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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:57」を破折する(その一) 連載82回

妄説:57 「創価学会を破門し、広布を破壊しようとした法主に御本尊を授与する資格はない」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当ですか。

 この質問には①創価学会の破門について、②御法主上人が広布を破壊したか否かについて、③御法主上人の御本尊授与の資格について、の三点が含まれています。

 ①の学会の破門について。
 第六十六世日達上人は、昭和五十四年三月三十一日の妙観会において
「長い間において学会が、宗門の法義の上において間違ってきてしまった、それを指摘してなんとか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい(中略)功績が大きいからといって教義を間違えて宗門から逸脱(いつだつ)してしまえば、これはなにも役に立ちません」(達全 2-7-327頁)
と仰せられていました。残念ながら、この日達上人の危惧(きぐ)が日顕上人の時代に現実のものとなったのです。
 このため日顕上人は
「創価学会を破門する必然性があったため、宗門はそれを断行したのである」(大日蓮 553-48頁)
と仰せのように、宗門古来の信仰に照らして厳正に学会を破門処分にしたのです。

 ②の広布の破壊について。
 池田大作氏が率(ひき)いる創価学会が、本当に正しい正宗信徒であったのか、また正しく日蓮正宗の仏法を広めていたのかどうか、まことに疑問です。また昭和四十五年頃に「八百万」といっていた信徒数が二十年以上経過した現在、どれほど増加しているのか、はなはだ疑問です。広布の進展を妨げているのは宗門や御法主上人ではなく、池田氏の指導性と学会の体質にあったというほうが適当でしょう。

 ③の法主に授与の資格がないという主張は、単なる言いがかりであり、本宗本来の教義に照らせば、御本尊授与に関することは、唯授一人の血脈相承を受けられた御法主上人お一人に限られることは、永遠不変の鉄則なのです。

破折:
1. 先師の遺言を守り学会を擁護

 細井管長(日達法主)は登座してしばらく、先師日淳法主の遺言通り、創価学会擁護の姿勢を貫いていた。昭和三十五年五月十三日に大石寺でおこなわれた園遊会において、細井管長は次のように述べた。

「先師日淳上人はご臨終のとき僧俗一致と申されておりました。これは常に私の耳にひびくことばであります。しかしことばのみではなく、私はこれを解釈して、学会員が折伏によってうける法難の苦しみは僧も共に苦しみ、僧のうける法楽も、学会の皆さんにも共に楽しんでいただく、苦楽を共にしてこそ、僧俗一致がなりたつのだと思っております」
(『聖教新聞』昭和三十五年五月二十日付)

 また昭和三十八年七月十五日、法華講全国連合会辞令伝達式において、細井管長は法華講に対して「訓諭」を出しており、そこには学会を讃嘆する言葉が盛られている。

「若し聊爾たりとも、此の清浄無比にして護惜建立の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を恣にする者ありとせば、其籍、宗の内外に在るを問わず、全て是れ、広布の浄業を阻礙する大僻見の人、罪を無間に開く者と謂ふべし
 庶幾くは、全国の法華講々員軽挙妄動、宗徒の体面を損するが如きこと無く、宜しく創価学会々員至心の求道精神を会了得解し、亦其を尊崇亀鑑とするに吝かならず、以て歩を一にして仏国土建設に、共に撓みなき前進を遂げられんことを」
(『大白法』昭和三十八年七月二十日付)

 これほどまでに僧俗和合を心掛け、創価学会を讃えていた細井管長であった。

2. 〝疑心暗鬼〟と〝悪鬼の讒言〟による「第一次宗門事件」

 晩年の細井管長が感情的な発言を繰り返すようになったことには、それなりの経緯があった。当時の事情を知る人は、概略次のように記している(引用:『暁闇』北林芳典著 報恩社 2002.12発行)。
 細井管長は昭和四十八年になると、自身の七十代の高齢に加え、諸行事による疲労が重なっていたところに各種の事情が相まって、学会に対する態度に心変わりを繰り返すようになる。
 およそ一年前のこと、細井管長の身内に深刻な事態が起きていた。細井管長の息女は、早瀬日慈総監の甥である早瀬義孔理事の妻であったが、突然、宗内の一住職と駆け落ちするに至った。原因が何であったかはさて措き、これによって細井管長と早瀬総監との同盟関係、勢力的には妙観会(細井管長系)と法器会(早瀬総監系)の結束すら、ぶち壊しとなったのである。
 細井管長は身内の不祥事に心を痛めながら、宗内基盤の安定を欠くことによる不安に苛(さいな)まれることになる。
 この不安が投影されたせいか、細井管長はそれまでの鷹揚な風格を徐々に失い、発言のブレが目立つようになる。法器会を束ねる早瀬総監が東京・池袋の法道院に居住し、創価学会側との窓口となっていたことも災いした。細井管長は〝早瀬総監が創価学会と親密になりすぎている〟と考え始めたのである。
 昭和四十九年三月二十七日、大石寺でおこなわれた在勤式において、細井管長は次のように語った。

「今、我々はたいへんに馬鹿にされておる、坊主、坊主と言って、馬鹿にされておる。馬鹿にしている人が正しいのか、馬鹿にされておる我々が正しいのか、それは一概には言えないでしょう。馬鹿にする人は、いくら馬鹿にしてもよろしい、それを忍ぶということが、僧道である、忍辱の道である」
(『蓮華』昭和四十九年四月号)

 これだけでは何が起こっているか、聞いている側は分からない。だが「坊主」と言われたとある上は、「在家」から誹謗を受けたと憤っている様子が見て取れる。「在家」となれば、学会と察しが付く。
 事実関係は何も話さず、感情的な言葉に終始する。だが一山の長の発言だけに、宗内の〝僧俗和合〟の精神は次第に〝在家蔑視〟へと変貌していく。
 また同年四月二十五日、細井管長は大客殿で開催された法華講登山において、次のように説法した。

「最近ある所では、新しい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とは言えません。そういう間違った教義をする人があるならば、法華講の人は身を以てくい止めて頂きたい。これが法華講の使命と心得て頂きたい。法華講は実に日蓮正宗を護る所の人々である。日蓮正宗を心から信ずる所の人々であります。
 大聖人様以外に本仏があるなどと言ったらば、これは大変なことである」
(『蓮華』昭和四十九年五月号)

 ありもしない「池田会長本仏論」を意識しての発言である。細井管長の創価学会への不信は、根拠も出処も何も明かすわけでなく、宗内に広められていったのである。
 宗門の言う「昭和五十二年路線」、すなわち「第一次宗門事件」のことであるが、その発端は「昭和五十二年」の数年前に細井管長によって引き起こされており、その底流には細井管長の学会に対する猜疑心があった。
 細井管長の過ちは、一宗を統率する者としての節度を持たず、感情的な発言を繰り返したことにある。それは理由の有無を問わず、宗内の僧侶の心理を決定づけることとなり、やがて「破和合僧」という重大事を惹起する要因となった。
 そこに、宗門と学会との離間策を進めていた山崎正友(当時、副理事長かつ顧問弁護士)と言う悪鬼から、様々な讒言を吹き込まれていく。

「池田さんは、日達上人の弟子を吊し上げて、その責任を猊下にとらせ、そのあとに阿部さんを据えようとしているんです」(『回想録』浜中和道)
「私はいざとなれば、必ずお山につきます」(同)
「学会は、今度は週刊誌を使って日蓮正宗僧侶のスキャンダルを大々的に流すと言っていますよ」(同)

 細井管長は山崎正友の一言一言を鵜呑みにし、学会に対し疑心暗鬼の様相を深めていく。あまりに単純な手口であるが、それに易々と乗せられてしまう人であった。
 今まで懇談していた池田会長よりも、山崎からの〝一つの伝言〟を信用する。これでは学会側がどれほど誠意をもって話しても、無駄としか言いようがなかった。
 このころの細井管長の性向が、どれだけ「広布の進展を妨げている」ものであり、「広布の破壊」となったことか。老境に入ってからの情緒不安定が学会への不信を生み、それに周囲が振り回され、解決されるはずの問題も蒸し返されていった。それは細井管長が逝去するまで続いたのである。

3.僭称法主に「御本尊授与」の資格はない

 第一次宗門事件は、細井管長(日達法主)の突然の逝去によって終了した。だが次を襲った日顕は、自らの相承疑惑を正信会(日達法主系)の僧侶達から責め立てられることとなる。
 それも無理からぬことである。日顕が先師から相承を受けたことを証する者は、誰もいない。これでは「単なる言いがかり」として等閑(なおざり)に済ませようとしたところで、収まるわけがない。
「唯授一人の血脈相承を受けられた御法主上人」との言い方からすれば、大石寺宗門では先師から〝面授相承〟を受けることこそ、宗旨としての金看板と言えるからである。
 日顕は細井管長の生前に、正式、公の相承ではなく、「内付」があったと主張している。しかしその場合でも、必ず「相承書」に記されるはずである。それがあるとすれば、細井管長の直筆で「六十六世日達」と記され、その後に「六十七世日慈」と書かれていた筈である。「日顕」ではない。
 僧侶の「日号」は、袈裟免許を受ける時点で時の法主から貰う名前であり、勝手には変更できない決まりである。そして日顕の日号は、元々「日慈」である。それが、法主に就任した途端に「日慈」を「日顕」に変えたら、相承書と一致しないことになる。
               ◇
 当時を知る関係者はこう語る。
「日達上人の仮通夜が終わった後、翌日付の『聖教新聞』で発表するために、日号を聞きに、日顕の宿坊だった学寮に行った時のことです。日顕は『実は困っちゃってね。私の日号は法道院さんと同じ日慈なんですよ』と言うんです。しかし、『今晩中に分からないと、新聞発表に間に合わない』と伝えると、『よわったなあ、法道院さんは今、東京に向かっている道中で連絡が取れない』と言うのです。日顕が『ともかく、もう少し待ってください』と言うので、ひとまずその場は辞したのです」
「間もなく日付が変わろうという午前零時前になって、学寮で日顕の側にいた八木信瑩から電話が入りました。『決まりました。日号は日顕です。父親が日開なので、ご自分は日顕にしました』との話でした」
(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)

