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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:75」を破折する 連載108回

妄説:75 「御本尊根本の信心」や「広布を目指す信心」があれば、誰が本尊を複製してもよいのですか。

 そのようなことは絶対にしてはいけません。
『本因妙抄』に
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)
と教示されているように、戒壇の大御本尊の護持ならびに御本尊の書写と授与など御本尊に関する一切の権能は、唯授一人血脈付法の御法主上人に限るのです。
 学会でいう「御本尊根本の信心」とは本書三一項に破折してあるとおり、「大聖人直結の信心」ということと本質的に同じことです。これらはともに本来の日蓮正宗の信心ではありません。
 また「広布を目指す信心」とは本宗の僧俗が常に心がけなければならないことですが、だからといって「広布を目指す信心」があれば御本尊を複製してもよいということにはなりません。これも本書六七項に破折しているように、衆生の「観心」と本仏の「本尊」とを混乱した邪義というべきです。

破折:
1.〝責任放棄の法主〟は用いず

 広宣流布の本義とは、日蓮大聖人及び日興上人の御教示通りの法門を受け継ぎ、本尊流布することにある。

「一、富士の立義聊(いささか)も先師の御弘通に違せざる事」(『日興遺誡置文』)

 ところが当代の法主が「悩乱」し、本尊下付が行なわれなければ、広宣流布は不可能であり、大聖人の御遺命を果たすことはできない。
 法主が「正気」に戻らないときは、いつまでも本尊流布は叶わないこととなる。それでは大聖人の仏法西還の御予言は、虚妄となってしまう。

「志有る者には本尊を授与し給ふに時を選ばず」(御開山日興上人『富士宗学要集』第五巻 一七五頁)

 御本尊授与を躊躇していては、広宣流布を達成することはできない。よって「時を選ばず」と仰せである。
 法主が御本尊を広布の主体者たる学会員に下付せず、停止するということは、法主としての〝自らの責務を放棄〟することを意味する。それは大聖人に対する違背であり、〝師敵対〟に他ならない。
 ここに到り、我らは日興上人の仰せ通り実行するものである。

「一、 時の貫首(かんず)為(た)りと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(『日興遺誡置文』)

 責任を放棄した法主が正気に戻るのを待ってはいられない。悩乱法主の介抱は宗門に任せる。我らは、大聖人、日興上人の仰せ通り、正しい御本尊を流布することを決意したのである。
 広宣流布の主体者は、創価学会である。それ以外に、広布を実現する者は誰人もいない。

2.宗門の根拠は〝空証文〟

 宗門・法華講は、「御本尊に関する一切の権能は、唯授一人血脈付法の御法主上人に限る」などの戯言の根拠を「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」との一節に求める。
 これをもとに「学会はいかに『文証』を無視しているのか」等と誹謗するが、これが『文証』と言える代物と言えようか。
 何度でも言うが、この『本因妙抄』の末文は、「後加文」すなわち〝後世の加筆文〟であって、日蓮大聖人、日興上人がお認(したた)めの御文ではない。いつ、誰が書き込んだものかも知れぬ〝後世の書き込み〟を有難がり、「文証」などとは笑止千万である。
 文証そのものが〝怪しげ〟であれば、「御本尊に関する一切の権能」も、「唯授一人血脈付法の御法主上人」も、なべて〝怪しげ〟となる。宗門にはそのような〝空証文〟しか権威の根拠が無いとは、哀れな話ではないか。
 法主とは「怪しげなものを纏った裸の王様」であったとは。御伽噺(おとぎばなし)の世界に居るだけでは無かったのである。

3.「一重線」が引かれた箇所は〝正当ではない〟

 宗門・法華講は「後加文」を指摘されると、たちまち居直り、次のような〝悔し紛れの暴言〟を放つ。
              
「大聖人御真筆ではないが義に於いて正当であるが故に『一重線』であり、創価学会員が用いる御書全集にも掲載されているのである。もし、今更この邪難をなすのであればまず先に自分の御書全集の当該箇所を破り捨てるべきである」

 御真筆でないことが明確なゆえに「正当ではない」、この論理のどこが「邪難」であるか。そもそも「義に於いて正当である」とは何を基として言うか。堀日亨法主は次の通り記した。

「後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり」

「支吾なき所」(差し支えない)と、「正当」とでは、その意義は同じではない。〝差し支えない〟とは、「正しくはないが、追認する」程度の意味である。宗門や法華講が、どう言葉の意味を誤魔化そうとしても、無駄である。
『本因妙抄』の末文は「正当ではない」ゆえに、日亨師は御書全集における他の御文に比して、ひときわ小さな活字としたのである。これだけの区別が日亨師により施されておきながら、どこが正当と言うか。

4.信徒支配の具――〝後加文〟

 それでは何ゆえに『本因妙抄』の末文は、最初から御書全集より削除されなかったか、そこを考えてみる。
 まず、御書全集はあくまで学会員である信者のための御書である。思うに日亨師は、信者が読むに益する箇所(凡例五㌻に「信行に資するもの」とある)は、通常の大きさの活字、その意義の無い箇所は、通常より小さい活字にしたものと推定しうる。
 信者が読んで意義が有るなら、読みにくい小さな活字にする道理が無い。すなわち、通常の大きさの御文は、信者向けの〝御書学〟の対象であり、小さな活字の箇所は、〝宗学〟を維持するためである。
 宗学とは、あくまで宗門の権威擁護のためにあり、他宗他派を牽制するものである。日亨師は宗門の一員として、宗学を遵守する立場にある。『本因妙抄』の末文は、宗門が大石寺の唯一絶対性を声高に唱えるところのものであるが、信者の「信行に資するもの」では無い。よって信者向けの御書全集における末文の立場としては、「正当ではない」のである。
 前項で誹謗した者は〝宗門の手先〟であろう、「まず先に自分の御書全集の当該箇所を破り捨てるべきである」と言うが、それは彼が所有する御書全集であれば、破こうと捨てようと、好きにすれば良い。学会員でなければ、どのような不敬行為もあり得る。宗門・法華講らしく不遜であり、彼らに見合った境界である。
 しかし我ら学会員は、御書全集を破損することはない。なぜなら、日亨師が本文と後加文とを分別した、当時の御苦労をしのぶことができ、また宗門がこの末文を押し立てて信徒支配の具にしようとした、〝天魔の企み〟をも知ることができるゆえである。
「信徒支配の空(から)証文」には、もはやだまされない。

5.〝法主直結の信心〟――日顕宗の迷妄

 宗門の妄説をそのまま引用すると、「学会でいう『御本尊根本の信心』とは本書三一項に破折してあるとおり、『大聖人直結の信心』ということと本質的に同じことです。これらはともに本来の日蓮正宗の信心ではありません」と。
 当方こそ「妄説:31」で破折したはずであるが、もう一度言っておこう。彼等は「日蓮正宗の信心」を捨て、〝日顕宗に衣替え〟したゆえに、「御本尊根本の信心」「大聖人直結の信心」をも捨てたのである。そうであるから、彼等は次の通りうそぶく。
             
