日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:44」を破折する 連載58回
妄説:44 「創価学会こそ現代における唯一の『信心の血脈』を受け継ぐ和合僧団である」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当でしょうか。
かつて創価学会では
「『総じて日蓮が弟子檀那等(中略)異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処(ところ)を生死一大事の血脈とは云うなり』の御文は、別しての『法体の血脈』を大前提として、総じての『信心の血脈』について述べられたものである」(学講 三〇上-五九頁)
と正しい法義に準じた説明をしていました。
この説明にもあるように「信心の血脈」とは、あくまでも、別しての法体の血脈相承を受けられている御法主上人への信順なくして流れ通うものではありません。
御法主上人を仏法上の師匠と仰ぎ、師弟相対して大御本尊を信受するところに信心の血脈も流れ通うのです。
ところが現在の学会は、法体の血脈を否定し、御法主上人に敵対しているために、「信心の血脈」を破壊する破和合僧団になり下がったのです。
破折:
1.日興上人は法主の「無謬」を否定
宗門の言う「法体の血脈」とは、前回(「妄説:43」)に記される「日蓮大聖人の御内証(ないしょう)と戒壇の大御本尊は代々の御法主上人お一人に『法体相承』されているのです」と同義と思われる。
そうすると、法主は「日蓮大聖人の御内証」を受け継ぐゆえ、無謬(=誤りが無い)と言うことになる。しかし、それは日興上人によって否定されている。
① 「一、時の貫首(かんず)為(た)りと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」
日顕自身が、法主に間違いがあったときの僧侶の反抗を認めた発言をしている。
◇
日興上人様が……法主が間違っているところは、その法主の間違ったことに対して大衆は従ってならないという御指南があるとおりです。従ってはならないということは、消極的ではあるけれども一つの反抗をするわけですから、その反抗の姿を見て、私なら私の立場において、自分が間違っていたように思うこともあると思います。
(『大日蓮』平成3年1月号)
大聖人様の御指南の上から照らしてみても、もし自分が間違っておることを何人かが指摘して注意してくれたならば、はっきりと改めるべきである。……私自身も、もし私の行為・行動に対して誤りを指摘してくださる方があるならば、それを大聖人様の教えに照らして考えた上で、誤りと自分が解れば直ちに改めるつもりであります。また、その方に深くお礼を申し上げたいと思います。
(『大日蓮』63年9月号)
日顕自ら、法主無謬論を否定した説法をしているのである。「法体の血脈」の御説には具合が悪いはずであるが。
「歴代の猊下だって、人間だからいろんな不備もあるし悪い面もある」(五十九世堀日亨法主)
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
法主無謬など、あるわけないのであり、それが道理である。
日顕の誤りにつき学会から指摘をしたはずであるが、何ゆえ説法したように「間違っていた」と、素直に改めようとしないのか。日顕から「深くお礼」を言われた記憶も無い。在家から言われると、正論であるほど余計に腹が立つのか。
② 「一、先師の如く予(よ)が化儀も聖僧為(た)る可し、但し時の貫首(かんず)或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も衆徒に差置く可き事」
日顕がシアトルで破廉恥事件を起こしたことは、当時の宗門に知れ渡っていた。
◇
私が耳にしたのは、事件から一か月経った時だった。
三十八年四月下旬、日顕が出張御授戒から帰国して初めての年表委員会が本山で開かれた。三日間の会議を終え、解散下山になったが、私は菅野慈雲氏とともに、彼の宿坊の本住坊に泊まることになった。その時、彼が「慈済さん知ってるかい?」と切り出したのが、事件のことである。
「教学部長が、アメリカで事件を起こして、大失敗したそうだよ!」
常日頃、日顕から頭ごなしに言われていたこともあって、この時とばかりに慈雲氏は私に告げたのであった。
(前出「日蓮正宗〝落日の真因〟」)
菅野慈雲(日達法主の娘婿)が日顕の行状を話題にしたわけは、〝僧侶にあるまじき行為〟と眉をひそめたためでは決して無い。警察沙汰となり、本山に露顕したために〝へまをやった馬鹿な奴〟との冷笑だったのである。
◇
宗内僧侶のシアトル事件に関する印象は、一種、独特のものであった。彼らは買春をしたことについては驚かない。ほとんどの僧侶は若いときから風俗で遊んでいる。これは決して悪いこととは思われていない。なぜなら、宗門では昔から「飲む、打つ(賭博)、買う(買春)をこなせば一人前だ」と言われていたからだ。だから、酒が強く、よく遊ぶ者は回りから一目を置かれていた。
また、海外部が出来、海外へ頻繁に出張するようになってからは、出張した者が買春することも珍しい話ではない。彼らにとっては買春することは特別なことではない。いわゆる〝男の甲斐性〟だと考えられている。スペインに駐在していた山田や海外部の中本が買春していたことも暗黙の了解の上である。問題はそれが〝ばれるか、ばれないか〟だ。ばれたら、〝あいつは馬鹿だ〟と言われるだけである。
ただ、当時は海外旅行そのものが珍しい時代であった。言葉も通じず事情がわからないだけでなく、栄えある第一回の海外出張御授戒という緊張した中で、果たして買春することができたのだろうかと、宗内の僧侶は疑念を抱いていたのである。しかし、日顕と同世代の住職たちは〝あいつなら、やりかねない〟という確信に近い気持ちを持っていた。なぜなら、日顕の〝女好き〟は若い頃から、尋常でなかったからだ。
(「実録小説 大石寺・大坊物語」青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)
いつから大石寺はこれほど頽廃してしまったのか、その根源は五十六世大石日応法主の妻帯以来、宗門僧侶が「聖僧」であることを放擲したことに尽きる。
五十九世堀日亨法主は、日興上人の御遺誡が死文となったことを慨嘆して、次の通り記している。
◇
この条の見とおしは、凡僧の自分にはつきかぬる。なるべくは、一時的の現今の僧分の弊風とみて、その内自然に振粛して、宗祖開山時代の常態に帰るべきを祈るものである。(中略)
開山上人がこの法度に「先師の如く聖僧たるべし」と定められ、先師大聖人が無戒であるが、放埒破戒でないことを、証明せられており、日順・日尊にもまた放埒を誡めた文もあるが、この淑行聖僧というのは、現今の在家同然の僧行を認めたものでない。ややもすれば、多少の反省心より汚行を恥づる有羞僧を見て、かえって身心相応せぬ虚偽漢と罵り、全分の生活まったく在家同然で、心意またこれに相応し、たんに袈裟衣を着てるだけの違いを、かえって偽らざる正直の僧侶と自負する者があるやに聞く。このていの放埒ぶりを標準とせば、この条目はいまは死んでおる。自分はいまの状態は一時の変体と見ておる。
(『富士日興上人詳伝』 五十九世堀日亨法主著)
日亨師には残念ながら、前述の条目だけで無く、宗門自体が「死んでしまった」のであり、よって「一時の変体」では無い、「永久の変態(!)」となったのである。
2.〝謗法の法主は放逐すべし〟
大石寺六世日時は、日興上人の教えとして次のような話を伝える。
「仰セに云く日興上人の常の御利口に仰セられけりとなん、予が老耄して念佛など申さば相構エて諫むべきなり、其レも叶はずんば捨つべきなり」
(「大石記」『富士宗学要集』昭和十一年刊)
この話をもとに、日顕は次の通り説法している。
◇
まー、私が南無阿弥陀仏をこれから一緒に唱えようって言ったら皆さんどうする? 絶対、用いない、そんなことは、皆さん方がね。うん。そりゃそうだ。それじゃー、それで放逐するかどうか。まー、南無阿弥陀仏と私が唱えだしたら放逐するだろうね。絶対に放逐しなきゃいかんよ! そんなことしたら。ねっ。
(全国教師講習会 平成四年八月二十八日 大石寺)
法主も謗法を犯す可能性もあるということを、日顕みずからが示したことであり、さらに謗法を犯した場合、放逐すべきことを断言したのである。
◇
「大石記」には第六世日時上人が、この日興上人の話に続いて次のように語られたことが記録されている。
「而るに日代は数通の御譲リ状を持チたりという云へども既に迹門得道の上は爭テか言ふに足るべけんや、其ノ上付法の旨は其ノ證拠をば上々の御事なり、此ノ方にも上人の御筆を載せたるなり其ノ支證は上々の御事なり、先づ迹門得道と云ひ多クの謗法之レ有ル上は沙汰の限リに非ラず」
日興上人の晩年に、日代は若くして重須の坊を委ねられたが、日興上人御遷化後、その大任を果たすことができず、みずから重須を出ることになった。そして、日代はとうとう重須に帰ることができず、西山本門寺を開くこととなったのである。「大石記」は、この日代が「数通の御譲リ状」を持っているとはいっても、「迹門得道と云ひ多クの謗法之レ有ル上は沙汰の限リに非ラず」との、日時上人の言葉を伝えている。
譲状や法の付嘱などがあっても、謗法があればそれらは無意味であると、日時上人は話されているのである。日顕上人についても同じことがいえる。謗法を犯した日顕上人は、すでに法主としての資格を失っているのだ。
(「地涌」第276号 1991年10月3日)
「御譲リ状」とか、法の付嘱を受けた云云などは、謗法を犯せば何にもならないのである。大御本尊誹謗、また正本堂破壊の大謗法、さらには学会破門の破和合僧の大罪は、全て日顕という一人の天魔の所為である。
その意味で日顕は大謗法を犯したゆえ、本来ならとっくに放逐されているはずであるが、宗門の自浄作用は失われ、一山全土が魔窟と化したゆえに、「法体の血脈」は「魔の血脈」として、現在の日如に継がれているのである。
3.「仏法上の師匠」とは〝自ら魔を下し、魔と戦う生き方を示す人〟
最蓮房御返事(一三四〇㌻)にいわく、
「予(よ)日本の体(てい)を見るに第六天の魔王智者の身に入りて正師を邪師となし善師を悪師となす、経に『悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)』とは是なり、日蓮智者に非ずと雖も第六天の魔王・我が身に入らんとするに兼(かね)ての用心深ければ身によせつけず、故に天魔力及ばずして・王臣を始(はじめ)として良観等(りょうかんら)の愚癡(ぐち)の法師原(ほっしばら)に取り付いて日蓮をあだむなり、然(しか)るに今時(いまどき)は師に於て正師・邪師・善師・悪師の不同ある事を知つて邪悪の師を遠離(おんり)し正善の師に親近(しんごん)すべきなり、設(たと)い徳は四海に斉(あまね)く智慧は日月に同(おなじ)くとも法華経を誹謗するの師をば悪師邪師と知つて是に親近すべからざる者なり」
(私が日本の有り様を見ると、第六天の魔王が智者の身に入って正師を邪師となし、善師を悪師となしている。法華経に「悪鬼其(そ)の身に入る」と説かれているのは、このことである。
日蓮は智者ではないけれども、第六天の魔王が、私の身に入ろうとしても、かねてからの用心が深いので身に寄せつけない。ゆえに天魔は力及ばずに、今度は、王や臣下をはじめとして良観等の愚かな法師どもに取りついて、日蓮に敵対するのである。
したがって、今の時代は、師匠には正師と邪師、善師と悪師の違いがあることを知って、邪悪の師を遠ざけ、正善の師に近づくべきである。たとえ徳は全世界に行きわたり、智慧は日月のように輝いていたとしても、法華経を誹謗する師については、悪師であり邪師であると知って、これに近づくべきではない)
① 第六天の魔王に勝ってこそ真の善師
誤った指導者につくほどの不幸はありません。師匠には「正師」と「邪師」、あるいは「善師」と「悪師」があり、それを見極めていかなければならないと、大聖人は仰せです。
ここで大聖人が強調されているのは、悪縁・悪知識の恐ろしさです。悪縁によって、生命の根本的迷いである無明が発動すると、私たちの貪瞋癡(とんじんち)の生命が強くなり、正しき価値判断が曇り、生命は迷いと悪と不幸の流転(るてん)を始めます。
本抄では、悪人に近づき親しめば、自然に十度のうち二度、三度とその教えに従ってしまい、ついには悪人になってしまう、とも誡(いまし)められています。
それほど、邪師・悪師は巧妙で、恐ろしいのです。だからこそ、正師・善師と共に、断固として「悪と戦う」実践が成仏への不可欠の実践となるのです。
悪縁・悪知識の最たるものが邪師・悪師です。仏法の中にありながら、仏法を破壊し、民衆を不幸にしていく師子身中の虫だからです。
大聖人は、邪師・悪師が存在するのは「悪鬼入其身」のゆえであると仰せです。すなわち、第六天の魔王が悪師の身に入り、狂わせるのです。第六天の魔王が身に入るとは、自身の元品(がんぽん)の無明(むみょう)が発動することにほかなりません。
元品の無明とは、正法への根源的な無知であり、不信です。大聖人の時代でいえば極楽寺良観です。この無明が発動するのは、邪法に執着し、名聞名利に囚われるゆえに、信が曇り、行が弱まり、仏力・法力が感じられなくなるからです。
本抄では、悪鬼入其身の原理から、第六天の魔王は、智者であろうとも、その身に入ると教えられています。そして、第六天の魔王は、大聖人の御身にまで入ろうとした、とも述べられています。
これは、大宇宙に瀰慢(びまん)する魔性を決して侮ってはならないことを教えられていると拝されます。
しかし、大聖人は「兼ての用心深ければ身によせつけず、故に天魔力及ばず」と仰せのように、第六天の魔王をよせつけられませんでした。「兼ての用心」とは障魔(しょうま)を覚悟し、必ず勝ち越えていこうとの誓願を立てられ、貫いてこられたということです。
決定(けつじょう)した一念があれば、必ず魔を破ることができることを教えられているのです。
(「希望の経典『御書』に学ぶⅠ」池田名誉会長 2011年9月12日発行 聖教新聞社)
② 「正善の師」の要件とは
では「正善の師」とは誰か。「正善の師」たる要件とは何か。
大聖人の基準は明快であられる。それは三類の強敵と戦い、身命を惜しまず妙法を唱え、弘めている人です。民衆を守るために悪と戦っていける人こそ、正しき師匠です。
大聖人は本抄で、結局、第六天の魔王を打ち破っていけるかどうかが、善師と悪師を分ける決定的な基準であることを明かされています。
自ら魔を下し、魔と戦う生き方を示すのが仏法の師匠です。魔性を自ら打ち破るとともに、魔性を勝ち越えていく道を万人に教え、伝えていく人こそが、真の仏法上の「師匠」の存在です。
反対に、表面的には、いかに徳や智慧があるように見えても、容易に魔の軍門に下る者たちは、結局、正法を誹謗し、法華経の行者に敵対して、仏法を破壊してしまう。
大聖人は「難を受けていない格好だけの者は、ことごとく邪(よこしま)な師である。難を受け切ってきた日蓮こそが正義の師である」(御書一三四二㌻)と厳然と宣言されています。
障魔を勝ち越えて、我が身に「法」を体現するからこそ、我が身の振る舞いを通して「民衆」と「法」を直結させる「正善の師」たりうるのです。
所持する法の正しさにおいて「正師」であり、民衆に法を伝え、抜苦与楽の善を与える慈悲において「善師」であるとも言えるでしょう。
ここで本抄に拝することのできる「正善の師」の要件として、次の三点を確認しておきたい。
第一に、人間の根本悪である魔性を見破り、根本善である妙法を説きあらわす「智慧の人」であること。
第二に、決して魔性に誑(たぶら)かされることなく仏法の正義に生き続け、悪とは敢然と戦い続ける「勇気の人」であること。
第三に、民衆への抜苦与楽を常に配慮し、自他共の幸福を実現するために行動し続ける「慈悲の人」であること。
この正師・善師を知り、巡り合ったならば、あとは弟子として、なすべきことはただ一点です。正善の師とともに立ち上がって、真剣に、広宣流布のために貢献していくことです。また、広布を妨げる悪とは厳然と戦い続けていくことです。
大聖人が最蓮房にあてられた御書を拝すれば、ともに広宣流布に戦おうと呼びかけておられる一節が多いことに気付きます。
