日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:13」を破折する 連載19回
妄説:13 池田大作氏は「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」(池田スピ-チ S五六・一・二六)といっていますが、この考え方は正しいのですか。
これは池田大作氏の我見であって、大聖人の教義ではありません。これはむしろ外道の思想です。
『御義口伝』に
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(新編 1773頁)
と仰せのように、漫荼羅(本尊)とは大聖人御自身であり、大聖人を離れて妙法はないのです。
しかし池田氏は、妙法が仏とかけ離れた宇宙の根本法則であると思い込んでいるようです。このような考えについて、日淳上人は次のように破折されています。
「南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして、宇宙に遍満(へんまん)する妙法の理が題目であるとするからであります。此れは大変な誤りで、南無妙法蓮華経は仏身(大聖人)であります(中略)妙法の理は天地の間にありましても、それは理性であります。実際には仏(大聖人)の御智慧のうちにのみ、厳然として具はり玉ふのであります。その仏は、十方法界に唯一人在(まし)ますだけであります」 (淳全 982頁)
このように、人(大聖人)を離れて法(南無妙法蓮華経)はなく、大聖人はそのまま南無妙法蓮華経の御当体なのです。ゆえに池田氏の考え方は全くの我見であり、正しい考え方ではありません。
破折:
1.聴衆が理解できる言葉
池田名誉会長の「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」との言葉は、「観心本尊抄文段」(「日寛上人文段集」四五八㌻)の御文にある通りである。
「仏、大慈悲を起し、我が証得する所の全体を一幅に図顕して、末代幼稚に授けたまえり」
この「我が証得する所」とは、次の御書に説かれる。
当体義抄(五一三㌻)にいわく、
「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」
ここで「妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し」とあるのは、正しく御本尊の体を顕わされている。
歴代会長の指導の出処は、御書等を依処とするが、そこには必ず現代人が理解しうる言葉に置き換える工夫が為されていることに留意されるべきである。
大聖人の「我が証得する所」(「観心本尊抄文段」)とは「因果倶時・不思議の一法」(「当体義抄」)と具体的に仰せにあり、それを一般の聴衆のために「宇宙の根本法則」と平易な言葉で説明することが、何ゆえ「理法信仰」となるのか。それでは現代語への翻訳すらできない。
指導の内容を〝切り文〟にして取り出せば、どのような言い掛かりでも可能となる。しかも日淳師の論述からも一部を切り取って、それがあたかも池田名誉会長のスピーチを「破折」しているかのようにすり替えてある。宗門による一連の捏造操作であり、お得意の手口である。
「妙法が仏とかけ離れた宇宙の根本法則であると思い込んでいる」とは、宗門の一方的な妄想であるが、たとえ宗門がそのような「外道の思想」に捉われようと、学会には縁の無い話である。
歴代会長は御書等を、当時の聴衆に分かる言葉で伝えてきた。しかし宗門にはそのような〝努力〟も〝工夫〟も無い。自ら折伏することなど、絶えて無いに等しいからである。
宗門は歴代会長の当意即妙の才に及びもつかず、宗門の誰もが劣等感に陥る。そこに生ずるのが〝怨嫉〟であり、〝嫉妬〟である。その度ごとに僧俗和合が掻き乱され、長らく広宣流布が阻まれてきたのである。
2.大聖人の御指導の精神
遠く日蓮大聖人は、平仮名を多く用いた御消息文(御手紙)を認められ、難解な仏法哲理を分かりやすく説かれて、教学に浅い信者を御指導なされた。漢字ばかりの天台学にとらわれた当時の僧侶たちは、それを浅はかにも笑ったと伝えられる。
学会は、大聖人の御指導の精神を継ぐ者である。学会員は、地涌の菩薩としてあらゆる階層、あらゆる機根の人々から成立する。ゆえに戸田会長は、学会の草創時から極めて易しく話し、人々の琴線に触れた指導で激励を重ねてきた。だから池田名誉会長は、師匠である戸田会長の心を今に引き継いでいる。
一般大衆の人々が納得するような理論でなければ、それは当座の問題を解決する手段とはならず、ましてや生活の足しにもならない。だからこそ最も平易に、具体的に指導できる人物こそ、優れた人であると言えるのである。
それに引き替え、宗門は額に汗して働くことを知らず、ただ御供養を収奪することのみ考えている輩であり、「世間から遊離」した人種、〝遊民〟である。
それだから「池田氏の考え方は全くの我見であり」などと言う心底には、名誉会長が人をよく理解してその機微に触れ、そのため人に慕われ尊敬されるのが何よりも妬ましいとする、〝嫉妬〟が渦を巻いているのである。しかし宗門にはおよそ真似のできない境界なのであり、それは如何ともし難い。
大聖人の御指導は、「世間のただ中にある」ことにある(「減劫御書」一四六六㌻)。ところが宗門はそれを受け継がず、「世間から遊離している」のであり、次項に述べる通りである。
3.「世間の法」と「仏法」との関係
宗門の輩は、世間から隔絶した狭い世界しか知らない。それゆえに大聖人の御書を正しく読むことができないのである。
減劫御書(一四六六㌻)にいわく、
「智者とは世間の法より外に仏法を行(おこなわ)ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」
(智者とは世間の法以外において仏法を行ずることはない。世間の治世の法を十分に心得ているのを智者とは言うのである)
◇
「減劫御書」には「智者とは世間の法より外に仏法を行はず」と指南されている。これは当初、「行ず」となっていたが、その後、御真筆を詳しく調べた結果、「行はず」が正しいということが判明している。
当初の「行ず」では「行(おこなわ)ず」とも「行(ぎょう)ず」とも読めたが、唯、前後の文脈から「行(ぎょう)ず」では大聖人の教えとは反対の意味になるので、学会は送り仮名やルビが無くても「行(おこなわ)ず」と正しく読んでいたのである。
ところが、「行(ぎょう)ず」と誤読していたのが、ほかでもない日顕自身であった。日顕は論文の中で、次のように書いている。
「減劫御書に『智者とは世間の法より外に仏法を行(ぎょう)ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり……』との仰せがある。(中略)したがって、智者というのは、世間の法よりほかに仏法を行じているのである。『世間の法より外に』ということは、世間の法は世間の法として行じ、その根底に仏法を行じているということである」(中略)
このように日顕は「世間の法よりほかに仏法を行じている」と反対の解釈をしていたのである。だから、世間から遊離して「井の中の蛙」になるのだ。
大聖人は「智者(法華経の行者)は、世間から遊離した教団の殻の中に閉じこもっていないで、世間で仏法を行じていくのである」と教えられているのである。
(「フェイク」第1148号 発行=10.10.15)
御書を心肝に染めれば、大聖人の意が奈辺にあるかは分かるはずである。次の御書でも同じ趣旨を仰せである。
白米一俵御書(一五九七㌻)にいわく、
「まことの・みちは世間の事法にて候、金光明経には『若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり』ととかれ涅槃経には『一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず』と仰せられて候を・妙楽大師は法華経の第六の巻の『一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず』との経文に引き合せて心をあらわされて候には・彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」
大聖人に心を合わせれば、「世間の法より外に仏法を行(おこなわ)ず」との意が、他の御文にもはっきりと説かれていることが分かりそうなものである。
〝教学部長〟であった日顕にして、御書の意を逆さに読んでいるのであるから、宗門が大聖人に違背するはずである。正しい仏法を阻む〝狂学〟そのものである。
4.人々が納得できる説き方
小説「新・人間革命」には、池田名誉会長がアメリカの会員に「御本尊に唱題するとなぜ功徳があるのか」という疑問を、分かりやすく解説した場面が綴られている。
◇
マイクを取った伸一は、信心の根幹をなす、南無妙法蓮華経とは何かについて、一つの側面から、わかりやすく語っていった。
「自然界を見ても、さまざまな法則というものがある。それを正しく認識し、合致した生活を営んでいくところに、価値の創造があります。
たとえば、水力発電は水が落下するエネルギーを用いますが、これは、万有引力の法則のうえに成り立っています。
南無妙法蓮華経とは、一言(いちごん)するならば宇宙の根本の法則であり、宇宙を動かしている根源の力であるといえます。それを大聖人は、一幅の本尊として顕されたのであります。
その御本尊に唱題する時、わが生命が宇宙の法則と合致し、最大の生命力が湧現(ゆげん)し、幸福への確かな軌道を、闊歩していくことができるのであります」
それは、アメリカのメンバーが最も知りたい問題であった。
メンバーは「功徳があるから唱題しよう」とよく言われてきた。しかし「なぜ、唱題すると功徳があるのか」という説明を聞くことはあまりなかった。皆が本当に知りたい問題を鋭敏に察知し、明快に答えてこそ、真の指導者といえよう。
「なぜ」ということがわかれば、納得して信仰に励むことができる。
信心の世界には、言葉では説明しきれず、体験を通して実感する以外にない問題も当然ある。しかし、人びとが納得できるように説明するために、努力し、心を砕いていくことは、リーダーである幹部の責務といってよい。
ゆえに、仏法の法理を説き示した御書への真剣な取り組みが、幹部の必須の要件となるのである。また、そのなかに教学の深化もある。
(「新・人間革命」第19巻「陽光の章」より)
(了)
妄説:13 池田大作氏は「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」(池田スピ-チ S五六・一・二六)といっていますが、この考え方は正しいのですか。
これは池田大作氏の我見であって、大聖人の教義ではありません。これはむしろ外道の思想です。
『御義口伝』に
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(新編 1773頁)
と仰せのように、漫荼羅(本尊)とは大聖人御自身であり、大聖人を離れて妙法はないのです。
しかし池田氏は、妙法が仏とかけ離れた宇宙の根本法則であると思い込んでいるようです。このような考えについて、日淳上人は次のように破折されています。
「南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして、宇宙に遍満(へんまん)する妙法の理が題目であるとするからであります。此れは大変な誤りで、南無妙法蓮華経は仏身(大聖人)であります(中略)妙法の理は天地の間にありましても、それは理性であります。実際には仏(大聖人)の御智慧のうちにのみ、厳然として具はり玉ふのであります。その仏は、十方法界に唯一人在(まし)ますだけであります」 (淳全 982頁)
このように、人(大聖人)を離れて法(南無妙法蓮華経)はなく、大聖人はそのまま南無妙法蓮華経の御当体なのです。ゆえに池田氏の考え方は全くの我見であり、正しい考え方ではありません。
破折:
1.聴衆が理解できる言葉
池田名誉会長の「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」との言葉は、「観心本尊抄文段」(「日寛上人文段集」四五八㌻)の御文にある通りである。
「仏、大慈悲を起し、我が証得する所の全体を一幅に図顕して、末代幼稚に授けたまえり」
この「我が証得する所」とは、次の御書に説かれる。
当体義抄(五一三㌻)にいわく、
「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」
ここで「妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し」とあるのは、正しく御本尊の体を顕わされている。