 登座する段になって、慌てて先師から授かった日号を捨てて、父・日開との「開顕」の語呂合わせで日顕と名乗る。こんな先師否定、先師違背の大冒涜があるわけがない。
 それゆえに、日顕の相承を証明する「相承書」があるわけもない。またそれを収納する宗門代々の「相承箱」すら、本山には無いと言う。
               ◇
 相承箱については、日顕の裏の裏まで握っていた河辺慈篤も、「日顕の手元には、相承箱はない」と宗内の複数の人間に語っていたことが確認されている。この河辺、ある時、学会の幹部にも、「お山には相承箱がない」と、ポロッと漏らしてしまったことがある。後で心配になった河辺は、その幹部に電話をかけ、「実は内事部の金庫の中にあった」と、何とか言い繕った。何も知らないその幹部は、「それは良かった」と安心していたという。とんだ笑い話である。
(同)
 
 日顕が詐称によって猊座を盗み取った事実は明らかであり、従って廃嫡されねばならない。日顕から相承を受けた日如も与同罪である。「法主に授与の資格がない」のは、当然のことである。

4.御開扉料の唐突な値上げ要求

 日顕は正信会の動きを封じるまでは、名誉会長と学会の功績を徹底して賞賛し、学会寄りの僧俗和合路線と言われるように演じてきた。
 昭和五十七年九月、正信会僧侶の大量擯斥処分をもって、騒動が決着した。日顕にとってようやく目障りな存在がなくなった上は、次第に名誉会長を目の上のコブと見るようになっていく。
 平成二年七月、日顕は二回にわたる秘密会議で、学会を切る謀議を練ったのであるが、それには前段階があった。
               ◇
 まず、日顕が平成二年夏の時点で、どうしてここまで池田名誉会長を恨んでいたかだが、それは、御開扉の供養料、登山会における食事代の値上げを、日顕らが平成元年二月に創価学会側に要求したことにはじまる。
 この当時、四月からの消費税導入をめぐって国民的規模で議論が沸騰しており、仮に、正当な理由があったとしても値上げは避けるべきことであったし、もし値上げするにしても、小幅な値上げに抑えるべきであった。
 ところが、日顕らは世情を無視して御開扉の供養料は四四パーセント、食事代は三六パーセントにも及ぶ値上げを求めてきたのであった。創価学会側は社会的状況が値上げを容認できる環境にないことを宗門に伝え、慎重な検討の必要性を述べた。
 ところが、財政上の必然的理由をもって創価学会にそれらの値上げを迫っていたにもかかわらず、宗門は一転して、「今までどおりで結構です」とふてくされた。日顕の幼児性そのままの対応ぶりであった。
 そして、一年後の平成二年三月、今度は創価学会に対して、
 「・御本尊下付願  二〇〇〇円 → 三〇〇〇円
  ・永代回向      十万円 →  二十万円
  ・塔婆供養    一〇〇〇円 → 二〇〇〇円
  ・大過去帳      五万円 →   十万円
  ・御本尊再下付願 三〇〇〇円 → 五〇〇〇円
  ・納骨保管料 一年目二〇〇〇円、二年後以降一〇〇〇円
                 → 毎年二〇〇〇円」
 と、有無を言わさない一方的な通告をしてきたのであった。創価学会側は、事を荒立てたくないという配慮から、やむなくこれを受けた。
 このように、冥加料などの値上げを平成元年二月に創価学会側に申し入れたとき、スンナリ創価学会側が認めなかったことを日顕は恨み、根に持っていた。だからこそ平成二年三月には問答無用と一方的に創価学会に通告したのである。
 この通告は、日顕なりにエキサイトしておこなったものだろうが、案に相違して今度は創価学会側がそれをスンナリ受け入れた。このことで日顕は、みずからの権威を過信し創価学会や池田名誉会長を侮ったと思われる。
 創価学会側としては、広宣流布を進めるにあたり不可欠の要件である僧俗和合をはかるために、やむなく冥加料値上げに応じたと思われる。
 だが、大願を忘失してしまっている日顕には、広宣流布のためには、ときには忍従もし、必要とあらば大勇猛心をもって闘争するという創価学会中枢の境界を推し量るだけの器量がなかったようだ。
 ともあれ、この冥加料値上げの一件で、日顕の心の中に池田名誉会長をはじめとする創価学会中枢に対する恨みと侮りが生じたようだ。それは裏をかえせば、自惚れと“法主”と“袈裟衣”の権威に対する過信が、日顕の心の中により大きく深く根をはったということでもある。
 そのような心理をもった日顕が、平成二年七月の「西片会議」「御前会議」で、「池田追放」を叫び、冥加料値上げ反対の遺恨を晴らそうと「特財・財務中止」を声高に主張したことは充分に理解できることである。
(『地涌』第722号 1994年1月3日 日蓮正宗自由通信同盟)

 日顕は、何ゆえ一方的な値上げを要求したのであろうか。当時、宗門は膨大すぎるほどの収入に潤っていたはずである。
              ◇
 この年の二月、宗門は登山費を一六〇〇円から二三〇〇円にと大幅な値上げを要求した。それに対して池田名誉会長は、日顕との目通りの席で「私は外護の責任者として、宗門にご迷惑のかかることについては言うべきことは言わなければならない立場ですので」と前置きして「社会的には便乗値上げと言われる恐れがありますから」と早急な値上げを控えるように助言をした。当時、社会は消費税の導入問題で騒然としており、そういう時期に宗門が登山費を値上げすれば、便乗値上げの印象を受けてしまうという配慮からの助言であった。
 しかし、日顕は目通りの後、周りの僧侶に「わずかな値上げを反対した」と不満を漏らした。一六〇〇円から二三〇〇円の値上げは決して〝わずかな値上げ〟ではない。日顕の目論見は「C作戦」の実行を前に資金を蓄えることであった。その思惑を封じられたことに対して日顕は怒りを感じていたのである。
 その目通りの話は大坊の教師の間で「学会が登山費の値上げを反対したらしい」と噂になっていた。これは〝信徒の分際で宗門に反対した〟という意味であった。
 ある日、学衆課の教師が回りにいないのを見計らって、土田が菅井に話しかけた。菅井は病気の小僧を病院まで車で送って学衆課に戻ってきたところだった。
「駒井が今年の一般得度者を集めて話をしたのを知っていますか?」
「詳しいことは聞いてないけど……」
「駒井は〝『人間革命』は信徒の書いた本だから、読む必要ない〟と言ったらしいです」
「そんなことを言ったんだ。そういえば、駒井は昔から反学会だからね」
「〝『人間革命』は信徒の書いた本だから、読むな〟という言い方は、昭和五十四年の宗門事件のときに似ていますよね」
「たしかに……。僧俗和合に反した考えだ」
「登山費の値上げ問題以降、何だか変な雰囲気ですね」
「いきなり二三〇〇円にするなんて、四十パーセント近い値上げだからね。常識で考えてもおかしい。それに値上げの理由がわからない。本山の財政が逼迫してるなんてことはありえないし……」
「そうですよ。学会員の登山費と塔婆供養などで年間、数百億円の収入ですよ。それ以上、増やす必要があるとは思えません」
「それに〝学会は信徒の分際で反対した〟というのも宗門事件のときと同じ発想だ……」
 必要の無い登山費の値上げと御仲居の反学会的な言動。菅井と土田は何かがおかしいと感じていた。
 宗門は翌年四月に、御本尊下付・塔婆・永代回向・大過去帳・納骨保管料の冥加料を一方的に二倍に値上げした。すべては「C作戦」実行への布石であった。「C作戦」を実行した場合、どれだけの学会員が宗門につくかわからない。その備えとして充分な資金を蓄えておく必要があると日顕は計算していたのである。
(『実録小説 大石寺・大坊物語』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:56」を破折する 連載81回

妄説:56 学会では、『百六箇抄』の「上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く、日興嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」の御文を、後人が勝手に書き加えたもので、大聖人の御書ではないといっていますが、それは本当ですか。

『百六箇抄』のこの御文を「御書ではない」などというのは、本宗相伝の仏法を知らない人の言です。
 御書全集には、日興上人が大聖人の代わりに後半部分を書かれた『滝泉寺申状』をはじめ、全部を代筆された『波木井(はきり)殿御報』、また『御義口伝』や『御講聞書』のように大聖人の教えを日興上人や民部日向が筆録した講義録など、大聖人の直筆(じきひつ)でない御書が多々収録されています。まして『百六箇抄』のような相伝書の場合は、大聖人の御法門を整足するという性格上、大聖人の常の御文体とは違った形で表現されることは当然です。
 もし、「大聖人の御筆によらなければ御書とはいえない」というのであれば、相伝書はすべて大聖人の御書ではなくなります。
 第五十九世日亨上人が、質問の御文について、『富士宗学要集』に
「義に於いて支吾(しご)なき所」(同書 1-25頁)
といわれているように、大聖人の仏法の一切を唯授一人の血脈相承によって受け継がれた御法主上人が御允可(いんか)され、自ら御書として載録(さいろく)されているのですから、御法門に間違いがあるなどということはありえません。たとえ大聖人・日興上人の直筆がなくとも、その正統な精神と意義において、『百六箇抄』は立派な御書です。

