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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:46」を破折する(その三) 連載63回

妄説:46 学会では「宗門は自らが、三宝の次第を越えた法主信仰を立て、僧宝としての働きを失っている」(聖教新聞 H三・一一・二〇)といっていますが、本当でしょうか。

 本宗には「法主信仰」などというものはありません。
 本宗においては今日に至るまでの七百余年にわたり、本門戒壇の大御本尊を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝と仰ぎ、また第二祖日興上人を随一とする御歴代上人を僧宝と拝して、僧俗ともに信心修行に邁進(まいしん)してきたのです。
 僧宝とは、大聖人が『四恩抄』に、
「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」(新編 268頁)
と示されているように、大聖人の仏法を令法久住(りょうぼうくじゅう)・広宣流布せしめるために絶対になくてはならないものです。
 かつて池田大作氏は長野研修道場において、
「日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた」(広布と人生を語る 三-二五六頁)
といいましたが、当時も今も宗門は全く変わっておりません。
 現御法主日顕上人は毎朝の丑寅(うしとら)勤行はもちろんのこと、全国各地へ御親教され、休む間もなく宗内僧侶及び全国信徒の教導に当たられております。また、総本山の寺域整備や諸堂宇の荘厳にも心を砕(くだ)かれ、常に正法興隆のため、率先(そっせん)して法務に務められているのです。しかも、平成五年十二月には、スペインに欧州初の本宗寺院を建立され、その入仏法要の大導師まで勤められました。宗内において、このお姿を知る人は、誰一人として尊敬の念を抱(いだ)かない者はいないのです。
 今の宗門は「僧宝の働きを失っている」どころか、御法主上人が常に第一線に立たれて、大いに僧宝の働きをなしているのです。

破折:
6.先師日達法主を怨嫉

「総本山の寺域整備や諸堂宇の荘厳にも心を砕(くだ)かれ」云々とあるが、確かに日顕は法主に就任して以降、六壺、大化城、大客殿、そして正本堂と、堂宇伽藍を次々に破壊した。
 日顕は、寄進者である創価学会の謗法を理由にするが、建立者は先師の細井管長(日達法主)である。先師が丹精込めた大奥の庭園に至っては、学会とは何等の関係もない。
 謗法者からの寄進を潔しとしない、と言うならば、学会が建てた何百か寺もの末寺をすべて、学会に返還すべきである。あるいは取り壊せばよい。しかし返還も取り壊しも一切しないのであり、〝坊主の寝床〟は謗法者からの寄進でもかまわないのか。
 何ゆえここまでの破壊を、日顕は徹底して行なったか。それは、相承をしてくれなかった先師・細井管長に対する〝怨み〟のゆえである。
 日顕が教学部長のとき、いわゆる河辺メモに「Gは話にならない」「人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ」とあり(「妄説:1」参照)、当時からG(猊下=細井管長)を批判、軽蔑していたのであり、細井管長が遺した事績を大事にするわけがない。こんな男に細井管長が相承しなかったのは、当然のことである。
               ◇
 日達上人は、話題が次の法主の問題になっても、「信雄(しんのう)(日顕のこと)はなあー」と、何時も言葉を濁らせておられた。信心の面、人格や人間性の面で、上に立つのは難しいと考えておられたのである。
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 第三文明社)

 日顕は、細井管長逝去の二か月ばかり前、総監に就任したばかりで、自分の上には能化も重役もいる。どうあっても、日顕は猊座から遠い状況だった。
 細井管長は生前、日顕の僧階を能化に昇格させなかった。日顕の心底には、細井管長に対するわだかまりがあったろう。その反発心が、重役会議での一世一代の言葉となって出たのである。
               ◇
 今日までどなたにも秘してきたが、実は昨年四月十五日、総本山大奥において猊下と、自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に、御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜ったことを御披露する。
(『大日蓮』昭和五十四年九月号掲載、原文のまま)

 この一口の自己申告で、重役会議を呑み込んでしまった。しかし、どう言い繕ったところで、どこかで事実と噛み合わないのはどうしようもない。すぐに齟齬(そご)が出てしまう。
               ◇
 光久諦顕が、かつて(宝浄寺に於て、鎌田卓道論文『相承の有無』の反論会議の時)光久が猊下に「四月十五日にしていいのですか。あの日は達師が忙しい日だが」と云った記憶があると云っていた。
(昭和六十一年十月四日の「河辺メモ」に記されている東京・八王子市の法忍寺住職・水谷慈浄の証言)

 日顕は就任早々、細井管長ゆかりのものを、すべて排除することから仕事を開始した。
               ◇
 細井管長は二十年、在位したが、この間、大坊で寝起きしていた。細井管長亡き後、娘婿の菅野を中心にして細井管長の私物が片づけられた。(中略)
 日顕は大坊に移るにあたって言った。
「日達上人のニオイのするものは、みなイヤだ」
 このような〝お言葉〟もあり、「日達上人のニオイのする」私物一切が急遽、片づけられることになったのだ。細井管長の遺族らは故人を偲ぶよすがもなく、新たに登座した権威の象徴に追い立てられるようにして、片づけをしなければならなかった。哀れだったのは、細井管長がかわいがっていた生き物たちである。細井管長が世をはばかって飼っていた天然記念物のタンチョウヅル、わざわざ小屋を造って飼っていた多くの鳥たち、大坊で細井管長のお供をしていた犬たちなどなどが、〝お目通り適わぬ身〟となり大坊から追い出されることとなった。日顕は菅野に言った。
「早く、どこでもいいから、持っていけ」
(中略)生き物や調度品を持ち出してニオイが消えるわけでもなく、日顕はまもなく、細井管長が住んでいた大奥の庫裡部分そのものを破壊してしまう。新しく作ったのは、日顕好みの京なめりの和風の建物。贅の限りを尽くしたものであった。この大坊の「ニオイ」消しが完了するのは、登座九年二カ月後の昭和六十三年十月、六壺の新築をもってであった。六壺は在勤の学衆が勤行をする場で、大石寺発祥の由緒ある施設である。しかも、細井管長時代に造られた六壺は日本を代表する和風建築として、日本建築学会で大変に高く評価されたものだった。無論、充分使用に耐え、壊す理由などどこにもなかった。日顕は六壺と前後して大化城を取り潰すとともに、大講堂のそばにあり、園遊会などに使っていた「流れの庭」も壊した。これらの経過からしても、日顕が細井管長から「血脈相承」を受けたと見る者は、まずいないだろう。日顕は、「日達上人のニオイのするもの」すべてを壊し、自らが新築していった。
(「暁闇」北林芳典著 報恩社 2002年12月出版)

 細井管長が建立した正本堂を破壊した日顕が、新たに建てた奉安堂は「六十七世」に合わせ、その高さが六十七メートル。正本堂が六十六メートルだったので、それより一メートル高くしたのである。こんな語呂合わせのために、先師の業績を打ち砕いたのか。
 十七世日精が御影堂の建立(敬台院の寄進による)等により、かつて「中興の祖」とされたように、日顕は宗門の歴史において、時代を画した法主として名を残したいとする野望に駆られたのである。しかし宗門史において、すでに建立された堂塔伽藍を破壊した法主の記録は無い。

「一、大石寺は御堂(みどう)と云ひ墓所(むしょ)と云ひ日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(日興跡条々之事)

 御堂も墓所も、修理を加えることが日興上人の教えである。八百万信徒の御供養で建立された正本堂を破壊した日顕は、日興上人の御咎めを蒙ること、火を見るより明らかである。

7.〝僭聖増上慢〟の行躰

〝最悪の僧侶〟「僭聖増上慢」の行躰を述べられた御文がある。

 下山御消息(三五〇㌻)にいわく、
「此等の経文の亀鏡をもて両火房が身に指し当て見よ少もくもりなからん、一には名は持戒ときこゆれども実には放逸なるか・二には慳貪なるか・三には嫉妬なるか・四には邪見なるか・五には婬乱なるか・此の五にはすぐべからず、又此の経は両火房一人には限るべからず昔をかがみ今をもしれ」

