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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:2」を破折する 連載5回

妄説:2 日蓮大聖人はなぜ御本尊を顕わされたのですか。

 日蓮大聖人は、末法のすべての民衆を救済するために御本尊を顕わされました。
『観心本尊抄』に
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頸(くび)に懸(か)けさしめたまふ」(新編 662頁)
と仰せです。
 日蓮大聖人は、末法の時代に出現され、御本仏としての化導のうえから、末法適時の大法を弘められ、全世界の民衆に即身成仏の大利益を得せしめんがために、「本門戒壇の大御本尊」を顕わされました。
 日寛上人は、『文底秘沈抄』に
「本尊とは所縁の境なり」(聖典 833頁)
と示され、妙楽大師の「正境に縁すれば功徳猶(な)お多し、若し正境に非ざれば縦(たと)い偽妄(ぎもう)無けれども亦種と成らず」の文を引用して、正境すなわち正しい本尊によってのみ、一切衆生は成仏できると指南されています。
『報恩抄』に
「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(新編 1036頁)
と仰せのように、御本仏日蓮大聖人の広大な慈悲が御本尊として顕わされ、一切衆生の成仏道が開かれたのです。

破折:
1.学会授与の〝破邪顕正の御本尊〟

 御本尊の法義を正しく伝えるべき歴代上人のうちでも、法脈を汚す者は歴代から「除歴」されねばならない。すなわち、大聖人・日興上人の法義に違背した者と、相承を詐称した者とである。「正しい本尊」とは、それに該当しない場合の御本尊である。
 学会授与の日寛上人御書写の御本尊は、正しい御本尊のうち、格別に意義の深い御本尊である。
               ◇
 この度、授与される御本尊は、広宣流布を深く願い、「大聖人直結」「御本尊根本」の正道を貫かれた日寛上人が、享保五年(一七二〇年)に書写され、淨圓寺に授与された御本尊である。
 かつて草創期においても、会員は日寛上人の御形木御本尊を拝していた。まさに世界広宣流布が大きく開かれた今この時に、創価学会が日寛上人の御本尊を会員に授与するようになったのは、不思議な縁と言うほかない。
 もとより、日蓮大聖人の仏法にあっては、一心に本尊を信じ奉り自行化他にわたって題目を唱える受持信行の人にこそ、本尊の無量の功徳が具わるのである。今後も、この信心をいやまして高め、更に世界広宣流布へ邁進しゆくことを誓い合いたい。
(秋谷会長講演 於:第七十回本部幹部会 平成五年九月七日)
               ◇
「『大聖人直結』『御本尊根本』の正道を貫かれた日寛上人」とあるのは、宗史において燦たる事跡を遺されたことを讃えたものである。遡って十二世日鎮(にっちん)の代に、要法寺系の他門僧・左京日教が〝法主本尊〟の邪義を宗内に流入せしめたが、日寛上人はこれを一切寄せ付けず、大聖人の正義のみを抽出して、法義の根幹の書たる〝六巻抄〟を著された。
 学会授与の日寛上人の御本尊は、その意味で〝破邪顕正の御本尊〟である。すなわち、〝ニセ法主〟日顕・日如らによって、かつての〝法主本尊〟の邪義が新たに糊塗されて台頭したときに、これを粉砕すべく御形木御本尊として現世に涌出された、正師御書写の御本尊である。
 ゆえに学会授与の日寛上人の御本尊は、〝ニセ法主〟の邪義を駆逐すべく現出された「正しい本尊」なのである。

2.「正しい本尊」ではないもの

「正しい歴代上人」の書写でなければ「正しい本尊」とはならない。

(1)「歴代上人のうち日興上人の法義に違背した者」

 まず、歴代上人の法脈を記した書面を収納する「相承箱」について知っておきたい。
               ◇
「相承箱」ーー。約四十五センチ(一尺五寸)四方の立方体で、黒塗りの手垢がついた木製の箱。普段は上に錦の布がかけられている。
 古来、この箱は代々の法主によって受け継がれ、日達上人の時代には、御宝蔵の中にある鍵付きの戸棚に大切に保管されていた。鍵は執事が持っており、法主の命令がなければ絶対に開けることができなかった。いわば、この箱を所持していることが、相承を受けた法主であることの何よりの「物証」だったのである。
 ところが、この大切な相承箱が、今現在、本来あるべき日顕の手元にないというのだ。
 この相承箱の行方については、日達上人が危篤に陥ってからというもの、内々ではその所在が焦点となっていた。
 病院から日達上人危篤の知らせをはじめに受けた吉田義誠(日勇)は、すぐさま大石寺理事の野村慈尊に命じて御宝蔵で相承箱を探させた。ところが、いくら探しても見つからなかったという。
(「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
               ◇
 この相承箱の中身について、堀日亨上人は生前、「百六箇抄、本因妙抄と、この両書に関するもの。あとは授受の代々の法主が伝える一枚の紙切れ」と明かされている。「紙切れ」とは、いかにも堀上人らしい表現だが、「誰が誰に相承した」という系譜図のようなものといわれている。(中略)
 また、この系譜図のような「紙切れ」について、堀上人は「精師は(歴代から)抜いてある」と語られている。
 つまり、江戸時代に「造仏読誦」の邪説を唱えた十七世の日精上人は歴代から削除、「除歴」されているというのだ。
 大石寺は江戸時代の十五世・日昌上人から二十三世・日啓上人までの九代、約百年間にわたって、京都・要法寺から法主となる人間をスカウトしたため、要法寺系の邪義が流れ込んだ。中でも「造仏読誦」の邪説を唱えた日精上人について、堀上人はことのほか厳しく、「殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破壊せる……」「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」(『富士宗学要集』)と、明確に批判している。
(同)
               ◇
 五十九世堀日亨法主が「精師は(歴代から)抜いてある」、十七世日精は「除歴」していると明言した以上、「正しい歴代上人」とは認められない。よって、日精書写の御本尊は「正しい本尊」となりえない。

