五老僧と共にある。
 ネット上には、次のような宗門側の反論が掲示されている。
              ◇
 次に、「導師御本尊」についても、確かに御書には説かれてはおりません。しかし、貴方方創価学会が、現在唯一の本尊?として拝しておられる日寛上人が「閻魔法皇・五道冥官」をお記しになった「導師御本尊」が現に存在していますが、それは問題なし、とされるのでしょうか?
 創価学会が作製した本尊の「元の本尊」は、日寛上人が大御本尊を御書写なされていますが、日寛上人も「ニセ本尊」を作っていた、と言うことにもなってしまいます。【日因上人書状】も併せて拝読されれば、その真意が見極められるはずであります。
(『YAHOO!知恵袋』回答)

 これは「化儀」と「化法」とを混在させた妄論である。「化法」(仏法の根幹にかかる教法)としての御本尊の意義は不変である。これに対するに「化儀」とは時代の中で発生したものであり、時代が異なればその意義は消滅する。
 日寛上人御書写の御本尊は、本来「化法」であり永遠不滅である。しかし「導師御本尊」の類は、幕府による檀家制度によって付与された権力を後ろ盾にとして成立したのであり、「化法」に酷似させた「化儀」である。それが時代が移ろい制度の崩壊とともにその意義を終えたのであり、今日では〝過去の暦〟と同じものである。
 江戸時代の化儀を現代社会に踏襲しなければならない必要性と、道理は何か、宗門は文証を以て答えられるか。
「導師御本尊」等の依って立つ根拠は、御書に求めることはできない。江戸幕府の権威の下、とりわけ葬儀にかかる導師本尊・未来本尊等、御本尊を〝変造〟せしめ、寺請制度の下でがんじがらめに縛られた檀家に否応なく課し、御供養の元としてきた。
 だが明治維新による瓦解、すなわち江戸幕府による庇護の終了をもって、「導師御本尊」の権威付けの根拠もまた失われたのである。
 宗門は今もってこの悪弊を止めないことが、問題とされているのである。

(3)未来本尊

「未来大曼茶羅」「未来御本尊」(相貌は「導師本尊」「導師曼茶羅」と同じようなもの)を作り、高額の供養と引き替えに渡していた。
 なかでも第六十世・日開は御供養欲しさに好んで書いていた。この「未来大曼茶羅」「未来御本尊」は骨壷の中に入れるものだが、創価学会の戸田第二代会長は、生前の信仰こそが大事であり、「未来大曼荼羅」「未来御本尊」などは不要だと喝破していた。
(前出『フェイク』)

 そもそも御本尊を死体とともに棺に入れることは、日興上人が厳禁されたはずである。

「一、上の如く一同に此の本尊を忽緒(こつしょ)し奉るの間・或は曼荼羅なりと云つて死人を覆うて葬る輩も有り、或は又沽却(こきゃく)する族も有り、此くの如く軽賤する間・多分は以て失せ畢んぬ。」(『富士一跡門徒存知の事』)

(一、五人が一同に、このように、御本尊をおろそかにしているので、あるいは曼荼羅を死体を包んで葬るために使う輩もあり、あるいは御本尊を売却する者もいる。五人がこのように軽んじ賎しんで扱ったので、たくさんの御本尊が失われてしまった)

 五老僧が、御本尊をおろそかにして死体とともに棺に入れた〝不敬の所業〟を為したことにつき、戸田会長が一級講義における質問に対し、次の通り解説した。

「あのころの宗教の風習として、人が死んだら、阿弥陀とか大日如来などを棺の中に入れてやるのです。それで、大聖人様の御本尊も平気で棺の中に入れちゃったのでしょう。まったく愚かな、困った弟子たちです。
 そこで日興上人から 『もったいない、御本尊を全部集めなさい』 という命令が出されて、御本尊を集めたのです。
 こんなわけで、五老僧というのは、題目論はわかったが、本尊論がわからなかったのです」
(『人間革命』第7巻 「原点」の章)

 しかし宗門は、日興上人の御本尊を敬う御精神に応えようとしない。それは五老僧と同じ所為ではないか。
 ネット上の宗門側の言い訳は以下の通りである。
               ◇
 次に「未来本尊」については、長くなります。
【寂日房御書】の、
『此の御本尊こそ冥途のいしゃうなれ』(新編1394頁・御書全集903頁)
という大聖人のお言葉の文義からも、死者の精霊が漫荼羅のお伴をするという意義であります。しかし、これはその時代機に対する「化導の変遷」によるものであり、下種の法体たる金口血脈の一貫せる伝承は万年不動であるけれども、その経過のなかの時と機に対する化導方式には、時代によってある変化が存しているのは当然であります。
 日達上人の代に『教師必携』を新たに作製するに当たり、時代情況から鑑みて、これから以降は行わないということに定められたのであります。ですから、その元の一貫する正しい化導ということにおいての間違いは、いささかも存在しないということとなります。
 また、日興上人の【富士一跡門徒存知事】の、
『曼荼羅なりと云ひて死人を覆ふて葬る輩も有り』(新編1872頁・全集1606頁)
というのは悉く、前後の文から拝しても、『日蓮大聖人御自筆の御本尊』について仰っていることです。つまり、その本義を弁えない五老門流が造仏本尊に執われた結果、大聖人様の御自筆本尊を非常に軽視することとなり、賎しめるという事例を述べられた所であることは明らかです。
(『YAHOO!知恵袋』回答)

 あくまでも日興上人に違背する姿勢を崩さない。「正しい化導ということにおいての間違いは、いささかも存在しない」――時の法主の指示があれば、それに随うのが宗門本来のあり方であるとして、宗開両祖の御遺命を破ることを正当化する、「法主無謬論」の妄説である。
 宗門側が引用した御書について、言及しておきたい。

 寂日房御書(九〇三㌻)にいわく、
「法華経は後生のはぢをかくす衣なり、経に云く『裸者の衣を得たるが如し』云云。
 此の御本尊こそ冥途(めいど)のいしやうなれ・よくよく信じ給うべし、をとこ(男)のはだへ(膚)をかくさざる女あるべしや・子のさむさをあわれまざるをや(親)あるべしや、釈迦仏・法華経はめ(妻)とをや(親)との如くましまし候ぞ、日蓮をたすけ給う事・今生の恥をかくし給う人なり後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし」

