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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:66」を破折する 連載95回

妄説:66 聖教新聞には「拝する側の信力・行力によって、御本尊の仏力・法力は発現する。これが本来の開眼の意義である」(H五・九・二〇 取意)といっておりますが、これは正しい考え方でしょうか。

 このような考え方は、大変な間違いです。
 なぜなら「拝する側の信力・行力」とは凡夫衆生の信心(観心)であり、「御本尊の仏力・法力」とは御本仏(本尊)の力用のことで、この仏意・機情の二義を同等に論ずることは法義の混乱になるからです。
 日寛上人は、
『観心本尊抄文段』に「若(も)し観心即本尊に約せば入文の相に違うなり」(富要 4-222頁)
と、厳しく二義の混同を戒められ、さらに同書に
「若し正境に非ざれば、仮令(たとい)、信力・行力を励むと雖も、仏種を成ぜず」(富要 4-228頁)
と、信仰者の信力・行力よりも、正しい御本尊を正境として信仰することが第一番に大事であると説かれています。
 もし聖教新聞のいうとおりならば、他宗の人でも信力・行力があれば御本尊の開眼ができることになり、身延日蓮宗の漫荼羅も信力・行力によって正しい本尊に開眼できることになりますが、このような説は前代未聞の愚論というべきです。

破折:
1.御本尊こそ〝眼目〟

 宗門が引用する聖教新聞所載の論説は、御本尊に「魂入れ」は無用であると述べたものである。日蓮大聖人の御本懐たる〝妙法曼荼羅の御本尊〟につき、その開眼の必要性を述べられた文証はただの一例も存在しない。
 御本尊は末法の法華経であらせられる。法華経に「魂入れ」を要する道理が無い。

 曾谷殿御返事(一〇六〇㌻)にいわく、
「法華経の題目は一切経の神(たましい)・一切経の眼目なり」

 御本尊に魂はすでに具わっており、「日顕の一相」(=邪念)が侵入する余地は無い。

 御講聞書(八四一㌻)にいわく、
「今末法に入って、眼とは所謂未曾有の大曼荼羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり」

2.御本尊に「使用期限」は無い

「其の墨質(ぼくしつ)を尊んで本尊となすにあらず其の字體(じたい)を崇(あが)めて本尊となすにあらず尊む所は只だ其の正意のみ崇むる所は只だ其眞理のみ」(『弁惑観心抄』)

 御形木御本尊には、建立された御本尊の相貌そのままに、大御本尊の正意が顕われる。かつて戸田会長が言明した通り、「生身の御本仏様」の御出現である。
 だが宗門が学会を破門した上は、かつて授与した御本尊も、これから学会が授与する御本尊も、ともに〝ニセ物〟であるとの暴言を吐く。
 しかし日蓮大聖人の仏法は末法万年・尽未来際にわたり、一閻浮提に広宣流布されるのである。大聖人の仏法に〝終末〟は無く、御本尊に「使用期限」のあるはずがない。
 御本尊にスイッチが有るかの如く、法主が御本尊の功徳をONとOFF、発現と喪失とに切り替えができるわけもない。
 仏法としての論議が一切無い〝幼稚極まる〟発言こそ、日顕宗の特徴である。

3.開眼の真義

 聖教新聞において「拝する側の『信力』『行力』によって、御本尊の『仏力』『法力』は発現する。これが本来の『開眼』の意義である。」と述べたことは、筆者の私見によるものではない。
 門は学会側の失点を見つけたかの如く「法義の混乱になる」などと息巻くが、学会側の主張の依処は、日寛上人の文段の一節にある。
               ◇
 また、「開眼」について付言しておきたい。御本尊に本来、特別な「魂入れ」のようなものは一切必要ない。
「信力・行力を励む則(とき)は仏力・法力に由り、即ち観行成就する」(『日寛上人文段集』四五五ページ)
と日寛上人が示される通り、あくまで拝する側の「信力」「行力」によって、御本尊の「仏力」「法力」は発現する。これが本来の「開眼」の意義である。
(『創価学会の御本尊授与に関する法門上の見解』日蓮正宗・青年僧侶改革同盟 
『聖教新聞』1993年9月20日)

 宗門は上記の依文を隠しておいて、何が「法義の混乱」か、日寛上人を誹謗するものではないか。これを以てしても、日顕宗はすでに日蓮正宗から抜け出た邪宗となっていることが分かる。
「聖教新聞のいうとおりならば、他宗の人でも信力・行力があれば御本尊の開眼ができることになり」とあるに至っては、もはや意味不明の戯言である。「前代未聞の愚論」であることは疑いない。

4.御本尊の「眼の功徳」

 御書には、我ら信者が御本尊を信受して唱題するときに「眼の八百の功徳」を得ると仰せである。このことを我らの「開眼」と言っても良い。

 御義口伝巻下(七六二㌻)にいわく、
「眼の功徳とは法華不信の者は無間に堕在し信ずる者は成仏なりと見るを以て眼の功徳とするなり、法華経を持ち奉る処に眼の八百の功徳を得るなり、眼とは法華経なり此の大乗経典は諸仏の眼目と、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は眼の功徳を得るなり云云、耳・鼻・舌・身・意又又此くの如きなり云云」