(2)「歴代上人のうち相承を詐称した者」

 これは、相承の事実が無いのに「相承を受けた」との妄語により、管長に就任した法主のことである。前述の亨師が指摘した言葉に対し、脛に傷を持つ人間が反発して喚いている。
               ◇
 ところがこれに対して日顕は、「堀上人が、ちょっと訳の分からないようなことをおっしゃっている」「堀日亨上人は非常に大学者ではあったけど、日精上人のことについては、正しくご覧になっていないという感がある」などと、堀上人を批判し、日精上人を擁護する発言を繰り返し行ってきた。
 日精上人の「除歴」については、箱が手元にない日顕には確認しようのないことだが、それだけに日顕自身も相当気にしていたようである。
 昨年一月三十一日、自ら訴えたシアトル裁判において、一審の全面敗訴に続き、控訴審でも訴え自体を取り下げるという屈辱的な敗北を喫した日顕だが、勝ち負けはともあれ裁判が終わってホッとしたのだろう。取り下げ直後の法華講幹部との目通りの席で、安堵の吐息とともに、
「これでワシも精師のように言われなくて済む」
 と胸をなでおろしていたという。
「除歴」にビクビクしていた六十七世法主・阿部日顕。その原因は、何もシアトルだけではあるまい。さらに深いところに、「法主詐称」という嘘と陰謀で猊座を盗み取ったことに対する、抜きがたい後ろめたさがあるのだ。
 かつて日顕が周囲の人間にポロッと漏らしたことがある。
「ある理由があって、ワシは死ぬまで猊座にあり続けることになる」
 ある理由-。それは日顕が先師・日達上人から相承を受けずに登座したことにほかならない。相承もなければ、相承箱もない。つまり日顕は、「次」に相承しようにも、相承するものを何も所持していないのである。これ、嘘で登座した日顕の末路、何という哀れな姿であろうか。
(前出「法主詐称」)
               ◇
 日顕はこの記事に反発したのであろうか、上記の記事が出版された二年後の二〇〇五年(平成十七年)十二月十五日、代替わりを行ない、日如が大石寺第六十八世法主として登座した。〝相承箱の無い相承〟は、ニセ法主に相応しい。

3.〝相承箱〟と〝系譜図〟

 何しろ宗内を欺いて猊座に登った日顕にとって、相承箱の行方は自分にとっての死活問題である。というのも、正式な相承の場合は、宗内にも発表してから儀式を行い、重役なり総監なりきちんと立会人をたて、警護役も用意する。だから、万が一、相承箱がその場になくても、相承があったことは証明できる。ところが日顕の場合、日達上人からの相承は、こうした正式、公のものではなく、「内付」であったと主張している。ならば、なおさらのこと、日達上人からの相承を裏付ける相承箱の存在が不可欠なのだ。
(前出「法主詐称」)
               ◇
 相承箱が消えたということは、宗門の〝法脈が絶えた〟ことを象徴する。もし相承箱が発見されたとしても、いったいその中に「一枚の紙切れ」があるのかどうか。その「系譜図のような」紙には、先師、細井管長(日達法主)の署名の次に、日顕の名が記されていなければならない。ただし正確に言えば、その名は「日顕」ではない、日顕が元から授かっていた日号は「阿部日慈」である。
               ◇
 当時を知る関係者は、次の通り語る。
「日達上人の仮通夜が終わった後、翌日付の『聖教新聞』で発表するために、日号を聞きに、日顕の宿坊だった学寮に行った時のことです。日顕は『実は困っちゃってね。私の日号は法道院さんと同じ日慈なんですよ』と言うんです。しかし、『今晩中に分からないと、新聞発表に間に合わない』と伝えると、『よわったなあ、法道院さんは今、東京に向かっている道中で連絡が取れない』と言うのです。日顕が『ともかく、もう少し待ってください』と言うので、ひとまずその場は辞したのです」
「間もなく日付が変わろうという午前零時前になって、学寮で日顕の側にいた八木信瑩から電話が入りました。『決まりました。日号は日顕です。父親が日開なので、ご自分は日顕にしました』との話でした」
(同)
               ◇
 しかし、これもおかしな話である。自分の日号が早瀬と同じ「日慈」であることなど、とっくの昔に分かっていたはずである。もしも本当に日顕が相承を受けていたなら、相承箱には「阿部信雄」ないしは、「阿部日慈に相承する」という趣旨の書き付けがあるはずだ。早瀬と同じであっても「阿部日慈」と明記されていれば何の問題もない。日達上人から相承を受けた「阿部日慈」として堂々と登座し、早瀬の日号を変えれば済む話なのである。
 よしんば早瀬に遠慮して日号を変えるにしても、それは日達上人の生前に行っておくべきことで、それも本来は相承を受けた時点で日達上人と相談のうえで変更するのが筋であろう。いよいよ自分が登座する段になって、慌てて先師から授かった日号を捨てて、父・日開との「開顕」の語呂合わせで日顕と名乗る。こんな先師否定、先師違背の大冒涜も珍しい。まさに慢心の極みで、そこには師資相承を授かるという厳粛さも謙虚さも、微塵もない。
 この日号改変の慌ただしさは、日顕に相承がなかったことを何より雄弁に物語っている。当然、相承箱には、阿部日顕の名前は影も形もないに違いない。
(同)
               ◇
 すなわち日顕は「ニセの上人」であり、日顕書写の御本尊は「正しい本尊」となりえないのである。
「ニセの上人」日顕から相承した者は、同じく「ニセの上人」である。今後宗門では、日顕と日如の二人とも「除歴」しなければ、永久に「ニセ法主」が続いていく。
 事実上、宗門の正しい法脈は途絶したのであるから、大聖人の御遺命を実現するのは、御書を身読する創価学会しかない。
 学会が授与する「正しい本尊」は、「正しい歴代上人」であらせられる日寛上人御書写の御本尊であり、大聖人の仏法は、学会授与の御本尊に厳然と伝えられているのである。
 日顕・日如が書写した本尊は、法脈が途絶しているため、大御本尊の正意が顕われない。「ニセ法主」書写の本尊が「ニセ本尊」であることは、誰も否定できないことである。
                           (了)

日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:1」を破折する(その四)連載4回

妄説:1 日蓮正宗の正しい本尊について教えてください。

 日蓮正宗の正しい本尊は、『日蓮正宗宗規』第三条に「本宗は、宗祖所顕の本門戒壇の大漫荼羅を帰命依止(きみょうえし)の本尊とする」と、明確に定められている「本門戒壇の大御本尊」です。
 この大御本尊は、宗祖日蓮大聖人が『聖人御難事』に
「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年大歳己卯なり、仏は四十余年(中略)余は二十七年なり」(新編 1396頁)と仰せのように、御本仏の出世の本懐(ほんがい)として顕わされました。
 日興上人の『日興跡条々事』に
「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊は、日目に之れを相伝す」(新編 1883頁)
と仰せのように、この大御本尊は、日興上人、日目上人と唯授一人血脈付法の御歴代上人によって相伝されています。
 日寛上人は
「就中(なかんずく)、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり」(富要 4-221頁)と説かれ、弘安二年十月十二日に御図顕の本門戒壇の大御本尊は、宗旨の根本となる本尊であると教示されています。
 代々の御法主上人は、その相伝の権能(けんのう)のうえに本門戒壇の大御本尊の御内証を書写され、本宗僧俗に下付されるのです。

