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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:25」を破折する 連載34回

妄説:25 「『ニセ本尊』に功徳がない」ということは、学会員が拝んでいる従来の御本尊には功徳があるということですか。

 三宝を誹謗する謗法団体となった創価学会に所属している人は、従来の御本尊でも功徳は積めません。
「『ニセ本尊』に功徳はない」というのは、その本尊自体が、最初から大御本尊の血脈が通じておらず、仏力・法力が具わっていないからです。
 従来の御本尊は正しい血脈のもとにまさしく仏力・法力が具わっており、御法主上人の御指南に従って正しく信仰をすれば、功徳があることはいうまでもありません。
 しかし、従来の御本尊であっても、拝む人が血脈付法の御法主上人を誹謗するならば、四力(仏力・法力・信力・行力)が合せず、功徳はありません。まして何よりも「ニセ本尊」を作るほどの謗法団体になった学会に所属していては、絶対に功徳はありません。かえって、拝むほどに罪業を積み重ねることになります。さらには今までの信心による一切の功徳が消えてしまうことを恐れるべきです。 
「信心の血脈なくんば法華経を持(たも)つとも無益なり」(新編 515頁)
とは、このことです。

破折:
1.日顕が禅寺で先祖供養

 日顕は平成元年七月十七日、墓を禅寺に建立した。この所為は「三宝を誹謗する謗法」ではないのか。以下は、故・渡辺慈済師の手記からである。
               ◇
 この日顕の禅寺墓問題は、私にとっても深い因縁があった。
 日顕が平成元年七月十七日、福島に行ったのも、翌十八日に、学会の二百か寺建立寄進の一環として、福島市大森に建てられた開蓮寺の落慶入仏法要を行なうためで、その開蓮寺の初代住職として赴任したのが、私の息子の道粛だったからである。日顕は、この開蓮寺親修のついでに、前日、こっそり禅寺に建てた阿部家の墓の法要を行なっていたのである。(中略)
 そして、いよいよ入仏式が迫り、その直前にも、日顕の福島での宿泊場所やスケジュールを聞いたが、「内々で阿部家の法事を行なうから、直接寺に行く。心配しないでいい」という返事だった。また、息子にも「実は、落慶法要の前日には、ワシは福島へ行っているんだ。阿部家というのがあって、この機会に行くことになった。これは、まったくプライベートだから、君は心配しなくていいから」と、言っていたという。
 ところが、「阿部家の法事」というのが、たんなる法事ではなく、福島市荒井にある曹洞宗白山寺に、日顕自ら先祖の墓を建て、その開眼法要を行なうことだったのである。(中略)
 まさか禅寺の正面から入っていくわけにもいかず、裏口からこっそり入って法要を行ない、また裏口から出て行くという、コソ泥まがいのことをしたという。一宗の法主として、これほどの恥さらしはない。この法主にあるまじき所業に、諸天も怒りをなし、法要の時は雨に見舞われ、工事用の青色のビニールシートをかけて行なわなければならないほどだった。
 墓石は、スウェーデン直輸入の「ファイングレー」という高級な石で、五百五十万円もかけたという。表には日顕の染筆による題目が刻まれ、裏には「平成元年七月十七日 為先祖代々菩提 建立之 日顕 花押」と、日顕が先祖代々の菩提のために、之を建立した者であると明確に刻まれている。
 この禅寺墓建立の一切を取り仕切ったのは、私と同じ教区の横須賀・法照寺の石井栄純氏だった。彼にとっては、それが教義に反していようがどうでもいいことで、ただ日顕の覚えがめでたくありたいと、大謗法のお先棒を担いだのである。彼は福島の広布寺の前住職で、阿部家本家のこともよく知っており、この件で十数回も福島に通って、墓石業者との交渉等に当たったという。もちろん、地元・福島布教区の住職は皆、蚊帳の外におかれていた。
 法要が終わると、夕方には、市内の料理屋に繰り出して宴会を行ない、カラオケに興じたという。
 私は、息子の寺の準備があるので、妻と共に十七日には福島に入っていた。宿舎は駅前の福島ビューホテルである。
 翌十八日の朝、ホテルでバッタリ日顕一族に会った。政子もいれば、百合子もいる。開蓮寺の法要の出席者でもないのに、どうして彼女らがこんな所にいるのかと驚いた。
 日顕は慌てて、「内々だから、こっちはいいんだ、いいんだ」と、手を振った。私たちを近付けたくない様子が、ありありとしていた。私たちときちんと挨拶をするとなれば、自然と、政子や百合子がどうしてここに居るのか、禅寺に墓を建立して法要を行なったことに、話が及ぶ。そうなることを恐れ、日顕は接触を避けたのである。
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)

 宗門は禅寺墓建立への非難に対し、「墓地は村の共同墓地」と回答するなど、しばらく混乱を繰り返していたが、後になってようやく九世日有師の言葉を探し当てて、反証としている。

「縦い禅・念仏の寺、道場の内なりとも、法華宗の檀那施主が之れ有らば、仏事を受くべきなり云々」(「化儀抄」聖典989頁)

 宗門は「学会も墓地が何処にあろうと、〈正宗で供養すれば良い〉と戸田会長も指導してるじゃないか」(「法華講のみなさんへ」と題する想定問答)、とする。
『化儀抄』には確かに「法華宗の檀那施主」とあり、戸田会長の言葉はこれに基づく。当時、学会員は宗門の「檀那施主」であったゆえに。しかし日顕は「檀那施主」なのか。
 宗門は「現在の当主は阿部賢蔵氏(法華講員)です。要するに、日顕上人から見れば、この阿部家はご親戚ということになります」と言い、墓の所有者は日顕ではないとして、問題無いとする。しかし、墓石には何と刻んであるか。
「為先祖代々菩提 建立之 日顯 花押」
 形式としては檀那施主(法華講員)の依頼があり、それを受けての仏事となろう。しかし、墓石の刻印は誰がどう見たところで、日顕の先祖の供養、「法主の先祖供養」である。
 どうしても親戚の阿部家の供養であるとするのならば、
「為先祖代々菩提 建立之 阿部賢蔵」
とすれば納得がいく。
〝親戚の墓の建立である〟と言い募るなら、日顕が高額の墓石代を肩代わりしてやったとしても、親戚の名前を刻んでやれば良かったのである。そこのところが、大人になりきれない日顕である。高額の建立費用を自分が負担したのだから、自分の名を刻んで当然と思ったのであろう。
 しかし日顕の名を刻んで「為先祖代々菩提」としたからには、日顕の先祖供養である。もはや刻印は変えようが無い。
『化儀抄』は、大石寺貫首自らの先祖供養を〝禅・念仏の寺、道場〟において行なうことを定めたものでは無いはずである。

2.自分の説法にも違背

 日顕は名誉欲が抑えきれず、墓石に自分の名を刻んだために、親戚の先祖供養を自らの先祖供養にしてしまった。これでは『化儀抄』も、大目に見てくれることは無いであろう。
               ◇
 すぐ近くの日蓮正宗寺院である広布寺(福島市)に墓地が空いているのに、日顕は五百五十万円もの費用をかけて新規に墓を建てた。(中略)一宗のトップが他宗の墓地内に墓を建立するなどということは、日本宗教界においても異例のことである。(中略)
 強信者であれば、自宗の墓地に先祖を弔いたいのは自然な気持ちである。それでも一般信徒の中には親兄弟が信心に反対で、日蓮正宗の墓地に先祖代々の墓を移せない人もいる。だが、このような人も、いつかは一族を折伏し自宗の墓地に転墓することを悲願にしている。
 日顕は一宗のトップで、親戚も入信しているのだ。しかも、近くの正宗寺院の墓地も空いている。それなのに、なぜ禅寺の墓地に新しい墓を自前で建てるのだ。狂乱した「法主」でなければ、できることではない。
 日顕宗の者たちは、次の日顕の話をどう理解しているのだろうか。
「折伏していくときにも、邪宗教である他の宗旨のお寺に墓地がありますと、その縁に触れて、どうしても正しい仏法の修行を安心してすることができません。故に正しい信心を持つ人は、正しい寺院の墓苑によって御先祖を祭っていくということが、最も大切な所以でございます。そうしてこそはじめて、先祖のことごとくが妙法によって成仏し、自らもまた妙法の功徳によって、現在は生きての仏、死しては死の仏として、永遠にわたっての成仏の姿をもって大聖人様の仏法の功徳に浴することができるわけでございます」(昭和五十五年九月十一日、妙照寺墓苑の三師塔開眼法要のときの話)
(「地涌」第436号 1992年6月11日)