(法華経は後生の恥をかくす衣である。法華経薬王菩薩本事品第二十三に「裸者が衣を得たようなものである」とある。
 この御本尊こそ、冥途の恥をかくす衣装であるからよくよく信心されるべきである。夫の膚をかくそうとしない妻がいるだろうか。子供の寒さをあわれと思わない親がいるだろうか。釈迦仏・法華経は妻と親のようなものなのである。日蓮に供養し、身をたすけてくださることは、私の今生の恥をかくしてくださる人であるから、後生は日蓮があなたの恥をおかくしするだろう)

 ここは、御書講義録の解説をもって理解したい。
              ◇
 後生の恥とは、恥というよりも、生命の因果をいっておられると考えられる。他人を意識してのものではなく、自らに対してであり、仏法上の罪福ということである。これは、永遠の生命の法に照らして、今生ばかりでなく、来世にも消えるものではない。しかも、自身の生命に刻印されるので、ひとたび仏法に背いて法華経の信仰を捨てるならば、末永く自身の恥として苦しまなければならない。本抄では一往、わかりやすく、獄卒や奪衣婆・懸衣翁の例を出しておられるが、根本的には、生命の法に対する姿勢をいわれているのである。(中略)
 また「日蓮をたすけ給う事・今生の恥をかくし給う人なり」といわれている。おそらく、この婦人は、大聖人に衣服を御供養申し上げたことがあるのかもしれない。(中略)
 最後に「信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱え給うべし」と指導され、御本尊を受持して生涯、怠ることなく、信心まっとうして唱題していくよう励まされ、本抄を結ばれている。
(『日蓮大聖人御書講義』第14巻)

 大聖人は、おそらく衣服を御供養申し上げた夫人に対し、わかりやすく奪衣婆・懸衣翁の例をもって法華経の「裸者の衣を得たるが如し」の文を説かれているのである。
 だがそれは当然のことに譬喩であり、「後生のはぢ」とは生命の因果を言われている。それは何よりも〝法華経の信仰を捨てる〟等の謗法を犯してきた、過去世の宿業に他ならない。
 宗門の姑息なことは、御文を恣意的に読み、大聖人の御真意を損なうところにある。大聖人が、死者の棺に御本尊を入れるよう述べられたわけがあろうか。邪義に徹した宗門である。

(4)戦勝祈願本尊

 明治三十七年の日露戦争に際し、時の法主・大石日応(第五十六世)は一万体にものぼる「戦勝守護の御本尊」と称するものを作成して売りさばいていた。(明治三十七年四月発行の宗門機関誌「法乃道」より)
 これも日露戦争の時に「皇威宣揚征露戦勝大祈祷會」を挙行し、他宗の信徒も含めて「宗祖大聖人眞筆大御本尊」を一般公開して、そこで得た参拝者の浄財を戦費として軍に献納した。(明治三十七年四月発行の「法乃道」より)
(前出『フェイク』)

 これに対し、宗門側の言い訳が続く。
               ◇
 最後の「戦勝祈願、云々」については、当時の時代背景からも圧倒的な軍事政権下において、総本山大石寺を守る上から、『一国の滅亡を避ける意味』で、日本国の戦勝祈願を行ったことはありました。これは日蓮正宗宗門が、戦争そのものに積極的に協力・加担したという意味ではありません。
 一方では、当時の創価教育学会の出版物の中にも、当時の日本軍の戦果を賞賛する言辞が多数見られます。
 さらには、【通諜(ママ)】戸田城外(城聖)
「学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと(中略)皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱いなき様充分注意すること」(昭和十八年六月二十五日付)
 同様にして、牧口氏、戸田氏の靖国神社参拝等については、どのような弁明がなされているだろうか。
 一方側を非難している「つもり」が、結果的に「自己論理の破綻」に繋がるとは思えないのでしょうか。
 これでは、互いの批判合戦、目糞鼻糞の喧嘩と揶揄されても仕方がないことがお分かりになりませんか?これを「法を下げる」悪しき愚かな所業というのです。
(前出『YAHOO!知恵袋』回答)

 ① 一国の安泰よりも〝一宗の保全〟を優先する宗門

「総本山大石寺を守る上から、『一国の滅亡を避ける意味』で、日本国の戦勝祈願を行った」のであると。「総本山大石寺を守る」のが第一義で、「一国(日本)の滅亡を避ける」ことはそのためにあるのか。
〝世も末〟との言葉があるが、およそ大聖人の御名を宗名にする団体が、これほど〝はらわたが腐っていた〟とは。〝一宗・一派の保全〟を図るのが先で、〝国家・国民の安泰〟は二の次か。
 太平洋戦争勃発の前年は、蒙古来寇の頃と同様に、風雲急を告げる時であった。大聖人は身命を呈して国家諫暁に及ばれた。しかし〝法主〟を名乗る者が軍部政府を恐れ、大聖人の仏法を腐らすに至っては、大御本尊もお許しにならなかったはずである。
 宗門は「難を避ける信心」で軍部の弾圧を逃れたが、所化の失火で本山は大火災となり、時の法主は焼死した。当時の高僧らはこれを〝謗法による罰〟と懺悔したが、宗門としては今なお非を認めようとしない。

 ② 領土拡張のための戦争に加担する法主

 さらに、日清戦争・日露戦争等は、「一国の滅亡を避ける」ための戦争と言えようか。ことに日露戦争は、第三国である中国の地における戦争であり、帝国主義のぶつかり合いであった。覇権を求め他国の版図を切り取る戦争に、宗教者が加担する姿は実におぞましい。大聖人の御事績を辱めてあまりある。
 