(これらの経文の所説を鏡として両火房の身にあてはめてみよ、少しの曇りもなく符合するではないか。一つには名は持戒の僧と世に聞こえるけれども、実は放逸であるか、二には慳貪であるか。三には嫉妬であるか、四には邪見であるか、五には婬乱であるか。まさに、その実態は経文に説く五事に尽きるではないか。また、これらの経は両火房一人だけでなく、今日の例にもあてはまる)

 大聖人は、僭聖増上慢の良寛を、世間には持戒の僧と言われるが実際は①勝手気ままで、②欲が深く、③嫉妬深く、④邪見で、⑤淫乱であるとする五事に、ことごとく符合すると指摘された。
 この五事は、今日の日顕に全部当てはまる。現代の僭聖増上慢こそ日顕である事実を、大聖人は今に証明されているのである。

① 「放逸」(勝手気ままに乱暴を働くこと):正本堂、大客殿、大化城、六壺、大奥の庭園等々、先師日達法主が建立したものを、全て破壊した。
② 「慳貪」(欲深で物惜しみすること):末寺は破壊せず、学会に返還もしない。
③ 「嫉妬」:池田名誉会長への嫉妬から学会を破門し、破和合僧の大罪を犯した。
④ 「邪見」:大御本尊を不遜にも「ニセ物」と断じ、その上で日顕自身を大御本尊と「不二の尊体」と称する大謗法を犯した。
⑤ 「婬乱」:宗門初の海外出張御授戒の任にありながら、現地の売春婦と行為に及び、警察沙汰となった。

 破仏法の日顕を「僧宝」と称するなど、日興上人を侮辱してやまないものである。

 新池御書(一四四二㌻)にいわく、
「彼が心は犬野干の心には劣れりと説き給いて候なり(中略)何に況やそれに劣れる今時の者共をや」

(彼らの心は犬や狐の心にも劣る、と説かれた。……ましてやそれに劣る今の者たちは、なおさらのことである)

 犬・野干なりとも、慈悲心をもって導くことができる。だが宗門の輩は犬・野干にも劣り、教え導いたところで虚しい。日顕宗は、法主信仰に相応しい場所(チベット)の山中に居を移し、塚を掘って巣窟となし、人里に降りてこないでほしい。

8.唯一の和合僧・創価学会

 邪宗門は、日顕・日如の傲慢とともに滅びゆくのみである。

 スイスの哲学者ヒルティの箴言(しんげん)より
「傲慢(ごうまん)は常に没落の寸前に現われる」(ヒルティ著「幸福論」草間平作・大和邦太郎訳、岩波書店)

 五十六世日応が説いた通り、唯授一人の血脈は〝僧侶の独占物〟では無い。日蓮正宗の法脈が日顕のニセ相承で滅尽した今は、学会が日蓮大聖人の仏法の後継者であり、広義の僧宝である。我らは尽未来際の広布の先陣として、進み行くのみである。

 三大秘法禀承事(一〇二三㌻)にいわく、
「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり」

 大聖人の大法を虚妄にしてはならない。令法久住の任を担うは、信心の血脈が通う唯一の和合僧、我ら学会のみである。

「この聖業は、だれびとの手によるか、仏意はかりがたきことなれども、創価学会を除いてほかになし。恩師牧口先生以来の因縁であり、宿命である。いまはただ前進あるのみ。闘争あるのみ」(戸田会長)

「広宣流布をなすのは、学会以外にない。われわれは和合僧なりと、こころから叫ぶ団体である」(同)

 諸法実相抄(一三六〇㌻)にいわく、
「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」

 大聖人の御遺命は、必ず我ら学会員が達成する。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:46」を破折する(その二) 連載62回

妄説:46 学会では「宗門は自らが、三宝の次第を越えた法主信仰を立て、僧宝としての働きを失っている」(聖教新聞 H三・一一・二〇)といっていますが、本当でしょうか。

 本宗には「法主信仰」などというものはありません。
 本宗においては今日に至るまでの七百余年にわたり、本門戒壇の大御本尊を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝と仰ぎ、また第二祖日興上人を随一とする御歴代上人を僧宝と拝して、僧俗ともに信心修行に邁進(まいしん)してきたのです。
 僧宝とは、大聖人が『四恩抄』に、
「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」(新編 268頁)
と示されているように、大聖人の仏法を令法久住(りょうぼうくじゅう)・広宣流布せしめるために絶対になくてはならないものです。
 かつて池田大作氏は長野研修道場において、
「日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた」(広布と人生を語る 三-二五六頁)
といいましたが、当時も今も宗門は全く変わっておりません。
 現御法主日顕上人は毎朝の丑寅(うしとら)勤行はもちろんのこと、全国各地へ御親教され、休む間もなく宗内僧侶及び全国信徒の教導に当たられております。また、総本山の寺域整備や諸堂宇の荘厳にも心を砕(くだ)かれ、常に正法興隆のため、率先(そっせん)して法務に務められているのです。しかも、平成五年十二月には、スペインに欧州初の本宗寺院を建立され、その入仏法要の大導師まで勤められました。宗内において、このお姿を知る人は、誰一人として尊敬の念を抱(いだ)かない者はいないのです。
 今の宗門は「僧宝の働きを失っている」どころか、御法主上人が常に第一線に立たれて、大いに僧宝の働きをなしているのです。

破折:
4.鬼畜が「地獄絵図」を現出

 宗門は日顕を指して「宗内において、このお姿を知る人は、誰一人として尊敬の念を抱(いだ)かない者はいないのです」と言う。たしかに、所化に暴力を振るう日顕の姿に「恐怖の念を抱かない者はいない」であろう。
 菅原雄政住職(会館寺院「地涌山大誓寺」愛媛県伊予市)が、当時の日顕の所業を明かす。
               ◇
 菅原 私は昭和61年に出家し、大石寺に行きました。そこで目の当たりにした日顕の行状は、まさに「鬼畜」そのものだった。
 なかでも、初めて丑寅勤行に参加した時のことは今でも忘れられない。
 700年間続いている、広宣流布祈願の丑寅勤行に僧侶として参加できる。そう考えただけで、私は夢と希望でいっぱいでした。
 ところが、実態はこの世の物とは思えない「地獄絵図」だったのです。
 弓谷 我々も、そうした実態は聞いていますが、ぜひ、詳しく教えてください。
 菅原 丑寅勤行が終わって、日顕と一緒に大奥に戻ると、突然、日顕がほかの所化を怒鳴りつけたんです。
〝これは見てはいけない〟と頭を伏せながら耳を澄ますと、日顕が「バカ野郎!」「きさま!」と口汚く罵る声と、中啓(ちゅうけい)で所化を30発、40発と叩きつける音、そして、泣き叫ぶ所化の声だけが聞こえてきた。
 その瞬間、夢も希望も一切が打ち砕かれる思いだった。
 喜多 異常だ。狂っている。こんな悩乱男が法主のはずがない。
 宮内 そういうことが何度かあったんですか。
 菅原 しょっちゅうでした。丑寅勤行だけじゃない。昼間の法要なんかでも「太鼓の音が合っていない」とか「太鼓を打つ所化がワシを見た」などと下らない文句をつけては、所化を怒鳴りつける。中啓で叩く。
 木村 日顕宗の坊主が皆、おかしくなるのも無理はない。全部、あの「ニセ法主」が元凶だ。
(発言者:木村副四国長、宮内四国婦人部長、弓谷男子部長、喜多四国青年部長、改革僧侶 菅原雄政住職 『聖教新聞』2004年12月1日)

 菅原住職は、このようにも証言している。
               ◇
 日顕法主は、朝晩の勤行もあげないんです。私が大石寺にいた四年間いちども見たことがないからこれは間違いない。信心のない教師に弟子が殴られる。これには失望しましたね。
(「別冊宝島225号」1995年7月12日発行)