 日顕は〝邪宗教である他の宗旨のお寺〟などと得々と説法したが、自ら話した内容をあらためて噛みしめてみてはどうか。
 費用を出したのは自分だ、との思いが強く、どうしても墓に自分の名を刻みたければ、近くの正宗寺院の墓地に転墓してやれば良かったのである。少なくとも、日頃自らの説法が説得力を持ったものとなったはずである。
               ◇
 昭和六十年一月二十九日、神奈川県津久井町の妙苑寺落慶法要では、
「この世の中には様々な悪縁があるために、せっかく正法に入っても、もしその墓地が間違ったところにいつまでもありますると色々な悪縁にひかれて、その子供、さらに孫というような形のなかで、だんだんと正法の信心が崩れていくというようなことも、まま見受けられるところでございます。要は(中略)正法寺院に墓をとって信仰に励んでいくことが大事でございます」とも言っている。妙苑寺は、同じ神奈川布教区で、私もこれに出席していたので、はっきりと聞いている。
 信徒にさえ、〝正宗の寺院に墓を移すことが大事だ〟と言っているのだから、その範を示すべき法主が正宗寺院の墓地に墓を建てるのは当然のことだ。
 ましてや日顕は、日達上人が細井家の墓を高知の淨信寺の墓苑に移されたことを、自分も出席して、よく知っているのである。
(前出「日蓮正宗〝落日の真因〟」)

 上述の記事について、宗門はこう反論する。
               ◇
 それは切り文である。その後には次のように仰せである。

 しかしながら、正しいお寺に墓地をとったからといって、安心して信心修行を怠けるならば、また、そこからおのずと退転の形、不幸の姿が始まっていくわけでありますから、そのところの根本は墓にあるのではなく、自分自身の信心に、一切の幸せも先祖追善の意義も存する、ということを忘れずに励んでいくことが大切と思うのでございます。(第67世日顕上人・昭和60年1月29日・神奈川県津久井町の妙苑寺落慶法要)

 拝読してわかるとおり、「根本は墓にあるのではなく、自分自身の信心こそ根本だ」ということを御指南せられているのである。
 ここで、墓が何処にあろうが、問題は無い事は、理解できるであろう。
               ◇
 日顕は〝墓と先祖供養の正しいあり方〟について説法しておきながら、自ら「違背」する、その〝言行不一致〟が問題とされているのである。それに対し、宗門は「見当はずれな言い逃れ」に終始して、反論したつもりでいる。
 日顕は法事を地元の布教区にも知らせず、たまたま出くわした宗内僧侶(渡辺慈済師)にも知られまいとして遠ざける。明らかに自らの言説に一致しない行為に、引け目を感じた様子が見て取れるのである。
 心は姿に顕われる。日顕の後ろめたい様子を人が見て、「コソ泥まがい」と表現したのである。
               ◇
「日顕さながら禅寺墓」「禅寺墓さながら日顕」と揶揄されるこの禅寺墓問題は、日顕の法主失格を天下に示す記念碑である。            
(前出「日蓮正宗〝落日の真因〟」)

3.「日顕自身の本尊を拝んでも謗法」と総監談話

「創価学会に所属している人は、従来の御本尊でも功徳は積めません」と宗門は言い、そこでは日顕書写の本尊も、先師日達法主の本尊も該当するとのこと。日顕書写の本尊が「謗法」となるとの話だけは納得である。
               ◇
 日顕宗の御本尊誹謗は底なし沼の状態で、ズルズルと際限がない。日顕の「大御本尊偽物」発言、次いで日寛上人御書写の御形木御本尊は「ニセ本尊」と悪口を言うだけでは飽き足らず、遂に、日顕自身が模写した本尊までも謗法呼ばわりするようになったのである。
 平成九年十二月一日付の法華講機関紙「大白法」には日顕の指示で、当時の総監・藤本日潤の滑稽な談話が掲載された。
 そこには「十二月一日以降は、創価学会員等の元本宗信徒はすべて謗法者……日蓮正宗より下付された御本尊ではあっても、これら謗法者宅の仏壇に安置されている本尊に合掌礼拝をすることは謗法行為となるので、くれぐれもご注意願います」と、法華講員らに呼びかけていたのである。
 前日の十一月三十日迄は謗法ではなかったが、一夜明けて十二月一日から謗法になったというのである。
 そして、ナント、学会員が所持している御本尊は、たとえ、それが日顕自身の模写、或いは日達前法主の書写であっても、十二月一日以降は合掌礼拝すると「謗法」なのだそうだ。
 日顕が模写した御本尊が謗法だというのはよく分かる。それは十二月一日からではなく、もともと拝む気にもならない。しかし、日達前法主の御本尊に合掌しても謗法行為になるとは狂気の沙汰である。
 御本尊に生鮮食料品みたいな賞味期限がある訳でもあるまいし、全くバカバカしい談話を発表したものだ。
(「フェイク」第627号 発行05.10.07)

 この措置は、平成九年十一月三十日をタイム・リミットとし、翌日の十二月一日となると、御本尊に設置した〝功徳が自動的に消滅するタイマー機能〟を発動させるものらしい。それとも日顕の〝法魂〟が学会員のすべての御本尊に、一斉攻撃を加えることとなるのか。
 これは一体、オカルト要素を含めたサイエンス・フィクションなのであろうか。ライトノベルにも、こんなものは聞いたことが無い。
「遊びが嵩じて身上潰す」と言うが、日顕が七百年有余の伝統ある宗門を、ここまで謗法の邪宗門に貶めたことは、歴代の諸師は嘆いても余りあろう。

4.総監談話の後始末 

 前項の寝言のような総監談話によって、宗門自体が困ったことになった。
               ◇
 安置する場所が学会員宅だから、という理由ならば、浅間神社に安置されている板本尊はどうなのか?
 また、大石寺近郊の熊久保神社に三万円の供養と引き換えに昭和六十年三月、二体の御本尊を下付したのは何故か? 日顕の「允可」だそうだが、これこそ謗法だと断ずるものである。
 さて、宗門が「日蓮正宗より下付された御本尊ではあっても……合掌礼拝をすることは謗法行為となる」と、破れかぶれの総監談話を出した背景を説明する。
 登山者も末寺の参詣者も激減する一方の現状を何とかしようと考えた宗門は、宗規を改変。他の宗教団体に所属する信徒は十二月一日になると「信徒の資格が消滅する」と言い出して、「十一月三十日までに脱会しないと、宗門の信徒資格を失う」という悪足掻きともいうべき通達を出した。
 というのも、平成三年十一月に学会に「破門通告」しておきながら一人一人の会員は信徒の資格があると身勝手な屁理屈を並べていたのだが、学会員の心情は既に日顕宗と決別しており、信徒資格が云々と戯言を聞かされても動揺する会員は皆無、むしろ宗門との絶縁を喜んだのであった。
 反対に困ったのは大石寺塔中で、各坊とも講員とは名ばかりで、多数の神社の氏子、他宗の信徒を抱えていたからだ。結局、神社の氏子はそのままで信徒資格の剥奪は出来なかった。
 しかも、シアトル事件の裁判で日顕の出廷問題もあり、宗内は大揺れ。講員も結集や供養集めに嫌気がさし、脱講者が続出した。
 その結果、信徒は従来の二%に激減、弱小教団に転落した。今や「日蓮正宗」よりも「日顕小宗」の名が相応しい。そして「日蓮消宗」になるのだ。
(前出「フェイク」」