(眼(まなこ)の功徳とは、法華不信の者は無間に堕在し、信ずる者は成仏すると、このように見るを以って眼の功徳とするのである。法華経(御本尊)を持ち奉るところに眼の八百の功徳を得るのである。この眼とは法華経である。普賢経に「この大乗経典は諸仏の眼目なり」等と述べているとおりである。
 いま、日蓮大聖人およびその門下として、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、眼の功徳を得るのである。耳・鼻・舌・身・意の功徳についても同様である)

5.宗門に信心は存在しない

 宗門は「信仰者の信力・行力よりも、正しい御本尊を正境として信仰することが第一番に大事である」などと、〝信行を下す〟妄論を吐く。
 だが日寛上人は、信心が無ければ御本尊も紙墨(しぼく)であると指摘されている。

「若し信心なくんば一念三千の本尊を具せず」(文段集四六五㌻)

 門はこの御文を身で読む輩であり、大御本尊を格護しているにかかわらず、信心は彼らの心中のどこにもない。
大石寺の僧侶は〝得度〟して直後に、信心のことは考えないよう言い渡されると聞く。
               ◇
 いいか。僧侶になった、出家したということ自体が信心のある結果だ。だから、これからは信心を深めることは一切、考えなくてよい。折伏もしなくてよい。題目もあげてはいけない。
(『実録小説 大石寺・大坊物語』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)

 これは得度した中学一年生が、本山の大坊に入って先輩から最初に言い渡される指導である。宗門僧侶には〝信心など、持ち合わせが無い〟のである。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:65」を破折する 連載94回

妄説:65 学会では「本尊の開眼などは僧侶の権威を高めるための儀式、実際には無用のもの」と指導していますが、どうでしょうか。

 大聖人は『木絵二像開眼之事』に、
「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し」(新編 638頁)
と、開眼供養をしなければ主人のいない家に盗人が入り、魂の去った死人に鬼神が入ってしまうようなことになると教えられています。
 このように日蓮大聖人自ら開眼の重要性を示されることからもわかるように、御本尊の開眼は本宗の伝統法義なのです。
 かつて、池田氏は
「日蓮正宗の根本中の根本は、ご存じのとおり、本門戒壇の大御本尊であられる。その大御本尊と日蓮大聖人以来の血脈を代々受け継がれる御法主上人がおいでになり、七百年にわたる伝統法義が厳然(げんぜん)とある。この正宗の根本軌道に則(のっと)った信心こそが、正しき信心であり、無量の功徳があるわけである。みずからの信心の濁りや驕慢(きょうまん)から、その根本軌道を失ってはならない」(広布と人生を語る 六-四一頁)
と述べていました。
 これらの池田氏の指導は、「正宗の伝統法義を守る」ことが「創価学会の根本軌道であり」将来にわたって絶対に崩してはならない不動の路線として示されたものです。
 御本尊の開眼は本宗の伝統法義の中でも、最も重要なものです。
 それを都合が悪くなると「権威を高めるための儀式」だとか、「無用のもの」などと指導する学会のいい分は、まさに自語相違です。

破折:
1.〝御本尊の開眼〟――宗門の安易な嘘

 宗門は「日蓮大聖人自ら開眼の重要性を示される」根拠として「木絵二像開眼之事」を挙げる。
 だが本抄は御在世当時の〝人本尊〟である「木絵の仏像」の開眼につき認められたのである。この本尊は法華経に対するに「所生」であることに留意せねばならない。

 本尊問答抄(三六六㌻)にいわく、
「此等の経文仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神(たましい)なり、然(しか)れば則(すなわ)ち木像画像の開眼供養は唯(ただ)法華経にかぎるべし」

(これらの経文の意味するところは、仏は所生であり、法華経は能生である。また仏は身であり、法華経は神(たましい)である。故に、木像・画像の開眼供養は、ただ法華経に限るのである)

 これに対し大聖人の出世の御本懐は、「法華曼荼羅」の御本尊であって「能生」である。「諸仏の眼」(四六八㌻)のゆえに、開眼の儀式は無用である。
 それでも日顕宗は本抄を引き合いに「御本尊の開眼は本宗の伝統法義なのです」と強弁するが、それでは大聖人の御意志に反し「木像・画像の本尊を建立してきた」ことになる。このことは末代の法主が宗祖に対し、重大な謀叛を働いたことを表明するに等しい。
 人師・論師が祖師の仏法を破壊した例が、御書には詳細に説かれている。

 三大秘法禀承事(一〇二三㌻)にいわく、
「叡山に座主(ざす)始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言(おうげん)を本(もと)として我が山の戒法をあなづり戯論(けろん)とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒(いたずら)に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」

(比叡山延暦寺に座主が置かれ始めてから第三代の座主・慈覚と第四代の座主・智証が思いの外に本師の伝教大師と第一代座主・義真に背いて「法華と真言は理は同じであるが事において真言が勝っている」という狂った言説を根本として、自分の比叡山の戒法を侮って戯れの論と笑った故に、思いの外に延暦寺の戒は清浄で汚れのない中道の妙戒であったのに、いたずらに土泥となってしまったことは、言っても言い尽くせず、歎いてもどうにもできないことである)

