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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:6」を破折する 連載10回

妄説:6  戒壇の大御本尊と各家庭の御本尊との関係を教えてください。

「本門戒壇の大御本尊」は、根本となる究極の御本尊であり、「各家庭の御本尊」は、御本仏日蓮大聖人より日興上人、日目上人へと、大聖人の御内証(ないしょう)の法体(ほったい)を唯授一人血脈相伝される御歴代上人が、根源たる本門戒壇の大御本尊の御内証を書写して下付される御本尊です。
 総本山第五十六世日応上人が『弁惑観心抄』に
「此の金口(こんく)の血脈こそ宗祖の法魂を写し、本尊の極意を伝えるものなり、これを真の唯授一人と云ふ」(同書 219頁)
と指南されているように、代々の御法主上人に伝えられる血脈相承によって、はじめて本門戒壇の大御本尊の法魂・極意(ごくい)が書写されるのです。したがって血脈相伝の教えに信順し、本門戒壇の大御本尊を信ずる一念をもって拝むならば、書写された御本尊もその功徳に変わりはありません。
 しかし信仰が戒壇の大御本尊から離れ、血脈相伝の教えから離れるならば、いかに各家庭の御本尊を拝んでも功徳は生じません。かえって罪障を積むことになるのです。

妄説:
1.「血脈」とは〝信心の血脈〟のみ

「血脈」とは、大聖人の重書「生死一大事血脈抄」に説かれる〝信心の血脈〟に尽きる。

 生死一大事血脈抄(一三三七㌻)にいわく、
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思(おもい)を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」

〝信心の血脈〟に対し、別に〝血脈〟があるとするのは、大聖人の仏法を破壊する邪義である。

 同抄(一三三七㌻)にいわく、
「剰(あまつさ)え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」

 ここに「異体異心の者」とは〝獅子身中の虫〟のことであり、大聖人の仏法を内部から食い破る者のことである。「信心の血脈」を遵守する学会に対し、少しでも有利な立場に立とうとして、浅はかにも「法体の血脈」と称する新語を捏造した、日顕を指して言うのである。

2.捏造の種(たね)本とされた『弁惑観心抄』

 明治期の法主、五十六世大石日応は「法体相承」と「法門相承」の語を自作して、次の通り述べた。

「唯授一人嫡々血脈相承にも別付・総付の二箇あり其の別付とは則ち法体相承にして総付とは法門相承なり、而して法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈付法の大導師と云ふべし」(「弁惑観心抄」)

「法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是れなり(中略)此の法体相承を受くるに付き、尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり。此の金口嫡々相承を受けざれば、決して本尊の書写をなすこと能はず」(同)

 ここで日応は、「法体」とは本門戒壇の大御本尊であるとするのであり、すなわち「法体相承」とは、宗門管長の代替わりにおける大御本尊の授受を指しており、他門との差別を明らかにしたものである。
 また「法門相承」とは、大石寺に伝わる〝本尊の書写〟の秘伝を言うものであり、それが「唯授一人金口嫡々相承」によって歴代諸師に受け継がれてきたと言う。
 ここまでは特段の問題は無い。宗門で当然のごとく認識してきたことを、後世の法主が独自の名称を付して表現したまでである。だが、この新造語が後に日顕によって創作教義の素材とされてしまい、宗門が邪宗に転落する元となったことは、泉下の日応は無念の思いであるに違いない。

3.創作された〝法体の血脈〟

 前項で日応は、日顕宗が言う「法体の血脈」なる語は用いていない。ただし「法体の血脈」があるとすれば、それは御本尊を信受して、大聖人から一人一人の信者に通う「信心の血脈」のことに他ならないのであり、それ以外に血脈などは無い。
 日顕は、日応が命名した「法体相承」の語を換骨奪胎して、「法体の血脈」なる語を捏造したのである。
 日応の言う「法体」とは「本門戒壇の大御本尊」であり、後嗣に法を付嘱する際には、形式の上で大御本尊を授受することを言ったのである。
 これに対し日顕が用いる「法体」とは「大聖人の御内証」であると言うのであり、それは形として特定できない概念である。これが「相伝書」なら、文書の形として授受することができるのであり、代々の諸師が後継者に申し渡してきたことである。
 しかし日顕が主張するのは、物としての形が無い「御内証」と言う概念そのものである。
 日顕は日応が創作した語をもとに、「法体の血脈」と言う〝二次創作〟の語を捏造したのである。言葉を置き替えさえすれば、どれほど荒唐無稽な法門でも作り上げることが可能となる。

 守護国家論(四二㌻)にいわく、
「是の時当に諸の悪比丘有るべし是の経を抄掠(しょうりゃく)して分つて多分と作し(中略)世間荘厳の文を安置し無義の語を飾り前を抄(とっ)て後に著け後を抄て前に著け前後を中に著け中を前後に著けん当に知るべし是くの如き諸の悪比丘は是(これ)魔の伴侶(はんりょ)なり」

(この時、まさに諸の悪比丘〈悪僧〉がいて、この経を盗み掠(かす)めて多くに分断し(中略)、世間の荘厳な文を加え、意味の無い言葉を飾り、前の文をとって後の文につけ、後の文をとって前の文につけ、前後の文を中の文につけ、中の文を前後の文につけるであろう。まさに知りなさい。このような諸の悪比丘はこれ魔の眷属である)

4.「大聖人の御内証」とは

 ここで、以下のことを確認しておきたい。
「大聖人の御内証」とは、① 感得できるのか、② 相承されるのか、③ 血脈であるのか。

(1)「大聖人の御内証」とは、感得できるのか

 感得できる。御書に仰せであり、二義ある。

① 御本尊の信受と日興上人の御指導の遵守

「大聖人の御内証」を感得するには、宗開両祖の厳命を遵守しなければならない。まず、大聖人御図顕の御本尊を信受することである。

 経王殿御返事(一一二四㌻)にいわく、
「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」

 かつは日興上人の御指南に従うことである。「日興遺誡置文」には、次の通り仰せである。

 一、謗法を呵責せずして遊戲雑談(ゆげぞうだん)の化儀並に外書(げしょ)歌道を好む可からざる事。
 一、時の貫首(かんず)為(た)りと雖(いえど)も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
 一、謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事。
 一、謗法の供養を請(う)く可からざる事。
 一、先師の如く予(よ)が化儀も聖僧為(た)る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も衆徒に差置く可き事。
 此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず

 宗門の歴史を見れば、管長と言えども「日興が末流に有る可からず」の御言葉を蒙る者ばかりである。

② 殉教の精神

 諸法実相抄(一三六〇㌻)にいわく、
「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」

「日蓮と同意」と仰せのことは、大聖人の「不自借身命の御精神」を受け継ぐことにある。
 それを体現した者は、御在世時では、熱原の法難で拷問に耐え抜き殉教した農民信徒である。近年においては、軍部政府の弾圧に屈せず「死身弘法の信心」を全うした牧口会長である。いずれも「地涌の菩薩」の本地を明かした壮烈な覚悟であった。
 しかし、宗門は「大聖人の御内証」を感得できるはずがない。戦時中の弾圧を恐れた宗門は、神札甘受等、あらゆる謗法に手を染め、軍部政府からの難を避けてきた。世法の上では騙(だま)しおおせてきたわけである。
 しかし、仏法の誡(いまし)めからは逃れることはできなかった。牧口会長の死去の翌年、本山に大火災が起こり、管長が焼死した。これに畳み掛けるかのように、戦後の農地改革で宗門は経営基盤を失い、飢餓地獄を現出した。厳しい因果律の果報が、明確になったことであった。

(2)「大聖人の御内証」とは、相承されるのか

 それでは、宗門管長が遷座する際に「大聖人の御内証」が相承されるのか。五十九世堀日亨法主は、自身の場合を次の通り述べている。

「ワシは柱師からあらたまって相承は受けておらん。それは形式的なものだよ。柱師も亦(また)、相承というものは受けておらんかったようだ。
 してみて、考えてみれば、柱師がワシに相承しないのは、悪意ではなくて柱師の善意であったように思う。
 ワシの方が法門は勝(すぐ)れていると柱師も解っていたので、あえて相承の中身を言わなかったのだと思うようになった」
(「亨師談聴聞記」昭和二十六年 冬 大橋慈譲記録)

 ここで相承とは「形式的なものだ」とし、「相承は受けておらん」とも述べている。
 そもそも、先代の管長・五十八世土屋日柱にしてからが、先々代の五十七世阿部日正が養生先の静岡県興津で亡くなったとき〝面授相承〟を受けることができなかったため、やむなく阿部日正の意向で在家の信徒二人(中光達・牧野梅太郎)が大阪の蓮華寺へ行き、そこで土屋慈観(日柱)に〝預かり相承〟を伝えたのである。亨師の前管長自体、相承は形式的なものだったのである。
 ところが、日柱は亨師への正規の面授相承の席にありながら、「あえて相承の中身を言わなかった」とされるのであり、亨師は前管長から実質的な相承は、何も受けていないのである。
 そうすると、亨師は「大聖人の御内証」を相承しなかったことになる。亨師の次の言葉に注目したい。