歴代会長の指導の出処は、御書等を依処とするが、そこには必ず現代人が理解しうる言葉に置き換える工夫が為されていることに留意されるべきである。
大聖人の「我が証得する所」(「観心本尊抄文段」)とは「因果倶時・不思議の一法」(「当体義抄」)と具体的に仰せにあり、それを一般の聴衆のために「宇宙の根本法則」と平易な言葉で説明することが、何ゆえ「理法信仰」となるのか。それでは現代語への翻訳すらできない。
指導の内容を〝切り文〟にして取り出せば、どのような言い掛かりでも可能となる。しかも日淳師の論述からも一部を切り取って、それがあたかも池田名誉会長のスピーチを「破折」しているかのようにすり替えてある。宗門による一連の捏造操作であり、お得意の手口である。
「妙法が仏とかけ離れた宇宙の根本法則であると思い込んでいる」とは、宗門の一方的な妄想であるが、たとえ宗門がそのような「外道の思想」に捉われようと、学会には縁の無い話である。
歴代会長は御書等を、当時の聴衆に分かる言葉で伝えてきた。しかし宗門にはそのような〝努力〟も〝工夫〟も無い。自ら折伏することなど、絶えて無いに等しいからである。
宗門は歴代会長の当意即妙の才に及びもつかず、宗門の誰もが劣等感に陥る。そこに生ずるのが〝怨嫉〟であり、〝嫉妬〟である。その度ごとに僧俗和合が掻き乱され、長らく広宣流布が阻まれてきたのである。
2.大聖人の御指導の精神
遠く日蓮大聖人は、平仮名を多く用いた御消息文(御手紙)を認められ、難解な仏法哲理を分かりやすく説かれて、教学に浅い信者を御指導なされた。漢字ばかりの天台学にとらわれた当時の僧侶たちは、それを浅はかにも笑ったと伝えられる。
学会は、大聖人の御指導の精神を継ぐ者である。学会員は、地涌の菩薩としてあらゆる階層、あらゆる機根の人々から成立する。ゆえに戸田会長は、学会の草創時から極めて易しく話し、人々の琴線に触れた指導で激励を重ねてきた。だから池田名誉会長は、師匠である戸田会長の心を今に引き継いでいる。
一般大衆の人々が納得するような理論でなければ、それは当座の問題を解決する手段とはならず、ましてや生活の足しにもならない。だからこそ最も平易に、具体的に指導できる人物こそ、優れた人であると言えるのである。
それに引き替え、宗門は額に汗して働くことを知らず、ただ御供養を収奪することのみ考えている輩であり、「世間から遊離」した人種、〝遊民〟である。
それだから「池田氏の考え方は全くの我見であり」などと言う心底には、名誉会長が人をよく理解してその機微に触れ、そのため人に慕われ尊敬されるのが何よりも妬ましいとする、〝嫉妬〟が渦を巻いているのである。しかし宗門にはおよそ真似のできない境界なのであり、それは如何ともし難い。
大聖人の御指導は、「世間のただ中にある」ことにある(「減劫御書」一四六六㌻)。ところが宗門はそれを受け継がず、「世間から遊離している」のであり、次項に述べる通りである。
3.「世間の法」と「仏法」との関係
宗門の輩は、世間から隔絶した狭い世界しか知らない。それゆえに大聖人の御書を正しく読むことができないのである。
減劫御書(一四六六㌻)にいわく、
「智者とは世間の法より外に仏法を行(おこなわ)ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」
(智者とは世間の法以外において仏法を行ずることはない。世間の治世の法を十分に心得ているのを智者とは言うのである)
◇
「減劫御書」には「智者とは世間の法より外に仏法を行はず」と指南されている。これは当初、「行ず」となっていたが、その後、御真筆を詳しく調べた結果、「行はず」が正しいということが判明している。
当初の「行ず」では「行(おこなわ)ず」とも「行(ぎょう)ず」とも読めたが、唯、前後の文脈から「行(ぎょう)ず」では大聖人の教えとは反対の意味になるので、学会は送り仮名やルビが無くても「行(おこなわ)ず」と正しく読んでいたのである。
ところが、「行(ぎょう)ず」と誤読していたのが、ほかでもない日顕自身であった。日顕は論文の中で、次のように書いている。
「減劫御書に『智者とは世間の法より外に仏法を行(ぎょう)ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり……』との仰せがある。(中略)したがって、智者というのは、世間の法よりほかに仏法を行じているのである。『世間の法より外に』ということは、世間の法は世間の法として行じ、その根底に仏法を行じているということである」(中略)
このように日顕は「世間の法よりほかに仏法を行じている」と反対の解釈をしていたのである。だから、世間から遊離して「井の中の蛙」になるのだ。
大聖人は「智者(法華経の行者)は、世間から遊離した教団の殻の中に閉じこもっていないで、世間で仏法を行じていくのである」と教えられているのである。
(「フェイク」第1148号 発行=10.10.15)
御書を心肝に染めれば、大聖人の意が奈辺にあるかは分かるはずである。次の御書でも同じ趣旨を仰せである。
白米一俵御書(一五九七㌻)にいわく、
「まことの・みちは世間の事法にて候、金光明経には『若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり』ととかれ涅槃経には『一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず』と仰せられて候を・妙楽大師は法華経の第六の巻の『一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず』との経文に引き合せて心をあらわされて候には・彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」
大聖人に心を合わせれば、「世間の法より外に仏法を行(おこなわ)ず」との意が、他の御文にもはっきりと説かれていることが分かりそうなものである。
〝教学部長〟であった日顕にして、御書の意を逆さに読んでいるのであるから、宗門が大聖人に違背するはずである。正しい仏法を阻む〝狂学〟そのものである。
4.人々が納得できる説き方
小説「新・人間革命」には、池田名誉会長がアメリカの会員に「御本尊に唱題するとなぜ功徳があるのか」という疑問を、分かりやすく解説した場面が綴られている。
◇
マイクを取った伸一は、信心の根幹をなす、南無妙法蓮華経とは何かについて、一つの側面から、わかりやすく語っていった。
「自然界を見ても、さまざまな法則というものがある。それを正しく認識し、合致した生活を営んでいくところに、価値の創造があります。
たとえば、水力発電は水が落下するエネルギーを用いますが、これは、万有引力の法則のうえに成り立っています。
南無妙法蓮華経とは、一言(いちごん)するならば宇宙の根本の法則であり、宇宙を動かしている根源の力であるといえます。それを大聖人は、一幅の本尊として顕されたのであります。
その御本尊に唱題する時、わが生命が宇宙の法則と合致し、最大の生命力が湧現(ゆげん)し、幸福への確かな軌道を、闊歩していくことができるのであります」
それは、アメリカのメンバーが最も知りたい問題であった。
メンバーは「功徳があるから唱題しよう」とよく言われてきた。しかし「なぜ、唱題すると功徳があるのか」という説明を聞くことはあまりなかった。皆が本当に知りたい問題を鋭敏に察知し、明快に答えてこそ、真の指導者といえよう。
「なぜ」ということがわかれば、納得して信仰に励むことができる。
信心の世界には、言葉では説明しきれず、体験を通して実感する以外にない問題も当然ある。しかし、人びとが納得できるように説明するために、努力し、心を砕いていくことは、リーダーである幹部の責務といってよい。
ゆえに、仏法の法理を説き示した御書への真剣な取り組みが、幹部の必須の要件となるのである。また、そのなかに教学の深化もある。
(「新・人間革命」第19巻「陽光の章」より)
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №11~20
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:12」を破折する 連載18回
妄説:12 「信心の二字の中にしか本尊はない」という考えは正しいのですか。
これは池田大作氏が『日女御前御返事』の
「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(新編 1388頁)
の御文を勝手に解釈したものです。
池田氏は、さらに日寛上人の御文を悪用して「御本尊といっても大切なのは信心である」(池田スピ-チ H五・九・七)と主張していますが、これは御本尊よりも自分達の信心を中心と考える本末転倒(ほんまつてんとう)の己義からくる邪説です。
日寛上人は『文底秘沈抄』に
「境能(よ)く智を発し、智亦(また)行を導く故に、境若(も)し正しからざれば則ち智行も亦随って正しからず」(聖典 833頁)
と説かれています。
すなわち対境の御本尊があって、はじめて凡夫の信心(智)が発現し、信心(智)によって修行(行)が導き出されるゆえに、もし対境の御本尊が正しくなければ、信心も修行も正しいものではないのです。
池田氏の「御本尊といっても大切なのは信心」との発言は、凡夫の信心を中心にして本門戒壇の大御本尊をないがしろにするものであり、根拠のない邪説です。
破折:
1.「信心のなかにしか御本尊はない」
池田名誉会長が「『御本尊といっても大切なのは信心である』(池田スピ-チ H五・九・七)と主張しています」とあるが、実際の指導の言葉は「信心のなかにしか御本尊はない」である。それでは意味は全く異なるのであり、この項目(妄説:12)の設定自体が捏造である。
すなわち〝御本尊よりも信心の方が大切である〟と読ませようとする「改ざん」に他ならない。御本尊と信心とどちらが大切か、などの話があるわけがないのである。
「根拠のない邪説」を捏造するのは、いつも宗門である。
◇
谷川 この隆々とした世界広布の上げ潮の時に対し、日顕宗では、相変わらず言い掛かりをつけているが、全く支離滅裂。最近も、御本尊を信心で拝することの大切さを論じられた、九月七日の本部幹部会での池田先生のスピーチをまたまた、ねじ曲げた。
細谷 そう。さも先生が御本尊を物として軽視しているように書いているが、これが全くのデタラメです。日顕得意の典型的な改ざん、捏造(ねつぞう)です。
辻 何をいってるんだ。御本尊を商売道具のように扱っているのは日顕宗じゃないか。全く、けしからん話だ。
谷川 あの時、先生は「信心のなかにしか御本尊はない」と述べられているんです。御本尊は信心のある人には御本尊だが、信心のない人には、それこそ物です。だから、信心で拝することが最も大切だと、強調された話じゃないですか。
斉藤 日寛上人も「若し信心なくんば一念三千の本尊を具せず」(文段集四六五ページ)と、仰せです。信心がなければ、御本尊も紙墨(しぼく)です。日亨上人も「人法体一の御本尊も、御信心によりて発生するのである」と、明確に指南されている。
秋谷 それを正反対に受け止めるんだから、いかに日顕宗というのは「心諂曲(こころてんごく)」か。全く百八十度ねじれている。
辻 そう。本当に日顕の頭は幼稚だ。〝物〟という言葉を使ったから、すぐ〝粗末(そまつ)〟と思うなんて話にならないよ。そんなことを言ったら、御物(ぎょぶつ)も物だし、宝物(ほうもつ)も物だ。命にかえても、大切にする物は、世間にはいくらでもあるよ。
秋谷 宗門でも、御本尊を、一幅、二幅と言っているではないか。「幅」とは、いわゆる軸物、掛け物を数える言葉だ。御本尊も、一応の物として数えている。だから、ただ物という言葉だけをねじ曲げて、軽視したなどとは、全くバカげたスリカエだ。信心がないから、そんな基本的なこともわからない。呆(あき)れ果てるほど愚かな男だ、日顕は。
細谷 それにしても、日顕は、何度、デタラメをやったら気がすむのだ。「お尋ね」文書で改ざん、芸者写真裁判の訴状でも改ざん。彼らが先生のスピーチを引用する時は、全部、改ざんじゃないか。本当に卑怯極(きわ)まりない連中だ。
高橋 すべてが曲がって聞こえるのは、心がゆがんでいる証拠ですよ。
辻 金儲(かねもう)けだから、御本尊に対する「信心」の何たるかも、わからない。権威にしがみついて、無教学、無信心をさらけだしているだけだ。
秋谷 御本尊は「信心」の二字のなかにしかない。学会は草創以来、この信心で御本尊を拝してきた。だから、世界中の会員が功徳の体験を積み、広宣流布が進み、これだけ発展してきたんです。御本尊に功徳があるといっても、信心のない人が、御本尊を持っているだけでは功徳は出ない。御本尊を拝する人に信心があるから功徳が出るんです。その道理がわからない。