 さて今回、宗門はまたも謀略に及んだ。引用した戸田会長の「通諜」とは、学会を落し入れるための捏造文書である。
              ◇
『慧妙』(平成五年六月一日付)が、「通諜」(正しくは通牒)なる文書の報道に、その第一面のほとんどを割いている。(中略)
 日顕宗時局協議会資料収集班一班が、「通諜」を本物と断定して、平成三年の三月と五月に、それぞれ「『神札問題』について」と「日蓮正宗の戦争責任」と題する文を宗内に配布した。
 このとき、創価学会側は、谷川佳樹男子部長名で日顕宛に抗議文を送り、文中、
「すなわち、まず何よりも、『通諜』なる文書の筆跡は、戸田理事長の筆跡とは似ても似つかないほど全く異なるものであり、明らかに第三者の筆によるものであるということであります。しかも、私どもは単に戸田理事長の筆跡ではないというだけでなく、その筆跡が、戦後に入信し、戦前の創価教育学会とは何らの関係もない、ある特定の法華講員の筆跡であるとの確実な証拠を入手しております。
 このことは、『通諜』なる文書が戦後に偽造された謀略文書であるということを、見事に証明して余りある事実であります」
と断じている。これは故なきことではない。このことを、日顕宗の者らは肝に銘ずるべきである。
(『地涌』第666号 1993年6月8日)

 当該文書を、省略せずに見てみよう。
               ◇
 「創價教育學會各理事
  仝  各支部長殿
                 理事長 戸田城外
     通  諜
 時局下、決戰体制の秋、創價教育學會員〈に〉於い〈て〉益々盡忠報國の念を強め、會員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戰ひ抜かんことを切望す。依つて各支部長は信心折伏について各會員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
 一、毎朝天拜(初座)に於いて御本山の御指示通り 皇祖天照大神皇宗神武天皇肇國以來御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し國運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。
 一、學會の精神たる天皇中心主義の原理を會得し、誤りなき指導をなすこと。
 一、感情及利害を伴へる折伏はなさざること。
 一、創價教育學會の指導は生活法學の指導たることを忘る可からざること。
 一、皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれとを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。
                           以上
   六月廿五日」

 引用された文には、上記の第一項目である長文が略されている。『慧妙』および「時局協議会」がこの文書を本物というならば、〝皇祖天照大神皇宗神武天皇〟およびそれに連なる代々の天皇への報恩、そして神を敬い〝國運の隆昌〟〝武運長久〟を祈ることが、初座の祈願目的であると「御本山の御指示」が出ていたとある。
 すなわちこの文書が本物とすれば、戦時中の「宗門の教義違背」を認めることになるのであり、笑うべき話である。
 この怪文書の出所として、『慧妙』の該当箇所を引用する。

「昭和十八年七月六日、牧口会長・戸田理事長・矢島周平氏・稲葉伊之助氏らが逮捕された際、各人の家は特高警察の刑事達によって捜索され、関係資料の一切(この中には、なんと御本尊までが含まれていた)が押収されてしまった。
 稲葉氏宅の場合、この押収資料が返還されることになったのは、ようやく戦後十年も経った昭和三十年頃のことであり、リヤカーを引いて資料の受け取りに行ったということである。
 その折、伊之助氏の娘(荘氏の姉)が牧口氏の息子・洋三氏(戦死)に嫁いでいる、という縁戚関係があったことから、当局より、牧口氏の押収資料も一緒に引き渡され、稲葉荘氏はハトロン紙に包んだ返還資料を二人分(二個口)持ち帰ってきた。……」

 創価教育学会の理事・稲葉伊之助の息子である稲葉荘によると、この中に当該文書があったとする。だが、稲葉の「証言」が信用に価するであろうか。
 戸田会長は、当時弾圧にあって退転した学会幹部等を次のように回顧している。

「投獄せられた者も、だんだんと退転してきた。いくじのない者どもである。勇なく、信が弱く、大聖人をご本仏と知らぬ悲しさである。……
 狂人的警察官、不良の官吏、斎木という特高の巡査になぐられ、いじめられ、ついに死を覚悟して、取り調べのすきをうかがって二階から飛び降りたほど苦しんだ稲葉伊之助氏などは、四か年の刑をおそれて畜生界のすがたであった」(『創価学会の歴史と確信』)

 戸田会長はこの通り、稲葉には特に厳しく評価を下している。その息子である稲葉荘は快く思わず、創価学会より離れ、砂町教会(のちの白蓮院)に依拠した。いうなれば、稲葉荘は戦後の檀徒のはしりである。
『慧妙』は、明らかに戸田会長に怨みを持っていた稲葉荘の「証言」を鵜呑みにしたうえで、悪意による想像をめぐらしているにすぎない。
 決定的なことには、「これも返還された押収資料の一部」と写真説明された『大善生活實證録 第五回總會報告』と題する創価教育学会発行の本の表紙には、「治安維持法違反事件 被疑者 稲葉伊之助 證第二號」との文字がクッキリと読める。ほかにも短冊様の小さな紙が貼られており、押証番号がかすかに読み取れる。
 だが、肝心の「通諜」にはそれらのものはない。すなわち「通諜」は、戦中、押収されたものではなかったのである。
 そして前述した通り、「文書の筆跡は、戸田理事長の筆跡とは似ても似つかないほど全く異なるものであり」、さらに「戦後に入信し、戦前の創価教育学会とは何らの関係もない、ある特定の法華講員の筆跡であるとの確実な証拠を入手しております」との学会男子部長の抗議書には、すでに〝手品のネタ〟は割れていることが明かされている(以上、『地涌』第666号の記事を構成)。
 その後の宗門からは反論など出されておらず、〝ぐうの音も出ない〟有り様である。

 以上、宗門が作成して檀家に課してきた「変造本尊」について考察してきた。宗門の目的はただ一つ、御書にも御自筆の本尊の例も無い〝疑似本尊〟を乱造し、御供養を搾り取ることにある。それが可能であったのは、ひとえに幕府が民衆支配と寺社支配とを相まって操作するための、寺請制度を敷いたゆえである。
 だがそのような温床にあって、檀家の生血を吸い肥え太ってきた宗門の、安逸の時代は遠く過ぎ去った。
 時代に取り残され、折伏弘教の草創の息吹を失い、ましてや民衆救済の理念など放棄して顧みることのない宗門に、在家の弘教に口をはさむ資格などあろうか。それを未だに自覚していないのが、日顕宗である。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:84」を破折する(その一) 連載122回

妄説:84 「お守り御本尊」を模刻することはあるのですか。

「お守り御本尊」は一個人に与えられ、随身(ずいしん)すべき御本尊ですから、板に模刻するなどということは、本宗伝統の化儀に照らして全くありえないことです。
 創価学会会長であった池田大作氏は、自分の「お守り御本尊」を撮影拡大し、勝手に模刻したうえ、昭和五十一年十月二十八日に東北研修所で「この板本尊を永久に東北の守りとして置く」
旨の発言をしました。
 後に日達上人の命令を受けて学会の模刻本尊を調査した菅野慈雲師の手記にも、
「特にお守御本尊を彫刻したことに対して、(日達上人の)お怒りのお言葉があったことを記憶しております」(大日蓮 573-78頁)
と記述されています。

