日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:48」を破折する(その一) 連載68回
妄説:48 「血脈相承の内容についても、『相伝書』が内外に公開されている現在、法主一人に伝わる法門などない」(聖教新聞 H五・九・八)といっていますが、本当ですか。
この説は、創価学会には絶対にない「唯授一人の血脈相承」を否定するために、無理やりいい出したことです。
御相承について、御法主日顕上人は
「金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇(にか)相承が金紙(こんし)として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです」(大日蓮 560-19頁)
と指南され、その証拠に『家中抄(けちゅうしょう)』の道師伝(どうしでん)を引かれ、
「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(聖典 695頁)
と、金紙の存在を明らかにされております。
もちろん、これは唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません。
第五十六世日応上人も、
「仮令(たとい)、広布の日といへども別付(べっぷ)血脈相承なるものは他に披見せしむ可きものに非ず」(研教 二七-四五六頁)
と仰せられ、法体別付属相承が他に披見を許されない秘伝であると指南されています。
私たちは、御当代上人の、その時々に応じた指南を素直に受けとめ、成仏の信心修行に邁進(まいしん)するべきなのです。
部外の者が唯授一人の法体相承をみだりに云云(うんぬん)することは厳に慎(つつし)むべきです。
破折
1. 相承はすでに公開済み
学会の離脱以前は、細井管長(日達法主)も、当時の日顕も、「相承に特別なものはない」趣旨の話をしていた。
ところが学会が離れると、「実は非公開の法門がある」と言い出す日顕。話の〝底が割れている〟のに、この単純な反応には、もはや笑うしかない。聖教新聞の記事を確認しておこう。
◇
一、仏法の法義の上からいえば、法主が御本尊に関する権能を独占する根拠はない。
次に、「相承」の内容について述べれば、古来より法主だけが知る教義の秘伝とされてきた「相伝書」の類は、時代が下るにつれ内外に公開され、現代では広く印刷頒布(はんぷ)されて、全ての民衆が研鑽(けんさん)・理解できる環境になった。
このような時代の変化を踏まえ、かつて日達上人が御自身の「相承」の内容について「堀(日亨)上人が全部出してしまったので、特別なものは何もない」と述懐されたのは、非常に率直な心情の吐露(とろ)であろう。また、日顕自身も「相承の内容をいえば、あゝそういうことなのかと、みんなも分かっていることだ」という意味の話をしており、これらの事実は多くの宗内僧侶が知るところである。それゆえ、現在、法主のみに伝わる神秘的な法門などは存在しない。
にもかかわらず、日顕は昨年の教師講習会で、まだ非公開の「金紙(こんし)相承」「金口(こんく)相承」があるなどと詭弁(きべん)を弄(ろう)しているが、「相伝」の核心たる「三大秘法」の文底法門はすでに日寛上人の『文段』『六巻抄』等に詳釈(しょうしゃく)し尽くされており、それ以外に、もはや重要な法義内容などあろうはずもない。
(「創価学会の御本尊授与に関する法門上の見解」日蓮正宗・青年僧侶改革同盟 『聖教新聞』1993年9月20日)
2.「家中抄」は誤謬だらけ
宗門は「家中抄」を根拠に「金紙の存在」を主張するが、本抄を著した十七世日精は、大石寺管長の立場にありながら、著書『随宜論』において〝造仏義は正しい〟と述べる謗法法主である。
「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり(中略)古より今に至るまで造仏は堕獄の因と称するは誤りの甚だしきなり」(『随宜論』)
この怪奇な文章を読むのは、おぞましい限りである。大御本尊根本のはずの大石寺法主が、自ら異流儀を立てて造仏義を宣揚するなど、恐るべき大謗法である。
曾谷殿御返事(一〇五六㌻)にいわく、
「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入(どっけじんにゅう)・失本心故(しっぽんしんこ)は是なり」
五十九世堀日亨法主は、日精の数々の妄説・曲解を糾弾した。以下は、戦後の堀法主(発言当時は隠尊)に給仕した当時の所化(故・渡辺慈済師)の回顧である。
◇
宗門で発刊した『聖典』は、日蓮正宗が日蓮宗各派や他の興門派とどう違うのか、大石寺の正統性を明確にすることが目的とされたもので、「相伝」や「史伝」を中心に編纂された。御書は十大部などを載せただけのものだった。
これについても、堀上人は、「なぜ、聖典のなかに『家中抄』を載せるのか。あれは坊さんの歴史だよ。歴代の猊下だって、人間だからいろんな不満もあるし悪い面もある。史料として誤りもある。それを信者さんに一々見せて、信心のプラスになるより、マイナスにしかならないじゃないか。信心の根本はやはり御書だよ。御書さえあればいい。だから、私は聖典に『家中抄』を載せることには反対だった」と言われていた。
この「家中抄」は、京都・要法寺出身の十七世日精上人が書いたもので、「富士門家中見聞」のことである。上中下の三巻からなり、日興上人から十八世日盈(にちえい)上人までの歴代上人、および本六や新六の弟子らの伝記・事績が収められているが、日興上人が亡くなってからすでに三百年も経た頃の作で、堀上人が『富士宗学要宗』五巻の宗史部で「誤(あやまり)ナリ」「誤解ナリ」「年代合(あ)ハズ」「事実ニ合(がっ)セズ」「此説(このせつ)疑フベシ」「此下(このしも)疑ハシ」等と詳しく「注」を付けられたように、何十か所も間違いがあるものである。
また「家中抄」のなかの記述を「精師の演劇化驚くべし」と批判され、史実を伝えたものでなく、日精上人の創作であると指摘された箇所もある。これでは、歴代上人が「相伝」を受けているといいながら、それが誤った宗史を平気で伝える程度のものでしかないと、みすみす明かすようなものだ。だからこそ堀上人は、「家中抄」を載せることによって『聖典』の底が割れるような愚かなことはするなと、反対されたのである。
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
日精が妄想を逞(たくま)しくして書き綴ったものであったら、創作小説であり、史書と呼べるものではない。
3.大謗法の法主
渡辺慈済師の回顧が続く。
◇
さらに、堀上人は、日精上人がもともと大石寺出身でなく、教義的にも造仏読誦の邪義をもつ法主であったことを指摘し、次のように破折されていた。
「日精に至りては江戸に地盤を居(かま)へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」
「殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破戒せるが……」
「家中抄」を載せれば、日精上人を宣揚することにもつながるので、日興上人門流の正義を守るためにも、収録に反対されたのであった。
また、江戸時代の初めの約百年、すなわち一五九六年(文禄五年)から一六九二年(元禄五年)の間、十五世日昌(にっしょう)上人から二十三世日啓(にっけい)上人まで九代の大石寺の貫主が京都・要法寺から来たということについても、堀上人は、大石寺が経済的に苦しかったことを挙げられていた。地位を与えることによって、経済的援助を期待したわけである。
しかし、これによって、大石寺に造仏読誦など、要法寺の流儀が入ることになり、謗法に染まっていくのである。まさに貧(ひん)すれば貪(どん)すで、二十六世日寛上人が要法寺派等の謗法を破折して、破邪顕正の大石寺教学を確立されたのは、そうした背景があったのである。
(同)
宗門は、『家中抄』について「日亨上人との見解の相違や多少の間違いがあったとしても、宗門上代の歴史を記録した文献として高い権威がある」(『阿部側回答書』四六頁)と反論する。
しかし戦後の『富士宗学要集』第五巻に収録されたものだけで、指摘箇所が何十か所もあって、どうして「多少の間違い」なものか。
宗門は学会に対抗するため、誤謬だらけの書物まで持ち出してこなければならないほど、教学的にも追い詰められているのである。「貧すれば貪す」とは、日顕のことであった。
4.「十二箇条の法門」とは
「金紙の存在」などと宗門が囃(はや)す「十二箇条の法門」なるものが、日精が著した信憑性に欠ける文書(『家中抄』)に収載されているとあらば、到底期待は持てない。以下が、当該箇所である。
「(日目上人は)御上洛の刻には法を日道に付属す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝へず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付属す、爰に知りぬ大石寺を日道に付属することを、後来の衆徒疑滞を残す莫れ云云」
(富士宗学要集5-216)
これは日目上人から四世日道に付嘱した相承の内容が記され、それが「形名種脱」「判摂名字」等の相承であるとする。
この「形名種脱」「判摂名字」等の語は、日寛上人の「観心本尊抄文段」の「序」に示された〝重々の相伝〟の中に、その名目が見られる。
◇
この「形貌種脱」とは仏の形貌に約して種脱を論ずること、「判摂名字」は「名字に摂まると判ず」と読み、究竟即といっても名字即におさまるとの意である。
(「現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義」青年僧侶改革同盟 松岡幹夫氏)
当時としては「金口の智識」「当家大事の法門」(『家中抄』)であったとしても、日亨法主によって解明され、学会の出版事業をもって開示されている。
上記の箇所を素直に読めば「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」が「十二箇条の法門」であると理解できる(「別して之を論ぜば」=「別の名称は」)。
ところが日顕等は「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」以外に「十二箇条の法門」があって、それが公開されていない「唯授一人の秘伝」であるとする(「別して之を論ぜば」=「それとは別に」)。
日精の文章は、判読しにくい悪文である。それにしても、文脈からすれば日顕の読み方には無理があると言わざるを得ない。ゆえに、あくまでも日顕の「我見」である。
昔の謗法法主(日精)の粗末な文章が、後世の謗法法主(日顕)が我見を立てる素地となることは、深い因果で繋がった〝謗法の連鎖〟である。
なお、この十二箇条の法門は、後世に正しく伝わらなかったと言われる。
◇
日亨が「ダメな法主が相承を受けると、かえって法門が制約される。十二箇条の相承と言っても、多くの法主がその使い方をわからなかった」などと、述べていたことを聞き及んでいます。
(「阿部日顕の教学に対する十の学術的批判」青年僧侶改革同盟 松岡幹夫氏)
法主自身が「その使い方をわからなかった」法門であるなら、「これは唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません」と宗門が言うのは、無理からぬことである。
代々の法主が分からなかった法門が、末代のニセ法主に分かる道理が無いのである。
5.「教師の握りこぶし」
日顕宗の特徴は、最後には〝奥の手〟を出して、法論の場から逃げ去る。
「唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません」
「部外の者が……みだりに云云することは厳に慎むべきです」
等々、お決まりの逃げ口上で法論の幕引きを図る〝手〟である。
いったい仏教の秘伝とは「他に披見を許されない」ものなのか。いや! そのようなことを言う者は「邪法の師」である。正法時代の釈尊、像法時代の天台、そして末法の日蓮大聖人。その時代における正師は、万人の成仏のための大法を説き顕してきた。
例えば法華経において、釈尊は誰にも惜しみなく法を説き、隠すことがなかった。
「如来は大慈悲有(あ)って諸の慳悋(けんりん)無く、亦(ま)た畏(おそ)るる所無くして、能(よ)く衆生に仏の智慧・如来の智慧・自然(じねん)の智慧を与(あた)う。如来は是(こ)れ一切衆生の大施主なり」(嘱累品第二十二)
「慳悋(けんりん)無く」とは、物惜しみしないことである。「大施主」であるから、「如意宝珠」(心のままに宝を得られる宝珠)を惜しみなく衆生に与えてくれる。如意宝珠とは、すなわち御本尊である。
ところが当時のバラモン階級の師匠達は、「秘伝」とか「秘法」を売り物にしていた。それが「教師の握りこぶし」である。握りこぶしの中に、教師の秘法・秘伝が秘められている、との譬えである。ただし「握ったままで、中身を見せない」とも取れる。
釈尊は死を目前にして言った。
「私は、皆に、わけへだてなく、いっさいの法を説いてきた。まことの仏陀の教えというのは、奥義や秘伝などといって、握り拳のなかに、何かを隠しておくようなことはないのだ」(引用:SOKAネット 法華経について)
釈尊に秘密の法など無い。法華経こそ、釈尊の大法の全てである。
教師の握りこぶしを開いてみれば、中身は何も無い。だから日顕は生涯握りこぶしを開くことができず、「他に披見を許されない秘伝である」と言い続けるしかないのである。
日顕の握りこぶしは、もっと実用的なところで使われる。所化の「伏せ拝」が気に入らない時に〝カマす〟握りこぶしである。それが日顕の「教師の握りこぶし」である。
(続く)
妄説:48 「血脈相承の内容についても、『相伝書』が内外に公開されている現在、法主一人に伝わる法門などない」(聖教新聞 H五・九・八)といっていますが、本当ですか。
この説は、創価学会には絶対にない「唯授一人の血脈相承」を否定するために、無理やりいい出したことです。
御相承について、御法主日顕上人は
「金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇(にか)相承が金紙(こんし)として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです」(大日蓮 560-19頁)
と指南され、その証拠に『家中抄(けちゅうしょう)』の道師伝(どうしでん)を引かれ、
「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(聖典 695頁)
と、金紙の存在を明らかにされております。
もちろん、これは唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません。
第五十六世日応上人も、
「仮令(たとい)、広布の日といへども別付(べっぷ)血脈相承なるものは他に披見せしむ可きものに非ず」(研教 二七-四五六頁)
と仰せられ、法体別付属相承が他に披見を許されない秘伝であると指南されています。
私たちは、御当代上人の、その時々に応じた指南を素直に受けとめ、成仏の信心修行に邁進(まいしん)するべきなのです。
部外の者が唯授一人の法体相承をみだりに云云(うんぬん)することは厳に慎(つつし)むべきです。
破折
1. 相承はすでに公開済み
学会の離脱以前は、細井管長(日達法主)も、当時の日顕も、「相承に特別なものはない」趣旨の話をしていた。
ところが学会が離れると、「実は非公開の法門がある」と言い出す日顕。話の〝底が割れている〟のに、この単純な反応には、もはや笑うしかない。聖教新聞の記事を確認しておこう。
◇
一、仏法の法義の上からいえば、法主が御本尊に関する権能を独占する根拠はない。
次に、「相承」の内容について述べれば、古来より法主だけが知る教義の秘伝とされてきた「相伝書」の類は、時代が下るにつれ内外に公開され、現代では広く印刷頒布(はんぷ)されて、全ての民衆が研鑽(けんさん)・理解できる環境になった。
このような時代の変化を踏まえ、かつて日達上人が御自身の「相承」の内容について「堀(日亨)上人が全部出してしまったので、特別なものは何もない」と述懐されたのは、非常に率直な心情の吐露(とろ)であろう。また、日顕自身も「相承の内容をいえば、あゝそういうことなのかと、みんなも分かっていることだ」という意味の話をしており、これらの事実は多くの宗内僧侶が知るところである。それゆえ、現在、法主のみに伝わる神秘的な法門などは存在しない。
にもかかわらず、日顕は昨年の教師講習会で、まだ非公開の「金紙(こんし)相承」「金口(こんく)相承」があるなどと詭弁(きべん)を弄(ろう)しているが、「相伝」の核心たる「三大秘法」の文底法門はすでに日寛上人の『文段』『六巻抄』等に詳釈(しょうしゃく)し尽くされており、それ以外に、もはや重要な法義内容などあろうはずもない。
(「創価学会の御本尊授与に関する法門上の見解」日蓮正宗・青年僧侶改革同盟 『聖教新聞』1993年9月20日)
2.「家中抄」は誤謬だらけ
宗門は「家中抄」を根拠に「金紙の存在」を主張するが、本抄を著した十七世日精は、大石寺管長の立場にありながら、著書『随宜論』において〝造仏義は正しい〟と述べる謗法法主である。
「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり(中略)古より今に至るまで造仏は堕獄の因と称するは誤りの甚だしきなり」(『随宜論』)
この怪奇な文章を読むのは、おぞましい限りである。大御本尊根本のはずの大石寺法主が、自ら異流儀を立てて造仏義を宣揚するなど、恐るべき大謗法である。
曾谷殿御返事(一〇五六㌻)にいわく、
「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入(どっけじんにゅう)・失本心故(しっぽんしんこ)は是なり」
五十九世堀日亨法主は、日精の数々の妄説・曲解を糾弾した。以下は、戦後の堀法主(発言当時は隠尊)に給仕した当時の所化(故・渡辺慈済師)の回顧である。
◇
宗門で発刊した『聖典』は、日蓮正宗が日蓮宗各派や他の興門派とどう違うのか、大石寺の正統性を明確にすることが目的とされたもので、「相伝」や「史伝」を中心に編纂された。御書は十大部などを載せただけのものだった。
これについても、堀上人は、「なぜ、聖典のなかに『家中抄』を載せるのか。あれは坊さんの歴史だよ。歴代の猊下だって、人間だからいろんな不満もあるし悪い面もある。史料として誤りもある。それを信者さんに一々見せて、信心のプラスになるより、マイナスにしかならないじゃないか。信心の根本はやはり御書だよ。御書さえあればいい。だから、私は聖典に『家中抄』を載せることには反対だった」と言われていた。
この「家中抄」は、京都・要法寺出身の十七世日精上人が書いたもので、「富士門家中見聞」のことである。上中下の三巻からなり、日興上人から十八世日盈(にちえい)上人までの歴代上人、および本六や新六の弟子らの伝記・事績が収められているが、日興上人が亡くなってからすでに三百年も経た頃の作で、堀上人が『富士宗学要宗』五巻の宗史部で「誤(あやまり)ナリ」「誤解ナリ」「年代合(あ)ハズ」「事実ニ合(がっ)セズ」「此説(このせつ)疑フベシ」「此下(このしも)疑ハシ」等と詳しく「注」を付けられたように、何十か所も間違いがあるものである。
また「家中抄」のなかの記述を「精師の演劇化驚くべし」と批判され、史実を伝えたものでなく、日精上人の創作であると指摘された箇所もある。これでは、歴代上人が「相伝」を受けているといいながら、それが誤った宗史を平気で伝える程度のものでしかないと、みすみす明かすようなものだ。だからこそ堀上人は、「家中抄」を載せることによって『聖典』の底が割れるような愚かなことはするなと、反対されたのである。