「法階が進んで通稱が變更したから從つて人物も人格も向上したかどうか私には一向分明りません」
(「大日蓮」より「聖訓一百題」)

「慈琳が日亨と改名しても矢張り舊の慈琳の價値しかありませぬ事は確實であります」(同)

 法主の言葉に「間違い」と言うものが無いならば、「唯授一人血脈相伝」とは〝建て前〟であり〝美辞麗句(飾り言葉)〟に過ぎない。
「血脈相伝の教え」を云々したければ、宗門の坊主はまず遊蕩を止め、身に染みついた謗法を捨て去ることから先に行なうべきであろう。

(3)「大聖人の御内証」とは、血脈であるのか

 前項(1)で述べた通り、「大聖人の御内証」は御本尊を信受するところに存し、また大聖人に同意して弘法に殉じたとき、大聖人の境界に近づくことができるのである。
 ただし「大聖人の御内証」を御写しした「大御本尊」や「相伝書」の類は授受できても、一人の人間が自ら感得すべき「信心」と「行動」に至っては、人に渡せるものではない。
 まして日顕、日如のように、淫乱、妄語、暴力にまみれ、三毒に犯された人間が「大聖人の御内証」を受け渡しできるなどとは、噴飯ものである。

「破器・汚器の者であれば、猊下と雖も何にもならんということに気がつかないんだから困ったもんじゃ」
(「亨師談聴聞記」昭和二十六年 夏 大橋慈譲記録)

 日顕、日如は法主の器でなく、それ以前に人としての値打ちも無い。
 結論すれば、日顕の言う〝法体の血脈〟なるものは、日蓮大聖人の仏法には何の根拠も無い、捏造による作り話であって、法主を大御本尊・大聖人と同一の境地であるとする、〝法主本尊〟の大邪義なのである。

 5.分身散体の法理

「血脈相伝の教えから離れるならば、いかに各家庭の御本尊を拝んでも功徳は生じません」とは、御本尊を冒涜する大不敬であり、それゆえ宗門を「邪教」と呼ぶのである。
                 ◇
 秋谷 そもそも大御本尊も、各家庭に御安置してある御本尊も同じだ。「一体不二」。
 青木 その通りです。各家庭の御本尊は、大御本尊と一体の「分身散体」の御本尊です。
 谷川 「分身散体」。つまり「仏が衆生を救うために、身を分けて種々の国土にあらわした分身」という法理だ。
 秋谷 したがって、大御本尊と各家庭の御本尊とは「力用」も「功徳」も全く同じということになる。
 青木 御本尊に差異はない。差異があったら御本尊じゃない。〝御本尊に違いがある〝なんていうのは、謗法の中の大謗法だ。究極の邪義だ。
 山田 そのことは、かつて日顕本人も明言していたよ。昭和54年11月20日にも、こう言ってたよ。「大御本尊、乃至その分身散影たる各々家々に奉安の御本尊に対し奉り、日夜怠らず唱題修行に励むときは即身成仏、決定として疑いなきもの」と明確に言っていたではないか(笑い)。
 竹内 だいたい「どこか特定の場所に行かないと成仏できない」なんていうのは、日蓮大聖人の仏法じゃない。大聖人とは全く無縁の邪教だよ。
 谷川 その通りだ。だったら、地球の反対側にいる人は、どうするんだ?なかなか来れないじゃないか。そのために「分身散体」の御本尊があるんじゃないか。
 秋谷 日蓮大聖人は「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去って彼に行くには非ざるなり」と明確に仰せであられる。
 青木 また「されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし」等々とも仰せだ。
 谷川 日寛上人も「戒壇の本尊(=大御本尊)を書写してこれを掛け奉る処の山々、寺々、家々は皆これ道理の戒壇なり。当に知るべし、『是の処は即ち是れ道場』等云云」と明確に仰っている(報恩抄文段)。
 青木 宗門も今の大石寺も、根本の信心がないどころか、完全に魔の巣窟になってしまった。そんな所に行ったって、大仏罰を受けるだけだ。
(発言者:秋谷会長、青木理事長、谷川総東京長、竹内青年部長、佐藤男子部長、山田総東京青年部長 「聖教新聞」2005年8月26日)

[引用御書]
 御義口伝巻下(七八一㌻)にいわく、
「法華経を持ち奉る処を当詣道場(とうけいどうじょう)と云うなり此(ここ)を去つて彼(かしこ)に行くには非ざるなり、道場とは十界の衆生の住処を云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野(せんごくこうや)皆寂光土なり此れを道場と云うなり」

(この三大秘法の南無妙法蓮華経を受持し修行する、その場所を「当詣道場」というのである。すなわち、この娑婆世界を去って、極楽浄土等の他土へ行くのではない。道場とは十界の衆生の住処をいうのである。いま、日蓮大聖人およびその門下として南無妙法蓮華経と唱える者の住処は、それが山谷曠野いずこにてもあれ、全部、寂光土すなわち仏国土である。これを道場といったのである)

 最蓮房御返事(一三四三㌻)にいわく、
「されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為(た)るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有(ほんぬ)の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し」

(それゆえ私達が住んで法華経を修行する所は、いずれの地であっても常寂光の都となるであろう。私達の弟子檀那となる人は、一歩と歩まないうちに天竺の霊鷲山を見、本有の寂光土へ昼に夜に往復できるということは、言いようがないほどうれしいことである)

 報恩抄文段にいわく、
「本門の戒壇に事有り、理有り。理は謂く、道理なり。また義の戒壇と名づく。謂く、戒壇の本尊を書写してこれを掛け奉る処の山々、寺々、家々は皆これ道理の戒壇なり。当に知るべし、『是の処は即ち是れ道場』等云云」
(富士宗学要集第四巻P370)
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:5」を破折する 連載9回

妄説:5 「一閻浮提総与の御本尊」とはどういうことですか。

「一閻浮提(いちえんぶだい)総与の御本尊」とは「一閻浮提(全世界)のすべての人々が信受すべき御本尊」との意味で、本門戒壇の大御本尊のことを指します。
『観心本尊抄』に
「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮(えんぶ)の衆生に授与せしめたまふ」(新編 657頁)
と仰せのように、御本仏宗祖日蓮大聖人は、末法万年にわたり、全世界の人々を救済するために、自らが御所持の寿量文底の南無妙法蓮華経を顕わされました。
 そして、南無妙法蓮華経の法体として、「本門戒壇の大御本尊」を図顕されました。
 全世界の人々が真実の平和と幸福を確立するためには本門戒壇の大御本尊を信仰すべきであり、その戒壇に参詣すべきことを『三大秘法抄』に
「三国並びに一閻浮提の人懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏(ふ)み給ふべき戒壇なり」(新編 1595頁)
と仰せられています。
 このように、全世界の民衆を救済するために顕わされた大御本尊であり、全世界の民衆がおしなべて参詣帰依すべき大御本尊という意味から「一閻浮提総与の大御本尊」と申し上げます。

破折:
1.御開扉は「内拝」の義(非公式)であり、成仏に必須ではない

「全世界の民衆がおしなべて参詣帰依すべき大御本尊」などと言うが、「参詣」の文字をすべり込ませているところが、宗門らしく姑息であり、狡猾である。
〝大御本尊にお目通りしなければ、功徳がない〟とは全くの邪義であり、かえって大御本尊を貶める謗法である。次の記事に詳しい。

① 広宣流布の時まで「秘蔵」とされて来た大御本尊

 御開扉はもともと「内拝」で非公式なもの
 日亨上人は「常例となったのは、もったいない事」と

 今、宗門は「大御本尊にお目通りしないと成仏できない」などと言っているが、宗門の歴史に照らして、これは大間違いである。
 五十九世の日亨上人は『富士日興上人詳伝』に以下のように書かれている。
 
「開山上人は、これを弘安二年に密付せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古か)からか、遠き広布を待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついには今日のごとき常例となったのは、もったいない事であるから、四十余年前には、有名な某居士が懇願して月一回という事にもなった事があったが、永続しなかった。」

 すなわち、大御本尊は広宣流布の時まで「秘蔵」されるべきものであったが、特別な縁故の者や信心の篤い者に「内拝」ということで、非公式に参拝させるようになった。そして今では特例である「内拝」が常例になっていることは「もったいない事である」と言われているのだ。
(「新改革通信」117号 平成23年11月1日)

② 「内拝」は非公式だから、樒を飾らない

「内拝」とは秘蔵されている大御本尊を特例として内々に拝するという意味である。
 大御本尊は「秘蔵」されている状態なので、あえて水も供えないし、樒も飾らないのである。(同)

③ 本来は「遙拝(ようはい)」されるべき大御本尊

 かつて丑寅勤行は、客殿での五座の勤行が終わった後に、導師を務めていた法主と供の僧侶が「遙拝所」に移動する。そこには樒が飾られている。
 そして、その「遙拝所」で方便・自我偈の読経をする。すなわち、遥か遠くにある大御本尊を拝するので、これを「遙拝」というのである。
 これが、大石寺に伝わる大御本尊の拝し方である。(同)