破折
8.「河辺メモ」が明らかにしたこと

「河辺メモ」は実に多くの事実を、我らの前に暴露した。
 第一に、『日蓮正宗宗規』に「帰命依止の本尊とする」と定められた「本門戒壇の大御本尊」を、日顕が〝ニセ物〟と断じて誹謗したこと。
 第二に、日顕が面授相承など受けていない「僭称者」、つまり〝ニセ法主〟であったこと。
 大御本尊をお写しした日寛上人御書写の御本尊を、日顕が「ニセ本尊」と誹謗するわけは、ここにあった。

「ニセものは本物を厭(いと)うというが、要は、日顕自身が『偽法主』だったからこそ、本物の正しい御本尊までニセものと誹謗せざるをえなかっただけなのである」(故・渡辺慈済師)

 大御本尊を「ニセ物」と言った不心得者が法主の座に就いた時から、宗門が授与するすべての本尊が「ニセ物」となってしまったのである。
 一方、大御本尊を信受する創価学会は、大御本尊の力用を具する日寛上人御書写の御本尊を擁する、唯一の和合僧団となったのである。
 さて、まだ釈然としないことが残っている。それは「河辺メモ」で日顕が言い放った言葉である。

 「一、戒旦(かいだん)之御本尊之件
    戒旦の御本尊のは偽物である。
    種々方法の筆跡鑑定の結果解(わか)った。(以下略)」

9. 大御本尊の意義は不動

「河辺メモ」に記される日顕の誹謗の言から、大御本尊不信に陥って退転する者が現れた。だがそもそもが、〝何ゆえに信仰をするか〟の観点に立っていないから、日顕の妖言に目を奪われ、信心の目標を見失うのである。
 日顕の過ちは、信仰と文献学とを、混在させたことにあった。信仰とは本来、自分の経験や知識を超えた存在(仏界)を信ずることにある。一方、文献学は諸科学の一部であり、自分の経験や知識に負うものである。両者の視座は、全く異なる。
 日顕は、自らの文献学の才覚を恃むあまり、大御本尊をおのれの知識の下に取り込もうとして、その信仰上の意義を消し去ったために、三毒に濁った心が侮蔑の言葉となって出たのである。
 御本尊の「本物」「偽物」の定義については、学会は〝信心優先〟であり、宗門のように〝権威ありき〟で決めることはない。
 御本尊の鑑定については研究者によって出版されており、書店の棚にある。ただし、かかる書籍を手に取る人に断っておきたいことは、研究書とは著者の仮定を含むものであり、さらに宗門は御本尊を一切公表しないのであるから、決して証明されるものではない。あくまで信心を高めるための、参考として受け止めることを望みたい。
 ともかくも、日顕の誹謗ごときで大御本尊の意義が変わるものでは決して無い。

10.熱原法難の顕彰

 大御本尊が究竟の本尊とされるゆえんは、まさしく添書にある「本門戒旦(壇)」の意義にあるが、さらには「弘安二年十月十二日」の、熱原法難の顕彰にある。
 願主は「弥四郎国重」であるが、古来その人物は不明である。しかし姓不明な在家となれば、百姓である。堀日亨上人の「熱原法難史」には「弥四郎国重と云ふのは神四郎の旧名ではなかろうか」とある。
 権力者の拷問に屈せずに最後まで退転せず、不自惜身命の信心を貫いた熱原法華衆こそは、まさに全信徒が礼拝すべき『戒壇の御本尊』の願主に相応しい。

 伯耆殿等御返事(一四五六㌻)にいわく、
「大体此の趣(おもむき)を以て書き上ぐ可きか、但し熱原の百姓等安堵(あんど)せしめば日秀等別に問注(もんちゅう)有る可からざるか、大進房・弥藤次入道等の狼藉の事に至つては源(みなもと)は行智の勧めに依りて殺害刄傷(せつがいにんじょう)する所なり、若し又起請文(きしょうもん)に及ぶ可き云云の事之を申さば全く書く可からず、其の故は人に殺害刄傷せられたる上・重ねて起請文を書き失を守るは古今未曾有の沙汰なり、其の上行智の所行・書かしむる如くならば身を容(い)るる処なく行う可きの罪・方無きか、穴賢(あなかしこ)穴賢、此の旨を存じ問注の時・強強(つよづよ)と之を申さば定めて上聞に及ぶ可きか、又行智・証人立て申さば彼等の人人行智と同意して百姓等が田畠数十苅(か)り取る由・之を申せ、若し又証文を出さば謀書(ぼうしょ)の由之を申せ、事事証人の起請文を用ゆべからず、但し現証の殺害刄傷而已(のみ)、若し其の義に背く者は日蓮の門家に非ず日蓮の門家に非ず候、恐恐。
  弘安二年十月十二日            日 蓮 在 御 判
   伯 耆 殿
    日 秀
    日 弁 等 下」

(大体この趣旨によって書き上げるべきであろう。ただし熱原の百姓等が安心できるようになったならば、日秀等は別に問注する必要はないであろう。大進房や弥藤次入道等の狼藉のことについては、その根源は行智の勧めによって殺害刄傷(にんじょう)したことにある。もしまた起請文を書くべきである等と言われても、決して書いてはならない。その理由は、人に殺害刄傷せられた上に、こちらが重ねて起請文を書いて相手の罪を守るなどは昔から今までかつてない事件である。そのうえ、行智の行いが申状に書かれてあるとおりならば、身を置くところもなく、処断すべき罪も方法もないであろう。この旨をしかと心得て問注の時、強盛にこのことを主張するならば、必ず上聞に達するであろう。また行智が証人を立てて申し立てをするならば、その証人達の同類が行智と同意して百姓等の田畠数十を苅り取った者であることを言いなさい。もしまた、証文を出すならば、偽書であると言いなさい。悉く証人の起請文を用いてはならない。ただし現証の殺害刄傷のみは言いきりなさい。もしこの義に背く者は日蓮の門家ではない。日蓮の門家ではない。恐恐。〈以下略〉)