2.従来の宗門のあり方まで誹謗する日顕宗

 今、日顕宗が学会授与の御形木御本尊を誹謗することは、かつての宗門の化儀まで含めて「ニセ」と言うことになる。成程、ニセ法主(日顕・日如)のニセ宗門から見れば、従来の大石寺宗門が「ニセ」と見えるものかもしれない。
               ◇
 日顕は御本尊には法主による開眼が必要であるとして、次のようにいう。
「以前から今日に至るまで、あらゆる御本尊は、下附のために総本山から離れる前に、丑寅勤行において法主が祈念をしているということを、再度、申しておく次第であります」
 だが、これはウソ八百である。かつて御本尊は末寺から発行され、法主の開眼はなかった。
 その証拠に、御形木御本尊は昔、各末寺で授与するのがそれぞれ違っていた。
 例えば、妙光寺は五十五世日布、法道院が五十六世日応、常在寺が五十七世日正というように、いずれも有縁の法主の御本尊を独自に印刷・表装・授与していたのである。
 また、学会員が草創期に授与を受けていた日寛上人の享保三年の御形木御本尊は、昭和三十年代には池袋の法道院で印刷し、全国の末寺は大石寺を経ずに直接、法道院から受け取っていたではないか。
 日顕が言うような、本山での法主の開眼など御形木御本尊については全く行われていなかった。日顕は相承を詐称するだけあって、質の悪い大ウソつきだ。
 日蓮大聖人は法主による御本尊の開眼など御書に書かれていない。大聖人御在世当時、絵像・木像の開眼供養が真言密教によってなされていたので「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(御書三六六ページ)と仰せられのである。
 大聖人の仏法においては「法華経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり」(同一〇六〇ページ)、「今末法に入って、眼とは所謂未曾有の大曼荼羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり」(同八四一ページ)等と仰せである。南無妙法蓮華経の御本尊自体が仏の眼目そのものだから、他宗の仏像のような特別な開眼の儀式など一切、必要ないのだ。
 重ねて言うと、学会員が草創期に授与を受けていた享保三年の日寛上人の御形木御本尊は、相貌も今と同じで、授与書きもなかった。法主による開眼も受けていなかったことは先に述べた通りである。つまり、学会が現在、授与している享保五年の日寛上人の御形木御本尊と悉く同じである。
 故に日顕らが今、学会授与の御形木御本尊を「ニセ本尊」と呼ぶことは、戦前から総本山大石寺が授与し続けていた御形木御本尊をニセモノ呼ばわりするのと同じことだと知れ!
(『フェイク』第626号 発行=05.10.05)

3.〝御形木御本尊の開眼〟は絶対に有り得ない

 かつて宗門に在籍した松岡幹夫氏(青年僧侶改革同盟)は、御形木御本尊の開眼は「絶対に有り得ない話」と一蹴した。
               ◇
一、私が「法主の阿部は、形木本尊を目の前に安置して開眼の祈念を行っていなかった」と断定したことに対し、日顕らは今回、次のごとく全面否定してきた。
「日顕上人は御登座以来、御形木御本尊を含む全ての御本尊を丑寅勤行の御宝前にお供えし御開眼されておられるのだ。しかも、未表装・未彫刻の段階で御開眼し、さらに表装・彫刻後にお清めをされるという厳正なものである」(十二月十三日付文書四四頁)。
 私も、日顕がここまで大ウソをついてくるとは、予想だにしなかった。思えば、法廷の場でも平然とウソをつき、重要な主張をクルクル変更しようが、何ら恥じないような鉄面皮である。さすがは日顕、と恐れ入るしかない。この一点だけでも、日顕は、宗門の全教師から内心で「大ウソツキ者」と笑われるだろう。
 私は断言する。私が大石寺に在勤していた時代、丑寅勤行の御宝前に、すべての御形木御本尊の本紙を供える、などということはなかった。ましてや表装後の軸の付いた御形木御本尊のすべてを、「お清め」のために丑寅勤行の御宝前に供えることなど、絶対に有り得ない話である。宗門が創価学会から離れる前、下付される御形木御本尊の数は莫大なものだった。何十万体もの御形木御本尊のすべてを、前後二回も丑寅勤行の御宝前に供えるとなると、これは毎回の搬送作業だけでも空前の大作業である。日顕よ、なぜそこまで子供じみたウソをつくのか。私は要求する。そして問いただす。

(七)日顕が登座してから退座するまでに下付した形木本尊の総数を公表せよ。

(八)その莫大な数の御形木御本尊の本紙を誰がどうやって丑寅勤行の御宝前まで運んだのか。また表装後の御形木御本尊のすべてを丑寅勤行の御宝前まで運び、それを下ろす、という大作業をいかなる手順で行ったのか。

(九)それらの作業は、平均すると何回に一回の割合で、丑寅勤行の折に行われたのか。

(一〇)東京の池袋・法道院から全国の末寺に御形木御本尊を出していた時代、なぜ大石寺の丑寅勤行の御宝前に御形木御本尊を供えて開眼の祈念を行わなかったのか。

(一一)念のため、「開眼の儀式は化儀であるから四悉檀の上より、時機に応じてどのようなあり方があっても不思議ではない」(十二月十三日付文書四五頁)などと逃げを打つことを想定し、「それならば、御本尊開眼の儀式における第一義悉檀とは何か」「また〝御本尊開眼の儀式は法主にしかできない〟という明確な日蓮大聖人の御文証を示せ」とも言っておく。もし日顕が、唯授一人の秘法たることを理由にして私に回答しなかった場合、当方は「道理を立てずして無理に唯即身即仏と云わば例の天魔の義なり」(『諸宗問答抄』)「経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよ」(『聖愚問答抄』)との大聖人のご教示に背くものとみなす。