④ 「遙拝」「内拝」であるから、直接に大御本尊を拝さなくても成仏できる

 宗門は自分たちの権威を守るために、常に真実の歴史を隠して信徒の目を欺こうとする。実に卑怯な姿である。 
 宗門の御開扉は今でも「内拝」であり、非公式な参拝である。非公式であるから、成仏のために必須ではない。また「遥拝」ならば、たとえ自宅からでも拝することができる。
 ところが、宗門はそれをいかにも正式なものとして誤魔化して、「御開扉を受けないと成仏できない」などと信徒を脅している。(同)

⑤ 数合わせの「付御開扉願い」にどんな意味があるのか

「付け願い」とは、本人は登山しないで御開扉料だけ他の人に託して登山したことにする制度である。本来は病人など特殊な事情がある者に限られていた。
 しかし、今の宗門ではこの「付け願い」が登山の数合わせに悪用されている。
 本来の意味から言えば、登山できない者は「遥拝」でも構わないはずだ。「恋慕の信心」こそが大事であるはずなのに、登山のノルマを達成するために「付け願い」で数を合わせることに一体、何の意味があるのか? これではまるで商売である。(同)

2.後ろめたさ物語る正本堂からの遷座

 古来、大御本尊は「秘蔵」され、遥拝するのみであったが、いつからか「内拝」されるようになった。そして七百有余年の後、地涌の菩薩の義をもって創価学会が涌出し、「事の戒壇」を建立申し上げ、「本門寺の戒壇」にお出ましいただいたのである。
 それが前回述べた、昭和四十七年十月一日に完工した「正本堂」である。同月七日に大御本尊の御遷座のお練り、そして十一日には大御本尊御遷座大法要が営まれた。すべてが荘厳された只中に、御遷座されたことであった。
 その「事の戒壇」が、宗門の中より生じた魔仏によって破壊されたのである。建立してわずか四半世紀後のことであった。
             ◇
 日顕にとって、正本堂の閉鎖・破壊が、どれほど後ろめたいものであったか。それは大御本尊の御遷座の仕方に表れている。
 平成十年四月五日、日顕は戒壇に関する誑惑説法をした後、夕闇にまぎれ、慌ただしく数十人の僧を正本堂に集結させて、こっそり大御本尊を持ち出し、奉安殿へ遷した。日蓮大聖人出世の御本懐、御一期の化導の究竟中の究竟たる大御本尊をお遷しするのに、こんなやり方が許されるはずがない。
 昭和四十七年十月七日、奉安殿から正本堂にお遷しする時には、大御本尊は宗門の重宝中の重宝であるから、宗会でまず決議を行なった。そして、教学部長だった日顕を先導にして、日達上人が満山の大衆を従え、大御本尊をお守りし、総監、重役、宗会議長、能化、宗務役員をはじめ、法華講総講頭、大石寺総代も加わって、厳粛なお練りを修しながら、三千人の信徒が唱題する中を、御遷座した。この時は、晴れ晴れとした天候が続き、日達上人も、明治二十三年以来、八十年ぶりの天候だと諸天の加護を喜ばれた。
 また、その前の、御宝蔵から奉安殿に御遷座した昭和三十年十一月二十三日の時も、きちんと宗門の機関に諮(はか)り、日昇上人が宗門あげて、厳粛かつ盛大な儀式を奉修された。御宝蔵から奉安殿へ、奉安殿から正本堂へと、大御本尊をお遷しするごとに、いやます仏法の隆盛、広宣流布の進展を感じたものである。
 ところが、日顕の遷座は、先導する者もおらず、日顕が先頭に立って歩くという、およそ宗門随一の重宝を遷す格式などまったくない不様なものだった。随従する者も皆キョロキョロして、まるで盗んだ物を運び出すよう、本来立ち会うべき大石寺の総代も加わらず、大石寺の執事にも知らせないで強行したのである。「コソ泥遷座」と揶揄(やゆ)されて当然であろう。
 もちろん、宗会等の宗門の機関にも諮っていない。独断である。
 日顕としても、あまりにもバツが悪く、翌四月六日の御虫払いのお目通りでは、「決めた以上は即実行した方がいいと思って、相談せずにやって、申し訳なかった」と、皆に詫びなければならなかった。大御本尊の御遷座という宗門の最重要事でありながら、堂々とできないこと自体、日顕に「正義」がないことの証拠である。
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)

3.相承してもらえなかった先師日達法主への怨念

 故・渡辺慈済師の手記が続く。
             ◇
 正本堂の解体を突如自分から言い出し、新しい奉安堂もこれまた自分から。そして有無を言わさず総額百五十億もの御供養の命令――。すべてが日顕一人の独断であった。しかも、その奉安堂のつくりは、奈良の東大寺そっくりで、高さを自分の六十七世に合わせて六十七メートルにするという。
 正本堂が六十六メートルだったので、自分はそれより一メートル高い建物を建てたいというのである。呆れるばかりの幼児性だろう。
 それにしても、日顕はなぜこうも次から次に壊すのか。いったい何が、破壊衝動に駆り立てるのか。
 日顕は、「総本山における、仏法を歪曲した謗法の遺物を徹底して駆逐し、もって破邪顕正の洋々たる広布の未来を開く」と述べて、池田名誉会長への嫉妬、憎しみから、学会は謗法であり、学会が寄進したものを一切除去しなければならないと理由づけをしている。だが、それが、次々と破壊する理由のすべてではない。
 なぜなら、学会が建てたものを徹底して駆逐・除去するというなら、総一坊や総二坊など自分の代に寄進されたものもすべて壊し、寄進してもらった末寺も全部学会に返さなければならないが、決してそうはしないからである。
 名誉会長や学会に対する嫉妬・怨念が日顕の破壊衝動の理由の一つには違いないが、実は、ほかに理由があるのである。
 その一つが、日達上人に対する恨み、怨念であり、さらに他の一つが、「中興の祖」として名を残したいという野望なのである。
 今の大石寺を見れば明白だが、日達上人ゆかりの建物は、ことごとく破壊されてしまった。もし日顕が、日達上人を本当に尊敬しているというなら、自分の代の総一坊、総二坊を大事にしているように、たとえ学会寄進のものでも、壊すのは躊躇(ちゅうちょ)するはずだろう。後董(こうとう)として、修理をし、大事にしていくのが、師弟の筋目であり、法を嗣(つ)いだ者の礼だからである。それが、今や見る影もないのだから、いかに日顕の日達上人に対する怨念が深かったか分かるのである。(中略)
 すでに「河辺メモ」によって、日顕が「猊下は話にならない」「猊下では不可能だ」「猊下は安易な考えを持っている」などと、教学部長時代から日達上人を批判、軽蔑していたことが明らかになっている。こんな考えを持っていれば、日達上人の事跡を大事にするわけがないのは当然のことだが、こうした軽蔑や非難の邪念以上に、さらに日顕が日達上人に対して深い怨念や恨みを持つに至ったのは、日達上人から「相承」をしてもらえなかったからに尽きると思う。
 日達上人は、話題が次の法主の問題になっても、「信雄(しんのう)(日顕のこと)はなあー」と、いつも言葉を濁らせておられた。信心の面、人格や人間性の面で、上に立つのは難しいと考えておられたのである。(同)

 日興上人は日目上人への譲状で、「一、大石寺は御堂(みどう)と云い墓所(むしょ)と云い日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり」と明確に示されている。「修理を加え」ることこそ、日興上人の教えである。破壊するなど、もってのほかである。(同)

4.「事の戒壇」の意義は我らの御本尊に

 大御本尊は「事の戒壇」の正本堂から御遷座され、二度と登座されることはない。
 遠く、法華経嘱累品(ぞくるいほん)第二十二で「虚空会の儀式」を終えた釈尊が「諸仏よ。各(おの)おの安(やす)んずる所に随いたまえ。多宝仏の塔は、還(かえ)って故(もと)の如くしたまう可(べ)し」と言を作(な)して、諸仏を帰し、宝塔も姿を消した。
 今時、四半世紀もの間に、大御本尊を根本にいただいた正本堂において法華経の会座が行われたことは、まだ人の記憶にあるところである。しかし多宝仏の塔が大地に還った如く、正本堂もまた土に戻った。それでも「霊山一会儼然未散(りょうぜんいちえげんねんみさん)」、法華経の会座が立ち消えることは無い。
 我らは全国各地の会館で、また家庭で、大御本尊御写しの日寛上人御書写の御本尊を拝して、大御本尊を根幹とした法華経の会座に、日々列なっている。
〝大御本尊を格護する本山に参詣しなければ、成仏できない〟などとは、いかにも邪宗の言い分らしい。大御本尊は、信徒から御開扉料を吐き出させる囮(おとり)とされているのであり、御いたわしいことである。無法の日顕宗には、必ず厳しい因果律の果報が下されることであろう。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:4」を破折する(その二) 連載8回