弟子が師の呼びかけのとおりに広宣流布に立ち上がり、生命の勝利を勝ち取っていけば、師弟は不二となります。師弟の生命は共鳴し合い、弟子の生命にも仏力・法力が脈動するのです。
師と共に戦う広布共戦の師弟の道以外に成仏の道はありません。
(同)
「仏法上の師匠」とは、「正善の師」の要件である〝魔性を見破り、悪と戦い続け、行動する〟人であり、正しく学会の三代の師匠を指すのである。
4.御本尊誹謗の日顕・日如は「悪師邪師」
「設(たと)い徳は四海に斉(あまね)く智慧は日月に同(おなじ)くとも法華経を誹謗するの師をば悪師邪師と知つて是に親近すべからざる者なり」(前出『最蓮房御返事』)
日顕・日如は、宗門信徒に「御法主上人」と呼ばせて「正師」「善師」を装うとも、法華経(学会授与の日寛上人御書写の御本尊)を「ニセ本尊」と誹謗する「悪師」「邪師」であり、これに近付いてはならないのである。
新池御書(一四四一㌻)にいわく、
「在家の俗男・俗女等よりも邪智心の法師ばらは殊の外の御敵なり、智慧に於ても正智あり邪智あり智慧ありとも其の邪義には随ふべからず、貴僧・高僧には依るべからず、賤き者なりとも此の経の謂れを知りたらんものをば生身の如来のごとくに礼拝供養すべし是れ経文なり」
(在家の俗男・俗女等よりも邪智心の僧達はとくに御敵である。智慧にも正智があり、邪智がある。智慧があっても、その邪義には随ってはならない。貴い僧とか高名な僧であるからということに依ってはならない。賎しい者であっても、この経の意味を知っている者を生身の仏のように礼拝供養すべきである。これは経文に説かれていることである)
(了)
妄説:44 「創価学会こそ現代における唯一の『信心の血脈』を受け継ぐ和合僧団である」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当でしょうか。
かつて創価学会では
「『総じて日蓮が弟子檀那等(中略)異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処(ところ)を生死一大事の血脈とは云うなり』の御文は、別しての『法体の血脈』を大前提として、総じての『信心の血脈』について述べられたものである」(学講 三〇上-五九頁)
と正しい法義に準じた説明をしていました。
この説明にもあるように「信心の血脈」とは、あくまでも、別しての法体の血脈相承を受けられている御法主上人への信順なくして流れ通うものではありません。
御法主上人を仏法上の師匠と仰ぎ、師弟相対して大御本尊を信受するところに信心の血脈も流れ通うのです。
ところが現在の学会は、法体の血脈を否定し、御法主上人に敵対しているために、「信心の血脈」を破壊する破和合僧団になり下がったのです。
破折:
1.日興上人は法主の「無謬」を否定
宗門の言う「法体の血脈」とは、前回(「妄説:43」)に記される「日蓮大聖人の御内証(ないしょう)と戒壇の大御本尊は代々の御法主上人お一人に『法体相承』されているのです」と同義と思われる。
そうすると、法主は「日蓮大聖人の御内証」を受け継ぐゆえ、無謬(=誤りが無い)と言うことになる。しかし、それは日興上人によって否定されている。
① 「一、時の貫首(かんず)為(た)りと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」
日顕自身が、法主に間違いがあったときの僧侶の反抗を認めた発言をしている。
◇
日興上人様が……法主が間違っているところは、その法主の間違ったことに対して大衆は従ってならないという御指南があるとおりです。従ってはならないということは、消極的ではあるけれども一つの反抗をするわけですから、その反抗の姿を見て、私なら私の立場において、自分が間違っていたように思うこともあると思います。
(『大日蓮』平成3年1月号)
大聖人様の御指南の上から照らしてみても、もし自分が間違っておることを何人かが指摘して注意してくれたならば、はっきりと改めるべきである。……私自身も、もし私の行為・行動に対して誤りを指摘してくださる方があるならば、それを大聖人様の教えに照らして考えた上で、誤りと自分が解れば直ちに改めるつもりであります。また、その方に深くお礼を申し上げたいと思います。
(『大日蓮』63年9月号)
日顕自ら、法主無謬論を否定した説法をしているのである。「法体の血脈」の御説には具合が悪いはずであるが。
「歴代の猊下だって、人間だからいろんな不備もあるし悪い面もある」(五十九世堀日亨法主)
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
法主無謬など、あるわけないのであり、それが道理である。
日顕の誤りにつき学会から指摘をしたはずであるが、何ゆえ説法したように「間違っていた」と、素直に改めようとしないのか。日顕から「深くお礼」を言われた記憶も無い。在家から言われると、正論であるほど余計に腹が立つのか。
② 「一、先師の如く予(よ)が化儀も聖僧為(た)る可し、但し時の貫首(かんず)或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も衆徒に差置く可き事」
日顕がシアトルで破廉恥事件を起こしたことは、当時の宗門に知れ渡っていた。
◇
私が耳にしたのは、事件から一か月経った時だった。
三十八年四月下旬、日顕が出張御授戒から帰国して初めての年表委員会が本山で開かれた。三日間の会議を終え、解散下山になったが、私は菅野慈雲氏とともに、彼の宿坊の本住坊に泊まることになった。その時、彼が「慈済さん知ってるかい?」と切り出したのが、事件のことである。
「教学部長が、アメリカで事件を起こして、大失敗したそうだよ!」
常日頃、日顕から頭ごなしに言われていたこともあって、この時とばかりに慈雲氏は私に告げたのであった。
(前出「日蓮正宗〝落日の真因〟」)
菅野慈雲(日達法主の娘婿)が日顕の行状を話題にしたわけは、〝僧侶にあるまじき行為〟と眉をひそめたためでは決して無い。警察沙汰となり、本山に露顕したために〝へまをやった馬鹿な奴〟との冷笑だったのである。
◇
宗内僧侶のシアトル事件に関する印象は、一種、独特のものであった。彼らは買春をしたことについては驚かない。ほとんどの僧侶は若いときから風俗で遊んでいる。これは決して悪いこととは思われていない。なぜなら、宗門では昔から「飲む、打つ(賭博)、買う(買春)をこなせば一人前だ」と言われていたからだ。だから、酒が強く、よく遊ぶ者は回りから一目を置かれていた。
また、海外部が出来、海外へ頻繁に出張するようになってからは、出張した者が買春することも珍しい話ではない。彼らにとっては買春することは特別なことではない。いわゆる〝男の甲斐性〟だと考えられている。スペインに駐在していた山田や海外部の中本が買春していたことも暗黙の了解の上である。問題はそれが〝ばれるか、ばれないか〟だ。ばれたら、〝あいつは馬鹿だ〟と言われるだけである。
ただ、当時は海外旅行そのものが珍しい時代であった。言葉も通じず事情がわからないだけでなく、栄えある第一回の海外出張御授戒という緊張した中で、果たして買春することができたのだろうかと、宗内の僧侶は疑念を抱いていたのである。しかし、日顕と同世代の住職たちは〝あいつなら、やりかねない〟という確信に近い気持ちを持っていた。なぜなら、日顕の〝女好き〟は若い頃から、尋常でなかったからだ。
(「実録小説 大石寺・大坊物語」青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)
いつから大石寺はこれほど頽廃してしまったのか、その根源は五十六世大石日応法主の妻帯以来、宗門僧侶が「聖僧」であることを放擲したことに尽きる。
五十九世堀日亨法主は、日興上人の御遺誡が死文となったことを慨嘆して、次の通り記している。
◇
この条の見とおしは、凡僧の自分にはつきかぬる。なるべくは、一時的の現今の僧分の弊風とみて、その内自然に振粛して、宗祖開山時代の常態に帰るべきを祈るものである。(中略)
開山上人がこの法度に「先師の如く聖僧たるべし」と定められ、先師大聖人が無戒であるが、放埒破戒でないことを、証明せられており、日順・日尊にもまた放埒を誡めた文もあるが、この淑行聖僧というのは、現今の在家同然の僧行を認めたものでない。ややもすれば、多少の反省心より汚行を恥づる有羞僧を見て、かえって身心相応せぬ虚偽漢と罵り、全分の生活まったく在家同然で、心意またこれに相応し、たんに袈裟衣を着てるだけの違いを、かえって偽らざる正直の僧侶と自負する者があるやに聞く。このていの放埒ぶりを標準とせば、この条目はいまは死んでおる。自分はいまの状態は一時の変体と見ておる。
(『富士日興上人詳伝』 五十九世堀日亨法主著)
日亨師には残念ながら、前述の条目だけで無く、宗門自体が「死んでしまった」のであり、よって「一時の変体」では無い、「永久の変態(!)」となったのである。
2.〝謗法の法主は放逐すべし〟
大石寺六世日時は、日興上人の教えとして次のような話を伝える。
「仰セに云く日興上人の常の御利口に仰セられけりとなん、予が老耄して念佛など申さば相構エて諫むべきなり、其レも叶はずんば捨つべきなり」
(「大石記」『富士宗学要集』昭和十一年刊)
この話をもとに、日顕は次の通り説法している。
◇
まー、私が南無阿弥陀仏をこれから一緒に唱えようって言ったら皆さんどうする? 絶対、用いない、そんなことは、皆さん方がね。うん。そりゃそうだ。それじゃー、それで放逐するかどうか。まー、南無阿弥陀仏と私が唱えだしたら放逐するだろうね。絶対に放逐しなきゃいかんよ! そんなことしたら。ねっ。
(全国教師講習会 平成四年八月二十八日 大石寺)
法主も謗法を犯す可能性もあるということを、日顕みずからが示したことであり、さらに謗法を犯した場合、放逐すべきことを断言したのである。
◇
「大石記」には第六世日時上人が、この日興上人の話に続いて次のように語られたことが記録されている。
「而るに日代は数通の御譲リ状を持チたりという云へども既に迹門得道の上は爭テか言ふに足るべけんや、其ノ上付法の旨は其ノ證拠をば上々の御事なり、此ノ方にも上人の御筆を載せたるなり其ノ支證は上々の御事なり、先づ迹門得道と云ひ多クの謗法之レ有ル上は沙汰の限リに非ラず」
日興上人の晩年に、日代は若くして重須の坊を委ねられたが、日興上人御遷化後、その大任を果たすことができず、みずから重須を出ることになった。そして、日代はとうとう重須に帰ることができず、西山本門寺を開くこととなったのである。「大石記」は、この日代が「数通の御譲リ状」を持っているとはいっても、「迹門得道と云ひ多クの謗法之レ有ル上は沙汰の限リに非ラず」との、日時上人の言葉を伝えている。
譲状や法の付嘱などがあっても、謗法があればそれらは無意味であると、日時上人は話されているのである。日顕上人についても同じことがいえる。謗法を犯した日顕上人は、すでに法主としての資格を失っているのだ。
(「地涌」第276号 1991年10月3日)
「御譲リ状」とか、法の付嘱を受けた云云などは、謗法を犯せば何にもならないのである。大御本尊誹謗、また正本堂破壊の大謗法、さらには学会破門の破和合僧の大罪は、全て日顕という一人の天魔の所為である。
その意味で日顕は大謗法を犯したゆえ、本来ならとっくに放逐されているはずであるが、宗門の自浄作用は失われ、一山全土が魔窟と化したゆえに、「法体の血脈」は「魔の血脈」として、現在の日如に継がれているのである。
3.「仏法上の師匠」とは〝自ら魔を下し、魔と戦う生き方を示す人〟
最蓮房御返事(一三四〇㌻)にいわく、
「予(よ)日本の体(てい)を見るに第六天の魔王智者の身に入りて正師を邪師となし善師を悪師となす、経に『悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)』とは是なり、日蓮智者に非ずと雖も第六天の魔王・我が身に入らんとするに兼(かね)ての用心深ければ身によせつけず、故に天魔力及ばずして・王臣を始(はじめ)として良観等(りょうかんら)の愚癡(ぐち)の法師原(ほっしばら)に取り付いて日蓮をあだむなり、然(しか)るに今時(いまどき)は師に於て正師・邪師・善師・悪師の不同ある事を知つて邪悪の師を遠離(おんり)し正善の師に親近(しんごん)すべきなり、設(たと)い徳は四海に斉(あまね)く智慧は日月に同(おなじ)くとも法華経を誹謗するの師をば悪師邪師と知つて是に親近すべからざる者なり」
(私が日本の有り様を見ると、第六天の魔王が智者の身に入って正師を邪師となし、善師を悪師となしている。法華経に「悪鬼其(そ)の身に入る」と説かれているのは、このことである。
日蓮は智者ではないけれども、第六天の魔王が、私の身に入ろうとしても、かねてからの用心が深いので身に寄せつけない。ゆえに天魔は力及ばずに、今度は、王や臣下をはじめとして良観等の愚かな法師どもに取りついて、日蓮に敵対するのである。
したがって、今の時代は、師匠には正師と邪師、善師と悪師の違いがあることを知って、邪悪の師を遠ざけ、正善の師に近づくべきである。たとえ徳は全世界に行きわたり、智慧は日月のように輝いていたとしても、法華経を誹謗する師については、悪師であり邪師であると知って、これに近づくべきではない)
① 第六天の魔王に勝ってこそ真の善師
誤った指導者につくほどの不幸はありません。師匠には「正師」と「邪師」、あるいは「善師」と「悪師」があり、それを見極めていかなければならないと、大聖人は仰せです。
ここで大聖人が強調されているのは、悪縁・悪知識の恐ろしさです。悪縁によって、生命の根本的迷いである無明が発動すると、私たちの貪瞋癡(とんじんち)の生命が強くなり、正しき価値判断が曇り、生命は迷いと悪と不幸の流転(るてん)を始めます。
本抄では、悪人に近づき親しめば、自然に十度のうち二度、三度とその教えに従ってしまい、ついには悪人になってしまう、とも誡(いまし)められています。
それほど、邪師・悪師は巧妙で、恐ろしいのです。だからこそ、正師・善師と共に、断固として「悪と戦う」実践が成仏への不可欠の実践となるのです。
悪縁・悪知識の最たるものが邪師・悪師です。仏法の中にありながら、仏法を破壊し、民衆を不幸にしていく師子身中の虫だからです。
大聖人は、邪師・悪師が存在するのは「悪鬼入其身」のゆえであると仰せです。すなわち、第六天の魔王が悪師の身に入り、狂わせるのです。第六天の魔王が身に入るとは、自身の元品(がんぽん)の無明(むみょう)が発動することにほかなりません。
元品の無明とは、正法への根源的な無知であり、不信です。大聖人の時代でいえば極楽寺良観です。この無明が発動するのは、邪法に執着し、名聞名利に囚われるゆえに、信が曇り、行が弱まり、仏力・法力が感じられなくなるからです。
本抄では、悪鬼入其身の原理から、第六天の魔王は、智者であろうとも、その身に入ると教えられています。そして、第六天の魔王は、大聖人の御身にまで入ろうとした、とも述べられています。
これは、大宇宙に瀰慢(びまん)する魔性を決して侮ってはならないことを教えられていると拝されます。
しかし、大聖人は「兼ての用心深ければ身によせつけず、故に天魔力及ばず」と仰せのように、第六天の魔王をよせつけられませんでした。「兼ての用心」とは障魔(しょうま)を覚悟し、必ず勝ち越えていこうとの誓願を立てられ、貫いてこられたということです。
決定(けつじょう)した一念があれば、必ず魔を破ることができることを教えられているのです。
(「希望の経典『御書』に学ぶⅠ」池田名誉会長 2011年9月12日発行 聖教新聞社)
② 「正善の師」の要件とは
では「正善の師」とは誰か。「正善の師」たる要件とは何か。
大聖人の基準は明快であられる。それは三類の強敵と戦い、身命を惜しまず妙法を唱え、弘めている人です。民衆を守るために悪と戦っていける人こそ、正しき師匠です。
大聖人は本抄で、結局、第六天の魔王を打ち破っていけるかどうかが、善師と悪師を分ける決定的な基準であることを明かされています。
自ら魔を下し、魔と戦う生き方を示すのが仏法の師匠です。魔性を自ら打ち破るとともに、魔性を勝ち越えていく道を万人に教え、伝えていく人こそが、真の仏法上の「師匠」の存在です。
反対に、表面的には、いかに徳や智慧があるように見えても、容易に魔の軍門に下る者たちは、結局、正法を誹謗し、法華経の行者に敵対して、仏法を破壊してしまう。