破折:
1.後加文を「御書」と強弁

 宗門が〝後加文〟を「御書」とする理由は、次の二点である。
 第一には、〝後加文〟は「大聖人の常の御文体とは違った形」の御書であるとし、それゆえ「大聖人の教えを日興上人や民部日向が筆録した講義録」や「『百六箇抄』のような相伝書」類と同等であるとする。
 しかし〝後加文〟をどう言い繕うと、大聖人の代筆でも講義録でもないのであり、「後人が勝手に書き加えたもの」である事実に変わりない。ましてや書き込んだ筆者名を入れなければ、経文への加筆と同じ罪過を犯すこととなる。

 善無畏三蔵抄(八八二㌻)にいわく、
「私に経文を作り経文に私の言を加へなんどせる人人是れ多し、然りと雖も愚者は是を真と思うなり」

(自分で経文を作り、経文に自分のことばを加えるなどする人々がこれまた多い。しかしながら、愚者はこれらを真実の経文であると思うのである)

 大聖人の御書こそ末法の「経文」であり、そこに「私の言」たる後加文を施すことは、経文の捏造である。信徒支配のために後加文を御書と偽り、善男善女を誑かしてきた宗門の罪科は、果てしなく重い。
 これに対し宗門は「本宗相伝の仏法を知らない人の言です」などとうそぶく。だが祖師の言葉を差し置き、後代の人師・論師の釈をたのむことは、本末顚倒と言うべきである。

 持妙法華問答抄(四六二㌻)にいわく、
「唯人師の釈計りを憑(たの)みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり」

(ただ人師の釈ばかりを憑(たの)みにして、仏説によらなければ、どうして仏法という名を付けるべきであろうか。言語道断の次第である)

 守護国家論(四二㌻)にいわく、
「是の時当に諸(もろもろ)の悪比丘有るべし是の経を抄掠(しょうりゃく)して分つて多分と作し能く正法の色香美味を滅す是の諸の悪人復是の如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除して世間荘厳の文を安置し無義の語を飾り前を抄(とっ)て後に著け後を抄(とっ)て前に著け前後を中に著け中を前後に著けん当に知るべし是くの如き諸の悪比丘は是(これ)魔の伴侶なり」

(この時、まさに諸の悪比丘(悪僧)がいて、この経を盗み掠(かす)めて多くに分断し、正しい法の色香美味を滅する。この諸の悪人がまた、このような経典を読誦するが、如来の深密の要義を滅し除いて、世間の荘厳な文を加え、意味の無い言葉を飾り、前の文をとって後の文につけ、後の文をとって前の文につけ、前後の文を中の文につけ、中の文を前後の文につけるであろう。まさに知りなさい。このような諸の悪比丘はこれ魔の眷属である)

 平成25年3月に新たに能化となった土居崎日裕(東京・妙光寺)は、次のように言ったとされる。
               ◇
 かつて土居崎は、「御書は700年前のもので古い。今は法主の指南がすべての中心である」などと御書否定の大暴言を吐いていた。
(『創価新報』2013年7月17日)

 能化と言おうと、謗法の罪を免れることはできない。

 新池御書(一四四一㌻)にいわく、
「いかなる智者聖人も無間地獄を遁るべからず、又それにも近づくべからず与同罪恐るべし恐るべし。

(謗法の者はどのような智者・聖人も、無間地獄の苦しみから逃れることはできない。またそれらの人に近づいてはならない。同じ罪をともに受けることを恐れるべきである)

 御書を冒涜する能化を選出した法主・日如は、謗法の責めを負うべきである。

2.〝一線〟は妥協の産物

 宗門が〝後加文〟を「御書」とする理由の第二。法主が允可(許可)すれば、後加文も正当となると言う。
              ◇
 第五十九世日亨上人は『富士宗学要集』を編纂されるに当たり、真書はもちろんのこと、同一本の複数の写本にも自ら目を通されている。そして、収録文書の全体にわたって細かく対照した上で、必要個所に一線または二線を付し、頭注を加えられている。
 この一線と二線について日亨上人は『百六箇抄』の文末に、
「後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促がす便とせり」(富要一巻二五頁)
と注記されている。つまり、大聖人滅後に加筆されたと思われる個所に線を施され、しかもそのうち、義において支吾(差しつかえ)ない部分には一線を、疑わしい部分には二線を、それぞれ付されたのである。
(「大日蓮」第585号 平成6年11月・84頁)

 何ゆえ日亨師が二線でなく一線としたかは、問うまでもない。「大石寺の優越性」「法主の権能」等々、宗門の根幹に触れるものを二線として消し去れば、日亨師が隠尊であろうと重大問題とされ、立場を失うことは目に見えている。
 しかしながら、当該箇所は明らかに後加文であり、大聖人の御金言ではない。それゆえ「ひときわ小さな活字」として御書から抹消しなかったのは、宗門と信者との両方に配慮した、妥協の産物とせざるを得なかったのであり、苦渋の選択であったと理解し得る。
 我ら信者は、日亨師の配慮を決して粗略にしない。本文と後世の加筆とは立て分けなければならないことが、御書全集には如実に示されているゆえに。

3.後加文の正当性を証明できない法主

 この項では、牛の涎の如く長い文言が挿入される。
「大聖人の仏法の一切を唯授一人の血脈相承によって受け継がれた御法主上人が御允可され、自ら御書として載録されているのですから、御法門に間違いがあるなどということはありえません」と。
 宗門特有の典型的な詭弁である。この「御法主上人」は何かを証明するようで、その実は何も証明できないのである。

 問:相伝書の末文(=後加文)が「法主の唯授一人の血脈相承」を立証するのなら、その後加文の正当性はいかに証明され得るか。
 ↓
 答:「御法主上人が御允可(許可)されたのだから、御法門に間違いはありえない」
 ↓
 問:その法主はいかにして正当な法主であると言えるのか。
 ↓
 答:「唯授一人の血脈相承によって受け継がれた御法主上人であるから、正当である」
 ↓
 問:その「唯授一人の血脈相承」は、いかに証明されるのか。
 ↓
 答:「相伝書の末文が唯授一人の血脈相承を証明する」

 最後の〝答〟に来ると最初の〝問〟に話が戻り、いつまでも同じ問答が繰り返され、論理として永久に成立しない。宗門は答えを出すすべがないときは、詭弁を以て話を封じ込んでしまうのである。
 松岡幹夫氏は、このような宗門の詭弁を「循環論法」と呼ぶ。
            ◇
『百六箇抄』の「上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり」(全集869)との文については、堀日亨が後人の加筆と判断しています。
 また、日亨が当文を日蓮真筆と同様に扱ったことを強調しても、法主によって法主を正当化する、という例の循環論法にすぎず、対外的な説得力はありません。
 同様に、歴代法主の諸文献によって大石寺の唯授一人相承の永遠性を根拠づけることも、循環論法の誤謬に陥ることを指摘しておきます。
(「阿部日顕の教学に対する十の学術的批判」青年僧侶改革同盟 松岡幹夫氏 筆)

 結論すれば、大石寺法主の権能というものは、すべて後人の「偽作」か「加筆」で成立していることになる。それを排除してしまえば、法主を権威づけるものは法主自身しか残らない。そこで最後には、前述の〝非論理の言葉遊び〟の中に逃避してしまうのである。

 唱法華題目抄(九㌻)にいわく、
「仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か」

 開目抄下(二一九㌻)にいわく、
「等覚の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎらざらんをば用ゆべからず」

〝御法主上人〟であろうと能化であろうと、経典や御書に依処を置かなければ、着飾った〝蛮族の酋長〟が話すところと変わりは無い。

4.『百六箇抄』は要法寺の相伝書か

『百六箇抄』の末文に「日興嫡嫡付法の上人」とあるのを、「大石寺の歴代諸師」と捉えては早計の謗りを受けよう。
           ◇
『百六箇抄』(『富要』1-9『宗全』2-11)の写本は要法寺日辰本が最古の写本として現存している。その奥書によればAN31年に日興から日尊に授与され、AN61年日尊から日大・日頼に授与された。しかし日辰自身が誰の写本によったのか、またいつ書写したのかは不明である。(『百六箇抄』の内容は、『宗全』『富要』とも同じであるが、創価学会版の『日蓮大聖人御書全集』では著しく異なっており、日尊系統から伝承されたことの記述が削除されている。)
(「日興の教学思想の諸問題(1)-1 資料編」宮田幸一)

(注記:「日蓮のなくなった1282年(弘安5年)をAN1年として、以下『富士年表』の年代記述を基本にしてAN年代を表記する」とある)

「日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり」との文言を大石寺宗門が声高に主張するならば、日尊門流を宣揚することになりかねない。日顕宗にとって、自爆行為ではないのか。
               ◇
『百六箇抄』の引用文献としては、日尊系の住本寺本是院日什(AN147-208-?) (後に大石寺に帰服して左京日教と名乗る)が大石寺9世日有に帰服する前に書いた『百五十箇条』の中に、「百六箇条の本迹口決」(『富要』2-180)とあり、またその中に「文明十二(AN199)年」(『富要』2-211)の語が見えるので、日蓮滅後200年頃には成立していたと推測できる。左京日教の帰服以前に大石寺に『百六箇抄』が存在していた文献的証拠はない。
(同)

 日顕宗が騒げば騒ぐほど、『百六箇抄』が〝大石寺門流だけの唯授一人〟を証する文書では無いことが明白となる。この末文を〝法主崇拝の依文〟とする企みは、あきらめたほうが良かろう。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:55」を破折する(その二) 連載80回