 自らの体験と合理的推測に基づく私の証言を「事実無根の妄言」「全てが虚偽」と非難する以上、日顕は右の質問のすべてに詳細に答えねばならない。御本尊開眼の大事である。勿体ぶって口をつぐむのは、かえって御本尊軽賤の大罪となることを心せられよ。
(『阿部日顕への公開質問状(七〇項目)』)

 宗門の丑寅勤行に列座してきた松岡氏には、口先の嘘など通用しない。氏が完膚無きまで日顕宗の嘘を暴いたことに、快哉を叫びたい。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:64」を破折する 連載93回

妄説:64 末寺で下付されてきた御本尊は、御法主上人が開眼されたものなのですか。

 本宗における「開眼(かいげん)」とは、御法主上人の允可(いんか)によって、本門戒壇の大御本尊の血脈が通じることであり、従来、末寺で信徒に下付されてきた御本尊は、すべて御法主上人の允可すなわち開眼がなされてきたものです。
『大白蓮華』にも
「末法の現在においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本仏様であらせられるのであります。また、われわれがいただいている御本尊様も、文底事の一念三千、真の草木(そうもく)成仏の理によって開眼された、これまた生身の御本仏様であります。この御本尊様こそ、真の木絵(もくえ)二像開眼の姿でなくてなんでありましょうか。これは日蓮正宗以外の邪宗では絶対になしえないところであり、ただ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であります」(同書 六二-二七頁)
と説明していたように、宗門では七百年来本門戒壇の大御本尊のもと、御法主上人によって御本尊の開眼がなされてきたのです。

破折:
1. 御本尊建立の意義

 末法の御本尊が建立されたとき、御本尊の「正意」「真理」(『弁惑観心抄』)が顕われ、「生身の御本仏様」(戸田会長)が出現する。このことを、戸田会長は「真の木絵(もくえ)二像開眼の姿」と呼んだ。正法・像法の「木絵二像開眼」に対し、「真の」と形容して明瞭に区別したのである。

(1)正・像の本尊

 正法・像法年間における本尊は〝画像・木像〟であり、「造り画(えが)かれた」ものである。
 この〝画像・木像〟の本尊は三十一相であって〝梵音声(ぼんのんじょう)〟の一相が足りず、三十二相の生身の仏には遙かに及ばない。
 よって、木画の二像の前に経を置くとき、三十二相が具足するのであるが、法華経以外の如何なる経典を置いたところで、木画の二像は仏とならない。
 三十一相の仏像の前に法華経を安置するとき、この仏像は正しく純円の仏である。法華経は「諸仏の眼」のゆえに、「木絵二像開眼」と言ったのである。

 木絵二像開眼之事(四六八㌻)にいわく、
「『此の大乗経は是れ諸仏の眼なり諸仏是に因つて五眼を具することを得る』等云云」

(「この大乗経は、諸仏の眼である。諸仏はこれによって五眼をそなえることができる」などと説かれている)

(2)末法の本尊

 正法・像法年間に法華経による開眼を行なったのは、本尊が三十一相の仏像(画像・木像)のゆえであった。しかし末法における本尊は法華経そのものである。

 富士一跡門徒存知の事(一六〇六㌻)にいわく、
「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」

 末法の本尊は「諸仏の眼」すなわち法華経のゆえに、建立の時より〝眼目〟が具わっている。宗門の言う「魂入れ」は無用である。よって正・像の「木絵二像開眼」に対し、戸田会長は「真の木絵二像開眼」と呼んだのである。

2.「再度の開眼」は不要

 末法の「御本尊」は〝出現〟されるとある。人法一筒の御本尊ゆえに、法であり人(仏)であらせられる。御本尊が書写されたとき「生身の御本仏様」(戸田会長)が出現されたのである。

 観心本尊抄(二四八㌻)にいわく、
「此等の仏をば正像に造り画(えが)けども未だ寿量の仏有(ましま)さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可(べ)きか」

(これらの仏をば正法・像法年間に造り画(えが)いたけれども未だ寿量品に説き顕わされた仏は建立されていない。末法に至って初めて文底下種・人法一筒(にんぽういっか)の大御本尊がかならず建立されるのである)

「此の仏像」とあることにつき、戸田会長は次の通り講義した。
                 ◇
 また「仏像」というから、かならず画像・木像に限るということはない。正像には「造り画(えが)く」とあり、末法には「出現」とあるによってもその意を知るべきである。さらに本尊抄(二五三㌻)に「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚(ようち)に服せしむ」と。また救護(くご)本尊にいわく「上行菩薩世に出現して始めて之を弘宣(ぐせん)す」云々。以上、三か所に「始めて出現」と同じくおおせられている意をよくよく拝すべきである。
(『日蓮大聖人御書十大部講義』第四巻「観心本尊抄」戸田城聖著P360)

 この通り御本尊は「生身の御本仏様」としてすでに出現されており、今さら末代の法主などが「再度の開眼」云々と言い立てようと、御本尊の功力が減じる道理が無い。

3.「嘘は宗門の常」

「末寺で信徒に下付されてきた御本尊は、すべて御法主上人の允可すなわち開眼がなされてきたものです」とあるが、すぐに分かるウソである。〝嘘は宗門の常〟とは、もはや諺である。
 御形木御本尊には、建立された御本尊の相貌そのままに、大御本尊の正意が顕われる。

「其の墨質(ぼくしつ)を尊んで本尊となすにあらず其の字體(じたい)を崇(あが)めて本尊となすにあらず尊む所は只だ其の正意のみ崇むる所は只だ其眞理のみ」(『弁惑観心抄』二〇二㌻)

