日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:53」を破折する(その二) 連載77回
妄説:53 創価学会では「御本尊の書写や授与などの権限は広布を目指す『信心の血脈』ある和合僧団にこそ与えられる資格がある」といって創価学会の本尊授与を正当化していますが、それでよいのでしょうか。
創価学会には、決して本尊授与の資格はありません。なぜならば、本尊授与は唯授一人の血脈によってなされるからです。
第五十九世日亨上人は、
『化儀抄註解(ちゅうげ)』に「然るに本尊の事は斯の如く一定(いちじょう)して・授与する人は金口(こんく)相承の法主に限る」(富要 1-112頁)
と仰せられ、本尊授与を含めた御本尊にかかわる一切のことは、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人以外には許されないと教示されています。
学会は「自分たちが和合僧団である」とか「信心の血脈がある」といいますが、総本山大石寺に敵対し、御法主上人を誹謗する現在の学会は、日蓮大聖人の御精神を欠落した謗法集団であり、和合僧団などではありません。
まして「御本尊を授与する資格がある」などは、根拠のない戯言(たわごと)というほかありません。
破折:
3.〈六十世阿部日開〉〝天魔・日顕〟の父(続き)
(2) 御本尊の誤写
一連の宗内抗争を経て、阿部法運は遂に法主に就任し、六十世日開を名乗った。だが登座直後に御本尊を誤写し、出家・在家より非難を受けた。「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべき讃文を、「仏滅度後二千二百二十余年」と書写したのである。
これによって日開が謝罪した文言が、次の通り。
「タダ漫然之ヲ認(した)タメ何トモ恐懼(きょうく)に堪へヌ」(「声明書」〈御本尊問題の顛末〉)
誤写の理由を〝注意不足〟にあったとした。「日開は相承を伝授されていない」「相伝の何たるかも知らない者」と言われかねず、そう言うしかなかったのである。
日開が「漫然と誤写」した御本尊は、数十幅とも言われている。日開は一応陳謝したものの、それらの本尊を回収・訂正しようとはしなかった。
注意不足どころではない、所詮は日開の「定見の無さ」にあり、相承の内容について判断するだけの、法主たる規範を有していなかったのである。詳しく述べていきたい。
① 「御本尊七箇相承」が書写の鉄則
相伝書「御本尊七箇相承」には、次の通り記される。
「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」
(『富士宗学要集』第一巻所収)
ここでは明らかに、「仏滅度後二千二百三十余年」と認(したた)めるべきと記されている。日興上人に連なる代々の法主においては、これが正しい書写とされてきたのである。
ところが阿部派の主張では、こう言い訳をした。
◇
此相承は宗祖より御開山への口決であったのが、此の如きの文になったのは、或は御開山滅後かも知れぬ、此等の古書の扱の事は先年より御隠尊上人が御校定中である。今師について聞くに七箇相承と云ふも七箇は本条の前々で尽きておるので、此条は条を逐へば九条目あたりになる。或古本には、明かに七箇条目から後は附録となってをる。此文の扱を迂濶にしては困る。余程慎重にせねばならぬとの仰である。
(「弁駁書」昭和三年十二月二十九日付)
文中の「今師」(=阿部日開)は、相承書「御本尊七箇相承」に疑義をはさんでいた。相承書の名称に〝七箇相承〟とあっても、現在伝わるのは七箇条の他に、四箇条の追記があり、問題の箇所はその追加条目の部分である。 日開は、「後世の加筆」とまでは言わないまでも「本文」ではない、と言いたかったのであろう。
② 御本尊の讃文
御本尊の讃文の年代表記について整理すると、次の通りである。
(1)日蓮大聖人の御書写になる御本尊の讃文は、書写された年代によって「仏滅度後二千二百二十余年」と「仏滅度後二千二百三十余年」の二種がある。
(2)戒壇の大御本尊の讃文には「仏滅後二千二百二十余年」とある。
(3)相承書「御本尊七箇相承」には「仏滅度後二千二百三十余年」とある。
大石寺代々の法主が書写する御本尊は、戒壇の大御本尊の書写である、と言われてきた。その意味からすれば、讃文は「仏滅後二千二百二十余年」となるはずである。だがそれは相承書の記載と一致しない。
戒壇の大御本尊と相承書との不一致の箇所は、これだけではない。相承書には「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可し」と、功徳・罰を説いた讃文を書くこととなっているが、戒壇の大御本尊には功徳・罰の讃文は無い。
宗門はこれらに関し、何と公言しているか。
◇
日蓮正宗の公式教義書である『日蓮正宗要義』には、「大石寺血脈の法主の略本尊」(p.200)の宗教的意義に関して、「万年の流通においては、一器の水を一器に移す如く、唯授一人の血脈相伝においてのみ本尊の深義が相伝されるのである。したがって、文永・建治・弘安も、略式・広式の如何を問わず、時の血脈の法主上人の認可せられるところ、すべては根本の大御本尊の絶待妙義に通ずる即身成仏現当二世の本尊なのである」(p.201)と述べられて、戒壇本尊を書写したとは明言されていず、戒壇本尊の内証を(あるいは相伝された深義の内証を)法主が書写したものであり、法主の認可があれば、「戒壇本尊の妙義に通ずる」として、戒壇本尊とその他の本尊との救済論的関係を保証する者としての法主の役割を強調しているだけである。
(「日興の教学思想の諸問題(1)-2」宮田幸一のホームページ)
ここでは〝法主が判断する通り〟とするのみで、〝大御本尊を書写する〟とは一言も述べておらず、御本尊書写の具体的規範となっていない。
何を基準として法主の書写すべき本尊とするか、日開はそれに迷ったのである。我見だけで相承書の記載に不信を持ち、あえてそれに反することを為したわけである。
だが結局は、強烈な非難に耐えきれず、改めて訂正文を書かざるを得なかった。
「御本尊二千二百二十余年並に二千二百三十余年の両説は、二千二百三十余年が正しく、万一、二千二百二十余年の本尊ありとすれば後日訂正することとする。依って弟子旦那は二千二百三十余年の本尊を信ずべきものである。
以上
六十世 日開 花押」
先述した通り、大聖人の御本尊には年代表記が二様ある。また相伝書の年代表記と戒壇の大御本尊のそれとは一致しない。一見、無秩序のようであるが、そこには伝統のルール・形式が存在し、決め事となっている。
日開が訂正文を書いたことは、何を意味するか。日開自身が相伝を受け登座している身なのだから、自身が受けた相承の中身に照らせば、御本尊書写の仕方において「二十余年」が正しいか、「三十余年」が正しいかなど、たちどころに判断できたはずである。
それにもかかわらず、法主として判断できず、あえて相伝書の記載に逆らって書写したことは、日開自身が御本尊書写についての特別な相承を受けていないことを、はっきり示しているのである。
遡れば日開の三代前、五十七世日正は後嗣に面授相承ができず、在家が預かって五十八世日柱に伝授した。その日柱も、次の五十九世日亨法主に形ばかりの相承しか行なわず、日亨法主は周囲の懇請により、「日正師が特別の相承を預けたと云う者」から相承の中身を聞き取らざるを得なかった。
上記の通り法主が代替わりするたびに、相承の中身が乏しくやせ細ったものとなって行ったのであり、相伝書の正誤を判断するだけの規範も相承されていなかった、ということである。
日開の事跡は、「唯授一人の血脈相承」など、すでに有名無実のものとなっていたことを、世に示したのである。
(参考)
先に「伝統のルール・形式が存在し、決め事となっている。そのための相承というわけである」と書いたのは、下記の記事を踏まえたものである。
◇
堀日亨上人が校閲された福重照平著の『日蓮本佛論』(昭和二年九月二十八日、大日蓮社発行)には、
「聖祖図顕のそれ(筆者注 御本尊)は正しく流通分の大曼荼羅である。流通には両種ある。所謂勧持の流通と付属の流通である。勧持は在世滅後に亘り、付属は滅後に限ることは云ふまでもない。二十余年は聖祖御化導の正宗の終り流通の初に約したるもの、三十余年は御帰寂の弘安五年を志し玉ふものなるは知り易い、聖祖御滅後を付属されたる嫡弟及其の末流が御本尊書写に当りては必ず仏滅後二千二百三十余年と書き奉るべき旨の相伝がある。此は付属流通に約したる当然の御訓誡である」
と書かれている。
定見もない日開、日顕に比べ、論理整然たるものを感じる。
(「地涌」354号)
③ 日顕の妄言
日顕は御本尊の年代表記につき、こう述べている。
◇
歴代上人のなかには宗旨上の特別な拝仰の上から「二千二百二十余年」と書写された例があります。例えば、17世の日精上人、19世の日舜上人、41世の日文上人等の御本尊の一部に拝されますが、通常の書写はもちろん「二千二百三十余年」と書くのが古来の通規になっております。私も登座以来、1幅も「二千二百二十余年」と書写申し上げたことはありません。すべて「三十余年」と御書写申し上げております。
(日顕「創価学会の偽造本尊義を破す」119頁)
日顕の話にある十七世日精、十九世日舜は、どちらも京都要法寺出身である。十五世日昌(にっしょう)から二十三世日啓(にっけい)まで、九代の大石寺の貫主は京都・要法寺から迎えた。日亨師によれば、大石寺は管長の地位と引き換えに、経済的援助を期待したのである。だが同時に、要法寺の異流儀がもたらされる結果ともなった。
すなわち十七世日精は、一時は十箇寺を越える末寺に仏像を造立した。時代が下って、同じ要法寺出身の二十二世日俊が、日精の死去後に仏像を撤廃するまで、約半世紀もの間、末寺に仏像が祀られていたのである。
日精の目の黒いうちは、代々の法主は仏像撤廃をしなかった。そのような謗法容認の異常な時代にあった法主達の為すことに、何の〝基準〟〝信頼〟が置けよう。日精・日舜ともに、誤った本尊書写をしていたと言うだけのことである。
四十一世日文については、登座してわずか一年一か月で逝去した人とあり、本尊書写のことは不明である。
要するに、代々の法主のうちでもごく少数の例を取り上げたにすぎない。日顕の話はまだ続く。
◇
しかしながら「二千二百二十余年」という御本尊だから拝んではいけないなどということはない。総本山塔中久成坊の本堂に昔から安置されている常住板御本尊には「二千二百二十余年」とお書きになってある。しかも、この裏書きに26世日寛上人の判形がある。これは、もう明らかに「二千二百二十余年」の先師の御本尊の模刻を日寛上人が允可(いんか)されておるのです。
(同)
日顕は、法主が允可したのだから間違いでは無いと言う。しかし、允可しさえすれば「正当」である、ということにはならない。日寛上人は「追認」したのであって、〝本来の書式である〟と認めているわけではない。
葵の印籠ではあるまいし、「允可」の語さえ持ち出せば、何でも正当になるとの言い分は、話のすり替えである。 そのような言葉が通用するのは、脳味噌を引き抜かれ、精神的自立ができずに、宗門の言葉しか頭に入ってこない法華講の檀徒だけである。
最後に、日顕はいつもの言葉をもって、話を結んでいる。
◇
要するに、相承を受けない者が、特に在家の者がこういうことを簡単に云々すべきではないということだけを、ひとこと言っておきます。
(同)
これでは「法主の内証次第により、〝相伝書〟であろうと〝伝統法義〟だろうと、何でも変えられる権能を持っている」と言わんばかりである。
だが、日顕が今さら父親の名誉回復を図ろうしても、どうにもならない。出処進退は本人の判断である。日開は法主としての自らを評価し、誤りがあったと非を認め謝罪した。今さら日開の言辞を蒸し返すこと自体、かえって先師である父を辱め、冒涜することになるのが分からないか。かえって、謝罪した阿部日開が「相伝の何たるかをも知らない者」であった事実が、あらためて世に露顕することとなったのである。
(3)身延を大聖人の「廟所」と認む
昭和六年、日蓮宗各派が合同で日蓮大聖人の「立正大師」号の「立正」の文字を天皇に書いてもらうための、請願運動を進めた。同年四月、身延山久遠寺の住職(岡田日帰)の名で、宮内大臣及び文部大臣に請願書を提出した。
問題なのはその際、宮内省と文部省は、後でいざこざが起こらないよう「勅額」降賜の条件として、大聖人の墓が身延山にあることを日蓮宗各派が認め、身延山久遠寺への「勅額」下賜に各派とも賛成することを証明する「念書」の提出を求めたことである。
この時、日蓮正宗管長の阿部日開も、念書を文部大臣に提出したのであり、その文面にあるのが、次の文字である。
「御廟所在地山梨県身延山久遠寺」
(山梨県の身延山久遠寺が、日蓮大聖人の御廟の所在地である)
このことについて宗門の側は、阿部日開を擁護して言い訳する。
◇
「墓」には「遺骸や遺骨を葬る所」と限定的具体的な意味がある。それに対して「廟」は「霊をまつる所」であり、抽象的で信仰の対象としての意味合いが強く、遺骨がまつられているとは限らない。
だが墓と廟との違いなど〝言葉のあや〟である。語彙を説明したところで、何になると言うのか。
信仰者の立場として問題なのは、国家が〝大聖人の「廟所」は身延山にある〟と認定したことにある。それに対して〝大聖人の「墓所」は富士大石寺にある〟と主張しようとも、それは国として関知することではない。日開は何と愚かなことをしたのか。
身延側が勝手に「御廟所」としている場所を、何ゆえ大石寺がわざわざ認定する必要があるか。身延山を「祖廟」と認めたことは、日興上人が謗法となった身延を離山され、永久に絶縁された精神を否定することになる。
日興遺誡置文(一六一七㌻)にいわく、
「一、富士の立義聊(いささか)も先師の御弘通に違せざる事。
一、 五人の立義一一に先師の御弘通に違する事」
末寺である妙光寺の『妙の光』という新聞(昭和6年6月16日号)に、次の記事が載っている。
◇
單稱日蓮宗の本山身延山へ、勅額が下ることになり、關係者が準備協議中のこと、宗門が大きいが故に、そして社会的に活動して居るが故に、この有難い御沙汰を身延派が拜受することは、大聖の正統を傳へ、教義の眞正を誇る本宗僧俗として三考を要する事柄と思ひます。
これが率直な、富士門流の僧俗すべての共通の思いではないのか。何ゆえ、邪宗に塩を送る必要があるだろうか。阿部日開の行為は、権力に迎合し謗法の身延に与同した、大謗法だったのである。
◇
堀日亨上人は著書の中で「身延祖山、身延正墓を承認せぬは大石一派の頑固のやうに云ってる人があるは真実であり又(また)聊(いささ)か誇りであって開山上人の御離山の御心境を尽未来際まで矜持するものである」と述べておられる。
日開が提出した念書は、日興上人の身延離山の精神を踏みにじる大謗法行為であったが、宗門は現在まで何ら反省していない。
(「フェイク」第1208号 発行=11.06.08)
今の宗門が身延と連(つる)むのは、当時からの伝統である。邪宗同志、群れるのは楽しかろう。
日開は昭和十年に退座し、有元派と戦った時の盟友・水谷日隆に猊座を譲った。だがこれで「魔仏」の次代の終わりとはならなかった。〝狡猾〟日開の次は、〝遊蕩〟日隆の出番である。
(了)
妄説:53 創価学会では「御本尊の書写や授与などの権限は広布を目指す『信心の血脈』ある和合僧団にこそ与えられる資格がある」といって創価学会の本尊授与を正当化していますが、それでよいのでしょうか。
創価学会には、決して本尊授与の資格はありません。なぜならば、本尊授与は唯授一人の血脈によってなされるからです。
第五十九世日亨上人は、
『化儀抄註解(ちゅうげ)』に「然るに本尊の事は斯の如く一定(いちじょう)して・授与する人は金口(こんく)相承の法主に限る」(富要 1-112頁)
と仰せられ、本尊授与を含めた御本尊にかかわる一切のことは、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人以外には許されないと教示されています。
学会は「自分たちが和合僧団である」とか「信心の血脈がある」といいますが、総本山大石寺に敵対し、御法主上人を誹謗する現在の学会は、日蓮大聖人の御精神を欠落した謗法集団であり、和合僧団などではありません。
まして「御本尊を授与する資格がある」などは、根拠のない戯言(たわごと)というほかありません。
破折:
3.〈六十世阿部日開〉〝天魔・日顕〟の父(続き)