「御入滅あそばされた大聖人への直結を言い出したら、これはまさに大謗法であり、地獄に堕ちる」「現実問題として、直接の師を仰がなければ、身を低くして弟子の道を歩む――ということはできません」(『慧妙』2012年12月16日付)

 彼等ははっきりと大聖人に決別し、法主への忠誠を誓う。だがそれは、大いなる禍を呼び込むこととなる。

「根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし」(一〇五五㌻)

「根源の師」とは日蓮大聖人の御事である。〝直接の師〟に心をうつす、これが法主信仰である。

「我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり」(一八一㌻)

「唯(ただ)人師の釈(しゃく)計(ばか)りを憑(たの)みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり」(四六二㌻)

 御書にない邪義は、仏説に背く「天魔の説」である。日顕宗の説くところは典型的な妄説であるゆえに、大聖人は多くの御文を用いられ、明快に破折される。
 御本尊は御照覧である、日顕宗が奈落への道をひたすら歩み続けていることを。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:74」を破折する(その二) 連載107回

妄説:74 現在の創価学会は、本当に日寛上人の御精神に適(かな)った教団なのですか。

 創価学会では、
「日寛上人が生涯をかけて築かれた信心の遺産の全て」は「創価学会のためにあった」(大白蓮華 五一五-四二頁)
といって、日寛上人をあたかも学会のシンボル的存在として宣伝しています。しかし、現在の創価学会は日寛上人の御精神に背反(はいはん)しております。その例をいくつか挙げてみましょう。
 第一に、学会では、三座の報恩謝徳の観念文から日寛上人をはじめとする御歴代上人を削除していますが、日寛上人は『福原式治状』の中で勤行の観念について、「第三座は十如・壽量、祖師代々」と記されており、総本山大石寺の歴代上人への御報恩謝徳の観念を欠かされなかったのです。
 第二に、学会では、三宝の中の僧宝を日興上人お一人に限定したり、「創価学会こそ僧宝である」などといっておりますが、日寛上人は『当家三衣抄』に、本宗の三宝を明かす中で僧宝として日興上人、日目上人を挙げたのち、
「嫡嫡付法歴代の諸師。此(か)くの如き三宝を云云」(聖典 971頁)
と、御歴代上人を僧宝と立てられています。
 第三に、学会では、唯授一人金口(こんく)相承を否定し、〝三大秘法の御本尊も法主から法主に付嘱されるのではなく、万人に与えられたもの〟といっていますが、日寛上人は『寿量品談義』に
「二十四代金口の相承と申して一器の水を一器に写(うつ)すが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり」(富要 10-131頁)
と仰せられ、本門戒壇の大御本尊が唯授一人の金口相承として、代々の御法主上人に受け継がれ、厳然と大石寺にましますことを説示されています。
 第四に、日寛上人は総本山大石寺の御法主として、『六巻抄』『文段』等を著わされ、邪義邪宗の徒から大石寺を厳護するために、全力を傾注(けいちゅう)されましたが、現在の学会は総本山を敵視し、宗門を攻撃しています。この学会の姿を見られたならば、日寛上人の憤りはいかばかりでありましょう。
 このような事実を覆(おお)い隠(かく)し、総本山大石寺に敵対して〝学会の御本尊授与は日寛上人御自身の誓願〟などとうそぶく創価学会は、まさに不知恩の徒というべきです。今や創価学会は、「宗教団体」とは名ばかりで、その中味は、本尊も題目も化儀もすべて、大石寺のそれを模倣したものばかりではありませんか。迷走する創価学会は、いずれ日寛上人をも否定することになるのは明白です。

破折:
3.僧宝の定義
(1)日達法主の誡め

 現宗門は〝見かけ〟こそ「大石寺のそれを模倣したものばかり」である。だが実態は、大聖人の仏法を遵守するのではなく、法主を崇める新興宗教に変貌しており、「日顕とその一味は、すでに日寛上人を否定している」のである。
 今回の妄説の第二に「学会では、三宝の中の僧宝を日興上人お一人に限定したり」とあるが、これこそ日寛上人の定め置かれた法義である。同時に日顕の先師・細井管長(日達法主)が宗内に向かって誡めた指南そのものである。日顕宗は学会を誹謗すればするほど、馬脚を現すことに気付かないのか。
 現宗門は日寛上人にも細井管長にも違背し〝当職の法主が僧宝である〟と法義を変造した。これこそは日顕宗とかつての日蓮正宗とが一線を画す、最も象徴的な邪義である。
 細井管長の指南の内容を、確認しておきたい。
               ◇
 我が宗の三宝は、御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。それに対して日目上人は座主である。今言ったとおり、管領して、その大聖人の仏法を治めていく、よく受取って治めていく、すなわち管領という意味を持っていくのである。統べ治める、そして統治をしていく。その日目上人の後は、みな筒の流れのように、それを受継いでいくにすぎない。だから本宗の考えは、広宣流布の時は日目上人の再現、出現だという意味をとっております。すなわち日目上人が広宣流布の時の座主として再誕なされるとの指南であります。だから代々の法主が日蓮大聖人ではない。大聖人そのものと間違って書かれてよく問題が起きますが、その点ははっきりしてもらいたい。ただ三宝をお守りする座主、日目上人は永代の座主、広宣流布の時の座主、それを忘れてはいけないですね。だから客殿のあの座席、法主のあの座席は目師の座席なのです。真中に御本尊、向って左は大聖人、右は日興上人、目師がそれをお守りしていくと、その座が目師の座、今の管長の座は目師の座です……三宝はどこまでも、大聖人・日興上人・御本尊、これが本宗の三宝の立て方です。
(六十六世日達法主 昭和52年5月26日の寺族同心会において)

 細井管長は「日興上人が僧宝」「日目上人は座主」と強調する。日目上人さえも僧宝とは区別し、「日目上人の後は、みな筒の流れのように、それを受継いでいくにすぎない」、座主の後を継いでいくにすぎないとする。それゆえ「御歴代上人」であっても〝僧宝は日興上人だけ〟と、細井管長は強調した。
 ここでの僧宝の定義は、日寛上人の『当流行事抄』に規定される「久遠元初の僧宝」であり、「信仰の対境としての僧宝」である。

(2)法主信仰に変造された法義

 学会の三宝にかかる解釈は、細井管長当時の『日蓮正宗要義』(昭和五十三年四月二十八日発行)において定められた法義に立脚している。

「末法の三宝とは、(中略)大白法を正しく継承された日興上人を僧宝の随一とする。(中略)広く論ずれば正法を受持信行し随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが、僧宝である」

 この宗門の法義を〝変造〟したのが日顕である。平成十一年十二月十九日、日顕の誕生日を記念し(お追従し)発行した『日蓮正宗要義』では、次の通り改変した。

「末法の三宝とは、(中略)大白法を正しく継承された日興上人を随一とする歴代の法主上人が僧宝である。(中略)広く論ずれば、正法を受持信行し、随力弘通の任に当たる本宗僧侶、更に信徒のすべてが僧宝であるといえる」