妄説:55 『本因妙抄』の抄末にある「唯授一人の血脈」の語は、後人の加筆であり、大聖人の教えではないと聞きましたが、本当ですか。

 そんなことはありません。「唯授一人の血脈」こそ、大聖人の仏法を正しく末法万年に伝えるための教えであり、大聖人御自らが定められたものです。
『身延相承書』に
「血脈の次第 日蓮日興」(新編 1675頁)
とあり、日蓮大聖人から日興上人お一人に血脈を相承されたことが明らかです。これが「唯授一人の血脈」でなくてなんでありましょう。
『本因妙抄』の御文については、重須の第二代学頭であった三位(さんみ)日順師が、『本因妙抄』を解釈して『本因妙口決』を著わし、そこに
「唯授一人の一人は日興上人にて御座候」(富要 2-84頁)
と注記しました。これについて、第六十五世日淳上人は、
「上掲の御文は本抄(本因妙抄)末尾に『日蓮嫡々座主伝法の書塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり』との御文につき唯授一人とは日興上人であらせられると、念釈をなされたのである」(淳全 1449頁)
と仰せられています。
 このことからも明らかなように、「唯授一人の血脈」という教えは、日興上人にお仕えした三位日順師が明言しているのですから、「『本因妙抄』は大聖人の御書ではない」などといって、「唯授一人の血脈」を否定する学会の主張は全くの妄説というべきです。
 また学会では、御書全集を編纂(へんさん)された日亨上人が、『本因妙抄』の末尾部分が大聖人の教えでないために小さい活字にしたといっています。それでは日亨上人が大聖人の教えでないものを、わざわざ御書に載せたことになるではありませんか。それこそ日亨上人に対する冒涜といえましょう。

破折:
7.〝本因妙の仏法〟の真実

〝大乗非仏説〟が言うところ、法華経は歴史上の釈尊が説いたものでは無いと。同じく真蹟主義者からは、日蓮大聖人の真蹟と証明されない御書には「偽書」の汚名が着せられる。
 だが大乗経典は、東アジアの多くの国家や民衆によって崇敬されてきた歴史的事実がある。大乗非仏説を声高に説いたところで、人々の共感が得られるはずは無い。文献学と思想の正しさとは、必ずしも一致しない証左である。
『本因妙抄』を文献学で立証することは困難である。だがそこに説かれる「本因妙」の原理を軸に、学会の二代・三代の会長によって思想として説かれた〝本因妙の仏法〟は、従来の宗教の概念を打ち破るインパクト(心理的衝撃)に富む大生命哲学であり、広く現代社会に適用されるべき説得力を有するものとなっている
 本項の主題は『本因妙抄』の〝末文〟にかかる疑惑の件であるが、本文についての判断を誤ることの無いよう、以下より名誉会長の講話を挙げていきたい。

(1)本果妙の仏から本因妙の仏へ

 まず「本因」と「本果」の意味を簡潔に述べておきたい。法華経寿量品では、釈尊が久遠の昔に成仏したとされますが、「本因」とは久遠の成仏の原因となった修行、「本果」とは、その結果として得られた仏の境涯を指します。これが、一往の意味です。
 ただし、寿量品では、この久遠実成の仏があらゆる仏の本地であり、久遠以来、娑婆世界を含むさまざまな国土に、仏や菩薩となって現れ、衆生を教化し続けてきたと説かれます。したがって、本因・本果とは、あらゆる仏の成仏の根本的な因果を指すことになります。
 この意味から、「本果妙」とは、究極的な成仏の果を指し示す仏や教えをいい、釈尊が説いたとされる教法はすべて、遠く至高の本果を指し示す本果妙の仏法として位置づけられます。
「本果妙」の仏や教えは、ある意味で現実の人間を超えた仏の至高の境涯を指し示すものであり、その境涯がわからない現実の人間にとっては、結局、譬喩としての意味しかないことになります。
 このような本果を指し示す仏や教えの本質について、大聖人は「白米一俵御書」で、「仏の心が澄(す)んでいるのは、澄んだ月のようなものであり、仏の心が清らかなのは美しい花のようなものである」(注1)という、いわば譬喩のごとき教えであると、分かりやすく示されています。
 これに対して、「本因妙」は、究極的な成仏の原因を説きあらわす仏や教法を指します。原因は現実の人間の側にあるがゆえに、「本因妙」は、現実の人間に即して究極の成仏の因果を説く教えとなります。
 まさしく、釈迦・多宝から付嘱を受けた上行菩薩は、現実の世界に現実の人間として出現する菩薩なのです。
 万人の成仏という法華経の理想を実現するためには、現実の人間として、究極の成仏の因果を自らの生命において実践し、しかも、その因果を成就して末法の人々に説き示し、伝えなければなりません。
 この 「本因妙」の仏法では、現実の人間が、そのまま究極の成仏の因果を体現していくことが根本条件です。ゆえに、因と果が一個の人間にともに具わるのです。したがって、本因妙の仏法では、「因果俱時の妙法」 を説くことになります。
 大聖人は「妙覚の釈尊は我らが血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」(御書二四六㌻) と言われています。わが生命の骨髄として成仏の因果の功徳を確立すれば、我が血肉が妙覚の仏となって現れるのです。
 現実の人間が妙法を体現することを要件とする「本因妙の仏法」においては、仏や教法のあり方は人間の実践を通して示されます。
 そのあり方を「白米一俵御書」では、「月こそ心よ・花こそ心よ」(御書一五九七㌻)(注2)と表現されています。月や花などの現実の事物が、そのまま仏の心を体現しているという意味です。
 このように、上行菩薩が、現実世界で妙法を体現して本因妙の仏法を弘める存在であることから考えると、釈迦・多宝は「本果妙の仏」、上行菩薩は「本因妙の仏」を意味することになります。
(『生死一大事血脈抄講義』2008年2月11日発行 P189~191 注記は管理人による)

「白米一俵御書」では同じ対象(月、花)を扱いながら、爾前経と法華経とでは世法と仏法の関係を表わす上で差異があることが示される。爾前経では世間法が仏法を根拠として成り立つとするのに対し、法華経では一切世間の治世産業がそのまま実相であると説かれる。
 名誉会長は、これを本果妙と本因妙との教法の違いによると指摘したのである。

(注1)爾前経:本果妙の仏法
「爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし」(一五九七㌻)

(注2)法華経:本因妙の仏法
「法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり」(同)

「白米一俵御書」では、法華経の法理から言えば大聖人に御供養された「白米」は、御供養した人の生命それ自体であると結論される。それが本因妙の仏法である。

「此れをもつてしろしめせ、白米は白米にはあらず・すなはち命なり」(同)

(2)「因果俱時の妙法」――本因妙の仏法の核心

 さらにまた、釈迦・多宝によって象徴される「本果妙の仏法」は、因の立場にいる現実の人間にとっては、はるか天空の本果を仰ぎ見るしかない教法です。それに対して、「本因妙の仏法」では、上行菩薩が先駆けて身をもって体現した「因果俱時の妙法」を弘めるのです。
 つまり、本因・本果の名は同じでも、本因と本果がかけ離れたものを説くのか、それとも本因・本果が一体の「因果俱時の妙法」を弘めるのか―― 両者には法の上でも大きな違いがあるのです。
 この「因果俱時の妙法」こそ、真実の「仏種」です。釈尊も本来は、この「仏種」を悟り、成仏の因果を体現して仏になったと言えます。しかし、釈尊の名をもって説かれた多くの教法は、「仏種」そのものを説かず、本果を指し示す本果妙の仏法にとどまっています。
 法華経の核心は、釈迦・多宝から上行への付嘱を説くことにあります。これは、法華経の理想であり仏の誓願である万人の成仏を実現するには、どうしても未来に、「本果妙」から「本因妙」への大転換がなされるべきであることを予言しているのです。
 このように法華経の付嘱の本質は、「本果妙から本因妙へ」という教主の交代と教法の転換を告げることにあります。
 本抄の「上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん、日蓮先(ま)ず粗(ほぼ)弘め候なり」(御書一三三八㌻)との仰せは、まさに大聖人こそが、仏法の大転換を実現する本因妙の教主であられることを宣言なされているのです。
(同 P191~193)

〝本因妙の仏法〟は、『本因妙抄』一書だけの思想では無い。「生死一大事血脈抄」「白米一俵御書」等々、大聖人は自在に仰せである。
 次からは、名誉会長と教学部長等との対話である。本因妙の仏法が「因果俱時の妙法」でなければならない理由が、詳しく明かされる。