細谷 その通りです。そのうえ日顕は〝法主は大御本尊と不二の尊体〟と、大御本尊を自分を絶対化する〝道具〟に悪用し、貶(おとし)めているではないか。これこそ大謗法(だいほうぼう)の極みだ。
秋谷 その日顕や藤本らは今、学会授与の御本尊は功徳がないと言っているらしいが、じゃあ、現実に拝んだ人に功徳が出たら、どうする。現証が大事だ。日顕宗は解散するのか。そのことを、まず内外に、はっきりさせてから、ものを言ってもらおうではないですか。
(発言者:秋谷会長、辻参議会議長、細谷副会長、斉藤教学部長、高橋婦人部書記長、谷川青年部長 「聖教新聞」1993.10.14)
教行証御書(一二七九㌻)にいわく、
「一切は現証には如かず」
宗門は、捏造・改ざんを駆使して学会を悪に仕立てようとするが、学会が世界に躍進し、広宣流布しゆく現実の前では、虚しい響きでしかない。
2.信心こそ大前提
信心が無くては御本尊と境地冥合することは叶わず、成仏も有り得ない。
日女御前御返事(一二四四㌻)にいわく、
「此(こ)の御本尊も只(ただ)信心の二字にをさまれり。以信得入(いしんとくにゅう)とは是(これ)なり。日蓮が弟子檀那等、正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)、不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)と無二に信ずる故によつて、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。たのもしたのもし。如何(いか)にも後生(ごしょう)をたし(嗜)なみ給ふべし、たしなみ給ふべし。穴賢。南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり。信心の厚薄(こうはく)によるべきなり。仏法の根本は信を以て源(みなもと)とす」
(この御本尊も、ただ信心の二字に収まっているのである。「信を以って入ることを得たり」とあるのは、このことである。日蓮の弟子檀那等は、「正直に方便を捨てて」の文や「余経の一偈をも受持してはならない」の文の通り、法華経(御本尊)のみを唯一無二に信ずることによって、この御本尊の宝塔の中に入ることができるのである。まことに頼もしいことである。なんとしても、未来の福運のために、仏道に心を打ち込んでいきなさい。「南無妙法蓮華経」とだけ唱えて、成仏していくことが最も大切である。ひとえに信心の厚薄(こうはく)によるのである。仏法の根本は、信をもって源(みなもと)とするのである)
大聖人は、信心が肝要であることを何度も説かれている。それに引き替え、信心の意義を全く説こうとしない宗門は、人々を成仏から遠ざける〝魔物〟でしかない。
御本尊が身近に御座(おわ)しても、信心がなければ、己自身とは何の関わりも無い。その顕著な例が、日顕である。宗門の中で、最も大御本尊に近い立場にありながら、〝鑑定に懸ける〟などと不遜にも大御本尊を疑い、さらには「ニセ物」と言ってのけた。「本門戒壇の大御本尊をないがしろにする」のは、宗門のニセ法主自身である。
3.「以信得入」によって無量の功力を
池田名誉会長が「日女御前御返事」を拝して、御本尊と信心の意義を説き明かす。
◇
大聖人は「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」と仰せです。
成仏の根本の軌道こそ「信心の二字」です。智慧第一の舎利弗でさえ、「信」によって法華経の極理に入ったのです。それが「以信得入」です。
末法の凡夫は、仏の大境涯を直ちに顕された御本尊を拝する時、より深く、より強き信によって、元初の晴れ晴れとした御本尊の世界に入ることができるのです。
大聖人は「観心の本尊」と仰せです。観心すなわち己心の仏界を観じ、覚知するための御本尊です。しかし、その観心とは、いわゆる観念観法の修業ではありません。どこまでも「信心」が根本となります。ゆえに、「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」と仰せなのであり、「観心の本尊」とは「信心の本尊」なのです。
強盛な信心があるところ、その生命に御本尊は湧現されます。反対に、信心がなければ、どんなに御本尊を持っていても功徳はない。信心によって「功徳聚」たる御本尊が胸中に顕れるのです。したがって、わが信心が壊れない限り、功徳聚もなくなることがないのです。もし、万が一、事故や災害等で御本尊を失っても、信心さえあれば、胸中の御本尊は常住です。また、いくらでも功力を現し起こしていくことができるのです。
御本尊の功徳力は、私たちが信心を起こした時にはじめて現れます。まさに、御本尊は、私たちの「信心の二字」に納まっているのです。
(「大白蓮華」2011年12月号)
4.「唯一無二」の姿勢が根本
前出の講義の続きである。
◇
「日蓮が弟子檀那等」と、日女御前も含めた一切の弟子門下に仰せです。
あなたがたは皆「正直に方便を捨てて」「余経の一偈をも受けず」との経文の通りに、唯一無二の信心を貫いているので、この御本尊の宝搭に入ることは間違いないのです。
御本尊は、妙法の光に照らされた元初の世界を顕した唯一無二の法そのものであり、御本尊への信こそが、わが生命を九識心王真如の都と荘厳するための唯一の道なのです。
ゆえに「唯一無二」の姿勢で御本尊を拝する「信心」でなければなりません。
その唯一無二の信心があれば、今生においては、その信の中に御本尊がそなわり、わが生命に御本尊がそなわり、わが生命に御本尊の妙用が顕現するのです。そして後世においては「御本尊の宝搭の中に入る」と仰せのように、大宇宙の仏界である虚空会の宝搭の中に入ることができ「後生をたしなみ給うべし」と仰せのように、死後も仏界を大いに楽しむことができるのです。まさに現当二世の大いなる功徳を示された御文と拝せられます。
無二の信心によって「生も歓喜、死も歓喜」の生死不二の絶対的幸福境涯を成就できる。ゆえに「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり」と仰せです。仏道修行の根本目的は、御本尊に南無妙法蓮華経の題目を唱え、凡夫の身がそのままに「仏になる」ことです。そして、重ねて即身成仏の要諦を「信心の厚薄によるべきである」と、示されています。
他の御書でも「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」(一二六二㌻)あなたの願いが叶うか叶わないかは、あなたの信心によるのです。全く日蓮のせいではありません。と仰せです。
どこまでも、私たちの自身の強い信力・行力に御本尊の仏力・法力が相応して、功徳が厳然と現れるのです。根本は信心であり、その燃え上がる信心をエンジンとしての行動・実践です。
日寛上人は、こう述べられています。
「暫(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕(あらわ)れざるなきなり」
草創以来、多くの同志が、この一節を思い起こしては、御本尊への信心を奮い立たせてきました。わが胸中の御本尊を呼び覚まし、いかなる苦難にも絶対に負けない生命の底力を引き出してきました。〝祈りとして叶わざるなしの御本尊〟です。まさに、学会には信心があったから勝利したのです。
(同)
(了)
妄説:12 「信心の二字の中にしか本尊はない」という考えは正しいのですか。
これは池田大作氏が『日女御前御返事』の
「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(新編 1388頁)
の御文を勝手に解釈したものです。
池田氏は、さらに日寛上人の御文を悪用して「御本尊といっても大切なのは信心である」(池田スピ-チ H五・九・七)と主張していますが、これは御本尊よりも自分達の信心を中心と考える本末転倒(ほんまつてんとう)の己義からくる邪説です。
日寛上人は『文底秘沈抄』に
「境能(よ)く智を発し、智亦(また)行を導く故に、境若(も)し正しからざれば則ち智行も亦随って正しからず」(聖典 833頁)
と説かれています。
すなわち対境の御本尊があって、はじめて凡夫の信心(智)が発現し、信心(智)によって修行(行)が導き出されるゆえに、もし対境の御本尊が正しくなければ、信心も修行も正しいものではないのです。
池田氏の「御本尊といっても大切なのは信心」との発言は、凡夫の信心を中心にして本門戒壇の大御本尊をないがしろにするものであり、根拠のない邪説です。
破折:
1.「信心のなかにしか御本尊はない」
池田名誉会長が「『御本尊といっても大切なのは信心である』(池田スピ-チ H五・九・七)と主張しています」とあるが、実際の指導の言葉は「信心のなかにしか御本尊はない」である。それでは意味は全く異なるのであり、この項目(妄説:12)の設定自体が捏造である。
すなわち〝御本尊よりも信心の方が大切である〟と読ませようとする「改ざん」に他ならない。御本尊と信心とどちらが大切か、などの話があるわけがないのである。
「根拠のない邪説」を捏造するのは、いつも宗門である。
◇
谷川 この隆々とした世界広布の上げ潮の時に対し、日顕宗では、相変わらず言い掛かりをつけているが、全く支離滅裂。最近も、御本尊を信心で拝することの大切さを論じられた、九月七日の本部幹部会での池田先生のスピーチをまたまた、ねじ曲げた。
細谷 そう。さも先生が御本尊を物として軽視しているように書いているが、これが全くのデタラメです。日顕得意の典型的な改ざん、捏造(ねつぞう)です。
辻 何をいってるんだ。御本尊を商売道具のように扱っているのは日顕宗じゃないか。全く、けしからん話だ。
谷川 あの時、先生は「信心のなかにしか御本尊はない」と述べられているんです。御本尊は信心のある人には御本尊だが、信心のない人には、それこそ物です。だから、信心で拝することが最も大切だと、強調された話じゃないですか。
斉藤 日寛上人も「若し信心なくんば一念三千の本尊を具せず」(文段集四六五ページ)と、仰せです。信心がなければ、御本尊も紙墨(しぼく)です。日亨上人も「人法体一の御本尊も、御信心によりて発生するのである」と、明確に指南されている。
秋谷 それを正反対に受け止めるんだから、いかに日顕宗というのは「心諂曲(こころてんごく)」か。全く百八十度ねじれている。
辻 そう。本当に日顕の頭は幼稚だ。〝物〟という言葉を使ったから、すぐ〝粗末(そまつ)〟と思うなんて話にならないよ。そんなことを言ったら、御物(ぎょぶつ)も物だし、宝物(ほうもつ)も物だ。命にかえても、大切にする物は、世間にはいくらでもあるよ。
秋谷 宗門でも、御本尊を、一幅、二幅と言っているではないか。「幅」とは、いわゆる軸物、掛け物を数える言葉だ。御本尊も、一応の物として数えている。だから、ただ物という言葉だけをねじ曲げて、軽視したなどとは、全くバカげたスリカエだ。信心がないから、そんな基本的なこともわからない。呆(あき)れ果てるほど愚かな男だ、日顕は。
細谷 それにしても、日顕は、何度、デタラメをやったら気がすむのだ。「お尋ね」文書で改ざん、芸者写真裁判の訴状でも改ざん。彼らが先生のスピーチを引用する時は、全部、改ざんじゃないか。本当に卑怯極(きわ)まりない連中だ。
高橋 すべてが曲がって聞こえるのは、心がゆがんでいる証拠ですよ。
辻 金儲(かねもう)けだから、御本尊に対する「信心」の何たるかも、わからない。権威にしがみついて、無教学、無信心をさらけだしているだけだ。
秋谷 御本尊は「信心」の二字のなかにしかない。学会は草創以来、この信心で御本尊を拝してきた。だから、世界中の会員が功徳の体験を積み、広宣流布が進み、これだけ発展してきたんです。御本尊に功徳があるといっても、信心のない人が、御本尊を持っているだけでは功徳は出ない。御本尊を拝する人に信心があるから功徳が出るんです。その道理がわからない。
細谷 その通りです。そのうえ日顕は〝法主は大御本尊と不二の尊体〟と、大御本尊を自分を絶対化する〝道具〟に悪用し、貶(おとし)めているではないか。これこそ大謗法(だいほうぼう)の極みだ。
秋谷 その日顕や藤本らは今、学会授与の御本尊は功徳がないと言っているらしいが、じゃあ、現実に拝んだ人に功徳が出たら、どうする。現証が大事だ。日顕宗は解散するのか。そのことを、まず内外に、はっきりさせてから、ものを言ってもらおうではないですか。
(発言者:秋谷会長、辻参議会議長、細谷副会長、斉藤教学部長、高橋婦人部書記長、谷川青年部長 「聖教新聞」1993.10.14)
教行証御書(一二七九㌻)にいわく、
「一切は現証には如かず」
宗門は、捏造・改ざんを駆使して学会を悪に仕立てようとするが、学会が世界に躍進し、広宣流布しゆく現実の前では、虚しい響きでしかない。
2.信心こそ大前提
信心が無くては御本尊と境地冥合することは叶わず、成仏も有り得ない。
日女御前御返事(一二四四㌻)にいわく、