(2) 御本尊の誤写
一連の宗内抗争を経て、阿部法運は遂に法主に就任し、六十世日開を名乗った。だが登座直後に御本尊を誤写し、出家・在家より非難を受けた。「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべき讃文を、「仏滅度後二千二百二十余年」と書写したのである。
これによって日開が謝罪した文言が、次の通り。
「タダ漫然之ヲ認(した)タメ何トモ恐懼(きょうく)に堪へヌ」(「声明書」〈御本尊問題の顛末〉)
誤写の理由を〝注意不足〟にあったとした。「日開は相承を伝授されていない」「相伝の何たるかも知らない者」と言われかねず、そう言うしかなかったのである。
日開が「漫然と誤写」した御本尊は、数十幅とも言われている。日開は一応陳謝したものの、それらの本尊を回収・訂正しようとはしなかった。
注意不足どころではない、所詮は日開の「定見の無さ」にあり、相承の内容について判断するだけの、法主たる規範を有していなかったのである。詳しく述べていきたい。
① 「御本尊七箇相承」が書写の鉄則
相伝書「御本尊七箇相承」には、次の通り記される。
「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」
(『富士宗学要集』第一巻所収)
ここでは明らかに、「仏滅度後二千二百三十余年」と認(したた)めるべきと記されている。日興上人に連なる代々の法主においては、これが正しい書写とされてきたのである。
ところが阿部派の主張では、こう言い訳をした。
◇
此相承は宗祖より御開山への口決であったのが、此の如きの文になったのは、或は御開山滅後かも知れぬ、此等の古書の扱の事は先年より御隠尊上人が御校定中である。今師について聞くに七箇相承と云ふも七箇は本条の前々で尽きておるので、此条は条を逐へば九条目あたりになる。或古本には、明かに七箇条目から後は附録となってをる。此文の扱を迂濶にしては困る。余程慎重にせねばならぬとの仰である。
(「弁駁書」昭和三年十二月二十九日付)
文中の「今師」(=阿部日開)は、相承書「御本尊七箇相承」に疑義をはさんでいた。相承書の名称に〝七箇相承〟とあっても、現在伝わるのは七箇条の他に、四箇条の追記があり、問題の箇所はその追加条目の部分である。 日開は、「後世の加筆」とまでは言わないまでも「本文」ではない、と言いたかったのであろう。
② 御本尊の讃文
御本尊の讃文の年代表記について整理すると、次の通りである。
(1)日蓮大聖人の御書写になる御本尊の讃文は、書写された年代によって「仏滅度後二千二百二十余年」と「仏滅度後二千二百三十余年」の二種がある。
(2)戒壇の大御本尊の讃文には「仏滅後二千二百二十余年」とある。
(3)相承書「御本尊七箇相承」には「仏滅度後二千二百三十余年」とある。
大石寺代々の法主が書写する御本尊は、戒壇の大御本尊の書写である、と言われてきた。その意味からすれば、讃文は「仏滅後二千二百二十余年」となるはずである。だがそれは相承書の記載と一致しない。
戒壇の大御本尊と相承書との不一致の箇所は、これだけではない。相承書には「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可し」と、功徳・罰を説いた讃文を書くこととなっているが、戒壇の大御本尊には功徳・罰の讃文は無い。
宗門はこれらに関し、何と公言しているか。
◇
日蓮正宗の公式教義書である『日蓮正宗要義』には、「大石寺血脈の法主の略本尊」(p.200)の宗教的意義に関して、「万年の流通においては、一器の水を一器に移す如く、唯授一人の血脈相伝においてのみ本尊の深義が相伝されるのである。したがって、文永・建治・弘安も、略式・広式の如何を問わず、時の血脈の法主上人の認可せられるところ、すべては根本の大御本尊の絶待妙義に通ずる即身成仏現当二世の本尊なのである」(p.201)と述べられて、戒壇本尊を書写したとは明言されていず、戒壇本尊の内証を(あるいは相伝された深義の内証を)法主が書写したものであり、法主の認可があれば、「戒壇本尊の妙義に通ずる」として、戒壇本尊とその他の本尊との救済論的関係を保証する者としての法主の役割を強調しているだけである。
(「日興の教学思想の諸問題(1)-2」宮田幸一のホームページ)
ここでは〝法主が判断する通り〟とするのみで、〝大御本尊を書写する〟とは一言も述べておらず、御本尊書写の具体的規範となっていない。
何を基準として法主の書写すべき本尊とするか、日開はそれに迷ったのである。我見だけで相承書の記載に不信を持ち、あえてそれに反することを為したわけである。
だが結局は、強烈な非難に耐えきれず、改めて訂正文を書かざるを得なかった。
「御本尊二千二百二十余年並に二千二百三十余年の両説は、二千二百三十余年が正しく、万一、二千二百二十余年の本尊ありとすれば後日訂正することとする。依って弟子旦那は二千二百三十余年の本尊を信ずべきものである。
以上
六十世 日開 花押」
先述した通り、大聖人の御本尊には年代表記が二様ある。また相伝書の年代表記と戒壇の大御本尊のそれとは一致しない。一見、無秩序のようであるが、そこには伝統のルール・形式が存在し、決め事となっている。
日開が訂正文を書いたことは、何を意味するか。日開自身が相伝を受け登座している身なのだから、自身が受けた相承の中身に照らせば、御本尊書写の仕方において「二十余年」が正しいか、「三十余年」が正しいかなど、たちどころに判断できたはずである。
それにもかかわらず、法主として判断できず、あえて相伝書の記載に逆らって書写したことは、日開自身が御本尊書写についての特別な相承を受けていないことを、はっきり示しているのである。
遡れば日開の三代前、五十七世日正は後嗣に面授相承ができず、在家が預かって五十八世日柱に伝授した。その日柱も、次の五十九世日亨法主に形ばかりの相承しか行なわず、日亨法主は周囲の懇請により、「日正師が特別の相承を預けたと云う者」から相承の中身を聞き取らざるを得なかった。
上記の通り法主が代替わりするたびに、相承の中身が乏しくやせ細ったものとなって行ったのであり、相伝書の正誤を判断するだけの規範も相承されていなかった、ということである。
日開の事跡は、「唯授一人の血脈相承」など、すでに有名無実のものとなっていたことを、世に示したのである。
(参考)
先に「伝統のルール・形式が存在し、決め事となっている。そのための相承というわけである」と書いたのは、下記の記事を踏まえたものである。
◇
堀日亨上人が校閲された福重照平著の『日蓮本佛論』(昭和二年九月二十八日、大日蓮社発行)には、
「聖祖図顕のそれ(筆者注 御本尊)は正しく流通分の大曼荼羅である。流通には両種ある。所謂勧持の流通と付属の流通である。勧持は在世滅後に亘り、付属は滅後に限ることは云ふまでもない。二十余年は聖祖御化導の正宗の終り流通の初に約したるもの、三十余年は御帰寂の弘安五年を志し玉ふものなるは知り易い、聖祖御滅後を付属されたる嫡弟及其の末流が御本尊書写に当りては必ず仏滅後二千二百三十余年と書き奉るべき旨の相伝がある。此は付属流通に約したる当然の御訓誡である」
と書かれている。
定見もない日開、日顕に比べ、論理整然たるものを感じる。
(「地涌」354号)
③ 日顕の妄言
日顕は御本尊の年代表記につき、こう述べている。
◇
歴代上人のなかには宗旨上の特別な拝仰の上から「二千二百二十余年」と書写された例があります。例えば、17世の日精上人、19世の日舜上人、41世の日文上人等の御本尊の一部に拝されますが、通常の書写はもちろん「二千二百三十余年」と書くのが古来の通規になっております。私も登座以来、1幅も「二千二百二十余年」と書写申し上げたことはありません。すべて「三十余年」と御書写申し上げております。
(日顕「創価学会の偽造本尊義を破す」119頁)
日顕の話にある十七世日精、十九世日舜は、どちらも京都要法寺出身である。十五世日昌(にっしょう)から二十三世日啓(にっけい)まで、九代の大石寺の貫主は京都・要法寺から迎えた。日亨師によれば、大石寺は管長の地位と引き換えに、経済的援助を期待したのである。だが同時に、要法寺の異流儀がもたらされる結果ともなった。
すなわち十七世日精は、一時は十箇寺を越える末寺に仏像を造立した。時代が下って、同じ要法寺出身の二十二世日俊が、日精の死去後に仏像を撤廃するまで、約半世紀もの間、末寺に仏像が祀られていたのである。
日精の目の黒いうちは、代々の法主は仏像撤廃をしなかった。そのような謗法容認の異常な時代にあった法主達の為すことに、何の〝基準〟〝信頼〟が置けよう。日精・日舜ともに、誤った本尊書写をしていたと言うだけのことである。
四十一世日文については、登座してわずか一年一か月で逝去した人とあり、本尊書写のことは不明である。
要するに、代々の法主のうちでもごく少数の例を取り上げたにすぎない。日顕の話はまだ続く。
◇
しかしながら「二千二百二十余年」という御本尊だから拝んではいけないなどということはない。総本山塔中久成坊の本堂に昔から安置されている常住板御本尊には「二千二百二十余年」とお書きになってある。しかも、この裏書きに26世日寛上人の判形がある。これは、もう明らかに「二千二百二十余年」の先師の御本尊の模刻を日寛上人が允可(いんか)されておるのです。
(同)
日顕は、法主が允可したのだから間違いでは無いと言う。しかし、允可しさえすれば「正当」である、ということにはならない。日寛上人は「追認」したのであって、〝本来の書式である〟と認めているわけではない。
葵の印籠ではあるまいし、「允可」の語さえ持ち出せば、何でも正当になるとの言い分は、話のすり替えである。 そのような言葉が通用するのは、脳味噌を引き抜かれ、精神的自立ができずに、宗門の言葉しか頭に入ってこない法華講の檀徒だけである。
最後に、日顕はいつもの言葉をもって、話を結んでいる。
◇
要するに、相承を受けない者が、特に在家の者がこういうことを簡単に云々すべきではないということだけを、ひとこと言っておきます。
(同)
これでは「法主の内証次第により、〝相伝書〟であろうと〝伝統法義〟だろうと、何でも変えられる権能を持っている」と言わんばかりである。
だが、日顕が今さら父親の名誉回復を図ろうしても、どうにもならない。出処進退は本人の判断である。日開は法主としての自らを評価し、誤りがあったと非を認め謝罪した。今さら日開の言辞を蒸し返すこと自体、かえって先師である父を辱め、冒涜することになるのが分からないか。かえって、謝罪した阿部日開が「相伝の何たるかをも知らない者」であった事実が、あらためて世に露顕することとなったのである。
(3)身延を大聖人の「廟所」と認む
昭和六年、日蓮宗各派が合同で日蓮大聖人の「立正大師」号の「立正」の文字を天皇に書いてもらうための、請願運動を進めた。同年四月、身延山久遠寺の住職(岡田日帰)の名で、宮内大臣及び文部大臣に請願書を提出した。
問題なのはその際、宮内省と文部省は、後でいざこざが起こらないよう「勅額」降賜の条件として、大聖人の墓が身延山にあることを日蓮宗各派が認め、身延山久遠寺への「勅額」下賜に各派とも賛成することを証明する「念書」の提出を求めたことである。
この時、日蓮正宗管長の阿部日開も、念書を文部大臣に提出したのであり、その文面にあるのが、次の文字である。
「御廟所在地山梨県身延山久遠寺」
(山梨県の身延山久遠寺が、日蓮大聖人の御廟の所在地である)
このことについて宗門の側は、阿部日開を擁護して言い訳する。
◇
「墓」には「遺骸や遺骨を葬る所」と限定的具体的な意味がある。それに対して「廟」は「霊をまつる所」であり、抽象的で信仰の対象としての意味合いが強く、遺骨がまつられているとは限らない。
だが墓と廟との違いなど〝言葉のあや〟である。語彙を説明したところで、何になると言うのか。
信仰者の立場として問題なのは、国家が〝大聖人の「廟所」は身延山にある〟と認定したことにある。それに対して〝大聖人の「墓所」は富士大石寺にある〟と主張しようとも、それは国として関知することではない。日開は何と愚かなことをしたのか。
身延側が勝手に「御廟所」としている場所を、何ゆえ大石寺がわざわざ認定する必要があるか。身延山を「祖廟」と認めたことは、日興上人が謗法となった身延を離山され、永久に絶縁された精神を否定することになる。
日興遺誡置文(一六一七㌻)にいわく、
「一、富士の立義聊(いささか)も先師の御弘通に違せざる事。
一、 五人の立義一一に先師の御弘通に違する事」
末寺である妙光寺の『妙の光』という新聞(昭和6年6月16日号)に、次の記事が載っている。
◇
單稱日蓮宗の本山身延山へ、勅額が下ることになり、關係者が準備協議中のこと、宗門が大きいが故に、そして社会的に活動して居るが故に、この有難い御沙汰を身延派が拜受することは、大聖の正統を傳へ、教義の眞正を誇る本宗僧俗として三考を要する事柄と思ひます。
これが率直な、富士門流の僧俗すべての共通の思いではないのか。何ゆえ、邪宗に塩を送る必要があるだろうか。阿部日開の行為は、権力に迎合し謗法の身延に与同した、大謗法だったのである。
◇
堀日亨上人は著書の中で「身延祖山、身延正墓を承認せぬは大石一派の頑固のやうに云ってる人があるは真実であり又(また)聊(いささ)か誇りであって開山上人の御離山の御心境を尽未来際まで矜持するものである」と述べておられる。
日開が提出した念書は、日興上人の身延離山の精神を踏みにじる大謗法行為であったが、宗門は現在まで何ら反省していない。
(「フェイク」第1208号 発行=11.06.08)
今の宗門が身延と連(つる)むのは、当時からの伝統である。邪宗同志、群れるのは楽しかろう。
日開は昭和十年に退座し、有元派と戦った時の盟友・水谷日隆に猊座を譲った。だがこれで「魔仏」の次代の終わりとはならなかった。〝狡猾〟日開の次は、〝遊蕩〟日隆の出番である。
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №51~60
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:53」を破折する(その一) 連載76回
妄説:53 創価学会では「御本尊の書写や授与などの権限は広布を目指す『信心の血脈』ある和合僧団にこそ与えられる資格がある」といって創価学会の本尊授与を正当化していますが、それでよいのでしょうか。
創価学会には、決して本尊授与の資格はありません。なぜならば、本尊授与は唯授一人の血脈によってなされるからです。
第五十九世日亨上人は、
『化儀抄註解(ちゅうげ)』に「然るに本尊の事は斯の如く一定(いちじょう)して・授与する人は金口(こんく)相承の法主に限る」(富要 1-112頁)
と仰せられ、本尊授与を含めた御本尊にかかわる一切のことは、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人以外には許されないと教示されています。
学会は「自分たちが和合僧団である」とか「信心の血脈がある」といいますが、総本山大石寺に敵対し、御法主上人を誹謗する現在の学会は、日蓮大聖人の御精神を欠落した謗法集団であり、和合僧団などではありません。
まして「御本尊を授与する資格がある」などは、根拠のない戯言(たわごと)というほかありません。
破折:
1.御本尊授与の権は学会にあり
「本尊授与は唯授一人の血脈によってなされる」と言うならば、六十六世日達法主から相承したと〝自己申告〟した僭称法主に、どうして血脈があろうか。この日顕を称して「唯授一人の血脈を受けられた御法主上人」などと言うこと自体が、「根拠のない戯言」なのである。
◇
日寛上人が「本尊書写豈(あに)化他に非ずや」(文段集四八六ページ)と仰せのように、御本尊書写とは本来、妙法広布と民衆救済のために御本尊を御図顕された日蓮大聖人の御慈悲を拝しての化他行である。
故に、御本尊の書写と授与は、大聖人の仏法を受け継ぐ和合僧団の代表として法主が果たすべき重要な責務である。御本尊を拝ませてあげたいという御本仏の慈悲と純真に御本尊を求め、拝したいという衆生の心が合致してこそ功徳もあり、広宣流布が進展するのだ。
そのために身命を捨てて奉仕するのが法主の本来の役割である。日顕は「ニセ法主」とはいえ、その役割を自ら放棄したのである。
学会が日寛上人書写の御本尊を授与することについて、日顕は「前例がない」等と批判しているが、実は日顕こそ己の面子のために、御本尊を道具に世界広布を妨害するという「前例のない」程の大罪を犯したのだ。