(3)上行菩薩は「菩薩仏」

 池田 通常、「菩薩」と言えば、成仏をめざして修行している存在です。しかし、明らかに「上行菩薩」は、そうではない。「如来のすべて」を全身に体していて、なおかつ「菩薩」と呼ばれている。
 上行菩薩は「菩薩仏」なのです。父子相続の話があったが、父子は一体であり、父が仏であれば、家督のすべてを譲られた子もまた仏でなければ、話がちぐはぐになる。
 遠藤 たしかに国王から国を譲られたら国王です。
 池田 上行菩薩はじめ地涌の菩薩は、出現の時から、すでに「身は皆な金色にして、三十二相・無量の光明あり」(法華経四五二㌻)と説かれていた。
 須田 「三十二相」というのは「仏」の特徴です。地涌の菩薩が仏であることを示していると思います。
 斉藤 しかも、釈尊よりも立派に見えた。釈尊が、まだ青さの残る二十五歳の青年とすれば、荘厳な百歳の翁(おきな)に見えたと説かれています。
 池田 だから神力品の結要付嘱の儀式は、本来は「仏」から「仏」への儀式なのです。唯仏与仏(ただ仏と仏と)の境涯です。
 ではなぜ、上行は菩薩として現れているのか。それは、一つには、「一世界には一仏」という原則を破らないためとされる。二仏が並び立つと、皆に混乱を起こさせるからです。
 斉藤 上行菩薩は〝釈尊の説法を助ける〟ために弟子の立場をとっているということですね。
 遠藤 地涌の菩薩が出現したことによって、弥勒菩薩をはじめ皆が驚いて、そこから寿量品の説法が始まるわけですから、たしかに説法を助けたわけです。
 池田 しかし、上行菩薩がどこまでも「九界」の立場で出現したことには、さらに重大な意義がある。
 これは全仏教史を大転換させる重大事です。それは、「因行(仏因)」の中に「果徳(仏果)」を認めるということです。それまでの仏教は、どこまでも「仏果」が勝れ、「因行」は劣っているとした。ある意味で当然でしょう。
 遠藤 「九界」よりも「仏界」が上とするのは当然と思います。
 池田 しかし、上行菩薩の出現によって、「因行(九界)」に「果徳(仏界)」を含むことになってしまった。これがなぜ大切なのか。
 寿量品の説法を思い出してみよう。釈尊は五百塵点劫の太古に成仏したと説いた。これは、全宇宙のすべての仏は、その久遠実成の釈尊の弟子だということです。それでは、「その前」はどうだったのか。
 斉藤 「我本行菩薩道(我れは本(も)と菩薩の道を行じて)」(法華経四八二㌻)とありますから、五百塵点劫以前は、菩薩の修行をしていたことになります。
 池田 すると、修行をしていたのだから「法」はあった。法はあったが「仏」はいなかった時代があったということになる。これでは「無始無終の宇宙と一体の仏」はいないことになってしまう。
 須田 たしかに、途中から出現したのでは「三世常住の仏」とは言えません。
 遠藤 始成正覚の釈尊は「本無今有(ほんむこんぬ)(本(もと)無くして今有り)」と破折されました。〝根無し草〟のようなものだと。しかし、「途中から仏になった」という点では、寿量品の「久遠実成の釈尊」も、ただ時間をはるかにさかのぼったというだけで、同じです。
 厳しく言えば「本無今有」であって「本有(ほんぬ)」ではありません。
 斉藤 「本有」でなければ、三世常住の「本仏」とは言えません。(中略)
 池田 「仏因」が先にあって、「仏果」が後にくるというのでは、どうしても、〝何らかの時点で〟仏が出現することになる。
 要するに、無始無終の仏を説くためには、「仏因(因行)」に「仏果(果徳)」を認めなくてはならないのです。(中略)
 この「因位(仏因の位)の仏」――それが上行菩薩です。「因果倶時の仏」です。上行菩薩が出現しなかったならば、無始無終の本仏は示せないのです。
 上行菩薩の出現は、五百塵点劫という想像もつかない過去をも突破した「無始無終の久遠の本仏」をさし示しているのです。
(発言者:池田名誉会長、斉藤教学部長、遠藤副教学部長、須田副教学部長 普及版『法華経の智慧[下]~二十一世紀の宗教を語る』P176~180 『大白蓮華』一九九八年七月号掲載)  

(4)法華経の〝本当の主人公〟は誰か

 斉藤 それにしても、上行菩薩は、あまりにも不思議な存在です。仏教の通念を、ひっくり返すような存在だと思います。
 池田 その通りです。じつは「上行菩薩とは、だれなのか。いかなる存在なのか」が、法華経本門のメーンテーマ(中心課題)なのです。
 その意味で、上行菩薩こそが、法華経の主人公と言ってよい。釈尊が主人公のように見えるが、じつは上行菩薩のほうが、法華経の「心」を、より深く体現しているのです。
 そもそも、法華経の流れそのものが、それを示している。釈尊が「自分の入滅後に、だれが娑婆世界で妙法を弘めていくのか」と呼びかけ、多くの菩薩が「私たちにやらせてください」と〝立候補〟します。しかし、釈尊は、それを否定してしまう。
 須田 「止(や)みね。善男子よ。汝達(なんだち)が此の経を護持せんことを須(もち)いじ」(法華経四五一㌻)
 こう、きっぱりと断ります。そして地涌の菩薩を呼び出します。
 池田 この「止みね」の一言が大事です。この一言で、それまでの仏法をすべて否定したのです。日蓮大聖人は仰せです。
「上行菩薩等を除いては総じて余の菩薩をば悉く止(し)の一字を以て成敗(せいばい)せり」(御書八四〇㌻)
 遠藤 釈尊の滅後は――末法は「上行菩薩の時代」であるという宣言ですね。「止みね」の一言に、千鈞の重みがあります。(中略)
 須田 こうして見ると、上行菩薩がどれほど中心的な役割をしているか分かります。少なくとも虚空会では、〝釈尊とともに主人公〟ですし、滅後は完全に主人公になっています。
 斉藤 釈尊と上行という〝久遠の師弟〟が法華経の主人公ということでしょうか。
 池田 その〝師弟不二〟でいったい、何を表しているのか。それが問題です。
 それは宇宙と一体の「無始無終の本仏」の生命を指し示しているのです。本仏の「本因」を、法華経二十八品では「上行菩薩」として表現し、本仏の「本果」を「久遠実成の釈尊」として表現している。
 遠藤 すると、同じ一仏――本仏の二つの働きということでしょうか。
 池田 そうです。釈尊と上行という二つの別々の仏が出られたわけではない。一仏です。一仏の二つの側面です。だから、付嘱といっても、それは「儀式」にすぎない。付嘱そのものに「実体」があると見ては、法華経は分からない。
 須田 何のための儀式でしょうか。
 池田 根本は、末法に上行菩薩が出現して、久遠の妙法を弘めますよという「予告」のためです。この「予告」「予言」があってこそ、真の妙法を弘める〝人〟が出た時に、「ああ、あれは法華経に予告された通りだ」と分かるからです。そうでなければ、経文の裏づけがなくなってしまうからです。
(同 P205~207)

(5)諸仏を生んだ「根源の師」

 池田 全宇宙を揺るがす仏の大神力をもってしても、上行菩薩の功徳を賛嘆しきれない――という。これは、ただごとではありません。(中略)結論から言えば、人法一箇(にんぽういっか)の南無妙法蓮華経如来の功徳を賛嘆しているのです。「久遠実成の釈尊」も「上行菩薩」も宇宙の根本仏であられる南無妙法蓮華経如来の「迹(影)」です。
 南無妙法蓮華経如来は、無始無終の仏であり、宇宙生命そのものであり、三世十方の一切の諸仏の根源であり、十界本有、十界互具の御当体です。その十界のうちの「仏界」を、法華経では「久遠実成の釈尊」と「多宝如来」として説き、南無妙法蓮華経如来の「九界」を「上行菩薩」等として説いたのです。
 同じ根本仏の己心の仏であり菩薩です。だから、ここでは南無妙法蓮華経如来を賛嘆してもしきれないと言っていると拝してよい。南無妙法蓮華経如来は、諸仏を生んだ「根源の師」ですから、師匠を讃えていることでもある。
 須田 そうしますと、全宇宙を揺るがす神力をもってしても、讃えきれないのも、道理です。「如来の神力」といっても、「神力」は用(ゆう)(働き)、「如来」は体(たい)(本体)であり、その如来を生んだ根源が、南無妙法蓮華経如来なのですから。
 池田 しかも、宇宙と一体の仏であるゆえに、私ども一切衆生もまた南無妙法蓮華経如来の一部である。我々十界の衆生の生命の実相が南無妙法蓮華経如来なのです。
 これを教えてくださったのが、日蓮大聖人です。教えてくださったのだから「教主」です。
(同 P167~168)

 名誉会長は、さらに映画の譬喩をもって説明した。
               ◇
「南無妙法蓮華経如来」が、法華経二十八品というスクリーンに「影」を映した結果、久遠実成の釈尊(仏界)や上行菩薩(九界)の姿になったのです。
(同 184㌻)

 南無妙法蓮華経如来を「光」に譬えれば、天空のプリズムで七色の虹と見えるように、そこには釈尊の姿もあり、上行菩薩の姿をとることもあろう。

(6)御本尊に「根源の師」の姿が

 南無妙法蓮華経如来は、御書にはいかに説かれるか。

 御義口伝巻下(七五二㌻)にいわく、
「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事……御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり」

(これは南無妙法蓮華経如来の寿量品第十六についての御義口伝である。〈以下略〉)

 家庭に御安置した御仏壇を開き、御本尊を仰ぎ見れば、「南無妙法蓮華経 日蓮」とお認めであり、法と人とで人法一箇(にんぽういっか)であられる。
「頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり」とあり、「人法一箇の南無妙法蓮華経如来」であらせられる。「十界の衆生の生命の実相」である。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:55」を破折する(その一) 連載79回

妄説:55 『本因妙抄』の抄末にある「唯授一人の血脈」の語は、後人の加筆であり、大聖人の教えではないと聞きましたが、本当ですか。

 そんなことはありません。「唯授一人の血脈」こそ、大聖人の仏法を正しく末法万年に伝えるための教えであり、大聖人御自らが定められたものです。
『身延相承書』に
「血脈の次第 日蓮日興」(新編 1675頁)
とあり、日蓮大聖人から日興上人お一人に血脈を相承されたことが明らかです。これが「唯授一人の血脈」でなくてなんでありましょう。
『本因妙抄』の御文については、重須の第二代学頭であった三位(さんみ)日順師が、『本因妙抄』を解釈して『本因妙口決』を著わし、そこに
「唯授一人の一人は日興上人にて御座候」(富要 2-84頁)
と注記しました。これについて、第六十五世日淳上人は、
「上掲の御文は本抄(本因妙抄)末尾に『日蓮嫡々座主伝法の書塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり』との御文につき唯授一人とは日興上人であらせられると、念釈をなされたのである」(淳全 1449頁)
と仰せられています。
 このことからも明らかなように、「唯授一人の血脈」という教えは、日興上人にお仕えした三位日順師が明言しているのですから、「『本因妙抄』は大聖人の御書ではない」などといって、「唯授一人の血脈」を否定する学会の主張は全くの妄説というべきです。
 また学会では、御書全集を編纂(へんさん)された日亨上人が、『本因妙抄』の末尾部分が大聖人の教えでないために小さい活字にしたといっています。それでは日亨上人が大聖人の教えでないものを、わざわざ御書に載せたことになるではありませんか。それこそ日亨上人に対する冒涜といえましょう。