5.大聖人の正意に背く〝戦意高揚本尊〟

「『ニセ本尊』を作るほどの謗法団体」とあるが、「ニセ本尊」を作る謗法団体と言えば、宗門しか思いつかない。かつて宗門は大聖人の正意に背く「ニセ本尊」を創作したのであり、それが次の記事である。
               ◇
 俗に〝戦争屋〟と言われる人々がいる。武器などを売って荒稼ぎをする死の商人たちである。ところが、宗教界にも〝戦争屋〟がいる。やはり、戦争を渡りに船と荒稼ぎする輩である。
 総本山第五十六世・大石日応上人も、あるいは戦争屋といえるかもしれない。
 日応上人は日露戦争にあたり、「御本尊一萬幅」を「特志者」に授与していた。「特志者」とは、一往は特別の供養をした檀信徒のことである。その「特志者」に御本尊を授与していたと言えば聞こえはいいが、一万体を一挙に授与するとなればおだやかではない。換言すれば、戦争勃発をよいことに、御本尊を売っていたに過ぎないのである。
 当時、「東京市深川区東元町十八番地」に法道会本部は所在していた。法道会は、現在、豊島区に所在する法道院の前身にあたる。法道会本部が機関誌として発行していた『法乃道』の編集兼発行人は、早瀬慈雄。現在の日蓮正宗重役で法道院主管・早瀬日慈の父である。
 この『法乃道』(明治三十七年四月発行 第拾貮編)に、「皇威宣揚征露戰勝大祈祷會」についての記事が掲載されている。その記事の一部を抜粋紹介しよう。
「尚ほ法道會に於ては兩日參拜者の淨財を總べて軍資金の内へ獻納しまた戰勝守護の御本尊一萬幅を特志者に授與せられたり」(『法乃道』明治三十七年四月発行 第拾貮編)
 日露戦争の必勝を期して「大祈祷會」をおこない、そのとき集まった浄財すなわち御供養は、すべて軍資金として「獻納」したというのである。御供養は御本尊様へ捧げられたもので、たとえ出家であれ、それを広宣流布のため以外に使用することはできない。
 あろうことか、その御供養を軍へ戦費として供してくれと差し出したというのだから、その狂乱ぶりはとうてい日蓮大聖人の末流と認めがたいものがある。そもそもの日蓮正宗(当時は日蓮宗富士派)は、ここまで狂っていたのである。
(「地涌」第638号 1993年4月12日)

 世界万民の平和を願う仏教徒にあるまじきことである。「征露戰勝」が、大御本尊の〝一閻浮提総与〟の意義に適うものと言えようか。〝大聖人の正意に背く御本尊〟とは、すなわち「ニセ本尊」である。このニセ本尊を、御供養と引き換えに量産したのが宗門である。
 宗門は「死の商人」、「血脈付法の御法主上人」は「死の御法主商人」と言うべきか。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:24」を破折する 連載33回

妄説:24 「ニセ本尊」を拝むとどうなるのですか。

「ニセ本尊」には、仏法に敵対する魔の力があり、これを拝むと魔の通力によって現罰を受け、その謗法の罪によって永く地獄に堕ちる結果となります。
 大聖人の仏法において「似て非なるもの」を用いるということは、大謗法です。
 その理由は、仏に似ているがゆえに、正しい教えが隠され、多くの人々が真実の仏を見失ってしまうからです。
 大聖人は、真言宗が天台の一念三千を盗み入れて「大日経(だいにちきょう)第一」と立てたことに対して「真言亡国」と破折されていますが、今回創価学会が作製した「ニセ本尊」は、日蓮正宗の御本尊を盗み取り、日寛上人の御本尊に姿・形を似せているだけに、その罪もまた大きいのです。
 第二代戸田会長は、御本尊について
「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ」(大白蓮華 九八―九頁)
と指導しています。

破折:
1.ニセ法主は大謗法

「『似て非なるもの』を用いるということは、大謗法です」とは、よくぞ言った。これこそ「『似非(えせ)法主・日顕の言』を用いるということは、大謗法です」との意味である。
 ではなにゆえ、似非法主の言を用いてはならないのか。いみじくも宗門のいわく、「その理由は、仏に似ているがゆえに、正しい教えが隠され、多くの人々が真実の仏を見失ってしまうからです」と。
 前回でも述べたが、宗門は実に自分たちの法主のことを言い当てる。

 守護国家論(七六㌻)にいわく、
「今仏出来して法華経を末代不相応と定めば既に法華経に違す知んぬ此の仏は涅槃経に出す所の滅後の魔仏なり之を信用す可からず」

 日顕という〝仏に似て非なる魔仏〟が仏であると自称しようと、所詮はニセ者であり、その行き着く先は一つである。

 報恩抄(三一一㌻)にいわく、
「糞を集めて栴檀となせども焼く時は但糞の香なり大妄語を集めて仏と・がうすとも但無間大城なり」

(臭い糞を掻き集め、高貴な香りの栴檀と言いくるめたところで、焼いてみればやはり糞の臭いがするように、嘘ばかり積み重ねて自らを仏と称しようとも、その果てはただ無間地獄でしかない)

 宗門は仏を詐称した日顕に与同して、無間大城に堕ちていくしかない。

2.日顕の通力

 御本尊に「仏法に敵対する魔の力」が入るとしたら、それは日顕の邪念によって〝法魂〟が込められた御本尊のことであろう。
 日寛上人は「法力・仏力は正しく本尊に在り。これを疑うべからず。我等応(まさ)に信力・行力を励むべきのみ」と言われた。御本尊には「法力」「仏力」が具わり、我ら信者が「信力」「行力」を励み、ここに四力が合して境地冥合が叶う。〝法魂〟の入る余地は無い。

「当に知るべし、四義具足する則(とき)は成仏疑なきなり」(「富士宗学要集」第四巻 四〇〇㌻)

 ゆえに御本尊と信者との間に〝法主〟が介在する出番は無いのに、無理やりに割って入ろうとするとき、法主は〝五番目の力〟「通力」を用いて法魂を込めることになる。
 
 題目弥陀名号勝劣事(一一四㌻)にいわく、
「先ず通力ある者を信ぜば外道天魔を信ずべきか」

 日顕が「法魂」などと言う〝通力まがい〟の妄言を口走ってから、宗門は仏教徒としての誡めを失い、仏門から抜け出て「外道天魔」の類(たぐ)いとなった。外道天魔であれば、正しい学会授与の御本尊を恐れ慄(おのの)き、誹謗することは道理と言える。
 これは、仏と魔との戦いである。魔軍に屈してはならない。

 報恩抄(三一三㌻)にいわく、
「日蓮が大義も強くせめかかる修羅と帝釈と仏と魔王との合戦にも・をとるべからず」

3.魔との戦い

 兄弟抄(一〇八七㌻)にいわく、
「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」

(この法門を説くならば、必ず魔があらわれるのである。魔が競い起こらないならば、その法が正法であるとはいえない。止観の第五の巻には「仏法を持ち、行解が進んできたときには、三障四魔が紛然として競い起こる(中略)。だが三障四魔に決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」等と書かれている。止観のこの釈は、日蓮の身にあてはまるばかりでなく、門家一同の明鏡である。謹んで習い伝えて、未来永久に信心修行の糧とすべきである)

 魔が競い起こる時、我らは正法を実践していると知るのである。今、我らが日寛上人御書写の正しい御本尊を信受するとき、これを誹謗する魔が出来することは、仏法の道理であると肯けるのである。
 それならば、我らはいかに為すべきか、御書には仰せである。