大聖人は「難を受けていない格好だけの者は、ことごとく邪(よこしま)な師である。難を受け切ってきた日蓮こそが正義の師である」(御書一三四二㌻)と厳然と宣言されています。
障魔を勝ち越えて、我が身に「法」を体現するからこそ、我が身の振る舞いを通して「民衆」と「法」を直結させる「正善の師」たりうるのです。
所持する法の正しさにおいて「正師」であり、民衆に法を伝え、抜苦与楽の善を与える慈悲において「善師」であるとも言えるでしょう。
ここで本抄に拝することのできる「正善の師」の要件として、次の三点を確認しておきたい。
第一に、人間の根本悪である魔性を見破り、根本善である妙法を説きあらわす「智慧の人」であること。
第二に、決して魔性に誑(たぶら)かされることなく仏法の正義に生き続け、悪とは敢然と戦い続ける「勇気の人」であること。
第三に、民衆への抜苦与楽を常に配慮し、自他共の幸福を実現するために行動し続ける「慈悲の人」であること。
この正師・善師を知り、巡り合ったならば、あとは弟子として、なすべきことはただ一点です。正善の師とともに立ち上がって、真剣に、広宣流布のために貢献していくことです。また、広布を妨げる悪とは厳然と戦い続けていくことです。
大聖人が最蓮房にあてられた御書を拝すれば、ともに広宣流布に戦おうと呼びかけておられる一節が多いことに気付きます。
弟子が師の呼びかけのとおりに広宣流布に立ち上がり、生命の勝利を勝ち取っていけば、師弟は不二となります。師弟の生命は共鳴し合い、弟子の生命にも仏力・法力が脈動するのです。
師と共に戦う広布共戦の師弟の道以外に成仏の道はありません。
(同)
「仏法上の師匠」とは、「正善の師」の要件である〝魔性を見破り、悪と戦い続け、行動する〟人であり、正しく学会の三代の師匠を指すのである。
4.御本尊誹謗の日顕・日如は「悪師邪師」
「設(たと)い徳は四海に斉(あまね)く智慧は日月に同(おなじ)くとも法華経を誹謗するの師をば悪師邪師と知つて是に親近すべからざる者なり」(前出『最蓮房御返事』)
日顕・日如は、宗門信徒に「御法主上人」と呼ばせて「正師」「善師」を装うとも、法華経(学会授与の日寛上人御書写の御本尊)を「ニセ本尊」と誹謗する「悪師」「邪師」であり、これに近付いてはならないのである。
新池御書(一四四一㌻)にいわく、
「在家の俗男・俗女等よりも邪智心の法師ばらは殊の外の御敵なり、智慧に於ても正智あり邪智あり智慧ありとも其の邪義には随ふべからず、貴僧・高僧には依るべからず、賤き者なりとも此の経の謂れを知りたらんものをば生身の如来のごとくに礼拝供養すべし是れ経文なり」
(在家の俗男・俗女等よりも邪智心の僧達はとくに御敵である。智慧にも正智があり、邪智がある。智慧があっても、その邪義には随ってはならない。貴い僧とか高名な僧であるからということに依ってはならない。賎しい者であっても、この経の意味を知っている者を生身の仏のように礼拝供養すべきである。これは経文に説かれていることである)
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №41~50
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:43」を破折する 連載57回
妄説:43 学会では「信心唱題によってのみ法体の血脈を受けるのであって、決して法主一人に法体が伝わるわけではない。法体の血脈なるものが法主のみと説くのは邪義」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、そうなのでしょうか。
これこそ、創価学会の指導が一貫していない見本であり、明らかな邪義です。
学会は『生死一大事血脈抄』の講義で、「ここで心すべきことは血脈には別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、明確に立て分けなければならないことである。すなわち、法体の血脈についていえば、久遠元初の自受用報身如来の再誕たる日蓮大聖人の御生命こそが、生死一大事血脈の究極であられ、その大聖人の御生命をそのまま移された法体が南無妙法蓮華経の大御本尊である。その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである」(学講 三〇上-五八頁)と述べていますが、この池田氏の言葉は間違っていたのでしょうか。
第五十六世日応上人は、
『弁惑観心抄』に「法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是れなり(中略)此の法体相承を受くるに付き尚(なお)唯授一人金口(こんく)嫡々相承なるものあり」(同書 212頁)
と仰せのように、日蓮大聖人の御内証(ないしょう)と戒壇の大御本尊は代々の御法主上人お一人に「法体相承」されているのです。
破折:
1. 破器・汚器の法主は論外
講義録の記載が現状に一致しないからと言って、宗門が学会を詰(なじ)るにはあたらない。法主として〝論外の者〟〝器(うつわ)でない者〟までを、学会が保証することはできないからである。そのことは五十九世堀日亨法主が「破器・汚器の者であれば、猊下と雖も何にもならん」と言った通りである(詳細は後述)。
このことを御書の仰せに基づき、日顕を例証に取って述べる。
秋元御書(一〇七一㌻)にいわく、
「器に四(よつ)の失(とが)あり・一には覆(ふく)と申してうつぶけるなり・又はくつがへす又は蓋をおほふなり、二には漏(ろ)と申して水もるなり、三には汙(う)と申して・けがれたるなり水浄けれども糞(ふん)の入りたる器の水をば用ゆる事なし、四には雑(ぞう)なり・飯に或は糞或は石或は沙或は土なんどを雑(まじ)へぬれば人食(くら)ふ事なし」
第一の「覆(ふく)」とは、くつがえる、おおうの意で、正法に対して心を閉じ、受け入れないことをいう。
日顕は元来、御本尊を信じていない。
◇
日寛上人書写の御本尊を誹謗する日顕は、絶大な妙法の力用を疑っているのである。事実、東京・八王子の平山広篤(広妙寺)が昭和六十一年六月十三日、御講で、日顕の不信謗法を暴露した。
「(日顕に)私が『信心してきて一番苦しんだことは何ですか?』と質問した。
すると『なかなか御本尊を信ずることができなかったことだ。今でも本当に信ずることができないでいる』と仰せられた」
この平山の話を聞いた婦人は強い衝撃を受けて日記に記していた。
この一事が日顕の正体を物語る。御本尊の仏力、法力を信じていないからこそ、日寛上人の御本尊に平気で難癖をつける。
(「フェイク」第1058号 2009年10月4日)
日顕は御本尊を信ずることができない。ゆえに「戒旦の御本尊のは偽物である。種々方法の筆跡鑑定の結果解(わか)った。(字画判定)」(昭和五十三年二月七日、東京の帝国ホテルで日顕が河辺慈篤と会った時の発言メモ)と、不遜にも大御本尊を筆跡鑑定にかけ、否定し去ったのである。
宗旨の根幹・大御本尊を信じない僧侶が、法主の器であろうか。
第二の「漏(ろ)」とは、もれるの意で、水を入れても漏れてしまい、いつまでもいっぱいにならない。つまり中途で退転したり、怠ったりすることをいう。
宗門初の海外出張御授戒という重責にありながら、現地で売春婦と行為に及び、警察沙汰となった日顕の行為は、広宣流布という大事を等閑(なおざり)にして、欲望の赴くままに行動し、目的を達成しない「漏」にあたる。
第三の「汙(う)」とは、けがれ・よごれるの意で、心のよごれによって、正法を聞いても汚してしまうことをいう。
自己の醜い名誉欲や権勢欲を満たすため、猊座を盗み取った行為は、「汙」に相当する。日顕から、何事であろうと受け継げば、その糞(謗法)まで飲み込むこととなる。
第四の「雑(ぞう)」とは、まじるの意で、正法正義に邪義をまじえることをいう。また表向きは妙法を受持していると言いながら、心は他宗の教義・思想などに堕しているような場合も、この「雑」にあたる。
これは、十七世日精のことである。今に至るまで宗門に謗法が充満しているのは、要法寺の邪義に心を奪われ、造仏義を本山にもたらした、この謗法法主を淵源とする。
そしてやはり、日顕である。禅寺に先祖の墓を建立する大謗法を犯した。また日顕は十七世日精を再評価しているが、それは「歴代上人は無謬だ」との妄説を立てるゆえであり、日顕は日精の与同罪である。
2.「猊下とは、法の取継に過ぎない」
あらためて日亨法主の言葉を、宗門は心して拝聴すべきである。
◇
英師は「私は相伝者に非ず。相承の取継(とりつぎ)番人にすぎぬ」と言ったが、誠に偉いものである。
口伝なるものは、完器にして初めて可能なんじゃよ。破器・汚器の者であれば、猊下と雖も何にもならんということに気がつかないんだから困ったもんじゃ。おかしくって。猊下というもの、法の取継ぎに過ぎんのだよ。
嘘をつく者、如才のない者は論外だよ。だけどな、いずれそのうち、平僧や信徒を迫害しぬく猊下も出てくることだろうよ。
(『亨師談聴聞記』昭和二十六年夏 大橋慈譲記録)
英師とは、五十一世日英である。日英の言葉には、法主の〝役割〟を遵守する謙虚な心が窺えるのであり、日顕が法主の地位を〝権能〟と捉えるのとは、大違いである。
「平僧や信徒を迫害しぬく猊下も出てくる」とあるのは、〝権能〟だけを振り回す法主が現出すると予見した言葉であったが、それは三十年も経たないうちに現実のものとなった。
日亨師の予見は、いささかも誇張したものでは無かった。次の実録小説は、得度したばかりの中学一年生の所化が、日顕の実の姿を初めて見たときの光景である。
3.〝平僧や信徒を迫害しぬく猊下〟
いよいよ中一たちの大坊生活が始まった。地獄の一日目を誰よりも早く迎えたのが、横山と吉田だった。番役は同じ部屋の者同士でやることになっている。二人の初めての番役は十日に一度の丑寅番だ。深夜二時、横山たちは白衣を着る。そして、緊張した面持ちで中二の先輩の後について部屋を出て、一夜番の住職が待つ内事部前の「茶の間」に集合した。各学年二人ずつの丑寅番の学生たちが全員がそろった段階で、薄暗い廊下を通って大奥に向かう。そして、大奥の階段の下で端座合掌をして日顕の〝お出まし〟を待つ。「端座合掌」とはしゃがんだ姿勢で合掌することをいう。大奥の対面所では畳に伏して合掌する。これが「伏拝」である。
日顕の〝お出まし〟を待つ間、横山たちは昼間に先輩から教えてもらった客殿までの道順を何度も頭の中で繰り返していた。
二時二十分、大奥のドアが開く音と「パタパタ」という日顕のスリッパの音が聞こえた。一気に学生たちに緊張が走る。
階段の上に待機していた御仲居と一夜番の住職の「おはようございます」との挨拶に「うん。おはよう」と日顕が答え、階段を降りて来る。御仲居は御講などの日には丑寅勤行に必ず出席するが、それ以外は出席しない。この日は新得度者のはじめての丑寅勤行なので出てきたのである。
その日の日顕は機嫌が良いように見えた。しかし、ここで安心してはいけない。日顕の〝お供〟という最初の難関が待ち構えている。
横山たちは練習通りに提灯を持って、日顕の先導を始めた。先導は青年得度の二人と中一の二人の計四人である。歩いている最中には決して、日顕の顔を見てはいけない。横目で日顕の歩くスピードをうかがい、その速さに合わせなければならない。
内事部に向かう長い廊下にさしかかった。ところが青年得度の歩くペースが少し早い。その瞬間、日顕の罵声が飛んだ。
「おい! きさま! そこのでかいの」
青年得度が驚いて立ち止まった。
「おまえだ! 早く歩きすぎるんだよ! 馬鹿野郎!」
青年得度は「は、はい!」と言って歩くペースを落としたが、動揺で提灯を持つ手が震えていた。
「この馬鹿小僧が! 気をつけろ!」
「ふふふ、小僧じゃないな、大僧だな。なあ、御仲居」
日顕が急に含み笑いをしながら言うと、「は、はい。そうですね」と御仲居が愛想笑いをしながら頭を下げている。
横山はショックを受けた。まさか、猊下が「貴様」とか「馬鹿野郎」などという言葉を使って、怒鳴るとは思ってもいなかったからだ。横山は父親が母親に「今の猊下は怒ったら怖い」と話しているのを聞いたことがあった。しかし、彼が想像していたのは学校の先生のように、理路整然と人を諭す厳しさだった。ところが目の前にいる猊下は自分が聞いたこともない汚い言葉で怒鳴っている。まるでやくざの親分みたいだと、横山は目を丸くしていた。
出仕太鼓の低い音が響く中、学生たちは怯えた表情で咳一つせずに日顕の後をついて客殿に向かう。日顕はときおり、御仲居に何か言い、そのたびに御仲居がおおげさに頭を下げながら答えている。
二時半ちょうど、日顕が鈴座に座った瞬間に出仕太鼓の最後の一打が大きく客殿に響いた。小僧たちは客殿の内陣に座り、合掌の姿勢を取る。客殿の座配は鈴座の日顕が東を向き、小僧たちと勤行に参加している信徒は御本尊に向かう。御本尊の両脇には日蓮大聖人と日興上人の御影が並び、三宝を顕す。すなわち、仏宝が日蓮大聖人、法宝が御本尊、僧宝が日興上人になる。法主は脇に控え、客分である信徒を三宝に取り次ぐという儀式である。そこには三宝と法主の立場の違い、そして三宝を格護しなければならないという歴代法主の役割がおのずと明らかになっている。
また、丑寅勤行とは法主が広宣流布成就を祈念する場であり、小僧たちはあくまでもそのお供であるから、一切、祈念してはならないと先輩から注意されていた。
日顕は丑寅勤行の間、ずっと東を向いているため、ちょうど目の前に小僧が見える。日顕は勤行の間、ひたすら小僧たちの様子を観察している。そして、丑寅勤行を終え、六壺で方便・自我偈の勤行の後、日顕はお供の小僧たちと大奥に戻る。
大奥の階段の前に着いた途端、日顕は小僧に向かって怒り始めた。小僧は全員しゃがみ込んで端座合掌をしている。
「お前は全然、口が動いていないじゃないか! 寝ていたんだろう!」
そう言いながら、日顕は中啓で中二の小僧の頭を叩き始める。「パン!」という大きな音が響いた。小僧は身を硬くしてうつむいている。
この「中啓」とは扇をたたんだ状態で、中ほどから末広がりに啓いて作られている扇を言う。中啓は室町時代に作られたと言われているが、宮中や公家が使い始め、次第に寺僧や武家に広まっていった。現在では、僧侶や神社の儀礼用扇として使われている。
日顕はこの中啓でいつも本山の小僧を叩く。所化小僧はこれを「中啓パンチ」と呼んでいたが、日顕はこれを自分で「中啓ミサイル」と名づけた。平成六年六月十六日に催された日恭法主五十回忌の目通りで、「私は丑寅勤行におかしな態度をしている所化小僧がいると、必ず怒るんだ。それでも言うことを聞かない奴は、この〝中啓ミサイル〟だ!」と言っている。
この日も日顕の中啓ミサイルが炸裂した。
「おい、こら! わかってるのか? 返事をしろ!」
その小僧は顔を上げて、「はい!」と答えた。すると日顕は「何で顔を上げるんだ!」と中啓でまた、その小僧の頭を叩く。日顕が許可するまで、小僧は顔を上げてはならない。勝手に顔を上げて日顕を見るのは恐れ多いことなのだ。
「この馬鹿小僧が!」そう言って、日顕は何度も中啓で小僧の頭を叩く。
「パン、パン、パン」と乾いた音が大奥の廊下にこだまする。
中啓ミサイルが終わったかと思うと、日顕は興奮した面持ちで、高校生の所化の方に歩み寄って怒鳴り始めた。小僧たちはしゃがんだまま、常に日顕に向かって合掌しなければならない。だから、日顕が左に動くと、全員、しゃがんで合掌したまま、左に身体を回す。
「今日の太鼓は誰だ!」
二人の高校生が「はい!」と答える。
「お前たちは、全然合ってないじゃないか!」
そう言って、日顕は二人の高校生の頭を交互に中啓で叩いた。
「おい、わかっているのか? こら!」
二人は下を向きながら神妙に「はい!」と答えているが、日顕は気がおさまらないというように中啓でまた叩き始め、「パン! パン!」と二回、大きな音が弾けた。
一瞬、なんとも言えない静けさが大奥の階段の下に広がった。小僧たちは恐怖で凍りついている。
「ふふふ、まあ、いい」
突然、豹変して日顕は含み笑いをした。一部始終を盗み見ていた横山は、その日顕の変わりように驚いた。「これが猊下なのか」
(「実録小説 大石寺・大坊物語」青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)
4.法主本仏論の再現
前述した通り日亨師は、法主の役割は「法の取継」にあると言った。しかし日顕宗が言う法主の「法体相承」と言うものは、意味合いがまるで違う。