妄説:4 「本門戒壇の大御本尊」とはどういうことですか。

〝本門の戒壇に御安置すべき究竟の御本尊〟という意味です。
 宗祖日蓮大聖人が、弘安二年十月十二日に御図顕された出世の本懐(ほんがい)たる大御本尊には「本門戒壇」との脇書(わきが)きがしたためられています。
 この「戒壇」について、日寛上人は『文底秘沈抄』に、「事」と「義」との戒壇があるとし、
「義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処」(聖典 849頁)、
「事の戒壇とは一閻浮提の人、懺悔滅罪の処なり云云」(同頁)
と指南されています。
 すなわち、「義の戒壇」とは各家庭も含めた本門の本尊安置の所で、その義理が事の戒壇に相当するということです。そして、その根本となる「事の戒壇」とは、宗祖日蓮大聖人が、
「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり」(新編 1675頁)
と仰せの、御遺命の本門寺の戒壇堂です。この「事の戒壇」に御安置申し上げる大御本尊でありますから、弘安二年十月十二日に御図顕の御本尊を「本門戒壇の大御本尊」と申し上げるのです。

破折:
7.正本堂建立は「実質的な戒壇建立」

 正本堂は、「正本堂御供養趣意書」に記される「事の戒壇」として勧募された。ところがその戒壇の意義が、正本堂の完成直前になって、法主により改変されたのである。
 今、宗門の側では正本堂御供養趣意書の文言は〝細井管長の本意ではない〟などと、次のように言う。

「しかし、趣意書の作成が正本堂建設委員会で行なわれ、日達上人が承認した形になってはいるが、当時の北条浩理事長が
『第1回正本堂建設委員会が終わってすぐに、貯金箱のことを考えたのも先生ですし、趣意書にしても、申込書にしても、作ってくださったのは先生です』(昭和40年9月29日付『聖教新聞』)
と述べているように、実質的な作成者は池田大作本人だったのである。
 しかして、発願主であり、実質的な建設供養者であり、建設委員会委員長である池田大作が作成した文書であれば、当時の状況として、御供養を受ける側の宗門が異議を申し立てることなどできなかったことは、当時を知る者なら誰でも首肯(しゅこう)できる事実だ」

 日顕のように、池田名誉会長や秋谷会長を本山に呼びつけておいて、有無を言わせず高圧的な言辞で迫ったわけではない。このような宗門のやり口を、「誰でも首肯できる事実」と言うのである。
 細井管長が「異議を申し立てることなどできなかった」どころではない。学会では当初において、「正本堂」と大聖人の御遺命の「戒壇」とは、別のものと考えていた。それが正本堂建設委員会において、細井管長自身がわざわざその説を否定し、正本堂が「実質的な戒壇建立」になる旨の指南をしたのである。
 細井管長が趣旨を提起し、これに基づいて池田会長が趣意書を起草したのである。「日達上人が承認した形」などではなく、「日達上人の意志によって決定」されたことであり、細井管長が不満を洩らすどころか、むしろその後、「正本堂建立は、実質的な戒壇建立である」旨を、以下の通り広く説法していたのである。

「大聖人様がこの法華本門の戒壇を建立せられ、今まさにその本門戒壇の戒壇堂が建立しようと云うのが今年の、この十月に法華講総講頭池田先生によって発願をせられておられるのでございます」
(昭和四十二年十月四日、甲府・正光寺、『大日蓮』昭和四十四年十月号)

「また今回法華講総講頭池田先生の大発願のもとに、本門の戒壇堂とも云うべき正本堂建立が、今月の十二日に今正に着工する着工大法要が行なわれる運びになっております」
(昭和四十三年九月十九日、札幌・日正寺でおこなわれた札幌開校五十周年記念法要、 『大日蓮』昭和四十四年三月号)

「此処に来る昭和四十七年、法華講総講頭、池田大作先生の大願に依って本門戒壇が将に建たんとして居るわけです」
(昭和四十四年一月二十五日、総本山大化城でおこなわれた第一回寺族指導会、『蓮華』昭和四十四年四月号)

「今当に時来り、法華講総講頭池田大作先生が大願主となり、事実上の本門戒壇堂である正本堂の建立が進行中であります」
(昭和四十四年四月六日、総本山でおこなわれた御虫払大法会、『大日蓮』昭和四十四年六月号)

「もとより正本堂は、本門戒壇の大御本尊安置の霊堂にして、梵天帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇也、かるが故に発願主池田大作、兼ねてより南閻浮世界各国の石を集め、妙壇の地下に埋めんと欲す」
(昭和四十四年十月十二日、総本山でおこなわれた定礎式、『大日蓮』昭和四十四年十一月号)

 これら一連の細井管長の説法から、正本堂が「本門戒壇の戒壇堂」であるとの意義は紛れもない。宗門がどれだけウソを重ねようとも、事実は動かない。

8.〝優柔不断で八方美人的な法主〟

 細井管長は、何ゆえ心変わりをしたのであろうか。
 目に見える形としては、暴力をも辞さない妙信講を、なだめ、抑えるためであったろう。正本堂完成の儀式前に、騒動を終息させておかねばならないとする実際的な理由はあった。
 結果として、八百万円の供養をした妙信講のために、三百五十億円の供養をした創価学会が忍耐することとなったのである。
 もっとも、妙信講は国立戒壇説を放棄することは絶対に無く、宗門が「実質的な戒壇建立」を放棄しようとも、国立戒壇の文言の無い「訓諭」を妙信講が素直に呑むはずがないことは、元々承知の上であったはずである。
 妙信講は納得せず、創価学会は大きく傷ついた。どちらも勝者ではないのだ。

「根本教義の問題に関し(略)優柔不断で八方美人的な法主の態度は、妙信講と創価学会の双方に、自己主張の正当性の確信と相手方に対する憎悪と反感の感情を与え、かえって葛藤を長期化させ深刻化させたであろう」
(『教義解釈の変更をめぐる一仏教教団の葛藤過程』西山茂著)

 当時の識者は上記の通り、冷静に分析している。また学会の顧問弁護士であった山崎正友は、別の角度から事態を次のように見ていた。
               ◇
 なんとか妙信講の過激な行動計画を回避し、宗門の動揺を収め、昭和四十七年十月一日から二週間に及んだ正本堂の完成奉告法要などの諸行事を、無事挙行するに至った。この頃、山崎が私(著者)に語った話は興味深いものがある。
「細井管長は創価学会だけが大きくなると困るんだよ。妙信講を創価学会のアテ馬にしようというのが本音だよ。学会が予想外に大きくなったんで怖くなったんだよ。二十年前は食いつめてたのに感謝もせず、坊さんってのは、そんなもんだよ」
(『暁闇』北林芳典著 報恩社 2002.12)

 ひとたび法主が正本堂建立の意義を改変したら、もう元には戻れない。その後に待っているものは何か、考えていたのであろうか。
 御供養を受け取っておいて、その後に勧募の趣旨が変更になれば、裁判沙汰等の騒ぎになるのは必至である。何よりも、御供養勧募の言葉を信じた一人一人の心中の動揺・衝撃を、宗門の最高責任者が最も配慮するべきではなかったのか。

9.論理の成立しない理不尽さ

 細井管長は正本堂建立の後年、次の通り説法している。

「『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か』
これについて、今迄のある一部の人も、国立戒壇ということを言っております。
 それは、ここに、戒壇堂という建物を造るということが頭にあるからであります。みな、そう思っちゃうのです。『戒壇を建立すべし』と、こうなっております故です。この建立という言葉が、建物を建てると、こう決まっているものではない。(中略)
 戒壇の御本尊まします所は、事の戒壇、事の寂光土であります。(中略)建物なんかどうでもいいんです。戒壇の大御本尊こそ我々の即身成仏の本懐の場所である。これが、正宗の信心である。正宗の皆帰である。我々のモットーである」
(昭和四十九年六月十八日「戒壇についての補足」学林研究科 於 大講堂)

「戒壇の御本尊まします所は、事の戒壇」であると。それは、第一回正本堂建設委員会において「大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります」と指南した言葉と、全く同じである。
 そうであるならば、「戒壇の大御本尊がまします所」である正本堂は、正しく事の戒壇である。
 だが、細井管長は講義の最後に至るまで、遂に正本堂に言及することは無かった。しかも「建物なんかどうでもいいんです」と、ことさらに無視の構えである。

〇〝戒壇の御本尊まします所〟は、「事の戒壇」である
〇〝戒壇の御本尊まします所〟である正本堂は、「現時における事の戒壇」である

 論理として成立しないことを、矛盾と言う。その矛盾を説く鍵は、ここに明示されていない〝命題〟が存在していることを、読み解くことにある。明示されていない命題とは、次のことに他ならない。