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
日精が妄想を逞(たくま)しくして書き綴ったものであったら、創作小説であり、史書と呼べるものではない。
3.大謗法の法主
渡辺慈済師の回顧が続く。
◇
さらに、堀上人は、日精上人がもともと大石寺出身でなく、教義的にも造仏読誦の邪義をもつ法主であったことを指摘し、次のように破折されていた。
「日精に至りては江戸に地盤を居(かま)へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」
「殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破戒せるが……」
「家中抄」を載せれば、日精上人を宣揚することにもつながるので、日興上人門流の正義を守るためにも、収録に反対されたのであった。
また、江戸時代の初めの約百年、すなわち一五九六年(文禄五年)から一六九二年(元禄五年)の間、十五世日昌(にっしょう)上人から二十三世日啓(にっけい)上人まで九代の大石寺の貫主が京都・要法寺から来たということについても、堀上人は、大石寺が経済的に苦しかったことを挙げられていた。地位を与えることによって、経済的援助を期待したわけである。
しかし、これによって、大石寺に造仏読誦など、要法寺の流儀が入ることになり、謗法に染まっていくのである。まさに貧(ひん)すれば貪(どん)すで、二十六世日寛上人が要法寺派等の謗法を破折して、破邪顕正の大石寺教学を確立されたのは、そうした背景があったのである。
(同)
宗門は、『家中抄』について「日亨上人との見解の相違や多少の間違いがあったとしても、宗門上代の歴史を記録した文献として高い権威がある」(『阿部側回答書』四六頁)と反論する。
しかし戦後の『富士宗学要集』第五巻に収録されたものだけで、指摘箇所が何十か所もあって、どうして「多少の間違い」なものか。
宗門は学会に対抗するため、誤謬だらけの書物まで持ち出してこなければならないほど、教学的にも追い詰められているのである。「貧すれば貪す」とは、日顕のことであった。
4.「十二箇条の法門」とは
「金紙の存在」などと宗門が囃(はや)す「十二箇条の法門」なるものが、日精が著した信憑性に欠ける文書(『家中抄』)に収載されているとあらば、到底期待は持てない。以下が、当該箇所である。
「(日目上人は)御上洛の刻には法を日道に付属す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝へず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付属す、爰に知りぬ大石寺を日道に付属することを、後来の衆徒疑滞を残す莫れ云云」
(富士宗学要集5-216)
これは日目上人から四世日道に付嘱した相承の内容が記され、それが「形名種脱」「判摂名字」等の相承であるとする。
この「形名種脱」「判摂名字」等の語は、日寛上人の「観心本尊抄文段」の「序」に示された〝重々の相伝〟の中に、その名目が見られる。
◇
この「形貌種脱」とは仏の形貌に約して種脱を論ずること、「判摂名字」は「名字に摂まると判ず」と読み、究竟即といっても名字即におさまるとの意である。
(「現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義」青年僧侶改革同盟 松岡幹夫氏)
当時としては「金口の智識」「当家大事の法門」(『家中抄』)であったとしても、日亨法主によって解明され、学会の出版事業をもって開示されている。
上記の箇所を素直に読めば「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」が「十二箇条の法門」であると理解できる(「別して之を論ぜば」=「別の名称は」)。
ところが日顕等は「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」以外に「十二箇条の法門」があって、それが公開されていない「唯授一人の秘伝」であるとする(「別して之を論ぜば」=「それとは別に」)。
日精の文章は、判読しにくい悪文である。それにしても、文脈からすれば日顕の読み方には無理があると言わざるを得ない。ゆえに、あくまでも日顕の「我見」である。
昔の謗法法主(日精)の粗末な文章が、後世の謗法法主(日顕)が我見を立てる素地となることは、深い因果で繋がった〝謗法の連鎖〟である。
なお、この十二箇条の法門は、後世に正しく伝わらなかったと言われる。
◇
日亨が「ダメな法主が相承を受けると、かえって法門が制約される。十二箇条の相承と言っても、多くの法主がその使い方をわからなかった」などと、述べていたことを聞き及んでいます。
(「阿部日顕の教学に対する十の学術的批判」青年僧侶改革同盟 松岡幹夫氏)
法主自身が「その使い方をわからなかった」法門であるなら、「これは唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません」と宗門が言うのは、無理からぬことである。
代々の法主が分からなかった法門が、末代のニセ法主に分かる道理が無いのである。
5.「教師の握りこぶし」
日顕宗の特徴は、最後には〝奥の手〟を出して、法論の場から逃げ去る。
「唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません」
「部外の者が……みだりに云云することは厳に慎むべきです」
等々、お決まりの逃げ口上で法論の幕引きを図る〝手〟である。
いったい仏教の秘伝とは「他に披見を許されない」ものなのか。いや! そのようなことを言う者は「邪法の師」である。正法時代の釈尊、像法時代の天台、そして末法の日蓮大聖人。その時代における正師は、万人の成仏のための大法を説き顕してきた。
例えば法華経において、釈尊は誰にも惜しみなく法を説き、隠すことがなかった。
「如来は大慈悲有(あ)って諸の慳悋(けんりん)無く、亦(ま)た畏(おそ)るる所無くして、能(よ)く衆生に仏の智慧・如来の智慧・自然(じねん)の智慧を与(あた)う。如来は是(こ)れ一切衆生の大施主なり」(嘱累品第二十二)
「慳悋(けんりん)無く」とは、物惜しみしないことである。「大施主」であるから、「如意宝珠」(心のままに宝を得られる宝珠)を惜しみなく衆生に与えてくれる。如意宝珠とは、すなわち御本尊である。
ところが当時のバラモン階級の師匠達は、「秘伝」とか「秘法」を売り物にしていた。それが「教師の握りこぶし」である。握りこぶしの中に、教師の秘法・秘伝が秘められている、との譬えである。ただし「握ったままで、中身を見せない」とも取れる。
釈尊は死を目前にして言った。
「私は、皆に、わけへだてなく、いっさいの法を説いてきた。まことの仏陀の教えというのは、奥義や秘伝などといって、握り拳のなかに、何かを隠しておくようなことはないのだ」(引用:SOKAネット 法華経について)
釈尊に秘密の法など無い。法華経こそ、釈尊の大法の全てである。
教師の握りこぶしを開いてみれば、中身は何も無い。だから日顕は生涯握りこぶしを開くことができず、「他に披見を許されない秘伝である」と言い続けるしかないのである。
日顕の握りこぶしは、もっと実用的なところで使われる。所化の「伏せ拝」が気に入らない時に〝カマす〟握りこぶしである。それが日顕の「教師の握りこぶし」である。
(続く)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №41~50
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:47」を破折する(その四) 連載67回
妄説:43 学会では「信心唱題によってのみ法体の血脈を受けるのであって、決して法主一人に法体が伝わるわけではない。法体の血脈なるものが法主のみと説くのは邪義」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、そうなのでしょうか。
これこそ、創価学会の指導が一貫していない見本であり、明らかな邪義です。
学会は『生死一大事血脈抄』の講義で、「ここで心すべきことは血脈には別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、明確に立て分けなければならないことである。すなわち、法体の血脈についていえば、久遠元初の自受用報身如来の再誕たる日蓮大聖人の御生命こそが、生死一大事血脈の究極であられ、その大聖人の御生命をそのまま移された法体が南無妙法蓮華経の大御本尊である。その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである」(学講 三〇上-五八頁)と述べていますが、この池田氏の言葉は間違っていたのでしょうか。
第五十六世日応上人は、
『弁惑観心抄』に「法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是れなり(中略)此の法体相承を受くるに付き尚(なお)唯授一人金口(こんく)嫡々相承なるものあり」(同書 212頁)
と仰せのように、日蓮大聖人の御内証(ないしょう)と戒壇の大御本尊は代々の御法主上人お一人に「法体相承」されているのです。
破折:
9.江戸時代の法難
「唯授一人血脈付法」が意味するものは、次のいずこであったか。
① 当代の法主が大聖人の意を体し、時の国家諫暁に及ぶこと
② 当代の法主の身を案じ、血脈を絶やさぬため手段を択ばないこと
大聖人の血脈を受け継ぐ者ならば、当然に①のはずである。だが宗門が選択したのは、②であった。「唯授一人血脈付法」の語は、「保身の逃げ口上」であり、「法難回避の言い逃れ」だったのである。
江戸幕府の寺請制度の下、宗門が御用宗教となってからは、お上の禁忌に触れないよう計らうことが、血脈を保つ秘訣と定めたのであろう。
当時は折伏弘教が禁じられていたが、信者が各地で弘教を拡大したため種々の弾圧を受けた。金沢法難、伊那法難、尾張法難が有名であり、多数の信徒が迫害に遭ったのである。
ところが宗門は問題の波及を恐れ、保身のため信者を冷たく見捨ててきた。宗門の卑怯・卑劣な体質は、当時から現代に至るまで、変わることは無いのである。
(1) 念仏王国と言われる北陸の前田藩では、下級藩士や町民の間に大石寺の信仰が広がった。前田藩は富士門流の信仰を禁止したが、藩内での信仰者は一万二千人もいたとされる。信仰の中心者は閉門、あるいは投獄された。大石寺は前田藩に末寺建立の申請を一回行なっただけで、信者を支援することは何もしなかったため、北陸の信徒たちは孤立無援となり、信仰の火はしだいに下火になり消えていった。明治十二年十一月、念願の大石寺の末寺が建立された時、信徒数はわずか八十余戸に減っており、開院式の供養に参加したのは百五十人たらずに過ぎなかった。
(2) 伊那では農民が信仰の中心となった。曹洞宗や日蓮宗の三か寺によってキリシタンの嫌疑をかけられ、中心者は藩の寺社奉行所によって過酷な拷問にあったが、屈することはなかった。キリシタンの証拠が出るはずは無く、家族ともに所払いとなり、田畑や屋敷は没収された。所払いが許されたのは、二十三年後のことであった。
(3) 尾張藩における信仰は、江戸の目黒に住む信徒・永瀬清十郎が、大石寺の末寺のない尾張地方へ行って折伏したのが始まりである。清十郎が日蓮宗一致派の信徒を打ち破った「砂村問答」は有名で、『人間革命』にも描かれる。だが尾張藩による迫害は前後四回におよび、明治九年に信教の自由の政令が発せられるまで、五十年間にもわたった。
◇
江戸時代を通じて各地で、合わせて百人近くの信徒が、権力による難にあっている。僧侶が折伏をして難にあったケースは、仙台法難の二人ぐらいしか見当たらない。権力に迎合して、保身を図っていた証左である。「信徒のための寺院・宗門」ではなく、「寺院・宗門のための信徒」という体質は、このようにして固まっていった。
(池田名誉会長 92年12月17日)
(引用:『暗黒の富士宗門史』著:河合一 第三文明社)
10.昭和の法難
大聖人御在世以来の最大の法難は、太平洋戦争前夜に治安維持法が施行されて以後の、軍部政府による国家神道の徹底施行と、他宗教への弾圧である。
「不敬罪」を恐れた宗門は、御書発刊停止、御書字句削除、神札甘受、神宮遥拝等、立て続けに大聖人の仏法を毀損することによって、弾圧を未然に防いだ。
それは「難を乗り越える信心」ではない、「難を避ける信心」だったのである。
法主が伝持する「相承」「相伝」には、法華経の「不自惜身命」の文字が書かれていないのか。法華経を読む心とは〝身読〟、身を以って読むはずである。結果として、宗門の「相承」「相伝」には、「宗開両祖の魂」は入っていなかったわけである。
大聖人御在世時も、元寇という未曾有の国難があった。法主に「唯授一人の血脈」が流れているとするなら、大聖人に続いて国家諫暁に及んだはずである。だが宗門はそうしなかった。法主に大聖人の御内証など、流れるはずが無かったのである。
しかし大聖人と在家との「信心の血脈」は切れなかった。学会幹部は謗法を寄せ付けず、為に官憲の拘引するところとなった。牧口会長は従容と仏法に殉じたのである。
椎地四郎殿御書(一四四八㌻)にいわく、
「末法には法華経の行者必ず出来すべし、但し大難来りなば強盛の信心弥弥(いよいよ)悦びをなすべし、火に薪(たきぎ)をくわ(加)へんにさかん(盛)なる事なかるべしや、大海へ衆流(しゅる)入る・されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし、諸河の水入る事なくば大海あるべからず、大難なくば法華経の行者にはあらじ」
(末法には法華経の行者は必ず出現する。ただし大難に値えば強盛の信心でいよいよ喜んでいくべきである。火に薪を加えるに火勢が盛んにならないことがあろうか。大海には多くの河水が流れ込む。しかし、大海は河水を返すことがあるだろうか。法華経の行者という大海に、諸河の水が大難として流れ込むけれども、押し返したりとがめだてすることはない。諸河の水が入ることがなければ大海はない。大難がなければ法華経の行者ではない)
法主と牧口会長との差は、どこにあったか。
法主には、「一宗の帰趨」しか念頭になかった。宗門は〝軍部を怒らせれば日蓮正宗が身延等の日蓮宗と合同させられる〟と恐れ、また〝法主が逮捕され獄死でもしたら「唯授一人の血脈」が断絶する〟等の「宗門維持」「大御本尊格護」の美名のもと、組織の保身を図るため、如何なる謗法も犯してやまなかったのである。「法体の血脈」とは、そのような言い訳がましいものであった。
しかし「信心の血脈」は、在家の心底に流れていた。「一宗がほろびることではない、一国がほろびることを、なげくのである」と牧口会長が語った通り、大聖人の「身口意の三業」そのままに、弟子として実践したことであった。
僧侶にできないことが、在家にできたのである。大聖人の仏法は、在家にしか信受できない。この事実は、日顕宗との離別においても証明されたことである。破法の日顕と永久に縁を断ち切ることにより、学会は大聖人の仏法を護ったのである。
11.庶民が信仰を決意した「法の一偈」
牧口会長が軍国主義政府の命令に従わず、大聖人の正義を堂々と説き、殉教の道を選んだことを、「宗教の正統主義の固守である」とか、「他宗教(国家神道)への嫌悪に過ぎない」等の、浅薄な見方を以って批判する者がある。
しかし当時の弾圧下にあった多くの庶民は、牧口会長の真実に心から共感し、理解し、信仰に入る要因となったのである。次のインタビュー記事に注目したい。
◇
村田只四さんという八十七歳のベテラン創価学会員に、入信動機を聞いた時のことだった。
一九五三年、友人が訪ねてきて、新しい信心のことを話してくれたという。「戦争の時に初代会長と二代会長が牢屋に入れられて、家族もみんな国賊扱いされた。そのなかで創価学会は戦い抜いたんだよ」。「それだけかい?」と村田さんが言うと、友人は「それだけしか知らないけど、それで十分じゃないか。それほど確かなことはないじゃないか」と答えた。村田さんは「それで入信しました」という。
私が会ったのは村田さんほか、八十代の女性三名。創価学会が一カ月に一万一千百十一所帯の拡大を成し遂げた一九五六年の「大阪の戦い」に参加した人たちである。入会動機を聞いてみて、この四名全員が、それぞれ入会したての人に折伏されて、入会したことがわかった。
「でも、皆さんのおうちは違う宗教をやっていたんですよね?」「自分自身も入会したばかりの人が、どうして折伏しようと思えたんでしょうか?」と質問した。
大勢の人がその場で入会を決意する決め手となった「法の一偈」を、四名が次々に語ってくれた。「学会は、生命ほど尊いものはないって言ってるんだって」。この信心をみんなに教えてやりたいと思うのに、この一言で十分だったのだ。人間が、宗教のための手段にされてしまったとき何が起こるか、皆、痛いほど味わわされていたからだ。宗教自体が目的となり、あるいは産業や軍部や国家のための御用宗教となって、人間の尊厳、いや人間の生命自体が無残に押しつぶされてゆくのだ。
(中略)
その時、村田さんがこう言った。五十年経った今なお体を震わせ、最後はほとんど叫ぶように、「あの時代に国賊と言われることが、どれほど恐ろしいことか! それを忍んで正しい宗教を守りぬかれたんです! これほど確かなものはないと思いました!」と。
インタビューを終えて、ものすごい話を聞いたと感じた。なのに、村田さんの言っていた確かなものとはいったい何だろうという疑問が頭から離れなかった。
(中略)
一九五三年、村田さんが友人から聞いた「真理」は、信教の自由とか排他的な信仰などではなく、はるかに大きなものだった。村田さんにとって、それは「確か」なものだった。しかも、理屈も何も無視して言い張るような「確か」でもなかった。
原爆と敗戦を経て、村田さんにとって何より「確か」だったのは、人類はもっと違う道を進まねばならない、それは国家や民族が用意した道ではない、ということだった。村田さんが語った「真理」は人類全体に通じるものであり、そうであるがゆえに「国賊」呼ばわりされることだったのだ。一部の人を保護するための真理ではない。むしろ部族主義、国家主義の衝動に抵抗する真理だ。民族を超えた真理であり、グローバル時代に合った宗教の新しい姿だった。
(「SGIと世界宗教の誕生」クラーク・ストランド著 今井真理子訳 第三文明社刊)
(著者)Clark Strand:一九五七年、アメリカ・ミズーリ州生まれ。仏教研究家、現代宗教ジャーナリスト。アメリカの仏教誌「トライシクル」元編集長である。
軍国主義の嵐の中で最後まで信念を貫いた牧口会長の姿の中に、人々は「真金の人」を見た。その行動の中に、日蓮大聖人の偉大な仏法、生命の尊厳を説く真実が脈打っていることを、実感したのである。
生死一大事血脈抄(一三三七㌻)にいわく、
「金(こがね)は大火にも焼けず大水にも漂(ただよ)わず朽(く)ちず・鉄(くろがね)は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈(あに)真金(しんきん)に非ずや・法華経の金を持つ故か」
(了)
妄説:43 学会では「信心唱題によってのみ法体の血脈を受けるのであって、決して法主一人に法体が伝わるわけではない。法体の血脈なるものが法主のみと説くのは邪義」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、そうなのでしょうか。