 本抄は、弘安二年(一二七九年)十月十二日、身延においてしたためられ、当時、不当に捕えられた熱原の農民信徒二十人を救うため鎌倉におられた日興上人と日秀、日弁に対して種々指示を与えられた御状であり、日興上人の写本が北山本門寺に現存する。
 冒頭に「大体此の趣を以て書き上ぐ可きか」と述べられており、日興上人の草案に大聖人が加筆添削されたうえに前半を書き加えられた滝泉寺申状に添えて送られたことがうかがえる。
 取り調べにおいて、「念仏を称えるという起請文を書けば罪を許してやる」という威嚇があったと考えられ、被害者側が謝って起請文を書くなどということは、いまだかつて聞いたことがないとされ、断じて書いてはならないと仰せになっている。
 しかし、この三日後の十月十五日には、熱原の三烈士、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人は斬首され、他十七人は追放刑に処された。
 この御書の日付こそは、『戒壇の御本尊』に刻まれた日である。すなわち熱原法難を永遠に顕彰する意義であり、また大聖人の死身弘法の御精神をも刻むものである。

11.後加された「相伝」の語

 宗門に引用された御文を整理しておきたい。日興上人の『日興跡条々事』について、宗門は次のように言う。

「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊は、日目に之れを相伝す」

 しかし「相伝」の字は、後加で重ね字されたものであり、正しくは「日目に之を授与す」である。委細は、日亨上人の「富士日興上人詳伝」(上)(聖教文庫 P161~163)にある。
 宗門は、〝〇〇の一つ覚え〟で、「相伝」の文字さえ持ち出せば〝勝ち〟とでも考えているのであろうが、返って馬脚を現わしている。

12.大御本尊は〝不自惜身命の御精神〟

 前述の通り大御本尊は、大聖人の〝不自惜身命の御精神〟そのものである。従って大御本尊を格護する宗門は、大聖人の御事績に倣い、平時には広宣流布の陣頭指揮を執り、諸難あるときには、法に殉じる覚悟をもって臨むべきであった。
 しかしながら、宗門は大御本尊を〝権威の象徴〟に祀り上げただけであったゆえに、教勢は全く振るわず、何百年もの間、細々と命脈を保つのみであった。

 如説修行抄(五〇三㌻)にいわく、
「鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪(もっけ)なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや」

(鷄(にわとり)が暁に鳴くのは当然のことであるが、宵に鳴くのは物怪(もっけ)である。権教と実教との立て分けが乱れているときに、法華経の敵を折伏しないで、世間を離れ山林の中にとじこもって摂受を修行するのは、まさしく法華経修行の時を失った物怪ではないか」

 さらに宗門は戦時中に軍部に迎合し、様々な謗法を重ねたあげく、本山は炎上、管長は焼死。追い打ちをかけるように、戦後の農地改革で大部分の寺領を没収されて、経営基盤を失い飢餓地獄に近い様相を現出した。厳しい因果律の果報である。
 最後には、大御本尊を誹謗した日顕が相承を僭称し、猊座に就いたことをもって、法脈は滅尽、そして宗門のすべての御本尊から、大御本尊の功徳が消失したのである。日顕が今更必死に弁解しようとも悪あがきであり、宗門の一切が残滓となったのである。
 大御本尊の御功徳は、ひとり学会授与の御本尊に顕現される。それは何よりも、大御本尊には熱原法難の不自惜身命の精神が祈念されているのであり、戦時中の軍部政府の大弾圧の際、難を恐れる宗門を尻目に、死身弘法の姿をもって最後まで大聖人の法灯を守った、牧口会長の不退の精神と感応し合うゆえである。
 牧口会長以来の、師弟不二の精神を基盤とする学会は、正に大御本尊有縁の衆生と言うべきであり、地涌の義をもって現出した、唯一の和合僧団なのである。
                           (了)

日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:1」を破折する(その三)連載3回

妄説:1 日蓮正宗の正しい本尊について教えてください。

 日蓮正宗の正しい本尊は、『日蓮正宗宗規』第三条に「本宗は、宗祖所顕の本門戒壇の大漫荼羅を帰命依止(きみょうえし)の本尊とする」と、明確に定められている「本門戒壇の大御本尊」です。
 この大御本尊は、宗祖日蓮大聖人が『聖人御難事』に
「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年大歳己卯なり、仏は四十余年(中略)余は二十七年なり」(新編 1396頁)と仰せのように、御本仏の出世の本懐(ほんがい)として顕わされました。
 日興上人の『日興跡条々事』に
「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊は、日目に之れを相伝す」(新編 1883頁)
と仰せのように、この大御本尊は、日興上人、日目上人と唯授一人血脈付法の御歴代上人によって相伝されています。
 日寛上人は
「就中(なかんずく)、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり」(富要 4-221頁)と説かれ、弘安二年十月十二日に御図顕の本門戒壇の大御本尊は、宗旨の根本となる本尊であると教示されています。
 代々の御法主上人は、その相伝の権能(けんのう)のうえに本門戒壇の大御本尊の御内証を書写され、本宗僧俗に下付されるのです。

破折:
6.日顕「御指南」の虚偽

 日顕は河辺慈篤の口を封じることに成功し、「御指南」なる文書を発表した。それまで、シアトル事件をはじめとして、どんな問題にも日顕自身が書いたコメントが宗内に通達されたことはなかった、と言われるが、どれだけ日顕が安堵したかが伺える。

「いわゆる河辺メモは、客観的な言旨を極めて自己の主観的な形に書き変えた慈篤房の記録ミスである。則ち主として創価学会の存在によって生じた日蓮正宗に対する種々の批判中の一環として、御本尊と血脈等に関する疑難悪口があることの内容について、ある時に慈篤房と客観的な話しをしたような記憶は存する。しかし、学会で発表したあのメモのような諸件についての主張をしたことは断じてないのである」
(「日顕上人御指南」平成十一年九月十八日)

 では、大石寺にある日禅授与の本尊と、大御本尊とを照合して「疑難悪口」する者とは、一体誰のことか、その説明はされていない。 さらに、メモ中の「Gは話にならない」にも、一切触れていない。
 こんな日顕の言い訳など、児戯に等しい。それが真っ赤な嘘であることを示す、重要証言がある。
 メモにある「日禅授与の本尊」について、宗内で最もよく知る立場にあるのは、他ならぬ日顕である。昭和四十五年三月二十五日、この御本尊が、法道院から大石寺に納められるときに立ち会い、検分をしたのが、このとき教学部長の日顕であった。
 メモの当時、富士学林図書館長で史料の専門家であった故・山口範道師の証言によると、この時すでに、日顕は日禅授与の本尊の大判のカラー写真を所持していたという。これで大御本尊の筆跡との照合も可能になる。
 山口範道師は、宗内にあって長年、古文書も含め、御本尊の研究に勤しんできた人物であり、こう証言した。