「此(こ)の御本尊も只(ただ)信心の二字にをさまれり。以信得入(いしんとくにゅう)とは是(これ)なり。日蓮が弟子檀那等、正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)、不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)と無二に信ずる故によつて、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。たのもしたのもし。如何(いか)にも後生(ごしょう)をたし(嗜)なみ給ふべし、たしなみ給ふべし。穴賢。南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり。信心の厚薄(こうはく)によるべきなり。仏法の根本は信を以て源(みなもと)とす」
(この御本尊も、ただ信心の二字に収まっているのである。「信を以って入ることを得たり」とあるのは、このことである。日蓮の弟子檀那等は、「正直に方便を捨てて」の文や「余経の一偈をも受持してはならない」の文の通り、法華経(御本尊)のみを唯一無二に信ずることによって、この御本尊の宝塔の中に入ることができるのである。まことに頼もしいことである。なんとしても、未来の福運のために、仏道に心を打ち込んでいきなさい。「南無妙法蓮華経」とだけ唱えて、成仏していくことが最も大切である。ひとえに信心の厚薄(こうはく)によるのである。仏法の根本は、信をもって源(みなもと)とするのである)
大聖人は、信心が肝要であることを何度も説かれている。それに引き替え、信心の意義を全く説こうとしない宗門は、人々を成仏から遠ざける〝魔物〟でしかない。
御本尊が身近に御座(おわ)しても、信心がなければ、己自身とは何の関わりも無い。その顕著な例が、日顕である。宗門の中で、最も大御本尊に近い立場にありながら、〝鑑定に懸ける〟などと不遜にも大御本尊を疑い、さらには「ニセ物」と言ってのけた。「本門戒壇の大御本尊をないがしろにする」のは、宗門のニセ法主自身である。
3.「以信得入」によって無量の功力を
池田名誉会長が「日女御前御返事」を拝して、御本尊と信心の意義を説き明かす。
◇
大聖人は「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」と仰せです。
成仏の根本の軌道こそ「信心の二字」です。智慧第一の舎利弗でさえ、「信」によって法華経の極理に入ったのです。それが「以信得入」です。
末法の凡夫は、仏の大境涯を直ちに顕された御本尊を拝する時、より深く、より強き信によって、元初の晴れ晴れとした御本尊の世界に入ることができるのです。
大聖人は「観心の本尊」と仰せです。観心すなわち己心の仏界を観じ、覚知するための御本尊です。しかし、その観心とは、いわゆる観念観法の修業ではありません。どこまでも「信心」が根本となります。ゆえに、「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」と仰せなのであり、「観心の本尊」とは「信心の本尊」なのです。
強盛な信心があるところ、その生命に御本尊は湧現されます。反対に、信心がなければ、どんなに御本尊を持っていても功徳はない。信心によって「功徳聚」たる御本尊が胸中に顕れるのです。したがって、わが信心が壊れない限り、功徳聚もなくなることがないのです。もし、万が一、事故や災害等で御本尊を失っても、信心さえあれば、胸中の御本尊は常住です。また、いくらでも功力を現し起こしていくことができるのです。
御本尊の功徳力は、私たちが信心を起こした時にはじめて現れます。まさに、御本尊は、私たちの「信心の二字」に納まっているのです。
(「大白蓮華」2011年12月号)
4.「唯一無二」の姿勢が根本
前出の講義の続きである。
◇
「日蓮が弟子檀那等」と、日女御前も含めた一切の弟子門下に仰せです。
あなたがたは皆「正直に方便を捨てて」「余経の一偈をも受けず」との経文の通りに、唯一無二の信心を貫いているので、この御本尊の宝搭に入ることは間違いないのです。
御本尊は、妙法の光に照らされた元初の世界を顕した唯一無二の法そのものであり、御本尊への信こそが、わが生命を九識心王真如の都と荘厳するための唯一の道なのです。
ゆえに「唯一無二」の姿勢で御本尊を拝する「信心」でなければなりません。
その唯一無二の信心があれば、今生においては、その信の中に御本尊がそなわり、わが生命に御本尊がそなわり、わが生命に御本尊の妙用が顕現するのです。そして後世においては「御本尊の宝搭の中に入る」と仰せのように、大宇宙の仏界である虚空会の宝搭の中に入ることができ「後生をたしなみ給うべし」と仰せのように、死後も仏界を大いに楽しむことができるのです。まさに現当二世の大いなる功徳を示された御文と拝せられます。
無二の信心によって「生も歓喜、死も歓喜」の生死不二の絶対的幸福境涯を成就できる。ゆえに「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり」と仰せです。仏道修行の根本目的は、御本尊に南無妙法蓮華経の題目を唱え、凡夫の身がそのままに「仏になる」ことです。そして、重ねて即身成仏の要諦を「信心の厚薄によるべきである」と、示されています。
他の御書でも「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」(一二六二㌻)あなたの願いが叶うか叶わないかは、あなたの信心によるのです。全く日蓮のせいではありません。と仰せです。
どこまでも、私たちの自身の強い信力・行力に御本尊の仏力・法力が相応して、功徳が厳然と現れるのです。根本は信心であり、その燃え上がる信心をエンジンとしての行動・実践です。
日寛上人は、こう述べられています。
「暫(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕(あらわ)れざるなきなり」
草創以来、多くの同志が、この一節を思い起こしては、御本尊への信心を奮い立たせてきました。わが胸中の御本尊を呼び覚まし、いかなる苦難にも絶対に負けない生命の底力を引き出してきました。〝祈りとして叶わざるなしの御本尊〟です。まさに、学会には信心があったから勝利したのです。
(同)
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №11~20
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:11」を破折する(その二) 連載17回
妄説:11 学会では「本尊は我々の胸中の肉団にある」といいますが、本当でしょうか。
創価学会のこの指導は、会員を戒壇の大御本尊から引き離すためになされているものです。
そのために学会では、『日女御前御返事』の
「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(新編 1388頁)
の御文を利用しています。
昭和五十二年路線の当時にも、学会は同様の主張をしたことがありましたが、これについて総本山第六十六世日達上人は、
「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合(きょうちみょうごう)して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」(達全 2-5-600頁)
と破折されています。
胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよいという学会の考えは、大聖人のお心に背く悩乱の説というべきです。
破折:
7.謗法に近づかず
「戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよい」のではなく、我らは御書の仰せに従って「謗法に近づいてはならない」と言うのである。
妙法比丘尼御返事(一四〇八㌻)にいわく、
「謗法と申す罪をば我れもしらず人も失とも思はず・但仏法をならへば貴しとのみ思いて候程に・此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」
曾谷殿御返事(一〇五六㌻)にいわく、
「何(いか)に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入(どっけじんにゅう)・失本心故(しっぽんしんこ)は是なり」
謗法とは、日顕・日如とその配下が犯した幾多の「大聖人への違背」「日興上人への違背」の数々のことであり、さらには歴代諸師によって積み重ねられた謗法の歴史である。この連載において、適宜明かしていく。
8.己心の仏界(1)
「胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよいという学会の考え」との、折角の〝問題提起〟である。今回は「胸中の御本尊」ないし「己心の仏界」を学んでおきたい。
日蓮大聖人が、衆生の生命に仏界が存することを、あらゆる譬喩等を駆使され、我らに覚知せしめんと為されることは、御本仏の慈悲、偉大なる智慧なのである。
法華初心成仏抄(五五七㌻)にいわく、
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ」
日女御前御返事に「胸中の肉団におはします」と仰せの箇所は、本抄では「我が己心の妙法蓮華経」「我が己心中の仏性」と述べられている。
重要な法門であるだけに、様々に説かれるのである。大聖人が、何の為に我らに御本尊を建立し下し置かれたのか、その原理を明かされておられる。
それだからこそ、宗門はこれらの御書をことさらに無視する。信者が真実を知ることを恐れるのである。
9.己心の仏界(2)
日女御前はくだんの御消息文(御本尊相貌抄)をいただいたその翌年、法華経二十八品の品々ごとに御供養したことに対して与えられた御抄(嘱累品等大意)に、次の通りの御言葉をいただいている。
日女御前御返事(嘱累品等大意・一二四九㌻)にいわく、
「此の宝塔品はいづれのところにか只今ましますらんとかんがへ候へば、日女御前の御胸の間、八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候。例せば蓮のみ(実)に蓮華の有るがごとく、后(きさき)の御腹に太子を懐妊せるがごとし。十善を持(たも)てる人、太子と生れんとして后の御腹にましませば諸天此を守護す。故に太子をば天子と号す。法華経・二十八品の文字(もんじ)、六万九千三百八十四字、一一の文字は字ごとに太子のごとし。字毎(ごと)に仏の御種子(たね)なり。闇の中に影あり、人此をみず。虚空(こくう)に鳥の飛ぶ跡(あと)あり、人此をみず。大海に魚(いお)の道あり、人これをみず、月の中に四天下(してんげ)の人物一(ひとつ)もかけず、人此をみず。而(しか)りといへども天眼(てんげん)は此をみる。
日女御前の御身の内心に宝塔品まします。凡夫は見ずといへども、釈迦・多宝・十方の諸仏は御らんあり。日蓮又此をすい(推)す。あらたうとしたうとし」
大聖人は、日女御前の胸中にこそ宝塔品が存在するのです、と己心の仏界、「仏界の内在」を説かれるのである。
次に、御本尊にかかる相承書から、生命の本質を解明する講義を読んでいく。
10.生命と本尊(その1)
「一、明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時・古僧示して言はく汝等(なんだち)が身を以つて本尊と為(な)す可(べ)し・明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり日蓮が影・今の大曼荼羅なり云云(後略)」
(『富士宗学要集』第一巻「御本尊七箇相承(しちかのそうじょう)」)
この相承書の意義を深く掘り下げるとき、我らは「人間」と「本尊」との関係に改めて気付かせられるのである。
◇
「『立宗の日』にちなみまして考えますことは、〝日蓮大聖人は、いったい何をこの世に弘めようとなされたのか〟という一点であります」
山本伸一の力強い声が響いた。大きな、根本的な問題提起であった。
金沢市の石川県産業展示館を埋め尽くした参加者は、求道心にあふれた視線を、伸一に注いだ。
一九七四年(昭和四十九年)の「立宗宣言の日」にあたる四月二十八日、伸一は、北陸広布二十周年を祝す記念総会に出席していた。その講演のなかで、彼は大聖人門下として最も重要な、このテーマに言及していったのである。
「大聖人がこの世に弘めようとされたものは、端的に申し上げれば『本尊』であります。『本尊』とは、『根本として尊敬(そんぎょう)すべきもの』です。人は、根本に迷えば、枝葉にも迷い、根本に迷いがなければ、枝葉末節の迷いも、おのずから消えていくものである。ゆえに、いちばんの根本となる『本尊』を、一切衆生に与え、弘められたのであります。