破折:
1.堀日亨師を冒涜する日顕宗

「日蓮大聖人から日興上人お一人に血脈を相承された」(『身延相承書』)ことに、異存のありようはずは無い。
 問題なのは「日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」の箇所である。
 大聖人は滅後の弘教を日興上人に託された。だが日興上人以後のことは、日興上人御自身が定め置かれることである。つまり身延相承書は、日蓮大聖人が末代までの座主への相承、「唯授一人の血脈」を保証したものではない。何時もの宗門の詭弁である。
「妄説:51」で破折した通り堀日亨師は、本因妙抄の末文を後代の後加文と断じたゆえ、御書全集において小さい活字としたのである。
               ◇
 若し末法において(中略)唯我日蓮与我日興計りなり。(二十行)
 又日文字の口伝〇日蓮在御判(七行)
 右二十七行の文は宗祖より開山へ相伝された本には恐らく無かったと思ふ。右にこれ等の文は宗祖の言われる筈にあらざる文,后世で無くては言へない文が多い。開山己后西山等に伝わってから記されたものと思ふ。
(『両巻抄講義』)

 日亨師が上記の通り言われたことを我らが信じたら、なにゆえ「日亨上人に対する冒涜」となるのか。日亨師を冒涜するのは日顕宗である。

2.御書は〝大聖人の御真筆〟のみではない

「日亨上人が大聖人の教えでないものを、わざわざ御書に載せたことになる」とあるが、日亨師は「御書全集には大聖人の〝御真筆〟のみ収載している」とは言っていない。

 御書全集の凡例(五㌻)にいわく
「新古各種の刊本中に真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之を取る」

 ここで宗門は「信行に資する」との記載を喜ぶであろう。しかし、〝古来より真偽未決の問題あり〟とされる御抄の場合であろうと、御書全集において活字を小さくしてはいない。「偽書である」と認めていないからである。
 しかし『本因妙抄』の末文は、日亨師が「大聖人の真蹟でなく、後世の加筆である」ことを示すため、わざわざ活字を小さくし区別したのである。
 ここまで日亨師が配慮したものを、なおも宗門が曲げて取ろうとすれば、それこそ「日亨上人に対する冒涜」であるばかりか、「大聖人への冒涜」となるは論を俟たない。

3.『本因妙口決』は依処とならない(その一)

 次に「重須の第二代学頭であった三位(さんみ)日順師が、『本因妙抄』を解釈して『本因妙口決』を著わし」とある。
 しかし『本因妙口決』を大石寺の「唯授一人」の依処とすることは、無理であろう。と言うのは、宗門が引用する「唯授一人の一人は日興上人にて御座候」(富要 2-84頁)との文言は、『本因妙口決』の〝末文〟だからである。もう答えは出たようであるが、念のため確認したい。
               ◇
 日蓮正宗の大橋慈譲によれば、堀日亨は『本因妙口決』の内容について(中略)「口決には詮要抄という別題がある。末文がまた、ひどいものである」とも評したとされる(注30)。(中略)日亨の言う「末文」がどこを指し、どのように「ひどい」のか、大橋の記録からはよくわからない。しかし問題の「唯授一人」云々の文は、まさに同口決の末文、しかも「詮要抄」と書かれた後に登場する。日蓮―日興の「唯授一人」説が唱えられる同口決の末文の箇所について、日亨がなんらかの意味で懐疑的だった可能性は十分に考えられる。(中略)
 日蓮正宗の「法義研鑚委員会」も、この『本因妙抄』の末文をもとに『本因妙口決』の「唯授一人」の文意を判読すべきだと主張する(注31)。しかし堀日亨は、『本因妙抄』の末文を後加文と判定しているので、『本因妙口決』は『本因妙抄』の後加文よりもさらに後の時代に書かれたことになる。そうすると、『本因妙口決』の方の「唯授一人」を宗門上古の日順の記述とみるのは相当に苦しい。
(『日蓮正宗の神話』P33~34 著者:松岡幹夫 2006年12月10日初版印刷 論創社)

(注30)「富士宗学要集の解説⑩」(『大白蓮華』第一〇二号、一九五九年一一月、二八頁)。
(注31)日蓮正宗法義研鑚委員会編『創価学会の宗史観を破す―小林正博の「法主絶対論の形成とその批判」を破す―』大石寺内事部、一九九七年、六八頁。

 宗門は、『本因妙抄』の末文を証するに『本因妙口決』の末文を持ち出し、かえって土壺にはまる結果となった(土壺の説明はしないでおく)。これでは「『唯授一人の血脈』という教え」が、一層胡散臭いものとなるばかりである。

4.『本因妙口決』は依処とならない(その二)

 そもそも三位日順は重須談所二代学頭であり、日興上人の弟子であっても、北山本門寺の系統にある。そうすると『本因妙口決』の末文にある「唯授一人」が、大石寺代々の法脈の顕彰とはならないのではないかと、日顕宗は思い至らないだろうか。
               ◇
『日順阿闍梨血脈』では「日興上人は・是れ日蓮聖人の付処・本門所伝の導師なり」(富要2-22)としつつ「日澄和尚は・即日興上人の弟子・類聚相承の大徳なり」(同前)と述べられ、「一流相伝の血脈」(冨要2―24)として〈釈迦如来上行菩薩―後身日蓮―日興―日頂―日澄―日順・大妙〉という次第が立てられている。
 ここから考えるに、『本因妙口決』を日順作とした場合、その「唯授一人の一人は日興上人」との記述は、日興から日澄、日順へと次第していく重須の学頭職の流れを念頭に理解すべきであり、日興―日目―日道―日行と続く大石寺の相承系譜の始原を証する文とすべきではない。
(前出『日蓮正宗の神話』P35)

 日頂とは五老僧の一人で富木常忍(日常)の養子であるが、晩年は重須談所の日興上人のもとに赴いた。日澄とは日興上人によって重須談所の初代学頭に補せられた人であり、三位日順は二代学頭である。
 重須談所はやがて大石寺と疎遠になり、本門寺を名乗った。現在の北山本門寺である。
〝北山本門寺の「唯授一人」〟を大石寺が宣揚するとは、何と懐の広いことであろう。これで学会に対し「唯授一人の血脈」を証明したつもりとすれば、お笑いである。
 偽書をもって偽書を証するのが、日顕宗の特徴である。

5.『本因妙抄』をいかに位置付けるか

「『本因妙抄』は大聖人の御書ではない」とあるが、それは学会の主張するところでは無い。
               ◇
『本因妙抄』(『富要』1-1『宗全』2-1)の最古の写本は大石寺六世の日時(?-AN84-125)写本とされている(『富要』1-8)。ただし日時写本には執筆年次が書かれていないうえ、写本の原本が日興正本であったかどうかも言及されていない。(中略)
『本因妙抄』は文献学的には日蓮滅後100年前後までしか遡れない。(中略)私には『本因妙抄』が誰によって作成されたかの判断はできないが、日興との結びつきが文献学的に証明できないことだけで、この資料を日興の教学思想の解明のために第一段階や第二段階で利用することを差し控える十分な理由となる。
(「日興の教学思想の諸問題(1)-1 資料編」 宮田幸一)

(注:「日蓮のなくなった1282年(弘安5年)をAN1年として、以下『富士年表』の年代記述を基本にしてAN年代を表記する」とある)

 また『本因妙抄』は〝某書の焼き直しである〟とも指摘される(某書が何であるかはさて措く)。学者による検討は以上である。
 譲って『本因妙抄』が文献学的弱点を有する資料とまで認めても、その思想自体が誤りとされるべきでは無い。宗教とは文献学で成立するものでないことは、自明の理であり多くは語らない。
 少なくとも創価学会では、文献学での評価をもって対象を判断することは無い。あくまで思想の高低浅深、さらには現今の社会に価値を問えるかどうかに尽きる、と言えよう。
 その意味で『本因妙抄』については、壮大な生命哲学たる〝本因妙の仏法〟の土壌となった歴史的意義を有する、と捉えるのである。文献学的に言えば、本因妙の思想は日興上人の門流において醸成された仏法哲学であり、『本因妙抄』はその概念に立脚し説かれたとも言い得よう。
 ただし、書面通り大聖人真撰と捉えた立場も己心の生命における仏法であり、それ自体間違ってはいない。

 観心本尊抄(二三九㌻)にいわく、
「序の中に『説己心中所行法門』と云う良(まこと)に以所(ゆえ)有るなり」

 章安の言葉に「己心の中に行ずる所の法門を説く」とある。この言葉は、天台が『摩訶止観』で、衆生の己心に諸法が具わっているとし、一念三千を説いたが、それは天台自身の己心の法門であるという意味である。
(『新・人間革命』第8巻 P151)

 この御文を引いたことは、的外れではないと信ずる。前出の「真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之を取る」(『御書全集』凡例)との編集方針は、信仰者の立場であり文献学者のそれとは一致しない。〝何のため〟との視点が、両者では全く異なるものと割り切るしかない。
 なお〝本因妙の仏法〟については、次回の「妄説:55」(その二)で論じたい。

6.文献学者に浴びせる宗門の誹謗中傷

 学会と対比するに、大石寺宗門が文献学の見地から意見を述べる者に対して投げつける、誹謗中傷の見苦しさ、浅ましさ。

「邪義破折班の作成文書はとにかく罵詈雑言のオンパレード。そんな非学術的な文書への再反論に時間を割きたいとは思わない」
(「What an endless road~Departures & Arrivals and・・・~」Author:直人)