(「フェイク」第625号)
宗門は、広宣流布の障礙(しょうげ)である。御本尊の授与は、創価学会しかその任を全うすることができない。
2.学会による日寛上人の御本尊下付の正しさ
引用された五十九世堀日亨法主の著述の論旨は、「授与する人は金口相承の法主に限り」と制約すれば、広宣流布が遅延し阻害されることとなるゆえ、九世日有師は形木本尊の発行を末寺に許可された、と明らかにしたのである。
宗門の主張は法主による「書写本尊」の授与を正統とするものであるが、これは「交通不便戦乱絶えず」であった戦国時代ならばさもあらん、だが文明の開けた今日、それにこだわれば広宣流布に適当とは言えない、むしろ逆行するものである。
学会の御本尊授与は「形木本尊」の授与であり、まさしく日亨法主が宣揚した通り、大聖人の仏法が広宣流布される本門の時代に相即した行為である。
いつもながら宗門の切り文というものは、著者の趣旨に相反するよう狡猾に仕組んだものであり、今回も、とんでもない捏造義を展開している。
大聖人の仏法を弘める学会の聖業を阻む、魔の所為であり、まさしく「日蓮大聖人の御精神を欠落した謗法集団」たる日顕宗に相応しいものである。
日亨法主著述の本旨は、「妄説:51」において紹介した論考(インターネットの投稿文)において以下の通り詳細に明かされる。この場をもって掲載者に感謝する(文中の番号と項目名は、読者の便宜にと管理人が付記した)。
(1)形木本尊の末寺での下付は允可済み
まず化儀抄では、日有師が末寺での守り本尊の書写を允可し、曼荼羅書写をも条件付きで允可しています。
「第二十五条 末寺に於て弟子檀那を持つ人は守をば書くべし、但し判形は有るべからず、本寺住持の所作に限るべし云云。
第二十六条 曼荼羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし、判形は為すべからず云云、但し本寺住持は即身成仏の信心一定の道俗には・判形を為さるる事も之有り・希なる義なり云云。」(富要1-111 化儀抄)
(通解:第二十五条 末寺において弟子檀那を持つ人はお守り本尊を書いて良い。ただし判形(花押)は書いてはならない。大石寺の住職の書くものに限らねばならない。
第二十六条 曼荼羅は末寺において弟子檀那を持つ人は書いて良い。判形はしてはならない。ただし、大石寺の住職は即身成仏の信心一定の僧侶や在家には、判形をなされることもある。これは稀なことである。)
この内容は、末寺でのお守り本尊や常住本尊の書写を日有上人が化儀抄で允可された箇所です。判形さえ書かなければ、末寺での本尊書写(紙に墨で書き写すこと)さえも認められているのです。
これについては、堀上人が解説を加えています。
「此の二個条は共に曼荼羅書写の事に属す、曼荼羅書写の大権は唯授一人金口相承の法主に在り」「曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀なり」(富要1-112)
ここで言っているのは、法主による本尊書写と、その書写本尊の授与のことです。当然形木本尊(印刷の本尊)等の仮本尊のことは含まれません。よく日顕宗が「宗門第一尊厳の化儀」と偉そうに言いますが、あくまで書写本尊(常住本尊)の化儀のことであり、仮本尊である形木本尊は末寺での下付は允可済みなのです。
そして、書写本尊の化儀は、単に法主以外が書写したというだけでなく、大石寺派においても色々と変化し、謗法にまみれていたのです。
(「日蓮正宗の本尊義を破す」 2013/02/10 22:36 田中修一郎)
(2)学会の正義は既に証明されている
しかし、学会のように形木本尊を安置することについては、堀上人はその次下に示すように全く問題なく認められているのです。
「然るに本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り授与せらるる人は信行不退の決定者に限るとせば・仮令不退の行者たりとも・本山を距ること遠きにある人は・交通不便戦乱絶えず山河梗塞の戦国時代には・何を以つて大曼陀羅を拝するの栄を得んや、故に形木の曼荼羅あり仮に之を安す、本山も亦影師の時之を用ひられしと聞く、此に於いて有師仮に守護及び常住の本尊をも・末寺の住持に之を書写して檀那弟子に授与する事を可なりとし給ふ・即本文の如し、但し有師已前已に此の事ありしやも知るべからず、然りといへども此は仮本尊にして形木同然の意なるべし」(富要1-113)
ここで「然るに・・とせば」以降は、それまでの書写本尊の化儀による制約を否定されている箇所です。法主一人が書写し、信行不退の者だけに下付する、などと硬直的な運用をしていては、時代の変遷の中で大聖人の民衆救済という目的が達成できなくなる。こうした理由に基づいた結論として、「故に(だから)」形木の曼荼羅を仮に安置するという化儀を古来より認めているのだ、と解説しているのです。そして、日有師は更に末寺での守りや常住本尊さえも、「形木と同様に」仮本尊とみなして允可を与えている、というのです。
この「常住の本尊を『も』」という言葉の意味は、連結の副助詞「も」によって、「形木本尊と同じように」という意味を表しているのです。すでに日有上人、日亨上人が形木本尊の下付について、末寺で自由に行うことを允可されている以上、学会が唯一の和合僧団として、改革同盟の真実の僧侶達の申し出に基づいて(後述)日寛上人の形木御本尊を下付することは、大聖人の大慈悲の意志にも叶う「法華経の行者」としての最適な選択だったのです。
しかも、その御本尊を提供した浄圓寺は、宗教法人として独立した存在なのですから、大石寺派からとやかく言われる筋合いなど全く無いのです。
天魔の軍勢は、この新たな歴史の建設を必死になって妨害しようと、ありとあらゆる誹謗中傷を繰り返している訳ですが、事実として法華経の行者の決意を固めた同志たちに次々に功徳が涌き出ていることからも「利生の有無を以て隠没・流布を知るべきなり」(文段)で、学会の正義は既に証明されているのです。
(同)
(3)世界広布の時には曼荼羅授与は法主一人の手では出来ない
「故に守に於いては『判形有るべからず』と制し・曼荼羅に於ては『判形為すべからず』と誡め給ふ、此の判形こそ真仮の分るる所にして猶俗法の如し、宗祖の御書中所々に判形云云の事あり・思ふべし」(富要1-113)
ここで判形についての意義を論じておられる訳ですが、世間の法での真仮を分けるものとして、例えば印鑑証明やサインのようなものが、歴代の書く花押であろうと言われています。確かに、後世に御本尊の偽作がたくさん存在していますが、さすがに花押まで似せることは不可能ですから、欧米でのサインのような意義を持たせているのは、大聖人の仏法の合理性と言えます。
「有師斯の如く時の宜しきに従ひて寛容の度を示し給ふといへど、しかも爾後数百年宗門の真俗能く祖意を守りて苟も授与せず書写せず・以て寛仁の化儀に馴るること無かりしは、実に宗門の幸福なりしなり、然りといへども宗運漸次に開けて・異族に海外に妙法の唱へ盛なるに至らば・曼荼羅授与の事豈法主一人の手に成ることを得んや、或いは本条の如き事実を再現するに至らんか・或は形木を以て之を補はんか・已に故人となれる学頭日照師が朝鮮に布教するや、紫宸殿の御本尊を有師の模写せるものによりて写真石版に縮写し・新入の信徒に授与せり、其病んで小梅の故庵に臥せし時、偶予に此縮写の本尊に判形を加ふべきや否やの談を為されたる事あり、予は直に此文を思ひ浮べて云為したり・忘られぬ儘此に付記す」(富要1-113)
堀上人は、世界広布の時には曼荼羅授与は法主一人の手では出来なくなることを宣言され、この化儀抄の允可のような、末寺での常住本尊書写や、形木本尊で補うことを想定されています。
そして、その具体的事例として、日有師による紫宸殿本尊の模写本尊を、学頭日照が写真製版で縮小し、名刺大にして韓国で授与した事実を論じたときに、この縮写本尊に判形を書くべきか議論した旨を書き残されているのです。このように、御本尊の化儀はいろいろと変遷があったのです。
(同)
(4)学会の御本尊授与は正式な化儀
続けて堀上人は、未来の世界広布の時の判形のあり方について、4種類の具体的な可能性を検討されていますが、それ以前にすでに、判形など書かない形木本尊の下付は承認されておられるのです。
「併し乍ら此の判形といへるに種々あるべし、一には形木又は縮写のものに法主の判形を為されたるもの、二には平僧の書写せしものに法主の判形を加へられたるもの・三には後代の法主が宗祖開山等の曼荼羅を其儘模写し給ひて更に模写の判形を為されたるものを形木又は写真版等となしたるもの・四には先師先聖の模写版又は形木に平僧が自らの判形を加へ又は平僧自ら書写して判形(自己)まで加へたるもの等に分つを得べきか・此中に一と三とは事なかるべし、二は未だ広く実例を見ず、第四は大なる違法にして・是こそ正に本条の制誡なり」(富要1-113)
要するに、ありとあらゆる化儀の可能性があって、「宗門第一尊厳の化儀」である法主による書写本尊以外にも、正式な本尊として判形をどう書くのかの違いで、一から三は認められるものだと言うのです。第四の末寺で判形を書くことのみが禁止された化儀なのです。そして、形木本尊は正式な本尊ではないので、そもそもこれらにさえも該当しない自由な化儀に分類されているのです。大石寺派がいくら勿体ぶってみても、全ては堀上人が明らかにされてしまっているのです。
学会の日寛上人の形木本尊に誰かが判形を書いていたら文句を言われることがあるかも知れませんが、日寛上人の御本尊を写真製版で形木にしただけの、古来より大石寺末寺で行ってきた化儀なのですから、誰にも何も言われる筋合いなど全く無いのです。
(同)
上記に紹介した論文は当項目以外にも、含蓄に溢れた価値ある考察を展開しており、一々納得させられるものである。諸兄諸姉には是非とも一読をお奨めしたい。
3.〈六十世阿部日開〉〝天魔・日顕〟の父
前回「妄説:52」において、日顕の父・阿部日開が、五十九世堀日亨法主を孤立させ、退座に至らしめた史実を綴った。日開が辞職に追い込んだ法主は、連続して二人目である。天魔日顕の父、日開の本領発揮であった。
親の日開は「唯授一人の血脈」とされる法脈を攪乱した罪業の果報であろう、「本尊授与の資格」が無い。すなわち、日開は御本尊を誤って書写したため謝罪し、「後日訂正する」とせざるを得なかったのである。法主失格ではないか。
子の日顕は相承を詐称し、法脈を地に貶めたゆえに「本尊授与は唯授一人の血脈によってなされる」との定義から外れた者である。すなわち、日顕はニセ法主であり、これに代わり学会が御本尊授与を行なっているのである。
日顕の後嗣である日如もまた、二代目ニセ法主であり、それゆえ宗門は永久に幕を閉じ、その残滓は魔仏が君臨する新興の邪教となった。彼等は永遠に断罪されねばならない。
日開・日顕は、親子二代にわたる獅子身中の虫である。
佐渡御書(九五七㌻)にいわく、
「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食(はむ)等云云」
日開には「本尊授与の資格」が無かった史実を詳説する前に、前回の続き、日開がいよいよ自ら宗門を牛耳るべく、天下取りの戦いに入ったところより述べたい。
(1) 腐敗選挙で就任
堀日亨法主の跡目をめぐる管長選挙は、阿部法運(日開)と有元広賀(日仁)との両派に分かれて争われた。当時の能化は、阿部と有元、それに水谷秀道(日隆)を加えた三人であったが、水谷が盟友であった日開の選挙参謀役に回ったため、日開と有元との激烈な一騎打ちとなった。
阿部派は、日亨法主を孤立させ退座に追い込んでいっただけに、選挙への宗内工作のスタートは早かった。一方、有元派にとっては日亨法主の退座は寝耳に水だった。準備怠りなく、先に戦を仕掛けたほうが、勝負は有利に展開する。有元派は、防戦一方となったことは否めない。
買収・供応・脅迫・投票妨害・拉致・監禁と、何でも有りの激しい腐敗選挙となった。阿部法運の面目躍如たる修羅場である。選挙のさなか、坊主は法衣に匕首(あいくち)を忍ばせ、飛び歩いていたと言われるから、凄まじい話である。
◇
選挙の腐敗ぶりは、相当なものだったようだ。有元派が選挙後に、管長選挙における阿部派の腐敗ぶりを非難し、「声明書」(昭和三年三月十三日付)を出している。
「某寺住職の老齢を奇貨とし、夜間品川よりの使と偽はり、自動車に乗て東京に誘致した上、酒食を饗して居所を隠さしめ、酔へるに乗じて転居届を出さしめ、投票用紙を其所に送つて強て阿部師に投票せしめんと企てたが、我等は弁護士を頼み談判せしめ其の用紙を取戻しましたが、之には非常なる手数と騒ぎを演じました。又某寺住職は、途中に阿部一派の者に誘致されて某寺に連れられ、数人集まつて酒食を供し、巧に自由を拘束され、遂に阿部師に投票せしめられたのであります。又某寺老住職は、元より有元師に投票すべく仏天に盟ひましたが、彼等運動員の脅迫によりて不得止阿部師に投票したのである」
それだけに止まらない。
「法要に托して之を外出せしめ、我等との面接を不可能ならしめ。又は高等寺院に転任又は位階昇進等の好餌を喰したり。又は免職転任等等で威圧したり。止むことなき信徒の有力者を使用して強圧したり。或は偽電を打って有元師への投票を妨げたりし事実は沢山あるのであります」
この有元派の「声明書」に対し、阿部派の富田慈妙は、「弁駁書」(昭和三年十二月二十九日付)をもって反論している。
「選挙当時某々等阿部師を信じて同師に投票せしを開緘前、某に迫り恐ろしき言葉や振りで恐怖せしめた結果、阿部師へ投票せし事を知り、強いて其取消状を発せしめたりと云ふ。又東北地方の某師などは恐怖のあまり全く意にもない取消である故に、其悪辣な人々の帰るを待ち、隣室に居りて事実を知りたる人等は、某師の上に同情し直ちに其事実を列記したる届書を以て、宗務院に取消の真意にあらざる事を申出されてある」
(「地涌」第347号)
かくも醜く激烈な選挙戦は、官憲の介入するところとなり、昭和二年十二月十八日、大宮署の警察官が宗務院を取り巻いて警護にあたり、開票となった。
阿部法運 五十一票
有元広賀 三十八票
しかし監視していた文部省宗教局は、すぐには選挙結果を認めなかった。宗教局の懸念は当たり、落選した有元派が、当選した阿部法運、水谷秀道を背任横領で告訴した。本山の立木を伐採して選挙費用に流用した等の疑いである。
阿部法運は向島署で取調べを受けたが、横領したとされる金員が補填されたのであろう、刑事事件としての立件は見合わされ、騒動は落着した。
文部省宗教局の認可が降り、阿部法運が正式に管長となったのは、昭和三年六月二日のことであった。開票が前年の十二月十八日だから、認可まで約六カ月かかったことになる。
これで阿部法運が登座するのを遮る者はなくなった。だが、法主となった阿部は直に躓くこととなる。管長だけに許された行為、すなわち御本尊書写を誤ってしまうのである。
(続く)
妄説:53 創価学会では「御本尊の書写や授与などの権限は広布を目指す『信心の血脈』ある和合僧団にこそ与えられる資格がある」といって創価学会の本尊授与を正当化していますが、それでよいのでしょうか。
創価学会には、決して本尊授与の資格はありません。なぜならば、本尊授与は唯授一人の血脈によってなされるからです。
第五十九世日亨上人は、
『化儀抄註解(ちゅうげ)』に「然るに本尊の事は斯の如く一定(いちじょう)して・授与する人は金口(こんく)相承の法主に限る」(富要 1-112頁)
と仰せられ、本尊授与を含めた御本尊にかかわる一切のことは、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人以外には許されないと教示されています。
学会は「自分たちが和合僧団である」とか「信心の血脈がある」といいますが、総本山大石寺に敵対し、御法主上人を誹謗する現在の学会は、日蓮大聖人の御精神を欠落した謗法集団であり、和合僧団などではありません。
まして「御本尊を授与する資格がある」などは、根拠のない戯言(たわごと)というほかありません。
破折:
1.御本尊授与の権は学会にあり
「本尊授与は唯授一人の血脈によってなされる」と言うならば、六十六世日達法主から相承したと〝自己申告〟した僭称法主に、どうして血脈があろうか。この日顕を称して「唯授一人の血脈を受けられた御法主上人」などと言うこと自体が、「根拠のない戯言」なのである。
◇