では、その『本尊』の内容とは何か」
本質にまっすぐに迫っていく伸一の講演に、参加者はぐいぐいと引き込まれていった。
「それは、『御本尊七箇相承』に『汝等(なんだち)が身を以って本尊と為す可(べ)し』(『富士宗学要集』第一巻)とある通り、あえて誤解を恐れずに申し上げれば、総じては、『人間の生命をもって本尊とせよ』ということであります」
「御本尊七箇相承」とは、日蓮大聖人から日興上人に相承された、御本尊に関する七箇の口伝(くでん)である。
「つまり、大聖人の仏法は『一切の根源は“生命”それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに“人間生命”そのものである』という哲理であり、思想なのであります」
明快な話であった。明快さは、そのまま説得力となる。
この総会には、五百人ほどの各界の来賓も出席していた。「生命をもって本尊とせよ」という話に、皆、身を乗り出した。これまでの宗教にはない、斬新(ざんしん)な哲学性を感じ取ったからである。
(「新・人間革命」第19巻「宝塔」の章)
11.生命と本尊(その2)
「師の曰はく法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり、法界即日蓮、日蓮即法界なり(後略)」
(前出「御本尊七箇相承」)
◇
山本伸一は、さらに、「御本尊七箇相承」の「法界の五大は一身の五大なり、一箇(いっか)の五大は法界の五大なり」、また、「法界即日蓮、日蓮即法界なり……」の文を引き、こう語った。
「宇宙を構成している要素である地・水・火・風・空という、同じ五大種によって、人間も構成されている。大聖人は、『宇宙法界の全要素』と『日蓮という一個の生命体の全要素』とは、全く同じものであると断言されているのであります。これは、大聖人御自身だけでなく、一切衆生にも共通することであります。
わが身(み)は即大宇宙であり、妙法の当体である。それゆえに、生命を『本尊』として、大切にするのであります。私どもは、この御指南に、『生命の尊厳』の原点を見いだすものであります」
伸一は、日蓮仏法の本尊とは、決して神秘や幻想の象徴ではなく、人間自身の生命であることを明らかにしたのである。
日蓮大聖人は、「此(こ)の御本尊全く余所(よそ)に求(もとむ)る事なかれ・只(ただ)我れ等衆生の法華経を持(たも)ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中(きょうちゅう)の肉団におはしますなり」(御書一二四四ページ)と仰せになっている。
また、法華経に説かれた宝塔について、「宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(同七九七ページ)とも言われている。
仏は、遠い彼方(かなた)の世界にいるのではない。また、人間は神の僕(しもべ)ではない。わが生命が本来、尊極無上(そんごくむじょう)の仏であり、南無妙法蓮華経の当体なのである。
ゆえに、自身の生命こそ、根本尊敬(こんぽんそんぎょう)、すなわち本尊となるのである。
そして、その自身の南無妙法蓮華経の生命を映し出し、涌現させるための「明鏡」こそが、大聖人が曼荼羅として顕された御本尊なのである。
「宇宙の法則は本来人間の中にも宿っているのだ。このことを悟る時、はじめて人間は自分の力を信ずることができる」
これはインドの大詩人タゴールの卓見である。
人間の生命を根本尊敬する日蓮仏法こそ、まさに人間尊重の宗教の究極といってよい。そして、ここにこそ、新しきヒューマニズムの源泉があるのだ。
誰もが、平和を叫ぶ。誰もが、生命の尊厳を口にする。
しかし、その尊いはずの生命が、国家の名において、イデオロギーによって、民族・宗教の違いによって、そして、人間の憎悪や嫉妬、侮蔑の心によって、いともたやすく踏みにじられ、犠牲にされてきた。
いかに生命が尊いといっても、「根本尊敬」という考えに至らなければ、生命も手段化されてしまう。
ボリビアの人間主義の大詩人フランツ・タマーヨは訴えた。
「世の中に存在するすべては、生命に奉仕するために存在する。哲学も、宗教も、芸術も、学問も、すべて、生命に奉仕し、生命に仕えるために存在するのである」
人類に必要なのは、この思想である。そして、生命が尊厳無比なることを裏付ける、確たる哲学である。
人間の生命に「仏」が具わり、〝本尊〟であると説く、この仏法の哲理こそ、生命尊厳の確固不動の基盤であり、平和思想、人間主義の根源といってよい。
その生命の哲理を、人類の共有財産として世界に伝え、平和を実現していくことこそ、自身の使命であると、伸一は決意していたのである。
彼は言葉をついだ。
「この仏法という生命の法理を原点として、あらためて人間とは何かを問い直し、新しき『人間の復権』をめざしているのが、私たちの広宣流布の大運動なのであります」
(前出「新・人間革命」)
池田名誉会長は、本尊とは人間自身の生命であることを明かし、その生命を映し出す明鏡こそ、御本尊であると結論する。
「自分を拝む」とか「御本尊無用論」などは、愚にもつかぬ迷論であり、宗門の常套文句、「唯授一人の秘伝」「御法主上人しか知り得ない御境地」などの言葉には、心に響くものは何も無く、何程の哲学も存在しない。実生活に何らの裏打ちもなく、有益な示唆となる叡智も見られない。
そのわけは、宗門の主張は御書に基づかない「架空の捏造義」であるから日蓮大聖人の御心が伝わらないのである。「坊主の権威付け」を聞かされるのみで、大聖人の不撓不屈の精神、不自借身命の信念等の、何ものをも体現してはいない。
何よりも、宗門には〝利他の心〟が無い。信徒を救済しようとの思いが無いのである。江戸時代からの檀家制度に胡坐をかき、在家から御供養を収めることを考えるだけの存在であった。それゆえに法主と言う「権威」が必要であり、大御本尊を拝謁の象徴としているのである。
次項では、元法華講員の人で、御供養収奪のために登山させられてきた体験を綴っている。
12.信徒を苦しめる登山地獄
かつて本山に参詣した小西智之さん(元神奈川・大円寺)の証言を掲載する。
◇
御本尊を〝人集めの道具〟にする宗門
日顕の居丈高な態度に愕然
私は、2004年10月に、それまで熱心に法華講員として活動していた父と共に、邪宗門と決別しました。
とりわけ、私も父も許せなかったのが、信徒の苦しみなど、まるで無視した日顕宗の登山です。
1994年の「6万登山」をはじめ、何度も父と一緒に大石寺に行きましたが、得るものは何もありませんでした。
日顕宗は、まるで聖地信仰のように、大御本尊を盾(たて)に、〝本山に来なければ功徳はない〟と言い張っていますが、まさに〝人集めの道具〟として御本尊を利用しているとしか思えません。
炎天下で酷暑の中、場外で3時間も待たされた「6万登山」など、まさに地獄そのものでした。
また、決して忘れられないのが、98年、新客殿を目玉にかき集められた時です。
その際、高額な供養を出せば日顕に会えると法華講幹部にそそのかされ、言われるがまま供養させられました。
そして、現れた日顕は、私たちを一瞥するだけで、「ご苦労さま」などの労(ねぎら)いの言葉も一切ありません。何の温かみもない居丈高な態度に愕然としました。
これまで、登山、供養、折伏と、懸命に取り組んできた父も、この時ばかりは「何であんな人が猊下なんだ? とても猊下とは思えない」と本音を吐露していました。
また、父は、皆が身を削る思いで供養した正本堂を、卑劣にも日顕が破壊したことに対して、怒りを通り越して、呆れ果てていました。
私たちはこれまで、現実に見てきたことを多くの人に語ってきました。
そんな中、2009年には、神奈川・大円寺(石黒雄宏)で、かつて講頭をしていた方を脱講に導くことができました。
これからも、日顕宗の真実を語り抜いていきたいと思います。
(「創価新報」2013年3月20日付)
(了)
妄説:11 学会では「本尊は我々の胸中の肉団にある」といいますが、本当でしょうか。
創価学会のこの指導は、会員を戒壇の大御本尊から引き離すためになされているものです。
そのために学会では、『日女御前御返事』の
「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(新編 1388頁)
の御文を利用しています。
昭和五十二年路線の当時にも、学会は同様の主張をしたことがありましたが、これについて総本山第六十六世日達上人は、
「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合(きょうちみょうごう)して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」(達全 2-5-600頁)
と破折されています。
胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよいという学会の考えは、大聖人のお心に背く悩乱の説というべきです。
破折:
7.謗法に近づかず
「戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよい」のではなく、我らは御書の仰せに従って「謗法に近づいてはならない」と言うのである。
妙法比丘尼御返事(一四〇八㌻)にいわく、
「謗法と申す罪をば我れもしらず人も失とも思はず・但仏法をならへば貴しとのみ思いて候程に・此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」
曾谷殿御返事(一〇五六㌻)にいわく、
「何(いか)に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入(どっけじんにゅう)・失本心故(しっぽんしんこ)は是なり」
謗法とは、日顕・日如とその配下が犯した幾多の「大聖人への違背」「日興上人への違背」の数々のことであり、さらには歴代諸師によって積み重ねられた謗法の歴史である。この連載において、適宜明かしていく。
8.己心の仏界(1)
「胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよいという学会の考え」との、折角の〝問題提起〟である。今回は「胸中の御本尊」ないし「己心の仏界」を学んでおきたい。
日蓮大聖人が、衆生の生命に仏界が存することを、あらゆる譬喩等を駆使され、我らに覚知せしめんと為されることは、御本仏の慈悲、偉大なる智慧なのである。
法華初心成仏抄(五五七㌻)にいわく、
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ」
日女御前御返事に「胸中の肉団におはします」と仰せの箇所は、本抄では「我が己心の妙法蓮華経」「我が己心中の仏性」と述べられている。
重要な法門であるだけに、様々に説かれるのである。大聖人が、何の為に我らに御本尊を建立し下し置かれたのか、その原理を明かされておられる。
それだからこそ、宗門はこれらの御書をことさらに無視する。信者が真実を知ることを恐れるのである。
9.己心の仏界(2)
日女御前はくだんの御消息文(御本尊相貌抄)をいただいたその翌年、法華経二十八品の品々ごとに御供養したことに対して与えられた御抄(嘱累品等大意)に、次の通りの御言葉をいただいている。
日女御前御返事(嘱累品等大意・一二四九㌻)にいわく、
「此の宝塔品はいづれのところにか只今ましますらんとかんがへ候へば、日女御前の御胸の間、八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候。例せば蓮のみ(実)に蓮華の有るがごとく、后(きさき)の御腹に太子を懐妊せるがごとし。十善を持(たも)てる人、太子と生れんとして后の御腹にましませば諸天此を守護す。故に太子をば天子と号す。法華経・二十八品の文字(もんじ)、六万九千三百八十四字、一一の文字は字ごとに太子のごとし。字毎(ごと)に仏の御種子(たね)なり。闇の中に影あり、人此をみず。虚空(こくう)に鳥の飛ぶ跡(あと)あり、人此をみず。大海に魚(いお)の道あり、人これをみず、月の中に四天下(してんげ)の人物一(ひとつ)もかけず、人此をみず。而(しか)りといへども天眼(てんげん)は此をみる。
日女御前の御身の内心に宝塔品まします。凡夫は見ずといへども、釈迦・多宝・十方の諸仏は御らんあり。日蓮又此をすい(推)す。あらたうとしたうとし」
大聖人は、日女御前の胸中にこそ宝塔品が存在するのです、と己心の仏界、「仏界の内在」を説かれるのである。
次に、御本尊にかかる相承書から、生命の本質を解明する講義を読んでいく。
10.生命と本尊(その1)