 朝晩の勤行もあげない法主が「大いに僧宝の働きをなしているのです」とは、噴飯ものである。

5.海外でも日顕を排斥
(1)スペインで居眠り勤行

 宗門は、日顕が「僧宝の働きをなしている」証拠として、「平成五年十二月には、スペインに欧州初の本宗寺院を建立され、その入仏法要の大導師まで勤められました」と言う。その法要は、いかなる様相であったか。
               ◇
 杉山 平成5年に日顕がスペインに遊びに行った時も、いちばん肝心の法要で、あいつは居眠りをしていた。
 青木 あの事件も、すっかり有名になったな。口をダランと開けて、みっともない限りだったな(笑い)。
 原田 日顕の居眠り勤行の姿をみたからか、あの後、スペインでは多くの檀徒が脱講。坊主が何度も交代し、檀徒の組織もガタガタじゃないか。
 秋谷 日顕が遊び半分で行って居眠り勤行をした結果が、これだ。これこそ仏罰だ。
 杉山 法華講の連中は、日顕の居眠り勤行を〝やや緩やかに、まばたきした瞬間〟なんて言い訳していたっけな。
 弓谷 「緩やかな、まばたき」(爆笑)。それこそ居眠りしている状態じゃないか(大笑い)。
(発言者:秋谷会長、青木理事長、原田副理事長、杉山青年部長、弓谷男子部長 『聖教新聞』2004年11月5日)

(2)台湾では「花和尚」

 杉山 最近も日顕は、台湾で非難中傷の集中砲火を浴びていたようじゃないか(爆笑)。
 西  その通りだ。台湾の新聞、テレビ、インターネットのニュース等で、大々的に報道されていた。
 弓谷 僕も台湾のメンバーから聞いた。今、それはそれは、大変なことになっているそうだ(大笑い)。
 台湾の三大紙の一つの「中国時報」でも、いきなり「日本の花和尚」(11月15日付)と、特大の見出しが、いっぱい(爆笑)。
 青木 「花和尚」とは「ハレンチ坊主」「遊興坊主」という意味だ。
 原田 大手の新聞に「花和尚」だよ(笑い)。もはや台湾で定番のキャッチフレーズだな。
 弓谷 さらに記事には〝世界中で物議を醸している話題の人物・阿部日顕〟と紹介されていた。
 杉山 〝「日本の花和尚」と形容されるこの人物は、酒を飲み、肉を食らい、訪台の際の仰々しい警備は、大統領にも引けを取らない〟とバッサリだ(笑い)。
 弓谷 さらに〝日顕は妻帯して子どもをもうけ、贅沢三昧している。その様は、台湾の仏教徒の理念とは、ほど遠いものである〟と厳しく糾弾されていた。
 秋谷 いいことなんか、一つも書いてない(大笑い)。
 西  ほかの台湾紙「蘋果(りんご)日報」(11月16日付)も、こう報道していた。
〝かつて2度、台湾を訪れている齢80過ぎの法主・阿部日顕は、五つ星級のホテルに宿泊し、数十人もの用心棒を従える。その物々しい警備たるや「大統領級」であった〟と報じられていた。
 青木 要するに「僧侶ではない」「坊主失格」ということだ(爆笑)。
(発言者:秋谷会長、青木理事長、原田副理事長、杉山青年部長、弓谷男子部長、西 東京男子部長 『聖教新聞』2004年12月10日)

(3)「花和尚」の続報

 原田 前回は、日顕のやつが台湾のメディアから糾弾の集中砲火を浴びているという話が出た。
 杉山 他の新聞にも〝妻を娶(めと)り、肉を食らう日本の和尚、阿部日顕が物議を醸している〟〝仏教の戒律には、お構いなしのくせに、日顕が来る会場には多くの規制が設けられていた〟(「哈客(ハッカ)新聞」)等々、ひっきりなしに報道されていた(笑い)。
 弓谷 テレビのニュースも、すごかった。昼夜のべつまくなしに〝花和尚・日顕〟の姿が不様に映し出されていたようだ。

 異常な供養集め

 西  台湾のテレビ局「TVBS」でも〝日蓮正宗の食肉飲酒の法王〟と、おどろおどろしいタイトル付きで、けなしにけなされていた。
〝阿部日顕は妻を娶って子どもを生ませ、肉を食らい、酒を飲んでいることから、「花和尚」呼ばわりされている〟と報じられていた。
 杉山 このテレビ局は別の日にも〝一定額の供養を納めないと中に入って説法を聞くことができない〟と日顕宗の異常性を指摘していたそうだ。
 青木 供養の額で信者を差別か。日本と、おんなじやり口だ。
 弓谷 「東森(とうしん)テレビ」というケーブルテレビ局も、夜のニュースで〝日蓮正宗では、阿部日顕が妻帯し、肉を食らっているほか、他の僧侶の大半も同様である〟などと伝えていた。
 西  台湾の四大テレビ局の一つ「台視(台湾テレビ)」も、すごかったようだ。
 日顕の映像を流しながら〝この男が妻子をもうけ、肉を食らう日本の阿部日顕である〟なんて〝解説〟していた(大笑い)。
 杉山 SGIのメンバーも言っていた。
「昼休みに職場でニュースを見ていたら、いきなり画面に日顕の異様な姿が映ったので驚いた。あんなのが台湾中のテレビに流れてるんだから、仏教界の恥さらしだ」と呆れ返っていた。
 青木 まったくだ。あの嫉妬深いヘビのような目をした顔がテレビに出る。考えただけで身の毛がよだつ(笑い)。
 弓谷 それもワイドショーや情報番組なんかじゃない。昼、夜の「ニュース」だよ。日顕は、よっぽど問題のある坊主ということだ(大笑い)。
 西  台湾はインターネットも盛んだ。日顕はネット上でも、存分に醜態を晒していた(笑い)。
 杉山 「中廣新聞ネット」でも〝齢81歳という、この高齢の日本仏教・日蓮正宗の法王は、かつて食肉飲酒や妻子をもうける等のスキャンダルで世間の非難を浴び、「花和尚」呼ばわりされた〟と、日顕を極めて正確に紹介していた(爆笑)。

〝ヤクザまがい〟

 原田 そもそも日顕が〝花和尚〟と命名されたのは(笑い)、平成13年に台湾に行った時だ。
 弓谷 台湾の有力紙に「東洋花和尚」と大きく掲載され、完全に笑いものになった。
 原田 現地のマスコミから〝日本の花和尚が来た〟と、さんざんに叩かれ、バカにされ、大恥をかいていたな。
 杉山 その通りだ。日顕が台湾に到着した、その日に、有名な週刊誌が「日本花和尚。奢華訪台(しゃかほうたい)(日本のハレンチ坊主が豪勢な訪台)」と大々的に報道したんだ。
 西  大変な人気の週刊誌で、3ページも特集されていたな(笑い)。
 杉山 さらに地元夕刊紙でも「高級スーツに用心棒つき」「まるでヤクザまがい」等々の見出しで、日顕を激しく糾弾していた。
 青木 日顕はこれだけ徹底的にバカにされたんだ。少しでも常識があれば、もう行けないよ(大笑い)。
 原田 まったくだ。わざわざ恥をかきに行くようなものだものな。

 極悪人扱い

 弓谷 そもそも台湾の仏教は、伝統的な中国仏教を受け継いでいる。戒律も大変に厳しい。坊主が「肉食」や「妻帯」なんてもってのほかだ。
 青木 日顕みたいに〝金狂い〟〝芸者狂い〟の放蕩坊主なんか、いの一番に忌み嫌われるというわけか。
 原田 当然だな。
 秋谷 それにしても台湾での日顕の報道は尋常一様じゃない。いったい、どれだけバカにされているんだ(笑い)。
 弓谷 今はインターネットで海外のメディア報道も日本で知ることができます。それによると、この11月だけでも日顕を取り上げた主なメディアは、新聞では「中国時報」「蘋果(りんご)日報」。
 杉山 テレビでは「台視(台湾テレビ)」「中視(中国テレビ)」「TVBS」「中天新聞台」「東森新聞台」「八大総合台」などが報じていた。
 西  「TVBS」では2分にわたって、日顕のことを放映していた。「東森新聞台」も3分以上も日顕と宗門の問題性を取り上げていた。
 弓谷 さらにインターネットのニュースでも「中国電子報」「蕃薯藤新聞」「東森電子報」「PC home新聞」「TVBS電子報」「台湾テレビ電子報」「中国テレビ電子報」「蘋果日報」などが一斉に報じていたな。
 杉山 その、どれもが〝日本の花和尚〟だの〝妻子がいる〟だの〝食肉飲酒の法王〟(笑い)。
 青木 極悪人扱いか(大笑い)。
 原田 日本の宗教界で、これだけ台湾のメディアで騒がれている坊主なんて、いるのか?
 弓谷 いいえ。一人もいません(笑い)。
 杉山 台湾メンバーも「あんな下らない放蕩坊主は相手にしても、しょうがない。バカバカしい」とバッサリ斬り捨てていたな(笑い)。
 原田 まったく、その通りだ。正しい(笑い)。
 弓谷 日本の恥さらし! 花和尚の日顕か(爆笑)。