 聖愚問答抄下(四九四㌻)にいわく、
「邪正肩を並べ大小先を争はん時は万事を閣(さしお)いて謗法を責むべし是れ折伏の修行なり、此の旨を知らずして摂折途に違はば得道は思もよらず悪道に堕つべし」

 学会の正義と宗門の邪悪とが入り乱れた今こそ、真っ先に宗門の謗法を責めなくてはならない。この連載においては適宜、宗門の謗法を暴き出していくものである。
 邪法に負ければ、大聖人の仏法は潰(つい)えてしまう。そのようなことは、絶対にさせてはならないのである。

 立正安国論(二一㌻)にいわく、
「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや」

 同抄(二四㌻)にいわく、
「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」

 宗門の謗法を責め、邪義を粉砕し、日顕と追随する輩を責めることこそ、大聖人の仏法を明らかにし、人々を救済することとなるのである。

4.宗門の奸計

① 戸田会長の言葉を乱用
 
 以上で本項は主眼を論じ終えているはずであるが、〝妄説〟の最後に「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない」云々との戸田会長の言葉を収載していることは、得体が知れない。
 当時の戸田会長が、何を講じるために話したことであったのか紹介されず、前後の引用も無いまま、切り文として取り出した文章を「……と指導しています」と言うのみである。この文章が、本項と何の関わりがあるのか。
 タイトルの「『ニセ本尊』を拝むとどうなるのですか」とある通り、「われわれは作るわけにはゆかない」とある原意を、〝在家が勝手に御本尊を製版・授与すれば「ニセ本尊」になる〟との意味に、すり換えようとする魂胆と知れる。
 しかし、所与の文脈から戸田会長の論旨を推察すれば、あまりにも無理がある。要は「ニセ本尊」のイメージを植え付けるため、趣旨の異なる話を乱引きしたまでであり、宗門お得意の奸計である。こんな小細工で攪乱される人も、中にはいるかもしれない。
 宗門とは、実に奸智に長けた、心諂曲の者共である。だがともかく、戸田会長の話の内容を三段に分けて考察する。

② 「一仏一国土」の原理

 戸田会長の話をよく読めば、「大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない」とあり、〝御本尊下付〟の件とは内容がまるで異なる。「大御本尊だけは」と言っているではないか。
 これは当然のことである。「一仏一国土」または「一仏世界」と言って、一人の仏が教化できる範囲が三千大千世界とされる通り、我らが住むこの娑婆世界においては、仏は大聖人御一人であり、人法一筒の大御本尊ただ一体である。
 仮に大御本尊をもう一体建立したとすれば、二仏が並立することになり、仏法の原理から外れることとなる。
 宗門は「総本山の大御本尊様を拝まないと罪障を消滅できない」と言う。
 そうであれば、一切衆生は大石寺に参詣して唯一の大御本尊に御目通りしないと、成仏ができないのか。三千大千世界の端々から宇宙船に乗ってでも日本に来下して、大御本尊を拝まないと罪障消滅が叶わないのか。
 そんな馬鹿なことは無い、それは日顕宗が寺院経営のためにあえてする妄言である。日顕が「事の本門戒壇」たる正本堂に御安置されていた大御本尊を引きずり降ろし、遷座されたゆえに再び「秘仏」に戻られた大御本尊を否応なく公開し、御開扉料を収奪するための邪説である。

③ 「分身散体(ぶんしんさんたい)の法」

 御本尊が全世界に只一体しか御座さなければ、前項のような異常事態となる。そこで戸田会長の次の言葉、「日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない」と繋がるのである。これこそは、「分身散体の法」である。
              ◇
[質問](御本尊様は一つだといわれておりますが、いろいろ違った御本尊様があります。どういうわけですか)

 御本尊様は一つしかありませんが、無量義経に分身散体(ぶんしんさんたい)の法というのがあります。この分身散体の法というのは、日蓮正宗(昭和30年代当時)を除いて日本広しといえども絶対に説いておりません。
 分身散体の分け方により種々分けられますが、すべて一閻浮提(いちえんぶだい)の大御本尊に帰一するのです。
(「戸田城聖全集」第二巻「質問会編」)

 本尊書写の相伝書により伝えられた通りに歴代諸師が書写した御本尊が、大御本尊の分身散体となるのである。戸田会長は「各家庭の御本尊は大御本尊の血肉をわけた分身であり、功徳に変わりがありません」(『戸田城聖全集』第二巻 質問会編)と講じている。
 
④ 他宗の本尊による災厄 

 結論として戸田会長は、大御本尊と、大御本尊に直結する御本尊とが正しい御本尊であり、他宗のものは御本尊とは言えないとして「ニセ」との言葉を用いている。
「だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ」
 ここが、戸田会長の講義の主眼であり、他宗の本尊による災厄を力説した場面である。〝在家による御本尊の建立〟とは、全く話が異なることが知れよう。
 ただし〝在家による御本尊の建立〟と言っても、在家が書写すれば「ニセ」と言われるであろう。しかし書写は宗門の正師、日寛上人の御手に成ったものであり、学会が関わるのはその御形木の発行である。
 学会草創期に流布した享保三年の日寛上人の御形木御本尊は、「相貌」も、「授与書きがない」点も、「法主による開眼など無かった」という点まで、現在の学会授与の享保五年の日寛上人の御形木御本尊と、全く同じなのである。

5. 御本尊の真贋(しんがん)

 御本尊の何が「真」で、何を「偽」とするのか、定義は少なからずある。
 一つは、「大御本尊を信受する師の書写に成る御本尊」であるか、否かである。
 二つは、「本尊書写の相伝書により伝えられた通りに書写された御本尊」であるか、否かである。
 三つは、「宗開両祖に直結する師の書写に成る御本尊」であるか、否かである。
 
 第一の「大御本尊を信受する師の書写に成る御本尊」とは、ただ「歴代諸師の書写に成る御本尊」を意味するものではない。大御本尊を信受する師の書写であってこそ大御本尊直結であり、大御本尊の正意が顕われた御本尊となるのである。
〝大御本尊を信受する師〟として最も相応しいのは、『六巻抄』を著して大御本尊の御威光を明らかにされた日寛上人であらせられる。それゆえ学会授与の日寛上人御書写の御本尊が、最も大御本尊に直結する御本尊であると言えるのである。
 その逆が、〝大御本尊を信受しない師〟の例である。大御本尊を鑑定にかけて「戒旦の御本尊のは偽物である」(「河辺メモ」の一部抜粋)と言い放った日顕である。日如も日顕の謗法与同である。日顕・日如の書写になる本尊には、〝大御本尊誹謗の念〟が込められており、これこそ「仏法に敵対する魔の力」である。

 第二の「本尊書写の相伝書により伝えられた通りに書写された御本尊」とは、そうでない御本尊があると言うことであり、信じられないことだが事実である。
 六十世日開は登座直後、御本尊を誤写して出家・在家より非難を受けた。相伝書によれば「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべき讃文を、「仏滅度後二千二百二十余年」と書写したのである。
 日開が謝罪した文言には
「タダ漫然之ヲ認(した)タメ何トモ恐懼に堪へヌ」」(「声明書」〈御本尊問題の顛末〉)
とあり、「不注意であった」と認めたのである。日開は強烈な非難に耐えきれず、改めて訂正文を書かざるを得なかった。
「御本尊二千二百二十余年並に二千二百三十余年の両説は、二千二百三十余年が正しく、万一、二千二百二十余年の本尊ありとすれば後日訂正することとする。依って弟子旦那は二千二百三十余年の本尊を信ずべきものである」
 この日開は、日顕の父である。子の日顕もまた、ある信徒の常住御本尊に「未曾有大漫荼羅也」の讃文を抜かしたことがあった。
 讃文が抜けているとの報告を受けた時、日顕は「本人は気づいているのか? もし気づいていないのなら、そのまま知らん顔しとけ」と面倒臭そうに言ったということである。訂正すらしないのである。そこには真摯さも、謙虚さも無い。これが正しい御本尊と言えるわけがない。