〇正本堂に言及するなら「事の戒壇」と認めない

 隠れた命題が何であるかは分かった。だが、〝理不尽〟であるとしか言いようがない。
 学会員は、細井管長の発言をもとに起草された「実質的な戒壇建立」との御供養趣意書の言葉を信じていたのである。正本堂建立の直前に、「現時における事の戒壇」と改変されたことに、誰もが落胆を隠せなかった。だが学会としては、どんなに口惜しい思いがあっても、法主の権威に疵を付けることは避けたのである。
「もしこの建立にあたって、少しでも傷がつくようなことがあれば、それは宗門あげての恥にもなります」とは、第一回正本堂建設委員会において、法主自らが述べた言葉である。しかし、宗門ではこれを〝恥〟として反省するどころか、かえって学会を悪に仕立て上げようとするのである。
               ◇
 細井管長はなぜ、「本門事の戒壇」について明確なあり方を示し得なかったのであろうか。御供養勧募の時には「実質的な戒壇建立」であったのに、建立直前にして、正本堂は「現時における事の戒壇」「広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂」となり、「実質的な戒壇」の意義は未来に委ねるとした。
「本門事の戒壇」のありようは、〝血脈相承の肝心〟の部分ではなかったのか。それが明示できなかったということは、「本門事の戒壇」についての相承の内容が歳月とともに失せてしまったのであろうか。確かに、出家にとって「本門事の戒壇」の建立は、永遠に未達成の目標として、据え置かれたほうが有利であることは間違いない。どのような在家指導者が現れても、その人物を本門戒壇の「願主・弥四郎国重」と比肩させない――。このことが出家にとっては、未来永劫にわたる自己存在の保障となるのだ。
(前出『暁闇』)

10.宗門はすべてカネ次第

 学会の顧問弁護士でありながら、正信会や日顕と気脈を通じ、利権を貪っていた山崎正友は、宗門を次のように見ていたと言う。
               ◇
 山崎は、昭和四十八年から翌四十九年にかけて富士宮で起きた正本堂の土地をめぐる告発事件において、日蓮正宗の高僧とさまざま折衝し、一信者からすれば雲上人である細井管長とも、折に触れて直接話し合っている。そのなかで山崎は、日蓮正宗首脳、なかんずく細井管長が〝上野村の和尚さん〟に過ぎないと思うようになった。そのために、その〝和尚さん〟を外護する創価学会すらバカにし始めたのだ。山崎の人生において信仰は無意味なものとなった。宗教を、自らの欲望を達成するための打出の小槌と考え始めるようになったのだ。

「坊さんはしょせん、金よ。プライドとかなんとか言ってるが、金を与えれば、どんないみじき方でも、すぐコロリだよ」

「坊さんは正本堂などという建物より現金のほうがよかったんじゃないかな。正本堂は将来、創価学会と別れるときに大きな足枷になるとしか考えてないよ。徳川幕府の参勤交代だと思ってるよ。費用を使わせられ、疲弊させられると考えている程度だよ。戒壇の大御本尊を荘厳するなんて考えは、まったくありゃしないよ。維持費がなくなるとなれば、すぐ奉安殿に大御本尊を戻すに決まってる。大御本尊を立派な建物に安置しようなんて考えは、もとよりないんだ」

 日蓮正宗に対するこうした山崎の考えは、いまや日顕宗と化した日蓮正宗の現状を見れば、正鵠を射ていたものだったかもしれない。聖僧などというのは異例の存在で、ほとんどの出家はこの山崎の分析どおりだったと言わざるを得ないのだ。
(前出『暁闇』)

「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」と言うが、同類は同類の行動をよく知っている。悪辣な陰謀に長けた山崎には、閉鎖社会に生きる陰湿な坊主の行動などとっくに把握しており、彼らの考えることなどお見通しだったのである。

11.「本門事の戒壇堂」の意義を受け継ぐSGI施設

 日蓮大聖人御遺命の「本門寺の戒壇」「事の戒壇」は、正しく創価学会により建立された。これは仏法史上に燦然と輝く壮挙であり、学会員の誉れの象徴である。
               ◇
 人々の信心の結晶である正本堂を、日顕は瞋恚の思いをもって平成十年、瓦礫に帰せしめた。だが、池田会長が「本門事の戒壇堂」の発願主であった史実を変えることはできない。多くの創価学会員がその発願に応じ莫大な供養をしたことも、風化することのない事実である。有形の建物はいずれ人為あるいは風雪をもって崩れていく。不壊のものは供養をなした人々の福徳である。
 法華経見宝塔品第十一で現れた「宝塔」において「虚空会の儀式」がおこなわれたが、嘱累品第二十二でその宝塔も、いちおう姿を消したことになっている。しかし「霊山一会儼然未散(りょうぜんいちえげんねんみさん)」。本門戒壇もまた然りである。
 今、日本中の創価学会の会館のみならず、世界各国のSGI施設に梵天・帝釈が来下している。「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」は、創価学会の三代会長の手により、全世界の民衆の中に息づき実相のものとなった。末法の御本仏・日蓮大聖人の説かれた教法が、今、末法の闇を確実に照らし始めている。

 龍泉寺申状(八五三㌻)にいわく、
「住坊を奪い取り厳重の御祈祷を打ち止むるの余り悪行猶以て飽き足らず為に法華経行者の跡を削り謀案を構えて種種の不実を申し付くるの条・豈在世の調達に非ずや」

(行智は、日秀、日弁らが住侶として職していた住坊を不法に奪い取り、住侶としてもっとも厳粛かつ重要な国家安穏の御祈祷もできなくしたうえ、さらに悪行を重ねて法華経の行者〈日秀、日弁ら〉の功績を抹殺し、虚偽を構えて追放処分にした。これらは仏法を破壊しようとした釈尊在世の提婆達多と同様の悪逆である)

 阿部日顕の悪行は龍泉寺の行智と変わらない。「法華経行者」たる池田名誉会長の事跡(功績)を抹殺し、「C作戦」という謀案をかまえて、種々の虚偽の理由をもって創価学会を破門した。日顕宗ならびに山崎正友らのなしたことは、釈尊在世の提婆達多とあまりに酷似していることに驚かされる。
(前出『暁闇』)
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:4」を破折する(その一) 連載7回

妄説:4 「本門戒壇の大御本尊」とはどういうことですか。

〝本門の戒壇に御安置すべき究竟の御本尊〟という意味です。
 宗祖日蓮大聖人が、弘安二年十月十二日に御図顕された出世の本懐(ほんがい)たる大御本尊には「本門戒壇」との脇書(わきが)きがしたためられています。
 この「戒壇」について、日寛上人は『文底秘沈抄』に、「事」と「義」との戒壇があるとし、
「義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処」(聖典 849頁)、
「事の戒壇とは一閻浮提の人、懺悔滅罪の処なり云云」(同頁)
と指南されています。
 すなわち、「義の戒壇」とは各家庭も含めた本門の本尊安置の所で、その義理が事の戒壇に相当するということです。そして、その根本となる「事の戒壇」とは、宗祖日蓮大聖人が、
「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり」(新編 1675頁)
と仰せの、御遺命の本門寺の戒壇堂です。この「事の戒壇」に御安置申し上げる大御本尊でありますから、弘安二年十月十二日に御図顕の御本尊を「本門戒壇の大御本尊」と申し上げるのです。

破折:
1.隠された「事の戒壇」の真実義

「本門寺の戒壇」すなわち「事の戒壇」たる正本堂は、六十六世日達法主(細井管長)の建立に成り、願主は創価学会池田会長である。
 この「事の戒壇」は昭和四十二年着工、五年の歳月をかけ、昭和四十七年十月に完成した。ところが宗門は完成の直前になって、「現時における事の戒壇」と改変を発表、御供養勧募に応じて浄財を寄進した数多の信者の真心を、翻弄したのである。
 そして完成の二十六年後(平成十年)、日顕によって正本堂は破壊された。
 宗門は法主二代にわたって「事の戒壇」の真実義を覆い隠し、最後には容赦なく踏みにじったのである。

2. 当初の正本堂の意義

 池田会長が正本堂の寄進を発表したのは、昭和三十九年五月三日の本部総会であった。

「第一番目は、この七年間において、総本山、日達上人猊下に正本堂を建立、ご寄進申し上げたいということであります。
 恩師戸田先生が、大客殿の建立が終わったならば、ひきつづいて、すぐに正本堂の建立をしなさい。すなわち、世界の建築の粋を集めて、一閻浮提総与の大御本尊様をご安置申し上げる正本堂を建立しなさいとの遺言がございました。そこで、私は、皆さま方に、さらにこのことをご理解いただいて、正本堂を建立して、日達上人猊下にご寄進申し上げたい。(中略)
 正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります」