 癡猿坊主の醜態

 秋谷 日蓮大聖人は「牛馬(ぎゅうば)の如(ごと)くなる智者(ちしゃ)どもが日蓮が法門を仮染(かりそめ)にも毀(そし)るは糞犬(やせいぬ)が師子王(ししおう)をほへ癡猿(こざる)が帝釈(たいしゃく)を笑ふに似(に)たり」と厳然と仰せだ。もはや日顕みたいな「牛馬」「糞犬(やせいぬ)」「癡猿(こざる)」坊主は、どこへ逃げたって惨めな醜態を晒すだけだ。
 青木 その通り。〝花和尚〟は、どこまでいっても〝花和尚〟だ(大笑い)。日顕は、まさかこんなことになるとは思ってもみなかっただろう。仏法は厳しいよ。
(発言者:秋谷会長、青木理事長、原田副理事長、杉山青年部長、弓谷男子部長、西 東京男子部長 『聖教新聞』2004年12月11日)
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:46」を破折する(その一) 連載61回

妄説:46 学会では「宗門は自らが、三宝の次第を越えた法主信仰を立て、僧宝としての働きを失っている」(聖教新聞 H三・一一・二〇)といっていますが、本当でしょうか。

 本宗には「法主信仰」などというものはありません。
 本宗においては今日に至るまでの七百余年にわたり、本門戒壇の大御本尊を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝と仰ぎ、また第二祖日興上人を随一とする御歴代上人を僧宝と拝して、僧俗ともに信心修行に邁進(まいしん)してきたのです。
 僧宝とは、大聖人が『四恩抄』に、
「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」(新編 268頁)
と示されているように、大聖人の仏法を令法久住(りょうぼうくじゅう)・広宣流布せしめるために絶対になくてはならないものです。
 かつて池田大作氏は長野研修道場において、
「日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた」(広布と人生を語る 三-二五六頁)
といいましたが、当時も今も宗門は全く変わっておりません。
 現御法主日顕上人は毎朝の丑寅(うしとら)勤行はもちろんのこと、全国各地へ御親教され、休む間もなく宗内僧侶及び全国信徒の教導に当たられております。また、総本山の寺域整備や諸堂宇の荘厳にも心を砕(くだ)かれ、常に正法興隆のため、率先(そっせん)して法務に務められているのです。しかも、平成五年十二月には、スペインに欧州初の本宗寺院を建立され、その入仏法要の大導師まで勤められました。宗内において、このお姿を知る人は、誰一人として尊敬の念を抱(いだ)かない者はいないのです。
 今の宗門は「僧宝の働きを失っている」どころか、御法主上人が常に第一線に立たれて、大いに僧宝の働きをなしているのです。

破折:
1. 「僧」ならぬ〝毛のなき猿〟

 宗門が『四恩抄』の一節を持ち出してきた理由が奈辺にあるか、それは御書を「僧俗差別」のもとに読み替え、学会を見下す魂胆にある。

 四恩抄(九三七㌻~九三八㌻)にいわく、
「仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か、(中略)僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す」

 宗門の輩が、本抄に仰せの「僧」を自分等のことと思っているのなら、大笑いである。「僧」とは「法華経の行者」であり、令法久住のために身命を投げ打つ人、日蓮大聖人のお立場と拝するのである。
 かつて宗門の中に、法のために身命を投げ打った人がいたか? 天奏の途上で遷化された日目上人以降、聞いたことが無い。
 江戸時代、各地で在家信者が弾圧にあったが、それぞれ健気な信心を貫いた。それに対し、宗門は難を恐れて関わり合おうとはしなかった。
 軍部政府による仏教弾圧の嵐の下、大聖人の御書を削除したのは宗門・法主であった。この時、大聖人の法灯を最後まで守ったのは、在家の牧口会長である。真正の「僧」であったと言えよう。
 四恩抄では宗門のような輩を、次の通り仰せである。

「無智・無戒にして髪ばかりを剃(そ)りて守護神にも捨てられて活命のはかりごとなからん比丘比丘尼」(九三八㌻)

(無智で無戒のまま髪を剃り、形式だけの出家となったために守護の諸天善神にも捨てられて、生命をつないでいく手段のない僧や尼)

 大聖人の謗法厳戒の誡めを守らず、日興上人の二十六箇条の御遺誡に遵(したが)わず、「髪を剃って袈裟を着ただけ」の、形式だけの出家者、それが宗門の徒輩である。

「一、僧侶にして信心なしと云わば毛のなき猿が衣をつけたようなものである」
(戸田会長「寸鉄」1953-07-20 昭和28年)

2.「血脈相承は在家に授けてよい」

 真実の「僧」とは、剃髪や袈裟など、外形の姿で決まるものではない。大聖人の御真意を実行して令法久住する者を言うのであり、そこに僧俗の区別はない。そのことを、かつて大石寺の法主が述べたことがあった。
「宗門の僧侶の中に、法を譲るべき器の者がいなければ、信心が深い在家に相承を授けることは、何ら差し支えがない(趣意)」
 このことは、大いに肯けることである。これは、五十六世大石日応が「在家相承」の伝説に登場する「浄蓮」と言う人物について、涅槃経の四衆平等の文を根拠にして述べたものである。
 八世日影のときである。相承するに相応しい人物がいないので、在家である柚野浄蓮なる人物に伝授したとする説が、かねてより宗門にあった。
               ◇
 影公大衆に語って云く血脈を伝ふべき機なき是我が悲嘆なり、終に応永二十六年己亥病気の時油(柚)野浄蓮に血脈を授けて云く、下山三位阿闍梨日順は血脈を大妙に伝ふ其の例なきに非ず、公白衣たりと雖も信心甚だ深き故に之を授く伝燈を絶えざらしめよと教示して、八月四日没したまふ。
(十七世日精著「家中抄下」/『富士宗学要集』第五巻二五五頁)

 この説に立脚して日応は、「金口嫡々相承」とは僧侶だけでなく、在家に継承されても何の不思議もないのである、と説明した。後年、五十九世堀日亨法主は「実際に相承はなかったようである」と否定する見方をとり、浄蓮への相承の話はあくまで伝説であるとしている。だが、日応のこの主張は、宗史において画期的なことであった。
               ◇
 今吾カ金口嫡々相承ノ最要ハ是等惣付ノ類ニアラストイヘトモ其ノ状態ニ至ツテハ彼此異ルコトナク偏ニ正法ヲ護持スルニアルナリ故ニ當器ノモノナクンハ優婆塞・優婆夷ニ附スルモ何ノ妨ケカ之アラン況ヤ浄蓮ハ精師記ニ云フカ如ク公白衣タリトイエトモ信心甚深ク故ニ之ヲ授ク
(法之道 研究教学書 巻二十七)

 ところが日顕宗では日応の言葉を、あらぬ方向に解釈しようとする。

「もし在家の浄蓮が本当に相承を受けるとすれば、それは当然出家した後でなければならぬとの意味」(早瀬日如『大白法』H16.2.1)