日寛上人が「本尊書写豈(あに)化他に非ずや」(文段集四八六ページ)と仰せのように、御本尊書写とは本来、妙法広布と民衆救済のために御本尊を御図顕された日蓮大聖人の御慈悲を拝しての化他行である。
故に、御本尊の書写と授与は、大聖人の仏法を受け継ぐ和合僧団の代表として法主が果たすべき重要な責務である。御本尊を拝ませてあげたいという御本仏の慈悲と純真に御本尊を求め、拝したいという衆生の心が合致してこそ功徳もあり、広宣流布が進展するのだ。
そのために身命を捨てて奉仕するのが法主の本来の役割である。日顕は「ニセ法主」とはいえ、その役割を自ら放棄したのである。
学会が日寛上人書写の御本尊を授与することについて、日顕は「前例がない」等と批判しているが、実は日顕こそ己の面子のために、御本尊を道具に世界広布を妨害するという「前例のない」程の大罪を犯したのだ。
(「フェイク」第625号)
宗門は、広宣流布の障礙(しょうげ)である。御本尊の授与は、創価学会しかその任を全うすることができない。
2.学会による日寛上人の御本尊下付の正しさ
引用された五十九世堀日亨法主の著述の論旨は、「授与する人は金口相承の法主に限り」と制約すれば、広宣流布が遅延し阻害されることとなるゆえ、九世日有師は形木本尊の発行を末寺に許可された、と明らかにしたのである。
宗門の主張は法主による「書写本尊」の授与を正統とするものであるが、これは「交通不便戦乱絶えず」であった戦国時代ならばさもあらん、だが文明の開けた今日、それにこだわれば広宣流布に適当とは言えない、むしろ逆行するものである。
学会の御本尊授与は「形木本尊」の授与であり、まさしく日亨法主が宣揚した通り、大聖人の仏法が広宣流布される本門の時代に相即した行為である。
いつもながら宗門の切り文というものは、著者の趣旨に相反するよう狡猾に仕組んだものであり、今回も、とんでもない捏造義を展開している。
大聖人の仏法を弘める学会の聖業を阻む、魔の所為であり、まさしく「日蓮大聖人の御精神を欠落した謗法集団」たる日顕宗に相応しいものである。
日亨法主著述の本旨は、「妄説:51」において紹介した論考(インターネットの投稿文)において以下の通り詳細に明かされる。この場をもって掲載者に感謝する(文中の番号と項目名は、読者の便宜にと管理人が付記した)。
(1)形木本尊の末寺での下付は允可済み
まず化儀抄では、日有師が末寺での守り本尊の書写を允可し、曼荼羅書写をも条件付きで允可しています。
「第二十五条 末寺に於て弟子檀那を持つ人は守をば書くべし、但し判形は有るべからず、本寺住持の所作に限るべし云云。
第二十六条 曼荼羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし、判形は為すべからず云云、但し本寺住持は即身成仏の信心一定の道俗には・判形を為さるる事も之有り・希なる義なり云云。」(富要1-111 化儀抄)
(通解:第二十五条 末寺において弟子檀那を持つ人はお守り本尊を書いて良い。ただし判形(花押)は書いてはならない。大石寺の住職の書くものに限らねばならない。
第二十六条 曼荼羅は末寺において弟子檀那を持つ人は書いて良い。判形はしてはならない。ただし、大石寺の住職は即身成仏の信心一定の僧侶や在家には、判形をなされることもある。これは稀なことである。)
この内容は、末寺でのお守り本尊や常住本尊の書写を日有上人が化儀抄で允可された箇所です。判形さえ書かなければ、末寺での本尊書写(紙に墨で書き写すこと)さえも認められているのです。
これについては、堀上人が解説を加えています。
「此の二個条は共に曼荼羅書写の事に属す、曼荼羅書写の大権は唯授一人金口相承の法主に在り」「曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀なり」(富要1-112)
ここで言っているのは、法主による本尊書写と、その書写本尊の授与のことです。当然形木本尊(印刷の本尊)等の仮本尊のことは含まれません。よく日顕宗が「宗門第一尊厳の化儀」と偉そうに言いますが、あくまで書写本尊(常住本尊)の化儀のことであり、仮本尊である形木本尊は末寺での下付は允可済みなのです。
そして、書写本尊の化儀は、単に法主以外が書写したというだけでなく、大石寺派においても色々と変化し、謗法にまみれていたのです。
(「日蓮正宗の本尊義を破す」 2013/02/10 22:36 田中修一郎)
(2)学会の正義は既に証明されている
しかし、学会のように形木本尊を安置することについては、堀上人はその次下に示すように全く問題なく認められているのです。
「然るに本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り授与せらるる人は信行不退の決定者に限るとせば・仮令不退の行者たりとも・本山を距ること遠きにある人は・交通不便戦乱絶えず山河梗塞の戦国時代には・何を以つて大曼陀羅を拝するの栄を得んや、故に形木の曼荼羅あり仮に之を安す、本山も亦影師の時之を用ひられしと聞く、此に於いて有師仮に守護及び常住の本尊をも・末寺の住持に之を書写して檀那弟子に授与する事を可なりとし給ふ・即本文の如し、但し有師已前已に此の事ありしやも知るべからず、然りといへども此は仮本尊にして形木同然の意なるべし」(富要1-113)
ここで「然るに・・とせば」以降は、それまでの書写本尊の化儀による制約を否定されている箇所です。法主一人が書写し、信行不退の者だけに下付する、などと硬直的な運用をしていては、時代の変遷の中で大聖人の民衆救済という目的が達成できなくなる。こうした理由に基づいた結論として、「故に(だから)」形木の曼荼羅を仮に安置するという化儀を古来より認めているのだ、と解説しているのです。そして、日有師は更に末寺での守りや常住本尊さえも、「形木と同様に」仮本尊とみなして允可を与えている、というのです。
この「常住の本尊を『も』」という言葉の意味は、連結の副助詞「も」によって、「形木本尊と同じように」という意味を表しているのです。すでに日有上人、日亨上人が形木本尊の下付について、末寺で自由に行うことを允可されている以上、学会が唯一の和合僧団として、改革同盟の真実の僧侶達の申し出に基づいて(後述)日寛上人の形木御本尊を下付することは、大聖人の大慈悲の意志にも叶う「法華経の行者」としての最適な選択だったのです。
しかも、その御本尊を提供した浄圓寺は、宗教法人として独立した存在なのですから、大石寺派からとやかく言われる筋合いなど全く無いのです。
天魔の軍勢は、この新たな歴史の建設を必死になって妨害しようと、ありとあらゆる誹謗中傷を繰り返している訳ですが、事実として法華経の行者の決意を固めた同志たちに次々に功徳が涌き出ていることからも「利生の有無を以て隠没・流布を知るべきなり」(文段)で、学会の正義は既に証明されているのです。
(同)
(3)世界広布の時には曼荼羅授与は法主一人の手では出来ない
「故に守に於いては『判形有るべからず』と制し・曼荼羅に於ては『判形為すべからず』と誡め給ふ、此の判形こそ真仮の分るる所にして猶俗法の如し、宗祖の御書中所々に判形云云の事あり・思ふべし」(富要1-113)
ここで判形についての意義を論じておられる訳ですが、世間の法での真仮を分けるものとして、例えば印鑑証明やサインのようなものが、歴代の書く花押であろうと言われています。確かに、後世に御本尊の偽作がたくさん存在していますが、さすがに花押まで似せることは不可能ですから、欧米でのサインのような意義を持たせているのは、大聖人の仏法の合理性と言えます。
「有師斯の如く時の宜しきに従ひて寛容の度を示し給ふといへど、しかも爾後数百年宗門の真俗能く祖意を守りて苟も授与せず書写せず・以て寛仁の化儀に馴るること無かりしは、実に宗門の幸福なりしなり、然りといへども宗運漸次に開けて・異族に海外に妙法の唱へ盛なるに至らば・曼荼羅授与の事豈法主一人の手に成ることを得んや、或いは本条の如き事実を再現するに至らんか・或は形木を以て之を補はんか・已に故人となれる学頭日照師が朝鮮に布教するや、紫宸殿の御本尊を有師の模写せるものによりて写真石版に縮写し・新入の信徒に授与せり、其病んで小梅の故庵に臥せし時、偶予に此縮写の本尊に判形を加ふべきや否やの談を為されたる事あり、予は直に此文を思ひ浮べて云為したり・忘られぬ儘此に付記す」(富要1-113)
堀上人は、世界広布の時には曼荼羅授与は法主一人の手では出来なくなることを宣言され、この化儀抄の允可のような、末寺での常住本尊書写や、形木本尊で補うことを想定されています。
そして、その具体的事例として、日有師による紫宸殿本尊の模写本尊を、学頭日照が写真製版で縮小し、名刺大にして韓国で授与した事実を論じたときに、この縮写本尊に判形を書くべきか議論した旨を書き残されているのです。このように、御本尊の化儀はいろいろと変遷があったのです。
(同)
(4)学会の御本尊授与は正式な化儀
続けて堀上人は、未来の世界広布の時の判形のあり方について、4種類の具体的な可能性を検討されていますが、それ以前にすでに、判形など書かない形木本尊の下付は承認されておられるのです。
「併し乍ら此の判形といへるに種々あるべし、一には形木又は縮写のものに法主の判形を為されたるもの、二には平僧の書写せしものに法主の判形を加へられたるもの・三には後代の法主が宗祖開山等の曼荼羅を其儘模写し給ひて更に模写の判形を為されたるものを形木又は写真版等となしたるもの・四には先師先聖の模写版又は形木に平僧が自らの判形を加へ又は平僧自ら書写して判形(自己)まで加へたるもの等に分つを得べきか・此中に一と三とは事なかるべし、二は未だ広く実例を見ず、第四は大なる違法にして・是こそ正に本条の制誡なり」(富要1-113)
要するに、ありとあらゆる化儀の可能性があって、「宗門第一尊厳の化儀」である法主による書写本尊以外にも、正式な本尊として判形をどう書くのかの違いで、一から三は認められるものだと言うのです。第四の末寺で判形を書くことのみが禁止された化儀なのです。そして、形木本尊は正式な本尊ではないので、そもそもこれらにさえも該当しない自由な化儀に分類されているのです。大石寺派がいくら勿体ぶってみても、全ては堀上人が明らかにされてしまっているのです。
学会の日寛上人の形木本尊に誰かが判形を書いていたら文句を言われることがあるかも知れませんが、日寛上人の御本尊を写真製版で形木にしただけの、古来より大石寺末寺で行ってきた化儀なのですから、誰にも何も言われる筋合いなど全く無いのです。
(同)
上記に紹介した論文は当項目以外にも、含蓄に溢れた価値ある考察を展開しており、一々納得させられるものである。諸兄諸姉には是非とも一読をお奨めしたい。
3.〈六十世阿部日開〉〝天魔・日顕〟の父
前回「妄説:52」において、日顕の父・阿部日開が、五十九世堀日亨法主を孤立させ、退座に至らしめた史実を綴った。日開が辞職に追い込んだ法主は、連続して二人目である。天魔日顕の父、日開の本領発揮であった。
親の日開は「唯授一人の血脈」とされる法脈を攪乱した罪業の果報であろう、「本尊授与の資格」が無い。すなわち、日開は御本尊を誤って書写したため謝罪し、「後日訂正する」とせざるを得なかったのである。法主失格ではないか。
子の日顕は相承を詐称し、法脈を地に貶めたゆえに「本尊授与は唯授一人の血脈によってなされる」との定義から外れた者である。すなわち、日顕はニセ法主であり、これに代わり学会が御本尊授与を行なっているのである。
日顕の後嗣である日如もまた、二代目ニセ法主であり、それゆえ宗門は永久に幕を閉じ、その残滓は魔仏が君臨する新興の邪教となった。彼等は永遠に断罪されねばならない。
日開・日顕は、親子二代にわたる獅子身中の虫である。
佐渡御書(九五七㌻)にいわく、
「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食(はむ)等云云」
日開には「本尊授与の資格」が無かった史実を詳説する前に、前回の続き、日開がいよいよ自ら宗門を牛耳るべく、天下取りの戦いに入ったところより述べたい。
(1) 腐敗選挙で就任
堀日亨法主の跡目をめぐる管長選挙は、阿部法運(日開)と有元広賀(日仁)との両派に分かれて争われた。当時の能化は、阿部と有元、それに水谷秀道(日隆)を加えた三人であったが、水谷が盟友であった日開の選挙参謀役に回ったため、日開と有元との激烈な一騎打ちとなった。
阿部派は、日亨法主を孤立させ退座に追い込んでいっただけに、選挙への宗内工作のスタートは早かった。一方、有元派にとっては日亨法主の退座は寝耳に水だった。準備怠りなく、先に戦を仕掛けたほうが、勝負は有利に展開する。有元派は、防戦一方となったことは否めない。
買収・供応・脅迫・投票妨害・拉致・監禁と、何でも有りの激しい腐敗選挙となった。阿部法運の面目躍如たる修羅場である。選挙のさなか、坊主は法衣に匕首(あいくち)を忍ばせ、飛び歩いていたと言われるから、凄まじい話である。
◇
選挙の腐敗ぶりは、相当なものだったようだ。有元派が選挙後に、管長選挙における阿部派の腐敗ぶりを非難し、「声明書」(昭和三年三月十三日付)を出している。
「某寺住職の老齢を奇貨とし、夜間品川よりの使と偽はり、自動車に乗て東京に誘致した上、酒食を饗して居所を隠さしめ、酔へるに乗じて転居届を出さしめ、投票用紙を其所に送つて強て阿部師に投票せしめんと企てたが、我等は弁護士を頼み談判せしめ其の用紙を取戻しましたが、之には非常なる手数と騒ぎを演じました。又某寺住職は、途中に阿部一派の者に誘致されて某寺に連れられ、数人集まつて酒食を供し、巧に自由を拘束され、遂に阿部師に投票せしめられたのであります。又某寺老住職は、元より有元師に投票すべく仏天に盟ひましたが、彼等運動員の脅迫によりて不得止阿部師に投票したのである」
それだけに止まらない。
「法要に托して之を外出せしめ、我等との面接を不可能ならしめ。又は高等寺院に転任又は位階昇進等の好餌を喰したり。又は免職転任等等で威圧したり。止むことなき信徒の有力者を使用して強圧したり。或は偽電を打って有元師への投票を妨げたりし事実は沢山あるのであります」
この有元派の「声明書」に対し、阿部派の富田慈妙は、「弁駁書」(昭和三年十二月二十九日付)をもって反論している。
「選挙当時某々等阿部師を信じて同師に投票せしを開緘前、某に迫り恐ろしき言葉や振りで恐怖せしめた結果、阿部師へ投票せし事を知り、強いて其取消状を発せしめたりと云ふ。又東北地方の某師などは恐怖のあまり全く意にもない取消である故に、其悪辣な人々の帰るを待ち、隣室に居りて事実を知りたる人等は、某師の上に同情し直ちに其事実を列記したる届書を以て、宗務院に取消の真意にあらざる事を申出されてある」
(「地涌」第347号)
かくも醜く激烈な選挙戦は、官憲の介入するところとなり、昭和二年十二月十八日、大宮署の警察官が宗務院を取り巻いて警護にあたり、開票となった。
阿部法運 五十一票
有元広賀 三十八票
しかし監視していた文部省宗教局は、すぐには選挙結果を認めなかった。宗教局の懸念は当たり、落選した有元派が、当選した阿部法運、水谷秀道を背任横領で告訴した。本山の立木を伐採して選挙費用に流用した等の疑いである。
阿部法運は向島署で取調べを受けたが、横領したとされる金員が補填されたのであろう、刑事事件としての立件は見合わされ、騒動は落着した。
文部省宗教局の認可が降り、阿部法運が正式に管長となったのは、昭和三年六月二日のことであった。開票が前年の十二月十八日だから、認可まで約六カ月かかったことになる。
これで阿部法運が登座するのを遮る者はなくなった。だが、法主となった阿部は直に躓くこととなる。管長だけに許された行為、すなわち御本尊書写を誤ってしまうのである。
(続く)
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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:52」を破折する 連載75回
妄説:52 御隠尊(いんそん)猊下が御本尊を書写されることはあるのですか。
御隠尊(いんそん)猊下とは、御法主を退職された方の尊称です。
『日蓮正宗宗規』第十四条の第五項に、
「退職した法主は、前法主と称し、血脈の不断に備える」とあり、同条第六項には、「前法主は、法主の委嘱(いしょく)により、本尊を書写し、日号を授与する」
とあります。