 このゆえ、かつて末寺で授与した御形木御本尊は、本山の指示を受けることなく、各寺のやりかたで印刷し表装に出していた。
 日顕の代になって、本山に御本尊を取り扱う内事部第三課が設置されたが、第三課に勤めていた複数の僧侶が、次の通り証言している。

「御形木御本尊の場合、表具の前にも後にも、日顕が祈念などすることは一度もありませんでした」(『創価新報』1993.10.20より)

 この通り、御形木御本尊の授与に当職の法主による「再度の開眼」を行なうことなど、史実において皆無である。また九世日有師の『化儀抄』をはじめ、あらゆる文献を渉猟し捜索しようと、御形木御本尊にかかる開眼の文証は、一切出てこない。日顕宗の捏造である。
 御本尊を〝金儲けの道具〟としか目に映らない宗門には、法体の血脈どころか、信心の血脈すら流れていない。あるのは日顕以来、堆(うずたか)く積みあがった謗法・貪欲・怨嫉ばかりである。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:63」を破折する(その三) 連載92回

妄説:63 「開眼(かいげん)」とはどういうことですか。

 開眼(かいげん)とは一般には「魂を入れる」などといわれていますが、書写された御本尊を法によって供養し、魂を入れることです。
 日蓮大聖人は『本尊問答抄』に
「木像画(え)像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(新編 1275頁)
と仰せられ、『四条金吾釈迦仏供養事』に
「此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり(中略)画木にて申せば草木成仏と申す」(新編 993頁)と説かれております。
 また、第三十一世日因上人は御消息の中で
「木絵(もくえ)の二像は本と草木にて有り、然(しか)るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極(しごく)の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累(るい)も乱れず相伝是れ也」と仰せられ、第五十六世日応上人は「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示(すいじ)し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教 二七-四七四頁)
と仰せのように、本宗において御本尊の開眼は、本門戒壇の大御本尊の功力と、「大事至極」の「極意の相伝」による御法主上人の允可によらなければなりません。
 ちなみに学会の『仏教哲学大辞典』では、
「末法における開眼供養は、ただ三大秘法の大御本尊のみによる以外にないのである」(同書 一-五九〇頁)
と説明していますが、今日の学会のように「信心をもって拝すれば、本尊も開眼できる」と指導するのは、大きな誤りです。

破折:
7.〝法主が御本尊を開眼する〟という慢心

 大聖人は『開眼の仏事』が天台宗を謗法と化したと破折
 御本尊は開眼する側であり、開眼されるものではない!

① 信徒を脅すために「開眼」を強調し、かえって本尊の意義を狂わせる宗門

 大聖人の当時、「開眼」の儀式は僧侶の重要な「収入源」となっていた。そのため、どこの宗派も「真言」を用いて「開眼」の仏事を行っていた。
「法華経」を依経とする天台宗も同じで、布施を取るために、教義的に謗法であるはずの「真言」を用いて、「開眼」の仏事を行い、そのことが、天台宗が謗法に染まった一因でもあった。
 そのことを大聖人は「報恩抄」で次のように仰せだ。
「天台宗の人人画像木像の開眼の仏事をねらはんがために日本一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり」(御書三〇九頁)
 すなわち、天台宗の人々は信徒から布施を取ることに躍起になって「開眼の仏事」を行い、その結果、謗法の宗と化してしまった。
 今の宗門も原理は同じだ。宗門事件が起こるまでは、本尊の「開眼」など、宗内で誰も耳にしなかった。ところが、創価学会が本尊授与を始めた途端に、「開眼が必要」と言いだした。彼らは、信徒を脅すために「開眼」という言葉を利用し、かえって御本尊の意義を狂わせてしまっている。
(『新改革通信』111号 平成23年10月17日 発行:日蓮正宗改革同盟)

② 御本尊は開眼する側であり、開眼されるものではない

 御書の中には、御本尊の開眼については全く述べられていない。なぜなら、大聖人は、
「法華経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり」(同一〇六〇頁)
「今末法に入って、眼とは所謂未曾有の大曼荼羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり」(同八四一頁)
と仰せであり、御本尊自体が、仏の眼目であり、魂そのものであるからである。ゆえに、他宗の仏像のような開眼の儀式などは一切、必要ない。
 宗門は『木絵二像開眼之事』等を引用して、〝本尊には開眼が必要〟と躍起になっているが、大聖人が仰せになっているのは、「木絵の開眼は法華経による」ということだ。
 すなわち、「法華経」とは「御本尊」のことであり、あくまでも御本尊は木絵を開眼する側であり、他のものに開眼されるべきものではない。
 ところが、今の宗門の言い分では、法主が御本尊を開眼する立場になり、御本尊、大聖人よりも上になってしまう。何という慢心であろうか。
(同)

③ 「明鏡たる本尊」に仲介者は必要ない

 大聖人は「明鏡たる本尊」(御書七六三頁)と仰せである。衆生の胸中の御本尊を映し出す「明鏡」であってこそ、仏界涌現という即身成仏の功徳を生ずる。もし、「開眼」の儀式を言うのなら、その人の強盛な信心唱題こそ、「開眼」である。
 肝心なことは、大聖人の教えに従う正しい信心であり、そこに、「法主の許可」「開眼」という仲介など必要ない。
(同)