破折:
1.御本尊謹刻は〝信心の発露〟

 御本尊を授与された人が深く感得し、御本尊を大切にしたい気持ちが起こるのは自然の理である。その信心の発露としての御謹刻が、なにゆえ非難されねばならないのか。
 本件につき、宗門側の非難の文言(ネット)では、「お守り本尊を御自身(池田会長)の分身として会員に拝ませていた」とある。これは、
 ① 〝池田会長本仏論〟の根拠とする魂胆であり、
 ② 「随身の御本尊たるお守り本尊を他者に拝ませた」との悪印象を植え付ける狙いがある。
 該当するお守り御本尊は、昭和26年5月3日付、すなわち〝第二代戸田会長の推戴式〟の日付を刻した、六十四世水谷日昇管長の書写である。水谷管長は、昭和26年5月19日付の学会本部常住本尊を書写し、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の脇書きを認(したた)めて授与した、学会有縁の法主である。
 以上より鑑みると、お守り御本尊を謹刻した趣旨は、戸田会長の指揮のもと学会の本格的発展のスタートとなった記念の日の意義を、会員と共有することにあったと理解し得る。
 ただし、「お守り御本尊」を本人以外が拝することは、〝随身の御本尊〟の意義から外れることとなる。よって、あらためて御謹刻申し上げた板御本尊を会員が拝したのであり、筋道は厳格に立てている。
 また「特にお守御本尊を彫刻したことに対して、(日達上人の)お怒りのお言葉があった」とある。そもそも宗門は化儀を「権威」の象徴と見ているゆえに、〝本宗伝統の化儀〟、言い方を変えれば〝在家には勝手に化儀を変える資格は無い〟として抑え込もうとする。
 しかし〝法体は不変〟であり、〝化儀は可変〟である。紙墨(しぼく)の「お守御本尊」を御謹刻すればその化儀は変わっても、法体としての〝相貌〟すなわち〝正意〟に変わりは無い。
 ところが、水谷管長書写になる上記二体の板本尊とも、第一次宗門事件の際には「勝手に模刻」したとされた。細井管長から二代も前の管長が書写した御本尊の御謹刻を、宗門は謗法と捉えたのである。
 
2.御本尊の格護は「個人の自由」

 庶務部長であった藤本日潤のメモには、細井管長の言葉を次の通り伝えている。藤本は役僧のゆえ、そこに記された法主の言葉は、宗門の公式文書に準ずるはずである。

「個人が受けた御本尊だから、その人又は会の宝物だから、どのように格護しようと他がとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは、前からも行なわれている。御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない」(庶務部長・藤本が書き止めた『藤本メモ』より一部抜粋)

 一山の最高権威者たる細井管長の「どのように格護しようと他がとやかく云えない」との言葉を直々に聞き、メモに取った藤本は後になって〝謹刻には「法主の許可」を要する〟として、法主が下した判断の趣旨を改変したのである。

「(御本尊の複写は)御法主が御許可になればよろしいと思います」(「正信会裁判」の証人尋問における藤本の証言。「妄説:88」所収)

 さらに宗門は「御本尊下附願い」などと、従来には無かった書式の存在を言い出した。それ以前に学会が謹刻した御本尊につき、そのような書式が提出できたわけが無く、従ってすべての御謹刻が謗法であるとされたのである。

3.板御本尊の入仏法要を隠蔽

 お守り御本尊を御謹刻した板御本尊は小さなものであり、法要の記録は無い。しかし前述の学会本部常住本尊その他については、第一次宗門事件が起こる以前、宗門僧侶によって法要が営まれている事実が厳然と存する。
               ◇
① 関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊は、昭和五十年十月二十日、大阪・蓮華寺住職の久保川法章以下十一名が出席し、「開眼法要」が営まれた。そのことは、翌二十一日の『聖教新聞』に報じられている。

②・③ 本部三階師弟会館安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊と「賞与御本尊」の板御本尊の入仏法要は、昭和五十年十月二十三日、総監・早瀬の導師によっておこなわれている。このことは翌二十四日付の『聖教新聞』に報じられている。

④ 創価文化会館内・広宣会館の板御本尊については、昭和五十年十一月十七日、学会本部師弟会館において総監・早瀬の導師で「牧口初代会長三十二回御逮夜法要」がおこなわれた際、総監・早瀬が、広宣会館の板御本尊の入仏法要をおこなっている。

 昭和五十二年十一月九日には、学会創立四十七周年慶祝法要のために創価学会本部を訪れた細井管長他六名が、師弟会館安置の板御本尊、「賞与御本尊」の板御本尊、広宣会館の板御本尊の前で、読経唱題をおこなっている。このことは、翌十日付の『聖教新聞』で報じられた。
 宗門側は、創価学会が御本尊を板御本尊として謹刻したことについて、知らないどころか、『聖教新聞』で報じられたものだけでも四体の板御本尊(①~④)について入仏式をおこない、創価学会本部にある三体については、細井管長自らが礼拝していた。にもかかわらず、入仏法要が公然と報道された三体(うち二体は細井管長自身が拝んだ)を含めた七体の板御本尊を、大石寺に納入するよう創価学会側に命じたのである。ただし、「三体」の入仏式というのも、公に報じられた記録にのみ基づくものである。
 これは、どのような事実を示すのか。『聖教新聞』に報道されていない他の四体の板御本尊もまた、報道された三体と同様、正当に謹刻されたものであることを示している。なぜなら「謹刻」の許可が出ていないことが明白であるなら、それだけを棄却させればいいのである。この七体の板御本尊の大石寺への返却はあくまで、創価学会が涙を呑んでおこなった〝外護〟の行為であった。
(『暁闇』北林芳典著 報恩社 発売日2002.12 ①~④の№は整理のため付加した)