すなわち、御隠尊猊下は、唯授一人の血脈が断絶しないよう不測の事態に備えられるとともにまた現御法主上人からの委託(いたく)(委ねたのむこと)を受けて御本尊書写をされることがあるのです。
破折:
1.御本尊は「折伏弘教に励む人のため」
今、宗門で「御隠尊猊下」と言えば、ただちに日顕を指すであろう。しかし宗史において、名実ともに「御隠尊猊下」として尊敬を受けた法主は、五十九世堀日亨師であった。
「御隠尊猊下は……御本尊書写をされることがあるのです」とするが、日亨師は檀家から御本尊書写の依頼があっても、「檀家には書写はしない」とした。御本尊は何の為に出現されたか、そこに重きを置いていたからである。
◇
堀上人は「檀家というのは、寺を守ることが主で、住職についていく者。信者は、御本尊を信じて、広宣流布に進んでいくのが信者である」と明快に言われた。目的が寺の維持なのか、それとも広宣流布なのか、これが檀家と信者の違いであるとの指摘だった。
これを端的に物語っているのが、御本尊に対する考え方であるとも言われた。檀家は、お爺さんの代に〇〇上人の御本尊、父親の代には△△上人の御本尊と、その時々に寺を守った証(あかし)という程度にしか御本尊を見ていない。しかし、学会の人は、御本尊を信仰の根本としている。広宣流布を進めるために御本尊を拝んでいる。御本尊への姿勢がまったく違う、と。
こうしたことから、堀上人は、「御本尊も本当に日の目を見たのは、学会が出現したから御本尊の本当の力が出るようになったのであって、本当にありがたいことだ。檀家が御本尊を書いてもらいたいと頼みに来るが、私は御本尊は広宣流布のための御本尊なら認(したた)めるが、御供養をいくらでも出すからいただきたいというのなら一切書かない」と話されていた。
亡くなる一週間ぐらい前にも、「慈済、お前は全国を回って私が認(したた)めた御本尊を引き上げてくるように」と言われたことがあった。自分が認めた御本尊がないがしろにされてはいないか、ただ家宝として持っているのなら、それは本当に必要としてないんだから返してもらってこいと思われたのだろう。
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
2.〈五十九世堀日亨法主〉早すぎた退位
前回(「妄説:51」)に引き続き、近代に登座した法主の事跡を追う。今回は五十九世堀日亨法主である。
(1) 阿部法運(日開)の画策で孤立
五十八世日柱を退座させた阿部法運(日開)等は、管長選挙で堀慈琳(日亨)を推したが、それは初めから仕組まれた、中継の法主に過ぎなかった。後年、日開の野望が暴露されている。
◇
十四年冬柱師不信認云々の時も、阿部一派の者は直に阿部師を出す考えであったため、堀師を挙るに随分難渋したのである。我等は堀師を挙げないなれば不賛成じゃと断言したので、彼等は不精々々付て来たのであります。
(「声明書」昭和三年三月十三日付 引用:「地涌 第316号」)
上記の通り、阿部法運は五十七世日正の次を狙い、それが果たせないとなると、五十八世日柱の次を狙い、それすら野合を成立させるために果たせず、やむなく堀慈琳を擁立したのである。
五十九世堀日亨法主は登座後、宗門を刷新するため宗制の改正を目指した。しかし一山の僧らのサボタージュにあい、法務を履行することができないまま、在位一年余の昭和二年十一月、辞意を表明したのである。
◇
五、昨年の宗制改正案について、自ら七、八の新案を参考に提出せしも、起草委員又は宗務職員又は評議員等が、其中の重大案までも殆んど黙殺せるを強制し得ざりし平凡管長の悲哀、否時期到らずと淡薄に見切りを附けた事が、却って無責任なりし苦しみに自ら堪え得ぬ事。
(「告白」昭和二年十一月記述)
遡ると、五十八世日柱が宗会から不信任を決議され、辞職勧告を提出される等、宗史に前例のない出来事が惹起され、管長選挙が行われた。この異常な状況下で管長に推挙された日亨法主は、本山の静謐を回復すべく、宗制の改正を目して幾多の案を提出したとされる。
だが、宗内は管長選挙の余燼で阿部法運(日開)と有元広賀(日仁)との二派に分かれ、日亨法主の案はおそらく清新に過ぎ、僧侶たちから煙たがられたと推測される。
日亨師は、当時の苦渋の様子を披瀝した。
◇
已に第一に言明せる如く管長たる事を欲せざる、其適当せざる性格であるから、仮に個性に適したる新行動を取りたるも何となくツリアイが善くない。従来の習慣と相応せぬ自他上下シックリせぬ釣り合わぬは不縁の基と云う語が此に当る。此が抑の原因である。始めから一年二年と永い事は持たぬ、否持てぬのが当然である。理想にも個性にもハマラぬ生活は、色心二法を束縛する、不快にする、四大の調和を失する、従来曾てなき原因不明の病気を頻発する。若し此が為に倒るれば、宗門の為にもならず厄介物として終ることは明白であるのみならず、二三十年必死と念願せし編纂著作の聖業も泡沫と散り失する。如何にも死んでも死にきれぬ残念さである。此が先ず大々主因である。
(「告白」第三 管長辞職の素因 昭和二年十一月二十日)
日亨師はどれほど残念至極な思いであったか、断腸の思いがひしひしと伝わり来る。
黒幕は、またも阿部法運であった。阿部は、みずからの僧階が復級するや、日亨師を孤立させ、早期退座を計ったのである。
阿部法運は、日柱に続く二人目の法主を葬り去った。次は、いよいよ天下獲りに乗り出すのである。
(2) 隠尊の日亨師
日亨師は、後年次のように述べている。
◇
身延系律僧・深草元政上人の言葉があるよ。「貫主のような俗物になるな」とね。
他門ながら、実に良いことを言うじゃないか。「貫主のような俗物」との言葉は、大いに学ぶべしじゃよ。
ワシが猊下をなぜ二年でやめたと思う。猊下というもの、あれは政治家だよ。俗の奸物がなるものであって、学問をやる者がめざすところのものではありゃしない。
(「亨師談聴聞記」昭和二十六年 冬 大橋慈譲記録)
「猊下というもの」は「俗の奸物がなるもの」と。言い得て妙である。日達法主が急逝したとき、「俗の奸物」が大胆不敵な行動に出た。「本来なら正規の手続きで六十七世に〝繰り上げ当選〟可能だった日慈」(引用:「法主詐称」)を尻目に、日顕がたった一口の相承詐称の言葉で、一山の長に成り上がったのである。
◇
今一歩のところで日顕に出し抜かれた早瀬の悔しさは想像を絶する。
〝まさか日付まで出してくるとは……。阿部にしてやられた〟
腸が煮えくりかえる思いを何とかおさえ、日慈はかろうじて仮通夜にだけは顔を出す。しかし、それが終わるや、さっさと本山を後にし、東京に戻ってしまった。日慈を頂点とする法器会と阿部日顕との微妙な関係は、実にこの時から始まるのである。
一方、まんまと早瀬日慈を出し抜いた日顕だが、それでも、法器会の動向が気になって仕方がなかったようだ。法器会関係者が、こんな話をしている。
「日達上人が亡くなった日の午前、重役会議を終えた猊下が神妙な顔つきで、『こんど私がお受けして、やることになりました。よろしくお願いしますよ』と告げ、その時、『観妙院(早瀬日慈)さんにしばらくやってもらってもいいんですがね……』と言ったんだ。私は『猊下がなさればいいじゃないですか』と答えるしかなかった。だって、『そうですか』とは言えないだろう」
(「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
上記の著書が出版され、日顕の相承詐称の事実があらためて宗門内外に知れ渡った。2005年(平成17年)12月、日顕は宗内のパワーバランスを取るべく、早瀬家の日如に猊座を継がせた。自らは隠尊として睨みを利かす、そうでもしなければ、最大派閥の早瀬一族の怨みを買ったまま、死後に除籍されるかもしれない、との不安がどこまでも付きまとったのであろう。
日顕のグループと早瀬一族との駆け引きは、どこまで続くことか。学究の日亨師とは、まるで相容れない世界である。日亨師は、当時の管長を次のように形容している。
◇
口決相承というものは、信仰のたまものじゃよ。信仰もなく、学もなく、行もなく、親分・子分の関係を強いるヤクザの貫首が、いったい何を伝授するというのかね。
今、もしこの様なことを言って公けにすれば、宗門はまだ小さいし、また伝統を破壊することになると思って、じっと黙っているところだよ。
それをいいことにして、横暴・無頼の限りを尽すとは、いい加減にしなきゃいかん。
(前出「亨師談聴聞記」)
この「ヤクザの貫首」を誰とは言明していないが、日如の曽祖父・五十六世日応以来の、戦前の法主代々であろう。猊座というものは、野望の象徴であった。その中には、日柱を追い落とし、日亨師を退座に至らしめた六十世日開(日顕の父)もいる。
「親分・子分の関係を強いるヤクザの貫首」とは、現代ではまさに日顕・日如のボス同士の争いである。これが中世の鞍馬山なら天狗の騒ぎとでも言おうが、上野村ならサル山の光景を思い浮かべれば、十分であろう。
新池御書(一四四二㌻)にいわく、
「建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山の頽れたるが如く・威儀の放埒なることは猿に似たり、是を供養して後世を助からんと思ふは・はかなし・はかなし」
日顕宗は建長寺・円覚寺にも及ばず、愚かしさは猿以下である。
(3)日亨師と創価学会
宗門において正法が存在したのは、戒壇の大御本尊と、創価学会を信頼した極少数の僧侶のみである。学会を最大に理解し期待した人の一人が、日亨師であった。
学会は日亨師の教学力を得て、宗門初の御書全集を刊行した。学会員はこの御書を手に、消えかかる灯の如きであった正法を甦らせ、旭日の勢いで広宣流布の波を拡げたのである。
① 学会に対する理解
以下は戦後の日亨師に給仕した僧侶(故・渡辺慈済師)の回顧録である。
◇
私が学会に対する理解を正しく持つようになったのは、堀上人のもとにお仕えすることができたからである。
当時、宗門で、学会が広宣流布のための仏意仏勅の団体であることを本当に理解していたのは、堀上人、日昇上人、日淳上人、日達上人ぐらいであった。あとの僧侶は、「狸祭り事件」もあって、学会を色眼鏡で見ており、堀上人は私も学会嫌いの凝り固まりかと思われていたようだ。
私が畑毛(はたけ)(静岡県田方(たがた)郡函南(かんなみ)町)の雪山荘に伺うと、堀上人はそのことを尋ねられた。
「慈済は学会についてどう考えているのか?」
確かに私の師匠・柿沼広燈氏は法華講第一で、葬儀でも学会員の所には絶対行かないと徹底していた人だった。しかし、その代りに我々所化が学会員と接し、葬儀や法事に行っていたので、いかに学会員が世間の偏見や無理解のなか、大変な苦労をして法を弘めていたかを知っていた。
私は「学会の人たちは本当に広宣流布のために頑張っています。学会は大事だと思います」と、素直に申し上げた。
堀上人は「お前は、皆とは違うんだな」と言われていたが、そんなことから、茶飲み話の折など、誰にも話されないようなことでも、腹蔵なく教えていただくことができた。
今思うと、数多(あまた)いる僧侶のなかで、堀上人に御奉公できたことは、不思議な仏法の因縁としか思えない。
堀上人は、二十六世日寛上人以来の大学匠である。教学のうえでも、また人徳のうえからも、宗内はもとより他宗の人々や東大の教授等からも深く尊敬されていた。
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
② 「折伏しているから、生き生きしている」
渡辺慈済師の回顧の続きである。
◇
堀上人の日常の振る舞いを見ても、実際に折伏を行なっている人に対しては、とても温かく誠意を込めて接しておられた。
畑毛にはよく僧侶が訪ねて来たが、堀上人に会ってもらうのはなかなか大変だった。「今書き物をしているから、会えないと言いなさい」と言われ、取り次ぎに入った私は困ったものである。ところが、学会の青年部が訪ねて来るというと、朝からそわそわして、待ち焦がれておられる様子。その人たちが来ると、夢中で話し相手をされた。
私が「学会の方と話されている時は、長すぎるくらい話をされますが、体の具合がよろしいのですか?」と尋ねると、上人は「私も知らぬ間にしゃべって、後で疲れるが、命懸けで折伏をしている者は気力が溢(あふ)れていていいもんだよ」と。
また、「彼らは折伏しているから、生き生きしている。話に嘘がない。それに対して、僧侶は、自分の教学を誇示しようとしたり、見えがある。本来、僧侶は名字即(みょうじそく)でなければならない。着ているものも質素。食べるものも贅沢はしない。話すことも謙虚でなければならない」と。
(同)
「話に嘘がない」、これこそ大聖人の仏法を信受した者があるべき姿である。我々学会員の誇りとしたい。
さらには、僧侶ならば「質素」「贅沢をしない」「謙虚」でなければならないとの言明である。宗門が堕落した原因は、まさしくここにあった。最大の違背者が、日顕である。
③ 牧口会長との交流
学会でも、牧口会長が戦前から「菩薩行をしなければ仏になれない」と、折伏行を叫んでいた。
◇
信ずるだけでもお願いをすればご利益はあるに相違ないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義(利己主義)の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである。即ち親心になって他人に施すのが真の信心でありかつ行者である。
(大善生活実証録)
日亨師と牧口会長の二人には、共鳴し合うものがあった。
◇
牧口会長と堀上人については、戦前の昭和十一年、堀上人が東京・向島の本行坊(現本行寺)で富士宗学要集講習会を始められた折に、その開催発起人に連なったのが牧口会長だった。牧口会長は大学匠の堀上人を深く尊敬し、堀上人に仏法の奥義を学ばれた。堀上人もまた、法華経に「此経難持」「六難九易」と書かれた通り、この末法において熱心に折伏に励む牧口会長を尊敬された。
畑毛でも、私が物置を掃除した時、古びた木の看板を見つけたことがあった。墨書された字はほとんど読めなくなっていたが、「大善生活……」と書かれていた。堀上人に伺うと、「この雪山荘も座談会の会場として、戦時中、牧口会長を中心として、この方面の会員が集まっていた。その時の看板だよ! 牧口会長は価値論を使って折伏していたが、立派だったよ!」と、懐かしそうに話されていた。戦前、学会は「大善生活実験証明座談会」と銘打って座談会を開いていたが、この雪山荘が学会の拠点となり、その時の看板だったわけである。
(前出「日蓮正宗〝落日の真因〟」)
(了)
妄説:52 御隠尊(いんそん)猊下が御本尊を書写されることはあるのですか。
御隠尊(いんそん)猊下とは、御法主を退職された方の尊称です。
『日蓮正宗宗規』第十四条の第五項に、
「退職した法主は、前法主と称し、血脈の不断に備える」とあり、同条第六項には、「前法主は、法主の委嘱(いしょく)により、本尊を書写し、日号を授与する」
とあります。
すなわち、御隠尊猊下は、唯授一人の血脈が断絶しないよう不測の事態に備えられるとともにまた現御法主上人からの委託(いたく)(委ねたのむこと)を受けて御本尊書写をされることがあるのです。
破折:
1.御本尊は「折伏弘教に励む人のため」
今、宗門で「御隠尊猊下」と言えば、ただちに日顕を指すであろう。しかし宗史において、名実ともに「御隠尊猊下」として尊敬を受けた法主は、五十九世堀日亨師であった。
「御隠尊猊下は……御本尊書写をされることがあるのです」とするが、日亨師は檀家から御本尊書写の依頼があっても、「檀家には書写はしない」とした。御本尊は何の為に出現されたか、そこに重きを置いていたからである。
◇
堀上人は「檀家というのは、寺を守ることが主で、住職についていく者。信者は、御本尊を信じて、広宣流布に進んでいくのが信者である」と明快に言われた。目的が寺の維持なのか、それとも広宣流布なのか、これが檀家と信者の違いであるとの指摘だった。
これを端的に物語っているのが、御本尊に対する考え方であるとも言われた。檀家は、お爺さんの代に〇〇上人の御本尊、父親の代には△△上人の御本尊と、その時々に寺を守った証(あかし)という程度にしか御本尊を見ていない。しかし、学会の人は、御本尊を信仰の根本としている。広宣流布を進めるために御本尊を拝んでいる。御本尊への姿勢がまったく違う、と。
こうしたことから、堀上人は、「御本尊も本当に日の目を見たのは、学会が出現したから御本尊の本当の力が出るようになったのであって、本当にありがたいことだ。檀家が御本尊を書いてもらいたいと頼みに来るが、私は御本尊は広宣流布のための御本尊なら認(したた)めるが、御供養をいくらでも出すからいただきたいというのなら一切書かない」と話されていた。