 このとき池田会長は、正本堂は大聖人の御遺命の戒壇とは別のものと考えており、正本堂が建立されれば、あとは戒壇堂を残すのみである、としていたのである。

3. 細井管長が「実質的な戒壇建立」を指南

 細井管長は第一回正本堂建設委員会において、戒壇建立の意義を明確に述べている。

「いよいよ、きょうこの委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えを申し上げておきたいのであります。
 大聖人より日興上人への二箇の相承に『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のための偉大なるご遺訓であります。(中略)
 大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります。それゆえ、百六箇抄には『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり』と大聖人のお言葉が、はっきりご相伝あそばされております。
 また同じ百六箇抄の付文に『日興嫡嫡(ちゃくちゃく)相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり』と、こう明らかにされておるのでございます。
 したがって、その曼荼羅を現在では大石寺の本堂にご安置することが、もっともふさわしいと思うのであります。戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。(中略)今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。
 ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります。ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでございます(後略)」
(昭和四十年二月十六日、第一回正本堂建設委員会 引用:「地涌」第100号 1991年4月9日)

 上記の通り、細井管長の意志により特別な戒壇堂は造らず、正本堂が「実質的な戒壇建立」になる旨、指南したことはまぎれもない事実であった。

4.御供養勧募「趣意書」

 第一回正本堂建設委員会が挙行された翌月の三月二十六日、創価学会本部で細井管長、池田会長が出席し開かれた第二回建設委員会では、正本堂建立のための供養を呼びかける「正本堂御供養趣意書」の最終案が決定された。正本堂の御供養勧募にあたって発せられた同「趣意書」には、次のようにある。

「戒壇の大御本尊様が、いよいよ、奉安殿よりお出ましになって、正本堂に御安置されることを、正式に仰せくだされたのであります。かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになったのであります」
(昭和四十年三月二十六日 正本堂御供養趣意書)

 ここに「正本堂建立は、実質的な戒壇建立」であることが明確に述べられ、同年九月十二日の細井管長の『訓諭』を受けての『院達』にも、戒壇建立が明言されている。

「今般、管長猊下より、別紙の通り訓諭が発せられたので通達いたします。
 今回の正本堂建立は、宗門僧俗にとってこの上ないまことに重大な事業であります。すなわち、訓諭に仰せ遊ばされてあるように、本門戒壇の大御本尊を奉安申し上げる清浄無比の大殿堂であり、このことは、大聖人の御遺命にしてまた我々門下最大の願業である戒壇建立、広宣流布の弥々事実の上に於て成就されることなのであります。
 此の千載一遇の秋(とき)に当り、宗内各位には、訓諭の御意を体し、総講頭発願のもと打って一丸となり、その浄財を尽して深信の御供養を下種三宝の御宝前に捧げ、以って未曾有の鴻業達成を期されんことを願います」
(昭和四十年九月十二日 宗務院院達)

 さらに細井管長は同年の学会本部幹部会においても、宗旨通りの戒壇建立であることを述べている。

「ただいまお聞きのとおり、だれも想像しなかったほどの多額の御供養をお受けいたしました。広宣流布達成のための、大折伏の大将である池田会長が、宗祖日蓮大聖人の『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』のご遺言にまかせ、戒壇の大御本尊様安置の正本堂建立を発願せられ、学会の皆さんに建立御供養を発願せられて、このりっぱなる成果となったのでございます」
(昭和四十年十月十七日 創価学会本部幹部会)

5. 改変された正本堂の意義

 前項での「正本堂御供養趣意書」に明記された「実質的な戒壇建立」の意義は、建立直前になって細井管長により改変された。

「『正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時における事の戒壇である』と宣言する次第でございます」
(昭和四十七年三月二十六日「正本堂の意義について」)

「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」
(昭和四十七年四月二十八日「訓諭」)

「現時における」「広宣流布の暁に……」とは、正本堂は〝仮の戒壇〟であるとされたことであり、それは法華経で説かれる〝化城〟と同じ扱いである。これでは御供養勧募の趣旨に賛同して拠出した人が、納得するわけが無いのは当然である。戒壇の意義の改変は、人々を落胆させ、翻弄させる結果となった。
 正本堂完成直後の昭和四十七年十一月十一日、正本堂御供養金返還訴訟を起こした者があり、判決が二転するという大変な裁判となった。宗門管長の発言のために引き起こされた事態であったが、学会はこれらの騒動にも対応しなければならなかった。
 正本堂建設委員会における細井管長の発言の詳細を見ておこう。

「一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります。(中略)
 大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。(中略)
 したがって今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります」

 学会は当初、正本堂と戒壇堂とは別のものと考えていた。だが、細井管長の指南により、戒壇堂を別に造らず、正本堂に大御本尊を御安置することとされ、あらためて正本堂が大聖人の御遺命の戒壇、「実質的な戒壇建立」になるとされたのである。
 学会は、この細井管長の趣旨を奉じ、御供養勧募の文面を起草した。それが正本堂の完成直前になって、当の法主から御供養勧募の趣旨の改変が発布されたのである。
 もし池田会長が当初に想定した通り、戒壇堂を別個に建立していたら、法主がその戒壇堂を指して「現時における事の戒壇」と意義付けたとしても、正本堂には「本門寺の本堂」としての意義があったことであろう。ところが正本堂と戒壇堂とが一体とされたため、正本堂そのものが「〝仮の〟事の戒壇」とされてしまったのである。
 学会は、宗門に裏切られた上、その対応に追われなければならなかった。
 
6. 妙信講の横暴

 昭和四十五年、正本堂完成を二年後に控えて、妙信講という〝国立戒壇説〟に固執する、偏狂な法華講の一講中が妨害に及び、正本堂の意義の改変を宗門に迫った。
 そもそも妙信講は、法華講連合会が発足した昭和三十八年、「妙信講は特別な講中である」として、連合会に入ることを拒んだ。そのため、妙信講は登山することができなかったため、連合会に対し不穏な言葉で威嚇していた状況にあった。
 こうしたところに、御供養勧募が行われた。もともと正本堂に関する御供養は、法華講と創価学会しか受け付けがなかった。妙信講はここでも騒ぎを起こし、ようやく宗門に御供養を認めさせた。だが宗門はこの御供養金を受け取ったために、彼らが正本堂の意義に異論をはさむ口実を与えてしまったのである。
 妙信講も「正本堂御供養趣意書」に賛同して、講中を挙げて供養しているのであるから、当初から正本堂が国立戒壇では無いことは承知の上であり、今さらながらの異議申立てであった。御供養は、騒ぎを起こすきっかけとして必要だったのである。
 妙信講講頭の浅井昭衞は持論に執着し、脅迫的言辞を吐くのが常である。宗門は弱腰で、浅井をなだめすかして、その場をしのぐ対応しかできず、それが更に、相手を増長させていく結果となった。
 細井管長は、この物騒な浅井との談判に応じたのである。浅井が執拗に迫るも、細井管長は国立戒壇の義は拒んだ。だが細井管長は談判のなかで、当初の「実質的な戒壇建立」の理念が、次第に弱まっていったのであろうか。
 前出の訓諭は、「従わなければ解散処分に該当する」と妙信講に通告するために発布されたものであった。だがその文言には、「実質的な戒壇建立」(「趣意書」)から大きく後退した内容が記されていた。妙信講への妥協と取れるが、ともかくも細井管長の心変わりを示すものであった。
 妙信講は宗門に従わず、昭和四十九年八月十二日、細井管長の名でついに講中解散処分となった。
 同年十月四日午後六時頃、妙信講青年部約七十名が創価学会本部を襲撃し、突入した。宣伝カーで創価学会本部の鉄扉を撃破するなど、横暴の限りを尽くしたため、建造物不法侵入罪、器物損壊罪、暴行罪、礼拝所不敬罪、強要罪の現行犯で十二名が逮捕され、うち三名が起訴されたのち有罪が確定した。
 妙信講は現在「冨士大石寺顕正会」と名乗り、従来からの暴力体質を強めている。また本門戒壇の建立地の解釈等で、未だに宗門との間で不毛の論議を戦わせている。

(引用)
「暁闇」北林芳典著 報恩社発行 平安出版発売 2002年11月17日初版第1刷発行
                          (続く)

日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:3」を破折する 連載6回

妄説:3 「人法一箇」とはどういうことですか。

「人法一箇」とは、日蓮大聖人の顕わされた大御本尊は、人・法の名称は異っても、その体は同じであるということです。
「人」とは、人の本尊たる御本仏日蓮大聖人のことであり、「法」とは、法の本尊たる事の一念三千、南無妙法蓮華経の御本尊です。
 日寛上人は『文底秘沈抄』において、三大秘法の「本門の本尊」を、人・法の二つに開かれ、人本尊は
「久遠元初の自受用報身の再誕、末法下種の主師親、本因妙(ほんにんみょう)の教主、大慈大悲の南無日蓮大聖人」(聖典 838頁)
であり、法本尊は
「事の一念三千無作本有(むさほんぬ)南無妙法蓮華経の御本尊」(聖典 834頁)
であると指南されています。
 この人・法の本尊は、
「人即是れ法、自受用身即一念三千なり、法即是れ人、一念三千即自受用身なり」(聖典 843頁)
と指南されているように、人法一体の御本尊なのです。
『御義口伝』にも
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(新編 1773頁)
と仰せられ、この御本尊が大聖人の当体そのものであると教示されています。
 したがって大聖人を離れて南無妙法蓮華経はなく、南無妙法蓮華経を離れて御本仏日蓮大聖人はないのです。