 邪義破折班の小僧らは、住職の口の無い無任所教師の悲哀も込め、罵倒の限りを尽くす。他に仕事が無い暇人のゆえであるが、他からすれば迷惑千万である。
 文献学者の話に戻ると、かつて日蓮宗の坊主で文学博士の執行海秀が、次の通り論じた。

「うがっていえば、日時本は写本というより、むしろ日時によって書かれたものと見ることができないではない」(『興門教学の研究』昭和四三年)

 執行は『本因妙抄』の作者を大石寺六世日時と看做した。しかし近年には異論が出ている。
               ◇
 東佑介の『大石寺教学の研究』によれば、興風談所の大黒喜道が『興風』第14号の「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(一)」において、『本因妙抄』の日時写本の字体が、日時の他の文献の字体と異なっていることを指摘し、日時写本ということに疑義を提出していることが紹介されている(東 40)。
(前出「日興の教学思想の諸問題(1)-1 資料編」)

 この通り文献学とは、研究者の仮定が入るものであるが、仮定はまた後代の文献学者によって批判の対象となる。ゆえに信仰者は、文献学のことにはかからわずに、文献学者に任せておけば良いのである。
 ところが大石寺宗門は、すべてにおいて無謬でなければならない運命を背負っている。それは法主より指南があれば、黒であろうと白と言いくるめるのが正しいこととされるゆえである。逆に学会に対しては、「根も葉もないこと」も「根も葉もあること」としなければならないのであり、そのためには嘘も捏造も厭わない。
 ともかく文献学と信仰とを区別しなければ、かえって肝心の『本因妙抄』の底が割れる事態となることが、宗門には分かっていない。
 日顕宗は文献学の分野から、さらには他宗からも学会からも、笑われて当然である。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:54」を破折する 連載78回

妄説:54 御本尊に関する「書写」「授与」「允可」の権能は、どのような関係にあるのですか。

 日蓮正宗において、御本尊を「書写」できる方は、御法主上人お一人であり、御本尊の「授与」および「允可(いんか)」の権能も、唯授一人血脈相承のなかに含まれているのです。
『本因妙抄』に
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)
 と仰せのように、本尊にかかわるすべてのことは、御法主上人の権能であり、他の誰人も触れることはできないのです。
 日興上人の時代において、本尊の大事の相伝もない者が大聖人の直筆(じきひつ)御本尊を勝手に形木(かたぎ)に彫(ほ)り、本尊を作って、不信の者に配った例があり、これについて日興上人は
『富士一跡門徒存知事』に「御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み不信の輩に授与して軽賎する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり」(新編 1872頁)
と戒められております。
 さらに前項(第五三項)の第五十九世日亨上人のご教示からも御本尊の書写や授与などの大権は、すべて御法主上人お一人に限ることが明かです。

破折:
1.本尊を誤写した法主

「本尊にかかわるすべてのことは、御法主上人の権能であり、他の誰人も触れることはできない」とあるが、その法主の威厳も権能も、大聖人以来の正しい相伝に随えばこそであり、違背すれば糾弾されてしかるべきである。その事実をあらためて知っておきたい。
               ◇
 六〇世の阿部日開は、昭和三(一九二八)年六月に唯授一人相承を受けた後、本尊書写の際に「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべき本尊の讃文を誤って「仏滅度後二千二百二十余年」と書いてしまい、宗内の僧侶たちから問い質された末に「ただ漫然之を認ため何とも恐懼に堪へぬ」と謝罪させられたという。
 当時すでに出版公開されていた「御本尊七箇相承」には「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」(要1-32)との条目がある。そうしたことから、相承なき平僧たちが血脈付法の法主の本尊誤写を責め糾して謝罪させる、という異例の事態へと発展したのである。
 平僧たちがかくも自信をもって法主の誤りを糾弾できたのは、彼らに大石寺の血脈相伝たる三大秘法義の知識があり、なおかつ「御本尊七箇相承」が出版公開されていたからである。昭和初期に起きた六〇世・阿部日開の本尊誤写事件は、本尊に関する権能を法主が独占できない時代の到来を示す、象徴的な事件であった。
(「現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義 三大秘法義の理論的公開過程に関する考察を踏まえて」青年僧侶改革同盟 松岡幹夫氏) 
 注:本文の改行は管理人の責任において適宜行なった。次項も同じ。 

「本尊の大事の相伝もない者」とは、日顕の父・六十世阿部日開のことであった。「唯授一人血脈相承」が正しければ、御本尊書写を誤るはずが無い。
 日顕の書写した本尊が誤字・脱字だらけなのは「御法主上人の権能」のうちなのか。笑わせてはいけない。
 日顕はそもそも相承を詐称した者であり、大聖人の法脈を妄語で汚したことは、父・日開にも劣るほどの「本尊の大事の相伝もない者」である。我らはニセ法主が書写した本尊を、押し頂くほど愚か者ではない。

2.法主による本尊書写の時代は終わった

「日蓮正宗において、御本尊を『書写』できる方は、御法主上人お一人」と言っても、現時においての役割はすでに終わっている。広宣流布を忘れた坊主に、もう出番は無い。
               ◇
 さらにまた、われわれは、現代において法主による本尊書写の必要性が失われている、という点を決して見落としてはならない。大石寺門流の僧俗が寺院や家庭に安置している本尊は、通常は、戒壇本尊を書写した歴代法主の直筆本尊(常住本尊と呼ばれる)か、法主の直筆本尊を版木や写真印刷によって複写した本尊(形木本尊と呼ばれる)か、のどちらかである。
 このうち、複写の形木本尊は伝統的に仮本尊とみなされており、信心決定の後には、法主直筆で授与書きのある常住本尊に取り換えるのが慣わしとなっていた。しかしながら戦後、創価学会の大折伏により、累計で数百万体にも達する本尊下付が行われるようになると、すべての信心決定者に法主直筆の常住本尊を授与することは完全に不可能になった。そこで、漸く印刷の形木本尊を正本尊とする信仰形式への移行が進み、ついには六六世・日達の代に「特別御形木御本尊」の制定をみたのである。
 特別形木本尊とは、写真印刷の形木本尊でありながら、実際には法主直筆の常住本尊と同格に扱われる曼荼羅本尊のことを言い、普通の写真印刷の形木本尊よりも一層荘厳さの増したものである。江戸期から存在する版木の形木本尊は、版木を使ったことが一目でわかるほど質が劣り、仮本尊とみなされても仕方ないところがあった。しかるに現代の写真印刷の形木本尊は、印刷技術の飛躍的進歩によって直筆かと見紛うばかりの鮮明度を持ち、表装の美観も格段に増している。それゆえ現在では、通常の形木本尊でも充分に荘厳であり、特別形木本尊になると直筆の常住本尊と何ら変わらぬ威厳を保っていると言ってもよい。しかも現代における写真印刷の原本は半永久的に保存が可能であり、今後、新たな特別形木本尊の原本を法主に依頼する必要もない。
 すでに戦前、堀日亨は「化儀抄註解」で「宗運漸次に開けて・異族に海外に妙法の唱へ盛なるに至らば・曼荼羅授与の事豈法主御一人の手に成ることを得んや、或は本条の如き事実を再現するに至らんか・或は形木を以て之を補はんか」(要1-113)と予測したが、その予測は百年を待たずして基本的に的中したのである。ここに、法主による本尊書写が不可欠とされた時代は終わりを告げたと言える。
(同)

 なお宗門が引用した『富士一跡門徒存知事』の箇所は、日向や日春等が大聖人筆の御本尊を形木に刻み、印刷して不信の輩に授与したことを非難したものである。
 だが学会が「日蓮大聖人御筆の本尊」を御形木御本尊にしたことなど、一度もない。学会に悪印象を持たせるために出してきた文書であり、嘘と捏造を繰り返す宗門の手口である。

3.〈六十一世水谷日隆〉破戒僧の醜態

「御本尊を『書写』できる方は、御法主上人お一人」であると言うのに、法主に就任してから「御本尊を一幅も書写しなかった法主」がいた。六十一世水谷日隆である。ただし特筆すべきはその事実ではない、とてつもない〝破戒坊主〟だったのである。

(1) 法主就任前の破戒行為
① 背任横領の金で芸妓を落籍

 水谷秀道(日隆)は、宗務総監であった当時の昭和五年十二月、寺の金で芸妓の身代金を払って妾にし、背任罪に問われて書類送検された。常泉寺に赴任してから事件の発覚までの僅か二年有余の間に、合計三万九千円(現在の金に換算して約一億円)の寺の財産を浪費したのであり、その醜い所業は全国紙の記事となり、天下の好奇の目にさらされたのである。

「富士五山の一であり全国に70万の信徒を持つ日蓮正宗の本山富士大石寺宗務総監である本所区向島小梅町常泉寺住職水谷秀□(道)師(56)は12月初旬より数回に亘(わた)って極秘裡に丸の内署に召喚され中村司法主任の取調べを受ける一方、常泉寺総代平沢菊太郎・鈴木仙蔵氏、浅草の待合鈴蘭の女将、亀戸の待合小槌の女将等を召喚証人とし取り調べ中であったが26日水谷師は『背任罪』として1月4日の御用始めに一件書類を東京地方検事局に送ることになった。
 同師は2年前常泉寺住職となり、続いて本山の宗務総監になったが以来、前記待合を根城として、僧侶の身分を忘れて豪遊し、浅草公園の芸者紋弥こと、諸岡はつ(21)を落籍して外妾として囲い寺有財産約9千円を費消したほか約3万円の手形を乱発していた破戒行為を同署椎名刑事に探知されたものであるが水谷師のこの事件は往年流血の惨までを見せた管長選挙問題と昨年阿部管長の本尊誤□(写?)問題に絡み全信徒が2派に対立して騒ぎを続けている際とてこれが導火線となって70万の信徒をあげて騒動の波紋を拡げそうな形勢である」
(『読売新聞』S5.12.29/『富士の清流』H9.9.1)