 宗門が僧宝の定義を変造する根拠は、彼らが毎度引用する『当家三衣抄』である。だがこれは〝勤行における報恩感謝の対象〟を説くものであって、〝信仰の対境〟を定義したものではない。
 よって、僧宝と言っても「信仰の対境としての僧宝」は、あくまで日興上人御一人である。だが宗門では意図的にこの根本義を隠し、『当家三衣抄』のみを根拠とする。
 宗門はこれによって、当職の法主までも含む「歴代の法主上人」が「信仰の対境としての僧宝」である、との強引な解釈に持ち込むのである。

「三宝一体とは、まさに本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、その内証において、一体不二の尊体にましますということであります」(『能化文書』平成三年九月)

「三宝一体」の定義における僧宝とは、「信仰の対境としての僧宝」に他ならない。しかしこの文書においては、「日興上人」とあるべきところを「歴代の御法主上人」の語に置き換えてあるから、当職の法主まで含められる。これが〝法主信仰〟以外の何であろうか。
 宗門の伝統義を遵守すべきことを説いた細井管長の誡めの言葉は、いったんは日顕の耳に入った。
               ◇
 僧宝として尊敬するお方は、二祖日興上人ただお一人ということになっておるのであります。
(昭和五十五年三月二十八日、在勤式・得度式・祝賀会)

 だが、反対側の耳を通り抜けて行き、〝宗門における大聖人の仏法〟は六十六代で終わった。日顕以後は、もはや大聖人の仏法ではなく、新興宗教・日顕宗である。これによって日顕・日如が〝僧宝の一分である可能性〟すら、永久に無くなったのである。

(3)学会及び学会員が、現代の僧宝

 日寛上人は『当家三衣抄』において、「歴代の諸師」が「付法」「伝法」の任にあることを讃えられ僧宝とされた。再説するが、僧宝とは次の通り区分される。

① 「信仰の対境としての僧宝」…「久遠元初の僧宝」:日興上人
② 「信仰の対境ではない僧宝」… 日目上人以降の歴代の諸師

 さらに日寛上人は僧宝の意義を広げられ、「門流の大衆」、すなわち日興上人門流の和合僧までが、僧宝の一分であることを明かされている(『三宝抄』より)。

③ 「僧宝の一分」…… 「門流の大衆」

 すでに宗門は、かつての『日蓮正宗要義』を放棄した。よって、要義にあった「広く論ずれば……本宗僧俗のすべてが、僧宝」とあるうち、「僧」は除外となり、「俗」のみが僧宝として存するのである。
 すなわち、大聖人以来の伝統義を今に受け継ぐ在家の我ら学会こそ、唯一の広義の僧宝であり、正法の「伝持の任」を果たす者である。

4.「不知恩の徒」日顕

 第三に「三大秘法の御本尊も法主から法主に付嘱される」とあることは、前項の細井管長の言葉通り「管領という意味」で捉えるべきであった。               
 細井管長は、〝謙虚であれ〟と言いたかったのである。どれほど大聖人の仏法が偉大であろうと、それを受け継ぐ立場としては、あくまで「管領」としての分を守らなければならない。
 僧侶であろうと名字即であり、三毒強盛の凡夫身であることに変わりない。ゆえに間違っても「代々の法主が日蓮大聖人」などと言ってはならない、法主信仰に陥ってはならない、と釘を刺しておいたのである。
 しかし日顕は、正本堂・大客殿等、先師・細井管長が建立した「事績」のすべてを無残に破壊し尽くしたのみならず、「誡め」までも当然のように捨て去った。これほどの「不知恩の徒」が他にあろうか。

5.大石寺を厳護した者は誰か

 第四に「邪義邪宗の徒」から宗門を外護したのは、学会である。

(1) 小笠原慈聞を弾呵

 戦前・戦中に軍部と結託して「神本仏迹論」との邪義邪説をふりかざした小笠原慈聞は、当時の法主と宗門とを、さんざん悩ませてきた悪僧であった。
 戦後の「宗旨建立七百年記念慶祝大法会」の盛儀に、その小笠原慈聞が何食わぬ顔で参加していたところを、学会が呵責した。ところが本山はこの仏敵を咎めることなく、むしろ悪侶を糾弾した学会に対し、宗会は一方的に戸田会長を大講頭罷免とし、さらに登山停止とした。
 宗門の大勢は、学会の謗法厳誡の正義を讃えるどころか、「在家が僧侶を突き上げた」との僧俗差別によって判断し、学会を非難し一方的に懲罰したのである。

(2) 正信会からの外護

 細井管長からの相承にかかる詐称疑惑のために、正信会の悪侶に責められていた日顕を庇い、擁護したのは池田名誉会長である。ところが正信会が放逐された後、もはや名誉会長には用はないとばかりに一方的に総講頭罷免とし、破門とした。宗門は僧俗和合を破り、広宣流布を妨害したのである。
 日顕がどれほどの「猊座泥棒」であろうと、深く悔悟し僧俗和合に励むのであれば、学会はその過ちを糾弾することはない。だが、日顕は学会の恩に報いるに裏切りをもってした。学会に破門通告し、御本尊下付を手段に「信徒泥棒」を開始したのである。「泥棒」は、どこまで行っても泥棒であった。 

 小乗大乗分別抄(五二一㌻)にいわく、
「此等の人師は世間の盗人にはあらねども仏法の盗人なるべし」

 宗門が言う「邪義邪宗の徒」とは、日顕とその一党のことであった。法主信仰に走る日顕宗は、大聖人の正義を説かれた日寛上人の御叱正を蒙ることは疑いない。
 正義の学会に日寛上人が御味方されることは必定であり、日顕の邪義が打ち砕かれることは、言わずもがなである。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:74」を破折する(その一) 連載106回