 前項で細井管長が「どのように格護しようと他がとやかく云えない」と言った事実をひとまず措いても、「謹刻」の許可が出されていないことが明白のものだけを棄却させれば済む話である。
 それにもかかわらず、細井管長自身が読経唱題した御本尊も含めて、「こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました」と公表した。それは法主自ら真実を隠蔽し、学会を貶める虚言であった。学会は、宗門に陥れられたのである。
 宗門は今なお、板御本尊の法要を勤めた事実は隠蔽し、八体の御本尊のすべてを「勝手に模刻して会員に拝ませた」と捏造し、学会を悪に仕立て上げている。

4.御本尊を縮小した日顕

 学会が「『お守り御本尊』を撮影拡大」したと非難する宗門は、自分たちが「御本尊を撮影縮小」するのは良いのか。
              ◇
 原田 当然のことながら、当時、これらの御謹刻については、何の問題にもなってはいませんでした。学会には宗門に隠れてこっそりやらなければならない理由など何一つなかったんです。
 佐藤 では謹刻の仕方についてはどうですか? 何か宗門側は、紙幅(しふく)の御本尊を写真に撮(と)って、板にしたことが悪いように言っていますが。
 赤沢 そんなことはありません。現に学会本部の御本尊以外にも、保田の妙本寺では十体、日向(ひゅうが)の定善寺では七体ほど、それぞれお寺の御本尊の写真を撮り、謹刻しています。何より日顕自身、広島・正教寺の客殿の御本尊が大きすぎて御厨子(ずし)に入らず、住職に「赤沢に言って、写真を撮ってもらって小さくしろ」と指示を出していたことがあります。
 八矢 まー、御厨子を大きくするんじゃなくて、御本尊を小さくしたの? とんでもない本末転倒(ほんまつてんとう)じゃないですか。
 秋谷 御本尊を単なる〝モノ〟としか思っていない証拠だ。それに比べて学会は、本部常住の御本尊をはじめ数体の御本尊を、将来にわたって大切にお守りするために、板御本尊にしたいと願い出をしたんだ。それに対して日達上人は、「紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」と言われた。それを今さら宗門側がとやかく言うのは筋違(すじちが)いです。
 森田 いずれにしても、これで日顕宗の言い掛かりは完全に総崩れだ(笑い)。
(『聖教新聞』1997年10月17日)

 日顕が〝御本尊を小さくした〟ことは問題がなく、学会が〝御本尊を大きくした〟ことは謗法であると言うのか。つくづく宗門とは勝手なものである。

5.御本尊謹刻は認可済み

 創価学会側が細井管長の許可なく板御本尊に謹刻することなど、当時の信仰観からしてあり得ず、日蓮正宗御用達の仏師である赤澤朝陽が勝手に謹刻することも、またあり得ないことである。
               ◇
 赤沢 その時、猊下(げいか)は本来の用件が終わり、いったんお帰りになられようとしたんです。それが思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤沢で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。
 八矢 それで赤沢さんは、どうされたんですか?
 赤沢 もちろん「そうです」と答えました。すると猊下は、「ほかのもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げたところ、「うん。池田会長から聞いているよ。あと五、六体やらせてもらいたいと言ってたな。大事なものだから、気をつけてやってください」と言われ、それで部屋を出ていかれたんです。
 秋谷 明快ですね。学会本部常住の御本尊をはじめ、他の御本尊についても、日達上人は昭和四十九年の段階で明確にご存じだったわけだ。
(『聖教新聞』1997年10月18日)

 池田会長および赤沢朝陽社長が口頭で法主の許可を得ただけでなく、学会として正式な申し入れも行なっていた。
               ◇
 昭和四十九年九月二日、大石寺雪山坊において、学会と宗門の連絡会議がおこなわれ、創価学会本部に安置されている御本尊を謹刻する件につき、細井管長の許可がおりた。(中略)
 同様に、創価学会が勝手におこなっているとして、のちに問題にされた「ペンダント型お守り御本尊」についても、同年十一月二日、阿部教学部長を通して、創価学会側に細井管長認可の伝達がなされている。
(前出『暁闇』)

 ただし、細井管長が自ら許可した事実を失念することはあった。そのことは「『妄説:83』(その一)」における赤澤朝陽社長や学会幹部の証言から、明らかである。
 日顕をはじめとして宗門坊主の言うことは「信用するのも馬鹿らしい」言い掛かりばかりである。彼等の妄説は、聖教新聞の座談会でそのつど破折されている。

6.「化儀」とは後付けの儀式(その1)〝五座・三座の勤行〟

 宗門は「本宗伝統の化儀」と言うが、化儀とは時代の推移によって後付けされたものである。「化法」すなわち仏法の根幹にかかる教法とは、意義を全く異にする。
 今、創価学会が弘め行くのは「化儀の広宣流布」である。〝御本尊を安置し、南無するという儀式〟のことであり、これこそ〝本来からの化儀〟であって、宗開両祖の御指導の通りである。
 しかし、宗門の坊主は檀徒に対して〝本来は無かった化儀〟に従うことを強要し、他は知る必要も無いから、僧侶の言うことだけ聞けばよい、とする。
 ここで宗門の言う化儀とは――。
 まず古い例として、五座・三座の勤行である。かつて大石寺境内の各伽藍を巡り、それぞれの場所で勤行をした慣習に由来する。
 日興上人当時の、僧侶が率先垂範し折伏弘教に当たった時代が過ぎ去り、四世日道、五世日行の頃の宗門は、日道に反目した日郷を相手取り寺領の相続問題に明け暮れ、草創の時代の息吹を失い、大石寺は衰退していった。
 教団経営の必要上、九世日有師以来、有力者の子弟を教団の貫首に推戴する「稚児法主」の時代が、以来何代にもわたった。この有力者の庇護のゆえにか、十二世日鎮のとき堂宇伽藍が整足した。
 九世日有師が折伏弘教に尽力した記録が伝わるものの、子供がいきなり教団の長となる体制(十二世日鎮は14歳、十三世日院は10歳で登座)では、教団内に覇気が生ずるはずは無く、僧侶が折伏を行ずることは絶えて無くなった。
 折伏しない坊主は暇であるゆえ、勤行に延々と時間をかける。しかし一か所で行なえば、足に痺れが来る。それには五座・三座の勤行が恰好であった。境内の堂宇伽藍を巡って、そこで勤行を行い、また次の伽藍に向かい勤行する。そうすれば痺れも切れず、運動にもなる――。宗門と離別した今日、その謂われを知れば、何たる黒歴史であったことかと、慨嘆の念を禁じ得ない。
 五座・三座の勤行は、〝形式のみを重視する化儀〟の象徴であり、折伏弘教をしない坊主(十二世日鎮、以下代々)の〝怠惰を隠すためのアリバイ作り〟がその謂われであった。
 方便品・寿量品読誦の助行に時間を割けば、肝心の正行たる唱題は相対的に少なくなる。宗門では法華経読誦に比する唱題の地位は低い。〝唱題は信徒が唱えるもの〟と、坊主が卑下するはずである。
               ◇
 大奥にも仏間があり、板御本尊が安置されている。ある日、宮内はやはり僧侶として自分を成長させねばならないと思い、その仏間で唱題をした。十分ほど唱題していると突然、奥の部屋にいた日顕が仏間に入ってきた。
「おい! コラッ!」
 日顕は目をつりあげて自分を睨んでいる。宮内はきっと唱題の声が大きくて、日顕の邪魔をしたのではないかと思った。しかし、そうではなかった。
「お前! 何を馬鹿なことをしてるんだ」
 宮内は自分の耳を疑った。日顕が「唱題」を「馬鹿なこと」と言ったのだ。
「いいか! 唱題なんていうのはな! 信者がやることだ!」
 宮内は唖然としてしまった。『御義口伝』には「今日蓮等の弘通の南無妙法蓮華経は体なり心なり廿八品は用なり廿八品は助行なり題目は正行なり正行に助行を摂す可きなり」とある。僧侶は大聖人の弟子である。ところが日顕は末法の正行である題目を唱えることを「馬鹿なこと」と罵り、「信者がやること」と見下しているのだ。
(『実録小説 大石寺・大坊物語』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)