「河辺メモが記された昭和五十三年当時、宗内で、御本尊を鑑定できるのは日顕猊下だけだ。猊下はずっと前から御本尊の鑑定を専門にやってきているんだ」
(「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)

 この通り「筆跡鑑定の結果解った云云」などと言う人間が、日顕の外に誰がいるものか。なお宗門は後日、このように言う。
① 「大御本尊を疑難した者は、正信会の僧である」と。
 しかし、二体の御本尊の照合を思いつき、実際に鑑定できる者など、正信会に走った僧でそれが可能な者は、誰一人いない。
② 「G(猊下)を非難した者は、活動家僧侶である」と。
 これも、活動家僧侶の言説など拾ってきたところで、日顕が先師日達法主を批判したことを、打ち消すことはできない。
 河辺自身をして常々、「ワシのメモはテープレコーダーと同じくらい正確だ」と言わしめている当人が、このメモのみ「話の前後を抜いて記録してしまい(中略)」とのミスを犯したと言うのは、不自然である。
 漆黒であっても法主が白だと言えば、白でなければならないのが、宗門である。法主次第で、宗門はどのようにも変わる。大御本尊を信ずることのできない人間が法主になった瞬間に、宗門は正法の命脈を失い、邪教に堕ちたのである。

 南条兵衛七郎殿御書(一四九七㌻)にいわく、
「大悪魔は貴き僧となり父母・兄弟等につきて人の後世をば障るなり」

7.僭称法主・日顕を支えた男 

「さらに衝撃的なのが、平成四年、『C作戦』の内容が発覚した直後の教師講習会の折の河辺の発言である。
 こういう時の河辺は、必ずといっていいほど日顕のつまらない講義をサボつて大講堂のロビーに下り、タバコを一服している僧侶数人を相手に説教をたれる。その日も三浦接道(宮城・広安寺)らを前に一席ぶった。その中で河辺は、耳を疑うようなことを口走ったというのだ。
『アレ(=日顕)は除歴しなきゃならん。六十七世はいないんだ!』
日顕の裏の裏まで知り尽くした河辺の発言だけに、『除歴しなきゃならん』『六十七世はいないんだ!』との言はずっしりと重い。
 今、改めて問いたい。『六十七世』を詐称する阿部日顕とは、いったい何者なのか、と」(前出「法主詐称」)

 六十六世日達法主が急死し、実際に相承を受けた者はいないのであり、日蓮正宗は「唯授一人の血脈相承」を標榜する上から、僧侶による大聖人の法嗣は根絶した。よって、在家である創価学会の信心の血脈だけが現世に遺されたのである。
 すなわち、日顕は〝六十七世〟を騙(かた)るニセ法主に過ぎない。帰命依止の対境たる大御本尊を〝ニセ物〟と誹謗したのも、ニセ法主の故である。このことを最もよく知る男が、河辺慈篤であった。日顕が六十七世を名乗る資格など無い証拠を握っていたゆえに、二度にわたって日顕と対峙し、そのつど念願の都心の住職の地位を勝ち取って来た。
 しかし、河辺の優越感も長くは続かなかった。平成十四年九月二十日、河辺は心臓発作のため新宿区内の病院に入院。同年十一月十日逝去、享年七十二歳。新宿・大願寺住職に赴任してわずか三年の後であった。
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:1」を破折する(その二)連載2回

妄説:1 日蓮正宗の正しい本尊について教えてください。

 日蓮正宗の正しい本尊は、『日蓮正宗宗規』第三条に「本宗は、宗祖所顕の本門戒壇の大漫荼羅を帰命依止(きみょうえし)の本尊とする」と、明確に定められている「本門戒壇の大御本尊」です。
 この大御本尊は、宗祖日蓮大聖人が『聖人御難事』に
「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年大歳己卯なり、仏は四十余年(中略)余は二十七年なり」(新編 1396頁)と仰せのように、御本仏の出世の本懐(ほんがい)として顕わされました。
 日興上人の『日興跡条々事』に
「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊は、日目に之れを相伝す」(新編 1883頁)
と仰せのように、この大御本尊は、日興上人、日目上人と唯授一人血脈付法の御歴代上人によって相伝されています。
 日寛上人は
「就中(なかんずく)、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり」(富要 4-221頁)と説かれ、弘安二年十月十二日に御図顕の本門戒壇の大御本尊は、宗旨の根本となる本尊であると教示されています。
 代々の御法主上人は、その相伝の権能(けんのう)のうえに本門戒壇の大御本尊の御内証を書写され、本宗僧俗に下付されるのです。