妄説:74 現在の創価学会は、本当に日寛上人の御精神に適(かな)った教団なのですか。

 創価学会では、
「日寛上人が生涯をかけて築かれた信心の遺産の全て」は「創価学会のためにあった」(大白蓮華 五一五-四二頁)
といって、日寛上人をあたかも学会のシンボル的存在として宣伝しています。しかし、現在の創価学会は日寛上人の御精神に背反(はいはん)しております。その例をいくつか挙げてみましょう。
 第一に、学会では、三座の報恩謝徳の観念文から日寛上人をはじめとする御歴代上人を削除していますが、日寛上人は『福原式治状』の中で勤行の観念について、「第三座は十如・壽量、祖師代々」と記されており、総本山大石寺の歴代上人への御報恩謝徳の観念を欠かされなかったのです。
 第二に、学会では、三宝の中の僧宝を日興上人お一人に限定したり、「創価学会こそ僧宝である」などといっておりますが、日寛上人は『当家三衣抄』に、本宗の三宝を明かす中で僧宝として日興上人、日目上人を挙げたのち、
「嫡嫡付法歴代の諸師。此(か)くの如き三宝を云云」(聖典 971頁)
と、御歴代上人を僧宝と立てられています。
 第三に、学会では、唯授一人金口(こんく)相承を否定し、〝三大秘法の御本尊も法主から法主に付嘱されるのではなく、万人に与えられたもの〟といっていますが、日寛上人は『寿量品談義』に
「二十四代金口の相承と申して一器の水を一器に写(うつ)すが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり」(富要 10-131頁)
と仰せられ、本門戒壇の大御本尊が唯授一人の金口相承として、代々の御法主上人に受け継がれ、厳然と大石寺にましますことを説示されています。
 第四に、日寛上人は総本山大石寺の御法主として、『六巻抄』『文段』等を著わされ、邪義邪宗の徒から大石寺を厳護するために、全力を傾注(けいちゅう)されましたが、現在の学会は総本山を敵視し、宗門を攻撃しています。この学会の姿を見られたならば、日寛上人の憤りはいかばかりでありましょう。
 このような事実を覆(おお)い隠(かく)し、総本山大石寺に敵対して〝学会の御本尊授与は日寛上人御自身の誓願〟などとうそぶく創価学会は、まさに不知恩の徒というべきです。今や創価学会は、「宗教団体」とは名ばかりで、その中味は、本尊も題目も化儀もすべて、大石寺のそれを模倣したものばかりではありませんか。迷走する創価学会は、いずれ日寛上人をも否定することになるのは明白です。

破折:
1.日寛上人の御本尊を学会が授与する意義

 宗門では早い段階から「法主信仰」の邪義が存在した。九世日有師のころすでにその萌芽を兆しており、十二世日鎮の代に要法寺系の流入僧により法主信仰の文書が作成され、受け継がれていった。
 しかし日寛上人は大聖人の正統教義を集大成し、その精髄である「六巻抄」において法主信仰を一切排除したのである。
 今、自らを本尊に見立て法主信仰にひた走る日顕に対し、これを打ち破るべく出現された学会授与の御本尊こそ、奇しくも日寛上人の御書写にあられる。「御仏智」と感得せずにいられようか。
              ◇
 一、大聖人直結の信心を貫かれた日寛上人の御本尊は、学会が授与するにふさわしい御本尊である。      

 日寛上人は寛文五年(一六六五年)に群馬県館林で出生され、天和三年(一六八三年)に十九歳で出家。以後、行学に精進を重ね、享保三年(一七一八年)、第二十六世の法主になられた。生涯の内に『六巻抄』や御書の文段等数々の教学書を著(あらわ)され、初めて大聖人の正統教学を体系化された英邁(えいまい)な法主として、つとに有名である。戸田第二代会長は日寛上人の教学に全幅の信頼を寄せられ、常々「教学は日寛上人の時代に還(かえ)れ」と叫ばれていた。
 信心も極めて堅固(けんご)であられ、保身と安逸から大聖人滅後の邪義が次第に横行しつつあった当時の宗門にあって、どこまでも「大聖人直結」「御本尊根本」「広布根本」の正道を貫かれた方である。
 すなわち第一に、日寛上人は、信心修行においては、常に大聖人の御振舞いを基準とされた。『開目抄愚記』には「『身命を愛せず但(ただ)無上道を惜しむ』とは、即ちこれ宗門の菩提心なり。蓮祖既(すで)に爾(しか)なり。末弟如何ぞこの願を立てざる。励むべし励むべし」(『日寛上人文段集』一一七ページ)と御教示されている。
 第二に、上人は御本尊の功力を深く信解された「御本尊根本」の法主であられた。「祈りとして叶(かな)わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来(きた)らざるなく、理として顕(あらわ)れざるなきなり」(同四四三ページ)と絶対の確信をもって他に勧(すす)められ、自らも徹して唱題に励まれた。
『報恩抄文段』には「題目百五十万返口唱(くしょう)」(同四四〇ページ)をされた旨を記されており、また『父母報恩談義』には父母の恩を報ずるために七年間で二千万遍の唱題をされたと語られている。因(ちな)みに、日寛上人は大石寺内に「常唱堂」を建立され、常に唱題を絶やさぬようにされたとも言われている。
 第三に、誰よりも「広宣流布」を願う法主であられた。「自讃毀他(じさんきた)」が禁じられ、表だった布教ができない江戸時代にあっても、日寛上人は「心に折伏を忘れて四箇(か)の名言を思わざれば、心が謗法に同ずるなり。口に折伏を言わざれば、口が謗法に同ずるなり」(同七六七ページ)と堂々と叫ばれ、「大聖人直結」の弟子として、他門下に「破邪顕正」の筆戦を挑(いど)まれた。
 しかも、それら入魂の著作は全て「以て後世の弟子に贈る此(これ)は是(これ)偏(ひとえ)に広宣流布の為なり必ず其(その)近(ちかき)を以て之を忽(ゆるがせ)にすべからず」(『依義判文抄』『富士宗学要集』三-一〇三ページ)と、きたるべき順縁広布の時代に思いを馳(は)せつつ残されたものである。
「順縁広布、何ぞこれを疑うべけんや。時を待つべきのみ」(『日寛上人文段集』二三四ページ)――。この叫びのままに、広布の時のため、盤石なる基礎を確立せんと奮闘された真金の「大聖人直結」の弟子が、日寛上人であられた。極言するならば、日寛上人が生涯をかけて築かれた信心の遺産の全ては、まさに今、仏意仏勅を受けて世に出現し、未曾有の世界広布を成し遂げんとする創価学会のためにあったといってよい。
 このたび、日寛上人の御本尊が奇しくも淨圓寺に現存し、時を得て学会からお形木御本尊として世界に流布されるということは、まことに不可思議な仏法上の因縁を感ずる。私どもは、ひとえに御仏意であり、また他ならぬ日寛上人御自身の誓願によるものと謹んで拝信する次第である。  
(『創価学会の御本尊授与に関する法門上の見解』日蓮正宗・青年僧侶改革同盟 『聖教新聞』1993年9月20日)

2.勤行における報恩感謝

 学会が日寛上人の御精神に相即することは、以下の通りである。
 第一に観念文から「御歴代上人を削除」したことは、歴代諸師から〝謗法の法主〟を除くためである。

① 〝誤りある師は捨てねばならない〟――大聖人・日興上人

 日興上人が否定された「造仏義」を唱え実行に移した十七世日精、その造立された仏像を排除しなかった代々の大石寺管長は、正師であるはずがない。五十九世堀日亨法主は「精師は(歴代から)抜いてある」と語ったとのことである。
 日顕は、この十七世日精を再評価している。すなわち日精の謗法は、日顕に相承されたことになる。
 さらに大御本尊誹謗(正法誹謗)、相承詐称(大誑惑)、学会破門(破和合僧)の数々の大罪を重ねた日顕を歴代法主と見なしては、大聖人の正義に違背し、仏法を破壊することになる。
 謗法を責めずは与同罪であり、大聖人の御叱正を恐れなければならない。