 これは全く邪推の域を出ない。八世日影は「出家した浄蓮」を求めたのではない、「白衣タリトイエトモ信心甚深ク故ニ」(在家であっても信心がはなはだ深いゆえに)、伝授したと伝えられるのである。
 日応が「優婆塞・優婆夷(=男性信者・女性信者)ニ附スルモ何ノ妨ケカ之アラン」と表明した言葉の中に、「出家しなければ相承は相ならぬ」と取れる含みなど、どこにも無い。
 宗門が邪推するわけは、日応が「當器ノモノナクンハ(=宗門僧侶に法を継ぐべき器の者が無ければ)」と言ったことへの反感がある。加うるに「一山の僧侶が束になっても、一人の在家に敵(かな)わない」、まぎれもない事実が悔しいゆえに、難癖を付けたいのである。
 これは〝坊主の安物のプライド〟にこだわった、在家に対する嫉妬なのである。

(引用:「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)

3.僧の姿をした在家

 前述の浄蓮への相承は、あくまで伝説であった。しかし法主の意向さえあれば、在家相承は可能であったはずである。しかし明治以降、僧侶が妻帯するようになってから、「寺族」という名の閨閥ができ、血族の利害関係で宗門管長の座が争われるようになった。当然、法主の意向だけで在家に相承することは、宗門全体から見れば許されないこととなったわけである。
 おぞましいが、宗門の名家といわれる寺族の実態を見てみる。
               ◇
 早瀬、細井、高野家が、いわゆる宗門御三家といわれ、これに阿部、柿沼、藤本家などが続く。こうした血族に法類が加わり、いくつかの閥を構成していく。名門の家系では祖父、父、子と高位の僧位を獲得し、都市部の収入の多い寺格の高い寺の住職を独占し、これを盥(たらい)まわしに私物化していく……。
(『「山の中」の破戒僧たち』安部義和著 潮出版)

 そもそも大聖人、日興上人は「聖僧」(肉食・妻帯をしない僧侶)であらせられ、日興上人は、弟子にもこのことを受け継ぐべく定め置かれたのである。

 日興遺誡置文(一六一九㌻)にいわく、
「一、先師の如く予(よ)が化儀も聖僧為(た)る可し、但し時の貫首(かんず)或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も衆徒に差置く可き事。(中略)此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず」

 ところが、宗門は時の政府によるたった一通の布告、
「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事(今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪等勝手たるべし事)」をもって、この御遺命を簡単に棄て去ってしまったのである。
 宗門初の海外出張御授戒という大任を等閑(なおざり)にして、シアトルで事件を起こした日顕は、遺誡置文に違背した失(かど)をもって平僧に降格されるべきであった。

 松野殿御返事(一三八六㌻)にいわく、
「遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし」

〝遊戯雑談〟どころか、売春婦と料金のトラブルを起こし、警察官に尋問された破廉恥僧・日顕は、「法師の皮を著たる畜生」以下だったのである。だが日顕は帰国後も、教学部長という肩書を外されることは無かった。宗門では、御遺誡は死文となっていたのである。
 宗門の輩は、「僧の姿をした在家」「ニセ僧侶」でしかない。さらには「日興が末流に有る可からず」と、日興上人から破門までされていたのである。
 それでいながら、彼らはこれまで随分と在家を見下してきた。エセ僧侶には散々騙されてきたが、我らはもう手を緩めない。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:45」を破折する(その二) 連載60回

妄説:45 日蓮正宗の僧宝について、『当流行事抄』には日興上人に限るとあり、『当家三衣抄』には「御歴代の諸師」とありますが、どちらが正しいのですか。

 御法主日顕上人は「法華講連合会第二十八回総会」の折に、
「大聖人様が下種の仏宝であり、南無妙法蓮華経の大御本尊が法宝であるのに対して、久遠常住の下種三宝、つまり化導の上の下種三宝の僧宝とは、その随一(ずいいち)が二祖・白蓮阿闍梨(あじゃり)日興上人様にあらせられる」(大日蓮 547-66頁)
と指南されました。
 この下種三宝観は、僧宝として日興上人お一人に御歴代上人を集約された姿であり、常住不変の義を表わしています。
 また日寛上人が『当流行事抄』で、
僧宝を日興上人お一人に限定される御文がありますが、これは客殿などに見られる別体三宝の奉安形式を意図して述べられたものです。
 しかし、これを「伝持」の上からいうならば、御歴代上人も僧宝になるのです。
 日寛上人の『当家三衣(さんね)抄』に
「南無僧とは(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首(そうかんず)、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡嫡付法・歴代の諸師」(聖典 971頁)
と、伝法所持の上から御歴代上人も僧宝に入ることが示されています。
 私たちは、御本仏大聖人以来の血脈付法の御歴代上人の御指南に従って、本門戒壇の大御本尊を深く信順し、信心修行を実践していくところにのみ、真の即身成仏がかなうのです。

破折:
5.思想統制に乗じた〝僧侶信仰〟

 仏教一般における三宝には、一体三宝・別体三宝・住持三宝という立て方がある。『三宝抄』には「末法下種の三宝」との文言があり、それが「住持三宝」に相当する。
 住持三宝とは、「末代までも世に保存されてとどまる三宝」を言う(中村元「佛教語大辞典」東京書籍、一九八一年、六六五頁)。それゆえに住持三宝における僧宝とは、〝現在の和合僧〟を含めるのである。
 前回に述べた通り、『当家三衣抄』及び『三宝抄』における歴代の諸師、すなわち「末法下種の三宝」を信仰の対境とすると、大聖人及び日興上人と、現世に生きる貫首(かんず)とを、「同格」あるいは「同一視」するに至る〝僧侶信仰〟となる。
 僧侶信仰で有名なものは、教団の代々の統率者が、そのまま観世音菩薩の化身であるとする、チベット仏教である。しかしこのようなものは、日本の精神風土には不向きである。宗派の祖師を仏・菩薩の顕現と敬うこと(例:空海を不空三蔵の生まれ変わりとする伝承)はあるとしても、以降代々の管長が、そのまま生身の仏であるとする法義は、聞いたことがない。
 ところがその特殊例が、日蓮正宗の宗門である。小林正博氏によれば、宗門が住持三宝を強調し出したのは、江戸時代の檀家制度が幕府により制定された直後に、大石寺二十二世日俊が、歴代法主を「僧宝」として崇敬すべきことを檀家に説き示し、檀家制度の定着をはかったときであったと言う(「宗門問題を考える」第三文明社、一九九一年、一三〇頁)。

「住持の僧宝は末法の宝也。尤も敬ひ尊重すべき也」
「末代真実の僧宝は本門寿量本化の末流日興の末弟に限るべき也」(歴代法主全書3-81)

 これでは日興上人よりも、むしろ現今の法主を僧宝として崇敬すべし、と宣揚しているかの如きである。
 権力者の思想統制に乗じ、信仰の中身まで入れ替えてしまう宗門の狡猾さには舌を巻く。江戸時代に信者の精神的自立心を奪った者は、幕府だけでは無い、御用宗教となった宗門である。
 明治維新で幕府は瓦解したが、宗門は往時の邪義を引き継いできた。そして日顕宗が今再び、人々を精神の奴隷とせんものと蠢いている。

(引用)『現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義 三大秘法義の理論的公開過程に関する考察を踏まえて』より「第8章 僧宝論への影響」(青年僧侶改革同盟 松岡幹夫氏)         

6.先祖がえりの法主信仰

 前回(「妄説:45(その一)」)に記した通り、かつて日顕は日達法主の談話に沿った、正しい僧法義を述べていた。
               ◇
 一切衆生のなかで正法を受持信行し、一分でも他に随力演説していく人達は僧俗ともに僧宝であるということができます。しかし基本においては、日興上人をもって僧宝の随一として拝するわけであります。
 そういうところからするならば、歴代法主は僧宝以下の立場であって、それを軽々しく仏様だ、仏様だというような表現は、少し言い過ぎであると私は思っております。
(昭和五十八年三月三十一日、第四回非教師指導会)