7.「化儀」とは後付けの儀式(その2)〝僧侶による葬儀、戒名、塔婆〟

「本宗伝統の化儀」の「伝統」とは、そのすべてが信仰上の正しい理由、宗祖の教義に基づくもの、と言うことにはならない。
               ◇
 日本の仏教寺院は、徳川幕府の時代に民衆支配のための末端機構として組み込まれた。それが「檀家制度」である。この制度の目的はキリシタン禁制であり、幕府は全国の民を強制的にいずれかの寺院の檀家とし、キリシタンであるか否かを判定する権限を寺院に与えた。もし、キリシタンと見なされれば本人はもちろんのこと、一族が罪人とされる。寺院はキリシタンでないことを証明する「寺請証文」を出す権限を持ち、僧侶が民衆の生殺与奪の権力を握ることとなった。
 この檀家制度はさらに宗教儀礼と結びついていく。そこで利用されたのが「宗門檀那請合之掟」である。これは偽造された文書であったが、幕府の命令であると徹底され、〝盂蘭盆・彼岸・先祖の命日などに寺に参詣しないものはキリシタンと見なして役所に届け出る〟などと定められた。寺院は年忌法要を行うための台帳として過去帳を作成し、民衆支配の体制を作り上げていった。当時は布教が実質的に禁止されていたため、寺院が行うのは葬儀・法要などの儀礼だけとなり、寺院は檀家からの収奪によって生活が安定し、僧侶の腐敗が急速に進んでいった。
 大石寺の化儀の多くはこの檀家制度の名残であると言っても過言ではない。事実、宗門は今でも僧侶による儀式執行が成仏に不可欠であると主張している。
(前出『実録小説 大石寺・大坊物語』)

 仏教が形骸と化したのは、大石寺宗門も例外ではない。宗門が「伝統の化儀」などと言う僧侶による葬儀、戒名、塔婆などは、ほとんどは江戸時代に成立した、御供養収奪のための化儀である。また、檀家はそれを拒否できなかった。
 御供養は別名「つけ届け」と言う。江戸時代檀家にされた大石寺塔中坊の檀家は、御供養のことをいまでもこのように呼ぶのである(『地涌』第152号 1991年6月1日)。
 時代が下って明治の世となり〝肉食妻帯お構いなし〟となれば、僧侶と言っても袈裟を〝業務用スーツ〟とするサラリーマンの一形態である。袈裟と禿頭以外、在家と変わるところはない。
 逆に在家の側は、もはや江戸時代の俗男俗女ではない。宗門の〝秘伝・相伝〟の類は学会の出版事業によりすべて開示され、多くの学会員の修学するところとなっている。信心・学問の上では、僧俗の位置が逆転しているのが現状である。
 その現実を直視せず、何百年も檀家の上に胡坐をかいてきた坊主の頭の中は更新されないゆえに、御本尊の意義に在家が意見を述べる等のことには、〝僧侶の沽券〟に係わるとして、いきり立つのである。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:83」を破折する(その五) 連載121回

妄説:83 「本尊模刻(もこく)事件」について簡単に説明してください。

「本尊模刻(もこく)事件」とは、昭和四十八年頃より創価学会が、学会や池田氏個人に下付された紙幅御本尊を、勝手に模刻して会員に拝ませた事件です。
 当時模刻された本尊は次のとおりです。 
 ①学会本部安置本尊
    (大法弘通慈折(じしゃく)広布大願成就・六十四世日昇上人)(S二六・五・一九)
 ②関西本部安置本尊
    (六十四世日昇上人)(S三〇・一二・一三)
 ③ヨーロッパ本部安置本尊
    (六十六世日達上人)(S三九・一二・一三)
 ④創価学会文化会館安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四二・六・一五)
 ⑤学会本部会長室安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四二・五・一)
 ⑥アメリカ本部安置本尊
    (六十六世日達上人)(S四三・六・二九)
 ⑦賞本門事戒壇正本堂建立本尊
    (六十六世日達上人)(S四九・一・二)
 ⑧お守り本尊
    (池田大作授与・六十四世日昇上人)(S二六・五・三) 
 このうち、①の御本尊だけが、日達上人より許可され、現在も学会本部に安置されています。しかし他の七体は、日達上人から叱責(しっせき)されて、直(ただ)ちに総本山へ納められました。
 この事件は、昭和五十三年十一月七日に、総本山で開催された「創価学会創立四十八周年記念幹部会」で、辻副会長が「不用意に御謹刻(きんこく)申し上げた御本尊については、重ねて猊下の御指南を受け、奉安殿に御奉納申し上げました」と発表し、公式な立場で認めています。