 曾谷殿御返事(一〇五六㌻)にいわく、
「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし」

 残念なことに『日興遺誡置文』に違背する「歴代の諸師」が前述の通りの有り様であり、勤行で一律に念じては三宝に畏れ多い。

 曾谷殿御返事(一〇五五㌻)にいわく、
「但し師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり」

(ただし師であっても、誤りのある者は捨てなければならない。しかしまた捨てない場合もある。これらは世間や仏法の道理によるべきである)

「元より日蓮聖人に背き進らする師共をば捨てぬが還って失にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給うべきか」(日興上人『原殿御返事』)

(もとより、日蓮大聖人の正義に違背する師匠たちを捨てないのが、還って科(とが)になるというのがこの法門であることを御存知であろう)

 我らは勤行にて宗開両祖に南無し奉り、報恩感謝申し上げた次には、歴代諸師筆頭の日目上人に報恩感謝申し上げる。すなわち日目上人は日寛上人、日亨師等の正師の代表である。

② 〝後継者は必ずしも誤りの無い者ではない〟――日寛上人

 日寛上人は、次の言葉を記されている。
                ◇
 問う、又云く「日代は是れ日興の補処(ふしょ)なり。正慶二年二月七日、師入滅の後、御追善の為に日代法華の一部を石に記して、重須開山堂の下に納め之を石経と名づく。其の石の大きさ掌の如く或は大小有り。日辰(にっしん)等之を見る。其の石の文、時に観音品なり」云云。此の事、如何(いかん)。
 答う、擯出(ひんずい)の現証に由るに、応(まさ)に是れ迷乱なるべきか。既に是れ補処なり、更に大罪無し。若(も)し迷乱に非ずんば那(な)んぞ之を擯出せん。補処と云うと雖(いえど)も、何ぞ必ずしも謬(あやま)り無からん。例せば慈覚等の如し云云。(日寛上人『末法相応抄第四』『六巻抄』一五五㌻)

 日代とは日興上人の甥にあたり、〝新六〟の弟子の筆頭である。日興上人から重須談所(後の北山本門寺)を譲られながら、教義問答における発言で批判を受け、地頭にも嫌われて重須を退去せざるを得ず、後に西山に法華堂(後の西山本門寺)を開いた。
 この文は、日代が日興上人の信任を得て重須の補処(ふしょ)(=後継者。住職)となりながら、愚かな見識による振舞いに及んだことを述べられており、そのことは、伝教大師の正義を後代の慈覚が損ねたようなものである、と言われている。
 日興上人の係累は、大石寺、北山本門寺、西山本門寺に別れた。日興上人の補処(後継の住職)と言えども、誤りを犯すものであると言われる通り、結局は大石寺を含め全ての門流が誤るに至った。それゆえ学会が出現するまでは、富士門流は広宣流布が叶わなかったのである。
 その最大の誤りが、詐称法主・日顕である。像法の時代、伝教大師が開いた比叡山延暦寺は慈覚が座主となってより土泥と化した。末法の世でも歴史は繰り返され、富士大石寺は日顕によって永久に魔の山と化したのである。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:73」を破折する(その二) 連載105回

妄説:73 御本尊の「授与書き」を抹消することが大謗法ならば、御歴代上人の御本尊に、「願主弥四郎国重(やしろうくにしげ)」という「授与書き」が書かれていないのは大謗法になりませんか。

 御本尊の書写については、唯授一人の血脈相承による秘伝であり、他の者がとやかく疑難をさしはさむべきではありません。本門戒壇の大御本尊を一番初めに書写された方は第二祖日興上人です。
 その日興上人は宗祖日蓮大聖人から仏法の一切を相承伝授されていることは間違いない事実であり、その相伝による甚深の御境界の上から御本尊を書写されているのです。
 相伝の大事を知らない者が、日興上人以来の御歴代上人の御本尊書写についてとやかくいうことは厳に慎むべきです。
 要は、「法体相承」すなわち宗祖の魂魄(こんぱく)たる御本尊を相伝された御法主上人の許可なく、他の者が勝手に御本尊を複写し、「授与書き」を削除(さくじょ)し、変造することが大謗法になるのです。

破折:
4.「願主弥四郎国重」とは誰なのか

 宗門の上代、ことに大御本尊にかかる来歴については、ほぼ不明と言わざるを得ない。ことに問題の「願主弥四郎国重」という人物の身元につき、宗門では統一した結論が出されていない。
「相伝の大事を知らない者が……とやかくいうことは厳に慎むべきです」との、宗門の尊大な言い訳は見苦しい。文証が得られない事例においては、さすがに「唯授一人の血脈相承」をもってしても答えは出せない。「御歴代上人」であろうと、分からないものは分からないのである。
 ただし、戸田会長が質問会において次の通り講説しており、我らは信心をもって受け止めたい。
               ◇
[質問]:一閻浮提総与の御本尊様と、弥四郎国重という方とは、どういう関係でしょうか。

 邪宗のものが「大御本尊様の対告衆(たいごうしゅ)が弥四郎国重となっているが、法華講中弥四郎国重という方は存在していない」という。
 これが一般の断定なのです。
 また、これを、熱原三烈士の一人となぞらえている人も、学説上あります。南条殿の子供と断定している人もあります。だが、だいたいの学説においては架空の人ということになっています。これは私ももっともなことだと思います。
 なぜ、日蓮大聖人様が「法華講中弥四郎国重」として、弥四郎国重を大御本尊様の対告衆にしたかという問題なのです。これはよほど仏法に通達してこないとわかりません。
 しろうと論議だと納得できないことです。少なくとも、信仰に透徹して、仏法の奥義がわかれば、ごくかんたんな問題なのです。
 なかにはこういう議論を立てる者もいます。「大御本尊様は日興上人に授与したのであるから、なぜ対告衆を日興上人になさらないのか」と。
 それは、日興上人を対告衆としたのでは、一閻浮提総与とはならないのです。この一閻浮提総与の御本尊すなわち南無妙法蓮華経というものは、全世界にひろめる人、まずこれを日本にひろめて戒壇を建立する人に授与すべきものなのです。

 ここで問題が一つあります。そのまえにいっておきますが、私がおどろいたことが一つあります。
 それは、私が東之坊を創価学会として総本山へご寄進申し上げたときのこと、僧侶から話がありまして
「仏器から御厨子(おずし)までぜんぶ私がお引き受けしますから、あとはよろしく取り計らっておいてください」といったのです。
 そうしましたら、東之坊の御本尊の対告衆は私になっているのです。ほんとうなら東之坊に御僧侶がいらっしゃるのですから、その御僧侶へお下げ渡しになったらいいはずでしょう。
「私の名前でやってください」といったのではないのです。しかるに、御本尊お下げ渡しの原則によって、私にお下げ渡しになっている形になっています。
 しかし、あの御本尊様は東之坊の御住職の、身にあてたまわる御本尊です。ただ対告衆が、私であるというところを、よくよく考えてもらわなければなりません。