「日蓮大聖人の御内証(ないしょう)と戒壇の大御本尊は代々の御法主上人お一人に『法体相承』されているのです」とあるのは、以下の文書と全く重なっている。
「日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ぎ其の次ぎに仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り信心異他なく尋便来帰咸使見之す、何ぞ末代の我等卅二相八十種好の仏に値ひ奉るべき、当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ」
(「類聚翰集私」第四項)
室町時代の十二世日鎮が数え年十四歳で登座した時、世話係の左京日教が出した指令である。「法主という地位にあるということは、すなわち日蓮大聖人の生まれ変わりであるゆえ、生身の御本尊と崇めよ〈趣旨〉」と言うのである。
これを良いように解釈して、〝子供なら将来の可能性がある、周囲で盛り立て、智徳の法主と成長するまでの、便宜・方便の説であろう〟と思うであろう。
だがそれは皮相的な面であり、左京日教の場合は、法主が誰であろうと同じことを言ったと推測される。すなわちこの魔僧の心中では、独自の「法主本尊論(法主本仏論)」が、すっかり出来上がっていたのである。
当然ながら、宗門最悪の前例を作ってしまったのであり、絶対に許されるものではない。手の施しようもない「破器・汚器の者」が法主として君臨するには、好都合この上ない理屈となる。
これは「歴代上人は、正師であろうと邪師であろうと、同じく日蓮大聖人の生まれ変わりである」とする、大誑惑(おうわく)の邪義である。大聖人の仏法を根底から破壊する、天魔の妄説である。
日顕宗が何百年ぶりかで、この「禁じ手」を開封したこと自体、日顕・日如が、いかに愚かしい「破器・汚器の者」であるか、如実に分かると言うものである。
5.完器と破器・汚器との格差
本当に相承を受けた法主(五十九世堀日亨法主)は当時を回想し、〝相承と言っても大したことはない〟と語っている。
◇
案の定、学問する者にとってはビックリするほどの内容もなく、大ミエを切って、これが相承であるぞというものではなかったよ。
(前出『亨師談聴聞記』)
ところが日顕は相承を受けていないからこそ、相承を過大に持ち上げる必要があったのである。
「学や徳がなくても、相承を受けた者はみな生身の釈迦日蓮になる」(平成九年 教師講習会)
との日顕の発言など、本当の法主(日亨師)から見れば、全く幼稚なものであり、「中身のない人間が虚勢を張る」ところの「戯言(たわごと)」でしかない、と知れるのである。
日亨師は登座後の心境を、次のように述べている。
「法階が進んで通称が変更したから従って人物も人格も向上したかどうか私には一向分明ません」
「慈琳が日亨と改名しても矢張り旧の慈琳の価値しかありませぬ事は確実であります」
法主が「日蓮大聖人の御内証」を相承する、などと言うのは、破器・汚器の法主を持ち上げるための〝戯言〟でしかない。日顕は「唯授一人血脈付法の代々の御法主上人」の器にあらず、その身に「法体の血脈」など、流れようもない。
「嘘をつく者、如才ない者は(法主として)論外だ」(日亨師)との言葉通り、日顕は法主の器としては〝論外中の論外〟なのである。
(引用:「法主詐称」第七章 血脈相承の本義 憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
(了)
妄説:43 学会では「信心唱題によってのみ法体の血脈を受けるのであって、決して法主一人に法体が伝わるわけではない。法体の血脈なるものが法主のみと説くのは邪義」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、そうなのでしょうか。
これこそ、創価学会の指導が一貫していない見本であり、明らかな邪義です。
学会は『生死一大事血脈抄』の講義で、「ここで心すべきことは血脈には別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、明確に立て分けなければならないことである。すなわち、法体の血脈についていえば、久遠元初の自受用報身如来の再誕たる日蓮大聖人の御生命こそが、生死一大事血脈の究極であられ、その大聖人の御生命をそのまま移された法体が南無妙法蓮華経の大御本尊である。その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである」(学講 三〇上-五八頁)と述べていますが、この池田氏の言葉は間違っていたのでしょうか。
第五十六世日応上人は、
『弁惑観心抄』に「法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是れなり(中略)此の法体相承を受くるに付き尚(なお)唯授一人金口(こんく)嫡々相承なるものあり」(同書 212頁)
と仰せのように、日蓮大聖人の御内証(ないしょう)と戒壇の大御本尊は代々の御法主上人お一人に「法体相承」されているのです。
破折:
1. 破器・汚器の法主は論外
講義録の記載が現状に一致しないからと言って、宗門が学会を詰(なじ)るにはあたらない。法主として〝論外の者〟〝器(うつわ)でない者〟までを、学会が保証することはできないからである。そのことは五十九世堀日亨法主が「破器・汚器の者であれば、猊下と雖も何にもならん」と言った通りである(詳細は後述)。
このことを御書の仰せに基づき、日顕を例証に取って述べる。
秋元御書(一〇七一㌻)にいわく、
「器に四(よつ)の失(とが)あり・一には覆(ふく)と申してうつぶけるなり・又はくつがへす又は蓋をおほふなり、二には漏(ろ)と申して水もるなり、三には汙(う)と申して・けがれたるなり水浄けれども糞(ふん)の入りたる器の水をば用ゆる事なし、四には雑(ぞう)なり・飯に或は糞或は石或は沙或は土なんどを雑(まじ)へぬれば人食(くら)ふ事なし」
第一の「覆(ふく)」とは、くつがえる、おおうの意で、正法に対して心を閉じ、受け入れないことをいう。
日顕は元来、御本尊を信じていない。
◇
日寛上人書写の御本尊を誹謗する日顕は、絶大な妙法の力用を疑っているのである。事実、東京・八王子の平山広篤(広妙寺)が昭和六十一年六月十三日、御講で、日顕の不信謗法を暴露した。
「(日顕に)私が『信心してきて一番苦しんだことは何ですか?』と質問した。
すると『なかなか御本尊を信ずることができなかったことだ。今でも本当に信ずることができないでいる』と仰せられた」
この平山の話を聞いた婦人は強い衝撃を受けて日記に記していた。
この一事が日顕の正体を物語る。御本尊の仏力、法力を信じていないからこそ、日寛上人の御本尊に平気で難癖をつける。
(「フェイク」第1058号 2009年10月4日)
日顕は御本尊を信ずることができない。ゆえに「戒旦の御本尊のは偽物である。種々方法の筆跡鑑定の結果解(わか)った。(字画判定)」(昭和五十三年二月七日、東京の帝国ホテルで日顕が河辺慈篤と会った時の発言メモ)と、不遜にも大御本尊を筆跡鑑定にかけ、否定し去ったのである。
宗旨の根幹・大御本尊を信じない僧侶が、法主の器であろうか。
第二の「漏(ろ)」とは、もれるの意で、水を入れても漏れてしまい、いつまでもいっぱいにならない。つまり中途で退転したり、怠ったりすることをいう。
宗門初の海外出張御授戒という重責にありながら、現地で売春婦と行為に及び、警察沙汰となった日顕の行為は、広宣流布という大事を等閑(なおざり)にして、欲望の赴くままに行動し、目的を達成しない「漏」にあたる。
第三の「汙(う)」とは、けがれ・よごれるの意で、心のよごれによって、正法を聞いても汚してしまうことをいう。
自己の醜い名誉欲や権勢欲を満たすため、猊座を盗み取った行為は、「汙」に相当する。日顕から、何事であろうと受け継げば、その糞(謗法)まで飲み込むこととなる。
第四の「雑(ぞう)」とは、まじるの意で、正法正義に邪義をまじえることをいう。また表向きは妙法を受持していると言いながら、心は他宗の教義・思想などに堕しているような場合も、この「雑」にあたる。
これは、十七世日精のことである。今に至るまで宗門に謗法が充満しているのは、要法寺の邪義に心を奪われ、造仏義を本山にもたらした、この謗法法主を淵源とする。
そしてやはり、日顕である。禅寺に先祖の墓を建立する大謗法を犯した。また日顕は十七世日精を再評価しているが、それは「歴代上人は無謬だ」との妄説を立てるゆえであり、日顕は日精の与同罪である。
2.「猊下とは、法の取継に過ぎない」
あらためて日亨法主の言葉を、宗門は心して拝聴すべきである。
◇
英師は「私は相伝者に非ず。相承の取継(とりつぎ)番人にすぎぬ」と言ったが、誠に偉いものである。
口伝なるものは、完器にして初めて可能なんじゃよ。破器・汚器の者であれば、猊下と雖も何にもならんということに気がつかないんだから困ったもんじゃ。おかしくって。猊下というもの、法の取継ぎに過ぎんのだよ。
嘘をつく者、如才のない者は論外だよ。だけどな、いずれそのうち、平僧や信徒を迫害しぬく猊下も出てくることだろうよ。
(『亨師談聴聞記』昭和二十六年夏 大橋慈譲記録)
英師とは、五十一世日英である。日英の言葉には、法主の〝役割〟を遵守する謙虚な心が窺えるのであり、日顕が法主の地位を〝権能〟と捉えるのとは、大違いである。
「平僧や信徒を迫害しぬく猊下も出てくる」とあるのは、〝権能〟だけを振り回す法主が現出すると予見した言葉であったが、それは三十年も経たないうちに現実のものとなった。
日亨師の予見は、いささかも誇張したものでは無かった。次の実録小説は、得度したばかりの中学一年生の所化が、日顕の実の姿を初めて見たときの光景である。
3.〝平僧や信徒を迫害しぬく猊下〟
いよいよ中一たちの大坊生活が始まった。地獄の一日目を誰よりも早く迎えたのが、横山と吉田だった。番役は同じ部屋の者同士でやることになっている。二人の初めての番役は十日に一度の丑寅番だ。深夜二時、横山たちは白衣を着る。そして、緊張した面持ちで中二の先輩の後について部屋を出て、一夜番の住職が待つ内事部前の「茶の間」に集合した。各学年二人ずつの丑寅番の学生たちが全員がそろった段階で、薄暗い廊下を通って大奥に向かう。そして、大奥の階段の下で端座合掌をして日顕の〝お出まし〟を待つ。「端座合掌」とはしゃがんだ姿勢で合掌することをいう。大奥の対面所では畳に伏して合掌する。これが「伏拝」である。
日顕の〝お出まし〟を待つ間、横山たちは昼間に先輩から教えてもらった客殿までの道順を何度も頭の中で繰り返していた。
二時二十分、大奥のドアが開く音と「パタパタ」という日顕のスリッパの音が聞こえた。一気に学生たちに緊張が走る。
階段の上に待機していた御仲居と一夜番の住職の「おはようございます」との挨拶に「うん。おはよう」と日顕が答え、階段を降りて来る。御仲居は御講などの日には丑寅勤行に必ず出席するが、それ以外は出席しない。この日は新得度者のはじめての丑寅勤行なので出てきたのである。
その日の日顕は機嫌が良いように見えた。しかし、ここで安心してはいけない。日顕の〝お供〟という最初の難関が待ち構えている。
横山たちは練習通りに提灯を持って、日顕の先導を始めた。先導は青年得度の二人と中一の二人の計四人である。歩いている最中には決して、日顕の顔を見てはいけない。横目で日顕の歩くスピードをうかがい、その速さに合わせなければならない。
内事部に向かう長い廊下にさしかかった。ところが青年得度の歩くペースが少し早い。その瞬間、日顕の罵声が飛んだ。
「おい! きさま! そこのでかいの」
青年得度が驚いて立ち止まった。
「おまえだ! 早く歩きすぎるんだよ! 馬鹿野郎!」
青年得度は「は、はい!」と言って歩くペースを落としたが、動揺で提灯を持つ手が震えていた。
「この馬鹿小僧が! 気をつけろ!」
「ふふふ、小僧じゃないな、大僧だな。なあ、御仲居」
日顕が急に含み笑いをしながら言うと、「は、はい。そうですね」と御仲居が愛想笑いをしながら頭を下げている。
横山はショックを受けた。まさか、猊下が「貴様」とか「馬鹿野郎」などという言葉を使って、怒鳴るとは思ってもいなかったからだ。横山は父親が母親に「今の猊下は怒ったら怖い」と話しているのを聞いたことがあった。しかし、彼が想像していたのは学校の先生のように、理路整然と人を諭す厳しさだった。ところが目の前にいる猊下は自分が聞いたこともない汚い言葉で怒鳴っている。まるでやくざの親分みたいだと、横山は目を丸くしていた。
出仕太鼓の低い音が響く中、学生たちは怯えた表情で咳一つせずに日顕の後をついて客殿に向かう。日顕はときおり、御仲居に何か言い、そのたびに御仲居がおおげさに頭を下げながら答えている。
二時半ちょうど、日顕が鈴座に座った瞬間に出仕太鼓の最後の一打が大きく客殿に響いた。小僧たちは客殿の内陣に座り、合掌の姿勢を取る。客殿の座配は鈴座の日顕が東を向き、小僧たちと勤行に参加している信徒は御本尊に向かう。御本尊の両脇には日蓮大聖人と日興上人の御影が並び、三宝を顕す。すなわち、仏宝が日蓮大聖人、法宝が御本尊、僧宝が日興上人になる。法主は脇に控え、客分である信徒を三宝に取り次ぐという儀式である。そこには三宝と法主の立場の違い、そして三宝を格護しなければならないという歴代法主の役割がおのずと明らかになっている。
また、丑寅勤行とは法主が広宣流布成就を祈念する場であり、小僧たちはあくまでもそのお供であるから、一切、祈念してはならないと先輩から注意されていた。
日顕は丑寅勤行の間、ずっと東を向いているため、ちょうど目の前に小僧が見える。日顕は勤行の間、ひたすら小僧たちの様子を観察している。そして、丑寅勤行を終え、六壺で方便・自我偈の勤行の後、日顕はお供の小僧たちと大奥に戻る。
大奥の階段の前に着いた途端、日顕は小僧に向かって怒り始めた。小僧は全員しゃがみ込んで端座合掌をしている。
「お前は全然、口が動いていないじゃないか! 寝ていたんだろう!」
そう言いながら、日顕は中啓で中二の小僧の頭を叩き始める。「パン!」という大きな音が響いた。小僧は身を硬くしてうつむいている。
この「中啓」とは扇をたたんだ状態で、中ほどから末広がりに啓いて作られている扇を言う。中啓は室町時代に作られたと言われているが、宮中や公家が使い始め、次第に寺僧や武家に広まっていった。現在では、僧侶や神社の儀礼用扇として使われている。
日顕はこの中啓でいつも本山の小僧を叩く。所化小僧はこれを「中啓パンチ」と呼んでいたが、日顕はこれを自分で「中啓ミサイル」と名づけた。平成六年六月十六日に催された日恭法主五十回忌の目通りで、「私は丑寅勤行におかしな態度をしている所化小僧がいると、必ず怒るんだ。それでも言うことを聞かない奴は、この〝中啓ミサイル〟だ!」と言っている。
この日も日顕の中啓ミサイルが炸裂した。
「おい、こら! わかってるのか? 返事をしろ!」
その小僧は顔を上げて、「はい!」と答えた。すると日顕は「何で顔を上げるんだ!」と中啓でまた、その小僧の頭を叩く。日顕が許可するまで、小僧は顔を上げてはならない。勝手に顔を上げて日顕を見るのは恐れ多いことなのだ。
「この馬鹿小僧が!」そう言って、日顕は何度も中啓で小僧の頭を叩く。
「パン、パン、パン」と乾いた音が大奥の廊下にこだまする。
中啓ミサイルが終わったかと思うと、日顕は興奮した面持ちで、高校生の所化の方に歩み寄って怒鳴り始めた。小僧たちはしゃがんだまま、常に日顕に向かって合掌しなければならない。だから、日顕が左に動くと、全員、しゃがんで合掌したまま、左に身体を回す。
「今日の太鼓は誰だ!」
二人の高校生が「はい!」と答える。
「お前たちは、全然合ってないじゃないか!」
そう言って、日顕は二人の高校生の頭を交互に中啓で叩いた。
「おい、わかっているのか? こら!」
二人は下を向きながら神妙に「はい!」と答えているが、日顕は気がおさまらないというように中啓でまた叩き始め、「パン! パン!」と二回、大きな音が弾けた。
一瞬、なんとも言えない静けさが大奥の階段の下に広がった。小僧たちは恐怖で凍りついている。
「ふふふ、まあ、いい」
突然、豹変して日顕は含み笑いをした。一部始終を盗み見ていた横山は、その日顕の変わりように驚いた。「これが猊下なのか」
(「実録小説 大石寺・大坊物語」青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)
4.法主本仏論の再現