破折:
13.〝掌中の珠〟を失った山崎

 昭和五十四年七月十九日、細井管長の娘婿である東京国立・大宣寺の住職・菅野慈雲から山崎正友に連絡が入った。先月の六月二十一日に、細井管長が突然体調を崩したのだが、その容態が急激に悪化したのである。富士宮市の病院に緊急入院することとなり、診察の結果、心臓には異常がないが腸の動きがにぶいとのことであった。
 経過は浜中和道の『回想録』に生々しく綴られている(本項は『暁闇』〈北林芳典著 報恩社 2002年12月〉をもとに構成)。

「翌二十一日の夜遅くなって、山崎氏から電話があった。
『今、猊下のお見舞から帰ったよ。いやあ、一時はどうなるかと思ったけど、もう大丈夫だよ。猊下が菅野さんと光久さんにも、〈もう休むから、帰れ〉とおっしゃったから、みんなで一緒にお部屋から引き上げたんだよ。あとは猊下の奥さんが泊まられることになったよ』
 私はそれを聞いて胸を撫で下ろした。山崎氏は受話器の向こうでひと呼吸おくと、話を続けた。
『それでね、猊下が奥番に、〈明朝、どんなことがあっても本山に帰るから、大奥の対面所に布団を敷いておけ〉と言われて、菅野さんと光久さんの二人に、〈その時、必ず、来い〉と言っておられたけど。和道さん、どう思う?』
 山崎氏は緊張した声で言った。
『それは間違いなく御前さんは、血脈相承をなされるつもりだよ』
 私は自分でも声が上ずっているのを感じた。山崎氏も慎重な声で、
『うん、僕もそう思うんだよ』
 と答えた。私は、
『御前さんが対面所に来いと言ったのは、旦那と御仲居さんの二人だけなの? 他に誰か呼ぶように奥番とか御仲居さんに命令しなかった?』
 と尋ねた。山崎氏はきっぱりとした口調で、
『うん、二人だけだよ』
 と言った。
『それじゃ、御前さんは御仲居さんか旦那さんのどっちかに相承するつもりだよ。そして一人を立ち会いにするつもりだよ』
 山崎氏は、
『二人の中でどっちに猊下はあとを譲る気かな? まあ、明日になればわかるよ。ともかく僕も疲れたから、ひと眠りするよ。そして明日の朝、また本山に行くよ』
 と言うと電話を切った。
 私も高ぶる胸を押さえて布団にもぐり混んだが、目が冴えてなかなか寝つけなかった。真っ暗な中で鳴り響く電話の音で目が醒めた。時計を見ると、もう午前二時を回っていた。電話は山崎氏からであった。山崎氏の声は緊迫していた。
『今、猊下の奥さんから電話があって、猊下の容態が急変したらしい。〈至急、日野原先生に連絡を取ってくれ〉って。日野原さんも〈病院にすぐ行く〉って言っていたけど、どうも難しいみたいだよ。僕もすぐ今から病院に行くよ。光久さんはもう病院に向かったらしいけど、大宣寺には連絡が取れないんだって』
 私はいっぺんで目が醒めてしまった。しかし、九州にいる私は、動きようもない。私は起き出して茶の間に移動した。茶の間ではたまたま伝法寺に遊びに来ていた私の両親と、両親の友人で今年の五月に亡くなった長万部・説道寺住職の大藪守道師の奥さんが寝ていたが、三人とも〝何事か〟と目を覚ましていた。
 私が、
『どうも、御前さんのお身体の調子が悪いみたいなんだ』
 と言うと、みんな驚いて起き出した。私は病身である父を気遣って、
『いいから、みんなは休んでいてよ』
 と言ったが、私が茶の間の電気を点け、電話の前に陣取っていては、とても寝れたものではなかったであろう。それでも三人は布団をかぶり眠ろうとしていた。
 茶の間の時計の音と自分の心臓の鼓動とが同時に響いているようであった。私の両親と大藪さんの奥さんは布団から半身を出して眠るのを諦めていた。三人とも心配そうな表情で身動きしないでいた。みんなそれぞれ、
『猊下様は大丈夫なの?』
 と尋ねたが、無論、私に答えられるはずはなかった。
 電話が鳴った。飛びつくように受話器を取ると山崎氏からであった。
『和道さん……』
 と言う悄然とした声の調子に、私は日達上人の身が朽ちられたことを感じた。
『猊下は亡くなられたよ。間に合わなかったよ。医師が心臓マッサージとかいろいろしたけど、ダメだったよ』
 私は、
『あとのことはどうなったの?』
 と尋ねずにはいられなかった。山崎氏は、
『わからないよ。光久さんもがっくりしてるよ。僕もどうしたらいいかわからないよ。今から御遺体を本山に帰すために、みんなバタバタしてるよ。とりあえず僕も東京に帰るよ』
と言って電話を切った」
(浜中和道『回想録』より一部抜粋)。

 山崎正友が浜中和道に話したところによれば、
「猊下の直接の死因は、腹が固くなって割れた」(浜中和道『回想録』)
ということだった。
 日顕の登座後、山崎は早くも日顕の取込みにかかる。この工作は一時は成功し、山崎も気をよくして、細井管長に出したような密書を作成する。
 しかし、墓地の利権をあからさまに狙ったこの企みは頓挫する。九月二十五日、山崎は日顕より大石寺において、
「あんたは大ウソつきだ。あんたを絶対、信用しない」
「こちらからいいと言うまで、本山に来ることはまかりならぬ」
と怒鳴られる。この日の夕方、山崎は浜中に電話を入れている。
「あの野郎が猊下なものか。和道さんも知ってるでしょう。日達上人が亡くなる前には、あいつには相承する気がなかったってことは」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
「あの野郎は、俺がそのことを知らないと思って、法主面しやがって、今に見てろって言うんだ……」(同)
 それから十年余を経た平成二年末、日顕は創価学会を切り崩すため「C作戦」を企み、それを実行に移す。翌年一月、日顕が山崎に、
「あの時はウソつきと言って悪かった。かんべんして下さい」
と伝えたのである。
(『暁闇』より)

 日顕、山崎とも、果てしなく人を欺いてきた者共である。人並みの〝矜持〟など、持ち合わせるはずも無い。共に創価学会を敵に回したからには、〝昨日の敵は今日の友〟であった。