これこそ、創価学会の指導が一貫していない見本であり、明らかな邪義です。
学会は『生死一大事血脈抄』の講義で、「ここで心すべきことは血脈には別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、明確に立て分けなければならないことである。すなわち、法体の血脈についていえば、久遠元初の自受用報身如来の再誕たる日蓮大聖人の御生命こそが、生死一大事血脈の究極であられ、その大聖人の御生命をそのまま移された法体が南無妙法蓮華経の大御本尊である。その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである」(学講 三〇上-五八頁)と述べていますが、この池田氏の言葉は間違っていたのでしょうか。
第五十六世日応上人は、
『弁惑観心抄』に「法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是れなり(中略)此の法体相承を受くるに付き尚(なお)唯授一人金口(こんく)嫡々相承なるものあり」(同書 212頁)
と仰せのように、日蓮大聖人の御内証(ないしょう)と戒壇の大御本尊は代々の御法主上人お一人に「法体相承」されているのです。
破折:
9.江戸時代の法難
「唯授一人血脈付法」が意味するものは、次のいずこであったか。
① 当代の法主が大聖人の意を体し、時の国家諫暁に及ぶこと
② 当代の法主の身を案じ、血脈を絶やさぬため手段を択ばないこと
大聖人の血脈を受け継ぐ者ならば、当然に①のはずである。だが宗門が選択したのは、②であった。「唯授一人血脈付法」の語は、「保身の逃げ口上」であり、「法難回避の言い逃れ」だったのである。
江戸幕府の寺請制度の下、宗門が御用宗教となってからは、お上の禁忌に触れないよう計らうことが、血脈を保つ秘訣と定めたのであろう。
当時は折伏弘教が禁じられていたが、信者が各地で弘教を拡大したため種々の弾圧を受けた。金沢法難、伊那法難、尾張法難が有名であり、多数の信徒が迫害に遭ったのである。
ところが宗門は問題の波及を恐れ、保身のため信者を冷たく見捨ててきた。宗門の卑怯・卑劣な体質は、当時から現代に至るまで、変わることは無いのである。
(1) 念仏王国と言われる北陸の前田藩では、下級藩士や町民の間に大石寺の信仰が広がった。前田藩は富士門流の信仰を禁止したが、藩内での信仰者は一万二千人もいたとされる。信仰の中心者は閉門、あるいは投獄された。大石寺は前田藩に末寺建立の申請を一回行なっただけで、信者を支援することは何もしなかったため、北陸の信徒たちは孤立無援となり、信仰の火はしだいに下火になり消えていった。明治十二年十一月、念願の大石寺の末寺が建立された時、信徒数はわずか八十余戸に減っており、開院式の供養に参加したのは百五十人たらずに過ぎなかった。
(2) 伊那では農民が信仰の中心となった。曹洞宗や日蓮宗の三か寺によってキリシタンの嫌疑をかけられ、中心者は藩の寺社奉行所によって過酷な拷問にあったが、屈することはなかった。キリシタンの証拠が出るはずは無く、家族ともに所払いとなり、田畑や屋敷は没収された。所払いが許されたのは、二十三年後のことであった。
(3) 尾張藩における信仰は、江戸の目黒に住む信徒・永瀬清十郎が、大石寺の末寺のない尾張地方へ行って折伏したのが始まりである。清十郎が日蓮宗一致派の信徒を打ち破った「砂村問答」は有名で、『人間革命』にも描かれる。だが尾張藩による迫害は前後四回におよび、明治九年に信教の自由の政令が発せられるまで、五十年間にもわたった。
◇
江戸時代を通じて各地で、合わせて百人近くの信徒が、権力による難にあっている。僧侶が折伏をして難にあったケースは、仙台法難の二人ぐらいしか見当たらない。権力に迎合して、保身を図っていた証左である。「信徒のための寺院・宗門」ではなく、「寺院・宗門のための信徒」という体質は、このようにして固まっていった。
(池田名誉会長 92年12月17日)
(引用:『暗黒の富士宗門史』著:河合一 第三文明社)
10.昭和の法難
大聖人御在世以来の最大の法難は、太平洋戦争前夜に治安維持法が施行されて以後の、軍部政府による国家神道の徹底施行と、他宗教への弾圧である。
「不敬罪」を恐れた宗門は、御書発刊停止、御書字句削除、神札甘受、神宮遥拝等、立て続けに大聖人の仏法を毀損することによって、弾圧を未然に防いだ。
それは「難を乗り越える信心」ではない、「難を避ける信心」だったのである。
法主が伝持する「相承」「相伝」には、法華経の「不自惜身命」の文字が書かれていないのか。法華経を読む心とは〝身読〟、身を以って読むはずである。結果として、宗門の「相承」「相伝」には、「宗開両祖の魂」は入っていなかったわけである。
大聖人御在世時も、元寇という未曾有の国難があった。法主に「唯授一人の血脈」が流れているとするなら、大聖人に続いて国家諫暁に及んだはずである。だが宗門はそうしなかった。法主に大聖人の御内証など、流れるはずが無かったのである。
しかし大聖人と在家との「信心の血脈」は切れなかった。学会幹部は謗法を寄せ付けず、為に官憲の拘引するところとなった。牧口会長は従容と仏法に殉じたのである。
椎地四郎殿御書(一四四八㌻)にいわく、
「末法には法華経の行者必ず出来すべし、但し大難来りなば強盛の信心弥弥(いよいよ)悦びをなすべし、火に薪(たきぎ)をくわ(加)へんにさかん(盛)なる事なかるべしや、大海へ衆流(しゅる)入る・されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし、諸河の水入る事なくば大海あるべからず、大難なくば法華経の行者にはあらじ」
(末法には法華経の行者は必ず出現する。ただし大難に値えば強盛の信心でいよいよ喜んでいくべきである。火に薪を加えるに火勢が盛んにならないことがあろうか。大海には多くの河水が流れ込む。しかし、大海は河水を返すことがあるだろうか。法華経の行者という大海に、諸河の水が大難として流れ込むけれども、押し返したりとがめだてすることはない。諸河の水が入ることがなければ大海はない。大難がなければ法華経の行者ではない)
法主と牧口会長との差は、どこにあったか。
法主には、「一宗の帰趨」しか念頭になかった。宗門は〝軍部を怒らせれば日蓮正宗が身延等の日蓮宗と合同させられる〟と恐れ、また〝法主が逮捕され獄死でもしたら「唯授一人の血脈」が断絶する〟等の「宗門維持」「大御本尊格護」の美名のもと、組織の保身を図るため、如何なる謗法も犯してやまなかったのである。「法体の血脈」とは、そのような言い訳がましいものであった。
しかし「信心の血脈」は、在家の心底に流れていた。「一宗がほろびることではない、一国がほろびることを、なげくのである」と牧口会長が語った通り、大聖人の「身口意の三業」そのままに、弟子として実践したことであった。
僧侶にできないことが、在家にできたのである。大聖人の仏法は、在家にしか信受できない。この事実は、日顕宗との離別においても証明されたことである。破法の日顕と永久に縁を断ち切ることにより、学会は大聖人の仏法を護ったのである。
11.庶民が信仰を決意した「法の一偈」
牧口会長が軍国主義政府の命令に従わず、大聖人の正義を堂々と説き、殉教の道を選んだことを、「宗教の正統主義の固守である」とか、「他宗教(国家神道)への嫌悪に過ぎない」等の、浅薄な見方を以って批判する者がある。
しかし当時の弾圧下にあった多くの庶民は、牧口会長の真実に心から共感し、理解し、信仰に入る要因となったのである。次のインタビュー記事に注目したい。
◇
村田只四さんという八十七歳のベテラン創価学会員に、入信動機を聞いた時のことだった。
一九五三年、友人が訪ねてきて、新しい信心のことを話してくれたという。「戦争の時に初代会長と二代会長が牢屋に入れられて、家族もみんな国賊扱いされた。そのなかで創価学会は戦い抜いたんだよ」。「それだけかい?」と村田さんが言うと、友人は「それだけしか知らないけど、それで十分じゃないか。それほど確かなことはないじゃないか」と答えた。村田さんは「それで入信しました」という。
私が会ったのは村田さんほか、八十代の女性三名。創価学会が一カ月に一万一千百十一所帯の拡大を成し遂げた一九五六年の「大阪の戦い」に参加した人たちである。入会動機を聞いてみて、この四名全員が、それぞれ入会したての人に折伏されて、入会したことがわかった。
「でも、皆さんのおうちは違う宗教をやっていたんですよね?」「自分自身も入会したばかりの人が、どうして折伏しようと思えたんでしょうか?」と質問した。
大勢の人がその場で入会を決意する決め手となった「法の一偈」を、四名が次々に語ってくれた。「学会は、生命ほど尊いものはないって言ってるんだって」。この信心をみんなに教えてやりたいと思うのに、この一言で十分だったのだ。人間が、宗教のための手段にされてしまったとき何が起こるか、皆、痛いほど味わわされていたからだ。宗教自体が目的となり、あるいは産業や軍部や国家のための御用宗教となって、人間の尊厳、いや人間の生命自体が無残に押しつぶされてゆくのだ。
(中略)
その時、村田さんがこう言った。五十年経った今なお体を震わせ、最後はほとんど叫ぶように、「あの時代に国賊と言われることが、どれほど恐ろしいことか! それを忍んで正しい宗教を守りぬかれたんです! これほど確かなものはないと思いました!」と。
インタビューを終えて、ものすごい話を聞いたと感じた。なのに、村田さんの言っていた確かなものとはいったい何だろうという疑問が頭から離れなかった。
(中略)
一九五三年、村田さんが友人から聞いた「真理」は、信教の自由とか排他的な信仰などではなく、はるかに大きなものだった。村田さんにとって、それは「確か」なものだった。しかも、理屈も何も無視して言い張るような「確か」でもなかった。
原爆と敗戦を経て、村田さんにとって何より「確か」だったのは、人類はもっと違う道を進まねばならない、それは国家や民族が用意した道ではない、ということだった。村田さんが語った「真理」は人類全体に通じるものであり、そうであるがゆえに「国賊」呼ばわりされることだったのだ。一部の人を保護するための真理ではない。むしろ部族主義、国家主義の衝動に抵抗する真理だ。民族を超えた真理であり、グローバル時代に合った宗教の新しい姿だった。
(「SGIと世界宗教の誕生」クラーク・ストランド著 今井真理子訳 第三文明社刊)
(著者)Clark Strand:一九五七年、アメリカ・ミズーリ州生まれ。仏教研究家、現代宗教ジャーナリスト。アメリカの仏教誌「トライシクル」元編集長である。
軍国主義の嵐の中で最後まで信念を貫いた牧口会長の姿の中に、人々は「真金の人」を見た。その行動の中に、日蓮大聖人の偉大な仏法、生命の尊厳を説く真実が脈打っていることを、実感したのである。
生死一大事血脈抄(一三三七㌻)にいわく、
「金(こがね)は大火にも焼けず大水にも漂(ただよ)わず朽(く)ちず・鉄(くろがね)は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈(あに)真金(しんきん)に非ずや・法華経の金を持つ故か」
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №41~50
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:47」を破折する(その三) 連載66回
妄説:43 学会では「信心唱題によってのみ法体の血脈を受けるのであって、決して法主一人に法体が伝わるわけではない。法体の血脈なるものが法主のみと説くのは邪義」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、そうなのでしょうか。
これこそ、創価学会の指導が一貫していない見本であり、明らかな邪義です。
学会は『生死一大事血脈抄』の講義で、「ここで心すべきことは血脈には別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、明確に立て分けなければならないことである。すなわち、法体の血脈についていえば、久遠元初の自受用報身如来の再誕たる日蓮大聖人の御生命こそが、生死一大事血脈の究極であられ、その大聖人の御生命をそのまま移された法体が南無妙法蓮華経の大御本尊である。その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである」(学講 三〇上-五八頁)と述べていますが、この池田氏の言葉は間違っていたのでしょうか。
第五十六世日応上人は、
『弁惑観心抄』に「法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是れなり(中略)此の法体相承を受くるに付き尚(なお)唯授一人金口(こんく)嫡々相承なるものあり」(同書 212頁)
と仰せのように、日蓮大聖人の御内証(ないしょう)と戒壇の大御本尊は代々の御法主上人お一人に「法体相承」されているのです。
破折:
6.邪義に染まった御弟子、日尊(にちぞん)
前回掲載した十二世日鎮の話を進めるには、日目上人の門下、日尊の事績に遡らねばならない。それは日興上人が、重須談所で弟子の育成に努められていたときのことである。
◇
正安元年(一二九九)の晩秋、日尊は、日興上人より破門されるところとなるのである。日興上人が仏法の奥義を説法しているとき、遙か離れた梨の樹の葉が、秋風に吹かれ落ちゆくのを、彼はじっと傍観していた。
「汝、早く座を起(た)て!」
厳格な日興上人は、日尊を叱責していった。日尊の才知のなかにある濁りと傲慢を、日興上人は見抜いておられたのであろう。
「大法を弘めようと志すものが、ひとたび説法を聴聞しながら、違念をおこして落葉のさまを傍観するような隙があっていいものか!」
(『人間革命』第七巻「飛翔」の項)
叱責の上に、破門であった。日尊は一念発起して十二年の間、諸国を巡って弘教し、三十六箇寺を建立した。かくして日尊は日興上人の赦しを乞う。ここで初めて日興上人は破門を解かれ、大いに喜ばれて三十六幅の御本尊を書写して賜ったと伝えられる。
しかし、日尊は青年時代に習学した天台宗学の臭味が抜けず、神天上の法門に徹底できなかったためか、地方行脚の際に「阿弥陀像や地蔵像等の開眼をした」との伝説がある通り、大聖人の法門への理解が浅かったことを示している。
伝説(「新編会津風土記」)では、日尊が会津若松から出羽の国を指して歩いていた途次、地蔵の化身である小僧が現われ、村の疫病の平癒を嘆願し、日尊を地蔵堂の前まで招いたところで、その姿はかき消えたとある。その経緯から、福島県妙福寺は大石寺の末寺でありながら、六百余年の歳月を経て地蔵堂が存続していた。この地蔵像をめぐって昭和二十八年一月、住職と檀家とが対立する騒ぎとなったことは、上記『人間革命』に詳しい。
後に日尊は、日目上人の京都への天奏にお供したが、その途次、日目上人は美濃の垂井で遷化された。師匠の意志を継ぎ、日尊は入洛し天奏を果たした。翌年、京都六角油小路に寺地を賜り、その翌々年に法華堂(後の上行院)を開いた。
後に日尊の弟子、日大が冷泉西洞院に法華堂(後の住本寺)を創立。その後、上行院と住本寺とが合併し、要法寺となったのである。
日尊の門流は、仏像造立、法華経一部(二十八品)読誦などの教義の誤りを犯し、大石寺から分立して行った。
日興上人が日尊を破門されたのは、慧眼(けいがん)であった。講義中に落葉のさまに気を取られただけが破門の真相ではない。真摯に仏法を学ぶ者かどうかは、その行躰からも知れる。やがては日興上人の誡めに背く者となることを、見抜かれておられたのである。
この日尊の邪義は主に京都で弘められるのであるが、その謗法の濁りは富士の清流に流入され、清流はやがて濁流となる。日蓮正宗大石寺が、二度と戻らぬ邪教と成り果てた遠因は、ここにまで遡るのである。
7.邪義の混入(その1)― 左京日教
(1)「貫首崇拝」の大邪義
十二世日鎮の世話係の一人が、左京阿闍梨日教であった。日教は日尊の流派である京都住本寺系の有力僧であったとされるが、晩年に九世日有法主の門に入ったのである。
「近来当寺へ参り信の道を聴聞して信心に身の毛立ちて」
(『類聚翰集私』第二項)
左京日教の文書には、日有法主の信心根本の教学に出会い、師事したとある。ところが日有法主の遷化とともに、数え年十四歳の少年貫首が就任する。
◇
第九世日有上人から猊座は日乗上人、日底上人の順で引き継がれたが、日乗、日底の二人はともにまもなく病死したため、当時、十四歳であった日鎮に譲位されることになった。これには特殊な事情があった。日鎮は下野の国の有力者の出であると言われている。つまり、日鎮を貫首にすることで、その一族からの経済的な支援を期待したのである。早い話が宗門も食べていかなくてはならないので、貫首の座をエサに裕福なスポンサーを探し、援助してもらおうとしたのだ。その一つが稚児貫首である。十四歳の少年が「唯授一人という本義」を十分に理解、体得し、宗内を統率する力があったと説明するには無理がある。
宗門は、南条日住らこの頃の元老を稚児貫首日鎮の世話係に立てた。
しかし日鎮がどれほど優れていたとしても、年少の身であり、貫首の立場に対する多くの僧侶からの嫉妬、反発があった。当然といえば当然だが、少年貫首がイジメられていたのだ。
こうした事態に世話係は、少年貫首を擁護する指令を出すのである。
(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
「日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ぎ其の次ぎに仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り信心異他なく尋便来帰咸使見之す、何ぞ末代の我等卅二相八十種好の仏に値ひ奉るべき、当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ」
(『類聚翰集私』第四項)
当代の法主に本尊の体がある。この法主こそ日蓮大聖人の生まれ代わりであるから、宗祖にお会いしたと思わなければならない(取意)と言うのである。
◇
左京日教が日鎮上人の御意見番ですね。日有上人の晩年にですね、亡くなる四、五年前にですね、すっかり、お山にきて仕えていた。で法義のできる人ですから、まあ、日有上人が亡くなられても後は左京日教が日鎮上人に学問を仕込んだ。
(『堀上人に宗門史を聞く』『大白蓮華』第六六号、一九五六年一一月、一四頁)
左京日教の趣旨に、「御意見番」(後見役)として年少の貫首を盛り立てようとの意図は勿論あったであろう。だがここは、左京日教の心底を掘り下げていく必要がある。
前述した通り左京日教は、日有法主の「信心主義」に倣ったと述べた。だがその信心は大御本尊にではなく、大石寺貫首に向けられたものであった。すなわち代々の貫首の姿の中に宗祖大聖人を見るとする、貫首崇拝を説いたのである。
左京日教の出身は、日尊門流である住本寺である。当時すでに富士門流は諸派に分かれ、それぞれが正統性を謳っていた。宗門が「付嘱」「相伝」等を声高に主張する要因が、ここにある。
ことに大石寺においては、若年の稚児法主が登座した。「付嘱」「相伝」を継いだ貫首の座にこそ仏法の価値があるとしなければ、一門の正統性を誇示することはできない。
左京日教の「信心主義」とは「相承主義」でなければならず、信仰の対境も御本尊から貫首本人へと移ることとなる。だが、そもそも左京日教が御本尊を信じていたかどうかは疑わしい。日尊門流にあっては造仏義を立てていたのであり、貫首の中に本尊としての仏像を見ていたとすれば、理解が早いかもしれない。
言うまでもなく、大聖人の御書に貫首崇拝を説かれた箇所が、あるはずが無い。大聖人の御本意は、五字七字の法華経たる御本尊である。