亡くなる一週間ぐらい前にも、「慈済、お前は全国を回って私が認(したた)めた御本尊を引き上げてくるように」と言われたことがあった。自分が認めた御本尊がないがしろにされてはいないか、ただ家宝として持っているのなら、それは本当に必要としてないんだから返してもらってこいと思われたのだろう。
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
2.〈五十九世堀日亨法主〉早すぎた退位
前回(「妄説:51」)に引き続き、近代に登座した法主の事跡を追う。今回は五十九世堀日亨法主である。
(1) 阿部法運(日開)の画策で孤立
五十八世日柱を退座させた阿部法運(日開)等は、管長選挙で堀慈琳(日亨)を推したが、それは初めから仕組まれた、中継の法主に過ぎなかった。後年、日開の野望が暴露されている。
◇
十四年冬柱師不信認云々の時も、阿部一派の者は直に阿部師を出す考えであったため、堀師を挙るに随分難渋したのである。我等は堀師を挙げないなれば不賛成じゃと断言したので、彼等は不精々々付て来たのであります。
(「声明書」昭和三年三月十三日付 引用:「地涌 第316号」)
上記の通り、阿部法運は五十七世日正の次を狙い、それが果たせないとなると、五十八世日柱の次を狙い、それすら野合を成立させるために果たせず、やむなく堀慈琳を擁立したのである。
五十九世堀日亨法主は登座後、宗門を刷新するため宗制の改正を目指した。しかし一山の僧らのサボタージュにあい、法務を履行することができないまま、在位一年余の昭和二年十一月、辞意を表明したのである。
◇
五、昨年の宗制改正案について、自ら七、八の新案を参考に提出せしも、起草委員又は宗務職員又は評議員等が、其中の重大案までも殆んど黙殺せるを強制し得ざりし平凡管長の悲哀、否時期到らずと淡薄に見切りを附けた事が、却って無責任なりし苦しみに自ら堪え得ぬ事。
(「告白」昭和二年十一月記述)
遡ると、五十八世日柱が宗会から不信任を決議され、辞職勧告を提出される等、宗史に前例のない出来事が惹起され、管長選挙が行われた。この異常な状況下で管長に推挙された日亨法主は、本山の静謐を回復すべく、宗制の改正を目して幾多の案を提出したとされる。
だが、宗内は管長選挙の余燼で阿部法運(日開)と有元広賀(日仁)との二派に分かれ、日亨法主の案はおそらく清新に過ぎ、僧侶たちから煙たがられたと推測される。
日亨師は、当時の苦渋の様子を披瀝した。
◇
已に第一に言明せる如く管長たる事を欲せざる、其適当せざる性格であるから、仮に個性に適したる新行動を取りたるも何となくツリアイが善くない。従来の習慣と相応せぬ自他上下シックリせぬ釣り合わぬは不縁の基と云う語が此に当る。此が抑の原因である。始めから一年二年と永い事は持たぬ、否持てぬのが当然である。理想にも個性にもハマラぬ生活は、色心二法を束縛する、不快にする、四大の調和を失する、従来曾てなき原因不明の病気を頻発する。若し此が為に倒るれば、宗門の為にもならず厄介物として終ることは明白であるのみならず、二三十年必死と念願せし編纂著作の聖業も泡沫と散り失する。如何にも死んでも死にきれぬ残念さである。此が先ず大々主因である。
(「告白」第三 管長辞職の素因 昭和二年十一月二十日)
日亨師はどれほど残念至極な思いであったか、断腸の思いがひしひしと伝わり来る。
黒幕は、またも阿部法運であった。阿部は、みずからの僧階が復級するや、日亨師を孤立させ、早期退座を計ったのである。
阿部法運は、日柱に続く二人目の法主を葬り去った。次は、いよいよ天下獲りに乗り出すのである。
(2) 隠尊の日亨師
日亨師は、後年次のように述べている。
◇
身延系律僧・深草元政上人の言葉があるよ。「貫主のような俗物になるな」とね。
他門ながら、実に良いことを言うじゃないか。「貫主のような俗物」との言葉は、大いに学ぶべしじゃよ。
ワシが猊下をなぜ二年でやめたと思う。猊下というもの、あれは政治家だよ。俗の奸物がなるものであって、学問をやる者がめざすところのものではありゃしない。
(「亨師談聴聞記」昭和二十六年 冬 大橋慈譲記録)
「猊下というもの」は「俗の奸物がなるもの」と。言い得て妙である。日達法主が急逝したとき、「俗の奸物」が大胆不敵な行動に出た。「本来なら正規の手続きで六十七世に〝繰り上げ当選〟可能だった日慈」(引用:「法主詐称」)を尻目に、日顕がたった一口の相承詐称の言葉で、一山の長に成り上がったのである。
◇
今一歩のところで日顕に出し抜かれた早瀬の悔しさは想像を絶する。
〝まさか日付まで出してくるとは……。阿部にしてやられた〟
腸が煮えくりかえる思いを何とかおさえ、日慈はかろうじて仮通夜にだけは顔を出す。しかし、それが終わるや、さっさと本山を後にし、東京に戻ってしまった。日慈を頂点とする法器会と阿部日顕との微妙な関係は、実にこの時から始まるのである。
一方、まんまと早瀬日慈を出し抜いた日顕だが、それでも、法器会の動向が気になって仕方がなかったようだ。法器会関係者が、こんな話をしている。
「日達上人が亡くなった日の午前、重役会議を終えた猊下が神妙な顔つきで、『こんど私がお受けして、やることになりました。よろしくお願いしますよ』と告げ、その時、『観妙院(早瀬日慈)さんにしばらくやってもらってもいいんですがね……』と言ったんだ。私は『猊下がなさればいいじゃないですか』と答えるしかなかった。だって、『そうですか』とは言えないだろう」
(「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
上記の著書が出版され、日顕の相承詐称の事実があらためて宗門内外に知れ渡った。2005年(平成17年)12月、日顕は宗内のパワーバランスを取るべく、早瀬家の日如に猊座を継がせた。自らは隠尊として睨みを利かす、そうでもしなければ、最大派閥の早瀬一族の怨みを買ったまま、死後に除籍されるかもしれない、との不安がどこまでも付きまとったのであろう。
日顕のグループと早瀬一族との駆け引きは、どこまで続くことか。学究の日亨師とは、まるで相容れない世界である。日亨師は、当時の管長を次のように形容している。
◇
口決相承というものは、信仰のたまものじゃよ。信仰もなく、学もなく、行もなく、親分・子分の関係を強いるヤクザの貫首が、いったい何を伝授するというのかね。
今、もしこの様なことを言って公けにすれば、宗門はまだ小さいし、また伝統を破壊することになると思って、じっと黙っているところだよ。
それをいいことにして、横暴・無頼の限りを尽すとは、いい加減にしなきゃいかん。
(前出「亨師談聴聞記」)
この「ヤクザの貫首」を誰とは言明していないが、日如の曽祖父・五十六世日応以来の、戦前の法主代々であろう。猊座というものは、野望の象徴であった。その中には、日柱を追い落とし、日亨師を退座に至らしめた六十世日開(日顕の父)もいる。
「親分・子分の関係を強いるヤクザの貫首」とは、現代ではまさに日顕・日如のボス同士の争いである。これが中世の鞍馬山なら天狗の騒ぎとでも言おうが、上野村ならサル山の光景を思い浮かべれば、十分であろう。
新池御書(一四四二㌻)にいわく、
「建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山の頽れたるが如く・威儀の放埒なることは猿に似たり、是を供養して後世を助からんと思ふは・はかなし・はかなし」
日顕宗は建長寺・円覚寺にも及ばず、愚かしさは猿以下である。
(3)日亨師と創価学会
宗門において正法が存在したのは、戒壇の大御本尊と、創価学会を信頼した極少数の僧侶のみである。学会を最大に理解し期待した人の一人が、日亨師であった。
学会は日亨師の教学力を得て、宗門初の御書全集を刊行した。学会員はこの御書を手に、消えかかる灯の如きであった正法を甦らせ、旭日の勢いで広宣流布の波を拡げたのである。
① 学会に対する理解
以下は戦後の日亨師に給仕した僧侶(故・渡辺慈済師)の回顧録である。
◇
私が学会に対する理解を正しく持つようになったのは、堀上人のもとにお仕えすることができたからである。
当時、宗門で、学会が広宣流布のための仏意仏勅の団体であることを本当に理解していたのは、堀上人、日昇上人、日淳上人、日達上人ぐらいであった。あとの僧侶は、「狸祭り事件」もあって、学会を色眼鏡で見ており、堀上人は私も学会嫌いの凝り固まりかと思われていたようだ。
私が畑毛(はたけ)(静岡県田方(たがた)郡函南(かんなみ)町)の雪山荘に伺うと、堀上人はそのことを尋ねられた。
「慈済は学会についてどう考えているのか?」
確かに私の師匠・柿沼広燈氏は法華講第一で、葬儀でも学会員の所には絶対行かないと徹底していた人だった。しかし、その代りに我々所化が学会員と接し、葬儀や法事に行っていたので、いかに学会員が世間の偏見や無理解のなか、大変な苦労をして法を弘めていたかを知っていた。
私は「学会の人たちは本当に広宣流布のために頑張っています。学会は大事だと思います」と、素直に申し上げた。
堀上人は「お前は、皆とは違うんだな」と言われていたが、そんなことから、茶飲み話の折など、誰にも話されないようなことでも、腹蔵なく教えていただくことができた。
今思うと、数多(あまた)いる僧侶のなかで、堀上人に御奉公できたことは、不思議な仏法の因縁としか思えない。
堀上人は、二十六世日寛上人以来の大学匠である。教学のうえでも、また人徳のうえからも、宗内はもとより他宗の人々や東大の教授等からも深く尊敬されていた。
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
② 「折伏しているから、生き生きしている」
渡辺慈済師の回顧の続きである。
◇
堀上人の日常の振る舞いを見ても、実際に折伏を行なっている人に対しては、とても温かく誠意を込めて接しておられた。
畑毛にはよく僧侶が訪ねて来たが、堀上人に会ってもらうのはなかなか大変だった。「今書き物をしているから、会えないと言いなさい」と言われ、取り次ぎに入った私は困ったものである。ところが、学会の青年部が訪ねて来るというと、朝からそわそわして、待ち焦がれておられる様子。その人たちが来ると、夢中で話し相手をされた。
私が「学会の方と話されている時は、長すぎるくらい話をされますが、体の具合がよろしいのですか?」と尋ねると、上人は「私も知らぬ間にしゃべって、後で疲れるが、命懸けで折伏をしている者は気力が溢(あふ)れていていいもんだよ」と。
また、「彼らは折伏しているから、生き生きしている。話に嘘がない。それに対して、僧侶は、自分の教学を誇示しようとしたり、見えがある。本来、僧侶は名字即(みょうじそく)でなければならない。着ているものも質素。食べるものも贅沢はしない。話すことも謙虚でなければならない」と。
(同)
「話に嘘がない」、これこそ大聖人の仏法を信受した者があるべき姿である。我々学会員の誇りとしたい。
さらには、僧侶ならば「質素」「贅沢をしない」「謙虚」でなければならないとの言明である。宗門が堕落した原因は、まさしくここにあった。最大の違背者が、日顕である。
③ 牧口会長との交流
学会でも、牧口会長が戦前から「菩薩行をしなければ仏になれない」と、折伏行を叫んでいた。
◇
信ずるだけでもお願いをすればご利益はあるに相違ないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義(利己主義)の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである。即ち親心になって他人に施すのが真の信心でありかつ行者である。
(大善生活実証録)
日亨師と牧口会長の二人には、共鳴し合うものがあった。
◇
牧口会長と堀上人については、戦前の昭和十一年、堀上人が東京・向島の本行坊(現本行寺)で富士宗学要集講習会を始められた折に、その開催発起人に連なったのが牧口会長だった。牧口会長は大学匠の堀上人を深く尊敬し、堀上人に仏法の奥義を学ばれた。堀上人もまた、法華経に「此経難持」「六難九易」と書かれた通り、この末法において熱心に折伏に励む牧口会長を尊敬された。
畑毛でも、私が物置を掃除した時、古びた木の看板を見つけたことがあった。墨書された字はほとんど読めなくなっていたが、「大善生活……」と書かれていた。堀上人に伺うと、「この雪山荘も座談会の会場として、戦時中、牧口会長を中心として、この方面の会員が集まっていた。その時の看板だよ! 牧口会長は価値論を使って折伏していたが、立派だったよ!」と、懐かしそうに話されていた。戦前、学会は「大善生活実験証明座談会」と銘打って座談会を開いていたが、この雪山荘が学会の拠点となり、その時の看板だったわけである。
(前出「日蓮正宗〝落日の真因〟」)
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №51~60
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:51」を破折する 連載74回
妄説:51 御法主上人以外の人が御本尊を書写したという例はありますか。
御本尊書写の権能は、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人お一人に限られるというのが、日蓮大聖人の教えです。
『本因妙抄(ほんにんみょうしょう)』に、
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)
と仰せられています。
また、第五十六世日応上人は
「金口嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能(あた)はず」(弁惑観心抄 212頁)
と仰せです。
したがって宗門七百年の歴史において、御法主上人以外の僧侶が、たとえ高徳、博学、能筆の方であろうとも、御本尊を書写したということはありません。
ただし御隠尊(いんそん)猊下が御当代上人の委託(いたく)を受けて、御本尊を書写されることはあります。(次項参照)
[参考資料]
「尊師(ぞんし)自らも在世中一幅の本尊をも書写し玉はざる。唯授一人の相伝なくして書写すべきものに非ざるが故になり、然るに其の末弟として其の禁誡を犯し、恣(ほしいまま)に血脈相承ありとして、本尊を書写せること、師敵対・僣聖上慢(せんしょうじょうまん)の悪比丘たるべし」(研教 二七-四七二頁)
破折:
1.日顕宗の依処は〝後加文〟(=後世の書き込み)
「又日文字の口伝・産湯の口決・二箇は両大師の玄旨にあつ、本尊七箇の口伝は七面の決に之を表す教化弘経の七箇の伝は弘通者の大要なり、又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し伝う可し、法華本門宗血脈相承畢んぬ。
弘安五太歳壬午十月十一日 日 蓮 在御判」
日蓮大聖人御書全集(「本因妙抄 八七七㌻」)において上記箇所は、他の御文よりも小さな活字で印刷されている。これは編者の五十九世堀日亨法主が「後加文」(後世の書き込み)であることを示したのであり、すなわち日蓮大聖人が認(したた)められた御文ではない。
このことは「妄説:42」において指摘済みであるが、宗門はあたかも大聖人の御真筆であるかのごとくに、繰り返し引用する。
そもそもこの「妄説:51」は何のために提起したか。当然に学会誹謗のためであろうが、学会が本尊書写するわけが無いのであり、この項目自体が「無駄」である。それにもかかわらず提起することは、「御本尊書写の権能」は宗門にあり、と強調したいためであろうが、お生憎様である。日顕・日如の御本尊を我らが望むことなど、未来永劫ありえない。
大御本尊を「ニセ物」と断じた日顕の不信・不敬の〝悪念〟が込められる本尊など、願い下げである。日如の本尊も、与同罪である。
2.本因妙抄の末文は「他宗派の依文」
堀日亨法主が本因妙抄の末文を〝後加文〟と断じた講義箇所が、インターネットに収載されているので紹介したい。
◇
御書編集において、「本因妙抄」を正筆と認めていない日享師は、さらに「両巻抄講義」において(「日享上人講述・237頁」)
「若し末法において本迹一致と修行し、所化等に教ゆる者ならば、我が身も五逆罪を造らずして無間に堕ち、其れに随従せんともがらも阿鼻に沈まんO其の時万人一人も無く、唯我日蓮与我日興計りなり。(二十行)