 宗門は「全信徒が2派に対立して」との記事をこう説明する。
               ◇
 当時の日蓮正宗を取り巻く状況として、京都・要法寺との確執があった。
 すなわち、京都・要法寺との間で、仙台・佛眼寺の帰属を巡(めぐ)って争っていた裁判に、要法寺側勝訴の判決が下ったものの、佛眼寺檀信徒は強制明け渡しを拒否。日開上人が佛眼寺檀信徒に向けて激励の書を送るなど、要法寺との関係が非常に緊迫(きんぱく)していたのである。
 となれば、事件を捏造(ねつぞう)してでも日隆上人を貶めて、失脚させようという動きがどこから起こったとしても、何の不思議もない。
(『慧妙』H18.11.1)

 要するに、他門流との争議に話を掏り替えようとするものであるが、そのようなことで「全信徒が2派に対立」するわけなどない。底の浅い作り話である。
 記事には、①「往年流血の惨までを見せた管長選挙問題」、②「阿部管長の本尊誤写問題」と載っており、それが事実である。醜い派閥抗争を繰り広げてきた宗門、「相伝の何たるかも知らない」阿部管長。信徒が不信となるはずである。
 水谷秀道が前法主・日開と組んで、前代未聞の醜い管長選挙を行なった経緯(「妄説:51」参照)だけではない、新たに「芸妓落籍、背任横領」など悪行の数々が宗内に知れわたり、水谷の登座には猛反対の声が湧き上がった。ところが、騒動の渦中にあるこの破戒僧が、昭和十年六月、六十一世日隆として登座したのである。

②  醜聞は日常茶飯事

 この事実に対し、宗門の能化達が能天気な反論を述べる。
              ◇
〈阿部〉この日隆上人への悪口もまた、本当に許せない誹謗ですね。御当代日顕上人猊下には創価学会や自称正信会、顕正会などの日蓮正宗に反逆した異流義の者共から事実無根の誹謗を限りなく受けておられますが、日隆上人の場合も同様な状況にあったのでしょうか。
〈菅野〉そうだね。日隆上人というお方は、かなり闊達な御性格であられ、56世日応上人の御信頼を受けて種々宗務行政にも携わられ、辣腕を振るわれたと聞くから、かなりの毀誉褒貶(きよほうへん)を受けられたようだ。
〈藤本〉相手を貶(おとし)めるにはスキャンダルをでっちあげることが一番効果的なわけだからね。御当代日顕上人猊下に対する異流義の者たちの誹謗もまったく同様だが、要するに正法に敵対する者共は、卑劣な手段を用いて日蓮正宗にダメージを与えようと画策するわけだ。日隆上人も新聞記事などでそのような卑怯なスキャンダル攻撃をお受けになられたのだね。
(発言者:阿部信彰、菅野日龍、藤本日潤 『大白法』H16.2.1)

「芸妓落籍」と言う淫蕩目的で、寺財の「背任横領」まで犯した所業が事実であれば、僧侶の資格剥奪たるべき重大事のはずである。「卑怯なスキャンダル攻撃」と言うからには、詳しく調査の上、回答すべきであろう。
 だが、事実の解明など一切行わず、かえって「闊達な御性格であられ」(菅野)と評するとは、遊蕩坊主の面目躍如と言うところか。「スキャンダル」で浮名を流すことなど、彼等「暇人」「遊民」にとって本領発揮なのであろう。

 松野殿御返事(一三八六㌻)にいわく、
「受けがたき人身を得て適(たまた)ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談(ゆげぞうだん)のみして明し暮さん者は法師の皮を著(き)たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一(ひとつ)もなし・法師と云う名字をぬすめる盗人(ぬすびと)なり、恥づべし恐るべし」

 大聖人の「法師の皮を著たる畜生」との御叱声が、宗門の輩には聞こえないのか。

③ スキャンダルの先達

 宗門で〝女狂い〟〝カネの濫費〟と言えば、当然に日顕であるが、先輩格がこの水谷日隆であり、大先達が五十六世大石日応であった。
 
「元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾(めかけ)を置き又大宮(=富士宮)其他附近に出でては飽くまで不品行を恣(ほしいまま)にして恥ぢぬ程の者にて檀家一千名に上り名だたる大寺に居りながら一万円にも及べる借財に今は困(くるし)む身となりて退職して後任の大学頭を選任し不埒にも借財の尻を此際有耶無耶(うやむや)に葬らんと考へ本年五月十二日先づ規定通り三人の管長候補者を選ぶこととなるや、元来日応の生国が東北地方にて一山の僧侶は全国各地よりの出身者なれど腹黒き日応は東北出身者のみを以て役僧を組織し居れば先づ之を利用して、選挙投票の買収を初め即ち己れの意に従はざる者は凡て免黜(めんちつ)し腹心の売僧を駆りて盛に投票を買収せしめ不品行を以て名高き阿部慈照師を正候補者に推し…」
(『静岡民友新聞』明治四十一年十月二日付「日応の人となり」)

 最後に阿部慈照とあるのが、後の五十七世日正であり、記事の後半を解説すると次の通りである。
               ◇
 つまり「色魔」の日応が遊興で作った一万円の借金(現在の貨幣価値に換算し約一億円相当)をウヤムヤにするため日正、日隆、日開ら自分と同じ東北出身者で宗務院の役僧を固め、後継法主もその中から選ぶという悪辣ぶりを「静岡民友新聞」は指弾していた。
 この日応の「遊蕩の血脈」を継いだのが日顕である。
(「フェイク」第753号 発行=06.08.19)
 
 大石日応の「借財」が一万円(明治四十一年)、水谷日隆の「費消九千円、手形三万円」で合計三万九千円(昭和五年)、ともに現在の貨幣価値に換算して、一億円である。
 宗門においては、このような不正も淫蕩も珍しくなかったわけであるが、これが法主と言われる者か。

「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(日興遺誡置文 一六一八㌻)

 宗門では、すでに日興上人の御精神は失われ、謗法だけがそこにあった。

(2) 宗門を掌握した男

 では日隆が「管長職の業務を放棄」したことはどうか、宗門の言い分は次の通り。
               ◇
『富士年表』には、日隆上人が昭和10年6月11日に大坊に入られたと記されており、翌・昭和11年4月14~15日には、御代替わり法要が奉修されたことが記されている。
 また、御在位当時の『大日蓮』を調べると、日隆上人が、御霊宝虫払い大法会をはじめ、総本山で奉修された法要を執行されたことが記されている。
 たしかに、療養ということで常泉寺に滞在されていることが多く、また御大会に関しては、御病気のために前御法主・日開上人が大導師を務められてはいる。
 だからといって、日隆上人が御法主としての法務を怠(おこた)っておられたわけではないことは、『大日蓮』等を見れば明らかではないか。
(『慧妙』H18.11.1)

 日隆は「昭和10年6月11日に大坊に入られた」(『慧妙』)とあり、その晋山式(しんざんしき)(昭和十年六月十一日)の後は、常泉寺に戻ったまま帰山しなかった。
 また「御大会に関しては、御病気のために前御法主・日開上人が大導師を務められ」(同)とある通り、二回巡ってきた御大会(ごたいえ)を、二回とも隠居の日開に任せる怠慢ぶりであった。

(3)傀儡だった日開

「大白法」の談話(前出)において、菅野が日隆を評して「種々宗務行政にも携わられ、辣腕を振るわれた」と言った背景には、次の証言がある。
               ◇
 竹入 宗内のさる老僧が言っていた。
〝実は日顕の親父の開師(=60世・阿部日開)は、当時、総監だった隆師(=61世・水谷日隆)の傀儡(かいらい)だった〟というんだ。
 原田 それは初めて聞く話だ。
 竹入 さらに〝日隆は法主の日開に仕えているふりをして、実際は日開を操り、宗務院も牛耳っていた。完全に実権を握っていた。
 日隆が本山に来る時は皆で参道の草むしりをしてきれいにする。だが、法主の日開が来ても誰も草むしりをしない(笑い)。
 日顕は、そういう事情を知っている。だから早く自分が裏に回って、次の法主を操りたいんだ〟と断言していた。
 原田 日開が法主時代、実際にはナンバー2の総監が権力を握っていたわけか。
 小板橋 いかに宗門が醜悪な権力闘争に染まっていたか。一目瞭然じゃないか。
 周宝 日顕の親父は、ただの操り人形にすぎなかった。日顕が自分の息子しか信用できないのも、よく分かる。
(発言者:原田副理事長、竹入副会長、小坂橋明英住職、周宝覧道住職 『聖教新聞』2004年11月24日)

 宗務院を掌握していた日隆は、日開を見下していたのである。そうでなければ、宗門の最大行事の執行を隠居(日開)に任せるなど、管長としてこれほど無責任な行為がまかり通るはずがない。
 日隆の「療養」とは、〝芸者遊びを続けるため、常泉寺に居座っていたい〟との、飽くなき欲望を抑えられなかったことでしかない。その意味で「病気」であり、呆れるばかりの色魔であった。
 水谷日隆は、法主就任後はほとんど本山におらず、東京・向島の常泉寺に住み続け、七百年にわたる宗門伝統の丑寅勤行の大導師を勤めず、御本尊を一幅も書写することなく、昭和十二年十一月に退座した。
 これほど堕落しきった坊主でも、管長に推戴され御法主上人となった。それでも素行を改めることがなかったのである。法主経験者であるから、当然に日蓮正宗の「御歴代の御法主上人」の内に含まれる。
 いったいこれが「唯授一人の血脈相承」を受けた〝伝法所持者〟の所業か。それでも僧宝の一分と言えるのか。
                           (了)
 

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