本尊問答抄(三六五㌻)にいわく、
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」
ところが左京日教には、大聖人が帰命依止(きみょうえし)の根源として顕わされた御本尊を、心底より信ずることができなかった。九世日有法主の化導を受けたものの、異流儀に染まった者はどこまでも異流儀であった。
日顕と同じことである。一度謗法に染まった者は、生命に謗法が染み付き、二度と正法に戻ることはない。
左京日教は著作「穆作(むかさ)抄」の四で、こうも述べる。
「所詮は当代の教主法王より外は本門の本尊は無しと此の信成就する時、釈迦如来の因行果徳の万行万善・諸波羅蜜の功徳法門が法主の御内証に収まる時・信心成就すると信ず可きなり……閻浮第一の御本尊も真実は用なり」
(富士宗学要集第二巻-253)
本門の本尊とは、御本尊の他に無い。それを「当代の教主法王より外は本門の本尊は無し」とは、大謗法の言である。
さらに「閻浮第一の御本尊も真実は用なり」(『穆作抄』)、「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり」(『類聚翰集私』)とあり、当代の法主が「体」、御本尊が「用」であるとする。これは日顕が小僧共に捏造させた妄言と内容を同じくし、大聖人の仏法を破壊する大邪義である。
しかし代々の貫首にとっては、己の地位を高めるには大変都合の良い文書であったから、御本尊への不敬の言として問題にすることは無かったようである。以後、左京日教の邪義は宗内に浸透していった。
このような邪説を一切はね除け、大聖人の正法正義のみを「六巻抄」等にまとめた正師、日寛上人が出現されるのは、ずっと後のことである。謗法はそれほど早くから、宗門に流入していたのである。
(引用:『日蓮正宗の神話』「第一論文」9項「大石寺の血脈神話の原型」 松岡幹夫氏)
(2)法主が伝えた「相承主義」
左京日教の指令が出された後も、宗内の大衆(一般僧侶)には効果は無かったとされる。これまでの日有法主の教えには、このような邪教の要素など全く無かったゆえである。
「一、上人仰に云く、此の経受持之人信心無二にして余事余念なく南無妙法蓮華経と唱え奉り候へば其の当位に即身成仏上行菩薩也と申す証文之有り、神力品に云く、爾時上行等と云云、只是れ等の専是也」(『聞書拾遺』)
この「上人」(=九世日有法主)の言葉の趣旨は、大聖人の仰せと意を同じくするものであった。
生死一大事血脈抄(一三三七㌻)にいわく、
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解(さと)りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
このため宗内では、左京日教の指令などは「戯(たわ)けたことを」と無視したのであろう。
◇
何年経っても日鎮上人への非難の火の手は収まらない。日鎮もとうとう我慢できなくなったのか、二十二歳の時、三位阿闍梨日芸に手紙を送り、「もう堪らない。ぜひ会いたい。この書状を見しだい、すぐ登山して私を後見して助けてもらいたい」と訴えている。そうした後見人のお陰か、日鎮上人は大永七年(一五二七年)まで四十五年間も猊座にあった。(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
左京日教の思想は当然のことながら、大衆に受け入れられるものでは到底無かったが、むしろ代々の法主に伝授されていった。歴代貫首が左京日教の諸文書を書写したり、相伝したりして、宗門に日教の〝法主相承主義〟が浸透して行ったのである。
宗門に伝えられた「相承」「相伝」は、法主でもない他門僧の邪義が元であったとは。これが宗門に棲みついた最初の〝貉(むじな)〟であり、人を騙す悪党であった。
今、日顕という名の、劫を経た〝貉〟が、神秘めかした「相承」「相伝」の言葉をもって、人々を化かしているのである。
かつて一山の僧侶が左京日教の指令を無視したように、日顕の妄説など「たわけたことを」と一蹴すべきであった。だが日顕は「僧階降格」等の恐怖政治を敷き、意のままにならぬと見切りをつけた僧侶には、罵詈雑言をもって宗門を離脱させた。逆に、お追従ばかり並べたてる坊主どもを、取り巻きとしていったのである。
8.邪義の混入(その2)― 十七世日精
日鎮に続く十三世日院も、数え年わずか十歳で法を継いだ稚児貫首であった。先師から受け継いだ事は、五座三座の堂めぐりという伝統行事であり、日有法主の折伏精神を継がないのであれば、大石寺が教団として衰退して行ったのは当然であろう。
また次の十四世日主も、十九歳の若年で猊座に就いた。この代より要法寺との交流が始まり、同寺より招かれた日昌は、大石寺に来てわずか二年で猊座に登っている。
前述した通り京都の要法寺は、日興上人の弟子・日尊の開いた上行院が発展したもので、本来は同じ富士門流の寺院である。だが釈尊の仏像を本尊とし、法華経二十八品を読誦する等の異流儀に染まっていたため、それまで大石寺では交流を断っていた。
かかる謗法の寺から、以後九代・百年間も続けて法主を出さなければならなかったほど、大石寺は人材が無く、正しい信心を失っていたのである。日夜の五座・三座の勤行も、堂塔伽藍の建立も、宗門隆盛の役には立たなかったことになる。
要法寺出身の十七世日精は、自分の権威の及ぶ範囲内で、一時は十箇寺を超える末寺に仏像を造立した。これは日興上人の教えに背く大謗法である。
「日興云く、聖人御立の法門に於ては、全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即(すなわち)自筆本尊是也」
(『富士一跡門徒存知の事』日蓮正宗歴代法主全書1-21)
「唯授一人血脈付法」と言うものが実在するなら、日興上人の御精神は十七世日精に受け継がれていたはずである。しかし日精が日興上人の「相承」「相伝」を伝持していたならば、上人が否定された造仏義を立てるはずがない。法水写瓶は、混濁されていったのである。
「唯授一人血脈付法」とは、神話にすぎないことを日精が証明している。日顕に流れる血脈とは、他門僧左京日教および十七世日精の謗法の系譜と、父・六十世日開の淫蕩の系譜とが、混濁し合って生じた魔の血脈なのである。
(続く)
妄説:43 学会では「信心唱題によってのみ法体の血脈を受けるのであって、決して法主一人に法体が伝わるわけではない。法体の血脈なるものが法主のみと説くのは邪義」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、そうなのでしょうか。
これこそ、創価学会の指導が一貫していない見本であり、明らかな邪義です。
学会は『生死一大事血脈抄』の講義で、「ここで心すべきことは血脈には別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、明確に立て分けなければならないことである。すなわち、法体の血脈についていえば、久遠元初の自受用報身如来の再誕たる日蓮大聖人の御生命こそが、生死一大事血脈の究極であられ、その大聖人の御生命をそのまま移された法体が南無妙法蓮華経の大御本尊である。その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである」(学講 三〇上-五八頁)と述べていますが、この池田氏の言葉は間違っていたのでしょうか。
第五十六世日応上人は、
『弁惑観心抄』に「法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是れなり(中略)此の法体相承を受くるに付き尚(なお)唯授一人金口(こんく)嫡々相承なるものあり」(同書 212頁)
と仰せのように、日蓮大聖人の御内証(ないしょう)と戒壇の大御本尊は代々の御法主上人お一人に「法体相承」されているのです。
破折:
6.邪義に染まった御弟子、日尊(にちぞん)
前回掲載した十二世日鎮の話を進めるには、日目上人の門下、日尊の事績に遡らねばならない。それは日興上人が、重須談所で弟子の育成に努められていたときのことである。
◇
正安元年(一二九九)の晩秋、日尊は、日興上人より破門されるところとなるのである。日興上人が仏法の奥義を説法しているとき、遙か離れた梨の樹の葉が、秋風に吹かれ落ちゆくのを、彼はじっと傍観していた。
「汝、早く座を起(た)て!」
厳格な日興上人は、日尊を叱責していった。日尊の才知のなかにある濁りと傲慢を、日興上人は見抜いておられたのであろう。
「大法を弘めようと志すものが、ひとたび説法を聴聞しながら、違念をおこして落葉のさまを傍観するような隙があっていいものか!」
(『人間革命』第七巻「飛翔」の項)
叱責の上に、破門であった。日尊は一念発起して十二年の間、諸国を巡って弘教し、三十六箇寺を建立した。かくして日尊は日興上人の赦しを乞う。ここで初めて日興上人は破門を解かれ、大いに喜ばれて三十六幅の御本尊を書写して賜ったと伝えられる。
しかし、日尊は青年時代に習学した天台宗学の臭味が抜けず、神天上の法門に徹底できなかったためか、地方行脚の際に「阿弥陀像や地蔵像等の開眼をした」との伝説がある通り、大聖人の法門への理解が浅かったことを示している。
伝説(「新編会津風土記」)では、日尊が会津若松から出羽の国を指して歩いていた途次、地蔵の化身である小僧が現われ、村の疫病の平癒を嘆願し、日尊を地蔵堂の前まで招いたところで、その姿はかき消えたとある。その経緯から、福島県妙福寺は大石寺の末寺でありながら、六百余年の歳月を経て地蔵堂が存続していた。この地蔵像をめぐって昭和二十八年一月、住職と檀家とが対立する騒ぎとなったことは、上記『人間革命』に詳しい。
後に日尊は、日目上人の京都への天奏にお供したが、その途次、日目上人は美濃の垂井で遷化された。師匠の意志を継ぎ、日尊は入洛し天奏を果たした。翌年、京都六角油小路に寺地を賜り、その翌々年に法華堂(後の上行院)を開いた。
後に日尊の弟子、日大が冷泉西洞院に法華堂(後の住本寺)を創立。その後、上行院と住本寺とが合併し、要法寺となったのである。
日尊の門流は、仏像造立、法華経一部(二十八品)読誦などの教義の誤りを犯し、大石寺から分立して行った。
日興上人が日尊を破門されたのは、慧眼(けいがん)であった。講義中に落葉のさまに気を取られただけが破門の真相ではない。真摯に仏法を学ぶ者かどうかは、その行躰からも知れる。やがては日興上人の誡めに背く者となることを、見抜かれておられたのである。
この日尊の邪義は主に京都で弘められるのであるが、その謗法の濁りは富士の清流に流入され、清流はやがて濁流となる。日蓮正宗大石寺が、二度と戻らぬ邪教と成り果てた遠因は、ここにまで遡るのである。
7.邪義の混入(その1)― 左京日教
(1)「貫首崇拝」の大邪義
十二世日鎮の世話係の一人が、左京阿闍梨日教であった。日教は日尊の流派である京都住本寺系の有力僧であったとされるが、晩年に九世日有法主の門に入ったのである。
「近来当寺へ参り信の道を聴聞して信心に身の毛立ちて」
(『類聚翰集私』第二項)
左京日教の文書には、日有法主の信心根本の教学に出会い、師事したとある。ところが日有法主の遷化とともに、数え年十四歳の少年貫首が就任する。
◇
第九世日有上人から猊座は日乗上人、日底上人の順で引き継がれたが、日乗、日底の二人はともにまもなく病死したため、当時、十四歳であった日鎮に譲位されることになった。これには特殊な事情があった。日鎮は下野の国の有力者の出であると言われている。つまり、日鎮を貫首にすることで、その一族からの経済的な支援を期待したのである。早い話が宗門も食べていかなくてはならないので、貫首の座をエサに裕福なスポンサーを探し、援助してもらおうとしたのだ。その一つが稚児貫首である。十四歳の少年が「唯授一人という本義」を十分に理解、体得し、宗内を統率する力があったと説明するには無理がある。
宗門は、南条日住らこの頃の元老を稚児貫首日鎮の世話係に立てた。
しかし日鎮がどれほど優れていたとしても、年少の身であり、貫首の立場に対する多くの僧侶からの嫉妬、反発があった。当然といえば当然だが、少年貫首がイジメられていたのだ。
こうした事態に世話係は、少年貫首を擁護する指令を出すのである。
(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
「日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ぎ其の次ぎに仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り信心異他なく尋便来帰咸使見之す、何ぞ末代の我等卅二相八十種好の仏に値ひ奉るべき、当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ」
(『類聚翰集私』第四項)
当代の法主に本尊の体がある。この法主こそ日蓮大聖人の生まれ代わりであるから、宗祖にお会いしたと思わなければならない(取意)と言うのである。
◇
左京日教が日鎮上人の御意見番ですね。日有上人の晩年にですね、亡くなる四、五年前にですね、すっかり、お山にきて仕えていた。で法義のできる人ですから、まあ、日有上人が亡くなられても後は左京日教が日鎮上人に学問を仕込んだ。
(『堀上人に宗門史を聞く』『大白蓮華』第六六号、一九五六年一一月、一四頁)
左京日教の趣旨に、「御意見番」(後見役)として年少の貫首を盛り立てようとの意図は勿論あったであろう。だがここは、左京日教の心底を掘り下げていく必要がある。
前述した通り左京日教は、日有法主の「信心主義」に倣ったと述べた。だがその信心は大御本尊にではなく、大石寺貫首に向けられたものであった。すなわち代々の貫首の姿の中に宗祖大聖人を見るとする、貫首崇拝を説いたのである。
左京日教の出身は、日尊門流である住本寺である。当時すでに富士門流は諸派に分かれ、それぞれが正統性を謳っていた。宗門が「付嘱」「相伝」等を声高に主張する要因が、ここにある。
ことに大石寺においては、若年の稚児法主が登座した。「付嘱」「相伝」を継いだ貫首の座にこそ仏法の価値があるとしなければ、一門の正統性を誇示することはできない。
左京日教の「信心主義」とは「相承主義」でなければならず、信仰の対境も御本尊から貫首本人へと移ることとなる。だが、そもそも左京日教が御本尊を信じていたかどうかは疑わしい。日尊門流にあっては造仏義を立てていたのであり、貫首の中に本尊としての仏像を見ていたとすれば、理解が早いかもしれない。
言うまでもなく、大聖人の御書に貫首崇拝を説かれた箇所が、あるはずが無い。大聖人の御本意は、五字七字の法華経たる御本尊である。
本尊問答抄(三六五㌻)にいわく、
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」
ところが左京日教には、大聖人が帰命依止(きみょうえし)の根源として顕わされた御本尊を、心底より信ずることができなかった。九世日有法主の化導を受けたものの、異流儀に染まった者はどこまでも異流儀であった。
日顕と同じことである。一度謗法に染まった者は、生命に謗法が染み付き、二度と正法に戻ることはない。
左京日教は著作「穆作(むかさ)抄」の四で、こうも述べる。
「所詮は当代の教主法王より外は本門の本尊は無しと此の信成就する時、釈迦如来の因行果徳の万行万善・諸波羅蜜の功徳法門が法主の御内証に収まる時・信心成就すると信ず可きなり……閻浮第一の御本尊も真実は用なり」
(富士宗学要集第二巻-253)
本門の本尊とは、御本尊の他に無い。それを「当代の教主法王より外は本門の本尊は無し」とは、大謗法の言である。
さらに「閻浮第一の御本尊も真実は用なり」(『穆作抄』)、「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり」(『類聚翰集私』)とあり、当代の法主が「体」、御本尊が「用」であるとする。これは日顕が小僧共に捏造させた妄言と内容を同じくし、大聖人の仏法を破壊する大邪義である。
しかし代々の貫首にとっては、己の地位を高めるには大変都合の良い文書であったから、御本尊への不敬の言として問題にすることは無かったようである。以後、左京日教の邪義は宗内に浸透していった。
このような邪説を一切はね除け、大聖人の正法正義のみを「六巻抄」等にまとめた正師、日寛上人が出現されるのは、ずっと後のことである。謗法はそれほど早くから、宗門に流入していたのである。
(引用:『日蓮正宗の神話』「第一論文」9項「大石寺の血脈神話の原型」 松岡幹夫氏)
(2)法主が伝えた「相承主義」
左京日教の指令が出された後も、宗内の大衆(一般僧侶)には効果は無かったとされる。これまでの日有法主の教えには、このような邪教の要素など全く無かったゆえである。
「一、上人仰に云く、此の経受持之人信心無二にして余事余念なく南無妙法蓮華経と唱え奉り候へば其の当位に即身成仏上行菩薩也と申す証文之有り、神力品に云く、爾時上行等と云云、只是れ等の専是也」(『聞書拾遺』)
この「上人」(=九世日有法主)の言葉の趣旨は、大聖人の仰せと意を同じくするものであった。
生死一大事血脈抄(一三三七㌻)にいわく、
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解(さと)りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
このため宗内では、左京日教の指令などは「戯(たわ)けたことを」と無視したのであろう。
◇
何年経っても日鎮上人への非難の火の手は収まらない。日鎮もとうとう我慢できなくなったのか、二十二歳の時、三位阿闍梨日芸に手紙を送り、「もう堪らない。ぜひ会いたい。この書状を見しだい、すぐ登山して私を後見して助けてもらいたい」と訴えている。そうした後見人のお陰か、日鎮上人は大永七年(一五二七年)まで四十五年間も猊座にあった。(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
左京日教の思想は当然のことながら、大衆に受け入れられるものでは到底無かったが、むしろ代々の法主に伝授されていった。歴代貫首が左京日教の諸文書を書写したり、相伝したりして、宗門に日教の〝法主相承主義〟が浸透して行ったのである。
宗門に伝えられた「相承」「相伝」は、法主でもない他門僧の邪義が元であったとは。これが宗門に棲みついた最初の〝貉(むじな)〟であり、人を騙す悪党であった。
今、日顕という名の、劫を経た〝貉〟が、神秘めかした「相承」「相伝」の言葉をもって、人々を化かしているのである。
かつて一山の僧侶が左京日教の指令を無視したように、日顕の妄説など「たわけたことを」と一蹴すべきであった。だが日顕は「僧階降格」等の恐怖政治を敷き、意のままにならぬと見切りをつけた僧侶には、罵詈雑言をもって宗門を離脱させた。逆に、お追従ばかり並べたてる坊主どもを、取り巻きとしていったのである。
8.邪義の混入(その2)― 十七世日精
日鎮に続く十三世日院も、数え年わずか十歳で法を継いだ稚児貫首であった。先師から受け継いだ事は、五座三座の堂めぐりという伝統行事であり、日有法主の折伏精神を継がないのであれば、大石寺が教団として衰退して行ったのは当然であろう。
また次の十四世日主も、十九歳の若年で猊座に就いた。この代より要法寺との交流が始まり、同寺より招かれた日昌は、大石寺に来てわずか二年で猊座に登っている。
前述した通り京都の要法寺は、日興上人の弟子・日尊の開いた上行院が発展したもので、本来は同じ富士門流の寺院である。だが釈尊の仏像を本尊とし、法華経二十八品を読誦する等の異流儀に染まっていたため、それまで大石寺では交流を断っていた。