又日文字の口伝O日蓮在御判(七行)
右二十七行の文は宗祖より開山へ相伝された本には恐らく無かったと思ふ。右にこれ等の文は宗祖の言われる筈にあらざる文,后世で無くては言へない文が多い。開山己后西山等に伝わってから記されたものと思ふ。」
と述べ、本因妙抄の末文を後代の偽加としている。
(Yahoo!知恵袋 shiritagari60さん 回答日時:2011/4/26)
西山本門寺等は、大石寺の直系では無いはず。大石寺の「唯授一人の血脈」の依処とするには、不都合極まるではないか。むしろ西山本門寺等の、他派の正当性をアピールすることとなる。
このような後加文を持ち出すこと自体、かえって「血脈」の〝底が割れる〟結果となる。要は「自爆」するに等しい話である。宗門は、他宗・他派から笑われていることに気が付かないのか。
3.日尊の謗法と親しい宗門
妄説の[参考資料]として引用した文は、日目上人を師匠とする日尊が、自らは御本尊を書写しなかった事跡に言及したものである。
この文の解説も、同じくインターネット投稿文より転載した。
◇
「故に宗祖は濫に曼荼羅を授与し給はず・開山は曼荼羅転授に就いても之を鄭重になし給ひ、尊師は宗門未有の弘通者なれども自ら曼荼羅を書写せず、然るに余門流の僧侶不相伝の儘猥りに曼荼羅を書き散して、僭越の逆罪とも思はざるのみならず・雑乱滅裂全き型式をだに得たるものなし、無法無慙の甚しきもの八大地獄は彼等の為に門を開けり・慎まざるべけんや」(富要1-112)
大聖人、日興上人が御本尊授与の化儀を丁寧になされていたことは十分に理解できますが、ここで紹介されている日尊については、京都の上行院建立(1339年)の2年後(板本尊を1344年に弟子の日印に授与する3年前)に、この上行院に釈迦像や十大弟子の像を建立・安置している(日蓮正宗富士年表P.84)のですから、曼荼羅を書写しなかったのは決して曼荼羅に対する正しい信仰があったなどと言うことは出来ません。日亨上人はここでは他山の本尊雑乱(主題を「南無妙法蓮華経 日×」と書く筆法)に対して厳しく批判されておられるだけなのです。日尊は既に謗法に堕していたのですから、本尊書写をしなかったことに何の意味もないのです。まして板本尊はしっかり建立しているのです。この時に法主の允可を受けたはずもありません。すでに釈迦像建立をするような謗法に陥っていたのですから。
( 『日蓮正宗の本尊義を破す』 2013/02/10 22:36 田中修一郎 インターネット投稿文 )
日尊は日興上人に破門されて以後、十二年の間諸国を巡って弘教し、三十六箇寺を建立した。これを日興上人が喜ばれ、三十六幅の御本尊を書写して賜ったと伝えられる。
日尊は、自らは御本尊書写をしなかったが、結局は仏像造立、法華経一部(二十八品)読誦などの教義の誤りを犯した。日顕宗がわざわざ日尊の事跡を持ち出してきたことから、彼らの共通点が「謗法」であったことに思い至るのである。
4.〈五十八世土屋日柱〉解職された法主
「妄説:48(その二)」の「6.〈五十七世日正〉「面授相承」の途絶」の項において、後継者の土屋日柱に面授相承できないまま、逝去した日正の事跡を綴った。
ここで暗躍していたのは、日開(日顕の父)であり、日正の後釜を狙ったのであったが、猊座は大学頭の地位にあった土屋慈観に帰するところとなった。
この日開は、後に大石寺管長に就任するのであるが、「相伝書」を無視し、我説で御本尊を書写したところ、僧俗より非難を受け、ために陳謝するという大失態を演じている。
「御本尊書写の権能」ばかり宗門は振り回しているが、日開のように、肝心の御本尊が相伝から外れたものであっては、何が権能か、笑わせないでもらいたい。
日開が法主の座に就くまでには、まだ黒い画策が続くのであるが、ここでは、日開によって猊座を追い落された、五十八世土屋日柱について綴る。
(1) 宗会が不信任、辞職勧告
宗規に基づき、大学頭の地位にあった土屋慈観が第五十八世大石寺貫首となり、土屋日柱を名乗る。ところが登座二年余にして、高位の僧らの連名による「辞職勧告書」を突きつけられ、退座を求められることとなる。このような経過に至るには、次の通りの事情があった。
「そも阿部師を管長たらしめんと企てたのは、遠く深いのであって、大正十二年八月、日正上人重患に陥るや、彼等一派は名を正師の命を借りて、久しく大学頭として当然管長たるべき土屋日柱師を排斥し、阿部師を挙んと、あらゆる悪辣手段を弄したのである。
けれども仏意彼等に組せずして、柱師は五十八世の猊座に上げられました。それ已来、彼等は言を正師に寄せ、五十九代は阿部師、六十代は崎尾某なりとの妖言を放って、金甌無欠の相承を瑾つけ、以て無智の人々を迷わしているのである。之は許すべからざる陰謀であるのに、之さえ選挙の目的のために崎尾某は位二級も昇進さしたのである。怪体な話ではありませぬか。ところが、胸の納らないのは阿部師である。何とかして自己の名声をあげんとし、日蓮宗界の学匠清水梁山氏が、中外日報記者に話した片言をとらえて、軽率にも『清水梁山を誡む』という、怪しげな論文を大日蓮に掲げました。
柱師之を閲覧せられて、その盲動と浅識とに驚かれ、一宗の総務として又能化の地位に置くべからずとなし、同氏を招き、これを叱責したるに、師はその未熟と、軽挙を謝し、其職を辞するの止むなきに至りました」
(「声明書」昭和三年三月十三日付)
これは阿部法運(日開)が猊座を狙って画策していた史実が、後日、宗内に暴露されたものである。
日開にとって勇み足だったのは、名を挙げようとして宗教誌に愚かな論文を載せてしまい、これを日柱に叱責されて、総務(現在の総監)の地位を解かれ、能化から降格させられてしまったことであった。
「然に阿部一派では、之は嚮に自分等が柱師を排斥せんとした腹癒であると曲解して非常に柱師を怨んだのである。同時に後任となった有元師を嫉んだのであります。柱師は決してかゝる凡情に制せられての事ではない。全く阿部師の論文は、本宗教義に悪影響を及ぼす事の重大なるを慮りて、予め善処したのである。現に堀猊下が、まだ浄蓮坊にいられる際、柱師の命によりて何とか救うべき途がないかと、その続稿を閲したが、実に以て愚劣極まるもので、救うべからざるを以て大日蓮に掲載しなかったのであります。
かくて能化の地位をスベリ、管長候補者たる資格を失うや、彼等一派は大に狼狽し、いかにして之を復旧せんかと苦心惨憺たるものであった。恰も大正十四年十一月宗会の開会に当りて、巧に人心の機微を探り、柱師の潔癖衆僧と調和せざるを見て、堀師の人望を利用し同師を擔ぎ、挙宗一致し柱師を隠退せしめました」(同)
大正十四年十一月二十日、大石寺で聞かれた宗会は、日柱の不信任を決議、辞職勧告を決定した。宗史に前例のないことである。
それと並行して、一山を挙げての嫌がらせが、日柱に対して行なわれた。客殿での勤行中に爆発音があったり、客殿に向かって石や瓦が投げつけられたりしたのである。これに耐えかね、日柱は辞表を書いた。
「日柱上人という人は非常に強い方で、悪いことがあると頭からガンガン怒る方でございますから、非常に付き合いにくい」(細井管長談話『蓮華』S47.6)
日柱は僧侶たちに評判が悪かった。名刹の出であることをつねに誇示し、堪え性がなく、所かまわず中啓で僧侶を打ちつけ、時によっては殴る蹴るの乱暴を働いていたと言う。日顕といい勝負である。それだけに、周囲からの反動も大きかったわけである。
辞職勧告等の一連の行動の首謀者は、阿部法運(日開)等である。阿部の場合は、この年の七月、日柱より総務の任を解かれ、僧階を落とされたことを恨んでのことであった。
反日柱派は、次期法主まで決めておく手回しの良さで、日柱の辞職を勝ち取った。だが、大石寺の檀家たちの反発を生み、文部省も不祥事として介入、大石寺には日柱前法主、日亨新法主の二人が並立するという、異常事態となった。
(2) 現職管長が選挙で敗北
結局、管長選挙で決定することになった。被選挙権者の資格は権僧正以上であり、阿部法運は僧階降格1年未満であったため、除外された。
なお日柱は、選挙結果がどうであれ、自分の意思以外では相伝しないと宣言した。
「一、日柱の管長辞職は、裏に評議員宗会議員並に役僧等の陰謀と、其強迫によつて余儀なくせられたるものであれば元より日柱が真意より出たものでない。かゝる不合理極まる経路に依て今回の選挙が行はれる事になった。
斯の如き不合理極まる辞職が原因となりて行はれる選挙に於て、日柱以外の何人が当選されたとしても、日柱は其人に対し、唯授一人の相承を相伝することが絶対に出来得べきものでない事を茲に宣言する」
(「宣言」大正十五年一月二十五日)
〝選挙で自分に投票しなければ、血脈が断絶することになるぞ〟と威嚇したのである。
宗門の猊座争いを報じた地元紙・静岡民友新聞(大正十五年二月三日付)には、次の見出しが躍っている。
「血で血を洗ふ
醜争益々擴大
黙視が出来ぬと檀下も奮起
醜争は他宗の物笑ひ」
確かに、他宗からの物笑いの種であったろう。
大正十五年二月十七日の選挙の結果は、以下の通りであった。
堀慈琳(日亨) 八十二点
水谷秀道(日隆) 五十一点
有元広賀 四十九点
土屋日柱 三点
現職管長の圧倒的敗北である。対抗馬として、不本意ながら担ぎ上げられた堀慈琳が当選し、大石寺貫首に選出された。第五十九世堀日亨法主である。
(3) 堀日亨師への相承を渋る
堀慈琳が大石寺貫首に選出されてからも、前法主の土屋日柱は自らの支援者が多い東京に居座ったまま、登山してこない。それに折り合いをつけるため、隠退料として米七十俵、現金三千円を土屋日柱に贈るという話がつき、三月八日に相承が実現した。しかし、相承実現の条件である贈与は、一部履行されただけで、すべてが土屋日柱のもとには渡らず、後にもめごとが起こった。
日亨師は、昭和二十六年、畑毛の雪山荘で次の通り述べている。
◇
柱師がワシに相承する時は、有元広賀(総監)を使者として、ワシに相承するよう柱師に頼んだ。柱師は、頑として言うことを聞かない。ついに有元が根負けして、三千円あなたに渡すから、それで頼む、と切り出して、ようやく承諾したものだ。柱師が知っておられるほどの相承は、ワシはすでに知っておる。何も三千円で相承をわざわざ買う必要などない、だから三千円の相承はワシには必要ないと突っぱねたんだが、周囲の者が伝統の形というものがありますからなどと言って承知しないものだから、しようがなく形の上で受けたにすぎんのじゃ。
(引用:「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
この日亨師の言葉を伝える記事に、宗門が反発した。
◇
謹厳な日亨上人が、そのような不謹慎極まる発言をされるはずはないね。この連中は日亨上人が御存命でないのをいいことに何でも言いたい放題だね。もし日亨上人が言われたとすれば、「宗門として三千円を日柱上人に差し上げる件は、あくまで御隠居料としてであって、御相承に対する対価などではない」という意味ではなかったのかな。
(『大白法』H16.3.1 発言者:八木日照)
日亨師の談話が、書籍「法主詐称」に収載された当時、宗門の上層部では、その出所を知らなかったわけである。
この談話は、大橋慈譲(神奈川・正継寺)が記録した「亨師談聴聞記」(昭和二十六年 夏)にある。内容の真偽のほどは、当の大橋に聞けばよかろう。そうすれば、八木ごときが「不謹慎極まる発言」などと、口をはさむところでないことが分かるはずである。
(4) 日柱の〝法主としての器〟
さらに、同じ昭和二十六年の冬には、日亨師は次のように語っている。
◇
口決相承等というものは信仰の賜じゃよ。信仰もなく学も行もない、親分・子分の関係を強いているヤクザの貫首が、いったい何を伝授するというのか。今、もしこの様なことを言って公にすれば、宗門はまだ小さいし、また伝統を破壊することになると思って、じっと黙っているまでよ。それをいいことにして、横暴・無頼の限りを尽くすとは、いい加減にしなきゃ、いかん。柱師は卑しいことに、文部省に行ってまで、三千円の約束がある、三千円はどうしたと言っていた。情ない話じゃ。
(前出「法主詐称」)
この談話にも、宗門が反論する。
◇
この発言もまったく日亨上人の御言葉とは考えられないね。それというのは、日亨上人は昭和二年十一月二十日に宗内僧俗に対し、管長辞職の経緯につき告白されているが、その中で、日柱上人については、「大正四年に日柱師を学頭に推挙するの主動者となりてより同十二年に五十八世の猊座に上らるまで直接に間接に力めて障碍なからしむるやうにした」と述べられているからだよ。この御言葉は日亨上人の日柱上人に対する信頼と評価を示していることは当然だよ。もし日柱上人が本当に「信仰もなく学も行もない、親分・子分の関係を強いているヤクザの貫首」のような方であったのならば、日亨上人ほどの正義感の強いお方が、自ら中心となって日柱上人を学頭に推挙されたり、さらにそれだけではなく、種々助力なさるはずなどないではないか。
(発言者:菅野日龍『大白法』H16.3.1)
菅野が亨師の「告白」を引用した通り、日柱にとって亨師は、自らの法主就任のためには「大恩人」と言うことになる。亨師に推挙された「学頭」の地位は、次期法主の後継者にある。
それにもかかわらず、次に亨師が登座するときには、日柱は管長選挙の際に宣言した通り、亨師に相承をしようとはしなかった。
「二、抑も唯授一人の相承は、唯我與我の境界であれば、妄りに他の忖度すべきものでない。故に其授受も亦た日柱が其法器なりと見込みたる人でなければならぬ」
(前出「宣言」)
この日柱の言い草からすれば、亨師は「法器なりと見込みたる人」でない、と言わんばかりである。日柱は〝恩に報いるに仇で返した〟わけである。菅野が言うところの「日亨上人の日柱上人に対する信頼と評価」への返報が、これであった。
日柱は、管長選挙に担ぎ出されて当選した亨師を、自分を追い落とした仇敵と見なしたのであろう(日柱追い落としの首謀者は、日開等であるのだが)。しかし、それはあくまで「私怨」である。宗門の伝統である唯授一人の相承を〝人質〟に取るなど、前代未聞のことである。
日柱はそもそも、日顕のように人間性に欠けるとことがあったから、一山の顰蹙を被り、管長選挙にも敗れた。しかし、法主という宗教者の頂点に立つ者なら、私怨は差し措いても、為すべきことを全うすべきではなかったのか。
日亨師は、そこが許せなかった。責任ある立場にある者の所業ではない、法主たる者の器ではなかった、と言われたのである。
前出の菅野は、細井管長(日達法主)の娘婿である。細井管長は彼を後継にしようとしていたと言われるが、その細井管長が急逝し、日顕が僭称したために、それまでとなってしまった。だがこれほど愚かな発言をするようでは、菅野ごときは到底、法主の器では無かったのである。
(了)
妄説:51 御法主上人以外の人が御本尊を書写したという例はありますか。
御本尊書写の権能は、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人お一人に限られるというのが、日蓮大聖人の教えです。
『本因妙抄(ほんにんみょうしょう)』に、
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)
と仰せられています。
また、第五十六世日応上人は
「金口嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能(あた)はず」(弁惑観心抄 212頁)
と仰せです。
したがって宗門七百年の歴史において、御法主上人以外の僧侶が、たとえ高徳、博学、能筆の方であろうとも、御本尊を書写したということはありません。
ただし御隠尊(いんそん)猊下が御当代上人の委託(いたく)を受けて、御本尊を書写されることはあります。(次項参照)
[参考資料]
「尊師(ぞんし)自らも在世中一幅の本尊をも書写し玉はざる。唯授一人の相伝なくして書写すべきものに非ざるが故になり、然るに其の末弟として其の禁誡を犯し、恣(ほしいまま)に血脈相承ありとして、本尊を書写せること、師敵対・僣聖上慢(せんしょうじょうまん)の悪比丘たるべし」(研教 二七-四七二頁)
破折:
1.日顕宗の依処は〝後加文〟(=後世の書き込み)
「又日文字の口伝・産湯の口決・二箇は両大師の玄旨にあつ、本尊七箇の口伝は七面の決に之を表す教化弘経の七箇の伝は弘通者の大要なり、又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し伝う可し、法華本門宗血脈相承畢んぬ。