破折
1. 〝偶像崇拝〟の宗門

 宗門はここでは「人法一体の御本尊」の例のみを挙げている。しかし日蓮正宗の伝統的な教学としては、「法本尊が曼荼羅」「人本尊が御影像」として、御影本尊を祀るのである。宗門としては、学会に対抗する上で、この事実を隠しておきたいのであろう。
 学会員はほとんどの人が、御影本尊のことは知らない。比較的新しく入信した法華講員も同様であろう。次の興味深い話がある。
               ◇
 皆さんが「人法一箇論」をどう理解しているかは定かではありませんが、26世日寛上人は、「人本尊」として「日蓮御影」を挙げています。古い法華講の人たちの家に御影像がよくあります。牧口記念会館にもありますけれども、あれが実は「人本尊」です。そして曼茶羅、これが「法本尊」です。要するに二つの本尊がある。それはどちらでも同じだというのも変ですが、「人本尊も法本尊も同じである」というのが「人法一箇論」のオリジナルモデルです。(中略)
 創価学会はそういうふうに解釈しません。「人法一箇」というのは、「御義口伝」に書いてある「南無妙法蓮華経は法華経の行者の宝号なり」ということであり、「別しては大聖人」であると解釈しています。要するに大聖人というのは「南無妙法蓮華経如来」であると。そういうようなことで、「戒壇の御本尊」が大聖人だという考え方で御影本尊論を採用していません。これは日蓮正宗にはない考え方ですね。牧口先生は日蓮仏法が他の宗教と違うのは、人格神や仏菩薩を本尊とせずに、法つまり曼茶羅を本尊としている点に見ています。創価学会はその牧口先生の考えを受け継いで、日蓮正宗とは異なった人法一箇論を採用しています。
(「宗教における原理主義と改革主義一牧口常三郎の挑戦一(続)」〈宮田幸一のホームページより〉)

 宗門は「釈迦仏ではなく、大聖人の御影だから正しい」と言うであろうが、五字七字の法華経(妙法曼荼羅)ではなく、〝人形〟を本尊と見なすかぎり、〝偶像崇拝〟に変わりはない。

2. 十七世日精:釈迦仏像を安置

 そもそも宗門には、十七世日精によって、半世紀にわたり寺院に釈迦仏像を安置していた大謗法の歴史がある。これにかかる宗門の言い訳は、次の通り。

「帰伏寺院である常泉寺では暫くは仏像があったかもしれないが、それは日精上人の造立ではないこと、御登座以後の日精上人には、造仏思想は一切見られず、逆に、当家の別体三宝式を明確に表明した総本山客殿の宗祖大聖人、二祖日興上人の御影を造立されたのは日精上人であられ、これは宗祖日蓮大聖人を、久遠元初の御本仏と信解されていた証拠であること、また敬台院に対する厳しい、仏像廃棄の指導からも、御登座後の日精上人が厳しく富士の化儀に則られた御化導をなされたことが明確に拝されるのである」
(「新興宗教『創価学会』と離脱僧らの再度の邪難を摧破す」より)

 しかし、十七世日精によって仏像が安置された寺院は、常泉寺だけではない。『富士宗学要集』に収録された資料などを総合すると、造仏をおこなった寺院は確認されるだけで、「法詔寺」「常泉寺」「青柳寺」「妙経寺」「本成寺」「久成寺」「長安寺」「本源寺」「鏡台寺」「常在寺」「実成寺」などに及んでいる。
「敬台院に対する厳しい、仏像廃棄の指導」とは何か。敬台院が寄進した法詔寺建立の翌年、仏像を造立したことにより宗内が騒然となったため、日精が宗内の造仏に反対する動きを封じるために著したのが、悪名高き『随宜論』である。

「造仏は即ち一箇の本尊なり、誰か之を作らざる。然るに今に至るまで造仏せざることは聖人の在世に仏像を安置せざるが故なり」
「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり如何」
「古より今に至るまで造仏は堕獄の因と称するは誤りの甚だしきなり」

(仏像は本尊であり、造仏は当然のことであるけれども、これまで行なわれなかったのは、大聖人が為されなかったことのみが理由である。
 大聖人が仏像を造立・安置されなかった理由は、諸処を転々とされ居処が定まらなかったためである。〈後略〉)
 
 日興上人に違背する大邪義を、恐れも無く展開している。さすがに宗門としては、次のような愚にもつかぬ言い訳しかできない。

「敬台院への批判をかわすため、事態を収拾し宗門を守るため、一時の方便として『随宜論』という造像擁護の書を著す必要が生じたのである」

 何が「一時の方便」なものか。「御登座以後の日精上人には、造仏思想は一切見られず」などと言うが、日精は死ぬまで仏像安置を改めようとしなかった、すなわち何の反省も無かったことを、宗門はどう言い訳するのか。
 退座した後も、日精の目の黒いうちは後の法主といえど気兼ねしたのか、仏像に手を付けなかった。よって仏像が撤廃されたのは日精の死後のことであり、実に五、六十年もの間、末寺には仏像が祀られていたのである。宗門は、この半世紀にもわたる謗法を指して、何事もなかったかのごとく「暫くは」などと言う。
 戦時中には軍部政府の弾圧を恐れ、「形だけのこと」として、神札甘受等のあらゆる謗法を犯してやまなかった宗門である。どれほどの大謗法を犯そうとも、「一時の方便」とさえ言えば、解消できると思っているらしい。
 しかし、謗法厳戒の大聖人、日興上人に違背した罪業は、決して消えることはない。何よりも、大御本尊がご照覧である。厳しい因果律は、日精のみならず、これを擁護する日顕・日如にも及ぶのであり、法華講も与同罪である。当然ながら後生を恐るべきである。

3.十七世日精:大聖人御影安置

 前項で、宗門の〝邪難を摧破す〟の文において「別体三宝式」と言っているのは、御本尊の左右に大聖人御影と日興上人御影とを安置する形式である。三宝とは、曼荼羅の御本尊が法宝、大聖人御影が仏宝、日興上人御影が僧宝を表わす。
 これに対し「一体三宝式」とは、三宝がすべて込められたものとして曼荼羅の御本尊のみ奉安することであるが、その別形態として、御本尊の前に大聖人御影を安置して、法宝と人宝とに分けたのが、御影堂の奉安形式とされる。ここで大聖人御影は「人本尊」を顕わすとする。
 この二つの奉安形式は、上記の通り仏法僧の三宝、また人法即一を表わすものとしている。
 しかし御本尊と御影像とを共に祀るのは、後代に成立した慣習である。日蓮大聖人、日興上人の法義であるわけがない。五十九世堀日亨法主は、次のように述べている。

「また、この本尊を普通の三宝、すなわち仏法僧に区別するとき、仏と僧とは宗祖、法は妙法曼荼羅として、一体三宝に見ることもあるが、古くより仏は宗祖、法は曼荼羅、僧は御開山を代表として、その御影を加うることがあり、それを三宝式とも、古くは三幅一対なんどといっているが、宗祖開山の時代にありうべきものではない。目師以後にできた儀式かも知れぬ。これは一般の通儀でなく、特別の式と見るべきものであろう」
(『綱要』46)

 十七世日精は万治三年(一六六〇年)に、大石寺客殿安置の大聖人御影と日興上人御影とを造立している。
 宗門はこれを捉えて「宗祖日蓮大聖人を、久遠元初の御本仏と信解されていた証拠である」などと言うが、問題の所在はそこにあるわけではない。釈迦像が御影像に取って替わられているということは、御影像を大聖人の「仏像」と見立てているのである。
 奉安形式を「別体三宝式」としようと、「一体三宝式」としようと、木像である御影を、帰命依止(きみょうえし)の根源たる大御本尊と同列に祀っているのであれば、事実上の造仏義である。
 宗門として釈迦仏像の造立を認めないと言うだけで、大聖人の正意である大御本尊に帰命する根本義から、逸脱しているのである。
 御影を造立・安置する事は、造仏癖の止まない日精好みの題材であった。

4. 本尊雑乱

 大聖人の御影を御本尊の前に安置するのは、日蓮正宗だけではない。身延日蓮宗をはじめとする各宗派に、一般に行なわれていることである。
 身延日蓮宗の場合、中央には大曼荼羅(十界曼荼羅)か、釈迦牟尼仏、あるいは三宝尊のいずれかを、御本尊として祀るとする(三宝尊とは向かって右に多宝如来、中央に「南無妙法蓮華経」の御題目、左に釈迦牟尼仏を配す)。
 その右に鬼子母神、左に大黒天の掛け軸または木像を祀る(法華宗では逆)。それらの前中央に、大聖人御影を祀る。
 宗派、寺院によっては、それ以外にも毘沙門天、七面神、妙見等の置物等を安置する。
 このように配置された仏壇に対座して、すぐ目に入るのは、仏壇の一番奥に安置された曼荼羅本尊であるわけがない。むしろ手前の、庶民に分かりやすい鬼子母神や、妙見等の絵像・木像に視線が注がれる。
 それだから日蓮宗の信徒が見ているのは、妙法五字ではなく、神部や鬼神等であるから、信徒の精神が、鬼神等に乗っ取られてしまい、不幸を招くことになる。
 このことは、日蓮正宗においても同様である。故・渡辺慈済住職は手記の中で、次の通り証言している。