 第三の「宗開両祖に直結する師の書写に成る御本尊」とは、〝宗開両祖に違背しない師〟を言う。詐称などあっては直結とならないことは、当然である。
 まずは「造仏読誦」の邪説を唱えた、十七世日精である。五十九世堀日亨法主は「精師は(歴代から)抜いてある」、すなわち日精は「除歴」していると明言した。
 次には相承の事実が無いのに「相承を受けた」と詐称して管長に就任した法主である。日顕は六十七世を自称するが、「相承を受けていない師」の書写になる本尊が、本物と言えるであろうか。この〝相承泥棒〟の日顕を継いだ日如も、また〝相承泥棒の後釜〟である。
 ニセ法主の書写した本尊ならば「ニセ本尊」である。宗門もまた「ニセ宗門」である。
 日顕・日如の「ニセ本尊」が「これを拝むと魔の通力によって現罰を受け、その謗法の罪によって永く地獄に堕ちる結果となります」とあるのは、正鵠を射た話である。
                            (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:23」を破折する 連載32回

妄説:23 拝む人に「信力」「行力」があれば、複写本尊でも「仏力」「法力」を発現する、という主張は正しいのですか。

 これは、本末転倒であり増上慢(ぞうじょうまん)の考えです。
仏力・法力・信力・行力は四力といいます。その関係について、日寛上人は『観心本尊抄文段(もんだん)』に
「当に知るべし、蓮華は水によって生じ、我等が信力・行力は必ず法力によって生ずるなり。若し水なくんば則ち蓮華生ぜず、若し法力なくんば何んぞ信行を生ぜん(中略)我等、法力により信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転さらに疑うべからず」(富要 4-248頁)
と仰せです。
 もともと日蓮大聖人の御当体たる御本尊には仏力と法力が具わっており、この御本尊に対して信じ(信力)、唱題を行ずる(行力)ときに四力が合して成仏がかなうのです。「仏力」も「法力」もない複写の「ニセ本尊」に向かって、凡夫がいかに信力・行力を発動しようとも、真実の境智冥合(きょうちみょうごう)などありえません。
 迷いの衆生である凡夫の信力・行力によって、御本尊に仏力・法力が具わり、本当の本尊になるなどという論は、因果を無視した外道の考えであり、また「我、仏に勝れたり」とする増上慢の極(きわ)みです。

破折:
1.〝ニセ法主の允可〟は不名誉千万

 大御本尊を御書写した(日顕以前の)歴代上人の御本尊には大御本尊の正意が顕れ、「仏力」「法力」が具わる。その御本尊が「御形木御本尊」として広宣流布され、衆生を救済することこそが、大聖人の御本意に適うことである。
 宗門が御形木御本尊に対し「複写本尊」などと呼び方を変えようとも、これまで学会員に下付してきた史実がある。宗門が何と命名しようと事実は変わらないが、それは宗門がこれまで行なってきた御形木御本尊の下付の歴史そのものを卑下し、否定することとなる。
 学会は宗門との離別以降、同じく暗黒の宗門から独立し単立法人となった淨圓寺住職からの申し出によって、寺宝たる日寛上人の御本尊による新たな御形木御本尊を会員に授与し、各家庭に御安置することができた。
 このことを宗門が妬み、「允可(いんか)を与えていない」と言う。だが、ニセ者の允可に何程の価値があろうか。逆に、〝ニセ法主の允可を受けた〟とあっては、不名誉千万である。

 最蓮房御返事(一三四〇㌻)にいわく、
「予日本の体を見るに第六天の魔王智者の身に入りて正師を邪師となし善師を悪師となす、経に『悪鬼入其身』とは是なり」

 宗門の喧伝するところによると、日顕・日如らが書写した本尊には、法主の一念が「法魂」となって具わるなどと言うが、御書に「悪鬼入其身」と仰せの通りである。謗法法主書写の〝邪念本尊〟など、決して世に出してはならないし、縁してもいけない。
 我らは日寛上人の正しい御本尊に日々、祈念することが出来、本当に良かった。
 宗門は奇妙にも「凡夫の信力・行力によって、御本尊に仏力・法力が具わり、本当の本尊になる」などと、得体の知れないことを言う。訳の分からない〝狂学〟である。
「我、仏に勝れたり」とは、日顕そのものである。宗門は時々、自分たちの法主のことを言い当てることがある。

2.正しい御本尊は〝謗法皆無の学会〟にのみ

 本尊問答抄(三六六㌻)にいわく、
「本尊とは勝れたるを用うべし」

 学会授与の御本尊こそ、唯一の正しい御本尊である。そのゆえは、如説修行したのは学会をおいて他に無いのであり、また宗門の如き「謗法の歴史」が無いからである。軍部政府の弾圧下にあっても、謗法を最後まで受け付けず、大聖人の正義を守ったのはひとり創価学会だけである。

 撰時抄(二八九㌻)にいわく、
「現に勝れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳なりけるか、伝教大師云く『天台法華宗の諸宗に勝れたるは所依の経に拠るが故に自讃毀他ならず』等云云」

(実際に勝れているものを勝れていると言う事は、慢心のようでも実は、慢心ではなく大功徳となるのである。〈以下略〉)

 謗法を一切排除してきたゆえに、創価学会が授与する御本尊には法力・仏力が具わる。学会員がこの御本尊に信力・行力を具え合わせたとき、日寛上人が「成仏疑なきなり」と仰せの通りとなるのである。

 当体義抄文段にいわく、
「当に知るべし、四義具足する則(とき)は成仏疑なきなり。『正直に方便を捨て但法華経を信じ』とは、これ信力なり。『南無妙法蓮華経と唱うる』とは、これ行力なり。『法華の当体』とは、これ法力なり。『自在神力』とは、これ仏力なり。法力・仏力は正しく本尊に在り。これを疑うべからず。我等応(まさ)に信力・行力を励むべきのみ」
(「富士宗学要集」第四巻 四〇〇㌻)

3.謗法まみれの大石寺周辺

 以下は、謗法の宗門から離脱して大聖人の仏法を遵守した、故・渡辺慈済師の手記の抜粋である。宗門がどれだけ謗法の限りを尽くしてきたか。この実態を知れば、いかに学会が謗法厳戒を貫いているかが分かるのである。
                ◇
 当時の大石寺檀家の信心の実態はというと、朝夕の勤行をする家はほとんどなく、謗法まみれの状態だった。皆、お経は読めないし、他宗の檀家と同じように、拝むのは坊さんで、自分たちは手を合わせるだけ。しかも、御本尊も仏像も神札も祀っているという家が多かった。謗法厳誡など、まったくなかったのである。
 しかし、檀家をこうした状態にしてしまったのも、塔中住職の責任であった。というのも、法事や棚経(たなぎょう)で檀家を尋ねても、「謗法は厳誡ですよ」「謗法払いをしなければなりませんよ」と、信心の指導をきちんとしてこなかったし、文句を言って檀家の機嫌を損ねるより、御供養をもらうために、謗法には目を瞑(つぶ)ってきたというのが実際のところだったからである。
 これ自体、宗旨を弁(わきま)え、法義を学んだ住職としては怠慢であり、恥ずべき問題だったが、さらに重大なことは、御本尊を御供養集めに使っていたことである。本来、御本尊は信仰の根本であり、拝むためにあるが、いつの間にか大石寺では、賞与御本尊を謝礼として出すから御供養をするように呼び掛けるようになっていた。
 例えば、私の所持している「御守御本尊」は六十世日開上人が認(したた)めたものである。脇書には「宗祖大聖人第六百五十御遠忌(ごおんき)壱万幅之内」とある。昭和六年の大聖人六百五十遠忌の時に、御供養をしたお礼である。日布上人や日応上人も同様のことを行なっているが、本山に金がなく、何か祈念行事を行なう折に、このように賞与御本尊を授与する形で資金集めをしていたのである。お金のために御本尊を授与したと言われても仕方のない実態だった。
 御本尊授与の精神については、日興上人が、「志(こころざし)有る者には本尊を授与し給ふに時を選ばず」とされていたように、信心の志が何より大事である。
 私が仕えた堀上人も、「私は、御本尊を多く授与しなかった。また、金を出すから御本尊を書いてくれ、と言ってくる檀家もいるが、広宣流布のために認(したた)める御本尊はよいが、お金のために御本尊を授けることはしない」と話されていた。
 ところが、大石寺では賞与御本尊を乱発し、この結果、檀家では一軒で十体も二十体も御本尊を持つようになり、御本尊を単なる宝物としてしか扱わなくなっていた。
 これでは、檀家が正しく信仰できるはずがなく、根本の御本尊の取り扱いがいい加減なのだから、謗法まみれになるのも当然であった。
 また、檀家の人たちが謗法の仏像などを自宅に祀るようになったのも、塔中坊の御宝前の形が影響していた。
 当時、寂日坊や観行坊では、御本尊の前に大きな御影(みえい)が安置されており、奥にある御本尊は暗くてよく見えなかった。皆、教学を学んでいるわけではないから、御本尊の大切さが分からない。自然と、御影をありがたく拝むことが大事だと思うようになって、仏像についても手を合わせることが当然のようになったものと思う。そして、自宅にも仏像を祀る人も出てくるようになってしまったのである。
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)