破折:
4.河辺メモをめぐる騒動・第一章
〈河辺慈篤、徳島県・敬台寺から東京・江東区の妙因寺に栄転する〉

 日顕が肝を潰す出来事が起こった。
               ◇
 日顕登座直後の昭和五十四年十二月、日顕が早瀬義孔を庶務部長に抜擢したのに腹を立てた河辺が、その日顕を自分のところ(徳島・敬台寺)に呼びつけ、〝メモをマスコミに発表する。「『戒壇の御本尊のは偽物』と日顕が言った」と、記者会見を開いて、大々的に宣伝する。それとともに、猊座乗っ取りの真相もばらすぞ〟と恫喝したというのである。
 その背景には、こんな出来事があった。
 義孔は、早瀬日慈の弟子である。この義孔を庶務部長につけるにあたり、日顕は石井信量に車を運転させ、池袋の法道院まで出向いて、日慈に「常在寺(義孔)を庶務部長にしたいのだが」と、事前に話を通しに行った。日慈をだまし討ちにして登座した、日顕の後ろめたさを象徴しているが、ところが、これが河辺には気に入らなかった。というのも、それまで日顕は、何事についても、河辺に相談をして、事を進めてきた。ところが、この義孔の人事については、河辺には一言も言わず、日慈のところに相談に行った。後になって、それを聞きつけた河辺が怒って、わざわざ徳島まで日顕を呼びつけたというのだ。
 日顕と河辺の〝関係〟を物語る話だ。しかし、河辺は、「偽物」発言だけでなく、相承についても日顕の弱みを握っていることになる。
 日顕を恫喝した河辺は、その場でさらにこう言い放った。
「じゃかましいっー ワシが全部、お前に教えてやったろうが。いわば、お前の御師匠さんやで。『御師匠さん』と呼べ!」
そして、しばらくの沈黙の後、日顕の口から出た言葉が何とーー
「御師匠さん……」
(「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
               ◇
 平僧の立場で、法主となった日顕に向かって「お前」呼ばわりし、日顕に「御師匠さん」と呼ばせた者など、河辺の後にも先にもいない。次のような話がある。
               ◇
 阿部師の先輩格にあたる僧侶が、阿部師と電話で話した際、つい阿部師に、
「そんなこと言っても、君」
と言った途端、
「貴様!法主に向かって『君』とはなんだ!」
と怒鳴られたとか、(中略)
 阿部師があまりにも、
「俺は法主だ!」
と連発するのを見かねた山口師が、
「猊下、あまり『法主、法主』と言われないほうがいいですよ。人間は『俺は人間』とあまり言いませんから」
と、つい進言したそうである。それを聞いた阿部師の怒りは、想像に難くないものであった。
(「浜中和道回想録」〈昭和五十五年初頭の宗内の様子〉引用:「饒舌の故に」北林芳典著)
               ◇
 いかにも傲岸不遜の日顕らしいが、その傲慢男が膝を屈した唯一の相手、それが河辺であった。
「ワシが全部、お前に教えてやったろうが」と、河辺に言わしめたその内容は、次の記事に明かされる。
               ◇
 終戦直前の昭和二十年六月、大石寺大坊から出火した火災により、日恭上人は焼死する。その際、当時現場にいた河辺が、ドサクサ紛れに日恭上人の手元にあった大きめの「茶巾袋」を持ち出した。そこには、日恭上人が所持していた書き物など大切な品々が数多く入っていたという。
 河辺はこれをダシに、日顕に法主としての作法について教えをたれ、日顕は日顕で相承を受けていないものだから、何かあるとすぐに河辺に聞くという関係ができあがったのだ。
「日顕に御本尊の書写の仕方を教えたのもワシだ」
 こう言ってはばからなかった河辺だが、ある時など、「どうもワシが教えたのと違う」と、日顕書写の本尊を公然と批判したこともあったという。
(前出「法主詐称」) 
               ◇
 半年後の昭和五十五年六月、河辺は四国の寺から東京の妙因寺(江東区)に移った。それ以来、宗務院の人事から末寺の住職、在勤者の人事に至るまで、宗内のあらゆる事柄について、日顕は河辺に相談して決めていたとのことである。
 この時は、内々で収まった。だがそれから二十年という歳月の後、河辺メモは再び、日顕を悩ますこととなったのである。

5.河辺メモをめぐる騒動・第二章
〈河辺慈篤、北海道・日正寺から東京・新宿区の大願寺に栄転する〉

(1)河辺メモの発覚

 平成十一年七月七日付の『同盟通信』に〝河辺メモ〟が掲載され、宗内を震撼させた。
               ◇
S53・2・7、A面談 帝国H
一、戒旦之御本尊之件
  戒旦の御本尊のは偽物である。
  種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
  多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
  題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
  頃の筆だ。
  日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
一、Gは話にならない
  人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の
  事ではGでは不可能だ。
一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻
  るだらうと云う安易な考へを持っている
    ※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の
    誰かが売に出し、それを応師が何処で発見して
    購入したもの。(弘安三年の御本尊)

 この中に出てくる「A」とは阿部(日顕)、「帝国H」とは東京・千代田区の帝国ホテル、「G」とは「猊下」の頭文字で、当時の法主・日達上人をさす。筆跡といい、内容といい、主観や感情を交えず、核心の事実のみを冷徹に記載していく独特の文体は、河辺以外になしえるものではない。それは、河辺自身をして、常々、「ワシのメモはテープレコーダーと同じくらい正確だ」と言わしめているほどである。特に「戒壇の御本尊」に関する内容は、極めて具体的で、そのあまりのリアルさに誰しも我が目を疑った。
(前出「法主詐称」)

 メモが流出し、宗内が緊張した二日後、宗務院から次の文書が宗内に送信された。

「当時は裁判も含め、以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部長として、それらの疑難について河辺師に対して説明されたものであります」
(「怪文書『同盟通信』の妄説について」平成十一年七月九日)

 さらにその翌日、宗務院通達が出された。

「(略)従いまして、今回の件における面談の折の記憶を喚起致しますと、当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります。
 但しこの話は強烈に意識に残りましたので、話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、『本門戒壇の大御本尊』を偽物と断じたかのごとき内容のメモとなってしまいましたことは明らかに私の記録ミスであります」
(「河邊慈篤師からのお詫びと証言」平成十一年七月十日)

 河辺はすぐに自分の誤りである、と認める声明を出した。だが、事態はそれで治まったわけではなかった。

(2)「日禅授与の本尊」と「戒壇の御本尊」

 まず、メモに登場する日禅授与の本尊のことを知っておきたい。
               ◇
 メモにある「日禅授与の本尊」とは、大聖人が弘安三年五月九日、少輔房日禅に授与した本尊のこと。日禅とは、日興上人が選んだ六人の高僧の一人で、大石寺の南之坊を開いた人物である。
 日禅授与の本尊は一旦紛失後、天文八年(一五三九年)頃、北山本門寺が所蔵。明治四十三年六月、売りに出されていたところを、東京・法道院の開基である五十六世日応上人が買い、以後、法道院に置かれていた。そして昭和四十五年三月二十五日、法道院から大石寺に納められた。こうした経緯は、身延系の他山・他門では到底、うかがい知れず、大石寺の事情に精通した者でなければ、言及し得ない内容だ。それもそのはず、この本尊が、大石寺に納められるときに立ち会い、検分をしたのが、誰あろう教学部長の日顕だったのである。
(前出「法主詐称」)

 なお、戒壇の御本尊の由来を改めて確認しておく。
               ◇
「戒壇の御本尊」とは、宗祖日蓮大聖人が弘安二年十月十二日にお認めになった出世の御本懐である。ゆえに二祖日興上人も三祖日目上人への譲状「日興跡条条事」の中で、「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊」と仰せられ、日寛上人も文段で、「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」と仰せになっているのである。
(同)