「檀家の人たちが謗法の仏像などを自宅に祀るようになったのも、塔中坊の御宝前の形が影響していた。
 当時、寂日坊や観行坊では、御本尊の前に大きな御影が安置されており、奥にある御本尊は暗くてよく見えなかった。皆、教学を学んでいるわけではないから、御本尊の大切さが分からない。自然と、御影をありがたく拝むことが大事だと思うようになって、仏像についても手を合わせることが当然のようになったものと思う。そして、自宅にも仏像を祀る人も出てくるようになってしまったのである」 
(「日蓮正宗〝落日の真因〟」渡辺慈済著 発行所:第三文明社)

 大聖人の御影は身延山にも、身延の信徒の仏壇にも祀られてある。大石寺の宗門と身延が坊主同士で親しいのも、共に本尊雑乱のゆえか。〝精神構造〟が似るはずである。

5.御本尊流布を妨げる御影像
(1)戸田会長の明察

 戸田会長が、「創価学会の本尊」と「寺院の本尊」との、功徳の違いを指摘した話が伝わっている。
                ◇
 私が東洋哲学研究所の学術大会で牧口常三郎について発表し、御影本尊論に言及したとき、出席していた篠原誠に、戸田城聖が御影本尊について何か言ってなかったかと質問したことがあった。すると彼は、池袋の寺院で戸田が住職も同席して青年部の幹部と懇談していた折、戸田が「創価学会の本尊には本当に功徳がある。」という話を強調していたので、創価学会の本尊も日蓮正宗の本尊も同じなのに不思議なことを言うなと思って、篠原がどういう意味かと尋ねたところ、住職に向かって、戸田は「お前のところの本尊はよく見えないじゃないか」と日蓮御影の陰になって、曼荼羅本尊が見えないことを指摘し、後に寺院から日蓮御影が撤去されたというエピソードを紹介してくれた(小野不一によれば、寺院は常在寺で、住職は後の管長となる細井日達だそうだ。)(2011/9/16付加)。このエピソードは、戸田城聖が日蓮御影を本尊とすることに対して無知だったわけではなく、否定的見解を持っていたことを示していると私は考えている。
(漆畑正善論文「創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ」を検討する(1) 〈宮田幸一のホームページ〉より)

 戸田会長は、御影像が御本尊流布の妨げになることを明察していたのであり、また細井管長(日達法主)は、戸田会長の真意をよく理解していたようである。
               ◇
 この御影の教学的位置付けについてはその後どのような議論があったのか不明であるが、日達は御影堂修復の法要において「御影だけではいけないから、裏には本尊を安置し、内部には本尊を入れておく。木像そのものを中心とするのではなく、凡夫の目から見て大聖人を慕い申す、人情の上から安置している。」と述べている(『日達上人全集』2-6 p91)つまり御影が本尊であるという見解は採っていない。
(「法体としての本尊論と法主の権限 1991」〈宮田幸一のホームページ〉より)

 だが、当時の日達法主がどれだけ注意を払っても、伝統の「別体三宝式」における御影像が取り払われるわけでもなく、目に見える形で変わったわけではなかった。
 この三宝式の御影像は、やがて日顕に悪用されることとなる。

「三宝一体とは、まさに本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、その内証において、一体不二の尊体にましますということであります」(「能化文書」平成三年九月)
 
〝三宝一体〟は本来、仏壇の安置形式における用語である。そこに生身の人間が入る要素は無い。信仰の対境たる僧宝(久遠元初の僧宝)とは、日興上人御一人である。
 ところが、宗門は僧宝の範囲を拡大解釈して「歴代の御法主上人」と改変した。これにより「歴代の御法主上人」に含められる日顕を「僧宝」と見做し、大御本尊、大聖人と一体不二であるとする、大誑惑(おうわく)の邪義を展開するに至った。まさしく法主を本尊とする、法主信仰である。
 三宝式御影像が、法主信仰の温床であった。まさしく御影像は、信者と御本尊とを引き離す役割にあったのである。

(2)日興上人が指摘された五老僧の造仏義

 富士一跡門徒存知の事(一六〇五㌻)にいわく、
「一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇(あが)め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間・盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士(きょうじ)とす、仍(よ)つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸(か)け奉り又は堂舎の廊(ほそどの)に之を捨て置く。
 日興が云く、聖人御立(ごりゅう)の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任(まか)せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」

(一、五人が一同に言う。本尊については、大聖人は釈迦如来を崇めるべきであると言われ、御自身、釈迦仏を立てられたし、弟子檀那等にも釈迦如来の造立・供養について述べられた御書がある。そのような言い分のもと、五人は盛んに釈迦如来を安置する堂舎を造ったり、あるいは釈迦如来の一体仏を安置したり、あるいは普賢菩薩・文殊菩薩を脇士としたりし、大聖人御筆の曼荼羅本尊については、その釈迦如来の仏像の後ろにかけたり、また堂舎の廊下に捨て置いているのが実情である。
 日興が言う。大聖人が立てられた法門においては、全く絵像や木像の仏・菩薩を本尊とは立てない。ただ御書の本意通りに妙法蓮華経の五字を本尊とすべきである。すなわち大聖人御自筆の御本尊がこれである)

 日蓮正宗が御影の後ろに御本尊を安置することと、五老僧が釈迦如来の仏像の後ろに御本尊を懸けることとは、「御本尊を疎んずる」ことに変わりは無い。

(3)御本尊は「法華経の題目」

 日蓮大聖人が御本尊と定められたのは、「法華経の題目」(「本尊問答抄」)であり、すなわち曼荼羅御本尊である。

 本尊問答抄(三六五㌻~三六六㌻)にいわく、
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし(中略)問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」

 曼荼羅御本尊以外に本尊を立てることが大聖人の正意でないことは、前項の通り日興上人が明らかにされ、日寛上人も末法相応抄(六巻抄)に述べられている。
 その造仏義の対象が釈迦像では無くて、大聖人の御影であろうと、造仏という趣旨において同一であり、本山の「別体三宝式」も「一体三宝式」も、ともに大聖人の正意では無い。
 御影像を崇めることは、日精の造仏義に通ずる。この事実を明らかにしなければならない。

6.纏め

 日蓮大聖人の御本懐とは「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 二五四㌻)と仰せにある、妙法曼荼羅の御本尊である。
 この意義において、後世の信徒が御本尊を「法本尊」、御影像を「人本尊」として拝することは、大聖人の法義を曲げるものである。
 そもそも、御本尊の中尊に御座(おわ)します「南無妙法蓮華経」は法で、「日蓮判」は人であり、御本尊の当体そのまま人法一体である。御本尊の他に、もう一体の本尊を立てる必要があろうか。
 大聖人の御影を安置したのは、遠く日興上人に遡る。それは何よりも大聖人を崇敬し、その追慕の念を深め、御供養するためにあった。
 だが、御影を「本尊」と見なすことは、「信仰の対境」とすることであり、日興上人が戒めたところの〝造仏義を立てた五老僧〟と同じ境界に陥る。すなわち大聖人の像が、釈迦像と入れ替わっただけのことである。
 戸田会長が「創価学会の本尊には本当に功徳がある」と言ったことは、寺院式の仏壇では御本尊の前に御影があるため、御本尊への信心が集中されず、結局は身延と同様の〝本尊雑乱〟となることを指摘したものであった。
 その道理を理解したからこそ、当時の細井住職(後の日達管長)は、寺院から日蓮御影を撤去したのである。日達管長は就任後も、御影の扱いには配慮していたようであるが、宗門の伝統そのものは停止できず、本山の「別体三宝式」の御影像を撤廃するには至らなかった。
 ここが改革の限界であった。撤廃されないゆえに、御影像が謗法要素として存続し、ために日顕の取り込むところとなり、法主信仰の基となったのである。
 従来からの「三宝式」の仏壇形式が、日顕、日如以来、当職の法主を僧宝に含めた「三宝一体義」に援用されて、〝法主本尊〟の邪義となった現実からして、日蓮正宗では古来より謗法の要素を伝持してきたわけである。しかし創価学会は、当初から宗門の妄執を見抜き、これを払い除けてきた。
 日蓮大聖人の正しい仏法は、ひとり創価学会にのみ受け継がれている。正法伝持の任を失い、今や邪法・邪義の掃き溜めとなった宗門は、正法流布の上での障礙(しょうげ)である。魔の宗門は、一日も早く解体されねばならない。
                           (了)
 

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Author:墨田ツリー

 
 
 

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