④ 日達法主の時代は、豊島区・法道院から御本尊を発送

 昭和三十年代に授与されていた日寛上人の御形木御本尊は、東京・池袋の法道院で印刷し、全国の末寺に直接、発送されていた。宗門が言うような、本山での法主の開眼など御形木御本尊については全く行われていなかった。それは日達法主の時代まで続いていた。日顕の代になり、本山に御本尊を扱う「第三課」という部署が出来た。しかし、御本尊の印刷は、外部の印刷会社が行っている。
 そして印刷会社が運んで来た御本尊を僧侶が印刷の状態を確認して箱に詰め、各末寺に運送会社を使って発送している。その際に、「開眼」などの特別な儀式などしていない。これが歴史的事実である。
(同)

8.存在しなかった「御本尊の開眼」

 僧侶のマニュアルにあるのは、数珠と墓石の開眼だけ
 御本尊を数珠・墓石と同等に扱い、軽んじている宗門

① 南無妙法蓮華経と唱えるだけの「数珠の開眼」

 今回の宗門事件が起こるまで、「開眼」と言えば、宗内では「数珠の開眼」か「墓石の開眼」のことだった。御本尊の開眼など口にする者はいなかった。事実、僧侶のマニュアルである『教師必携』には、「開眼」に関しては、「数珠の開眼」しか記載されていなかった。
 その作法として
「御開眼は読経唱題中に導師が数珠を両手にかけ、南無妙法蓮華経と祈念する」
とある。
 特別な祈念などない。これなら、誰でも出来る。〝僧侶にしかできない〟というのであれば、僧俗差別を作りだすための詭弁でしかない。
 この「数珠の開眼」でも分かる通り、「御本尊」と「唱題」によって数珠が開眼されるのである。常に御本尊は開眼する側にあり、開眼されるものではない。
(『新改革通信』114号 平成23年10月23日 発行:日蓮正宗改革同盟)

② 『教師必携』の改訂版に「墓石の開眼」が加筆

 宗門では、墓石の開眼も行っていたが、古い『教師必携』には、墓石の開眼については何も触れられていなかった。ところが、なぜか、平成十四年版には墓石の開眼が加筆されている。おそらく、末寺によって作法がバラバラであったから、統一したのであろう。
 結局、彼らは自分たちの特権を誇示するために「開眼」という言葉を利用しているが、マニュアルである『教師必携』にあるのは数珠と墓石の開眼であり、確たる化儀などない。
(同)

③ 一部の御本尊を御宝前にお供えしていた日顕。お供えしていない御本尊との違いは何か?

 宗門では、一般の御形木本尊は、何の儀式もなく、そのまま末寺に配送されていたが、板御本尊と常住御本尊だけは、日顕が導師をしている時に、御宝前にお供えしていた。
 もし、この「お供え」が「開眼」というのなら、これこそ、誰でもできることである。また、お供えした御本尊とお供えをしていない御本尊との違いは何か?
 彼らは、日蓮大聖人が「一切経の眼目」と仰せの御本尊を差別して扱っているだけだが、お供えしない本尊でも宗門では通用するのだから、ただの形式に過ぎないということだ。
(同)

④ 化儀を悪用して、僧俗差別を作りだす宗門

 化儀とは、仏が衆生を教化するための方法のことである。儀式もその一つであるが、今の葬儀・法要などは、江戸時代の檀家制度によって生まれたものである。その実態は、供養搾取の手段となっている。
 彼らが突然、言い始めた「本尊の開眼」は、数珠や墓石の「開眼」と同じで、僧侶の特権を作りだすための儀式となっている。そして、彼らにとって「儀式」とは信徒支配の道具なのである。
 大聖人の仏法における化儀の根本は〝御本尊を拝す〟ことである。
日蓮大聖人云く
「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」と。
 胸中の御本尊を「明鏡」たる御本尊に映し出して拝す。そこに、誰かが介在する必要などない。
(同)
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:63」を破折する(その二) 連載91回

妄説:63 「開眼(かいげん)」とはどういうことですか。

 開眼(かいげん)とは一般には「魂を入れる」などといわれていますが、書写された御本尊を法によって供養し、魂を入れることです。
 日蓮大聖人は『本尊問答抄』に
「木像画(え)像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(新編 1275頁)
と仰せられ、『四条金吾釈迦仏供養事』に
「此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり(中略)画木にて申せば草木成仏と申す」(新編 993頁)と説かれております。
 また、第三十一世日因上人は御消息の中で
「木絵(もくえ)の二像は本と草木にて有り、然(しか)るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極(しごく)の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累(るい)も乱れず相伝是れ也」と仰せられ、第五十六世日応上人は「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示(すいじ)し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教 二七-四七四頁)
と仰せのように、本宗において御本尊の開眼は、本門戒壇の大御本尊の功力と、「大事至極」の「極意の相伝」による御法主上人の允可によらなければなりません。
 ちなみに学会の『仏教哲学大辞典』では、
「末法における開眼供養は、ただ三大秘法の大御本尊のみによる以外にないのである」(同書 一-五九〇頁)
と説明していますが、今日の学会のように「信心をもって拝すれば、本尊も開眼できる」と指導するのは、大きな誤りです。

破折:
4.御書の「換骨奪胎」

 日顕宗が本尊義を捏造する手口とは、御書を「換骨奪胎」(=読み替え)することにある。彼等はその悪行を正当化し、はばかることがない。
 宗門は今回、本尊の開眼が必要とされる御文をいくつか挙げている。