前述した通り日亨師は、法主の役割は「法の取継」にあると言った。しかし日顕宗が言う法主の「法体相承」と言うものは、意味合いがまるで違う。
「日蓮大聖人の御内証(ないしょう)と戒壇の大御本尊は代々の御法主上人お一人に『法体相承』されているのです」とあるのは、以下の文書と全く重なっている。
「日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ぎ其の次ぎに仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り信心異他なく尋便来帰咸使見之す、何ぞ末代の我等卅二相八十種好の仏に値ひ奉るべき、当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ」
(「類聚翰集私」第四項)
室町時代の十二世日鎮が数え年十四歳で登座した時、世話係の左京日教が出した指令である。「法主という地位にあるということは、すなわち日蓮大聖人の生まれ変わりであるゆえ、生身の御本尊と崇めよ〈趣旨〉」と言うのである。
これを良いように解釈して、〝子供なら将来の可能性がある、周囲で盛り立て、智徳の法主と成長するまでの、便宜・方便の説であろう〟と思うであろう。
だがそれは皮相的な面であり、左京日教の場合は、法主が誰であろうと同じことを言ったと推測される。すなわちこの魔僧の心中では、独自の「法主本尊論(法主本仏論)」が、すっかり出来上がっていたのである。
当然ながら、宗門最悪の前例を作ってしまったのであり、絶対に許されるものではない。手の施しようもない「破器・汚器の者」が法主として君臨するには、好都合この上ない理屈となる。
これは「歴代上人は、正師であろうと邪師であろうと、同じく日蓮大聖人の生まれ変わりである」とする、大誑惑(おうわく)の邪義である。大聖人の仏法を根底から破壊する、天魔の妄説である。
日顕宗が何百年ぶりかで、この「禁じ手」を開封したこと自体、日顕・日如が、いかに愚かしい「破器・汚器の者」であるか、如実に分かると言うものである。
5.完器と破器・汚器との格差
本当に相承を受けた法主(五十九世堀日亨法主)は当時を回想し、〝相承と言っても大したことはない〟と語っている。
◇
案の定、学問する者にとってはビックリするほどの内容もなく、大ミエを切って、これが相承であるぞというものではなかったよ。
(前出『亨師談聴聞記』)
ところが日顕は相承を受けていないからこそ、相承を過大に持ち上げる必要があったのである。
「学や徳がなくても、相承を受けた者はみな生身の釈迦日蓮になる」(平成九年 教師講習会)
との日顕の発言など、本当の法主(日亨師)から見れば、全く幼稚なものであり、「中身のない人間が虚勢を張る」ところの「戯言(たわごと)」でしかない、と知れるのである。
日亨師は登座後の心境を、次のように述べている。
「法階が進んで通称が変更したから従って人物も人格も向上したかどうか私には一向分明ません」
「慈琳が日亨と改名しても矢張り旧の慈琳の価値しかありませぬ事は確実であります」
法主が「日蓮大聖人の御内証」を相承する、などと言うのは、破器・汚器の法主を持ち上げるための〝戯言〟でしかない。日顕は「唯授一人血脈付法の代々の御法主上人」の器にあらず、その身に「法体の血脈」など、流れようもない。
「嘘をつく者、如才ない者は(法主として)論外だ」(日亨師)との言葉通り、日顕は法主の器としては〝論外中の論外〟なのである。
(引用:「法主詐称」第七章 血脈相承の本義 憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
(了)
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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:42」を破折する 連載56回
妄説:42 唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈を否定して「御本尊根本」を唱えることは矛盾するのではありませんか。
そのとおり、矛盾しています。
なぜならば、『本因妙抄(ほんにんみょうしょう)』に「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)とお示しのように、唯授一人の血脈と御本尊の大事は一体不二なるものであって、これを分けて論ずることはできないからです。
総本山第五十六世日応上人も『弁惑観心抄』の中で「此の金口(こんく)嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能わず」(同書 212頁)
とも
「この金口の血脈こそ、宗祖の法魂を写し本尊の極意(ごくい)を伝ふるものなり。これを真の唯授一人と云ふ」(同書 219頁)と仰せのように、御本尊は宗祖大聖人の法魂であり、その法魂を唯授一人の相承によって写し奉るものですから、唯授一人の血脈を否定する者は、御本尊をも否定することになるのです。
「唯授一人の相承」なくして日蓮正宗の御本尊はありえないことを知るべきであります。
かつて池田大作氏が「法水写瓶(しゃびょう)の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る 八-二二八頁)と指導していたとおりです。
破折:
1.宗門の依処は「後世の加筆文」
『日蓮大聖人御書全集』(堀日亨法主編)の八七七ページ(『本因妙抄』)を開けば、上記で宗門が引用する箇所は、明らかに他の御文とは異なった扱いとなっている。
「又日文字の口伝・産湯の口決・二箇は両大師の玄旨にあつ……又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し伝う可し、法華本門宗血脈相承畢んぬ」
この箇所は他の御文に比べ、〝ひときわ小さな活字〟で印刷されている。これは日亨師が『富士宗学要集』を編纂した際〝一重線が引かれた〟箇所であり、「後加筆文」すなわち後世の加筆であることを読者に示しているのである。つまりは日蓮大聖人が認(したた)められた御文ではない。
これをもし「人師・論師の釈」とでもするなら、署名や由来書きがあるべきで、その意味において尊重することもある。
だが御書に書き足すことは、大聖人の聖筆を真似た偽筆であり、「偽書」の創作であって由々しき大罪である。
善無畏三蔵抄(八八二㌻)にいわく、
「私に経文を作り経文に私の言を加へなんどせる人人是れ多し、然りと雖も愚者は是を真(まこと)と思うなり」
(人が自分で勝手に経文をつくり、仏説にことよせているのを、智慧の足りない者が、真偽を弁えずに仏説であるといっているのである等と思うべきである)
〝後世の書き込み〟を大聖人の御遺命に擬したことは、はなはだしい不遜と言わねばならない。どれほど多くの法華講員が、かかる文言に誑かされていることであろう。
守護国家論(四二㌻)にいわく、
「是の時当に諸(もろもろ)の悪比丘有るべし是の経を抄掠(しょうりゃく)して分つて多分と作し能く正法の色香美味を滅す是の諸の悪人復是の如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除して世間荘厳の文を安置し無義の語を飾り前を抄(とっ)て後に著け後を抄(とっ)て前に著け前後を中に著け中を前後に著けん当に知るべし是くの如き諸の悪比丘は是(これ)魔の伴侶なり」
(この時、まさに諸の悪比丘(悪僧)がいて、この経を盗み掠(かす)めて多くに分断し、正しい法の色香美味を滅する。この諸の悪人がまた、このような経典を読誦するが、如来の深密の要義を滅し除いて、世間の荘厳な文を加え、意味の無い言葉を飾り、前の文をとって後の文につけ、後の文をとって前の文につけ、前後の文を中の文につけ、中の文を前後の文につけるであろう。まさに知りなさい。このような諸の悪比丘はこれ魔の眷属である)
大聖人の御書に加筆・変造する者は、魔の伴侶である。宗門があくまで「唯授一人の血脈」の根拠と言い抜けようとするのは、いよいよ魔の眷属たる本性を現したことである。
2.『本因妙抄』の末文は「信行に資するもの」ではない
宗門の側は開き直り、次のように言う。
◇
この御文は後加文であるが、義に於いて正当であるが故に「一重線」であり、創価学会員が用いる御書全集にも掲載されているのである。
「日辰上人・日我上人等古写本に依って之を写し一校を加へ、後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり」
しかしながら御書全集には「新古各種の刊本中に真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之を取る」(「凡例」五㌻)とあり、御真筆の〝有る〟〝無し〟にかかわらず、活字の大きさは変わらない。
ところが『本因妙抄』の末文は、日亨師がわざわざ活字を小さくし、読者の注意を促しているのである。価値として〝真偽未決の御書にも及ばない〟のであり、我ら信者にとって「信行に資するもの」とは言えないのである。
3.〝宗学〟としての文書
それでも「支吾(しご)なき所」(=差し支えない)とするのは、日亨師が宗門の伝統を奉じる立場にあるゆえに、〝宗学〟として否定できないからである。すなわち〝御書学〟とは立場を異にするものであり、そのために信者が手にする御書全集には、文字を小さくする配慮が為されているのである。
宗学とは、言い方を変えれば〝護教学〟である。他宗他派からの攻撃・反論に対抗するべく、自門を守護すべき意味合いのものである。
今回引用された『本因妙抄』は、御真筆があるどころか、大聖人の直弟子による写本も無く、『録内』(遺文集)、『録外』(録内に未収録の遺文集)にも収載されていない。
◇
最古の写本は大石寺六世の日時(?-AN84-125)写本とされている(『富要』1-8)……日時写本の字体が、日時の他の文献の字体と異なっている……日蓮正宗に好意的に見ても、『本因妙抄』は文献学的には日蓮滅後100年前後までしか遡れない。
(「日興の教学思想の諸問題(1)-1 資料編」宮田幸一氏 創価大学人文論集第18号 2006)
かかる『本因妙抄』は多分に文献学上の指摘があるが、それについてはしばらく措く。ここでの論議は、末文の箇所を問題としているからである。
結論すれば、他宗他派との法論においての『本因妙抄』の地位は非常に弱いところにあるゆえに、後年に大石寺の唯一絶対性を記す文言が付加された、と推測し得る。
宗門が護教として『本因妙抄』の末文を〝正当〟であると強弁することは、彼等の勝手である。しかし、大聖人の御書に〝同じ〟であるとするのは、あまりにも可怪(おか)しい。
『本因妙抄』の末文は、御書としての価値は無い。それはあくまで自門に正義があるとする権威擁護のための〝決意の文〟であり、後嗣への〝激励の文〟であり、他宗他派への〝牽制の文〟である。それを「唯授一人の血脈と御本尊の大事は一体不二なるもの」などと、信徒支配に結び付ける〝さもしい根性〟には、辟易するばかりである。
4.原意をすり替える宗門
宗門が引用する「法魂」とは、大聖人・日興上人の御著作等に無く、近代に至って、五十六世日応が自作した語である。
本抄の主旨は、大石寺の法門相承(金口嫡々相承)こそが本尊書写の極意を伝えるものであるとし、そのことを「宗祖の法魂を写し」と言っている。
日顕が「御本尊は宗祖大聖人の法魂であり」などと言うのは、日応の原意から外れ、「法魂」の語義を〝本尊書写の筆法〟から〝大聖人の魂魄〟へとすり替えたものである。
御本尊の根本義は、日寛上人の著述「観心本尊抄文段」等において、すべて確立され整足されているのであり、そこでは法主本仏論の邪義は全く排除されている。
日顕宗が後世の造語を用い、さらにその意味を変容し、宗旨の根幹たる御本尊を新たに定義づけることは、伝統法義の改変であり、もはや新興宗教である。
新興宗教の教祖たる日顕が、どのような教義を発明しようと、また吠えようとも、伝統義を受け継ぐ学会には、何の影響もない。
5.唯授一人血脈の断絶
「僧侶として血脈を相承したなら、僧侶としての最低条件を守らなければ、法主の資格を失う」との意を示される諸御抄が、研究者の論考(「本尊作成に関する諸問題 1991」宮田幸一のホームページ)に引用されていたので、以下に掲示した。
法主の資格を失ったなら、その者は除籍となるか、あるいは「唯授一人の血脈」そのものが終焉となるはずである。
〝僧侶としての最低条件〟とは「聖僧」たるべきこと、つまりは肉食妻帯をしないことである。
① 大聖人は生涯、聖僧であられた。
四恩抄(九三六㌻)にいわく、
「世末になりて候へば妻子を帯して候・比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず只法華経を弘めんとする失(とが)によりて妻子を帯せずして犯僧(ぼんそう)の名四海に満ち螻蟻(ろうぎ)をも殺さざれども悪名一天に弥(はびこ)れり」
(いまは世が末になってしまったので、妻子を持っている比丘も人の帰依を受け、魚や鳥を食べる僧でも帰依を受けるのが当たり前となっているではないか。日蓮はそうした妻子も持たず、魚や鳥をも食べず、ただ法華経を弘めようとしているだけで、それを失(とが)にされて、妻子を持たずして破戒僧の名が国中に満ち、螻(けら)や蟻(あり)さえも殺さないのに悪名は天下にはびこってしまった)
② 最蓮房がもとからの「聖人」(聖僧)であることを、大聖人が讃嘆された。
祈祷経送状(一三五七㌻)にいわく、
「一御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云、権教を信ぜし大謗法の時の事は何なる持戒の行人と申し候とも、法華経に背く謗法罪の故に正法の破戒の大俗よりも百千万倍劣り候なり、彼の謗法の比丘は持戒なりと雖も無間に墜す、正法の大俗は破戒なりと雖も成仏疑い無き故なり、但今の御身は念仏等の権教を捨てて正法に帰し給う故に誠に持戒の中の清浄の聖人なり、尤も比丘と成つては権宗の人すら尚然る可し況や正法の行人をや、仮使権宗の時の妻子なりともかかる大難は遇はん時は振捨て正法を弘通すべきの処に地体よりの聖人尤も吉し尤も吉し」
(一、お手紙に十七歳で出家した後は、妻子をもたず、肉を食べず等とあったことについて。権教を信じていた大謗法のときは、どんな持戒の修行者であっても、法華経に背く謗法の罪のために、正法を持つ破戒の俗人よりも百千万倍劣っているのである。謗法の比丘は持戒であっても無間地獄に墜ち、正法を持った大俗は破戒であっても成仏は疑いないからである。ただいまのあなたの身は念仏等の権教を捨てて正法に帰依されたゆえに、まことに持戒のなかの清浄な聖人である。もっとも比丘となったからには権宗の人でさえそうあるべきである。ましてや正法の修行者はなおさらである。たとえ権宗のときにもった妻子であっても、このような大難にあうときは振り捨てて正法を弘通するべきであるところ、もとよりの聖人であるということは大変に素晴らしいことである、大変に素晴らしいことである)
③ 日興上人は、女犯した法主は平僧に落とすべき、とされた。
日興遺誡置文(一六一九㌻)にいわく、
「一、先師の如く予(よ)が化儀も聖僧為(た)る可し、但し時の貫首(かんず)或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も衆徒に差置く可き事。
文意は『富士日興上人詳伝』(五十九世堀日亨法主)より。
(「貫首」の二字は、明らかであるも「習学の仁」は、一応はとくに学窓に入っておる人で、そのために天台等の談所に遊学しておる人と見るべきで、それが悪縁に引かれて、女犯しても、還俗破門せしめずして衆徒のままとし、学僧としての当然の昇進を止め、また貫主の高位を貶(おと)して下位に沈まするということと解釈する外はない)
貫首(法主)であろうと、一時の女犯があれば平僧に降格すべし、と仰せである。妻帯などすれば、還俗破門であろう。
法主が資格を消失すれば、その時点で大聖人の〝御内証〟を喪失したこととなり、「唯授一人の血脈」はその時点でお終いとなる。この通り「唯授一人の血脈」と言うものは、日興上人によって否定されていたわけである。
日顕がシアトルで買春しても、教学部長という高位(「習学の仁」)の肩書を剥奪されることは無かった。宗門はとっくに腐っていたのである。