4.他宗の僧侶と一緒に葬儀

 前項の手記の続きから。
                ◇
 一方、塔中はというと、戦時中、書院に神札が祀られたことはよく知られているが、各坊でも神札を祀っていた。
 住職は檀家の謗法払いができないばかりか、葬儀は、北山本門寺、西山本門寺の僧も呼んで一緒にやっていた。檀家のなかには、僧侶の頭数が多ければ盛大な葬儀であるとの考え方があり、喪主の意向で他の日蓮宗系僧侶を四、五人呼んで行なったところもあった。もちろん、他宗の僧侶が来ても、呼んだのは喪主であり、文句をつけて追い返すわけにもいかず、共に布施をもらって帰ってくるのである。
 逆に、他宗の葬儀に塔中の僧侶が出掛けたこともあった。当時の塔中坊ならどこでもやっていたことである。とくに、あちこち出掛けて行って有名だったのは、了性坊の井口琳道氏である。了性坊の檀家は、謗法で有名になった半野(はんの)や白糸方面に多かった。
 こうした葬儀はごく当たり前に行なわれており、僧侶にしてみれば、それは交際の一つ、布施をもらう手段だった。
 このように、当時は謗法の真っ只中に少しばかり正法が存在していた、という状態だったのである。 
 大石寺がこんな状態だから、まして近在の末寺の謗法は当然だった。沼津の根方(ねがた)にある本広寺(ほんこうじ)は、御会式(おえしき)が宗門のなかでも盛大で有名だった。村の人たちがすべて檀家というわけではなかったが、〝村の寺〟という位置づけで村をあげて御会式が行なわれた。
 境内には、綿飴(わたあめ)、イカ焼き、ヨーヨー釣り、風船売りなどの屋台が並び、村人も自分たちの祭として集まり、飾り餅も大きな物が、各集落単位で競って御宝前に飾られた。正面に大きな賽銭箱も置かれ、「謗法から供養は受け取らない」ことなどそっちのけで、これが村の伝統行事の一つだったのである。
「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、何(いか)に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」(曾谷殿御返事)と大聖人は仰せであるが、「うるし千ばい」どころか謗法充満の状態だったのである。
(同)
                           (了)

日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:22」を破折する 連載31回

妄説:22 学会では「宗門が御本尊を下付してくれないので、やむをえず複写して授与することになった」といっていますが、本当ですか。

 この問いでは「なぜ宗門が下付しないのか」を知ることが大切でしょう。
 日蓮正宗は、大聖人、日興上人以来の化儀・化法を守り、正しく信仰する人々に対しては、いかなる人であっても御本尊を下付してきました。
 これは創価学会に対しても同様です。
 ところが学会は、次第に正宗信徒の道から外れ、宗門からのたび重なる教導に対しても、それを受け入れないのみならず、仏法僧の三宝を破壊する大謗法団体と化してしまったのです。
 換言(かんげん)すれば、本宗の信徒団体としての資格を自ら放棄してしまったのですから、団体破門となり、そのために会員に対する御本尊下付もされなくなったのです。
 一時は広宣流布を目指すように見えた学会でしたが、その本性は日蓮正宗信徒とはかけ離れた、御法主上人誹謗、三宝破壊を平気で行なう池田教だったのですから、御本尊下付の停止は当然の処置です。

破折:
1. 本尊流布は大聖人、日興上人の御遺志

 日顕は、日興上人の「御筆止御本尊」の由来を知らないはずはあるまい。日興上人の御化導の御精神、御本尊流布の大切さが込められた御本尊のことである。
               ◇
 日顕は、御本尊流布という宗開両祖の御遺命を本来、先頭に立って推し進めるべき立場にありながら、悪鬼入其身の姿を現じ、それを妨害している。広宣流布の途上、これだけの障魔が出来したことはない。
 戸田城聖創価学会第二代会長は、日興上人が御本尊流布についてどれだけの大情熱を傾けておられたかについて、御筆止御本尊に触れながら話されている。

「日蓮大聖人様は、本尊流布ということをお考えになっていらっしゃった。だが、時機の問題で実行できかねておられたのです。そうしたところが、その後を継いだ興師様が、この御開山様が、ご遺志をついで御本尊様をぜんぶの者におわたしになった。ですから私は泣けてたまらないことがあるのです。
 いまから三年前か五年前か忘れましたけれども、お虫払い法要の時に、御開山日興上人の御直筆の御本尊をぜんぶ見せてくださるが、そのなかに御筆止御本尊という御本尊様があります。もったいないけれども、その御本尊様のお文字が細く、枯れてしまっているのです。そこまで生命を打ち込んで御本尊様をお顕しになったのです」(「質問会」『戸田城聖全集』第二巻所収)

 同じく戸田会長は、次のようにも話されている。

「ところが、御筆止御本尊というのがあるのです。それで、今度、お会式があるそうですけれども、そのときに、拝んだらいいと思いますが、私はそれを見たときに泣けました。なぜかというと、お筆が枯れて、弱っています。御本尊様が、ひじょうに枯れたお手でありまして、お筆の力が弱っているのです。それを御筆止御本尊と申し上げるのです。そうすると、この御本尊(筆者注 客殿の御本尊)を拝みますと、力いっぱいおしたためなのですが、御筆止御本尊は弱っていらっしゃるのです。そのお年まで御本尊様書写に、ご苦労あそばされた御開山日興上人様を思いますと、泣けます」(同)

 日興上人が御本尊流布のために、渾身の力を振り絞られて、余命いくばくもないときにあっても御本尊書写されていたことが非常によくわかる。

 宗祖日蓮大聖人の仰せに曰く。
「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり」(日女御前御返事)
【通解】ここに日蓮はどういう不思議であろうか、正法時代の竜樹、天親等、像法時代の天台、妙楽でさえ、顕すことのなかった大曼荼羅を、末法に入って二百余年を経たこのときに、初めて法華弘通の旗印として顕したのである。
 