かかる謗法の寺から、以後九代・百年間も続けて法主を出さなければならなかったほど、大石寺は人材が無く、正しい信心を失っていたのである。日夜の五座・三座の勤行も、堂塔伽藍の建立も、宗門隆盛の役には立たなかったことになる。
要法寺出身の十七世日精は、自分の権威の及ぶ範囲内で、一時は十箇寺を超える末寺に仏像を造立した。これは日興上人の教えに背く大謗法である。
「日興云く、聖人御立の法門に於ては、全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即(すなわち)自筆本尊是也」
(『富士一跡門徒存知の事』日蓮正宗歴代法主全書1-21)
「唯授一人血脈付法」と言うものが実在するなら、日興上人の御精神は十七世日精に受け継がれていたはずである。しかし日精が日興上人の「相承」「相伝」を伝持していたならば、上人が否定された造仏義を立てるはずがない。法水写瓶は、混濁されていったのである。
「唯授一人血脈付法」とは、神話にすぎないことを日精が証明している。日顕に流れる血脈とは、他門僧左京日教および十七世日精の謗法の系譜と、父・六十世日開の淫蕩の系譜とが、混濁し合って生じた魔の血脈なのである。
(続く)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №41~50
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:47」を破折する(その二) 連載65回
妄説:47 学会では「相承」や「相伝」とは別に「血脈」があると立て、「血脈は信心の次元の問題であり、大聖人と自分自身の師弟の問題である」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、本当でしょうか。
創価学会が主張するこのような邪義の「文証」は、どこにもありません。
日蓮正宗の仏法においては、「相承」「相伝」がなければ「血脈」もありえないのです。
『身延相承書』に
「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す(中略)血脈の次第 日蓮日興」(新編 1675頁)
と、「付嘱」「血脈」を示されています。また『池上相承書』には
「白蓮阿闍梨日興に相承す」(同頁)
とあり、ここには「相承」と記されています。
宗祖日蓮大聖人が御入滅に当たって、日興上人に仏法の一切を相承された証しとなるこの両付嘱書は『二箇(にか)相承』といって、二書を切り離して考えるべきではありません。「相承」「相伝」という仏法の大事を離れて「血脈」がないことのなによりの証拠です。
かつて学会においても、『折伏教典』第九章に二箇相承を引用したのち 「(日興上人は)入滅にさきだち、第三世として日目上人を選ばれ、日蓮大聖人から相伝された一切を日目上人に付属された」(同書 二二九頁)
と説明していたのです。
このように「血脈の次第」があるからこそ、日蓮大聖人より日興上人、日目上人へと「相承」「相伝」されてきたのです。
ゆえに「相承」「相伝」を離れた血脈は絶対にありません。学会でいう「大聖人と自分自身の問題である」との考えは、唯授一人の血脈を否定する邪説です。
破折:
何ゆえ大聖人の法灯は、日目上人の御遷化後に四散してしまったのか。「唯授一人の血脈」が正しければ、四世日道のもとに富士門流が一致結束し、広宣流布に邁進したはずである。
日目上人の天奏に随った日尊は、上人の意志を継いで天奏を果たし、京に寺領を賜った。そこまでは良かったが、その後は大石寺に見向きもしない。富士の地に帰ったところで、四世日道から六世日時までの七十有余年にわたり、日郷門下との訴訟に明け暮れている。このような擾乱の姿から、仏法の何が得られようか。
擾乱のわけは、流派ごとに自分達に都合の良い理由を並べるが、上古の事は定かでない。何であれ、大聖人の「異体同心」の御精神は、どこに消え去ってしまったのか。
4.九世日有法主と「師弟」
四世日道と日郷との間に起きた土地の係争がもとで、大石寺は衰微し教勢は振るわず、人材は枯渇した。そのため八世日影は相承にふさわしい適当な人物がいないと嘆き、在家の信徒に血脈を授けたとする伝説まで生まれている。
醜い土地争いに一門の威信を懸け、広宣流布を放擲する出家よりも、「唯授一人の血脈」は在家に伝わったほうが良かったであろう。だが和合僧団・創価学会が出現するには、七百年の時を待たねばならなかった。
結局、日影の後を継いだのは南条家出身の九世日有法主である。数え年十八歳で法を継いだとされ、以後代々続く〝稚児法主〟の始めである。
日有法主と言えば、宗門が法主本仏論の根拠とする次の文言が有名である。
「一、手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我か弟子も此くの如く我れに信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮花経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云ふなり云云」(『化儀抄』第四条)
現在伝わる日有法主の言行録は、全て門下によって記されたものであり、系統立って編まれたものではない。さらに判読困難な文言が多数あり、これまで宗門が都合の良いように読んできた。
この「手続の師匠」とは末寺住職ないし本寺(大石寺)住職を指すが、現宗門は大石寺住職であるとし、「もぬけられたる」の語を〝大聖人の御命が乗り移る〟と読んで、「代々の御法主上人の所に宗祖の御法魂が在すとの御指南」であるとする。
「もぬけられたる」の語は様々に解釈される。如何なる主観をもって判ずるかで、どのようにも読めよう。
ただし続く文に「師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我か弟子も此くの如く我れに信を取るべし」とあり、〝師匠をよく見定め、納得した上で信じるように〟と述べている。
宗門の側は、ここはそのように読むのではない、と言うであろう。そう読めば宗門にとって都合が悪い。
しかし〝師匠を選ぶ〟ことは、人生で最も大切な選択ではなかろうか。師匠とは「三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる」、すなわち大聖人の〝御教示そのままに振る舞う正しい信心を持った人〟でなければならない。
同じ「化儀抄」に、同様の文言がある。
「一、信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動せざれば其の筋目違ふべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず、夫とは世間には親の心を違へず、出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違へざる時は我れ等が色心妙法蓮花経の色心なり、此の信心が違ふ時は我れ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず、一人一日中八億四千の念あり、念々中の所作皆是れ三途の業因と文。」(同 二十七条)
「高祖已来の信心を違へざる時」とある通り、日蓮大聖人以来の正しい信心を持った師匠をよく見定めて選び、その正師の信心に学んでいきなさい、との指南なのである。
現宗門は「手続の師匠」を大石寺貫首(法主)に限定するが、日有法主の時代は末寺住職の権限を大幅に認めたときであり、宗史において独自な体制を取っていた。信徒が末寺住職を飛び越え、大石寺貫首を師匠とするのは不自然である。「手続の師匠」とは末寺住職と捉えるほうが相当である。
さて末寺住職の地位にあれば、誰もが正しい「手続の師匠」なのであろうか、しかし現実はそうはならない。それだから「能く能く取り定めて信を取るべし」、よく見定めなければならないのである。
「売僧」という語は、宗門の者はよく知っていよう。僧でありながら物品の販売などをする堕落僧が元意であるが、一般的には僧を罵っていう語である。
戦時中に軍部政府を恐れ、大聖人の御書を削除し、神札を甘受した者も、この売僧である。この場合は物品を売るわけではない、魔に魂を売ったのである。
だが日有法主の時に、大石寺の土地を売ってしまった僧がいた。文字通りの売僧である。
「日有上人の仰ニ云ク……此大石が原と申スは上代地頭奥津方より永代を限り十八貫に買得にて候処を、公事迄かけられて候事、末代大切なる子細にて候間此の沙汰を成ぜんが為メニ三人の留主居を定メて候えば如何様の思案候ひけるや、留主居此の寺を捨て除き候間六年まで謗法の処に成リ候間、老僧立帰り高祖聖人の御命を継ぎ奉り候、さ候間一度謗法の処と成り候間、又地頭奥津方より廿貫ニ此の大石を買得申し高祖聖人の御命を継キ(ぎ)たてまつり候と仰セ給ヒ候已上」(『有師物語聴聞抄佳跡 上』富士宗学要集第一巻)
(大石寺のある大石が原はもともと十八貫で買ったものであったが、日有上人の留守の間に、留守居の三人が売り払ってしまい、六年もの長いあいだ「謗法の処」になってしまっていた。老僧(日有上人)が大石寺に戻られ、それを廿貫(二十貫)で買い戻し、大聖人のお命を継ぎ奉った〈趣意〉)
この不埒者らは、日有法主が諸国を弘教するために留守居として任じた者であり、阿闍梨号まで持っていた高僧である。それが信心を失って堕落し、このていたらくとなった。
彼等は高僧であるゆえ、上位の末寺の住職を兼ねているはずである。末寺住職をよく選びなさい、とする日有法主の趣旨は、当然含められると考えてよい。
だが『化儀抄』の文言は、表面的にはあくまで末寺住職と信徒との、一般的な取り決め等が記されるのであり、この文言だけでそのような事例を読むことはできない。
宗門は四世日道、五世日行、六世日時と、三代の七十余年にわたり土地の訴訟問題に振り回され、門流が分裂する騒ぎとなったのであり、日有法主としては、末寺住職の離反は何としても避けたい事情があった。
それゆえに末寺住職には大幅な権限、例えば仮本尊の書写権を与えたことが記される。宗門として特殊な事例であり、日有法主の死後は撤廃されたわけであるが、当時はそれだけ配慮していたことであった。
だが、かえって住職らを野放図にさせたうらみがあり、その例が前述した不正である。師匠とは、よくよく見定めなければならないとする好例であろう。
師匠と弟子との関係については、「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして」(生死一大事血脈抄 一三三七㌻)との仰せがある。師弟論に話が移れば更に紙面を要するため、ここでは一つだけ池田名誉会長のスピーチを載せておく。
◇
御義口伝に「師子吼」について、こう仰せである。
「師とは師匠授くる所の妙法 子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり」(御書748ページ)
我らの根源の師は日蓮大聖人であられる。
「師子吼」とは、師匠と弟子が、ともに妙法を唱え、弘めゆくとの意義がある。そう教えてくださっている。
師匠が、正義を訴え、戦っている。弟子が、それと同じように戦わなければ、師子吼とはいえないのである。
師匠と弟子が、一緒に叫ぶのだ。
これが師子吼である。「師弟一体」の大宣言なのである。
師匠と弟子が、全然、別の方向へ行くのでは、師子吼にならない。
その最たるものが、反逆した人間たちである。
断じて広宣流布を ―― その大聖人の御言葉を踏みにじり、学会の指導を蔑(ないがし)ろにした。策を弄(ろう)し、虚栄に走り、同志を裏切っていったのである。
私は、恩師・戸田先生のおっしゃったことを、同じように叫んできた。
師匠と違うことをいくら叫んでも、それは自己宣伝にすぎない。
(「創立75周年を記念する幹部特別研修会」群馬多宝研修道場 2005年8月12日)
5.「化儀」の一過性
「化儀」にはあくまで時代背景があり、一過性がある。日有法主が末寺住職に与えた本尊書写権は、日有法主以後の宗門には存在しない。今、日顕宗が学会に振りかざす『化儀抄』からの文言の数々は、時の宗門が分裂を防ぐために末寺住職の権限を大きく立てたあまり、信徒の立場が隅に追いやられた感がある。
日顕宗は、日有法主の言行録から僧俗差別の箇所のみを取り出し、法主本仏論までも読み取ろうとする。室町時代の時代背景を考えず、御苦労なことである。
しかし『化儀抄』を学会に振りかざす前に、まず自分たちが室町時代の僧侶に帰ってみてはどうか。
肉も鶏も魚も食してはならない、奥さんとは直ちに離縁する、江戸時代の寺請制度以前であるから、葬儀に出席せず、戒名もつけない、等々。
まず無理であろう。なにより奥さんに〝夫に愛人ができた〟と疑われ、太鼓を打つ棒で殴られ、磬を打つ棒で打たれるのが関の山である。中には奥さんと別れるため〝格好の言い訳〟となる、と考える向きがあるかもしれない。しかし葬儀に関われず、御供養がもらえないことは、一番きついであろう。
この通り『化儀抄』を始めとする日有法主の言行録を、今時にそのまま適用することは、どだい無理であることが分かるであろう。『化儀抄』は、時代の変遷とともにその役割を終えている。それをいつまでも引きずる宗門のことを〝時代錯誤の愚か者〟と言うのである。
また日有法主の言行録には、一方では僧俗すべてが平等に仏となる趣旨の文があり、また一方では四姓平等の理念に外れた文もあり、多種多様である。宗門は、信徒支配に都合の良い文のみを取り出し、その逆の主旨の文言を引用すると〝僧俗の筋目を弁えぬ者〟と非難する。
ただし日有法主には、現宗門の輩が真似しようにもできないことを述べた文がある。それは、広宣流布にかける思いである。
「一第十五段本書云・高祖の御言には、王臣の御信用なからん程は卒都姿の本・橋の下にても弘通すべし、一日片時も屋などに心安く有るべき事有まじ事なり、然る間・世事の福貴之有るべからず」(『有師物語聴聞抄佳跡上』富士宗学要集第一巻)
(大聖人のお言葉によれば、国主と臣下が正法を信じて広宣流布が達成されるまでは、塔婆のもと、橋の下ででも弘教すべきである。一日、片時でも、家などでのんびりしているようなことがあってはならない。ゆえに、世俗の富や地位などを求めてはならない)
宗門の輩はこのような言葉を体することなく、「僧侶にとって大事なことは令法久住であって、広宣流布ではない」(とある教学部長の言)などとうそぶき、怠惰に明け暮れてきた。
彼等坊主は、江戸時代の檀家制度で事実上の広宣流布が停止されて以来、折伏弘教を放棄したまま現在に至り、明治の代に肉食妻帯を素直に取り入れる、怠惰と欲望に赴くままの〝毛のなき猿〟(『寸鉄』戸田会長)であった。
室町時代の日有法主は大石寺を経営する合間に、東は奥州、西は京、また越後や佐渡へ弘教の歩みを進め、永享四年(一四三二年)には、京の足利幕府に申状を提出して諫暁を果たしている。
およそ僧侶が広宣流布の先頭に立った、最後の人であったかもしれず、その意味において尊敬されるべきである。だが前述した通り『化儀抄』等は、現今に資する鑑(かがみ)とは成り得ず、時代の経過とともにその意義を終えた資料である。
「代既に末世に成り候へば法界の機に引かれて当宗も末世に成り候、其の故は古よりも信心弱く成り候、其の上謗法罪の沙汰・事の外に緩く成り行き候、此れ即ち当宗の来世と覚え候、難儀至極なりと云云」(『雑々聞書』富士宗学要集第二巻)
(世もすでに末世となったので、そうした世間の機根に引かれて、我が宗も末世になってしまった。というのは、昔よりも信心が弱くなっている。その上、謗法の罪を責めることが、はなはだ、緩くなってきている。これは、すなわち、我が宗の末世であると思う。これ以上、容易ならないことはない)
すでに宗門には、終末の様相が見えていると言うのである。この予感通り、大石寺は凋落の一途を辿って行く。
6.稚児法主・日鎮
十二世日鎮が九世日有法主より法の付嘱を受けたのが、文明十四年(1482年)九月七日、数え年十四歳のときである。日有法主の登座時の年齢(十八歳)より四年も若い。
貫首とは信心・威徳ともに、人々の納得し得る立場の者が選出されるのではないのか。それは日顕を見れば、大いに肯ける。邪悪な破器(日顕)と幼少の未器(日鎮)。当時の宗門は、本来であれば不適格な人選を適格と強弁する理論を、まだ持ち合わせていなかった。それを理論付けるために「唯授一人の血脈」なる詭弁が必要とされたのであり、その裏付けが邪義「法主本仏論」である。この由来については次回、じっくりと論証したい。
日有法主の折伏弘教は一代で終わり、日鎮が先師の奮闘を学ぶことはなかった。以後の大石寺法主の活動は、各堂宇を整備し、それを巡って五座三座の勤行を行なう、内向きのものとなる。
この日鎮の代に、本堂、御影堂、垂迹堂、諸天堂、惣門等の諸堂が整備された。「堂参御経次第」(一五二三年)には、五か所の堂の各々に、方便品と寿量品とを読誦・唱題して廻るという、堂巡りによる五座三座の勤行の儀式が行われたことが記される。
日鎮が登座した頃、他宗では浄土真宗の蓮如が活躍していた。蓮如は本願寺第八世であったが、当時の本願寺は参拝する人も少ない、寂れた寺であったという。それを蓮如は、〝浄土真宗と言えば本願寺〟と言うほどの大教団に成長させていった。彼は祖師・親鸞の教えを分かり易く説き、数多くの「御文(御文章)」によって民衆を教化した。浄土真宗を現在に至る教勢にまで拡大せしめたのは、蓮如の功績によるとされる。
この念仏者の攻勢に対抗し、日鎮は先師・九世日有法主に倣(なら)い、諸国への折伏弘教の戦いに出たであろうか。その答えは前項に述べた通り、日鎮は五座三座の勤行に勤(いそ)しみ、「真夜中の堂宇めぐり」を怠りなく勤めた、というものであった。
念仏者の蓮如が日本中を駆けめぐって教勢を拡大したとき、日鎮は弘教の時を逸した、と言うしかない。
こう言うと、宗門は「五座三座の丑寅勤行を勤めてこられた御法主上人への暴言である」と言うであろう。だが、大教勢を確立した蓮如と、日夜の五座三座の勤行に勤しんだ日鎮とで、宗旨の違いはあるとも、布教の成果はどちらに勝負があったか思い至るべきである。
蓮如の影響下にあった北陸地方は、今も日本有数の念仏王国である。蓮如と日鎮と、同時代にあった教団指導者の事績の成否を、ここで問わねばならない。
曾谷殿御返事(一〇五六㌻)にいわく、
「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり」
大御本尊の御膝元でありながら謗法を責める戦いをしなければ、大聖人のお叱りこそあれ、大御本尊の功徳が生ずるはずがない。大石寺に覇気が生じるわけがないのである。
7.「教勢の拡大」とは何を以て言うか
宗門は、本山に堂塔伽藍が整備されたことをもって、十二世日鎮と十七世日精とを讃嘆してきた。しかし教勢とは、「造寺造塔」にあるものではない。いかなる堂塔伽藍を建立したところで、火災にあえば烏有(うゆう)に帰してしまう。
大事なことは、〝焼尽しない大事なもの〟を確立し教化することであり、それこそは「不屈の信心」である。折伏弘教と人材の育成とをもって、教勢の拡大とすべきなのである。
生死一大事血脈抄(一三三七㌻)にいわく、
「金(こがね)は大火にも焼けず大水にも漂(ただよ)わず朽(く)ちず・鉄(くろがね)は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し」
日鎮に与えられた「時」は、江戸時代の寺請制度という〝政治の枷(かせ)〟が無い時であり、折伏弘教の戦いに率先して出られたはずである。念仏者の蓮如などに後れを取ること無く、後世のために広宣流布の事跡を遺す時であった。
広く人々と対話し、折伏することで宗内の教学も練磨される。弘教なくして、教勢の拡大が叶うはずがない。
聖愚問答抄下(四九五㌻)にいわく、