 だが日顕の悩乱後、平成十一年十二月十九日、日顕の誕生日を記念(=お追従)して発行した『日蓮正宗要義』では、次の通り改変(改悪)したのである。

(1)狭義の僧宝の規定

改変前「日興上人を僧宝の随一とする」
改変後「日興上人を随一とする歴代の法主上人が僧宝である」

「歴代法主は僧宝以下の立場」と説法(昭和五十八年三月三十一日、第四回非教師指導会)しておきながら、あっさりと改変してしまう節操の無さ。
 これでは久遠元初の僧宝であられる日興上人と、末法下種三宝の僧宝である歴代法主とが、同じ「僧宝」の語の中に含められ、信仰の対境が区別されないことになる。

(2)広義の僧宝の規定

改変前「広く論ずれば、正法を受持信行し、随力弘通の任に当たる
    本宗僧俗のすべてが、僧宝である」
改変後「広く論ずれば、正法を受持信行し、随力弘通の任に当たる
    本宗僧侶、更に信徒のすべてが僧宝であるといえる」

 ここでの宗門の意図は、次の二点である。

① 僧侶と信徒とを切り離し、「更に」の語を挿入して、信徒を僧侶より一段低い立場とした。
② 「……といえる」(言うことができる、との「可能性」を示す)の語を挿入し、法主以外の者の、僧宝としての意義を事実上奪った。

 これはかつての日蓮正宗が説いてきた宗義とは、異質の邪義である。日蓮正宗に似せた新興宗教であり、教主は日顕、ゆえに宗派名は「日顕宗」である。
 そうであれば、学会が新興宗教の教祖ごときから、何程の文句を言われる筋合いはない。今後、彼等が宗義をどう改悪しようと、ニセ宗門と訣別した学会には、何等の痛痒もない。
 日顕宗は、人間の尊厳を舐めてかかっている。それゆえ法華講員は、あまりにも哀れな存在となっている。
 法華講の人々は、大聖人への「信仰」を法主への「忠誠心」に変えさせられた。そのために情念を失い、精神そのものが無表情になったのか、ものを考えている様子が見当たらない。僧俗差別で格段に低い立場に落とされながらも、精神の自立心を宗門に奪われ、何の発言もできないようである。
 学会は法華講の人々を、自らを「現代における大聖人様」(『大日蓮』平成三年六月号)と呼ばせる「身の程知らず」の法主のもとから、日蓮大聖人への信仰に帰参せしめなければ、あまりに無慈悲、利己的であるとの謗(そし)りを免れない。
 法華講が宗門の正体を目の当たりにし、覚醒するよう導くことが、本当の慈悲である。
               ◇
「坊主は大衆が目覚める事を恐る」文豪ゲーテ
(『寸鉄』聖教新聞 2009年2月)

7.〝伝法所持〟の軽さ

 宗門は「『伝持』の上からいうならば、御歴代上人も僧宝になる」と言う。「伝法所持」とは、一体どれほどのものか。相承の儀式が該当すると言うなら、それは多分に形式的すぎる。しかし日顕の場合は、相承の儀式すら誰も目撃していない。それで「伝持」などと、どの口が言うか。
 以下は、日顕の相承詐称を暴いた著書『法主詐称』からの抜粋である。
               ◇
① 荘厳さに満ちた日達上人への「略式相承」

「日顕の相承」と先師の例とを比較してみよう。これまた疑問だらけである。
 法主が新しい法主を指名する相承をめぐっては、当然、画一的でないさまざまな状況、情勢が考えられる。仮に前法主の病気などの緊急の場合には、宗門では「略式相承」という方式もある。日達上人への相承はこのケースであった。
 日淳上人の側近として日達上人への相承を間近に見聞した柿沼広澄庶務部長(当時)の証言によれば、相承はこういうふうに行われている。(昭和三十五年二月二十三日「日淳上人百ヵ日法要」於本山客殿)
 日淳上人は、昭和三十四年十一月十七日に遷化されたが、その二日前、十一月十五日、ちょうど日目上人の御講日に当たる日の午後二時頃、日淳上人から柿沼庶務部長(東京・品川区、妙光寺)のもとに電話が入り、庶務部長は早速日淳上人の自宅(大田区池上町)を訪れる。この時、当時総監だった細井日達上人(東京・池袋、常在寺)に猊座を譲る旨が伝えられた。柿沼庶務部長はすぐさま本山にいる日達上人に電話をするとともに、常泉寺(東京・墨田区向島)の高野日深重役(能化)に連絡をとった。高野重役は直ちに日淳上人の自宅に駆け付け、相承が決まった以上、「今夜のうちにでも相承をしなければならない」と、日淳上人にその旨を申し上げる。日淳上人もその申し出を承諾される。
 主治医も「医者として今晩は十分保障するけれども、明日のことは明日にならなければ分からない」という急迫した病状にあった。
 日達上人もすぐに本山から日淳上人の自宅に駆け付け、今夜相承を行う旨を受けて、自坊の常在寺に帰られる。そして、斎戒沐浴し、その夜再び日淳上人の自宅に来られた。
 午後六時頃、相承に必要な相承箱を塔中の住職たちが守護し、ちょうど六時半に本山を車で出発、十一時半に大田区の日淳上人の自宅に到着した。その時、高野重役は「私は三度ほど御相承の警護の役をしたから私の指図に従えば心配ない」と庶務部長を安心させている。
 妙光寺から取り寄せた屏風を開いて相承の場の四方を囲み、次の間に重役、庶務部長、教学部長、塔中住職たちが警護役として控え、日淳上人の家族には離れに待機してもらった。
 相承は午前零時過ぎから一時半にわたって行われた。事前に高野重役から「御相承が終わると南無妙法蓮華経という声が聞こえるから、その時には唱和しなさい」とのことで、一時間半後に題目の声が聞こえてきたところで、警護役の一同も唱和して、相承の儀は終わった。
 こうして十一月十六日午前二時半、十五夜の月が皓々と照るなか、相承を終えられた日達上人は待たせておいた車で、すぐさま本山に帰られた。
 相承が終わると、日淳上人は途端に元気になられた。この状態なら翌日も大丈夫だろうということで、親戚の人も帰ったが、翌十七日午前五時五十五分に遷化された。
 いわば最後の全力をふりしぼって相承の儀式を行い、法主の責務を果たして万事を終了させ、力尽きて遷化されたというような崇高な使命感を感じさせる。
 これが日達上人への「相承」であった。緊急の場合の略式とはいえ、絶対的に濃密な時間であり、緊張と荘厳な様子がひしひしと伝わってくる。
 このように、略式ではあるが斎戒沐浴して出直すなど手順を踏まえた儀式を受けた日達上人が、自分の後継の者に相承するに当たって、それを誰にも知らせず、警護役もおかずに密かに二人きりで行うわけがない。

② 壮絶ともいえる三つの相承を知る日達上人

 日顕が相承を受けたという四月十五日は、第三祖日目上人の御講日であり、本山には塔中住職が全員いた。まして、日達上人はご自分の相承の折の警護の大切さと相承における警護の仕来りの重要さも充分知っていた。警護を付けようと思えばいつでも付けられる状況にあり、相承の仕来りからいって、特に必要な警護すら付けずに相承したというのは、考えれば考えるほど合点がいかない話である。
 日達上人はまた六十三世日満上人から六十四世日昇上人への相承にも立ち会われている。昭和二十二年七月十七日、日満上人より宗務院に通達があった。
 一筆啓上致候 明十八日御示伝致候間御用意なさるべく右申進候恐々
   十七日                    日満
  佐藤総監殿
 というもので、予告状である。
 宗務院ではさっそく準備に移るが、戦時中、客殿は火事で焼失している。「すべて質素に」という日満上人の内意もあったので仮客殿で行われることになり、佐藤総監が内陣を、若い日達上人と川田利道蓮成坊住職が外陣を担当した。
 十八日夜十時から十一時三十分まで、新法主日昇上人への相承が行われた。
 そして二十一日には御代替式を御影堂で執行したのである。
 日達上人は三度もこのような場に遭遇されている。その謹厳な日達上人が、立ち話のような安直な相承をされるはずがないというのが、大方の僧侶たちの胸に底流する思いだったのである。
 日顕の法主就任の翌年、つまり昭和五十五年夏、日顕の相承を認めようとしない僧侶たちが正信会を結成し、翌五十六年一月、百八十余名が日顕を相手取り、地位不存在確認請求訴訟と、職務執行停止仮処分申請を静岡地方裁判所に提出して、日顕に公然と叛旗を翻した。
 この時の彼らの主張を要約すると、
① 血脈相承を受けたというなら、なぜその時点で公表しなかったのか。
② これまでの実例では、相承するとすぐ法主になるのが宗門の慣例である。それなのになぜそうしなかったのか。
③ 法主になるべき位(能化)ではなく、一段下であった日顕がなぜ法主に就任したのか。
④ なぜ相承の儀式、手続きをしなかったのか。
 というものであった。我々と立場や理念は異なるが、正信会によるこれらの主張は常識的な疑問でもあった。(中略)