④ 九世日有師も、「清浄」であり妻帯しないことを、出家の条件とした。
「出家の本意なるが故に何かにも持戒清浄ならん事は然るべし」(『化儀抄』第九十四条)
「当宗も酒肉五辛女犯等の誡事を裏に用ゆべきなり」(『有師談諸聞書』)
これら先師の誡めを、いともたやすく破ったのが近代の法主である。
今回の宗門の妄説では、始めに『本因妙抄』の末文を持ち出したゆえに、これが後世の加筆であることを明らかにした。次に大石日応の著作から引用しているが、これまた邪宗に相応しい人物を選んできたものである。この法主の代から、宗門が大きく堕落していくのである。
6.破戒僧の行状
前々回(「妄説:40」)にて、五十六世大石日応から六十三世秋山日満までの代を「擾乱(じょうらん)の時代」と表現した。僧侶間で「猊座」を奪い合う〝醜い争い〟が本山で繰り広げられてきたのであり、さらには法主自身の女性をめぐる不品行が、新聞記事を賑わすこととなった。
彼らが「三途(さんず)の業」(御書全集 四七一㌻)に堕ちた原因は、「聖僧」であることを放棄したゆえである。
宗門で最初に妻帯した僧侶が、日如の曽祖父にあたる五十六世大石日応であった。法主が範を示した以上、宗門の総ての者がそれに倣ったのである。
① 五十六世大石日応の行躰
「元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾(めかけ)を置き又大宮(=富士宮)其他附近に出でては飽くまで不品行を恣(ほしいまま)にして恥ぢぬ程の者にて檀家一千名に上り名だたる大寺に居りながら一万円にも及べる借財に今は困(くるし)む身となりて退職して後任の大学頭を選任し不埒にも借財の尻を此際有耶無耶(うやむや)に葬らんと考へ本年五月十二日先づ規定通り三人の管長候補者を選ぶこととなるや、元来日応の生国が東北地方にて一山の僧侶は全国各地よりの出身者なれど腹黒き日応は東北出身者のみを以て役僧を組織し居れば先づ之を利用して、選挙投票の買収を初め即ち己れの意に従はざる者は凡て免黜(めんちつ)し腹心の売僧を駆りて盛に投票を買収せしめ不品行を以て名高き阿部慈照師を正候補者に推し…」
(『静岡民友新聞』明治四十一年十月二日付「日応の人となり」)
この記事の解説は、次の通り。
「つまり『色魔』の日応が遊興で作った一万円の借金(現在の貨幣価値に換算し約一億円相当)をウヤムヤにするため日正、日隆、日開ら自分と同じ東北出身者で宗務院の役僧を固め、後継法主もその中から選ぶという悪辣ぶりを『静岡民友新聞』は指弾していた」
(「フェイク」第753号 発行=06.08.19)
② 六十一世水谷日隆の行躰
「富士五山の一であり全国に70万の信徒を持つ日蓮正宗の本山富士大石寺宗務総監である本所区向島小梅町常泉寺住職水谷秀□(道)師(56)は12月初旬より数回に亘(わた)って極秘裡に丸の内署に召喚され中村司法主任の取調べを受ける一方、常泉寺総代平沢菊太郎・鈴木仙蔵氏、浅草の待合鈴蘭の女将、亀戸の待合小槌の女将等を召喚証人とし取り調べ中であったが26日水谷師は『背任罪』として1月4日の御用始めに一件書類を東京地方検事局に送ることになった。
同師は2年前常泉寺住職となり、続いて本山の宗務総監になったが以来、前記待合を根城として、僧侶の身分を忘れて豪遊し、浅草公園の芸者紋弥こと、諸岡はつ(21)を落籍して外妾として囲い寺有財産約9千円を費消したほか約3万円の手形を乱発していた破戒行為を同署椎名刑事に探知されたものであるが水谷師のこの事件は往年流血の惨までを見せた管長選挙問題と昨年阿部管長の本尊誤□(写?)問題に絡み全信徒が2派に対立して騒ぎを続けている際とてこれが導火線となって70万の信徒をあげて騒動の波紋を拡げそうな形勢である」
(『読売新聞』S5.12.29/『富士の清流』H9.9.1)
大石日応の「借財」が一万円(明治四十一年)、水谷日隆の「費消九千円、手形三万円」で合計三万九千円(昭和五年)、ともに現在の貨幣価値に換算して、一億円である。
これら女犯の破廉恥僧だけでなく、謗法の象徴・身延に迎合した与同罪の法主、また時の軍部政府におもねって御書を削除し、神札を甘受した法主等々、これら魑魅魍魎が〝法主〟として猊座に君臨したのが日蓮正宗の近代史である。宗門・法華講には、反省と言うものが無いのか。
「化儀化法は猊下の裁量です」
これが彼らの答えである。大聖人、日興上人、日有師と、上古の先師達は未来の弟子に向け、僧侶の分を守るよう訓戒されてきた。「末法無戒」と言っても自己を律しない者は、文字通り破戒僧となる。
女人成仏抄(四七一㌻)にいわく、
「経文には一人一日の中に八億四千念あり念念の中に作す所皆是れ三途の業なり等云云」
(経文には「一人の人間が一日の間に思うことがらは八億四千もある。それらの次々に起きては消える思いの一つ一つはすべて三悪業へとおちる悪業である」とあります)
法主自身が享楽に耽り、一切の内省が無ければ、その宗門はもはや終わりである。日顕がその打ち止めとなった。
兵衛志殿御返事(一〇九一㌻)にいわく、
「千年のかるかや(苅茅)も一時にはひ(灰)となる百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり」
(千年も生い茂ったかるかやでも、火がつけば一時に灰となってしまい、百年もかかって立てた功績もわずか一言でやぶれてしまうことは、法の道理です)
この御文は、十名の青年僧侶たちが連名した「離山の書」に引用された一節であり、そのまま日顕に突き付けられたことは、今なお感慨深いものがある。
(了)
妄説:42 唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈を否定して「御本尊根本」を唱えることは矛盾するのではありませんか。
そのとおり、矛盾しています。
なぜならば、『本因妙抄(ほんにんみょうしょう)』に「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)とお示しのように、唯授一人の血脈と御本尊の大事は一体不二なるものであって、これを分けて論ずることはできないからです。
総本山第五十六世日応上人も『弁惑観心抄』の中で「此の金口(こんく)嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能わず」(同書 212頁)
とも
「この金口の血脈こそ、宗祖の法魂を写し本尊の極意(ごくい)を伝ふるものなり。これを真の唯授一人と云ふ」(同書 219頁)と仰せのように、御本尊は宗祖大聖人の法魂であり、その法魂を唯授一人の相承によって写し奉るものですから、唯授一人の血脈を否定する者は、御本尊をも否定することになるのです。
「唯授一人の相承」なくして日蓮正宗の御本尊はありえないことを知るべきであります。
かつて池田大作氏が「法水写瓶(しゃびょう)の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る 八-二二八頁)と指導していたとおりです。
破折:
1.宗門の依処は「後世の加筆文」
『日蓮大聖人御書全集』(堀日亨法主編)の八七七ページ(『本因妙抄』)を開けば、上記で宗門が引用する箇所は、明らかに他の御文とは異なった扱いとなっている。
「又日文字の口伝・産湯の口決・二箇は両大師の玄旨にあつ……又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し伝う可し、法華本門宗血脈相承畢んぬ」
この箇所は他の御文に比べ、〝ひときわ小さな活字〟で印刷されている。これは日亨師が『富士宗学要集』を編纂した際〝一重線が引かれた〟箇所であり、「後加筆文」すなわち後世の加筆であることを読者に示しているのである。つまりは日蓮大聖人が認(したた)められた御文ではない。
これをもし「人師・論師の釈」とでもするなら、署名や由来書きがあるべきで、その意味において尊重することもある。
だが御書に書き足すことは、大聖人の聖筆を真似た偽筆であり、「偽書」の創作であって由々しき大罪である。
善無畏三蔵抄(八八二㌻)にいわく、
「私に経文を作り経文に私の言を加へなんどせる人人是れ多し、然りと雖も愚者は是を真(まこと)と思うなり」
(人が自分で勝手に経文をつくり、仏説にことよせているのを、智慧の足りない者が、真偽を弁えずに仏説であるといっているのである等と思うべきである)
〝後世の書き込み〟を大聖人の御遺命に擬したことは、はなはだしい不遜と言わねばならない。どれほど多くの法華講員が、かかる文言に誑かされていることであろう。
守護国家論(四二㌻)にいわく、
「是の時当に諸(もろもろ)の悪比丘有るべし是の経を抄掠(しょうりゃく)して分つて多分と作し能く正法の色香美味を滅す是の諸の悪人復是の如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除して世間荘厳の文を安置し無義の語を飾り前を抄(とっ)て後に著け後を抄(とっ)て前に著け前後を中に著け中を前後に著けん当に知るべし是くの如き諸の悪比丘は是(これ)魔の伴侶なり」
(この時、まさに諸の悪比丘(悪僧)がいて、この経を盗み掠(かす)めて多くに分断し、正しい法の色香美味を滅する。この諸の悪人がまた、このような経典を読誦するが、如来の深密の要義を滅し除いて、世間の荘厳な文を加え、意味の無い言葉を飾り、前の文をとって後の文につけ、後の文をとって前の文につけ、前後の文を中の文につけ、中の文を前後の文につけるであろう。まさに知りなさい。このような諸の悪比丘はこれ魔の眷属である)
大聖人の御書に加筆・変造する者は、魔の伴侶である。宗門があくまで「唯授一人の血脈」の根拠と言い抜けようとするのは、いよいよ魔の眷属たる本性を現したことである。
2.『本因妙抄』の末文は「信行に資するもの」ではない
宗門の側は開き直り、次のように言う。
◇
この御文は後加文であるが、義に於いて正当であるが故に「一重線」であり、創価学会員が用いる御書全集にも掲載されているのである。
「日辰上人・日我上人等古写本に依って之を写し一校を加へ、後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり」
しかしながら御書全集には「新古各種の刊本中に真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之を取る」(「凡例」五㌻)とあり、御真筆の〝有る〟〝無し〟にかかわらず、活字の大きさは変わらない。
ところが『本因妙抄』の末文は、日亨師がわざわざ活字を小さくし、読者の注意を促しているのである。価値として〝真偽未決の御書にも及ばない〟のであり、我ら信者にとって「信行に資するもの」とは言えないのである。
3.〝宗学〟としての文書
それでも「支吾(しご)なき所」(=差し支えない)とするのは、日亨師が宗門の伝統を奉じる立場にあるゆえに、〝宗学〟として否定できないからである。すなわち〝御書学〟とは立場を異にするものであり、そのために信者が手にする御書全集には、文字を小さくする配慮が為されているのである。
宗学とは、言い方を変えれば〝護教学〟である。他宗他派からの攻撃・反論に対抗するべく、自門を守護すべき意味合いのものである。
今回引用された『本因妙抄』は、御真筆があるどころか、大聖人の直弟子による写本も無く、『録内』(遺文集)、『録外』(録内に未収録の遺文集)にも収載されていない。
◇
最古の写本は大石寺六世の日時(?-AN84-125)写本とされている(『富要』1-8)……日時写本の字体が、日時の他の文献の字体と異なっている……日蓮正宗に好意的に見ても、『本因妙抄』は文献学的には日蓮滅後100年前後までしか遡れない。
(「日興の教学思想の諸問題(1)-1 資料編」宮田幸一氏 創価大学人文論集第18号 2006)
かかる『本因妙抄』は多分に文献学上の指摘があるが、それについてはしばらく措く。ここでの論議は、末文の箇所を問題としているからである。
結論すれば、他宗他派との法論においての『本因妙抄』の地位は非常に弱いところにあるゆえに、後年に大石寺の唯一絶対性を記す文言が付加された、と推測し得る。
宗門が護教として『本因妙抄』の末文を〝正当〟であると強弁することは、彼等の勝手である。しかし、大聖人の御書に〝同じ〟であるとするのは、あまりにも可怪(おか)しい。
『本因妙抄』の末文は、御書としての価値は無い。それはあくまで自門に正義があるとする権威擁護のための〝決意の文〟であり、後嗣への〝激励の文〟であり、他宗他派への〝牽制の文〟である。それを「唯授一人の血脈と御本尊の大事は一体不二なるもの」などと、信徒支配に結び付ける〝さもしい根性〟には、辟易するばかりである。
4.原意をすり替える宗門
宗門が引用する「法魂」とは、大聖人・日興上人の御著作等に無く、近代に至って、五十六世日応が自作した語である。
本抄の主旨は、大石寺の法門相承(金口嫡々相承)こそが本尊書写の極意を伝えるものであるとし、そのことを「宗祖の法魂を写し」と言っている。
日顕が「御本尊は宗祖大聖人の法魂であり」などと言うのは、日応の原意から外れ、「法魂」の語義を〝本尊書写の筆法〟から〝大聖人の魂魄〟へとすり替えたものである。
御本尊の根本義は、日寛上人の著述「観心本尊抄文段」等において、すべて確立され整足されているのであり、そこでは法主本仏論の邪義は全く排除されている。
日顕宗が後世の造語を用い、さらにその意味を変容し、宗旨の根幹たる御本尊を新たに定義づけることは、伝統法義の改変であり、もはや新興宗教である。
新興宗教の教祖たる日顕が、どのような教義を発明しようと、また吠えようとも、伝統義を受け継ぐ学会には、何の影響もない。
5.唯授一人血脈の断絶
「僧侶として血脈を相承したなら、僧侶としての最低条件を守らなければ、法主の資格を失う」との意を示される諸御抄が、研究者の論考(「本尊作成に関する諸問題 1991」宮田幸一のホームページ)に引用されていたので、以下に掲示した。
法主の資格を失ったなら、その者は除籍となるか、あるいは「唯授一人の血脈」そのものが終焉となるはずである。
〝僧侶としての最低条件〟とは「聖僧」たるべきこと、つまりは肉食妻帯をしないことである。
① 大聖人は生涯、聖僧であられた。
四恩抄(九三六㌻)にいわく、
「世末になりて候へば妻子を帯して候・比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず只法華経を弘めんとする失(とが)によりて妻子を帯せずして犯僧(ぼんそう)の名四海に満ち螻蟻(ろうぎ)をも殺さざれども悪名一天に弥(はびこ)れり」
(いまは世が末になってしまったので、妻子を持っている比丘も人の帰依を受け、魚や鳥を食べる僧でも帰依を受けるのが当たり前となっているではないか。日蓮はそうした妻子も持たず、魚や鳥をも食べず、ただ法華経を弘めようとしているだけで、それを失(とが)にされて、妻子を持たずして破戒僧の名が国中に満ち、螻(けら)や蟻(あり)さえも殺さないのに悪名は天下にはびこってしまった)
② 最蓮房がもとからの「聖人」(聖僧)であることを、大聖人が讃嘆された。
祈祷経送状(一三五七㌻)にいわく、
「一御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云、権教を信ぜし大謗法の時の事は何なる持戒の行人と申し候とも、法華経に背く謗法罪の故に正法の破戒の大俗よりも百千万倍劣り候なり、彼の謗法の比丘は持戒なりと雖も無間に墜す、正法の大俗は破戒なりと雖も成仏疑い無き故なり、但今の御身は念仏等の権教を捨てて正法に帰し給う故に誠に持戒の中の清浄の聖人なり、尤も比丘と成つては権宗の人すら尚然る可し況や正法の行人をや、仮使権宗の時の妻子なりともかかる大難は遇はん時は振捨て正法を弘通すべきの処に地体よりの聖人尤も吉し尤も吉し」
(一、お手紙に十七歳で出家した後は、妻子をもたず、肉を食べず等とあったことについて。権教を信じていた大謗法のときは、どんな持戒の修行者であっても、法華経に背く謗法の罪のために、正法を持つ破戒の俗人よりも百千万倍劣っているのである。謗法の比丘は持戒であっても無間地獄に墜ち、正法を持った大俗は破戒であっても成仏は疑いないからである。ただいまのあなたの身は念仏等の権教を捨てて正法に帰依されたゆえに、まことに持戒のなかの清浄な聖人である。もっとも比丘となったからには権宗の人でさえそうあるべきである。ましてや正法の修行者はなおさらである。たとえ権宗のときにもった妻子であっても、このような大難にあうときは振り捨てて正法を弘通するべきであるところ、もとよりの聖人であるということは大変に素晴らしいことである、大変に素晴らしいことである)