 この通り、二体の御本尊は、その意義を大きく異にする。宗門の根本、一閻浮提総与の大御本尊を疑う者が、これまで他宗・他門流にはあったが、宗内でそのような者があるはずもなかった。
 ところがその大謗法の者とは誰あろう、法主に就任した日顕である。歴代法主が宗旨の根幹を〝偽物〟呼ばわりすることなど、あろうはずがない。日顕の「法主の資格」を問われるだけではない、日蓮正宗僧侶としての「一身上の大問題」であった。

(3)河辺メモが記された経緯

 くだんの河辺メモは、こうして何度も日顕を脅かすこととなった。なぜ、日顕はこのような不用意な発言をしたのか。
               ◇
 昭和五十三年二月七日、日顕は帝国ホテルの一室で河辺に会い、そこで大御本尊に関する自説を披露したが、その背景には、身延派の大石寺攻撃があった。
『月刊ペン』という雑誌の昭和五十一年十月号に、立正大学図書館長・宮崎某が書いた大御本尊を偽作とする論文が掲載され、日顕がその論文に対する反論を書くことになった。その反論を書くうちに、日顕は不安になり、日禅授与の御本尊と戒壇の大御本尊の照合を思い立った。その結果がこのメモの内容である。(中略)
 昭和五十三年頃、宗務行政を牛耳っていたのは内事部や菅野慈雲などの日達上人の弟子だった。総監の早瀬や教学部長だった日顕は、日達上人から信頼を失い、実権を失っていた。ゆえに、日顕は自分が次期法主になる道は閉ざされたと思い込み、日達上人を批判するだけでなく、大御本尊に関する発言を軽率に行ったのだ。
(「転落の法主」青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著 エバラオフィス 2004年04月)

 日顕は、日蓮正宗の僧侶として帰命依止(きみょうえし)の対境たる、大御本尊への信仰が全く無かったことを、問わず語りに露呈したのである。当時は心の張りを失い、気持ちが脆くなって、心の声を口にしてしまったのであろう。
 このメモに記載されたところの、日顕の発言の日(昭和五十三年二月七日)は、日達法主から相承を受けたことになっている昭和五十三年四月十五日の、わずか二カ月前のことである。日顕は法主内諾の直前(それが事実であればの話だが)、大御本尊誹謗の大謗法を犯していたということになる。

(4)新たな河辺メモ

 河辺の「お詫び」が通達で出されたものの、問題はそれで終わらなかった。
               ◇
 しかし、この日禅授与の本尊は大石寺にある。その本尊と大御本尊の類似性に疑問を持つ者は外部には存在しない。宗内には釈然としない雰囲気が漂っていた。そこに、あらたな河辺メモが流出し、この河辺のお詫びがヤラセであったことが明るみに出た。
 そのメモは八月十二日付の『同盟通信』で公開された。

 メモの件
  1、当局の云う通りやるか
  2、還俗を決意して思い通りでるか
  3、相談の結論とするか、
  7/9
  自坊tel
  宗務院より「河辺の感違い」とのFAX(宗内一般)
(「転落の法主」青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著 エバラオフィス 2004年04月)

 これによると、メモが発覚してすぐに、河辺は今後の行動を三様に分析した。その上で、「7/9」に宗務院との「相談の結論」として、「お詫びと証言」(十日付)が出されたこととなる。
 だが、三様の分析には、「2、還俗を決意して思い通りでるか」と言う選択肢もあった。〝日顕の対応次第では、思い通りでるぞ〟との威嚇が込められていたのである。
 
(5)河辺の奮戦

「河辺メモ」が報道された直後、河辺はどう出たか。
               ◇
 最初のメモが公開された七月七日の夕刻から、河辺の姿は自坊から消えていた。行き先は九州だった。目的は、九州・開信寺の法華講対策で出向いていた藤本総監、早瀬庶務部長、阿部信彰の三人をホテルに呼び出して密談するためだった。その内容がこの「メモの件」である。
 河辺の狙いは、東京に戻ることだった。学会を切ることに消極的であった自分を、日顕は邪魔になって札幌に飛ばした。河辺はそう確信していた。
 そして、日顕は独断で「C作戦」を実行し、失敗した。これ以上、馬鹿な日顕に付き合う気はない。最果ての地で晩年を過ごすつもりもない。
 当初の日顕との密約は「十年で東京に戻す」ということであった。しかし、十年たっても、日顕はその約束を守らずにいる。すでに十一年目だ。必ず、俺は東京に戻る。本気だということを教えてやる。俺の怖さを思い出させてやる。河辺の決意は固かった。それがメモにある「還俗を決意して」との一文となった。
 日顕はこの一文に震え上がった。「二十年前と同じように、河辺は本気だ」と。
(前出「転落の法主」)

 この河辺の粘り腰が、日顕の不安を煽っていく。二十年前と同じく、河辺は宗門幹部の説得を受けたが、耳を貸すことはなかった。
               ◇
 八月三十日、河辺はこの話にケリをつけるため、本山で日顕、藤本、早瀬と会った。そして、とうとう、日顕は折れた。
 日正寺の「開創八十周年」の法要を終えた二日後の九月七日、正式に河辺の新宿・大願寺への赴任が申し渡された。(中略)代わりに大願寺住職の長倉が日正寺に入り、二カ寺の寺院の住職をそのまま入れ替えるという前代未聞の人事であった。この珍事を説明できる理由はただ一つしかない。日顕が河辺の口封じのために行った人事である。宗内の誰もが、そう感じていた。
 新宿・大願寺は都内でも随一といわれる豪勢な寺である。河辺メモの威力は、絶大なものであった。
(同)
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:1」を破折する(その一)連載1回

 さあ、発言しよう! 宗門の妄言・邪説に沈黙したら、謗法の共犯者となってしまう。大聖人に背く宗門の、片棒を担ぐわけにはいかないのだ。
「沈黙は共犯に等しいから、どしどし発言せねばならず(中略)真の『歴史』が書かれることを禁止できると信じることほど、馬鹿げたことはない!」(稲葉三千男訳)
 フランスの小説家ゾラは、祖国の軍が起こした冤罪事件(ドレフュス事件)を糾弾し、小冊子につづった。
 池田名誉会長は、このゾラの言論戦をたびたび紹介し、「『一つの暴論』には『十の正論』で徹底して反撃し、完全に打ち破るまで戦うのは当然である」と強調してきた(聖教新聞「社説」2012年12月1日より)。
 宗門の暴論・邪論は、完膚なきまでに破折しなければならない。妄書「創価学会『ニセ本尊』破折百問百答」を論駁し、すべて粉砕する。
               ◇
妄説:1 日蓮正宗の正しい本尊について教えてください。

