『暴力的風景論』武田徹著、新潮選書
担当:新潮社 新書編集部 金寿煥
風景? 暴力? はて……。
一見して、何をテーマにした本であるかわかりづらいタイトルかもしれません。『暴力的風景論』といっても、見ているだけで襲いかかってくるような「バイオレンスな風景」について論じたものではありません。そのような風景があるならば、むしろ見てみたいと思いますが、残念ながらそのような奇怪な風景を集めて紹介する本ではありません。
風景というものの“危うさ”について考える――それが、この『暴力的風景論』のテーマです。しかし「風景の危うさ」と言っても、まだピンときませんよね。
例えば、あるひとつの風景を複数の人が見ているとしましょう。
それは風光明媚な観光地の風景でもいいし、高層ビルが立ち並ぶ都会の風景でもいい。たとえそれが同じ風景だとしても、その受け取り方は、見る人によって千差万別です。雲ひとつない青空に富士山が映えるのを見て、「すばらしい。やはりこれが日本の風景だね」と、ほとんどの人はそのような感動を口にするでしょう。しかし中には、「二度と思い出したくない風景」として、その風景を記憶している人もいるはずです。
極端な例かもしれませんが、それだけ風景というものは、見る人の受け取り方ひとつで、その印象を大きく変えるものです。
「風景」とは、その人が見ている世界そのものである。「気分」の産物であり、「内面の反映」であり、「物語」を構想する想像力によって作りだされた「世界観」や「歴史観」に通じる性格を持っている――(「まえがき」より)
見ている人の気分や内面、物語、そして世界観などによって、そのイメージはプリズムのように変化する――このことこそが、本書で「風景」を論じる際のいわば前提条件です。
自分の風景は、他人のそれとは異なる
しかし、なぜそのことが“危険”なのでしょうか。
それは、「自分に見えている『風景』しかその人には見えない」からです。
「そんなの当たり前だろ」と思うかもしれませんが、同じ風景を見ていても、まさか隣にいる人が全く別の印象を抱くとは、なかなか思わないものです。なまじ眼に見えるものだからこそ、「風景は一つである」という固定観念に囚われ、余計にそのような想像力が働きにくいのが、風景の厄介なところです。
このような風景に対する受け取り方の違いが積み重なることで生まれる、他者への不寛容や排除があるのではないか――本書を貫く問題意識は、ここから出発します。
人は眼の前の「風景」を現実そのものと誤解して現実の世界に働きかけようとする。そうした短絡は多くの問題を起こすだろう。それは同じ「風景」を見ていない「他者」にしてみれば、理解不可能な暴力の行使になりかねないし、誤解に基づく拙速で誤った行為の影響が自分自身に対しても致命的被害として還ってきてしまうこともあるかもしれない。(「まえがき」より)