③ 日興上人は、女犯した法主は平僧に落とすべき、とされた。
日興遺誡置文(一六一九㌻)にいわく、
「一、先師の如く予(よ)が化儀も聖僧為(た)る可し、但し時の貫首(かんず)或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も衆徒に差置く可き事。
文意は『富士日興上人詳伝』(五十九世堀日亨法主)より。
(「貫首」の二字は、明らかであるも「習学の仁」は、一応はとくに学窓に入っておる人で、そのために天台等の談所に遊学しておる人と見るべきで、それが悪縁に引かれて、女犯しても、還俗破門せしめずして衆徒のままとし、学僧としての当然の昇進を止め、また貫主の高位を貶(おと)して下位に沈まするということと解釈する外はない)
貫首(法主)であろうと、一時の女犯があれば平僧に降格すべし、と仰せである。妻帯などすれば、還俗破門であろう。
法主が資格を消失すれば、その時点で大聖人の〝御内証〟を喪失したこととなり、「唯授一人の血脈」はその時点でお終いとなる。この通り「唯授一人の血脈」と言うものは、日興上人によって否定されていたわけである。
日顕がシアトルで買春しても、教学部長という高位(「習学の仁」)の肩書を剥奪されることは無かった。宗門はとっくに腐っていたのである。
④ 九世日有師も、「清浄」であり妻帯しないことを、出家の条件とした。
「出家の本意なるが故に何かにも持戒清浄ならん事は然るべし」(『化儀抄』第九十四条)
「当宗も酒肉五辛女犯等の誡事を裏に用ゆべきなり」(『有師談諸聞書』)
これら先師の誡めを、いともたやすく破ったのが近代の法主である。
今回の宗門の妄説では、始めに『本因妙抄』の末文を持ち出したゆえに、これが後世の加筆であることを明らかにした。次に大石日応の著作から引用しているが、これまた邪宗に相応しい人物を選んできたものである。この法主の代から、宗門が大きく堕落していくのである。
6.破戒僧の行状
前々回(「妄説:40」)にて、五十六世大石日応から六十三世秋山日満までの代を「擾乱(じょうらん)の時代」と表現した。僧侶間で「猊座」を奪い合う〝醜い争い〟が本山で繰り広げられてきたのであり、さらには法主自身の女性をめぐる不品行が、新聞記事を賑わすこととなった。
彼らが「三途(さんず)の業」(御書全集 四七一㌻)に堕ちた原因は、「聖僧」であることを放棄したゆえである。
宗門で最初に妻帯した僧侶が、日如の曽祖父にあたる五十六世大石日応であった。法主が範を示した以上、宗門の総ての者がそれに倣ったのである。
① 五十六世大石日応の行躰
「元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾(めかけ)を置き又大宮(=富士宮)其他附近に出でては飽くまで不品行を恣(ほしいまま)にして恥ぢぬ程の者にて檀家一千名に上り名だたる大寺に居りながら一万円にも及べる借財に今は困(くるし)む身となりて退職して後任の大学頭を選任し不埒にも借財の尻を此際有耶無耶(うやむや)に葬らんと考へ本年五月十二日先づ規定通り三人の管長候補者を選ぶこととなるや、元来日応の生国が東北地方にて一山の僧侶は全国各地よりの出身者なれど腹黒き日応は東北出身者のみを以て役僧を組織し居れば先づ之を利用して、選挙投票の買収を初め即ち己れの意に従はざる者は凡て免黜(めんちつ)し腹心の売僧を駆りて盛に投票を買収せしめ不品行を以て名高き阿部慈照師を正候補者に推し…」
(『静岡民友新聞』明治四十一年十月二日付「日応の人となり」)
この記事の解説は、次の通り。
「つまり『色魔』の日応が遊興で作った一万円の借金(現在の貨幣価値に換算し約一億円相当)をウヤムヤにするため日正、日隆、日開ら自分と同じ東北出身者で宗務院の役僧を固め、後継法主もその中から選ぶという悪辣ぶりを『静岡民友新聞』は指弾していた」
(「フェイク」第753号 発行=06.08.19)
② 六十一世水谷日隆の行躰
「富士五山の一であり全国に70万の信徒を持つ日蓮正宗の本山富士大石寺宗務総監である本所区向島小梅町常泉寺住職水谷秀□(道)師(56)は12月初旬より数回に亘(わた)って極秘裡に丸の内署に召喚され中村司法主任の取調べを受ける一方、常泉寺総代平沢菊太郎・鈴木仙蔵氏、浅草の待合鈴蘭の女将、亀戸の待合小槌の女将等を召喚証人とし取り調べ中であったが26日水谷師は『背任罪』として1月4日の御用始めに一件書類を東京地方検事局に送ることになった。
同師は2年前常泉寺住職となり、続いて本山の宗務総監になったが以来、前記待合を根城として、僧侶の身分を忘れて豪遊し、浅草公園の芸者紋弥こと、諸岡はつ(21)を落籍して外妾として囲い寺有財産約9千円を費消したほか約3万円の手形を乱発していた破戒行為を同署椎名刑事に探知されたものであるが水谷師のこの事件は往年流血の惨までを見せた管長選挙問題と昨年阿部管長の本尊誤□(写?)問題に絡み全信徒が2派に対立して騒ぎを続けている際とてこれが導火線となって70万の信徒をあげて騒動の波紋を拡げそうな形勢である」
(『読売新聞』S5.12.29/『富士の清流』H9.9.1)
大石日応の「借財」が一万円(明治四十一年)、水谷日隆の「費消九千円、手形三万円」で合計三万九千円(昭和五年)、ともに現在の貨幣価値に換算して、一億円である。
これら女犯の破廉恥僧だけでなく、謗法の象徴・身延に迎合した与同罪の法主、また時の軍部政府におもねって御書を削除し、神札を甘受した法主等々、これら魑魅魍魎が〝法主〟として猊座に君臨したのが日蓮正宗の近代史である。宗門・法華講には、反省と言うものが無いのか。
「化儀化法は猊下の裁量です」
これが彼らの答えである。大聖人、日興上人、日有師と、上古の先師達は未来の弟子に向け、僧侶の分を守るよう訓戒されてきた。「末法無戒」と言っても自己を律しない者は、文字通り破戒僧となる。
女人成仏抄(四七一㌻)にいわく、
「経文には一人一日の中に八億四千念あり念念の中に作す所皆是れ三途の業なり等云云」
(経文には「一人の人間が一日の間に思うことがらは八億四千もある。それらの次々に起きては消える思いの一つ一つはすべて三悪業へとおちる悪業である」とあります)
法主自身が享楽に耽り、一切の内省が無ければ、その宗門はもはや終わりである。日顕がその打ち止めとなった。
兵衛志殿御返事(一〇九一㌻)にいわく、
「千年のかるかや(苅茅)も一時にはひ(灰)となる百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり」
(千年も生い茂ったかるかやでも、火がつけば一時に灰となってしまい、百年もかかって立てた功績もわずか一言でやぶれてしまうことは、法の道理です)
この御文は、十名の青年僧侶たちが連名した「離山の書」に引用された一節であり、そのまま日顕に突き付けられたことは、今なお感慨深いものがある。
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №41~50
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:41」を破折する 連載55回
妄説:41 「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」とは同じものですか。
「唯授一人の血脈」は、日蓮大聖人が大法を余(あま)すことなく日興上人お一人に相承され、さらに日目上人、日道上人以来の御歴代上人を経て、御当代日顕上人へと伝えられています。
一方「信心の血脈」とは、この唯授一人の血脈を信順することを前提として、日蓮正宗の御本尊を無二に信ずるところに流れ通うものであり、「信心の血脈」のみを切り離して本宗の信仰を語れるものではありません。したがって、「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」を同列に考えることは間違いであり、「唯授一人の血脈」を信ずるうえで御本尊を拝することが大切なのです。
以前に学会が発行した『生死一大事血脈抄』の講義には、
「信心の血脈」を解釈する段で、「もとより血脈には、唯授一人の別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、ここで仰せられているのは、総じての信心の血脈であることはいうまでもない」(学講 三〇上-三二頁)と述べています。
現在の学会では「信心さえあればよい」と指導しているようですが、「何を、どのように信ずるか」ということが明確でなければなりません。
やみくもに「信心の血脈」だけをふりかざす指導は、「唯授一人の血脈」をないがしろにするものです。
破折:
1.「唯授一人の血脈」とは「信心の血脈」の異名
大聖人は「生死一大事血脈抄」の中で「只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」(一三三八ページ)と、最蓮房に仰せられている。ここでは、最蓮房という一門下に〝釈尊から上行菩薩へと結要付嘱された南無妙法蓮華経を、あなたも唱えて血脈相承しなさい〟と勧められている。結要付嘱の法体が法主だけに血脈相承される、などという後世の説は、この大聖人の御教示に反している。
(『法主信仰の打破――日寛上人の言論闘争』松岡幹夫氏 著 『大白蓮華』平成十七年九月一日発行)
「『唯授一人の血脈』は、日蓮大聖人が大法を余(あま)すことなく日興上人お一人に相承され」云々とあるからには、最蓮房は「相承なき平僧」と言うことになる。
しかし、大聖人は最蓮房に「血脈相承」を受持するよう御指導されている。この通り「血脈相承」とは、法主だけに秘密伝授される専売特許で無いことは明白である。
生死一大事血脈抄(一三三七㌻)にいわく、
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思(おもい)を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
この御文につき、宗門が引用する御書講義録には次の解説がある。
◇
まず「総じて」と述べられているが、これは「別して」に対する言葉である。
別しての生死一大事血脈の当体は、釈尊在世には地涌の菩薩の上首・上行菩薩として垂迹され、末法今時には久遠元初自受用身如来の再誕として御出現された御本仏日蓮大聖人の御生命であられることは、すでに述べた。
この御本仏の血脈が「総じて」大聖人門下の異体同心の題目を唱え、広宣流布の大願に生きる一人一人の生命に脈打つことを教えられているのである。
(「日蓮大聖人御書講義録」第三十巻上 第四章 36~37ページ)
すなわち「別しての」生死一大事血脈の当体、御本仏日蓮大聖人の御生命は、「総じて」の大聖人門下の異体同心の生命に脈打つとある。決して法主一人に「法体」が伝わるのではない。
ここで「唯授一人の血脈」とある「一人」とは、御本仏日蓮大聖人の御事である。正しく「唯授一人の血脈」とは、御本仏の御生命が、広宣流布に励む我ら信者の一人一人に流れ通うことを言うのであり、「信心の血脈」の異名である。
宗門の誑惑は、「代々の法主」に大聖人の御生命が流れ通う、とすり替えるところにある。御書を換骨奪胎するのは、宗門の身上である。しかし、いかに御書の仰せを曲げようとも、宗旨の根幹たる大御本尊を「ニセ物」呼ばわりし否定した日顕に、「唯授一人の血脈」が流れる道理は無い。
2.〝何を、どのように信ずるか〟
「現在の学会では『信心さえあればよい』と指導しているようです」とあるが、もとより「信心だけ」ではない、「御書」が肝心である。
① 日興上人の御指導――――――「御書を心肝に染め」
② 五十九世堀日亨法主の談話――「信心の根本はやはり御書だよ。
御書さえあればいい」
③ 戸田会長の談話―――――――「坊主には絶対にだまされるな。
日蓮正宗も同じだぞ。
御本尊と御書以外は
信じてはいけない」
(1) 日興上人の御指導
日興遺誡置文(一六一八㌻)にいわく、
「一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間(ひま)有らば台家を聞く可き事」
(1)「御書を心肝に染め」とあり、御書第一である。
(2)「極理を師伝して」とは、日寛上人の『六巻抄』である。
(3)「台家」とは天台宗の別称であり、「天台・妙楽の六十巻」である。
月水御書(一一九九㌻)にいわく、
「経文並に天台・妙楽の六十巻の中に見え侍り」
天台大師智顗の講義三大部 妙楽大師湛然の注釈書
「摩訶止観」十巻 「止観輔行伝弘決(ぐけつ)」十巻
「法華玄義」十巻 「法華玄義釈籖(しゃくせん)」十巻
「法華文句」十巻 「法華文句記」十巻
以上、創価学会(御書全集)、聖教新聞社(六巻抄)、レグルス文庫(天台三大部)より出版されている。学会員は日興上人の御指南通り、教学に励んでいる。
宗門こそ、日興上人にお応えできるよう、きちんと学んでいるか?
(2)五十九世堀日亨法主の談話
堀日亨法主(発言当時は隠尊)に仕えた最後の僧侶(故・渡辺慈済師)が回想する。
◇
御書は、立宗七百年を迎えるにあたり、戸田会長が発願(ほつがん)し、堀上人のお力によって、昭和二十七年四月、できあがったものだ。当時は他の日蓮宗の編纂した御遺文集しかなく、宗門としてはまったく情けない状態だった。しかも、身延も立宗七百年を目指して御遺文集の決定版を出そうと企画していた。そうしたなかで、戸田会長は御書がなければ広宣流布はできない、大聖人の仏法を世界の人々に弘め理解させることはできないと洞察され、御書編纂を発願されたのである。
しかし、当時宗門では、立宗七百年の祈念出版として『日蓮正宗聖典』を出そうと準備していた。高僧をはじめ教学力のある僧侶は皆、『聖典』編纂に駆り出され、片や『御書』の編纂は堀上人お一人であった。その孤立無援の堀上人を、学会の教学部が全面的に支援したのである。皆、仕事を持ち多忙にもかかわらず、畑毛に足繁く通っては校正に完璧を期し、そのお蔭で、宗門初の『御書全集』を完成させることができた。
堀上人は何度かこの時のことを述懐されて、「御書を出すのは私の長年の夢だった。それを戸田会長が来て叶えてくれた。本山は聖典づくりで手一杯で、御書は戸田会長が一切引き受けてくれた。学会の人が来て手伝ってくれて、非常にうれしかった」としみじみいわれた。
御書は、堀上人の六十有余年にわたる教学研鑚の結晶である。しかし、これも、堀上人と戸田会長の出会いなくしては、できなかったと思うと、お二人の縁(えにし)の深さを感ぜずにはおれない。(中略)
一方の、宗門で発刊した『聖典』は、日蓮正宗が日蓮宗各派や他の興門流とどう違うのか、大石寺の正統性を明確にすることが目的とされたもので、「相伝」や「史伝」を中心に編纂された。御書は十大部などを載せただけのものだった。
これについても、堀上人は、「なぜ、聖典のなかに『家中抄(けちゅうしょう)』を載せるのか。あれは坊さんの歴史だよ。歴代の猊下だって、人間だからいろんな不備もあるし悪い面もある。史料として誤りもある。それを信者さんに一々見せて、信心のプラスになるより、マイナスにしかならないじゃないか。信心の根本はやはり御書だよ。御書さえあればいい。だから、私は聖典に『家中抄』を載せることには反対だった」と言われていた。
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
堀日亨法主は、日顕宗のように得体の知れぬ「相伝」などを振り回すことはなかった。大聖人の正義は、御書にこそ記し置かれる。御書の発刊作業は、広宣流布における偉大な前哨戦であった。
撰時抄(二八一㌻)にいわく、
「仏説に依憑(えひょう)して口伝を信ずること莫(なか)れ」
持妙法華問答抄(四六二㌻)にいわく、
「唯人師の釈計りを憑(たの)みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり」
(3)戸田会長の談話
本部幹部会での池田名誉会長の講演より。
◇
戸田先生
坊主の仕事は本来衆生を成仏させること。
しかし、自分が成仏できるか、考えたことがあるのか!