「木像画(え)像の開眼供養」(『本尊問答抄』)、
「此の画木(えもく)に……画木にて」(『四条金吾釈迦仏供養事』)

 これはどれも、三十一相の「絵像・木像」の仏、〝人本尊〟の開眼を説かれた箇所である。確かに大聖人の一宗弘通の初めには、門下が「釈迦仏」の造立を行なったことがあった。
 しかし大聖人は、出世の本懐たる「妙法曼荼羅」の御本尊を開顕されて以降、木絵二像の人本尊は二度と用いられなかった。

 本尊問答抄(三六五㌻)にいわく、
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」

 法華経の題目は、造立された「仏像」や描かれた「仏画」ではない、「文字」である。ところが宗門・法華講の輩は御書を換骨奪胎し、「法華経の文字」を不遜な言葉に置き替え、御本尊を貶めるのである。

5.三十二相を補完する「一相」

 宗門の大誑惑を糾弾する前に、仏像の三十二相に足りない「一相」とは何であるか、復習しておく。

(1) 一相とは「梵音声」

 木絵二像開眼之事(四六八㌻)にいわく、
「梵音声(ぼんのんじょう)の一相は不可見無対色(ふかけんむたいしき)なれば書く可らず作る可らず、仏滅後は木画(もくえ)の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり」

(梵音声の一相は不可見無対色であるから、書くこともできないし、作ることもできない。仏滅後は木像・画像の二像がある。これは三十一相まではそなえているが、梵音声が欠けている。ゆえに仏ではない。また、心法が欠けている)

 足りない一相とは「梵音声」であるが、如何にして仏像に音声を加えることができるか。

(2) 一相とは「経」

「木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり、但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに」(同㌻)

(木画の二像の仏の前に経を置くとき、三十二相は具足するのである。ただし、心法がなければ三十二相を具えているといっても、かならずしも仏ではない。人界、天界の衆生にも三十二相があるからである)

 仏像の前に仏の声教(しょうぎょう)たる経典を置けば三十二相となる。だが経であれば何でも良いわけではない。

(3) 一相とは「法華経」

 仏像を〝仏〟たらしめる経典とは、ただ一つである。

「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身(しょうしん)の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(同㌻)

(法華経を心法と定めて三十一相の木絵の像に刻印するとき、木絵二像の全体は生身(しょうしん)の仏である。草木成仏というのはこのことである)

  〈正像時代の木絵二像の本尊義〉
  〇三十一相 ……「木像・画像」の仏
  〇一相 …………(1)梵音声 (2)経 (3)法華経

6.日顕の〝法魂〟が「一相」との妄言

 前述のことは、正像時代に造立された「木絵二像」の本尊義であった。しかし大聖人は末法相応の本尊として、「妙法曼荼羅」の御本尊を開顕されたのである。
 ところが宗門は、「妙法曼荼羅」の御本尊を旧態然の「木像・画像」と見なし、大聖人の仏法を損壊してやまない。次の文は、ある法華講員の妄想である。
               ◇
(学会員は)どんな姿をした「三十一相」の本尊状のものでも、法華経という経典を置きさえすれば「三十二相」の仏(本尊)だと言い募っております。これこそ可笑しな話であります。(中略)
 創価学会員には理解できないのであります。御本尊の姿さえしていれば、能生の法体・帰命の対象だと思っている。まさに脳が相当な重症というほか言いようがないのであります。(中略)
 妙法曼荼羅御本尊は三十一相の御本尊の姿をした御本尊状に、心法の法体である「一相」を存させているが故に三十二相の完全体本尊なのであります。
(ハンドルネームmnk_jamp)

 学会が日寛上人の御本尊授与を開始した直後に、日顕宗が仕立て上げたオカルト教義である。オカルトとは「論理で立証できない超常現象あるいは霊能力」であり、日顕宗の言い分には御書の依文(=文証)が無く、教義の根拠を示すことができないものである。  

 富士一跡門徒存知の事にいわく、
「日興が云く、聖人御立(ごりゅう)の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任(まか)せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。

 くだんの法華講員は、本抄をも読み替える。

「この箇所で言うところの『即ち御自筆の本尊是れなり』とはまさに画像の類であります」(同)

  〈日顕宗の捏造による本尊義〉
  〇三十一相 …… 御本尊の姿をした画像の類
  〇一相 ………… 心法の法体(=法魂)

 前述の御文(『富士一跡門徒存知の事』)では「絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」として木像画像を明確に否定し、同時に「御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す」、法華経の文字を本尊とすると結論されている。
 文脈は明瞭であり、誤読のしようもない。それをなお「画像の類」と強弁する法華講員には、〝盲信〟を通り越して〝狂気〟をも感じさせるものがある。
 釈尊の法華経二十八品は〝正像の経典〟であり、その文底には末法の大法・南無妙法蓮華経が御座される。しかし日蓮大聖人の御書はそのまま〝末法の経典〟であり、読み替えは許されない。
 宗門・法華講らは御書を換骨奪胎する行為を称して「文底読み」と言うが、それこそは正法を破壊する〝魔道〟である。

 報恩抄(三一三㌻)にいわく、
「吾般泥洹(はつないおん)の後五逆濁世に魔道興盛し魔沙門と作って吾が道を壊乱(えらん)せん」

(われ、入滅ののち、五逆濁世に悪魔の邪教が盛んになり、魔が僧侶の姿となって出現して、わが仏法を乱し破壊してしまうであろう)