「一、明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時・古僧示して言はく汝等(なんだち)が身を以つて本尊と為(な)す可(べ)し・明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり日蓮が影・今の大曼荼羅なり云云(後略)」
(『富士宗学要集』第一巻「御本尊七箇相承(しちかのそうじょう)」)
この相承書の意義を深く掘り下げるとき、我らは「人間」と「本尊」との関係に改めて気付かせられるのである。
◇
「『立宗の日』にちなみまして考えますことは、〝日蓮大聖人は、いったい何をこの世に弘めようとなされたのか〟という一点であります」
山本伸一の力強い声が響いた。大きな、根本的な問題提起であった。
金沢市の石川県産業展示館を埋め尽くした参加者は、求道心にあふれた視線を、伸一に注いだ。
一九七四年(昭和四十九年)の「立宗宣言の日」にあたる四月二十八日、伸一は、北陸広布二十周年を祝す記念総会に出席していた。その講演のなかで、彼は大聖人門下として最も重要な、このテーマに言及していったのである。
「大聖人がこの世に弘めようとされたものは、端的に申し上げれば『本尊』であります。『本尊』とは、『根本として尊敬(そんぎょう)すべきもの』です。人は、根本に迷えば、枝葉にも迷い、根本に迷いがなければ、枝葉末節の迷いも、おのずから消えていくものである。ゆえに、いちばんの根本となる『本尊』を、一切衆生に与え、弘められたのであります。
では、その『本尊』の内容とは何か」
本質にまっすぐに迫っていく伸一の講演に、参加者はぐいぐいと引き込まれていった。
「それは、『御本尊七箇相承』に『汝等(なんだち)が身を以って本尊と為す可(べ)し』(『富士宗学要集』第一巻)とある通り、あえて誤解を恐れずに申し上げれば、総じては、『人間の生命をもって本尊とせよ』ということであります」
「御本尊七箇相承」とは、日蓮大聖人から日興上人に相承された、御本尊に関する七箇の口伝(くでん)である。
「つまり、大聖人の仏法は『一切の根源は“生命”それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに“人間生命”そのものである』という哲理であり、思想なのであります」
明快な話であった。明快さは、そのまま説得力となる。
この総会には、五百人ほどの各界の来賓も出席していた。「生命をもって本尊とせよ」という話に、皆、身を乗り出した。これまでの宗教にはない、斬新(ざんしん)な哲学性を感じ取ったからである。
(「新・人間革命」第19巻「宝塔」の章)
11.生命と本尊(その2)
「師の曰はく法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり、法界即日蓮、日蓮即法界なり(後略)」
(前出「御本尊七箇相承」)
◇
山本伸一は、さらに、「御本尊七箇相承」の「法界の五大は一身の五大なり、一箇(いっか)の五大は法界の五大なり」、また、「法界即日蓮、日蓮即法界なり……」の文を引き、こう語った。
「宇宙を構成している要素である地・水・火・風・空という、同じ五大種によって、人間も構成されている。大聖人は、『宇宙法界の全要素』と『日蓮という一個の生命体の全要素』とは、全く同じものであると断言されているのであります。これは、大聖人御自身だけでなく、一切衆生にも共通することであります。
わが身(み)は即大宇宙であり、妙法の当体である。それゆえに、生命を『本尊』として、大切にするのであります。私どもは、この御指南に、『生命の尊厳』の原点を見いだすものであります」
伸一は、日蓮仏法の本尊とは、決して神秘や幻想の象徴ではなく、人間自身の生命であることを明らかにしたのである。
日蓮大聖人は、「此(こ)の御本尊全く余所(よそ)に求(もとむ)る事なかれ・只(ただ)我れ等衆生の法華経を持(たも)ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中(きょうちゅう)の肉団におはしますなり」(御書一二四四ページ)と仰せになっている。
また、法華経に説かれた宝塔について、「宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(同七九七ページ)とも言われている。
仏は、遠い彼方(かなた)の世界にいるのではない。また、人間は神の僕(しもべ)ではない。わが生命が本来、尊極無上(そんごくむじょう)の仏であり、南無妙法蓮華経の当体なのである。
ゆえに、自身の生命こそ、根本尊敬(こんぽんそんぎょう)、すなわち本尊となるのである。
そして、その自身の南無妙法蓮華経の生命を映し出し、涌現させるための「明鏡」こそが、大聖人が曼荼羅として顕された御本尊なのである。
「宇宙の法則は本来人間の中にも宿っているのだ。このことを悟る時、はじめて人間は自分の力を信ずることができる」
これはインドの大詩人タゴールの卓見である。
人間の生命を根本尊敬する日蓮仏法こそ、まさに人間尊重の宗教の究極といってよい。そして、ここにこそ、新しきヒューマニズムの源泉があるのだ。
誰もが、平和を叫ぶ。誰もが、生命の尊厳を口にする。
しかし、その尊いはずの生命が、国家の名において、イデオロギーによって、民族・宗教の違いによって、そして、人間の憎悪や嫉妬、侮蔑の心によって、いともたやすく踏みにじられ、犠牲にされてきた。
いかに生命が尊いといっても、「根本尊敬」という考えに至らなければ、生命も手段化されてしまう。
ボリビアの人間主義の大詩人フランツ・タマーヨは訴えた。
「世の中に存在するすべては、生命に奉仕するために存在する。哲学も、宗教も、芸術も、学問も、すべて、生命に奉仕し、生命に仕えるために存在するのである」
人類に必要なのは、この思想である。そして、生命が尊厳無比なることを裏付ける、確たる哲学である。
人間の生命に「仏」が具わり、〝本尊〟であると説く、この仏法の哲理こそ、生命尊厳の確固不動の基盤であり、平和思想、人間主義の根源といってよい。
その生命の哲理を、人類の共有財産として世界に伝え、平和を実現していくことこそ、自身の使命であると、伸一は決意していたのである。
彼は言葉をついだ。
「この仏法という生命の法理を原点として、あらためて人間とは何かを問い直し、新しき『人間の復権』をめざしているのが、私たちの広宣流布の大運動なのであります」
(前出「新・人間革命」)
池田名誉会長は、本尊とは人間自身の生命であることを明かし、その生命を映し出す明鏡こそ、御本尊であると結論する。
「自分を拝む」とか「御本尊無用論」などは、愚にもつかぬ迷論であり、宗門の常套文句、「唯授一人の秘伝」「御法主上人しか知り得ない御境地」などの言葉には、心に響くものは何も無く、何程の哲学も存在しない。実生活に何らの裏打ちもなく、有益な示唆となる叡智も見られない。
そのわけは、宗門の主張は御書に基づかない「架空の捏造義」であるから日蓮大聖人の御心が伝わらないのである。「坊主の権威付け」を聞かされるのみで、大聖人の不撓不屈の精神、不自借身命の信念等の、何ものをも体現してはいない。
何よりも、宗門には〝利他の心〟が無い。信徒を救済しようとの思いが無いのである。江戸時代からの檀家制度に胡坐をかき、在家から御供養を収めることを考えるだけの存在であった。それゆえに法主と言う「権威」が必要であり、大御本尊を拝謁の象徴としているのである。
次項では、元法華講員の人で、御供養収奪のために登山させられてきた体験を綴っている。
12.信徒を苦しめる登山地獄
かつて本山に参詣した小西智之さん(元神奈川・大円寺)の証言を掲載する。
◇
御本尊を〝人集めの道具〟にする宗門
日顕の居丈高な態度に愕然
私は、2004年10月に、それまで熱心に法華講員として活動していた父と共に、邪宗門と決別しました。
とりわけ、私も父も許せなかったのが、信徒の苦しみなど、まるで無視した日顕宗の登山です。
1994年の「6万登山」をはじめ、何度も父と一緒に大石寺に行きましたが、得るものは何もありませんでした。
日顕宗は、まるで聖地信仰のように、大御本尊を盾(たて)に、〝本山に来なければ功徳はない〟と言い張っていますが、まさに〝人集めの道具〟として御本尊を利用しているとしか思えません。
炎天下で酷暑の中、場外で3時間も待たされた「6万登山」など、まさに地獄そのものでした。
また、決して忘れられないのが、98年、新客殿を目玉にかき集められた時です。
その際、高額な供養を出せば日顕に会えると法華講幹部にそそのかされ、言われるがまま供養させられました。
そして、現れた日顕は、私たちを一瞥するだけで、「ご苦労さま」などの労(ねぎら)いの言葉も一切ありません。何の温かみもない居丈高な態度に愕然としました。
これまで、登山、供養、折伏と、懸命に取り組んできた父も、この時ばかりは「何であんな人が猊下なんだ? とても猊下とは思えない」と本音を吐露していました。
また、父は、皆が身を削る思いで供養した正本堂を、卑劣にも日顕が破壊したことに対して、怒りを通り越して、呆れ果てていました。
私たちはこれまで、現実に見てきたことを多くの人に語ってきました。
そんな中、2009年には、神奈川・大円寺(石黒雄宏)で、かつて講頭をしていた方を脱講に導くことができました。
これからも、日顕宗の真実を語り抜いていきたいと思います。
(「創価新報」2013年3月20日付)
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №11~20
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:11」を破折する(その一) 連載16回
妄説:11 学会では「本尊は我々の胸中の肉団にある」といいますが、本当でしょうか。
創価学会のこの指導は、会員を戒壇の大御本尊から引き離すためになされているものです。
そのために学会では、『日女御前御返事』の
「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(新編 1388頁)
の御文を利用しています。
昭和五十二年路線の当時にも、学会は同様の主張をしたことがありましたが、これについて総本山第六十六世日達上人は、
「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合(きょうちみょうごう)して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」(達全 2-5-600頁)
と破折されています。
胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよいという学会の考えは、大聖人のお心に背く悩乱の説というべきです。
破折:
1.大御本尊と入れ代わった日顕
日女御前御返事(一二四四㌻)にいわく、
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」
この御文を拝して、「自分を拝むようになった」人が居たとしたら、驚嘆すべきである。「自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか」とは至極もっとも、そのような人は創価学会には一人としていない。宗門においても、細井管長(日達法主)の時代には居なかったはずである。
しかし細井管長の急逝後、おのれを「大御本尊と不二の尊体である」と思い込んだ不埒者が、長く宗門の猊座を汚している。
「三宝一体とは、まさに本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、その内証において、一体不二の尊体にましますということであります」
(「能化文書」平成三年九月六日付)
「もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか」との細井管長の危惧は、図らずも当たってしまったわけである。帰命依止の大御本尊を鑑定にかけて〝ニセ物〟と決めつけた日顕は、大御本尊を信じられないから自分を本尊としたのであろう。自らを大御本尊と入れ替えたのだから、日顕宗と言うのである。
2.本山の窮乏を救った登山会
「胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよいという学会の考え」とあるが、〝衆生の胸中に御本尊がある〟ことは、幾多の御書に大聖人が仰せになっている通りであり、宗門が否定しようの無いことである。だがその事実と、学会員が本山に参詣しないこととは話が違う。
そもそも大御本尊は古来より「秘仏」であらせられ、その御立場ゆえに「事の戒壇堂」への御安置の時を待たれたのである。爾来七百有余年、創価学会の衷心により建立された正本堂に御遷座されて初めて、大御本尊を拝する「正式な登山」となったのである。