14.収監される山崎

 山崎は昭和五十五年、創価学会を恐喝し、三億円既遂、五億円未遂の容疑で一審(昭和六十年三月二十六日)、二審(昭和六十三年十二月二十日)とも懲役三年の実刑を言い渡された。長年、顧問弁護士として創価学会の信任を受けながら、それを逆手にとって依頼主を恐喝したのである。
 収監は平成三年二月二十五日だったが、その四日前の二月二十一日夜、新宿近辺の住宅街にあるスナックで、正信会の浜中、亀田成文らと送別会をしている。
 正信会の浜中和道(現・大分県竹田市・伝法寺住職)が著した『回想録』(平成十二年発行)によると、この送別会の翌朝、山崎はホテルニューオータニで待っている浜中のもとに行って、次のような重大な告白をしたという。

「『これは和道さんだから言うけどね。実はね、僕は阿部さんの血脈相承を認めちゃったんだよ』
 山崎氏は唐突に話を切り出した。私が、
『えっ?』
と訊き直すと、山崎氏は私を正面に見据えて、
『だからね。僕は学会を倒すために、阿部の懐に飛び込んだんだよ。そうしたからこそ、今、学会と宗門が喧嘩別れしたんだよ。わかるでしょう?』
と言った。私は首を縦に振った。
『勿論、僕は今度、原田さんにお世話になるから、善福寺の信者だよ。正信会だよ。でも正信会の信者であっても、日蓮正宗の信者には変わりないでしょう。その日蓮正宗の敵の学会を倒すために、今は阿部さんの猊座の権威が必要なんだよ。僕は、正信会はどんなことがあっても宗門に復帰すべきだと思うんですよ。このままじゃ、立ち腐れだもんね。それで正信会のために、共通の敵の学会と戦うために、阿部さんと連携したんだよ。そしたら阿部さんは素直に〈俺が悪かった。池田に騙されていた〉って、僕に謝って、〈正信会に悪いことをした〉って言ってきたんですよ。だから僕も阿部さんを許す気になったんですよ。そしたらね、阿部さんから、〈頼むから、俺に血脈相承があったってことを認めてくれ〉って言ってきたんだよ』
 私は口をはさんだ。
『だって阿部さんに相承がないのは事実じゃない』
 山崎氏は手を振りながら言葉を続けた。
『それはそうかも知れないけどさ。相承があってもなくっても、もう猊下としての既成事実が出来上がってるんだから、しょうがないじゃない。今、それを論じるんじゃなくて、どうすれば池田を潰せるかってことを考えるのが先でしょう。僕の役目はそれであって、あとは正信会の皆さんが宗門に復帰してから、宗内の問題として整理すればいいでしょう。僕は僕の役目、皆さんは皆さんの役目を果たしましょうよ』」
(浜中和道『回想録』より一部抜粋)

 ここで山崎は浜中に、獄中にいる自分と日顕との極秘の「パイプ」役二名の名を明かす。一人は日蓮正宗海外部書記をしていた福田毅道。そしてもう一人は、反創価学会ライターの段勲である。段は本応寺住職・高橋公純の弟で、この二カ月前に日顕と「目通り」をした人物である。

「さあ、これで安心して刑務所に行けるよ。和道さん、宗門と学会はこれからますますドンパチやるよ。マスコミも学会を徹底してやりますよ。僕があちこち仕掛けといたからね。僕がいない間も、皆さん、退屈せずに済みますよ。原田さんも僕のことを『任しておけ』って約束してくれたからね。ゆっくり刑務所で療養しとくよ。出てきてからが、また勝負だからね。三年って言うけど、早ければ二年ぐらいで出てきますよ。それじゃ、和道さん、元気でね。出てきたら一番、真っ先に連絡します」
(浜中和道『回想録』)

15.山崎正友の末路

 山崎は刑務所を〝療養所〟と勘違いしたようであるが、実際の塀の中は甘いものではない。世間知らずの僧侶と、お人好しの度が過ぎた学会とは騙せても、司直の厳正な裁きとその執行から逃れるすべはなかった。あたかも帝釈に追われた阿修羅が小さくなり、蓮の穴に隠れたかのような姿と成り果てたのである。
 以下は、山崎の泣き言である。

「本来なら、八王子の医療刑務所で寝て暮らしてもおかしくない病状である。それが、どんな政治的圧力か判断か知らないが、通常の刑務所に送られてしまった。四ヵ月近い入院治療の後、スパルタ式の教育訓練をほどこされ、身体はむくみ、息もたえだえになった。
 これ以上きつい仕事をしたら、私は確実に死ぬ。そうとわかって無理強いするなら、それは自由刑であるべき懲役ではなくて、事実上生命刑たる死刑に等しい」
(山崎正友著『平成獄中見聞録』)

「冷たいコンクリートの部屋で、鉄窓のすきまから吹き込む那須降ろしにふるえ、朝、十センチ以上も盛り上がった霜柱を見ながら、手袋もはめずに指を伸ばして行進させられたら、風邪をひかぬ方がどうかしている。東京より、確実に五度以上気温の低いところで、満足な防寒衣も着せられず、舎房の暖房もほとんどないに近い。食事も、減塩、タンパク制限といった療養食など望むべくもない。そういう状態で、風邪をひいて熱を出しても、痛風発作で足がうずいても、まず休むということは許されない」(同)

 一時は細井管長を掌中の〝玉〟と握り、筋書通り学会を宗門に隷属させ、細井管長より「先生」と呼ばれ、得意の絶頂にあった山崎。
 だが魔の跳梁は、長くは続かなかった。山崎は細井管長の急逝を境に、一気に坂を転げ落ちて行った。挙句は〝後生〟の予行演習にまで行ってきたのである。

 新池御書(一四三九㌻)にいわく、
「かかる悪所にゆけば王位・将軍も物ならず・獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず」

(そのような死後の苦悩の世界に行ったときには、王の位や将軍もものの数ではない。獄卒の責めにあっている姿は猿回しの猿と異なるところがない)

 これが、あっちに付いたり、こっちに付いたりして、欲望の赴くまま和合僧を破壊してきた男の末路であった。
                           (了)
 

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Author:墨田ツリー

 
 
 

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