 だが御本尊には「若し悩乱せん者は頭(こうべ)七分(ぶん)に破(わ)れん」とお認(したた)めである。法華講員がすでに「脳が相当な重症」である厳然たる事実には、哀れとだけ言おう。

7.〝能生〟を以て本尊とする――依文は『本尊問答抄』

 大聖人は御本尊の意義を『本尊問答抄』において明かされた。本抄も、文脈・語彙ともに明瞭であり、読み替えの余地は無い。

 本尊問答抄(三六六㌻)にいわく、
「何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とするや、答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす其の義あるべし、問う其の義如何仏と経といづれか勝れたるや、答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし」

(どうして天台宗のみが法華経を本尊とするのか。答えて言う。彼ら諸宗が仏をもって本尊としているのに、天台宗が経を本尊とするのは、根拠となる道理があるからである。
 問うて云う。その根拠となる道理とは一体何か。答えて言う。本尊とは勝れたものを用いるべきである)

 大聖人は『観心本尊抄』を著されて後は、それまでの仏像造立をすべて廃止されたのである。「絵像・木像の仏像」よりも、「大聖人御図顕の本尊」が勝れるゆえである。

「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、……其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生(しゅっしょう)し給へり故に今能生(のうしょう)を以て本尊とするなり」(同㌻)

(問うて云う。そうであればなぜあなたは釈迦を本尊としないで法華経の題目を本尊とするのか。(中略)なぜなら、法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目であり、釈迦如来・大日如来をはじめとして、総じて十方の諸仏は法華経より出生されたからである。故に今、能生の法たる法華経をもって本尊とするのである)

 大聖人御図顕の御本尊が勝れる理由は、御本尊が「能生」である法華経そのもののゆえである。

「此等の経文仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神(たましい)なり、然(しか)れば則(すなわ)ち木像画像の開眼供養は唯(ただ)法華経にかぎるべし而(しか)るに今木画(もくえ)の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもと(最)も逆なり」(同㌻)

(これらの経文の意味するところは、仏は所生であり、法華経は能生である。また仏は身であり、法華経は神(たましい)である。故に、木像・画像の開眼供養は、ただ法華経に限るのである。にもかかわらず、今の真言宗が、木像・画像の二像をもうけて大日仏眼の印と真言とをもって開眼供養を行なっているのは最も道理に背いた姿である)

 木像・画像の仏は所生であるゆえ、開眼供養が必要である。ところが大聖人御図顕の御本尊は能生であり、開眼が無用であることは、論を俟たない。

8.悪徳法主の「一相」

 法主が書写した御本尊には、法主の「一相」が伝わる云々、と宗門・法華講が言うならば、史実から確認しておきたい。
               ◇
 最近も、ニセ法主・日如の金釘流「サインペン本尊」を拝む気がしないと悩む法華講員がいるとのことだが、江戸時代にも有力檀徒に書いた御本尊を拒絶された大謗法の法主がいた。
 その法主とは第十七世日精で、有力檀徒とは敬台院である。敬台院は徳川家康の長男・信康と織田信長の息女・徳姫との間に生まれた登久姫の娘で、父親は小笠原秀政。つまり信長と家康の曾孫に当たり、阿波の藩主・蜂須賀至鎮に嫁ぎ、大石寺に御影堂を建立寄進したのをはじめ法詔寺建立、朱印状下附、細草檀林の設立支援など宗門を外護した大功労者である。
 この敬台院が日精と信仰面で衝突し「此(日精筆)まんだら(曼荼羅)は見申す度毎にあくしん(悪心)もまし(増)候まゝ衆中の内に帰し申し候」(富士宗学要集)と、日精が書写した本尊を拝すると悪心が増すから返却すると述べ、日興上人の御本尊と取り替えたほどの激しい対立であった。
 学会員が近年、ニセ法主の日顕が書いた本尊は「功徳がなく、悪心が増す」と日寛上人御書写の御本尊と取り替えたのと似ている。
(『フェイク』第1313号 発行=12.08.15)

 富士の清流に〝造仏〟の異流儀をもたらした謗法法主・日精が書写した本尊には、「あくしん(悪心)」が増す「一相」が具わっていたのである。

9.日顕・日如の「一相」とは

 日顕・日如の書写になる「脱字本尊・誤字本尊」は、御本尊書写の相伝書の記述からはほど遠い〝紛(まが)い物〟である。前述の法華講員が〝本尊状のもの〟〝御本尊状〟と言うのはこれである。
 現今の宗門・法華講らには、ニセ法主の「一相」が入魂された〝本尊状の御本尊〟がお似合いである。
 この二人に共通する「一相」とは、「暴力の相」である。

  〇「所化虐待の相」
  〇「弱者苛めの相」

 日顕書写の本尊ならば、さらに何相も入魂されたことであろう。

  〇「シアトル買春の相」
  〇「相承詐称の相」
  〇「破和合僧の相」

 だが「最凶の一相」は、日顕の〝大御本尊誹謗〟の相である。

  〇「正法誹謗の相」
  〇「魔仏の相」
  〇「堕地獄の相」

 法主の「一相」を以て三十二相が完結すると言うなら、上述の本尊が出現するのである。法華講員が日顕・日如の与同罪となるのは、避けることができない。
 日顕・日如の「一相」が入魂された「邪念本尊」は、我らには永久に無用である。
                          (続く)
 

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Author:墨田ツリー

 
 
 

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