ところがその正本堂が破壊された今となっても、宗門は日寛上人の言葉を楯に、大御本尊への参詣を正当化しようとする。
「志有らん人は登山して拝したまへ」(『寿量品談義』富要10-131)
しかし、当時の「お目通り」はあくまで「内拝」であり、それは特別な縁故者や信心の篤い者への〝非公式〟な参拝であった。〝お目通りしなければ成仏が叶わない〟などと日寛上人が言われたことではない。
登山会は、戦後の本山の窮状を救うために戸田会長が始めたものであった。
◇
戦後、財政的に窮乏していた本山は、その打開策として、富士宮市や観光協会と話し合い、本山の観光地化を進めていた。
そのことを知った戸田会長は、大石寺が他宗のように宗教を売り物にする観光地となることを恐れて月例登山を提案した。
そして、昭和二十七年から創価学会の月例登山が始まり、その御供養で本山は運営が賄えるようになった。
今、宗門は〝登山をしないと成仏しない〟などと言っているが、かつては登山会などなく、御開扉を受けることが出来たのは、一部の僧侶でしかなかった。
(「新改革通信」115号 平成23年10月25日)
皮肉なことに、宗門は登山会によって〝御開扉料〟と言う「旨み」を味わってしまった。僧侶による葬儀、戒名、塔婆等々、一度握った「金蔓(かねづる)」は二度と手放さない坊主の性(さが)ゆえ、宗門は「大御本尊にお目通りしなければ功徳はない」との、仏法破壊の妄言を吐く。
しかし現在の登山もまた、昔に返った「内拝」である。「正式な登山」は日顕による正本堂解体によって、その意義は永久に失われてしまった。
後はせいぜい、法華講が坊主を御供養漬けにして肥らせて差し上げるための、〝ボランティア活動〟としての意味付けが残るであろう。法華講自らはどんどん不幸になっていくばかりであり、御苦労なことである。
本山ではそのような内向きの世界に収斂されるとして、学会はその弛まぬ折伏弘教により、世界中の会員の家庭に御本尊が御安置され、会館が建造されつつある。
「正式な登山」の意義は、永遠に創価学会の歴史の中に冥伏され、会員の折伏弘教、信心透徹の姿の中に顕現しているのである。
3.殉難の信徒と御本尊
前項で、大御本尊への〝非公式〟な参拝をしなかった僧侶や信者の誰もが、「功徳のない信仰」をしたことになるのであろうか。これこそ、「大聖人のお心に背く悩乱の説」である。
また次の言葉にも、宗門の強引勝手さが横溢している。
「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合して、はじめて成仏できるのであります」(細井管長)
ならば、答えてもらいたい。次に挙げる信仰者は、上記の理由をもって「成仏が叶わない」者であるか。
① 「御本尊授与以前」の信仰者
② 「御本尊の明鏡に向かえない」信仰者
大聖人門下であった工藤吉隆は、東条景信の襲撃から大聖人をお守りし、討死した。この果敢な門下が殉教したとき、大聖人の御本尊開顕の前であって御本尊を授与されていないため、「成仏が叶わない」のか。
牧口会長、戸田理事長(当時)は軍部政府が強要した謗法を甘受しないために収監され、御本尊の無い独房の中にあって、大御本尊を念じて唱題した。牧口会長は巣鴨拘置所の病床において臨終を迎えたが、御本尊の明鏡に向かえなかったため、「成仏が叶わない」のか。
仏法守護に殉じた〝信徒の鑑(かがみ)〟は、いずれも「御本尊の明鏡」に向き合っていないが、これをいかに解くのか。「モノ本尊観」に浸った宗門にあっては答えられまい。
4.「哲理」の存在せぬ宗門
キリスト教の世界においては、キリスト降臨以前に死んだ人間は、すべて地獄に堕ちたとされた。詩人ダンテはその「神曲」地獄篇に、キリスト生誕よりはるか以前のギリシャ時代の賢人・哲人達が、地獄にある様を描いている。
しかし聖書には、人類の父祖たちが死後何処へ行ったか明確に書かれていない。ことに新約聖書はキリストの言行録であって、神への忠誠と隣人への愛を説いてはいるが、「生死を解明する哲理」を説いたものではない。よって、古来より様々な死後の世界観が説かれてきたが、今に至るまで教会による定見は出されていないし、また出しようもないのである。
日顕の宗門も、絶対の象徴としての大御本尊や、「御法主上人の権能」を強調する等、宗教上の権威ばかりを押し立てるのみで哲理が後回しとなり、答えを出せないことが数多ある。
何故、淫蕩・怠惰・放逸・粗暴・冷酷・無慈悲の〝人間として最低の者〟(日顕)が、僭称であろうともいったん猊座に登ってしまえば、〝大聖人・日興上人と同じ内証にある〟と言うのか。
宗門は「唯授一人血脈相承の御法主上人であられるから」「他の者がとやかく疑難をさしはさむべきではありません」等と、判で押したような回答しかできないが、それ自体が「空想の産物」「有名無実の神話」であるから、彼らはそこで思考停止となり、同じ言葉を繰り返す鸚鵡(おうむ)と変化するのである。
5.法・報・応の三身
宗門からの答えを待つまでも無い。「『妄説:9』を破折する(その二)連載14回」において「大御本尊の三諦」を論じたが、我らの理解のために「仏の三身」に置き換えて考察したい。
それは「人即法に約して正しく本尊の相貌(そうみょう)を明かす」(文段集五〇二㌻)「究(きわ)めてその体を論ずれば人法体一なり」(同㌻)として究極的には、本門の本尊は人法体一であると結論されるからである。
「衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり」(『三世諸仏総勘文教相廃立』五七三㌻)
三諦は三身、すなわち法身(中諦)、報身(空諦)、応身(仮諦)となるのである。
◇
法身、報身、応身という三身即一身の読み方は、なにを意味するのかといいますと、法身というのは、仏としての条件をもっている根本の生命をいうのであります。報身というのは、仏の智慧をわれわれ民衆に授けられる、その智慧身をいうのであります。その仏が末法に日蓮大聖人と現れた姿を応身というのであります。
(「方便品寿量品講義」戸田城聖著)
すなわち大聖人は法身(真理)・報身(智慧)・応身(慈悲)の三身を具える久遠元初自受用身如来であらせられる。
大聖人は貞応元年二月十六日御生誕、爾来弘安五年十月十三日御入滅に至るまで、衆生救済の慈悲を余すところ無く及ぼされた。応現された期間たるや、わずか〝六十年の御化導〟であられたが、〝永遠不滅の指南書〟たる「御書」を遺された。
上記を三身に分けて論ずれば、大聖人は永遠の真理を体得され(法身)、その偉大な智慧を諸御抄に顕わされ(報身)、立正安国のための国家諫暁等、あらゆる御振舞いに及ばれた(応身)のである。
しかし三身とは、その御在世の間のみを言うものではない。大聖人が御入滅になって、その応身の体こそ寂滅に帰しても、「仏としての条件をもっている根本の生命」、すなわち大聖人の法身の体は「九識心王」(日女御前御返事 一二四四㌻)と仰せの通り、生死を超えて厳然とそなわるのである。
それを否定しようと躍起になるのが宗門である。
「御入滅あそばされた大聖人への直結を言い出したら、これはまさに大謗法であり、地獄に堕ちる」
「御法主上人は、生きておられる現実の本師であります」
日顕宗にあっては、大聖人が永遠の師匠であっては困るのであり、大聖人を様々に下して厭うことがない。
しかし大聖人の報身(智慧身)たるや、すべて末法の衆生に遺された「御書」として永遠に顕現され、今もって不滅の真理を御指導になっている。日顕宗の邪義などに毫も犯されるものではない。
曾谷殿御返事(一〇五五㌻)にいわく、
「根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし」
「根源の師」であらせられる大聖人を忘れさせようと謀り、生身の法主を「現実の本師」と呼んで心を移させる宗門には、大御本尊の御功徳が具わるわけがなく、「輪廻生死のわざはい」たる厳しい因果律の果報が待ち受ける。
我らは益々、大聖人直結の信心に邁進していくものである。
6.三身即一身
さて「御本尊」即「大聖人」とあれば、御本尊も三身を具えることは勿論である。
「其の墨質を尊んで本尊となすにあらず其の字體を崇めて本尊となすにあらず尊む所は只だ其の正意のみ崇むる所は只だ其眞理のみ」(『弁惑観心抄』日応著)
大聖人が示同凡夫の御姿で末法に御出現されたように、御本尊は「墨質」「字體」をもって我らの前に出現される。これは「応身」の御姿である。
我らが御本尊を拝して唱題するとき、我らは何と拝するか。目に入るは妙法五字と御名であり、すなわち「墨質」「字體」である。ただし我らが信じ拝するべきは、御本仏の「正意」であり「眞理」である、と明らかにしたのが前出の著作である。
御本尊の「正意」「眞理」とは、戸田会長の説いた「中道法相」の義にある通り、御本尊に「厳然として永遠にそなわっている」のであり、すなわち「法身」(中諦)である。「中道一実の妙体」と御書にある通り、「中道法性」の御本尊である。
法即人の御本尊は仏と同体であれば、三身(三諦)を兼ね備える。つまり応身(仮諦)として妙法曼荼羅に建立された御姿であり、報身(空諦)としての仏の智慧は御書の文字と顕われ、同時に永遠の真理としての法身(中諦)を具える。しかるに「三身即一身」で一体なのである。この意義が「円融の三諦」である。
もし「墨質を尊んで」「字體を崇めて」、御本尊の応身の体にこだわりを持つならば、それは「隔別(きゃくべつ)の三諦」であり、「円満の理」を闕(か)くことになって、成仏の理も無いこととなる。
御本尊はその「正意」「眞理」として、久遠不滅の体であらせられる。眼前に御本尊が御座さずとも、地涌の菩薩としての唱題は、必ず「正意」「眞理」を体とする御本尊に達するのである。
再説すれば、「御本尊授与以前」に大聖人をお守りして討死した工藤吉隆も、また「御本尊が眼前に無い」状況下に置かれた牧口会長、戸田理事長も、地涌の菩薩、法華経の行者の振舞における唱題は、「正意」「眞理」としての御本尊を拝したものであり、正しく〝合掌向仏〟の姿にあったのである。
宗門が「大御本尊に参詣しなければ、一切の功徳は生じない」とすることは、御本尊の応身の体にのみこだわりを持つものであり、これこそ日応の誡めに反している。
宗門の言い草は「モノ本尊観」に陥ったものであるが、それは〝信仰〟からではなく、「寺院経営」のための御供養収奪と言う、ごく〝実用的な動機〟によるのであり、どこまでも強欲な坊主どもの〝在家支配の奸計〟なのである。
宗門の主張は御本尊の真実義を覆い隠す、大誑惑の妄言である。日顕、日如は大御本尊の御威光を損なう〝不逞の輩〟と言わねばならない。
(続く)
妄説:11 学会では「本尊は我々の胸中の肉団にある」といいますが、本当でしょうか。
創価学会のこの指導は、会員を戒壇の大御本尊から引き離すためになされているものです。
そのために学会では、『日女御前御返事』の
「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(新編 1388頁)
の御文を利用しています。
昭和五十二年路線の当時にも、学会は同様の主張をしたことがありましたが、これについて総本山第六十六世日達上人は、
「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合(きょうちみょうごう)して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」(達全 2-5-600頁)
と破折されています。
胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよいという学会の考えは、大聖人のお心に背く悩乱の説というべきです。
破折:
1.大御本尊と入れ代わった日顕
日女御前御返事(一二四四㌻)にいわく、
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」
この御文を拝して、「自分を拝むようになった」人が居たとしたら、驚嘆すべきである。「自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか」とは至極もっとも、そのような人は創価学会には一人としていない。宗門においても、細井管長(日達法主)の時代には居なかったはずである。
しかし細井管長の急逝後、おのれを「大御本尊と不二の尊体である」と思い込んだ不埒者が、長く宗門の猊座を汚している。
「三宝一体とは、まさに本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、その内証において、一体不二の尊体にましますということであります」
(「能化文書」平成三年九月六日付)
「もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか」との細井管長の危惧は、図らずも当たってしまったわけである。帰命依止の大御本尊を鑑定にかけて〝ニセ物〟と決めつけた日顕は、大御本尊を信じられないから自分を本尊としたのであろう。自らを大御本尊と入れ替えたのだから、日顕宗と言うのである。
2.本山の窮乏を救った登山会
「胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよいという学会の考え」とあるが、〝衆生の胸中に御本尊がある〟ことは、幾多の御書に大聖人が仰せになっている通りであり、宗門が否定しようの無いことである。だがその事実と、学会員が本山に参詣しないこととは話が違う。
そもそも大御本尊は古来より「秘仏」であらせられ、その御立場ゆえに「事の戒壇堂」への御安置の時を待たれたのである。爾来七百有余年、創価学会の衷心により建立された正本堂に御遷座されて初めて、大御本尊を拝する「正式な登山」となったのである。
ところがその正本堂が破壊された今となっても、宗門は日寛上人の言葉を楯に、大御本尊への参詣を正当化しようとする。
「志有らん人は登山して拝したまへ」(『寿量品談義』富要10-131)
しかし、当時の「お目通り」はあくまで「内拝」であり、それは特別な縁故者や信心の篤い者への〝非公式〟な参拝であった。〝お目通りしなければ成仏が叶わない〟などと日寛上人が言われたことではない。
登山会は、戦後の本山の窮状を救うために戸田会長が始めたものであった。
◇
戦後、財政的に窮乏していた本山は、その打開策として、富士宮市や観光協会と話し合い、本山の観光地化を進めていた。
そのことを知った戸田会長は、大石寺が他宗のように宗教を売り物にする観光地となることを恐れて月例登山を提案した。
そして、昭和二十七年から創価学会の月例登山が始まり、その御供養で本山は運営が賄えるようになった。
今、宗門は〝登山をしないと成仏しない〟などと言っているが、かつては登山会などなく、御開扉を受けることが出来たのは、一部の僧侶でしかなかった。
(「新改革通信」115号 平成23年10月25日)
皮肉なことに、宗門は登山会によって〝御開扉料〟と言う「旨み」を味わってしまった。僧侶による葬儀、戒名、塔婆等々、一度握った「金蔓(かねづる)」は二度と手放さない坊主の性(さが)ゆえ、宗門は「大御本尊にお目通りしなければ功徳はない」との、仏法破壊の妄言を吐く。
しかし現在の登山もまた、昔に返った「内拝」である。「正式な登山」は日顕による正本堂解体によって、その意義は永久に失われてしまった。
後はせいぜい、法華講が坊主を御供養漬けにして肥らせて差し上げるための、〝ボランティア活動〟としての意味付けが残るであろう。法華講自らはどんどん不幸になっていくばかりであり、御苦労なことである。
本山ではそのような内向きの世界に収斂されるとして、学会はその弛まぬ折伏弘教により、世界中の会員の家庭に御本尊が御安置され、会館が建造されつつある。
「正式な登山」の意義は、永遠に創価学会の歴史の中に冥伏され、会員の折伏弘教、信心透徹の姿の中に顕現しているのである。
3.殉難の信徒と御本尊
前項で、大御本尊への〝非公式〟な参拝をしなかった僧侶や信者の誰もが、「功徳のない信仰」をしたことになるのであろうか。これこそ、「大聖人のお心に背く悩乱の説」である。
また次の言葉にも、宗門の強引勝手さが横溢している。
「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合して、はじめて成仏できるのであります」(細井管長)
ならば、答えてもらいたい。次に挙げる信仰者は、上記の理由をもって「成仏が叶わない」者であるか。
① 「御本尊授与以前」の信仰者
② 「御本尊の明鏡に向かえない」信仰者
大聖人門下であった工藤吉隆は、東条景信の襲撃から大聖人をお守りし、討死した。この果敢な門下が殉教したとき、大聖人の御本尊開顕の前であって御本尊を授与されていないため、「成仏が叶わない」のか。
牧口会長、戸田理事長(当時)は軍部政府が強要した謗法を甘受しないために収監され、御本尊の無い独房の中にあって、大御本尊を念じて唱題した。牧口会長は巣鴨拘置所の病床において臨終を迎えたが、御本尊の明鏡に向かえなかったため、「成仏が叶わない」のか。
仏法守護に殉じた〝信徒の鑑(かがみ)〟は、いずれも「御本尊の明鏡」に向き合っていないが、これをいかに解くのか。「モノ本尊観」に浸った宗門にあっては答えられまい。
4.「哲理」の存在せぬ宗門
キリスト教の世界においては、キリスト降臨以前に死んだ人間は、すべて地獄に堕ちたとされた。詩人ダンテはその「神曲」地獄篇に、キリスト生誕よりはるか以前のギリシャ時代の賢人・哲人達が、地獄にある様を描いている。
しかし聖書には、人類の父祖たちが死後何処へ行ったか明確に書かれていない。ことに新約聖書はキリストの言行録であって、神への忠誠と隣人への愛を説いてはいるが、「生死を解明する哲理」を説いたものではない。よって、古来より様々な死後の世界観が説かれてきたが、今に至るまで教会による定見は出されていないし、また出しようもないのである。
日顕の宗門も、絶対の象徴としての大御本尊や、「御法主上人の権能」を強調する等、宗教上の権威ばかりを押し立てるのみで哲理が後回しとなり、答えを出せないことが数多ある。
何故、淫蕩・怠惰・放逸・粗暴・冷酷・無慈悲の〝人間として最低の者〟(日顕)が、僭称であろうともいったん猊座に登ってしまえば、〝大聖人・日興上人と同じ内証にある〟と言うのか。
宗門は「唯授一人血脈相承の御法主上人であられるから」「他の者がとやかく疑難をさしはさむべきではありません」等と、判で押したような回答しかできないが、それ自体が「空想の産物」「有名無実の神話」であるから、彼らはそこで思考停止となり、同じ言葉を繰り返す鸚鵡(おうむ)と変化するのである。
5.法・報・応の三身
宗門からの答えを待つまでも無い。「『妄説:9』を破折する(その二)連載14回」において「大御本尊の三諦」を論じたが、我らの理解のために「仏の三身」に置き換えて考察したい。
それは「人即法に約して正しく本尊の相貌(そうみょう)を明かす」(文段集五〇二㌻)「究(きわ)めてその体を論ずれば人法体一なり」(同㌻)として究極的には、本門の本尊は人法体一であると結論されるからである。
「衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり」(『三世諸仏総勘文教相廃立』五七三㌻)
三諦は三身、すなわち法身(中諦)、報身(空諦)、応身(仮諦)となるのである。
◇
法身、報身、応身という三身即一身の読み方は、なにを意味するのかといいますと、法身というのは、仏としての条件をもっている根本の生命をいうのであります。報身というのは、仏の智慧をわれわれ民衆に授けられる、その智慧身をいうのであります。その仏が末法に日蓮大聖人と現れた姿を応身というのであります。
(「方便品寿量品講義」戸田城聖著)
すなわち大聖人は法身(真理)・報身(智慧)・応身(慈悲)の三身を具える久遠元初自受用身如来であらせられる。
大聖人は貞応元年二月十六日御生誕、爾来弘安五年十月十三日御入滅に至るまで、衆生救済の慈悲を余すところ無く及ぼされた。応現された期間たるや、わずか〝六十年の御化導〟であられたが、〝永遠不滅の指南書〟たる「御書」を遺された。
上記を三身に分けて論ずれば、大聖人は永遠の真理を体得され(法身)、その偉大な智慧を諸御抄に顕わされ(報身)、立正安国のための国家諫暁等、あらゆる御振舞いに及ばれた(応身)のである。
しかし三身とは、その御在世の間のみを言うものではない。大聖人が御入滅になって、その応身の体こそ寂滅に帰しても、「仏としての条件をもっている根本の生命」、すなわち大聖人の法身の体は「九識心王」(日女御前御返事 一二四四㌻)と仰せの通り、生死を超えて厳然とそなわるのである。
それを否定しようと躍起になるのが宗門である。
「御入滅あそばされた大聖人への直結を言い出したら、これはまさに大謗法であり、地獄に堕ちる」
「御法主上人は、生きておられる現実の本師であります」
日顕宗にあっては、大聖人が永遠の師匠であっては困るのであり、大聖人を様々に下して厭うことがない。
しかし大聖人の報身(智慧身)たるや、すべて末法の衆生に遺された「御書」として永遠に顕現され、今もって不滅の真理を御指導になっている。日顕宗の邪義などに毫も犯されるものではない。
曾谷殿御返事(一〇五五㌻)にいわく、
「根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし」
「根源の師」であらせられる大聖人を忘れさせようと謀り、生身の法主を「現実の本師」と呼んで心を移させる宗門には、大御本尊の御功徳が具わるわけがなく、「輪廻生死のわざはい」たる厳しい因果律の果報が待ち受ける。
我らは益々、大聖人直結の信心に邁進していくものである。
6.三身即一身
さて「御本尊」即「大聖人」とあれば、御本尊も三身を具えることは勿論である。
「其の墨質を尊んで本尊となすにあらず其の字體を崇めて本尊となすにあらず尊む所は只だ其の正意のみ崇むる所は只だ其眞理のみ」(『弁惑観心抄』日応著)
大聖人が示同凡夫の御姿で末法に御出現されたように、御本尊は「墨質」「字體」をもって我らの前に出現される。これは「応身」の御姿である。
我らが御本尊を拝して唱題するとき、我らは何と拝するか。目に入るは妙法五字と御名であり、すなわち「墨質」「字體」である。ただし我らが信じ拝するべきは、御本仏の「正意」であり「眞理」である、と明らかにしたのが前出の著作である。
御本尊の「正意」「眞理」とは、戸田会長の説いた「中道法相」の義にある通り、御本尊に「厳然として永遠にそなわっている」のであり、すなわち「法身」(中諦)である。「中道一実の妙体」と御書にある通り、「中道法性」の御本尊である。
法即人の御本尊は仏と同体であれば、三身(三諦)を兼ね備える。つまり応身(仮諦)として妙法曼荼羅に建立された御姿であり、報身(空諦)としての仏の智慧は御書の文字と顕われ、同時に永遠の真理としての法身(中諦)を具える。しかるに「三身即一身」で一体なのである。この意義が「円融の三諦」である。
もし「墨質を尊んで」「字體を崇めて」、御本尊の応身の体にこだわりを持つならば、それは「隔別(きゃくべつ)の三諦」であり、「円満の理」を闕(か)くことになって、成仏の理も無いこととなる。
御本尊はその「正意」「眞理」として、久遠不滅の体であらせられる。眼前に御本尊が御座さずとも、地涌の菩薩としての唱題は、必ず「正意」「眞理」を体とする御本尊に達するのである。
再説すれば、「御本尊授与以前」に大聖人をお守りして討死した工藤吉隆も、また「御本尊が眼前に無い」状況下に置かれた牧口会長、戸田理事長も、地涌の菩薩、法華経の行者の振舞における唱題は、「正意」「眞理」としての御本尊を拝したものであり、正しく〝合掌向仏〟の姿にあったのである。
宗門が「大御本尊に参詣しなければ、一切の功徳は生じない」とすることは、御本尊の応身の体にのみこだわりを持つものであり、これこそ日応の誡めに反している。
宗門の言い草は「モノ本尊観」に陥ったものであるが、それは〝信仰〟からではなく、「寺院経営」のための御供養収奪と言う、ごく〝実用的な動機〟によるのであり、どこまでも強欲な坊主どもの〝在家支配の奸計〟なのである。
宗門の主張は御本尊の真実義を覆い隠す、大誑惑の妄言である。日顕、日如は大御本尊の御威光を損なう〝不逞の輩〟と言わねばならない。
(続く)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №11~20
プロフィール
Author:墨田ツリー
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
- 2014/06 (9)
- 2014/05 (31)
- 2014/04 (28)
- 2014/03 (29)
- 2014/02 (28)
- 2014/01 (29)
- 2013/12 (27)
- 2013/11 (27)
- 2013/10 (6)
- 2013/09 (32)
- 2013/08 (23)
- 2013/07 (21)
- 2013/06 (22)
- 2013/05 (26)
- 2013/04 (20)
- 2012/09 (13)
- 2012/08 (10)
- 2012/07 (15)
- 2012/06 (15)
- 2012/05 (14)
- 2012/04 (11)
- 2012/03 (16)
- 2012/02 (4)
- 2011/12 (14)
- 2011/11 (2)
- 2011/10 (16)
- 2011/09 (17)
- 2011/08 (7)
- 2011/07 (13)