 日蓮正宗の正しい本尊は、『日蓮正宗宗規』第三条に「本宗は、宗祖所顕の本門戒壇の大漫荼羅を帰命依止(きみょうえし)の本尊とする」と、明確に定められている「本門戒壇の大御本尊」です。
 この大御本尊は、宗祖日蓮大聖人が『聖人御難事』に
「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年大歳己卯なり、仏は四十余年(中略)余は二十七年なり」(新編 1396頁)と仰せのように、御本仏の出世の本懐(ほんがい)として顕わされました。
 日興上人の『日興跡条々事』に
「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊は、日目に之れを相伝す」(新編 1883頁)
と仰せのように、この大御本尊は、日興上人、日目上人と唯授一人血脈付法の御歴代上人によって相伝されています。
 日寛上人は
「就中(なかんずく)、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり」(富要 4-221頁)と説かれ、弘安二年十月十二日に御図顕の本門戒壇の大御本尊は、宗旨の根本となる本尊であると教示されています。
 代々の御法主上人は、その相伝の権能(けんのう)のうえに本門戒壇の大御本尊の御内証を書写され、本宗僧俗に下付されるのです。

破折:
1.破仏法の「偽法主」

「創価学会『ニセ本尊』破折百問百答」なる〝妄説集〟の第一番目に、宗門は臆面も無く、よくもこの項目を置いたものと、呆れかえるばかりである。
 まずは以下の驚嘆すべき内容を、目を背けることなく一読すれば、それを否応なく納得することとなる。
               ◇
 何よりも日顕が震え上がったのは、「河辺メモ」の発覚であろう。平成十一年七月、日顕が登座してちょうど二十年になるその月に、まさに「その『時』にピタッと合って現れた」、日顕の度肝を抜く重要証拠であった。このメモによって、日顕が、大聖人出世の御本懐である「戒壇の大御本尊」を偽物だと断言し、宗旨の根幹を完全に否定していた大謗法の法主であることが、暴露されたのである。
「河辺メモ」には、次のように記されている。

「S53・2・7、A面談 帝国H
 一、戒旦(かいだん)之御本尊之件
   戒旦の御本尊のは偽物である。
   種々方法の筆跡鑑定の結果解(わか)った。(字画判定)
   多分は法道院から奉納した日禅(にちぜん)授与の本尊の
   題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
   頃の筆だ。
   日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
 一、Gは話にならない 
   人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の
   事ではGでは不可能だ。
 一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻
   るだらうと云う安易な考へを持っている。
   ※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の
    誰かが賣に出し、それを応師が何処で発見して
    購入したもの。(弘安三年の御本尊)」

河辺メモ

 昭和五十三年二月七日、東京の帝国ホテルで日顕と河辺氏が会った時に、日顕が、「戒壇の大御本尊は偽物である」と断言し、その根拠として、種々の方法による「筆跡鑑定の結果解った」「日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」と言っていたというのである。恐るべき邪義邪説である。
 戒壇の大御本尊は、日興上人が日目上人への譲状で「日興が身に宛(あ)て給はる所の弘安二年の大御本尊」と述べられ、また、日寛上人も「就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟(くきょう)中の究竟、本懐の中の本懐なり」(観心本尊抄文段)と述べられているように、宗旨の根幹として日興上人から日目上人へ相伝され、歴代上人が格護してきたものである。富士門流においては、何の疑いもなかったものであるにもかかわらず、その大御本尊を疑い、筆跡鑑定まで行なって否定するとは、これほどの大誑惑(おうわく)はない。
 しかも、同じ日に、日顕は「Gは話にならない」と、「G(=猊下)」すなわち日達上人の能力、手腕を強烈に批判、侮蔑していたのである。
 大御本尊を否定し、法主である自分のことを否定していた人間に、日達上人が相承をされるわけがなく、この「河辺メモ」は、日顕が相承も信心もない「偽法主」であることを証明する決定的証拠となったのである。
 日顕も、よもやここまで、その黒い正体が暴かれるとは思ってもみなかったろう。
 平成二年に、「謗法とのけじめをつける」と言って、学会をカットした日顕だが、大謗法だったのは日顕自身であった。大御本尊をまったく信じていない日顕が、いくら「破門だ」「カットだ」と脅しても、大御本尊を信じ団結する金剛不壊の組織に勝てるはずがなく、初めから勝負は決まっていたのである。カットしたはずの日顕が、大御本尊否定の偽法主であると断罪され、大聖人や日興上人のみならず、世界の信徒から見放され、カットされてしまったのだから、これこそ還著於本人(げんじゃくおほんにん)という以外にない。

(引用:「日蓮正宗〝落日の真因〟―出家得度五十年・未来のために真実を語る」日蓮正宗改革同盟 渡辺慈済著 2000年2月16日初版発行 第三文明社)
               ◇
 参照:ブログ「日蓮正宗問題研究」 
 同ブログ所載「河辺メモ」)
 
 この河辺メモの顛末は、次回に詳しく記したい。

「信心なき坊主は見つけ次第速やかに放逐(ほうちく)せられん事を」
(「寸鉄」戸田会長 1953年9月13日付)

2.邪師を輩出してきた宗門

「代々の御法主上人」と言っても、正師と邪師とがある。我らは、大聖人、日興上人の法義を正しく受け継いだ正師のみを信奉する。
 ところが宗門は、「唯授一人血脈付法の御歴代上人」との言い方をもって、すべての法主は〝無謬(むびゅう)〟(誤りが無い)とする神話を展開する。これは、「正師も邪師も同じ」とする大誑惑(おうわく)であり、大聖人の仏法を根底から破壊する大邪義である。
 古(いにしえ)の、宗門の法水は清浄であった。だが時代の変遷とともに、法水に異物が混入されていく。
 十二世日鎮のとき、要法寺系の流入僧・左京日教が、宗内に異流儀をもたらした。現在の日顕宗の淵源が、ここにある。また十七世日精が、これも要法寺流の造仏義を持ち込み、十箇寺を越える末寺に仏像を造立した。さらにそれ以後も、謗法法主が陸続と輩出したのである。これら史実は適宜、本連載において明らかにしていきたい。
 当職の法主・日如が書写する本尊には「戒旦の御本尊のは偽物である」と断じた、先師日顕の〝違背の心〟が瀉(うつ)されている。すなわち日顕からの「汚水瀉瓶(おすいしゃびょう)」である。これら日顕・日如の本尊に縁すれば、大御本尊不敬の与同罪となる。恐ろしいことである。
                          (続く)
 

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