「多くの僧侶は、僧侶として育ってきて、僧侶の世界しか知らないのです。法水瀉瓶を金科玉条として学んできたため、日達上人の突然の死は『法水瀉瓶の断絶!』、『あってはならないことが起こりつつある』と、当時の宗門の僧侶であれば、皆、そんな不安な思いでした。それだけに、日顕が自己申告であっという間に猊座に登ったからといっても、それに対する不信を口に出すことより、むしろ法水が断絶せずによかった、ほっとしたというのが、宗門僧侶の一般的な気持ちだったのです」(宗門僧侶)

③ 日顕が相承を受けていない決定的な証拠

 昭和五十七年一月十九、二十二日、当時の能化、宗会議員全員が「日顕を血脈付法の法主と仰ぐ」という趣旨の声明文、決意書に署名している。いや、署名をさせられたのだ。
 これも裁判記録に見ることができる。
 弁護士「署名している方々は、日顕上人を血脈付法の法主と仰いでいるということでございますね」              
 答「これはですね、(日顕が)怖いからじゃないんでしょうか。昭和五十四年七月二十二日の日達上人の御通夜の後におきましても、各塔中で御老僧方が『あれでは早い者勝ちではないか、日達上人は次の方をお選びにならずに御遷化された』などと、盛んに言ってたわけでございまして、そういう方々がおりますからこそ、こういう決意書とか決議文を出さざるを得なかったんだろうと思います。(中略)宗門の七百年の歴史においてこのようなもの(声明文、決意書)を出させるなどということは、前代未聞のことでございます」
 陰で不信の声をあげる住職たち、その声を抑えるために証明書として決意書を強要して出させる日顕――。
 こんな証言もあった。登座した新法主に仕える奥番たちの証言である。
「どこかに鶴の紋の入った衣はしまってないのか」「鶴の紋の入った袈裟はないか」
と日顕は法主の着用する鶴の紋の刺繍の入った衣を探していた。これを見た奥番たちは、
「ホントに相承を受けていたのなら、その時点で用意ぐらいしておくのが当然だろうに」
と、疑問を抱いた。
 また、日達上人の頃から側に仕えていた奥番に、
「日達上人は護秘符をどのようにしておられた?」
 などと護秘符の作り方を聞いたりして、当時の奥番にも不審がられていた。
 また老僧たちは、別な面から「あれ(日顕)はニセモノだ」と噂し、見抜いていたという。別な面とは、御本尊書写についてである。御本尊書写については、宗門の僧侶であれば一応書写方法は知っている。しかし、ひとたび猊座につくと、自己流に書写したりはしないものなのだ。どうしても前の猊下の書写を真似る形となる。心構えが、自然に「先師の如く」と謙虚になり、そうなってしまうのだという。
 例えば昭和三十五年から三十六年頃の登座当初の日達上人の御本尊は、先師日淳上人にそっくりの書写であったし、日淳上人も登座当初の御本尊は先師日昇上人に筆跡がよく似た御本尊であった。
 ところが日顕は、最初から達筆な筆さばきで書写していた。
「(相承を)受けていないんだから、ああなってもしようがないだろう」と、老僧をして言わしめている。
(「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)

 結局のところ、相承の儀式が無かったばかりか、相伝・秘伝の何一つ、日顕は先師から受け継いでいない。それゆえに、法主の座に就けば日興上人と同じく「僧宝」である、との法義を創作するしか、自分を安泰にする方法は無かったのである。何とも哀れな〝裸の王様〟ではないか。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:45」を破折する(その一) 連載59回

妄説:45 日蓮正宗の僧宝について、『当流行事抄』には日興上人に限るとあり、『当家三衣抄』には「御歴代の諸師」とありますが、どちらが正しいのですか。

 御法主日顕上人は「法華講連合会第二十八回総会」の折に、
「大聖人様が下種の仏宝であり、南無妙法蓮華経の大御本尊が法宝であるのに対して、久遠常住の下種三宝、つまり化導の上の下種三宝の僧宝とは、その随一(ずいいち)が二祖・白蓮阿闍梨(あじゃり)日興上人様にあらせられる」(大日蓮 547-66頁)
と指南されました。
 この下種三宝観は、僧宝として日興上人お一人に御歴代上人を集約された姿であり、常住不変の義を表わしています。
 また日寛上人が『当流行事抄』で、
僧宝を日興上人お一人に限定される御文がありますが、これは客殿などに見られる別体三宝の奉安形式を意図して述べられたものです。
 しかし、これを「伝持」の上からいうならば、御歴代上人も僧宝になるのです。
 日寛上人の『当家三衣(さんね)抄』に
「南無僧とは(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首(そうかんず)、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡嫡付法・歴代の諸師」(聖典 971頁)
と、伝法所持の上から御歴代上人も僧宝に入ることが示されています。
 私たちは、御本仏大聖人以来の血脈付法の御歴代上人の御指南に従って、本門戒壇の大御本尊を深く信順し、信心修行を実践していくところにのみ、真の即身成仏がかなうのです。

破折:
1.三宝の種類

 かつての『日蓮正宗要義』では、「日興上人を僧宝の随一とする」と定義していた。ところが日顕は、「日興上人を随一とする歴代の法主上人が僧宝である」と書き替えた。この新定義により、日顕は「僧宝」であると言うのである。
〝法主は信仰の対境たる三宝と一体である〟とする「法主本尊論(本仏論)」へと、宗義をすり替えたのである。
 宗旨の根幹を書き換えたことは、日顕宗が「ニセ宗門」であることを表明したのであり、日蓮大聖人の仏法を破壊する大誑惑(おうわく)である。詳しく述べていきたい。
 日寛上人が三宝を定義した文書は、三部ある。

(A)『当流行事抄』 (B)『当家三衣抄』 (C)『三宝抄』

 上記 (A) (B) が、宗門に引用された文書である。ただし日顕宗の欺瞞を指摘する上で、(C) もここに提起する。以下、三宝のうちの僧宝を定義した箇所を挙げる。
 少々引用が長いが、原典をしっかり押さえておけば、日顕宗の詭弁に惑わされることは無い。

2.出典によって僧宝の内容が異なる

(A)『当流行事抄』(『六巻抄』聖教新聞社刊 224~226㌻)

 起信論に云く「一には根本を信じ、二には仏宝を信じ、三には法宝を信じ、四には僧宝を信ず」已上取意。
 初めの一は総じて明かし、後の三は別して明かすなり。初一総明(しょいちそうみょう)とは、総じて久遠元初の三宝を信ずるを明かすなり。(中略)
 久遠元初は仏法の根本なり、故に根本を信ずと云うなり。後三別明(ごさんべつみょう)とは久遠元初の仏法僧、則ち末法に出現して吾等を利益したもう。(中略)
 久遠元初の仏宝、豈異人(ことひと)ならんや、即ち是れ蓮祖大聖人なり。(中略)
 久遠元初の法宝とは、即ち是れ本門の大本尊是れなり。(中略)
 久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり。仏恩(ぶっとん)甚深にして法恩も無量なり。然りと雖も、若(も)し之を伝えずんば、則(すなわ)ち末代今時の我等衆生、曷(なん)ぞ此の大法を信受することを得んや。豈開山上人の結要(けっちょう)伝授の功に非ずや。然れば則ち末法出現の三宝は其の体最も明らかなり。宜(よろ)しく之を敬信(きょうしん)して仏種を植ゆべし云云。