 そこで、弥四郎国重の問題ですが、対告衆に一連のものがあるのです。まず法華経の読み方がわかっていれば、弥四郎国重の問題もわかってきます。
 法華経がりっぱな経典であることは、だれでも認めています。そのなかに書いてあることを、まず認めなければなりません。ところが日蓮大聖人の御書にも、序品八万の大衆ということばが使われていますが、序品八万の大衆はどうなるでしょうか。
 経文には、そこに集まった人の名前が記されています。まずはじめは舎利弗(しゃりほつ)、神通第一の大目犍連(もっけんれん)、その他の阿羅漢(あらかん)を集めて万二千人となっています。
 菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)八万人、摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだいびくに)の眷属(けんぞく)六千人、名月(みょうがつ)天子その他の天子の眷属数万人、跋難陀(ばつなんだ)竜王などの眷属、これも、何万人、かくして集まった阿闍世王(あじゃせおう)の眷属何千人。ソロバンにおいてみたことはないのですが、霊鷲山(りょうじゅせん)へ、ざっと二、三十万集まっています。
 そうしたらどうなるでしょう、そんなにたくさん集まれますか。一つの都ができてしまうではないですか。しかも八大竜王もきています。阿修羅王もきています。そんなものがきているわけがないではないですか。
 かりに集まっても便所の設備だけでもたいへんです。八年間もそんなに集まって、いくら釈尊が仏でも二十万、三十万に聞かせる声がありますか。
 そうなってくると霊鷲山に集まったというのは、おかしいではないですか。菩薩が八万人も集まるわけがないではないですか。総本山に七万人の人が御遷座敷(せんざしき)に集まっても、あの騒ぎです。
 いま三千人集まってもこの騒ぎではないですか。山の中です、広場ではないのです。そうなったら仏法上の根幹をなす「序品八万の大衆」はどうなりますか。
 日蓮大聖人様は、はっきりとお認めになっています。しかも事実の研究の上からゆけば、そんなものはありません。ないものを書いた法華経は、信用できなくなるでしょう。
 もし法華経がだめだとなれば信ずるものがなくなってしまいます。

 それは何十万でもかまわないのです。なぜかならば、釈尊己心(こしん)の舎利弗であり、釈尊己心の八万の菩薩であります。釈尊己心の提婆達多(だいばだった)であり、釈尊己心の八大竜王であります。
 死んでそこにはいないはずの舎利弗にも、己心の舎利弗なるゆえに話しかけたのです。釈尊の胸に集めた何十万の人、それを対告衆として法華経を説いているのです。
 生命の実相をはっきりしなければ、法華経の序品から読めなくなってきます。
 よく「法華経を読みました」などという人がいますが、おかしくてたまりません。読めるものですか、読めるわけがありません。大御本尊を信じないで、読めるわけなんかありません。
 もし、ありとすれば、大御本尊様を信じないまでも、大御本尊を知りぬいて言えなかった竜樹(りゅうじゅ)、天親(てんじん)、天台、妙楽はこのかぎりではありません。読めていたのです。
 その意味からいきますれば、弥四郎国重は法華経をひろむべきいっさいの人を代表した人物、日蓮大聖人己心の弥四郎国重なのです。実在の人物ではない。実在の人でなくても、いっこうさしつかえないのです。
 歴史的に調べて実証して、こうあらねばならんなどというのは、科学ということばに迷った人のやり方で、仏法哲理の上からいけば、日蓮大聖人己心の弥四郎国重に授与あそばされたのですから、
 日蓮大聖人のお考えとしては、もっとも理想の人格、法華経の行者の弟子として、理想の人格の人物として、世の中へおさだめになって、その者にお下げ渡しになっているのですから、
 そんなこと、実在であろうとなかろうと、考えなくともいいことになってきます。
 第一、智者の舎利弗の議論にたいして、寿量品を立て、生命を捨てて守護する信者を代表して、己心の弥四郎国重を日蓮大聖人は立てられたのです。
 諸君も、日蓮大聖人己心の弥四郎国重になりきりなさい。
 これは私はたくさんの人のなかでは話しません。もしこれを話して、あなた方がこれを人に話していい負かされたり、自分の心に疑いを起こしたりしたならば、かならずや罰を受けねばなりません。
 それほど重大な本尊論の問題でありますから、めったに話したことはありません。ごく側近の者に話したことがあります。
 本日はもしこれをいわなければ、なおさら疑いを起こす時期にきているように思いますからして、やむなく問いにまかせて答えました。これは絶対にまちがいのないことですから、信じていただきましょう。
(『ブログで読める戸田城聖全集 第二巻 質問会編(創価学会)SGI』H.P.)

 大御本尊の対告衆(願主)の弥四郎国重とは、戸田会長は「法華経をひろむべきいっさいの人を代表した人物」であり、それが「日蓮大聖人己心の弥四郎国重」であるとした。
 すなわち「実在の人でなくても、いっこうさしつかえない」、「もっとも理想の人格、法華経の行者の弟子として、理想の人格の人物として、世の中へおさだめになって、その者にお下げ渡しになっている」のであると。
 発想の転換である。大御本尊の願主は、「一閻浮提総与」の意義にふさわしい理想の人と定めれば、歴史上の人物でなくとも良いとしたのである。

 戸田会長の講義のうち次の箇所を読んで、ハタと思い出したことがある。
「歴史的に調べて実証して、こうあらねばならんなどというのは、科学ということばに迷った人のやり方で、仏法哲理の上からいけば、日蓮大聖人己心の弥四郎国重に授与あそばされたのですから」云々と。
 近年、大聖人の仏法をわずかにかじった者で、インターネット上で御書や御本尊を俎上に載せ、我流でその真偽を言い募(つの)っているのを見ることがある。どれは真蹟でどれは偽書、何々は御真筆で何々はニセ物、云々と。
 その者の経歴を見れば、かつて学会員であったが法華講に移り、それも辞めたと言う移り気の人間である。そもそもが歴とした文献学者ではなく、素人が手を染めた程度である。
 思うに、彼は〝批評家〟には成れたかもしれないが、〝信仰者〟ではない。少なくとも仏法の理念を知ることはできない人間である。文献学に拘泥し、批評するのみで〝我も、人をも救っていく〟、との目的観に立脚しない者は、信心するには無理がある。