 日蓮大聖人は、御本尊が「法華弘通のはたじるし」であると仰せになっている。だが、日顕は、広宣流布を主体的に進めてきた創価学会員に本尊を下附しないというのだ。もちろんこれは、新しく創価学会員となった新入信者に対しても同じである。
 創価学会員に本尊下附しないということは、法華講や直属信徒の折伏など微々たるものだから、本尊流布を全体的に停止するに等しい行為だ。宗開両祖の御本尊流布への御遺志を踏みにじる日顕の罪は、実に重いものであると言わねばならない。御本仏のお怒りを恐れぬ所業である。今回の処置は、日顕みずから「法華弘通のはたじるし」を放棄してしまったに等しい。(中略)
 宗祖日蓮大聖人は、一切衆生に仏になる血脈を継がせようと願われていた。その宗祖大聖人の御遺志を寸分違わず実践に移し、本尊流布をおこなってきたのは創価学会である。
 しかし、本来は信仰している大衆のものであるべきその血脈という言葉が、いつのまにか貫首を神秘主義のベールに包むためにのみ使われるようになってしまった。僧侶たちの共同利益のために教義の矮曲、形骸化が進められたのである。
 日蓮大聖人は、次のようにも仰せになっている。

「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」(同)
【通解】心して強盛の大信力を出し、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念なさるがよい。生死一大事の血脈を、このことのほかに求めてはならない。 

 日蓮大聖人の真正の弟子たらんとする創価学会員は、一人としてもれることなく日蓮大聖人の血脈を継ぐ大信力を出すべきときである。
(「地涌」第339号 1991年12月5日)

 宗開両祖の御化導の御苦衷を無視し、御本尊下付を放擲した日顕は、天魔外道以外の何者でも無い。

2. 宗門問題は日顕の資質に帰着

 以下よりは、日蓮正宗改革同盟の故・渡辺慈済師の手記を掲載して破折の文としたい。
              ◇
 離脱して、私がまず取り組んだことは、各地の研修会に出席して、宗門の実態や日顕がいかなる人物かを徹底的に語り、日蓮大聖人、日興上人の教えから完全に逸脱し、誤っていることを教えていくことだった。長く宗門にいて、日顕を直接知っている者として、教義のうえからも、行躰(ぎょうたい)についても、また人間としても、日顕が法主としてふさわしくないこと、さらに、今回の問題は〝日顕一人から始まり日顕一人に終わる〟――いわば法主一人の信心と資質に帰着する問題であることを、明快に語っていった。
 日顕が当時、学会員を誑(たぶら)かそうとして持ち出していた問題には、御本尊下付の停止と登山会の停止の二つの問題があった。学会員には御本尊を下付しない、だから成仏できないといい、登山会についても、学会をやめて末寺につかなければ登山はできない、戒壇の大御本尊から離れるのは大謗法だ、堕地獄だ、といっていた。しかし、これは、法主の権威を嵩(かさ)に着た〝脅(おど)し〟でしかなく、こんなまやかしが通用するわけがなかった。各地の研修会でも、私は、日顕の実態の問題とあわせて、こうした言い掛かりを徹底的に破折した。
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)

3.御本尊下付の停止は「大聖人への違背」

 まず御本尊下付の停止の問題。
 御本尊は信仰の根本である。それを、信徒を脅す道具に使うこと自体、大謗法であった。
 日蓮大聖人が何のために御本尊を顕されたかを知れば、それは自(おの)ずから明白である。
 大聖人は「観心本尊抄」に、こう仰せである。
「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士(きょうじ)と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し(中略)一念三千を識(し)らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み末代幼稚の頚(くび)に懸けさしめ給う」
 この御文にあるように、末法の一切衆生を救うために、大慈悲のうえから顕されたのが、御本尊である。歴代の法主の役目は、この御本尊を書写し、人々を御本尊の功徳に浴さしめていくことである。下付しない、停止するということは、法主としての自らの責務を放棄することを意味し、すなわち、大聖人に対する敵対、違背にほかならない。
 日興上人も「志(こころざし)有る者には本尊を授与し給ふに時を選ばず」とされた。要は、「信心の志」があるかないかである。御本尊を信受していこう、生涯広宣流布のために尽くしていこうという、志のある人に対しては、当然、御本尊を授与すべきなのである。
(同)

4.御本尊を信者支配の手段にする日顕

 日顕が御本尊を下付しない魂胆は、信徒を自分に隷属させようとするところにあり、これは、一切衆生を救済されようとした大聖人の大慈悲の御心に反することは明らかであった。大聖人、日興上人に背くこんな無慈悲、師敵対が許されるはずはない。
 大石寺周辺の根檀家(ねだんか)(塔中坊の檀家)の実態を引き合いに出すまでもないが、「宗祖大聖人第六百五十御遠忌(ごおんき)壱万幅之内」と認(したた)められた日開上人の御本尊、また「宗祖大聖人第六百御遠忌千七百幅之内」と認められた日布上人の御本尊等、根檀家が何体もの御本尊を所持しているのも、その時々の法主が根檀家から御供養を出させるために認めたからで、決して信心のため、広宣流布のために下付したものではなかった。
 翻(ひるがえ)って、偉大なる御本尊の力を人々に知らしめ、人々を救おうと折伏に励んだのが学会員である。その懸命な戦いによって、日本はおろか世界の人々も御本尊を信受するまでになり、大聖人の時代から七百年、御遺命の広宣流布が初めて現実のものとなって広がったのである。
 日顕も「特に、池田先生の指揮において大書すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。今日、地球的規模による広布の着々たる進展がみられることは、撰時抄の御金言のごとく、実に広布史上すばらしいことと思います」(「大白蓮華」平成三年一月号)と認めているところである。
 それを、突然、自らの腹黒い魂胆によって、御本尊下付を停止し、御本尊を武器、手段にして脅そうとする。これは、広宣流布を止め、人々を幸せにさせまいとする天魔の働き以外の何物でもない。こんな邪悪な日顕に付き従うことは誤りであり、清々として別れるべきことを訴えたのであった。
(同)
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:21」を破折する 連載30回

妄説:21 日寛上人の御本尊を複写したものを、なぜ宗門では「日寛上人の本尊ではない」「日寛上人のお心にそむく大謗法」というのですか。

 宗門でいう「日寛上人の御本尊」とは、
「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ」(新編 685頁)
と仰せの、大聖人の「たましい」が、血脈相承のうえから、正しく写されている御本尊のことです。
 しかし、今回学会が勝手に複写して作ったものは、姿・形は日寛上人の御真筆とそっくりであっても、血脈付法の御法主上人の許可がないので、大聖人の「たましい」が写されておらず、「日寛上人の御本尊」とはいえないしろものです。
 たとえば自分で勝手に御本尊を写真に撮って、それを拝むのと全く同じことであり、大謗法なのです。
 また、学会では日寛上人の御真筆御本尊にしたためられていた「大行阿闍梨本證坊日證」という授与書きを勝手に抹消し、変造しており、これが「日寛上人のお心にそむく大謗法」になるのは当然です。

破折:
1.〝子供騙しの神話〟は通用しない

「御法主上人の許可がないので」云々とある通り、宗門が主張する御本尊の「真贋」の根拠は、〝法主(もどき)の許可が無い〟の一言に尽きる。
              ◇
 要するに「ワシの許可がないからダメッ」と駄々をこねているにすぎない。
 御本尊授与は法主の「権限」というより「役割」であったが、日顕は自らその役割を放棄したのだ。信心の血脈を受け継ぐ唯一の和合僧団が御本尊を授与するのにニセ法主の許可など全く必要はない。
(「フェイク」第626号 発行05.10.05)

 宗門に学会を責める根拠など、大聖人の御書に皆無である。それゆえ、「血脈相承」「血脈付法」などと〝架空の観念〟〝子供騙しの神話〟にすがるしか方法が無い。それに引っ掛かる者は、よほど心を病んだ人か、詐欺にだまされやすい人なのであろう。
              ◇
 青木 そういえば「オレオレ法主」という悪党もいたな(笑い)。
 杉山 名前は日顕だ(大笑い)。聖職者を装って、信者から供養をせびる。さんざん金を儲けて、ふんぞり返る。こっちもインチキ極まる大悪党だ。
(発言者:青木理事長、杉山青年部長 「聖教新聞」2004年12月24日)