弘安五太歳壬午十月十一日 日 蓮 在御判」
日蓮大聖人御書全集(「本因妙抄 八七七㌻」)において上記箇所は、他の御文よりも小さな活字で印刷されている。これは編者の五十九世堀日亨法主が「後加文」(後世の書き込み)であることを示したのであり、すなわち日蓮大聖人が認(したた)められた御文ではない。
このことは「妄説:42」において指摘済みであるが、宗門はあたかも大聖人の御真筆であるかのごとくに、繰り返し引用する。
そもそもこの「妄説:51」は何のために提起したか。当然に学会誹謗のためであろうが、学会が本尊書写するわけが無いのであり、この項目自体が「無駄」である。それにもかかわらず提起することは、「御本尊書写の権能」は宗門にあり、と強調したいためであろうが、お生憎様である。日顕・日如の御本尊を我らが望むことなど、未来永劫ありえない。
大御本尊を「ニセ物」と断じた日顕の不信・不敬の〝悪念〟が込められる本尊など、願い下げである。日如の本尊も、与同罪である。
2.本因妙抄の末文は「他宗派の依文」
堀日亨法主が本因妙抄の末文を〝後加文〟と断じた講義箇所が、インターネットに収載されているので紹介したい。
◇
御書編集において、「本因妙抄」を正筆と認めていない日享師は、さらに「両巻抄講義」において(「日享上人講述・237頁」)
「若し末法において本迹一致と修行し、所化等に教ゆる者ならば、我が身も五逆罪を造らずして無間に堕ち、其れに随従せんともがらも阿鼻に沈まんO其の時万人一人も無く、唯我日蓮与我日興計りなり。(二十行)
又日文字の口伝O日蓮在御判(七行)
右二十七行の文は宗祖より開山へ相伝された本には恐らく無かったと思ふ。右にこれ等の文は宗祖の言われる筈にあらざる文,后世で無くては言へない文が多い。開山己后西山等に伝わってから記されたものと思ふ。」
と述べ、本因妙抄の末文を後代の偽加としている。
(Yahoo!知恵袋 shiritagari60さん 回答日時:2011/4/26)
西山本門寺等は、大石寺の直系では無いはず。大石寺の「唯授一人の血脈」の依処とするには、不都合極まるではないか。むしろ西山本門寺等の、他派の正当性をアピールすることとなる。
このような後加文を持ち出すこと自体、かえって「血脈」の〝底が割れる〟結果となる。要は「自爆」するに等しい話である。宗門は、他宗・他派から笑われていることに気が付かないのか。
3.日尊の謗法と親しい宗門
妄説の[参考資料]として引用した文は、日目上人を師匠とする日尊が、自らは御本尊を書写しなかった事跡に言及したものである。
この文の解説も、同じくインターネット投稿文より転載した。
◇
「故に宗祖は濫に曼荼羅を授与し給はず・開山は曼荼羅転授に就いても之を鄭重になし給ひ、尊師は宗門未有の弘通者なれども自ら曼荼羅を書写せず、然るに余門流の僧侶不相伝の儘猥りに曼荼羅を書き散して、僭越の逆罪とも思はざるのみならず・雑乱滅裂全き型式をだに得たるものなし、無法無慙の甚しきもの八大地獄は彼等の為に門を開けり・慎まざるべけんや」(富要1-112)
大聖人、日興上人が御本尊授与の化儀を丁寧になされていたことは十分に理解できますが、ここで紹介されている日尊については、京都の上行院建立(1339年)の2年後(板本尊を1344年に弟子の日印に授与する3年前)に、この上行院に釈迦像や十大弟子の像を建立・安置している(日蓮正宗富士年表P.84)のですから、曼荼羅を書写しなかったのは決して曼荼羅に対する正しい信仰があったなどと言うことは出来ません。日亨上人はここでは他山の本尊雑乱(主題を「南無妙法蓮華経 日×」と書く筆法)に対して厳しく批判されておられるだけなのです。日尊は既に謗法に堕していたのですから、本尊書写をしなかったことに何の意味もないのです。まして板本尊はしっかり建立しているのです。この時に法主の允可を受けたはずもありません。すでに釈迦像建立をするような謗法に陥っていたのですから。
( 『日蓮正宗の本尊義を破す』 2013/02/10 22:36 田中修一郎 インターネット投稿文 )
日尊は日興上人に破門されて以後、十二年の間諸国を巡って弘教し、三十六箇寺を建立した。これを日興上人が喜ばれ、三十六幅の御本尊を書写して賜ったと伝えられる。
日尊は、自らは御本尊書写をしなかったが、結局は仏像造立、法華経一部(二十八品)読誦などの教義の誤りを犯した。日顕宗がわざわざ日尊の事跡を持ち出してきたことから、彼らの共通点が「謗法」であったことに思い至るのである。
4.〈五十八世土屋日柱〉解職された法主
「妄説:48(その二)」の「6.〈五十七世日正〉「面授相承」の途絶」の項において、後継者の土屋日柱に面授相承できないまま、逝去した日正の事跡を綴った。
ここで暗躍していたのは、日開(日顕の父)であり、日正の後釜を狙ったのであったが、猊座は大学頭の地位にあった土屋慈観に帰するところとなった。
この日開は、後に大石寺管長に就任するのであるが、「相伝書」を無視し、我説で御本尊を書写したところ、僧俗より非難を受け、ために陳謝するという大失態を演じている。
「御本尊書写の権能」ばかり宗門は振り回しているが、日開のように、肝心の御本尊が相伝から外れたものであっては、何が権能か、笑わせないでもらいたい。
日開が法主の座に就くまでには、まだ黒い画策が続くのであるが、ここでは、日開によって猊座を追い落された、五十八世土屋日柱について綴る。
(1) 宗会が不信任、辞職勧告
宗規に基づき、大学頭の地位にあった土屋慈観が第五十八世大石寺貫首となり、土屋日柱を名乗る。ところが登座二年余にして、高位の僧らの連名による「辞職勧告書」を突きつけられ、退座を求められることとなる。このような経過に至るには、次の通りの事情があった。
「そも阿部師を管長たらしめんと企てたのは、遠く深いのであって、大正十二年八月、日正上人重患に陥るや、彼等一派は名を正師の命を借りて、久しく大学頭として当然管長たるべき土屋日柱師を排斥し、阿部師を挙んと、あらゆる悪辣手段を弄したのである。
けれども仏意彼等に組せずして、柱師は五十八世の猊座に上げられました。それ已来、彼等は言を正師に寄せ、五十九代は阿部師、六十代は崎尾某なりとの妖言を放って、金甌無欠の相承を瑾つけ、以て無智の人々を迷わしているのである。之は許すべからざる陰謀であるのに、之さえ選挙の目的のために崎尾某は位二級も昇進さしたのである。怪体な話ではありませぬか。ところが、胸の納らないのは阿部師である。何とかして自己の名声をあげんとし、日蓮宗界の学匠清水梁山氏が、中外日報記者に話した片言をとらえて、軽率にも『清水梁山を誡む』という、怪しげな論文を大日蓮に掲げました。
柱師之を閲覧せられて、その盲動と浅識とに驚かれ、一宗の総務として又能化の地位に置くべからずとなし、同氏を招き、これを叱責したるに、師はその未熟と、軽挙を謝し、其職を辞するの止むなきに至りました」
(「声明書」昭和三年三月十三日付)
これは阿部法運(日開)が猊座を狙って画策していた史実が、後日、宗内に暴露されたものである。
日開にとって勇み足だったのは、名を挙げようとして宗教誌に愚かな論文を載せてしまい、これを日柱に叱責されて、総務(現在の総監)の地位を解かれ、能化から降格させられてしまったことであった。
「然に阿部一派では、之は嚮に自分等が柱師を排斥せんとした腹癒であると曲解して非常に柱師を怨んだのである。同時に後任となった有元師を嫉んだのであります。柱師は決してかゝる凡情に制せられての事ではない。全く阿部師の論文は、本宗教義に悪影響を及ぼす事の重大なるを慮りて、予め善処したのである。現に堀猊下が、まだ浄蓮坊にいられる際、柱師の命によりて何とか救うべき途がないかと、その続稿を閲したが、実に以て愚劣極まるもので、救うべからざるを以て大日蓮に掲載しなかったのであります。
かくて能化の地位をスベリ、管長候補者たる資格を失うや、彼等一派は大に狼狽し、いかにして之を復旧せんかと苦心惨憺たるものであった。恰も大正十四年十一月宗会の開会に当りて、巧に人心の機微を探り、柱師の潔癖衆僧と調和せざるを見て、堀師の人望を利用し同師を擔ぎ、挙宗一致し柱師を隠退せしめました」(同)
大正十四年十一月二十日、大石寺で聞かれた宗会は、日柱の不信任を決議、辞職勧告を決定した。宗史に前例のないことである。
それと並行して、一山を挙げての嫌がらせが、日柱に対して行なわれた。客殿での勤行中に爆発音があったり、客殿に向かって石や瓦が投げつけられたりしたのである。これに耐えかね、日柱は辞表を書いた。
「日柱上人という人は非常に強い方で、悪いことがあると頭からガンガン怒る方でございますから、非常に付き合いにくい」(細井管長談話『蓮華』S47.6)
日柱は僧侶たちに評判が悪かった。名刹の出であることをつねに誇示し、堪え性がなく、所かまわず中啓で僧侶を打ちつけ、時によっては殴る蹴るの乱暴を働いていたと言う。日顕といい勝負である。それだけに、周囲からの反動も大きかったわけである。
辞職勧告等の一連の行動の首謀者は、阿部法運(日開)等である。阿部の場合は、この年の七月、日柱より総務の任を解かれ、僧階を落とされたことを恨んでのことであった。
反日柱派は、次期法主まで決めておく手回しの良さで、日柱の辞職を勝ち取った。だが、大石寺の檀家たちの反発を生み、文部省も不祥事として介入、大石寺には日柱前法主、日亨新法主の二人が並立するという、異常事態となった。
(2) 現職管長が選挙で敗北
結局、管長選挙で決定することになった。被選挙権者の資格は権僧正以上であり、阿部法運は僧階降格1年未満であったため、除外された。
なお日柱は、選挙結果がどうであれ、自分の意思以外では相伝しないと宣言した。
「一、日柱の管長辞職は、裏に評議員宗会議員並に役僧等の陰謀と、其強迫によつて余儀なくせられたるものであれば元より日柱が真意より出たものでない。かゝる不合理極まる経路に依て今回の選挙が行はれる事になった。
斯の如き不合理極まる辞職が原因となりて行はれる選挙に於て、日柱以外の何人が当選されたとしても、日柱は其人に対し、唯授一人の相承を相伝することが絶対に出来得べきものでない事を茲に宣言する」
(「宣言」大正十五年一月二十五日)
〝選挙で自分に投票しなければ、血脈が断絶することになるぞ〟と威嚇したのである。
宗門の猊座争いを報じた地元紙・静岡民友新聞(大正十五年二月三日付)には、次の見出しが躍っている。
「血で血を洗ふ
醜争益々擴大
黙視が出来ぬと檀下も奮起
醜争は他宗の物笑ひ」
確かに、他宗からの物笑いの種であったろう。
大正十五年二月十七日の選挙の結果は、以下の通りであった。
堀慈琳(日亨) 八十二点
水谷秀道(日隆) 五十一点
有元広賀 四十九点
土屋日柱 三点
現職管長の圧倒的敗北である。対抗馬として、不本意ながら担ぎ上げられた堀慈琳が当選し、大石寺貫首に選出された。第五十九世堀日亨法主である。
(3) 堀日亨師への相承を渋る
堀慈琳が大石寺貫首に選出されてからも、前法主の土屋日柱は自らの支援者が多い東京に居座ったまま、登山してこない。それに折り合いをつけるため、隠退料として米七十俵、現金三千円を土屋日柱に贈るという話がつき、三月八日に相承が実現した。しかし、相承実現の条件である贈与は、一部履行されただけで、すべてが土屋日柱のもとには渡らず、後にもめごとが起こった。
日亨師は、昭和二十六年、畑毛の雪山荘で次の通り述べている。
◇
柱師がワシに相承する時は、有元広賀(総監)を使者として、ワシに相承するよう柱師に頼んだ。柱師は、頑として言うことを聞かない。ついに有元が根負けして、三千円あなたに渡すから、それで頼む、と切り出して、ようやく承諾したものだ。柱師が知っておられるほどの相承は、ワシはすでに知っておる。何も三千円で相承をわざわざ買う必要などない、だから三千円の相承はワシには必要ないと突っぱねたんだが、周囲の者が伝統の形というものがありますからなどと言って承知しないものだから、しようがなく形の上で受けたにすぎんのじゃ。
(引用:「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
この日亨師の言葉を伝える記事に、宗門が反発した。
◇
謹厳な日亨上人が、そのような不謹慎極まる発言をされるはずはないね。この連中は日亨上人が御存命でないのをいいことに何でも言いたい放題だね。もし日亨上人が言われたとすれば、「宗門として三千円を日柱上人に差し上げる件は、あくまで御隠居料としてであって、御相承に対する対価などではない」という意味ではなかったのかな。
(『大白法』H16.3.1 発言者:八木日照)
日亨師の談話が、書籍「法主詐称」に収載された当時、宗門の上層部では、その出所を知らなかったわけである。
この談話は、大橋慈譲(神奈川・正継寺)が記録した「亨師談聴聞記」(昭和二十六年 夏)にある。内容の真偽のほどは、当の大橋に聞けばよかろう。そうすれば、八木ごときが「不謹慎極まる発言」などと、口をはさむところでないことが分かるはずである。
(4) 日柱の〝法主としての器〟
さらに、同じ昭和二十六年の冬には、日亨師は次のように語っている。
◇
口決相承等というものは信仰の賜じゃよ。信仰もなく学も行もない、親分・子分の関係を強いているヤクザの貫首が、いったい何を伝授するというのか。今、もしこの様なことを言って公にすれば、宗門はまだ小さいし、また伝統を破壊することになると思って、じっと黙っているまでよ。それをいいことにして、横暴・無頼の限りを尽くすとは、いい加減にしなきゃ、いかん。柱師は卑しいことに、文部省に行ってまで、三千円の約束がある、三千円はどうしたと言っていた。情ない話じゃ。
(前出「法主詐称」)
この談話にも、宗門が反論する。
◇
この発言もまったく日亨上人の御言葉とは考えられないね。それというのは、日亨上人は昭和二年十一月二十日に宗内僧俗に対し、管長辞職の経緯につき告白されているが、その中で、日柱上人については、「大正四年に日柱師を学頭に推挙するの主動者となりてより同十二年に五十八世の猊座に上らるまで直接に間接に力めて障碍なからしむるやうにした」と述べられているからだよ。この御言葉は日亨上人の日柱上人に対する信頼と評価を示していることは当然だよ。もし日柱上人が本当に「信仰もなく学も行もない、親分・子分の関係を強いているヤクザの貫首」のような方であったのならば、日亨上人ほどの正義感の強いお方が、自ら中心となって日柱上人を学頭に推挙されたり、さらにそれだけではなく、種々助力なさるはずなどないではないか。
(発言者:菅野日龍『大白法』H16.3.1)
菅野が亨師の「告白」を引用した通り、日柱にとって亨師は、自らの法主就任のためには「大恩人」と言うことになる。亨師に推挙された「学頭」の地位は、次期法主の後継者にある。
それにもかかわらず、次に亨師が登座するときには、日柱は管長選挙の際に宣言した通り、亨師に相承をしようとはしなかった。
「二、抑も唯授一人の相承は、唯我與我の境界であれば、妄りに他の忖度すべきものでない。故に其授受も亦た日柱が其法器なりと見込みたる人でなければならぬ」
(前出「宣言」)
この日柱の言い草からすれば、亨師は「法器なりと見込みたる人」でない、と言わんばかりである。日柱は〝恩に報いるに仇で返した〟わけである。菅野が言うところの「日亨上人の日柱上人に対する信頼と評価」への返報が、これであった。
日柱は、管長選挙に担ぎ出されて当選した亨師を、自分を追い落とした仇敵と見なしたのであろう(日柱追い落としの首謀者は、日開等であるのだが)。しかし、それはあくまで「私怨」である。宗門の伝統である唯授一人の相承を〝人質〟に取るなど、前代未聞のことである。
日柱はそもそも、日顕のように人間性に欠けるとことがあったから、一山の顰蹙を被り、管長選挙にも敗れた。しかし、法主という宗教者の頂点に立つ者なら、私怨は差し措いても、為すべきことを全うすべきではなかったのか。
日亨師は、そこが許せなかった。責任ある立場にある者の所業ではない、法主たる者の器ではなかった、と言われたのである。
前出の菅野は、細井管長(日達法主)の娘婿である。細井管長は彼を後継にしようとしていたと言われるが、その細井管長が急逝し、日顕が僭称したために、それまでとなってしまった。だがこれほど愚かな発言をするようでは、菅野ごときは到底、法主の器では無かったのである。
(了)
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