 戸田会長の講義に戻るが、「諸君も、日蓮大聖人己心の弥四郎国重になりきりなさい」と。我らが志向するところは、正にこの一言である。

 四条金吾殿御返事(一一三九㌻)にいわく、
「一句万了の一言とは是なり」

5.あらためて「授与書き」の意義を正す
(1)大御本尊の御写しの御本尊であれは、誰が拝しても功徳がある

 前項における戸田会長の講説からも、「授与書き」の意義は我らの前に答えを示している。
「あの御本尊様は東之坊の御住職の、身にあてたまわる御本尊です。ただ対告衆が、私であるというところを、よくよく考えてもらわなければなりません」(戸田会長)
 しかし現宗門は次のように言う。
「万人を対象とした御本尊を『一閻浮提総与の御本尊』といい、現在奉安堂に御安置されている『戒壇の大御本尊』ただ一体を指します。それ以外の授与の御本尊はすべて『一機一縁の御本尊』と称します」(「妄説:71」)
 上記の妄論によると、この御本尊は「東之坊の御住職」への「一機一縁」であるのか、戸田会長への「一機一縁」なのか、分からなくなる。なぜ解決が付かないか、すなわち日顕宗の捏造義だからである。
 戸田会長は「御本尊お下げ渡しの原則」と言って、次のように説く。
「『大御本尊様は日興上人に授与したのであるから、なぜ対告衆を日興上人になさらないのか』と。それは、日興上人を対告衆としたのでは、一閻浮提総与とはならないのです。この一閻浮提総与の御本尊すなわち南無妙法蓮華経というものは、全世界にひろめる人、まずこれを日本にひろめて戒壇を建立する人に授与すべきものなのです」
 よって「東之坊の御住職の、身にあてたまわる御本尊」でありながら、「対告衆が、私(=戸田会長)である」とされたのである。この御本尊が大御本尊に等しく「一切衆生総与」のゆえである。
 これが宗門本来の化儀である。日顕の〝にわか宗門〟が「一機一縁」の意義をどうねじ曲げようと、結局はどこかに祖語が出てしまう。

(2)宗門の「一機一縁」の捏造義

 宗門側のH.P.に次の通りの妄説が掲示されている。
               ◇  
 授与書きとは、あくまでも日蓮大聖人が顕わされた御本尊に関してのみ御本尊の〝対告衆〟である御弟子もしくは俗弟子の名前を「御本尊の〝列衆〟」として書かれるもので、「授与之」の後に対告衆の名前が書かれます。(中略)
 これは、御本尊に書かれた二尊(久遠実成の釈尊と多宝如来)と四菩薩(地涌の上行・浄行・安立行・無辺行)とともに御本尊の中に〝同座〟していることを意味します。
 授与書きは記別を示します。記別とは、御本尊様を授与された方が、そのままちゃんと信心をしていけば成仏を約束されたということです。ですから、その授与書きを消すのは大謗法といえます。
(『創価学会・顕正会・正信会からの脱会を考える会』H.P.)

 前項で「東之坊の御本尊」での対告衆は戸田会長とされた。上記の言い分によると、御本尊に〝同座〟したのは戸田会長一人であり、成仏を約束されたのも戸田会長である。
 だがこの御本尊は「東之坊の御住職の、身にあてたまわる御本尊」である。それなら住職の名前もそこにあって良い。また戸田会長は学会の代表者であり、御供養は会員の赤誠であるゆえ、全会員が列座してしかるべきである。
 結論すれば、誰の名が記されようと、御本尊を信じ拝する者は、その時御本尊に〝同座〟しているのである。御本尊は「一切衆生総与」であり、対告衆の名前が誰であろうと、信心次第であらゆる人が功徳を受けるのである。
 そもそも〝授与書きをすれば、当人が御本尊の中に同座することになり、成仏が約束される〟との理屈は、御書のどこにあるか。これに対し、宗門は御書以外から〝文証〟を持ち出すであろうが、それは次項で論じる。

(3)常住本尊は「一機一縁」では無い

 常住本尊は「示し書き」(授与された個人名)が記され、その意味で宗門が強弁するように「一機一縁」とも見えるが、実は大御本尊の御写しであるゆえに、「一切衆生総与」の御本尊であり、誰が拝そうとも信心があれば功徳が生じる。
 宗門はこれに反論するであろう。

「他門跡云く・如何なれば富士方に神座を立てざるや、仰せに云く・他門跡に立つるところの神座は理の神座なり・ただ当宗は事の位牌を本となすゆえに別に神座を立てざるなり、事の位牌とは本尊の示書これなり、そのゆえは本尊に当住持の名判を成されそれに向て示す人の名を書けば、師弟相対して中尊の妙法蓮華経の主となればその当位即身成仏これなり」(日有師『下野阿闍梨聞書』:『富要』2-153)

 これは「当住持(=法主)」が弟子・信徒に与える常住本尊に授与された当人の名が書き入れてあれば、授与された者の即身成仏は決定していると主張した箇所である。その逆に、他の人が拝んだところで成仏は期待できないことになる。
 だが御書を拝せば、成仏は当人の信心次第と仰せである。

 日厳尼御前御返事(一二六二㌻)にいわく、
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」

 大聖人の仰せに従えば、常住本尊であろうと、授与された本人に〝確たる信心〟が具わらなければ、即身成仏は叶わない。従ってこのような化儀は、宗開両祖の指導にはあり得ないものである。
 それとも後代の法主は「通力」を発揮して、無信心の者ですら成仏させられるのであろうか。

 題目弥陀名号勝劣事(一一四㌻)にいわく、
「先ず通力ある者を信ぜば外道天魔を信ずべきか」

 上述した「本尊の示書」のような「免罪符」もどきの化儀があるために、授与された者は生前に成仏が保証されているから、檀家は法事や棚経に御供養を欠かさず、その代り勤行も折伏もせず、御書も拝さず、〝本尊雑乱〟の謗法までも犯すこととなる。創価学会が出現するまで広宣流布が叶わなかったのは、そもそも道理であった。
 宗門も九世日有師の代にはこのような〝法主信仰〟が萌芽していたのであり、後に天魔・日顕を生起させる遠因を兆(きざ)していたのである。

(4)御形木本尊は大御本尊の分身

 学会授与の御形木本尊は、授与された者の名が書かれない本尊である。宗門では「仮本尊」と貶すが、大御本尊の御写しであり、分身であられるゆえに、常住本尊と功徳は同じである。常住本尊も仮本尊も、信心の上で差は無い。
 ゆえに、大多数の学会員は常住本尊を授与されておらず、「仮本尊」とされる御形木御本尊を信受して功徳の実証を花咲かせてきた。
 逆に法華講においては、常住本尊は前述した通り檀家の怠惰を助長する意味から、かえって信心を阻害するものであった。宗門は宗開両祖の代から下って九世日有師のころには法義の腐敗が始まっており、すでに大聖人の仏法から遠く隔てたものとなっていたのである。
 今一度、大聖人・日興上人・日目上人の三代の師匠の教えに帰らなければならない。それができるのは、創価学会しかいない。そのためにも、腐敗しきった日顕宗の邪義を打ち砕いていかねばならない。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:73」を破折する(その一) 連載104回

妄説:73 御本尊の「授与書き」を抹消することが大謗法ならば、御歴代上人の御本尊に、「願主弥四郎国重(やしろうくにしげ)」という「授与書き」が書かれていないのは大謗法になりませんか。

 御本尊の書写については、唯授一人の血脈相承による秘伝であり、他の者がとやかく疑難をさしはさむべきではありません。本門戒壇の大御本尊を一番初めに書写された方は第二祖日興上人です。
 その日興上人は宗祖日蓮大聖人から仏法の一切を相承伝授されていることは間違いない事実であり、その相伝による甚深の御境界の上から御本尊を書写されているのです。
 相伝の大事を知らない者が、日興上人以来の御歴代上人の御本尊書写についてとやかくいうことは厳に慎むべきです。
 要は、「法体相承」すなわち宗祖の魂魄(こんぱく)たる御本尊を相伝された御法主上人の許可なく、他の者が勝手に御本尊を複写し、「授与書き」を削除(さくじょ)し、変造することが大謗法になるのです。