(B)『当家三衣抄』(同 251~252㌻)

 問う、数珠(じゅず)の由来、如何(いかん)。
 答う、夫れ数珠とは此れ乃(すなわ)ち下根を引接(いんじょう)して修業を牽課(けんか)するの具なり。木槵子(もくげんじ)経に云く「昔国王有り、波流梨(はるり)と名づく。仏に白(もう)して言(もう)さく、我が国辺小にして頻年(ひんねん)寇疫(こうやく)し、穀(こく)貴(たか)く民困しむ、我常に安んぜず。法蔵は甚広なり、遍(あまね)く行うを得ず、唯願わくば法要を垂示したまえ。仏言く、大王若(も)し煩悩を滅せんと欲せば、当に木槵子一百八箇を貫き、常に自ら身に随え志心(ししん)に南無仏・南無法・南無僧と称え乃ち一子を過ごすべし」云々。応(まさ)に知るべし、木槵子の円形は是れ法性の妙理を表するなり。玄文第一に云く「理は偏円(へんえん)を絶するも、円珠に寄せて理を談ず」云々。弘の五の上に云く「理体欠くる無し。之を譬うるに珠を以ってす」云々。土宗の平形(へいぎょう)大いに所表に違(たが)うなり。一百八箇は即ち百八煩悩を表するなり。数珠は須臾(しゅゆ)も身を離る可からず、故に常自随身と云うなり。
 南無仏・南無法・南無僧とは若(も)し当流の意は、
 南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。
 南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊。
 南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。
 此(か)くの如き三宝を一心に之を念じて、唯当(まさ)に南無妙法蓮華経と称(とな)え、乃(すなわ)ち一子を過ごすべし云々。

(C)『三宝抄』

 所謂僧宝は日興上人を首と為す、是れ則ち秘法伝授の御弟子なる故也。然に則吾が日興上人嫡々寫瓶の御弟子なる事分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐ也。爾来日目日道代々咸(ことごと)く是れ僧宝也、及び門流の大衆亦爾也(またしかなり)云々。

3.僧宝の内訳

(1) 僧宝の範囲

(A)『当流行事抄』…① 日興上人
(B)『当家三衣抄』…① 日興上人、② 歴代の諸師
(C)『三宝抄』………① 日興上人、② 歴代の諸師、③ 門流の大衆
 
(2) 僧宝の意義

(A)『当流行事抄』…「之を敬信(きょうしん)して仏種を植ゆ」
                 …………………(信仰の対境)
(B)『当家三衣抄』…「之を念じて、唯当に南無妙法蓮華経と称え」
                 ……(勤行における報恩謝徳)
(C)『三宝抄』………「秘法伝授の御弟子なる」
                 ………(和合僧=広義の僧宝)

(3) 僧宝の資格

(A)『当流行事抄』…「豈開山上人の結要伝授の功に非ずや」
                        …(「伝授」)
(B)『当家三衣抄』…「南無本門弘通の大導師」……(「弘通」)
           「開山付法南無日興上人師」…(「付法」)
           「伝法日目上人師」……………(「伝法」)
           「嫡々付法歴代の諸師」………(「付法」)
(C)『三宝抄』………「是れ則ち秘法伝授の御弟子なる故也」
                        …(「伝授」)

 以上の通り、日寛上人は「伝授」「付法」「伝法」の意義を以て、僧宝たる資格とされた。「伝法所持の上から御歴代上人も僧宝に入ることが示されています」とあるが、大石寺管長(法主)一人が僧宝に入るだけではない。(C)「三宝抄」に「門流の大衆亦爾也(またしかなり)」とある通り、「秘法伝授の御弟子」たる和合僧が、僧宝の一分であることを明かされる。
 なお日寛上人の当時は、一般の在家は「秘法」に触れる機会のない「無知の俗男俗女」だったため、僧宝の範囲には含まれなかった。しかし現代では、在家たる創価学会の出版事業によって、すべての「秘法」、相伝類も含め学会員に開示され、各会員が正法の「伝持の任」を果たしている。その実質的な意味からして、学会及び学会員が、現代における広義の僧宝と言えるのである。

(引用)『現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義 三大秘法義の理論的公開過程に関する考察を踏まえて』より「第8章 僧宝論への影響」(青年僧侶改革同盟 松岡幹夫氏)         

4.信仰の対境としての僧宝

 僧宝には各々の意義があることが、以上の通り分かった。だが今、我らに必要なことは、「信仰の対境としての僧宝」と「信仰の対境ではない僧宝」との明確なる分離であり、その上で日顕宗の邪義を明確にすることである。
 正しい僧宝義では、「信仰の対境としての僧宝」とは、(A)『当流行事抄』に規定する「久遠元初の僧宝」すなわち日興上人であられる。日興上人以外の諸師は、「信仰の対境ではない僧宝」である。
 ところが(B)『当家三衣抄』と(C)『三宝抄』には狭義・広義の、両様の僧宝が混在しており、特に日顕宗は(B)『当家三衣抄』を用いて歴代諸師が日興上人に続く僧宝であるとし、法主信仰の根拠としている。
 しかし冒頭で述べた通り、かつて宗門では僧宝を次の通り定義していた。
               ◇
 末法の三宝とは、久遠元初自受用報身如来の再誕法即人の主師親三徳本因妙の教主日蓮大聖人が仏宝であり、人即法の本地難思境智冥合事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経 の大曼荼羅が法宝であり、大白法を正しく継承された日興上人を僧宝の随一とする。(中略)広く論ずれば正法を受持信行し随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが、僧宝である
(『日蓮正宗要義』昭和五十三年四月二十八日発行)

〇(狭義の僧宝)「日興上人を僧宝の随一とする」
  …… 久遠元初の僧宝を規定。

〇(広義の僧宝)「広く論ずれば(中略)
         本宗僧俗のすべてが、僧宝である」
  …… 僧侶・在家の差別なく〝和合僧〟が僧宝である。
     法主と法主以外の者との差別も無い。

 上記の法義を、当時の日達法主が談話で説き明かしている。
               ◇
 ここで考えなければならないのは、我が宗の三宝は、御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。それに対して日目上人は座主である。今云った通り、管領して、その大聖人の仏法を治めていく、よく受取って治めて行く、即ち管領と云う意味を持って行くのである。統べ治める、そして統治をして行く。その日目上人の後は、皆筒の流れのように、それを受継いで行くにすぎない。だから本宗の考えは、広宣流布の時は日目上人の再現、出現だと云う意味をとっております。すなわち日目上人が広宣流布の時の座主として再誕なされるとの指南であります。だから代々の法主が日蓮大聖人ではない。大聖人そのものと間違って書かれてよく問題が起きますが、その点ははっきりしてもらいたい。 只三宝をお守りする座主、日目上人は永代の座主、広宣流布の時の座主、それを忘れてはいけないですね。だから客殿のあの座席、法主のあの座席は目師の座席なのです。真中に御本尊、向って左は大聖人、右は日興上人、目師がそれをお守りしていくと、その座が目師の座、今の管長の座は目師の座です……三宝はどこまでも、大聖人・日興上人・御本尊、これが本宗の三宝の立て方です。
(六十六世日達法主 昭和五十二年五月二十六日 第十九回寺族同心会の砌)

 宗門は日達法主が講じたところの、本来の義としての三宝に立ち帰らなければならない。そうでなければ「先師違背」の新興宗教〝日顕宗〟である。
 次の言葉は、法主に就任して日の浅い頃の、日顕の所説である。
               ◇
 僧宝として尊敬するお方は、二祖日興上人ただお一人ということになっておるのであります。
(昭和五十五年三月二十八日、在勤式・得度式・祝賀会)

 悩乱する以前の日顕は、まだ先師・日達法主の談話に従っていた。ところが手のひらを返すごとくに、日顕は教義を改変するのである。
                          (続く)
 

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Author:墨田ツリー

 
 
 

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