「今の世は濁世なり人の情(こころ)もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし此の時は読誦書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり、只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき又法門を以ても邪義を責めよとなり」
(今の世は濁世である。人の心もひがみゆがんで、権教や謗法ばかりが多いので正法は弘まりにくいのである。この時には、読誦・書写の修行も、観念観法の工夫・修練も無用である。ただ折伏を行じて、力があれば威勢をもって謗法を破折し、また法門によって邪義を責めよということである)
日顕宗は、学会がそれまでの五座・三座の勤行から、方便品・自我偈を一回読誦する勤行に変えたこと(「創価学会の勤行と御祈念文の制定」聖教新聞 平成16年9月10日付)を、「日寛上人の化儀に背いた」などという。しかしこの化儀の由来は、日寛上人のはるか昔、日鎮の頃にまで遡る。日寛上人が日鎮当時の化儀をそのまま受け入れていたことは、時世時節に符合したことであった。
江戸時代の宗門における修行と言えば、勤行に時間をかけることぐらいのものであった。中山などは厳冬に水垢離の荒行をするが、それらは当時、折伏弘教が公に禁止されていたからである(逆縁広布の時代)。しかし日寛上人は、順縁広布を念願してやまなかった。
「順縁広布、何ぞこれを疑うべけんや。時を待つべきのみ」(「日寛上人文段集」二三四㌻)
現代こそは、日寛上人が願われた順縁広布の時代である。助行である「読誦」に時間を割くことは現代の修行ではない。信心は、形式では無いのである。正行の題目を心ゆくまで唱えたら、ただちに折伏弘教の戦いに出る、それこそが如説修行である。それは怠惰に染まった宗門にできることでは、さらさらない。
如説修行抄(五〇三㌻)にいわく、
「鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪(もっけ)なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや」
(鷄(にわとり)が暁に鳴くのは当然のことであるが、宵に鳴くのは物怪(もっけ)である。権教と実教との立て分けが乱れているときに、法華経の敵を折伏しないで、世間を離れ山林の中にとじこもって摂受を修行するのは、まさしく法華経修行の時を失った物怪ではないか」
大聖人からご覧になれば、宗門は「もののけ」(化け物)となっていたのである。当時の本山はまったく斜陽の姿をさらしていた。だが稚児法主の時代は、まだ続くのである。
消極的な性格の法主に、果敢な弘教を求めること自体、無理があった。だが、それ以上の問題が起こっていた。この時、富士の清流(正法)に謗法の毒が流し込まれたのである。
(続く)
妄説:47 学会では「相承」や「相伝」とは別に「血脈」があると立て、「血脈は信心の次元の問題であり、大聖人と自分自身の師弟の問題である」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、本当でしょうか。
創価学会が主張するこのような邪義の「文証」は、どこにもありません。
日蓮正宗の仏法においては、「相承」「相伝」がなければ「血脈」もありえないのです。
『身延相承書』に
「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す(中略)血脈の次第 日蓮日興」(新編 1675頁)
と、「付嘱」「血脈」を示されています。また『池上相承書』には
「白蓮阿闍梨日興に相承す」(同頁)
とあり、ここには「相承」と記されています。
宗祖日蓮大聖人が御入滅に当たって、日興上人に仏法の一切を相承された証しとなるこの両付嘱書は『二箇(にか)相承』といって、二書を切り離して考えるべきではありません。「相承」「相伝」という仏法の大事を離れて「血脈」がないことのなによりの証拠です。
かつて学会においても、『折伏教典』第九章に二箇相承を引用したのち 「(日興上人は)入滅にさきだち、第三世として日目上人を選ばれ、日蓮大聖人から相伝された一切を日目上人に付属された」(同書 二二九頁)
と説明していたのです。
このように「血脈の次第」があるからこそ、日蓮大聖人より日興上人、日目上人へと「相承」「相伝」されてきたのです。
ゆえに「相承」「相伝」を離れた血脈は絶対にありません。学会でいう「大聖人と自分自身の問題である」との考えは、唯授一人の血脈を否定する邪説です。
破折:
何ゆえ大聖人の法灯は、日目上人の御遷化後に四散してしまったのか。「唯授一人の血脈」が正しければ、四世日道のもとに富士門流が一致結束し、広宣流布に邁進したはずである。
日目上人の天奏に随った日尊は、上人の意志を継いで天奏を果たし、京に寺領を賜った。そこまでは良かったが、その後は大石寺に見向きもしない。富士の地に帰ったところで、四世日道から六世日時までの七十有余年にわたり、日郷門下との訴訟に明け暮れている。このような擾乱の姿から、仏法の何が得られようか。
擾乱のわけは、流派ごとに自分達に都合の良い理由を並べるが、上古の事は定かでない。何であれ、大聖人の「異体同心」の御精神は、どこに消え去ってしまったのか。
4.九世日有法主と「師弟」
四世日道と日郷との間に起きた土地の係争がもとで、大石寺は衰微し教勢は振るわず、人材は枯渇した。そのため八世日影は相承にふさわしい適当な人物がいないと嘆き、在家の信徒に血脈を授けたとする伝説まで生まれている。
醜い土地争いに一門の威信を懸け、広宣流布を放擲する出家よりも、「唯授一人の血脈」は在家に伝わったほうが良かったであろう。だが和合僧団・創価学会が出現するには、七百年の時を待たねばならなかった。
結局、日影の後を継いだのは南条家出身の九世日有法主である。数え年十八歳で法を継いだとされ、以後代々続く〝稚児法主〟の始めである。
日有法主と言えば、宗門が法主本仏論の根拠とする次の文言が有名である。
「一、手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我か弟子も此くの如く我れに信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮花経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云ふなり云云」(『化儀抄』第四条)
現在伝わる日有法主の言行録は、全て門下によって記されたものであり、系統立って編まれたものではない。さらに判読困難な文言が多数あり、これまで宗門が都合の良いように読んできた。
この「手続の師匠」とは末寺住職ないし本寺(大石寺)住職を指すが、現宗門は大石寺住職であるとし、「もぬけられたる」の語を〝大聖人の御命が乗り移る〟と読んで、「代々の御法主上人の所に宗祖の御法魂が在すとの御指南」であるとする。
「もぬけられたる」の語は様々に解釈される。如何なる主観をもって判ずるかで、どのようにも読めよう。
ただし続く文に「師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我か弟子も此くの如く我れに信を取るべし」とあり、〝師匠をよく見定め、納得した上で信じるように〟と述べている。
宗門の側は、ここはそのように読むのではない、と言うであろう。そう読めば宗門にとって都合が悪い。
しかし〝師匠を選ぶ〟ことは、人生で最も大切な選択ではなかろうか。師匠とは「三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる」、すなわち大聖人の〝御教示そのままに振る舞う正しい信心を持った人〟でなければならない。
同じ「化儀抄」に、同様の文言がある。
「一、信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動せざれば其の筋目違ふべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず、夫とは世間には親の心を違へず、出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違へざる時は我れ等が色心妙法蓮花経の色心なり、此の信心が違ふ時は我れ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず、一人一日中八億四千の念あり、念々中の所作皆是れ三途の業因と文。」(同 二十七条)
「高祖已来の信心を違へざる時」とある通り、日蓮大聖人以来の正しい信心を持った師匠をよく見定めて選び、その正師の信心に学んでいきなさい、との指南なのである。
現宗門は「手続の師匠」を大石寺貫首(法主)に限定するが、日有法主の時代は末寺住職の権限を大幅に認めたときであり、宗史において独自な体制を取っていた。信徒が末寺住職を飛び越え、大石寺貫首を師匠とするのは不自然である。「手続の師匠」とは末寺住職と捉えるほうが相当である。
さて末寺住職の地位にあれば、誰もが正しい「手続の師匠」なのであろうか、しかし現実はそうはならない。それだから「能く能く取り定めて信を取るべし」、よく見定めなければならないのである。
「売僧」という語は、宗門の者はよく知っていよう。僧でありながら物品の販売などをする堕落僧が元意であるが、一般的には僧を罵っていう語である。
戦時中に軍部政府を恐れ、大聖人の御書を削除し、神札を甘受した者も、この売僧である。この場合は物品を売るわけではない、魔に魂を売ったのである。
だが日有法主の時に、大石寺の土地を売ってしまった僧がいた。文字通りの売僧である。
「日有上人の仰ニ云ク……此大石が原と申スは上代地頭奥津方より永代を限り十八貫に買得にて候処を、公事迄かけられて候事、末代大切なる子細にて候間此の沙汰を成ぜんが為メニ三人の留主居を定メて候えば如何様の思案候ひけるや、留主居此の寺を捨て除き候間六年まで謗法の処に成リ候間、老僧立帰り高祖聖人の御命を継ぎ奉り候、さ候間一度謗法の処と成り候間、又地頭奥津方より廿貫ニ此の大石を買得申し高祖聖人の御命を継キ(ぎ)たてまつり候と仰セ給ヒ候已上」(『有師物語聴聞抄佳跡 上』富士宗学要集第一巻)
(大石寺のある大石が原はもともと十八貫で買ったものであったが、日有上人の留守の間に、留守居の三人が売り払ってしまい、六年もの長いあいだ「謗法の処」になってしまっていた。老僧(日有上人)が大石寺に戻られ、それを廿貫(二十貫)で買い戻し、大聖人のお命を継ぎ奉った〈趣意〉)
この不埒者らは、日有法主が諸国を弘教するために留守居として任じた者であり、阿闍梨号まで持っていた高僧である。それが信心を失って堕落し、このていたらくとなった。
彼等は高僧であるゆえ、上位の末寺の住職を兼ねているはずである。末寺住職をよく選びなさい、とする日有法主の趣旨は、当然含められると考えてよい。
だが『化儀抄』の文言は、表面的にはあくまで末寺住職と信徒との、一般的な取り決め等が記されるのであり、この文言だけでそのような事例を読むことはできない。
宗門は四世日道、五世日行、六世日時と、三代の七十余年にわたり土地の訴訟問題に振り回され、門流が分裂する騒ぎとなったのであり、日有法主としては、末寺住職の離反は何としても避けたい事情があった。
それゆえに末寺住職には大幅な権限、例えば仮本尊の書写権を与えたことが記される。宗門として特殊な事例であり、日有法主の死後は撤廃されたわけであるが、当時はそれだけ配慮していたことであった。
だが、かえって住職らを野放図にさせたうらみがあり、その例が前述した不正である。師匠とは、よくよく見定めなければならないとする好例であろう。
師匠と弟子との関係については、「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして」(生死一大事血脈抄 一三三七㌻)との仰せがある。師弟論に話が移れば更に紙面を要するため、ここでは一つだけ池田名誉会長のスピーチを載せておく。
◇
御義口伝に「師子吼」について、こう仰せである。
「師とは師匠授くる所の妙法 子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり」(御書748ページ)
我らの根源の師は日蓮大聖人であられる。
「師子吼」とは、師匠と弟子が、ともに妙法を唱え、弘めゆくとの意義がある。そう教えてくださっている。
師匠が、正義を訴え、戦っている。弟子が、それと同じように戦わなければ、師子吼とはいえないのである。
師匠と弟子が、一緒に叫ぶのだ。
これが師子吼である。「師弟一体」の大宣言なのである。
師匠と弟子が、全然、別の方向へ行くのでは、師子吼にならない。
その最たるものが、反逆した人間たちである。
断じて広宣流布を ―― その大聖人の御言葉を踏みにじり、学会の指導を蔑(ないがし)ろにした。策を弄(ろう)し、虚栄に走り、同志を裏切っていったのである。
私は、恩師・戸田先生のおっしゃったことを、同じように叫んできた。
師匠と違うことをいくら叫んでも、それは自己宣伝にすぎない。
(「創立75周年を記念する幹部特別研修会」群馬多宝研修道場 2005年8月12日)
5.「化儀」の一過性
「化儀」にはあくまで時代背景があり、一過性がある。日有法主が末寺住職に与えた本尊書写権は、日有法主以後の宗門には存在しない。今、日顕宗が学会に振りかざす『化儀抄』からの文言の数々は、時の宗門が分裂を防ぐために末寺住職の権限を大きく立てたあまり、信徒の立場が隅に追いやられた感がある。
日顕宗は、日有法主の言行録から僧俗差別の箇所のみを取り出し、法主本仏論までも読み取ろうとする。室町時代の時代背景を考えず、御苦労なことである。
しかし『化儀抄』を学会に振りかざす前に、まず自分たちが室町時代の僧侶に帰ってみてはどうか。
肉も鶏も魚も食してはならない、奥さんとは直ちに離縁する、江戸時代の寺請制度以前であるから、葬儀に出席せず、戒名もつけない、等々。
まず無理であろう。なにより奥さんに〝夫に愛人ができた〟と疑われ、太鼓を打つ棒で殴られ、磬を打つ棒で打たれるのが関の山である。中には奥さんと別れるため〝格好の言い訳〟となる、と考える向きがあるかもしれない。しかし葬儀に関われず、御供養がもらえないことは、一番きついであろう。
この通り『化儀抄』を始めとする日有法主の言行録を、今時にそのまま適用することは、どだい無理であることが分かるであろう。『化儀抄』は、時代の変遷とともにその役割を終えている。それをいつまでも引きずる宗門のことを〝時代錯誤の愚か者〟と言うのである。
また日有法主の言行録には、一方では僧俗すべてが平等に仏となる趣旨の文があり、また一方では四姓平等の理念に外れた文もあり、多種多様である。宗門は、信徒支配に都合の良い文のみを取り出し、その逆の主旨の文言を引用すると〝僧俗の筋目を弁えぬ者〟と非難する。
ただし日有法主には、現宗門の輩が真似しようにもできないことを述べた文がある。それは、広宣流布にかける思いである。
「一第十五段本書云・高祖の御言には、王臣の御信用なからん程は卒都姿の本・橋の下にても弘通すべし、一日片時も屋などに心安く有るべき事有まじ事なり、然る間・世事の福貴之有るべからず」(『有師物語聴聞抄佳跡上』富士宗学要集第一巻)
(大聖人のお言葉によれば、国主と臣下が正法を信じて広宣流布が達成されるまでは、塔婆のもと、橋の下ででも弘教すべきである。一日、片時でも、家などでのんびりしているようなことがあってはならない。ゆえに、世俗の富や地位などを求めてはならない)
宗門の輩はこのような言葉を体することなく、「僧侶にとって大事なことは令法久住であって、広宣流布ではない」(とある教学部長の言)などとうそぶき、怠惰に明け暮れてきた。
彼等坊主は、江戸時代の檀家制度で事実上の広宣流布が停止されて以来、折伏弘教を放棄したまま現在に至り、明治の代に肉食妻帯を素直に取り入れる、怠惰と欲望に赴くままの〝毛のなき猿〟(『寸鉄』戸田会長)であった。
室町時代の日有法主は大石寺を経営する合間に、東は奥州、西は京、また越後や佐渡へ弘教の歩みを進め、永享四年(一四三二年)には、京の足利幕府に申状を提出して諫暁を果たしている。
およそ僧侶が広宣流布の先頭に立った、最後の人であったかもしれず、その意味において尊敬されるべきである。だが前述した通り『化儀抄』等は、現今に資する鑑(かがみ)とは成り得ず、時代の経過とともにその意義を終えた資料である。
「代既に末世に成り候へば法界の機に引かれて当宗も末世に成り候、其の故は古よりも信心弱く成り候、其の上謗法罪の沙汰・事の外に緩く成り行き候、此れ即ち当宗の来世と覚え候、難儀至極なりと云云」(『雑々聞書』富士宗学要集第二巻)
(世もすでに末世となったので、そうした世間の機根に引かれて、我が宗も末世になってしまった。というのは、昔よりも信心が弱くなっている。その上、謗法の罪を責めることが、はなはだ、緩くなってきている。これは、すなわち、我が宗の末世であると思う。これ以上、容易ならないことはない)
すでに宗門には、終末の様相が見えていると言うのである。この予感通り、大石寺は凋落の一途を辿って行く。
6.稚児法主・日鎮
十二世日鎮が九世日有法主より法の付嘱を受けたのが、文明十四年(1482年)九月七日、数え年十四歳のときである。日有法主の登座時の年齢(十八歳)より四年も若い。
貫首とは信心・威徳ともに、人々の納得し得る立場の者が選出されるのではないのか。それは日顕を見れば、大いに肯ける。邪悪な破器(日顕)と幼少の未器(日鎮)。当時の宗門は、本来であれば不適格な人選を適格と強弁する理論を、まだ持ち合わせていなかった。それを理論付けるために「唯授一人の血脈」なる詭弁が必要とされたのであり、その裏付けが邪義「法主本仏論」である。この由来については次回、じっくりと論証したい。
日有法主の折伏弘教は一代で終わり、日鎮が先師の奮闘を学ぶことはなかった。以後の大石寺法主の活動は、各堂宇を整備し、それを巡って五座三座の勤行を行なう、内向きのものとなる。
この日鎮の代に、本堂、御影堂、垂迹堂、諸天堂、惣門等の諸堂が整備された。「堂参御経次第」(一五二三年)には、五か所の堂の各々に、方便品と寿量品とを読誦・唱題して廻るという、堂巡りによる五座三座の勤行の儀式が行われたことが記される。
日鎮が登座した頃、他宗では浄土真宗の蓮如が活躍していた。蓮如は本願寺第八世であったが、当時の本願寺は参拝する人も少ない、寂れた寺であったという。それを蓮如は、〝浄土真宗と言えば本願寺〟と言うほどの大教団に成長させていった。彼は祖師・親鸞の教えを分かり易く説き、数多くの「御文(御文章)」によって民衆を教化した。浄土真宗を現在に至る教勢にまで拡大せしめたのは、蓮如の功績によるとされる。
この念仏者の攻勢に対抗し、日鎮は先師・九世日有法主に倣(なら)い、諸国への折伏弘教の戦いに出たであろうか。その答えは前項に述べた通り、日鎮は五座三座の勤行に勤(いそ)しみ、「真夜中の堂宇めぐり」を怠りなく勤めた、というものであった。
念仏者の蓮如が日本中を駆けめぐって教勢を拡大したとき、日鎮は弘教の時を逸した、と言うしかない。
こう言うと、宗門は「五座三座の丑寅勤行を勤めてこられた御法主上人への暴言である」と言うであろう。だが、大教勢を確立した蓮如と、日夜の五座三座の勤行に勤しんだ日鎮とで、宗旨の違いはあるとも、布教の成果はどちらに勝負があったか思い至るべきである。
蓮如の影響下にあった北陸地方は、今も日本有数の念仏王国である。蓮如と日鎮と、同時代にあった教団指導者の事績の成否を、ここで問わねばならない。
曾谷殿御返事(一〇五六㌻)にいわく、
「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり」