 大聖人の「たましひ」たる南無妙法蓮華経は、「御法主上人の許可」一つで左右されるものではない。我ら一人一人の〝信心〟の中にこそ、流れ通うのである。

 経王殿御返事(一一二四㌻)にいわく、
「但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし」

 御本尊に具わる功力を停止させるほどの〝通力〟を、法主が所持しているとは到底思えない。学会の〝信心〟と法主の〝通力〟と、どちらが勝者となるのかは明白である。

2.消えた〝法魂〟

「歴代各上人の御本尊のすべては、もぬけられて本尊の法魂は現法主の承るところにあり……」(「大白法」)
「御法主上人は御本尊の法魂を所持あそばされるのであり……」(同)

 いったいこれは〝呪術〟か、それとも〝霊能〟か。真言師や陰陽師ならばともかく、〝通力〟を操る者は法華経の行者ではない。

 題目弥陀名号勝劣抄(一一四㌻)にいわく
「先ず通力ある者を信ぜば天魔外道を信ずべきか」

 日顕・日如は、通力など所持しなくとも、天魔外道であることは疑いの余地が無い。
「大聖人の『たましい』」など、本山であろうと末寺であろうと、日顕宗のどこを探しても見つかるものではない。
 遡るに、平成四年三月三十日、大石寺大奥対面所における日顕への「お目通り」に臨席した青年僧侶有志の代表、菅原雄政氏が日顕に突き付けた「離山の書」において、〝法魂〟はすでに滅尽した旨が宣言された。
               ◇
「大聖の廟所まします延山に本仏の法魂跡形なく、立正安国論蔵する中山に宗祖の正義一分もなし。而して、今、私たち大聖人門下の青年僧侶有志は、声を大にして叫ばん。〝大御本尊御座します富山に、正法の僧一人としてなく、七百年の正統の誇り地に堕ち、興尊の法脈、遂に滅失せんとす〟と。
 私たち青年僧侶有志は、宗開両祖の御精神を忘失し、広宣流布の聖業を放擲し、あまつさえ仏意仏勅の団体たる創価学会を破門するという暴挙を犯すに至った猊下、宗門と決別し、その真の改革をなさんがため、大石寺を離山することを決意し、ここに宣言するものであります」(「離山の書」冒頭の一部)(中略)

 菅原氏が日顕に突きつけた「離山の書」は、この十名の青年僧侶たちが連名したものである。これら日蓮正宗の青年僧侶たちは、決起の三月三十日を期して「日蓮正宗青年僧侶改革同盟」を結成した。(中略)
 日蓮正宗青年僧侶改革同盟の人たちは、日蓮正宗においても最優秀の人格識見を有する人材であった。青年得度者は、期ごとにその期の筆頭僧侶が決められ、その筆頭の者を「名頭」と呼ぶ。
 ちなみに、同盟員のうち渡辺雄悦氏が六期生の副名頭、菅原雄政氏が七期生の名頭、松岡雄茂氏が同じく七期生の副名頭、岡崎雄直氏が八期生の名頭、橋本雄正氏が九期生の名頭、土井雄育氏が同じく九期生の副名頭、大塚雄能氏が十期生の名頭、大塚法樹氏が十一期生の名頭であった。
 日顕らは、日蓮正宗の宝ともいえるこれらの若き俊逸たちを、日蓮大聖人の御遺命を達成するための人材として包摂することができなかったのだ。それも、法主である日顕の謗法の故に離山するというのだから、ことは重大である。
(「地涌」第400号 1992年4月1日)

 青年僧侶有志が日顕に突き付けた書面には、大聖人の〝法魂〟は身延山には跡形も無く、中山法華経寺にも大聖人の正義は無いが、今や富士大石寺において大聖人の正法を守る僧侶は一人もおらず、日興上人の法脈もまた滅失せんとしている、と嘆じている。
 すなわち宗門は「五老僧の仲間入り」をしたのであるから、〝法魂〟も正義も正法も、何もかもが失われたことを、それまでの身内から暴露されてしまったのである。
 日顕が今さら〝法魂〟を売り物にしようとも、宗門では〝法脈〟が枯渇したと同様に、消滅してしまったことである。それゆえ日顕宗という名の「ニセ宗門」に残っているのは、謗法だけである。

3.「御本尊を信じられず苦しい」と日顕

 日寛上人書写の御本尊を誹謗する日顕は、絶大な妙法の力用を疑っているのである。事実、東京・八王子の平山広篤(広妙寺)が昭和六十一年六月十三日、御講で、日顕の不信謗法を暴露した。
「(日顕に)私が『信心してきて一番苦しんだことは何ですか?』と質問した。
 すると『なかなか御本尊を信ずることができなかったことだ。今でも本当に信ずることができないでいる』と仰せられた」 
 この平山の話を聞いた婦人は強い衝撃を受けて日記に記していた。
 この一事が日顕の正体を物語る。御本尊の仏力、法力を信じていないからこそ、日寛上人の御本尊に平気で難癖をつける。その難癖の一つが授与書きについての言い掛かりである。
 日寛上人から授与を受けた本證房日證師への授与書きが御形木御本尊にはない点を挙げて「日證師の心を踏みにじる」「功徳がない」と愚かなことを言う。
 御本尊の余白に記された氏名は日興上人が「所賜の本主の交名(きょうみょう)を書き付くるは後代の高名の為なり」(富士一跡門徒存知の事)と述べられているように、授与を受けた人の功績を称え、証明する意義がある。
 しかし、その名前は御本尊の本体に属するものではなく、授与書きの有無は、力用とは何ら関係がない。また、書写した法主及び授与された人の心を踏みにじるとか、その意志を傷付けることにもならない。
 日顕自身、説法の中で弘安以降に書かれた大聖人の御真筆の御本尊でも授与者の名前のない例が二割近くある事実を認めていた。つまり、授与書きが御本尊の本体には属さないことを自らが明かしていたのである。
 また、日顕らは「日證師個人に授与された御本尊を世界に流布するのは罰がある、功徳はない」との邪見を得意気に言うが、厳然たる功徳があることは世界のメンバーが証明している。
(「フェイク」第1058号 2009年10月4日)

4.板本尊の脇書きを削っていた日顕宗

 日寛上人が御本尊を書写された御心は広宣流布にある。その御本尊を寺の倉庫に保存しておくのではなく、世界の人々に授与することこそ、日寛上人並びに日證師の心に最も適(かな)っているのである。
 更に、付言すると、学会が授与している御形木御本尊は、日顕宗の輩が騒ぐような「授与書きを削った」わけではない。正しくは「御本尊の本体の部分だけを御形木御本尊にした」のである。淨圓寺に所蔵されていた御真筆の御本尊の授与書きには、何一つ手は加えられてはいない。
 因みに、学会草創期に授与された日寛上人の御形木御本尊も、近年の御形木専用に書写された御本尊と違って、左上に「授与之」という文字が記されていない。
 ということは現在、学会授与の御本尊と同じように、御本尊の本体の部分だけを御形木にして印刷したものであったことが明白である。
 この脇書きに関しては、日顕宗こそが寺の本堂の板御本尊の脇書きに刻まれた、かつての総講頭の願主名を削り、或いは漆で塗り潰して見えなくするなど、その御本尊を書写した日達法主らの心を踏みにじっていたではないか。
(前出「フェイク」)

 宗門が問題にするのは、信仰のことではない、御本尊の〝権利〟を手放せば「御供養が逃げていく」こととなり、それは日顕が最も嫌うことである。御供養が逃げる度ごとに、悪鬼さながらの形相で怒り狂い、はらわたは烈火と煮えたぎるであろう。こういう時、日顕の周囲の所化が、中啓が折れるほど殴られるであろうが、気の毒な限りである。
                           (了)
 

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Author:墨田ツリー

 
 
 

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