破折:
1.「貫首一人しか解(わか)らぬ」との囈言(たわごと)

 日顕の悩乱前の講説によれば、本項で「唯授一人の血脈相承による秘伝であり、他の者がとやかく疑難をさしはさむべきではありません」と言うこと自体が、「囈言(たわごと)」となる。
               ◇
 信心の血脈が正法の僧俗一切の行学の根底であります。故に、大聖人より日興上人への血脈が、貫首一人しか解(わか)らぬ独断的、偏見的な仏法などというのは血脈の真義を解(げ)せぬ者の囈言(たわごと)であり、信心の一念に法水が流れるところ、有智、無智を問わず、万人のために即身成仏の功徳が実証として開かれているのであります。
(1987年〈昭和62年〉4月、虫払大法会)

 このころの日顕は、まだ道を踏み外してはいなかった。「信心の血脈」こそ仏法の根本であるとしていたのである。
 この講説からすれば、「秘伝」「相伝の大事」と言って内容を具体的に明かさないことは、「貫首(=法主)一人しか解(わか)らぬ独断的、偏見的な仏法」の域を出ないものであり、「血脈の真義を解せぬ者の囈言(たわごと)」との非難を受けてしかるべきである。
 当然のことながら、「中身が無い」と批判されても反論の余地は無い。〝道理を明らかにして言葉にすることができない〟ことは、〝我見でものを言う〟に等しい、それが「囈言(たわごと)」である。
 法理を明かさずに〝信ぜよ〟とするわけは、「説法の内容の矛盾」を直視させまいとする行為である、と言われてもやむを得ない。
 今回の妄説を読むと、〝法主は答えを知っている〟とは言っていない。すなわち〝法主も知らない〟ことを否定してはいないのである。結局、「他の者がとやかく疑難をさしはさむべきではありません」とは、「法主も知らないことを、追及してはいけません」と読んであげるべきらしい。
「とやかくいうことは厳に慎むべきです」と。成程、日顕・日如に問い糺したところで所詮〝知らないものは知らない〟のであり、答えようがないのである。

2.「秘伝」を主張する者に限って相伝を受けていない

「日興上人は宗祖日蓮大聖人から仏法の一切を相承伝授されていることは間違いない事実」とは正しくとも、それが〝日顕・日如に相承伝授されている〟ことにはならない。
「他の者がとやかく疑難をさしはさむべきではありません」と、答えをはぐらかさなければならない法主(自称)に、どうして相承伝授がなされていようか。
 かつて日達法主は「相承といっても特別なものはない。御書をよく読めばみな書いてあることだ」と話したとされる。そこには〝法主に就任すれば大聖人の法魂が降り来たって、大御本尊と不二の尊体になる(趣意)〟などの、日顕の幼稚極まる血脈観など微塵も無い。
 日顕が「秘伝」「法主の権能」等の言葉を使いたがるのは、実際は「宗祖の魂魄(こんぱく)たる御本尊を相伝」されていなかったことを、如実に物語るものと言える。正しく相承を受けた人なら、そのようなことを言う必要は無い。
 次の話は、日顕が登座して二週間後の八月五日、法主として初めての目通りの日のことである。
               ◇
 大奥の対面所で最初の目通りとなった。一同は静かに並び、日顕の第一声を待っていた。と、日顕は突然、こう切り出したのである。
「ワシの血脈のことでガタガタ言っているようだが、じゃあ、ほかに相承を受けた者がいるのか。いたら手を挙げてみろ!」
 これが法主となっての初めての言葉である。いわばタンカを切ったわけだ。一同、唖然とするとともに、この乱暴な言葉に驚愕した。
 本当に「相承を受けた」のなら、山内の住職たちに「いつ、このように相承された」と説明すれば済むことである。また、それが礼儀でもある。こんな発言では、新法主としてはあまりにも常識はずれではないか。そして、いまだにその説明はなされていない。
 またこうした暴言とは逆に、登座直後の日顕が、あちこちで「このたび相承を受けた阿部日顕です」と挨拶している姿が目撃されている。見かねた側近から、
「あまり、そういうことをおっしゃらないほうが……」と苦言を呈されたこともあったようだ。このあたり、「ない」ものを「ある」と強弁しなくてはならない、日顕の苦しい胸のうちを物語る出来事である。
(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)

 相承が事実であれば、淡々と経過を説明すればすむ話である。それもできず、いきなり逆上する姿は、心中の後ろ暗さ・やましさを、如実に物語っている。
「相伝の大事を知らない者」とは、まさに〝師匠から面授相承を受けた〟と詐称した〝ニセ法主〟日顕である。ニセ法主を認めれば、宗門もまた〝ニセ宗門〟となる。このニセ者ども以外に「大謗法」の者があろうか。

3.「授与書き」を書写する必要は無い

 さて〝歴代諸師の御本尊に、大御本尊の「願主弥四郎国重」という「授与書き」が書写されてこなかった〟わけは、宗門は何も答えることができない。
 あらためて「授与書き」の意義を問えば、日興上人が「所賜の本主の交名(きょうみょう)を書き付くるは後代の高名の為なり」(『富士一跡門徒存知の事』)と述べられる通り、授与を受けた人の功績を称え、証明するものであった。
 すなわち御本尊の相貌や力用にかかる事項でないことは明瞭であり、「授与書き」を書写しなければならないとする必要性は存在しない。
 昭和四十年頃まで学会員が授与を受けてきた「享保三年の日寛上人の御形木御本尊」と、学会が現在、授与している「享保五年の日寛上人の御形木御本尊」とは同じ相貌であり、授与書きは御形木にしておらず、法主による開眼など受けていなかったことも同じである。
 それが「『授与書き』を削除(さくじょ)し、変造すること」となれば、当時から宗門の化儀が間違っていたことになる。
 それでも宗門が納得しないのであれば、「弘安二年願主弥四郎国重」と授与書きの無い御本尊はすべて偽物となり、宗門七百年の伝統化儀を完全に否定することとなる。
 学会が授与する御形木御本尊について「大聖人の御意に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪」(「妄説:70」)と宗門は言うが、それは学会による広布の進展を阻害する企みを破られた〝魔仏の憤り〟であり、和合僧たる学会への嫉みと言うものである。

 常忍抄(九八〇㌻)にいわく、
「此の人人・天に向つて唾(つば)を吐き地を爴(つか)んで忿(いかり)を為す者か」

 学会による御本尊授与は「大聖人の御意に適い、日寛上人のお徳を顕す大功」に他ならない。
 もっとも宗門にしてみれば、「日顕の御意に背き、寺院経営を脅かす大罪」となるのであろう。仏法上の問題ではない、御供養が逃げていく〝実利上の問題〟であるから、日顕・日如は必死である。
                          (続く)
 

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Author:墨田ツリー

 
 
 

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