① 「目的を忘れたら腐敗する」
一、ここで、戸田先生の指導を紹介したい。
特に若い人たちは、戸田先生のことをあまり知らないと思う。だからこそ、先生の話を伝えておきたいのだ。
私は、戸田先生が言われたことは全部、書き残してきた。すべて、先生が言われた通りに行動した。
地に足をつけ、気取らず、ありのままに
誠意にかなうものはない
先生は「私は、本当にいい弟子をもった」と最高に満足しておられた。
私がいなかったら、戸田先生はない。また、戸田先生がいなかったら、牧口先生もない。これが本当の師弟である。
戸田先生は、それはそれは厳格だった。悪に対する怒りは、すさまじいものがあった。
先生は言われていた。
「邪な坊主こそ、最高の幸福たる成仏を阻む大悪人である」
まさしく、今の邪宗門は、その典型である(賛同の大拍手)。
戸田先生は、悪い坊主の本質を、鋭く見破っておられた。
先生は、述べておられた。
「なぜ宗門の堕落が始まり、腐敗していくのか。それは、広宣流布という至上の目的に生きることを忘れているからなのだ」
その通りだ(会場から賛同の大拍手)。
さらに、先生の指導を紹介したい。
「多くの坊主が考えていることは、保身であり、私利私欲をいかに満たすかだ。つまり、欲望の虜となり、畜生の心に堕してしまっているのだ」
「断じて坊主の家来になるな! 陰険な宗門に左右されるな!」
「宗門が金を持てば、必ず信徒をいじめるぞ」
「宗門は、神秘性とか荘厳性とか、深遠そうなイメージで、信徒に頭を下げさせるシステムになっているのだ」
また、こう厳しく述べておられた。
「坊主の仕事は本来、衆生を成仏させることだ。しかし、一体、自分自身が成仏できるかを考えたことがあるのか!」(大笑い、賛同の大拍手)
(新時代第10回本部幹部会 2007年9月6日)
② 「恩知らずから堕落が始まる」
一、先生は、当時からこう戒めておられた。
「坊主には絶対にだまされるな。日蓮正宗も同じだぞ。御本尊と御書以外は信じてはいけない」
その上で、広宣流布の大精神に立って、宗門を最大に外護された。
先生の後を継いだ私も、宗門の発展のために力を尽くした。
私の時代に行なった御供養だけでも、どれほど莫大なものになるか。〝これほど尽くした人間は、いない〟というほど、さまざまな形で尽くし抜いた。
このことは、御本尊の前で明確に言い残しておきたい(大拍手)。
さらに、先生の指導を紹介したい。
「広宣流布の大闘争に、少しなりとも邪魔だてする坊主があれば、青年は決起して鉄槌を加えよ」
「宗門は、金がたまれば、必ず威張り、贅沢をする。それどころか、広宣流布を断行しゆく正義の団体である学会に嫉妬し、敵対してくるだろう」
まさにその通りになった。御供養を取るだけ取って、日蓮大聖人に違背した邪宗門の罪は、あまりにも大きい。
戸田先生は、本当に鋭かった。
私は、これまで世界の多くの学者と語り合ってきた。しかし先生は、どんな学者にも増して鋭かった。偉大だった。天才的な指導者であった。
また、先生はこう述べておられた。
「宗門は、学会から離れるならば、大聖人の正義を踏みにじった、謗法の宗でしかなくなってしまう」
「恩知らずの坊主ども、不知恩の元政治家ども、そして元幹部どもなどに、この崇高な学会を乱されてたまるものか!」
「会員が喜び、希望に燃えるように、指導できる幹部になれ!」
「恩知らずから、魔が動く。恩知らずから、堕落は始まる。恩知らずから、畜生になる」
すべて、後世のために伝え残しておきたい(大拍手)。
(同)
(了)
妄説:41 「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」とは同じものですか。
「唯授一人の血脈」は、日蓮大聖人が大法を余(あま)すことなく日興上人お一人に相承され、さらに日目上人、日道上人以来の御歴代上人を経て、御当代日顕上人へと伝えられています。
一方「信心の血脈」とは、この唯授一人の血脈を信順することを前提として、日蓮正宗の御本尊を無二に信ずるところに流れ通うものであり、「信心の血脈」のみを切り離して本宗の信仰を語れるものではありません。したがって、「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」を同列に考えることは間違いであり、「唯授一人の血脈」を信ずるうえで御本尊を拝することが大切なのです。
以前に学会が発行した『生死一大事血脈抄』の講義には、
「信心の血脈」を解釈する段で、「もとより血脈には、唯授一人の別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、ここで仰せられているのは、総じての信心の血脈であることはいうまでもない」(学講 三〇上-三二頁)と述べています。
現在の学会では「信心さえあればよい」と指導しているようですが、「何を、どのように信ずるか」ということが明確でなければなりません。
やみくもに「信心の血脈」だけをふりかざす指導は、「唯授一人の血脈」をないがしろにするものです。
破折:
1.「唯授一人の血脈」とは「信心の血脈」の異名
大聖人は「生死一大事血脈抄」の中で「只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」(一三三八ページ)と、最蓮房に仰せられている。ここでは、最蓮房という一門下に〝釈尊から上行菩薩へと結要付嘱された南無妙法蓮華経を、あなたも唱えて血脈相承しなさい〟と勧められている。結要付嘱の法体が法主だけに血脈相承される、などという後世の説は、この大聖人の御教示に反している。
(『法主信仰の打破――日寛上人の言論闘争』松岡幹夫氏 著 『大白蓮華』平成十七年九月一日発行)
「『唯授一人の血脈』は、日蓮大聖人が大法を余(あま)すことなく日興上人お一人に相承され」云々とあるからには、最蓮房は「相承なき平僧」と言うことになる。
しかし、大聖人は最蓮房に「血脈相承」を受持するよう御指導されている。この通り「血脈相承」とは、法主だけに秘密伝授される専売特許で無いことは明白である。
生死一大事血脈抄(一三三七㌻)にいわく、
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思(おもい)を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
この御文につき、宗門が引用する御書講義録には次の解説がある。
◇
まず「総じて」と述べられているが、これは「別して」に対する言葉である。
別しての生死一大事血脈の当体は、釈尊在世には地涌の菩薩の上首・上行菩薩として垂迹され、末法今時には久遠元初自受用身如来の再誕として御出現された御本仏日蓮大聖人の御生命であられることは、すでに述べた。
この御本仏の血脈が「総じて」大聖人門下の異体同心の題目を唱え、広宣流布の大願に生きる一人一人の生命に脈打つことを教えられているのである。
(「日蓮大聖人御書講義録」第三十巻上 第四章 36~37ページ)
すなわち「別しての」生死一大事血脈の当体、御本仏日蓮大聖人の御生命は、「総じて」の大聖人門下の異体同心の生命に脈打つとある。決して法主一人に「法体」が伝わるのではない。
ここで「唯授一人の血脈」とある「一人」とは、御本仏日蓮大聖人の御事である。正しく「唯授一人の血脈」とは、御本仏の御生命が、広宣流布に励む我ら信者の一人一人に流れ通うことを言うのであり、「信心の血脈」の異名である。
宗門の誑惑は、「代々の法主」に大聖人の御生命が流れ通う、とすり替えるところにある。御書を換骨奪胎するのは、宗門の身上である。しかし、いかに御書の仰せを曲げようとも、宗旨の根幹たる大御本尊を「ニセ物」呼ばわりし否定した日顕に、「唯授一人の血脈」が流れる道理は無い。
2.〝何を、どのように信ずるか〟
「現在の学会では『信心さえあればよい』と指導しているようです」とあるが、もとより「信心だけ」ではない、「御書」が肝心である。
① 日興上人の御指導――――――「御書を心肝に染め」
② 五十九世堀日亨法主の談話――「信心の根本はやはり御書だよ。
御書さえあればいい」
③ 戸田会長の談話―――――――「坊主には絶対にだまされるな。
日蓮正宗も同じだぞ。
御本尊と御書以外は
信じてはいけない」
(1) 日興上人の御指導
日興遺誡置文(一六一八㌻)にいわく、
「一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間(ひま)有らば台家を聞く可き事」
(1)「御書を心肝に染め」とあり、御書第一である。
(2)「極理を師伝して」とは、日寛上人の『六巻抄』である。
(3)「台家」とは天台宗の別称であり、「天台・妙楽の六十巻」である。
月水御書(一一九九㌻)にいわく、
「経文並に天台・妙楽の六十巻の中に見え侍り」
天台大師智顗の講義三大部 妙楽大師湛然の注釈書
「摩訶止観」十巻 「止観輔行伝弘決(ぐけつ)」十巻
「法華玄義」十巻 「法華玄義釈籖(しゃくせん)」十巻
「法華文句」十巻 「法華文句記」十巻
以上、創価学会(御書全集)、聖教新聞社(六巻抄)、レグルス文庫(天台三大部)より出版されている。学会員は日興上人の御指南通り、教学に励んでいる。
宗門こそ、日興上人にお応えできるよう、きちんと学んでいるか?
(2)五十九世堀日亨法主の談話
堀日亨法主(発言当時は隠尊)に仕えた最後の僧侶(故・渡辺慈済師)が回想する。
◇
御書は、立宗七百年を迎えるにあたり、戸田会長が発願(ほつがん)し、堀上人のお力によって、昭和二十七年四月、できあがったものだ。当時は他の日蓮宗の編纂した御遺文集しかなく、宗門としてはまったく情けない状態だった。しかも、身延も立宗七百年を目指して御遺文集の決定版を出そうと企画していた。そうしたなかで、戸田会長は御書がなければ広宣流布はできない、大聖人の仏法を世界の人々に弘め理解させることはできないと洞察され、御書編纂を発願されたのである。
しかし、当時宗門では、立宗七百年の祈念出版として『日蓮正宗聖典』を出そうと準備していた。高僧をはじめ教学力のある僧侶は皆、『聖典』編纂に駆り出され、片や『御書』の編纂は堀上人お一人であった。その孤立無援の堀上人を、学会の教学部が全面的に支援したのである。皆、仕事を持ち多忙にもかかわらず、畑毛に足繁く通っては校正に完璧を期し、そのお蔭で、宗門初の『御書全集』を完成させることができた。
堀上人は何度かこの時のことを述懐されて、「御書を出すのは私の長年の夢だった。それを戸田会長が来て叶えてくれた。本山は聖典づくりで手一杯で、御書は戸田会長が一切引き受けてくれた。学会の人が来て手伝ってくれて、非常にうれしかった」としみじみいわれた。
御書は、堀上人の六十有余年にわたる教学研鑚の結晶である。しかし、これも、堀上人と戸田会長の出会いなくしては、できなかったと思うと、お二人の縁(えにし)の深さを感ぜずにはおれない。(中略)
一方の、宗門で発刊した『聖典』は、日蓮正宗が日蓮宗各派や他の興門流とどう違うのか、大石寺の正統性を明確にすることが目的とされたもので、「相伝」や「史伝」を中心に編纂された。御書は十大部などを載せただけのものだった。
これについても、堀上人は、「なぜ、聖典のなかに『家中抄(けちゅうしょう)』を載せるのか。あれは坊さんの歴史だよ。歴代の猊下だって、人間だからいろんな不備もあるし悪い面もある。史料として誤りもある。それを信者さんに一々見せて、信心のプラスになるより、マイナスにしかならないじゃないか。信心の根本はやはり御書だよ。御書さえあればいい。だから、私は聖典に『家中抄』を載せることには反対だった」と言われていた。
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
堀日亨法主は、日顕宗のように得体の知れぬ「相伝」などを振り回すことはなかった。大聖人の正義は、御書にこそ記し置かれる。御書の発刊作業は、広宣流布における偉大な前哨戦であった。
撰時抄(二八一㌻)にいわく、
「仏説に依憑(えひょう)して口伝を信ずること莫(なか)れ」
持妙法華問答抄(四六二㌻)にいわく、
「唯人師の釈計りを憑(たの)みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり」
(3)戸田会長の談話
本部幹部会での池田名誉会長の講演より。
◇
戸田先生
坊主の仕事は本来衆生を成仏させること。
しかし、自分が成仏できるか、考えたことがあるのか!
① 「目的を忘れたら腐敗する」
一、ここで、戸田先生の指導を紹介したい。
特に若い人たちは、戸田先生のことをあまり知らないと思う。だからこそ、先生の話を伝えておきたいのだ。
私は、戸田先生が言われたことは全部、書き残してきた。すべて、先生が言われた通りに行動した。
地に足をつけ、気取らず、ありのままに
誠意にかなうものはない
先生は「私は、本当にいい弟子をもった」と最高に満足しておられた。
私がいなかったら、戸田先生はない。また、戸田先生がいなかったら、牧口先生もない。これが本当の師弟である。
戸田先生は、それはそれは厳格だった。悪に対する怒りは、すさまじいものがあった。
先生は言われていた。
「邪な坊主こそ、最高の幸福たる成仏を阻む大悪人である」
まさしく、今の邪宗門は、その典型である(賛同の大拍手)。
戸田先生は、悪い坊主の本質を、鋭く見破っておられた。
先生は、述べておられた。
「なぜ宗門の堕落が始まり、腐敗していくのか。それは、広宣流布という至上の目的に生きることを忘れているからなのだ」
その通りだ(会場から賛同の大拍手)。
さらに、先生の指導を紹介したい。
「多くの坊主が考えていることは、保身であり、私利私欲をいかに満たすかだ。つまり、欲望の虜となり、畜生の心に堕してしまっているのだ」
「断じて坊主の家来になるな! 陰険な宗門に左右されるな!」
「宗門が金を持てば、必ず信徒をいじめるぞ」
「宗門は、神秘性とか荘厳性とか、深遠そうなイメージで、信徒に頭を下げさせるシステムになっているのだ」
また、こう厳しく述べておられた。
「坊主の仕事は本来、衆生を成仏させることだ。しかし、一体、自分自身が成仏できるかを考えたことがあるのか!」(大笑い、賛同の大拍手)
(新時代第10回本部幹部会 2007年9月6日)
② 「恩知らずから堕落が始まる」
一、先生は、当時からこう戒めておられた。
「坊主には絶対にだまされるな。日蓮正宗も同じだぞ。御本尊と御書以外は信じてはいけない」
その上で、広宣流布の大精神に立って、宗門を最大に外護された。
先生の後を継いだ私も、宗門の発展のために力を尽くした。
私の時代に行なった御供養だけでも、どれほど莫大なものになるか。〝これほど尽くした人間は、いない〟というほど、さまざまな形で尽くし抜いた。
このことは、御本尊の前で明確に言い残しておきたい(大拍手)。
さらに、先生の指導を紹介したい。
「広宣流布の大闘争に、少しなりとも邪魔だてする坊主があれば、青年は決起して鉄槌を加えよ」
「宗門は、金がたまれば、必ず威張り、贅沢をする。それどころか、広宣流布を断行しゆく正義の団体である学会に嫉妬し、敵対してくるだろう」
まさにその通りになった。御供養を取るだけ取って、日蓮大聖人に違背した邪宗門の罪は、あまりにも大きい。
戸田先生は、本当に鋭かった。
私は、これまで世界の多くの学者と語り合ってきた。しかし先生は、どんな学者にも増して鋭かった。偉大だった。天才的な指導者であった。
また、先生はこう述べておられた。
「宗門は、学会から離れるならば、大聖人の正義を踏みにじった、謗法の宗でしかなくなってしまう」
「恩知らずの坊主ども、不知恩の元政治家ども、そして元幹部どもなどに、この崇高な学会を乱されてたまるものか!」
「会員が喜び、希望に燃えるように、指導できる幹部になれ!」
「恩知らずから、魔が動く。恩知らずから、堕落は始まる。恩知らずから、畜生になる」
すべて、後世のために伝え残しておきたい(大拍手)。
(同)
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