大御本尊の御膝元でありながら謗法を責める戦いをしなければ、大聖人のお叱りこそあれ、大御本尊の功徳が生ずるはずがない。大石寺に覇気が生じるわけがないのである。
7.「教勢の拡大」とは何を以て言うか
宗門は、本山に堂塔伽藍が整備されたことをもって、十二世日鎮と十七世日精とを讃嘆してきた。しかし教勢とは、「造寺造塔」にあるものではない。いかなる堂塔伽藍を建立したところで、火災にあえば烏有(うゆう)に帰してしまう。
大事なことは、〝焼尽しない大事なもの〟を確立し教化することであり、それこそは「不屈の信心」である。折伏弘教と人材の育成とをもって、教勢の拡大とすべきなのである。
生死一大事血脈抄(一三三七㌻)にいわく、
「金(こがね)は大火にも焼けず大水にも漂(ただよ)わず朽(く)ちず・鉄(くろがね)は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し」
日鎮に与えられた「時」は、江戸時代の寺請制度という〝政治の枷(かせ)〟が無い時であり、折伏弘教の戦いに率先して出られたはずである。念仏者の蓮如などに後れを取ること無く、後世のために広宣流布の事跡を遺す時であった。
広く人々と対話し、折伏することで宗内の教学も練磨される。弘教なくして、教勢の拡大が叶うはずがない。
聖愚問答抄下(四九五㌻)にいわく、
「今の世は濁世なり人の情(こころ)もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし此の時は読誦書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり、只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき又法門を以ても邪義を責めよとなり」
(今の世は濁世である。人の心もひがみゆがんで、権教や謗法ばかりが多いので正法は弘まりにくいのである。この時には、読誦・書写の修行も、観念観法の工夫・修練も無用である。ただ折伏を行じて、力があれば威勢をもって謗法を破折し、また法門によって邪義を責めよということである)
日顕宗は、学会がそれまでの五座・三座の勤行から、方便品・自我偈を一回読誦する勤行に変えたこと(「創価学会の勤行と御祈念文の制定」聖教新聞 平成16年9月10日付)を、「日寛上人の化儀に背いた」などという。しかしこの化儀の由来は、日寛上人のはるか昔、日鎮の頃にまで遡る。日寛上人が日鎮当時の化儀をそのまま受け入れていたことは、時世時節に符合したことであった。
江戸時代の宗門における修行と言えば、勤行に時間をかけることぐらいのものであった。中山などは厳冬に水垢離の荒行をするが、それらは当時、折伏弘教が公に禁止されていたからである(逆縁広布の時代)。しかし日寛上人は、順縁広布を念願してやまなかった。
「順縁広布、何ぞこれを疑うべけんや。時を待つべきのみ」(「日寛上人文段集」二三四㌻)
現代こそは、日寛上人が願われた順縁広布の時代である。助行である「読誦」に時間を割くことは現代の修行ではない。信心は、形式では無いのである。正行の題目を心ゆくまで唱えたら、ただちに折伏弘教の戦いに出る、それこそが如説修行である。それは怠惰に染まった宗門にできることでは、さらさらない。
如説修行抄(五〇三㌻)にいわく、
「鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪(もっけ)なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや」
(鷄(にわとり)が暁に鳴くのは当然のことであるが、宵に鳴くのは物怪(もっけ)である。権教と実教との立て分けが乱れているときに、法華経の敵を折伏しないで、世間を離れ山林の中にとじこもって摂受を修行するのは、まさしく法華経修行の時を失った物怪ではないか」
大聖人からご覧になれば、宗門は「もののけ」(化け物)となっていたのである。当時の本山はまったく斜陽の姿をさらしていた。だが稚児法主の時代は、まだ続くのである。
消極的な性格の法主に、果敢な弘教を求めること自体、無理があった。だが、それ以上の問題が起こっていた。この時、富士の清流(正法)に謗法の毒が流し込まれたのである。
(続く)
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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:47」を破折する(その一) 連載64回
妄説:47 学会では「相承」や「相伝」とは別に「血脈」があると立て、「血脈は信心の次元の問題であり、大聖人と自分自身の師弟の問題である」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、本当でしょうか。
創価学会が主張するこのような邪義の「文証」は、どこにもありません。
日蓮正宗の仏法においては、「相承」「相伝」がなければ「血脈」もありえないのです。
『身延相承書』に
「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す(中略)血脈の次第 日蓮日興」(新編 1675頁)
と、「付嘱」「血脈」を示されています。また『池上相承書』には
「白蓮阿闍梨日興に相承す」(同頁)
とあり、ここには「相承」と記されています。
宗祖日蓮大聖人が御入滅に当たって、日興上人に仏法の一切を相承された証しとなるこの両付嘱書は『二箇(にか)相承』といって、二書を切り離して考えるべきではありません。「相承」「相伝」という仏法の大事を離れて「血脈」がないことのなによりの証拠です。
かつて学会においても、『折伏教典』第九章に二箇相承を引用したのち 「(日興上人は)入滅にさきだち、第三世として日目上人を選ばれ、日蓮大聖人から相伝された一切を日目上人に付属された」(同書 二二九頁)
と説明していたのです。
このように「血脈の次第」があるからこそ、日蓮大聖人より日興上人、日目上人へと「相承」「相伝」されてきたのです。
ゆえに「相承」「相伝」を離れた血脈は絶対にありません。学会でいう「大聖人と自分自身の問題である」との考えは、唯授一人の血脈を否定する邪説です。
破折:
1.「血脈」の在処
記事の一部分を切り取っても、文脈が不明であれば正意は得られない。ここはひとつ、記事をきちんと読んだ上で、「血脈」が何処にあるかを確認したい。
① 「血脈」とは「信心」以外の何物でもない
一、日顕には「信心の血脈」はなく、もはや御本尊に関する資格を失った。
従来「血脈」に関して、宗門では様々な表現が存在したが、今回〝血脈付法〟の法主であるはずの日顕が広布破壊の仏敵と化した事実により、大聖人が「信心の血脈」(御書一三三八ページ)と仰せのように、改めて「血脈」とは「信心」以外の何物でもない、という真相が明らかになった。日有上人は「信と云ひ血脈と法水と云ふ事は同じ事なり」(『富士宗学要集』一-一七五ページ)と明示されている。
そこで、事態の本質を明瞭(めいりょう)にするために、大聖人の仏法の本義の上から、いわゆる「相承」「相伝」と「血脈」の弁別を明らかにすべきである。前者は主に法門の授受を中心とした相続行為である。今、日顕が六十七世法主の立場を主張する時には、この「相承」「相伝」を受けたことを意味する。
これに対して、「血脈」とは「信心」の次元の問題である。換言(かんげん)するなら、大聖人と自分自身の「師弟」の問題である。たとえ形だけは歴代法主の地位にあっても、ひとたび「信心」「師弟」を見失えば、たちまち「血脈」は断絶する。
宗門の歴史をひもとくと、日精のような造仏の謗法を犯した法主もいれば、日寛上人のように令法久住に挺身(ていしん)した法主もおられ、全ての法主が「正師」であるとはいえないのが実情である。
それゆえ、日興上人は「時の貫首(かんず)為りと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構えば之を用う可(べ)からざる事」(御書一六一八ページ)、「貫首或(あるい)は習学の仁に於ては設い一旦(いったん)の媱犯(ようはん)有りと雖も衆徒(しゅうと)に差置(さしお)く可き事」(御書一六一九ページ)と、もし法主が大聖人との「師弟」の道を踏み外し、誤りを犯した場合、周囲が遠慮なく戒(いまし)めるよう、厳しく御指南されているのである。
(「創価学会の御本尊授与に関する法門上の見解」日蓮正宗・青年僧侶改革同盟 『聖教新聞』1993年9月20日)
② 正師は「相承」の権威によらず
仏教史を概観しても、仏法の正邪を判定する基準は、詮ずるところ仏に直結する「信心」に裏付けられた思想と行動があるかないかであり、これがあって真の「血脈」といえるのである。決して「相承」の有無ではない。
事実、大聖人が「正師」と呼ばれた方々は、およそ、おのおのの時代における既成仏教の座主(ざす)の系譜に、名を連ねられることはなかった。羅什三蔵(らじゅうさんぞう)も、天台大師も、あるいは伝教大師にしても、皆「相承」の権威にはよらず、どこまでも経文の「道理」と自身の「行動」によって教主・釈尊に直結し、独自に正法正義を立てられた。「相承」の現実は、インドの付法蔵(ふほうぞう)のように二十四人で「断絶」したり、日本天台宗のように途中で「邪教化」したりしていたからである。
日蓮大聖人も、「師の口より伝うる人必ずあやまりなく後にたづね・あきらめたる人をろそかならば経文をすてて四依(しえ)の菩薩につくべきか、父母の譲り状をすてて口伝(くでん)を用ゆべきか、伝教大師の御釈無用なり慈覚大師の口伝真実なるべきか」(御書一二五八ページ)と「相伝」の有謬性を鋭く喝破(かっぱ)されている。
(同)
③ 御本尊の下付停止は「広宣流布を否定」
ところが、現宗門は「相承」「相伝」と「信心の血脈」を混同し、一方では、いたずらに法主の地位を絶対化するとともに、他方では「信心の血脈」を失ったのである。その結果、日顕は法主の絶対性を利用して、未曾有の広宣流布を成し遂げた仏勅(ぶっちょく)の団体・創価学会を不当に「破門」した。つまり、実質的に広宣流布を「否定」したのである。
およそ血脈相承の根本目的が広宣流布にあることは、宗祖大聖人から第二祖日興上人への付嘱書に「時を待つべきのみ」(『身延相承書』御書一六〇〇ページ)とあり、日興上人から第三祖日目上人への付属書に「広宣流布を待つべきなり」(『日興跡条条の事』『富士宗学要集』五-一八八ページ)とあることからも明白である。広宣流布こそ大聖人が後世の弟子に託された絶対の御遺命であり、法主のあらゆる権能は「広宣流布への信心」を大前提に、宗祖大聖人から委託されていると考えるべきである。とするならば、広宣流布の「道」を踏み外すことは、即「信心の血脈」の断絶を意味する。ましてや、日顕のような広宣流布の断絶を願う法主に、大聖人からの「血脈」が流れている道理など、一分もない。
加えて、「血脈」を法主一人が独占することは、『生死一大事血脈抄』に「一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継(つ)がしめん」(御書一三三七ページ)と仰せになり、一切衆生に成仏の道を開かれた大聖人の「血脈」の本義にも反する。
さらに、個々の学会員はいまだ「信徒」であると言いながら、一方で御本尊下付を停止している宗門の行動は、完全に仏法の道理に反しており、この点で日顕は自ら御本尊に関する権能を放棄(ほうき)したに等しい。
よって、創価学会を「破門」し、御本尊下付を停止したことにより、日蓮正宗の法主・日顕に「信心の血脈」は完全になくなり、必然的に日顕は御本尊を書写し授与する資格を失ったのである。
(同)
上記の趣意から、あらためて御書を拝する。
生死一大事血脈抄(一三三七㌻)にいわく、
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解(さと)りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
ここに仏と、法華経と、衆生(凡夫)の三者の間には「全く差別無しと解(さと)りて」とあり、深い信心が三者を繋ぎ、通い合わせると仰せである。御本尊と信者とが信心により境地冥合するとき、法主や僧侶が介入しなければならない必然性は無い。
同抄(一三三七㌻)にいわく、
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思(おもい)を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
異体同心とは、創価学会の信心のことである。そして異体異心とは、大聖人の仏法を破壊する獅子身中の虫、宗門を指すのである。
2.問題点だらけの「唯授一人の血脈」
あらためて邪宗門の言い分を整理すると、疑問点がいくらでも湧いてくる。
① 『身延相承書』『池上相承書』における「付嘱」「血脈」「相承」の文字は、大聖人より日興上人への弘法が正しく行われたことを証する。
② 大聖人から日興上人に弘法された「付嘱」「血脈」「相承」と、現宗門の言う「唯授一人の血脈」とが、何ゆえ同一であると言い得るのか。
③ 日顕に「唯授一人の血脈」が伝持されたとする根拠は何か。
④ 日興上人の法門に背く〝日尊門流の異流儀〟が教義に混入され、それを改めず返って声高に主張する現宗門は、「唯授一人の血脈」を否定していることにならないか。
⑤ 〝面授口決が断絶した事例〟は、過去に何度もあった。それは「唯授一人の血脈」の断絶を意味するのではないか。
⑥ 何ゆえ六十二世鈴木日恭は軍部政府の弾圧を恐れ、大聖人の御書を削除し、神札を甘受する等の謗法を重ねたか。歴代法主に大聖人の「唯授一人の血脈」が流れているのなら、御在世時と同様に国家諫暁に立ち上がり、流罪・死罪をものともしなかったはずである。
今後、一一検証していきたい。
3.「唯授一人の血脈」を脅かす日顕の相承問題
宗門は「『相承』『相伝』を離れた血脈は絶対にありません」と言うが、それならば日顕にかかる「相承」「相伝」が伝持されたとする根拠は、どこにあるかとの質問に対し、宗門は解答しきれているか。
ひとえに日顕の相承問題である。これが明解に立証されなければ、宗門の教義の何もかもが戯言であり、妄語であったことになる。
報恩抄(三一一㌻)
「糞を集めて栴檀となせども焼く時は但糞の香なり大妄語を集めて仏と・がうすとも但無間大城なり」
そのもとは清浄な教義を伝えていたはずが、よりによって要法寺流の「唯授一人の血脈」などと言う邪義にかぶれ、法主本仏論に魅入られた邪宗門としては、それが最大の謳い文句であり、同時に最大の弱点でもあった。
日顕のように詐称した場合、宗門全体で嘘を突き通さなければならない。僧俗ともに、心に疾しさを感じながら、口に出せないもどかしさで一生を終るなどと、そのような人生は御免であろう。
4.学会の教義の方針
日顕が相承問題を立証できなければ、「唯授一人の血脈」は破綻することになり、それは日蓮正宗の教学の崩壊である。これにつき、学者が次の通り興味深い論文を提起している。少々長いが、大事なところである。
◇
第二次宗門問題が発生して以来10年以上が経過して、創価学会は会則変更により日蓮正宗との教義的関係を会則からは消去したが、創価学会自身の教義書を未だに発行していない。私の理解では、創価学会は日蓮本仏論のひとつの派生形態である法主=日蓮代理人説(血脈相承説)に関して、現法主の血脈断絶を主張しているとは思われるが、日蓮正宗の教義はそもそも法主の不在を想定していない教義であるから、そのような事態が生じた場合に、日蓮の救済の秘儀はどのようにして継承可能かという新しい血脈の理論が必要となる。
正信会は、創価学会と同様に現法主の血脈が断絶したことを主張したが、日蓮からの血脈が断絶したという事態を避けるために、『日興遺誡置文』を根拠にして血脈二管論を主張し、血脈は法主だけでなく同時に僧侶集団にも継承され、法主の血脈が断絶した場合は、僧侶集団によって継承された血脈を新しい法主に注入するという議論をしている。
これは日蓮正宗の歴史において異流義の要法寺系の僧侶によって法主が継承され、法主の血脈が断絶した時代にあっても、僧侶集団に継承された大石寺の血脈がやがて日寛に注入され、日寛が法主となり本来の大石寺教学を完成したという歴史を説明する議論としてはそれなりに説得力を持つ。(これに対して日蓮正宗はその時代にあっても法主に正しい血脈が継承されており、異流義である造仏論を主張した法主はいなかったと主張している。現在の創価学会は正信会と同じく法主に異流義があったと見ている。)
血脈問題に関して創価学会はかっては血脈二管論には否定的であり、現在は御書を通じて得た信仰にも日蓮の救済の秘蹟はあるとする信心の血脈論を採用しているようであるが、この議論は実は室町時代の顕本法華宗の派祖である玄妙日什(AN33-111)の経巻相承論と表面的には同じであると考えられるかもしれない。
なるほどこの経巻相承については例えば創価学会の『折伏教典』においては「仏法の真髄は血脈相承・師子相承といって、かならず面授口決のご相伝によらなければならない。・・・しかるに日什の場合には予言の経証もなく、面授口決ももちろんないままに、経巻相承と立てて、自己の正統を主張するのは、仏法を破壊する根本原因となるのである。日蓮宗なら、どんな宗派でも御書と法華経を手にするのはとうぜんであるが、それでいて多数の邪流邪義を生ずる理由は、まったく経巻相承という増上慢をおこすからである。」(『折伏教典』 p.132)と批判を加えている。
創価学会の信仰の正しさは少なくともどの法主からも面授口決されていないようであるから、この批判はそのまま現在の創価学会にも当てはまるのではないかと質問されたら、どのように回答するのだろうかという疑問が生ずるかもしれない。それに対しては一例として以下のような回答が可能であろう。
「創価学会は唯授一人面授口決による血脈相承という日蓮正宗の伝統法義を遵守してきたことは確かであり、その法義自体が誤っているとは考えてはいないが、細井日達法主から阿部日顕への面授口決による血脈相承という事実があったかどうかに関しては、これまでのさまざまな法主の地位をめぐる裁判の過程で、阿部日顕が、自分に相承があったことを、説得力をともなって証明できなかったことから、血脈相承がなかったと判断している。面授口決による血脈相承が存続している限りは、それを無視して御書を根本にして信心の血脈を主張するのは、経巻相承にあたるかもしれないが、現在面授口決による血脈相承を受けた法主は誰もいないのであり、また法主による血脈相承が断絶したという日蓮正宗では全く想定もしていない事態が生じたのであるから、日蓮の指導を記した御書から直接学ぶ以外に成仏への道はない。」という創価学会の回答が予測される。
正信会の血脈二管論は、僧侶集団にも法主による血脈と同等の血脈が流れているために、法主による血脈が断絶した場合は、僧侶集団の血脈から再び法主への血脈を修復、復活することが可能であることを主張している。しかしこの議論がどのように文献的に根拠づけられるかに関しては、かなりの困難が指摘されている。
創価学会は法主による血脈が断絶すれば、修復不可能という立場に立っている。わたしはこの創価学会の立場はそれなりに整合的な考えであると考えるが、問題は法主が永遠に不在となったという現状を踏まえて、どのような教義を形成していくかということである。
日蓮正宗の教義は、日蓮、日興から唯授一人面授口決による法主の存在を大前提にして、形成されている。日蓮正宗管長や大石寺住職は選出可能であるが、それは法主ではなく、法主がいなくなれば、日蓮正宗に伝わった日蓮の救済の秘儀を人々に伝える手段が断絶することを含意しているのが日蓮正宗の教義であり、そのような事態が現実に起こってしまったと創価学会が判断する限りは、説得力のある新しい教義をできるだけ早く形成する責務があると私は考えている。
(『日興の教学思想の諸問題(1)-1 資料編』宮田幸一 創価大学人文論集第18号 2006)
上記論文の最後の段落に「日蓮正宗の教義は、日蓮、日興から唯授一人面授口決による法主の存在を大前提にして、形成されている」とあるが、これは前項で述べた通り、日尊門流の要法寺から大石寺宗門に入った僧侶によってもたらされ、形成されていったものである。
宗門の法脈は日顕の詐称によって滅尽したものと判断される以上、あらたに学会が信奉する教義としては「日蓮正宗の教義」そのままであるわけにはいかない。邪義邪法は、二度と正法に混入させてはならないのである。
学者が言う「説得力のある新しい教義」とは、新奇なことを始めるわけでは無い。大聖人の御精神の原初に帰ること、すなわち大聖人直結、御書根本の教学に徹することである。後の時代に否応なくもたらされた化儀(僧侶の読経による葬儀、戒名、塔婆)は廃止し、御書の精選も課題である。
御書については、五十九世堀日亨法主が「信行に資するものは之を取る」(凡例 五㌻)とした精神から、「信行に資するものでなければ之を捨てよ」として、邪宗門の残滓は払い除けねばならない。
具体的には、相伝書の末文(『本因妙抄』八七七㌻、『百六箇抄』八六九㌻)は御書全集中で小さな活字で印刷されており、後加文であることを証する配慮がなされたものであったが、現今では「信行に資する」意義は全く失われたものとなった。
また『出家功徳御書』のごとく大聖人の御真意に反する文書も、以後は不要である。
さらに御真蹟との照合も大事である。以上の通り、新しい御書全集の作成が望まれており、学会教学部で慎重に進められている。宗門のように不出来な御書を出版しなければならない、差し迫った事情は無い。
御本尊授与については、宗門が御本尊下付を停止したことを受け、日寛上人御書写の御本尊が御形木御本尊として出現されたことに、正法広布の時を感じ、意義を深くする。日寛上人は法主本仏論の邪義を一切排除した教学を確立された正師であり、学会が正しい和合僧であることを、時代を超えて証明されたものと信じてやまない。
(続く)
妄説:47 学会では「相承」や「相伝」とは別に「血脈」があると立て、「血脈は信心の次元の問題であり、大聖人と自分自身の師弟の問題である」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、本当でしょうか。
創価学会が主張するこのような邪義の「文証」は、どこにもありません。
日蓮正宗の仏法においては、「相承」「相伝」がなければ「血脈」もありえないのです。
『身延相承書』に
「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す(中略)血脈の次第 日蓮日興」(新編 1675頁)
と、「付嘱」「血脈」を示されています。また『池上相承書』には
「白蓮阿闍梨日興に相承す」(同頁)
とあり、ここには「相承」と記されています。
宗祖日蓮大聖人が御入滅に当たって、日興上人に仏法の一切を相承された証しとなるこの両付嘱書は『二箇(にか)相承』といって、二書を切り離して考えるべきではありません。「相承」「相伝」という仏法の大事を離れて「血脈」がないことのなによりの証拠です。
かつて学会においても、『折伏教典』第九章に二箇相承を引用したのち 「(日興上人は)入滅にさきだち、第三世として日目上人を選ばれ、日蓮大聖人から相伝された一切を日目上人に付属された」(同書 二二九頁)
と説明していたのです。
このように「血脈の次第」があるからこそ、日蓮大聖人より日興上人、日目上人へと「相承」「相伝」されてきたのです。
ゆえに「相承」「相伝」を離れた血脈は絶対にありません。学会でいう「大聖人と自分自身の問題である」との考えは、唯授一人の血脈を否定する邪説です。
破折:
1.「血脈」の在処
記事の一部分を切り取っても、文脈が不明であれば正意は得られない。ここはひとつ、記事をきちんと読んだ上で、「血脈」が何処にあるかを確認したい。
① 「血脈」とは「信心」以外の何物でもない
一、日顕には「信心の血脈」はなく、もはや御本尊に関する資格を失った。
従来「血脈」に関して、宗門では様々な表現が存在したが、今回〝血脈付法〟の法主であるはずの日顕が広布破壊の仏敵と化した事実により、大聖人が「信心の血脈」(御書一三三八ページ)と仰せのように、改めて「血脈」とは「信心」以外の何物でもない、という真相が明らかになった。日有上人は「信と云ひ血脈と法水と云ふ事は同じ事なり」(『富士宗学要集』一-一七五ページ)と明示されている。
そこで、事態の本質を明瞭(めいりょう)にするために、大聖人の仏法の本義の上から、いわゆる「相承」「相伝」と「血脈」の弁別を明らかにすべきである。前者は主に法門の授受を中心とした相続行為である。今、日顕が六十七世法主の立場を主張する時には、この「相承」「相伝」を受けたことを意味する。
これに対して、「血脈」とは「信心」の次元の問題である。換言(かんげん)するなら、大聖人と自分自身の「師弟」の問題である。たとえ形だけは歴代法主の地位にあっても、ひとたび「信心」「師弟」を見失えば、たちまち「血脈」は断絶する。
宗門の歴史をひもとくと、日精のような造仏の謗法を犯した法主もいれば、日寛上人のように令法久住に挺身(ていしん)した法主もおられ、全ての法主が「正師」であるとはいえないのが実情である。
それゆえ、日興上人は「時の貫首(かんず)為りと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構えば之を用う可(べ)からざる事」(御書一六一八ページ)、「貫首或(あるい)は習学の仁に於ては設い一旦(いったん)の媱犯(ようはん)有りと雖も衆徒(しゅうと)に差置(さしお)く可き事」(御書一六一九ページ)と、もし法主が大聖人との「師弟」の道を踏み外し、誤りを犯した場合、周囲が遠慮なく戒(いまし)めるよう、厳しく御指南されているのである。
(「創価学会の御本尊授与に関する法門上の見解」日蓮正宗・青年僧侶改革同盟 『聖教新聞』1993年9月20日)
② 正師は「相承」の権威によらず
仏教史を概観しても、仏法の正邪を判定する基準は、詮ずるところ仏に直結する「信心」に裏付けられた思想と行動があるかないかであり、これがあって真の「血脈」といえるのである。決して「相承」の有無ではない。
事実、大聖人が「正師」と呼ばれた方々は、およそ、おのおのの時代における既成仏教の座主(ざす)の系譜に、名を連ねられることはなかった。羅什三蔵(らじゅうさんぞう)も、天台大師も、あるいは伝教大師にしても、皆「相承」の権威にはよらず、どこまでも経文の「道理」と自身の「行動」によって教主・釈尊に直結し、独自に正法正義を立てられた。「相承」の現実は、インドの付法蔵(ふほうぞう)のように二十四人で「断絶」したり、日本天台宗のように途中で「邪教化」したりしていたからである。
日蓮大聖人も、「師の口より伝うる人必ずあやまりなく後にたづね・あきらめたる人をろそかならば経文をすてて四依(しえ)の菩薩につくべきか、父母の譲り状をすてて口伝(くでん)を用ゆべきか、伝教大師の御釈無用なり慈覚大師の口伝真実なるべきか」(御書一二五八ページ)と「相伝」の有謬性を鋭く喝破(かっぱ)されている。
(同)
③ 御本尊の下付停止は「広宣流布を否定」
ところが、現宗門は「相承」「相伝」と「信心の血脈」を混同し、一方では、いたずらに法主の地位を絶対化するとともに、他方では「信心の血脈」を失ったのである。その結果、日顕は法主の絶対性を利用して、未曾有の広宣流布を成し遂げた仏勅(ぶっちょく)の団体・創価学会を不当に「破門」した。つまり、実質的に広宣流布を「否定」したのである。
およそ血脈相承の根本目的が広宣流布にあることは、宗祖大聖人から第二祖日興上人への付嘱書に「時を待つべきのみ」(『身延相承書』御書一六〇〇ページ)とあり、日興上人から第三祖日目上人への付属書に「広宣流布を待つべきなり」(『日興跡条条の事』『富士宗学要集』五-一八八ページ)とあることからも明白である。広宣流布こそ大聖人が後世の弟子に託された絶対の御遺命であり、法主のあらゆる権能は「広宣流布への信心」を大前提に、宗祖大聖人から委託されていると考えるべきである。とするならば、広宣流布の「道」を踏み外すことは、即「信心の血脈」の断絶を意味する。ましてや、日顕のような広宣流布の断絶を願う法主に、大聖人からの「血脈」が流れている道理など、一分もない。
加えて、「血脈」を法主一人が独占することは、『生死一大事血脈抄』に「一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継(つ)がしめん」(御書一三三七ページ)と仰せになり、一切衆生に成仏の道を開かれた大聖人の「血脈」の本義にも反する。
さらに、個々の学会員はいまだ「信徒」であると言いながら、一方で御本尊下付を停止している宗門の行動は、完全に仏法の道理に反しており、この点で日顕は自ら御本尊に関する権能を放棄(ほうき)したに等しい。
よって、創価学会を「破門」し、御本尊下付を停止したことにより、日蓮正宗の法主・日顕に「信心の血脈」は完全になくなり、必然的に日顕は御本尊を書写し授与する資格を失ったのである。
(同)
上記の趣意から、あらためて御書を拝する。
生死一大事血脈抄(一三三七㌻)にいわく、
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解(さと)りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
ここに仏と、法華経と、衆生(凡夫)の三者の間には「全く差別無しと解(さと)りて」とあり、深い信心が三者を繋ぎ、通い合わせると仰せである。御本尊と信者とが信心により境地冥合するとき、法主や僧侶が介入しなければならない必然性は無い。
同抄(一三三七㌻)にいわく、
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思(おもい)を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
異体同心とは、創価学会の信心のことである。そして異体異心とは、大聖人の仏法を破壊する獅子身中の虫、宗門を指すのである。
2.問題点だらけの「唯授一人の血脈」
あらためて邪宗門の言い分を整理すると、疑問点がいくらでも湧いてくる。
① 『身延相承書』『池上相承書』における「付嘱」「血脈」「相承」の文字は、大聖人より日興上人への弘法が正しく行われたことを証する。
② 大聖人から日興上人に弘法された「付嘱」「血脈」「相承」と、現宗門の言う「唯授一人の血脈」とが、何ゆえ同一であると言い得るのか。
③ 日顕に「唯授一人の血脈」が伝持されたとする根拠は何か。
④ 日興上人の法門に背く〝日尊門流の異流儀〟が教義に混入され、それを改めず返って声高に主張する現宗門は、「唯授一人の血脈」を否定していることにならないか。
⑤ 〝面授口決が断絶した事例〟は、過去に何度もあった。それは「唯授一人の血脈」の断絶を意味するのではないか。
⑥ 何ゆえ六十二世鈴木日恭は軍部政府の弾圧を恐れ、大聖人の御書を削除し、神札を甘受する等の謗法を重ねたか。歴代法主に大聖人の「唯授一人の血脈」が流れているのなら、御在世時と同様に国家諫暁に立ち上がり、流罪・死罪をものともしなかったはずである。
今後、一一検証していきたい。
3.「唯授一人の血脈」を脅かす日顕の相承問題
宗門は「『相承』『相伝』を離れた血脈は絶対にありません」と言うが、それならば日顕にかかる「相承」「相伝」が伝持されたとする根拠は、どこにあるかとの質問に対し、宗門は解答しきれているか。
ひとえに日顕の相承問題である。これが明解に立証されなければ、宗門の教義の何もかもが戯言であり、妄語であったことになる。
報恩抄(三一一㌻)
「糞を集めて栴檀となせども焼く時は但糞の香なり大妄語を集めて仏と・がうすとも但無間大城なり」
そのもとは清浄な教義を伝えていたはずが、よりによって要法寺流の「唯授一人の血脈」などと言う邪義にかぶれ、法主本仏論に魅入られた邪宗門としては、それが最大の謳い文句であり、同時に最大の弱点でもあった。
日顕のように詐称した場合、宗門全体で嘘を突き通さなければならない。僧俗ともに、心に疾しさを感じながら、口に出せないもどかしさで一生を終るなどと、そのような人生は御免であろう。
4.学会の教義の方針
日顕が相承問題を立証できなければ、「唯授一人の血脈」は破綻することになり、それは日蓮正宗の教学の崩壊である。これにつき、学者が次の通り興味深い論文を提起している。少々長いが、大事なところである。
◇
第二次宗門問題が発生して以来10年以上が経過して、創価学会は会則変更により日蓮正宗との教義的関係を会則からは消去したが、創価学会自身の教義書を未だに発行していない。私の理解では、創価学会は日蓮本仏論のひとつの派生形態である法主=日蓮代理人説(血脈相承説)に関して、現法主の血脈断絶を主張しているとは思われるが、日蓮正宗の教義はそもそも法主の不在を想定していない教義であるから、そのような事態が生じた場合に、日蓮の救済の秘儀はどのようにして継承可能かという新しい血脈の理論が必要となる。
正信会は、創価学会と同様に現法主の血脈が断絶したことを主張したが、日蓮からの血脈が断絶したという事態を避けるために、『日興遺誡置文』を根拠にして血脈二管論を主張し、血脈は法主だけでなく同時に僧侶集団にも継承され、法主の血脈が断絶した場合は、僧侶集団によって継承された血脈を新しい法主に注入するという議論をしている。
これは日蓮正宗の歴史において異流義の要法寺系の僧侶によって法主が継承され、法主の血脈が断絶した時代にあっても、僧侶集団に継承された大石寺の血脈がやがて日寛に注入され、日寛が法主となり本来の大石寺教学を完成したという歴史を説明する議論としてはそれなりに説得力を持つ。(これに対して日蓮正宗はその時代にあっても法主に正しい血脈が継承されており、異流義である造仏論を主張した法主はいなかったと主張している。現在の創価学会は正信会と同じく法主に異流義があったと見ている。)
血脈問題に関して創価学会はかっては血脈二管論には否定的であり、現在は御書を通じて得た信仰にも日蓮の救済の秘蹟はあるとする信心の血脈論を採用しているようであるが、この議論は実は室町時代の顕本法華宗の派祖である玄妙日什(AN33-111)の経巻相承論と表面的には同じであると考えられるかもしれない。
なるほどこの経巻相承については例えば創価学会の『折伏教典』においては「仏法の真髄は血脈相承・師子相承といって、かならず面授口決のご相伝によらなければならない。・・・しかるに日什の場合には予言の経証もなく、面授口決ももちろんないままに、経巻相承と立てて、自己の正統を主張するのは、仏法を破壊する根本原因となるのである。日蓮宗なら、どんな宗派でも御書と法華経を手にするのはとうぜんであるが、それでいて多数の邪流邪義を生ずる理由は、まったく経巻相承という増上慢をおこすからである。」(『折伏教典』 p.132)と批判を加えている。
創価学会の信仰の正しさは少なくともどの法主からも面授口決されていないようであるから、この批判はそのまま現在の創価学会にも当てはまるのではないかと質問されたら、どのように回答するのだろうかという疑問が生ずるかもしれない。それに対しては一例として以下のような回答が可能であろう。
「創価学会は唯授一人面授口決による血脈相承という日蓮正宗の伝統法義を遵守してきたことは確かであり、その法義自体が誤っているとは考えてはいないが、細井日達法主から阿部日顕への面授口決による血脈相承という事実があったかどうかに関しては、これまでのさまざまな法主の地位をめぐる裁判の過程で、阿部日顕が、自分に相承があったことを、説得力をともなって証明できなかったことから、血脈相承がなかったと判断している。面授口決による血脈相承が存続している限りは、それを無視して御書を根本にして信心の血脈を主張するのは、経巻相承にあたるかもしれないが、現在面授口決による血脈相承を受けた法主は誰もいないのであり、また法主による血脈相承が断絶したという日蓮正宗では全く想定もしていない事態が生じたのであるから、日蓮の指導を記した御書から直接学ぶ以外に成仏への道はない。」という創価学会の回答が予測される。
正信会の血脈二管論は、僧侶集団にも法主による血脈と同等の血脈が流れているために、法主による血脈が断絶した場合は、僧侶集団の血脈から再び法主への血脈を修復、復活することが可能であることを主張している。しかしこの議論がどのように文献的に根拠づけられるかに関しては、かなりの困難が指摘されている。
創価学会は法主による血脈が断絶すれば、修復不可能という立場に立っている。わたしはこの創価学会の立場はそれなりに整合的な考えであると考えるが、問題は法主が永遠に不在となったという現状を踏まえて、どのような教義を形成していくかということである。
日蓮正宗の教義は、日蓮、日興から唯授一人面授口決による法主の存在を大前提にして、形成されている。日蓮正宗管長や大石寺住職は選出可能であるが、それは法主ではなく、法主がいなくなれば、日蓮正宗に伝わった日蓮の救済の秘儀を人々に伝える手段が断絶することを含意しているのが日蓮正宗の教義であり、そのような事態が現実に起こってしまったと創価学会が判断する限りは、説得力のある新しい教義をできるだけ早く形成する責務があると私は考えている。
(『日興の教学思想の諸問題(1)-1 資料編』宮田幸一 創価大学人文論集第18号 2006)
上記論文の最後の段落に「日蓮正宗の教義は、日蓮、日興から唯授一人面授口決による法主の存在を大前提にして、形成されている」とあるが、これは前項で述べた通り、日尊門流の要法寺から大石寺宗門に入った僧侶によってもたらされ、形成されていったものである。
宗門の法脈は日顕の詐称によって滅尽したものと判断される以上、あらたに学会が信奉する教義としては「日蓮正宗の教義」そのままであるわけにはいかない。邪義邪法は、二度と正法に混入させてはならないのである。
学者が言う「説得力のある新しい教義」とは、新奇なことを始めるわけでは無い。大聖人の御精神の原初に帰ること、すなわち大聖人直結、御書根本の教学に徹することである。後の時代に否応なくもたらされた化儀(僧侶の読経による葬儀、戒名、塔婆)は廃止し、御書の精選も課題である。
御書については、五十九世堀日亨法主が「信行に資するものは之を取る」(凡例 五㌻)とした精神から、「信行に資するものでなければ之を捨てよ」として、邪宗門の残滓は払い除けねばならない。
具体的には、相伝書の末文(『本因妙抄』八七七㌻、『百六箇抄』八六九㌻)は御書全集中で小さな活字で印刷されており、後加文であることを証する配慮がなされたものであったが、現今では「信行に資する」意義は全く失われたものとなった。
また『出家功徳御書』のごとく大聖人の御真意に反する文書も、以後は不要である。
さらに御真蹟との照合も大事である。以上の通り、新しい御書全集の作成が望まれており、学会教学部で慎重に進められている。宗門のように不出来な御書を出版しなければならない、差し迫った事情は無い。
御本尊授与については、宗門が御本尊下付を停止したことを受け、日寛上人御書写の御本尊が御形木御本尊として出現されたことに、正法広布の時を感じ、意義を深くする。日寛上人は法主本仏論の邪義を一切排除した教学を確立された正師であり、学会が正しい和合僧であることを、時代を超えて証明されたものと信じてやまない。
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