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自然選択説は、論理的に破綻した仮説です。間違っています。従って、彼らの主張するような仕組みによって、生物進化が起こることはありません。 もちろん、生物が進化している事実は否定しません。しかし、自然選択説の説明は間違っています。 それは、人為選択の類推から作り出されたことからも理解されるように、人間と自然の素朴な混同、即ち、自然の擬人化です。 もっと、ハッキリ言えば、これば、「いい。わるい。」の価値観を使ったトリックです。全員が騙されています。哲学者も含めて、人類は、まだ誰も、これに気がついていません。人間という動物の宿命を感じさせる、非常に根の深い問題です。 |
目次
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第一章 概要 生物が進化しているのは、化石などの資料から、事実だと思います。長い年月をかけて、ゆっくりと姿形を変えています。しかし、自然選択説の説明は間違っています。物理的作用の因果関係が成り立っていません。従って、彼らが主張するような仕組みによって、物理現象が起こることはありません。 これは、「いい。わるい。」の価値観を使ったトリックです。この価値観を使ったトリックを見破るには、次の3つの方法があります。 |
@ | 原因と結果の因果関係に基づいて、論理的に思考する。 |
A | 豊富な人生経験を使う。 |
B | 大脳ロボトミー患者の実験データを使う。 |
豊富な人生経験は、体験がなければ理解できません。大脳ロボトミーも、倫理上の問題があって、現代では行われていません。 そこで、ここでは、そのような特殊な事例を持ち出さなくても、比較的理解できる可能性が高い『原因と結果の因果関係』を中心にして述べていきます。日頃、使っている常識的な思考パタンではなくて、あまり使い慣れていない論理的思考パタンを使いますので、振り落とされないで下さい。物理学の素養のある方は、物理学理論を理解する時のように、記号処理されると簡単です。なお、余談ですが、記号論理学は、この目的の為の道具としては使えません。 自然選択説が、論理的に破綻していることを説明します。 彼らは、「生存にとって都合のいい個体が自然選択されて、その結果生物は進化した。」と主張しています。『生存に都合がいい。』が原因になって、自然選択が起ったと考えています。 |
原因 | 現象 | 結果 | |||
自然選択説 | 生存に都合がいい | --> | 自然選択 | --> | 生物進化 |
物理的作用か | 物理的作用でない | ? | 物理的結果は生じない |
(注:現代生物学では、進化の表現が微妙に揺れています。『変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある。』が、正確な表現だ。正確に表現されていなので、この反論は無意味だと思われている場合は、上記リンクの内容をご確認ください。『生存に都合がいい変異が選択された。』という言葉を言い換えているだけだと理解できます。) この主張は、一見、因果関係が成り立っているようにみえます。しかし、この『生存に都合がいい。』という主張は、言語文法上、『いい』という形容詞が使われていることからも理解できるように、物理的作用について、述べた言葉ではありません。これは、我々人間という動物が持っている『いい。わるい。』の価値観です。現象を観察した結果、心の中に生じている主観的印象です。何らかの動作や動きを表現した言葉ではありません。 ここが重要です。『生存に都合がいい。』は、物理的作用ではありません。 従って、「物理的作用でないものが、『自然選択』という物理現象の原因となって、生物進化という物理的結果が生じた。」という自然選択説の主張は、論理的に破綻しています。『生存に都合がいい。』という価値判断は、物理現象の原因になることはできません。 それは、観察の結果、心の中に生じている事象です。心の中の事象は、物理現象の原因になることはできません。物理的作用の因果関係が成り立っていないので、そのような物理現象は起りません。 「以上で、説明は終りです。」 論理的に思考しているなら、もう、これ以上の言葉は必要ありません。物理学なら、因果関係が成り立っていない時点で、終わっています。これは、自然科学の理論ではありません。 しかし、そうは言っても、半信半疑、実感としては、納得できないと思います。キツネに化かされたような、スッキリしないワダカマリが残っているのではないでしょうか。言葉が、心の中に留まらないで、「あれっ。」と思う間もなく、そのまま、流れ去ってしまったのではないでしようか。「なんて言うか。自分の持っている実感と少し違うのだよね。それは、あくまでも、理屈であって、ググっとくる確信では無いんだよね。」「君の言っている事こそ、トリックだ。」と感じられているかもしれません。 それは、皆様が、論理的思考によって、物事を理解しているからではなくて、もっと、別の、日常使っている思考パタンを使って、この問題を処理しているからです。ほとんど無意識に使っているので、自覚はないと思いますが、今の心を支配している揺るぎない確信は、そこから生み出されています。その確信と共鳴を起さないから、「何かが違うんだようね。」と感じてしまいます。 この論理的思考を拒否している、揺るぎない確信の正体を明らかにしていくことが、これからの作業になります。皆様が、無意識で使っている日常の思考パタンの正体を、抉り出していきます。 もう少し、言葉を続けます。 この価値観を使ったトリックは、植物の光合成をとれば、解りやすいと思います。 明るければ、植物は光合成を行い、暗ければ行うことができません。『明るい、暗い。』は、人間にとって重要な判断基準です。この判断に誤りはありません。しかし、これは、植物が光合成を行っている現場を観察して、人間が感じている主観的感想、即ち、価値判断です。形容詞を使って表現されているので、あくまでも、観察結果です。形容詞は、観察対象、即ち、名詞を、その観察結果に基づいて、修飾する言葉です。花(名詞)を観察して、きれいと感ずることができるなら、「きれいな花。」と修飾されます。汚いと感じたら、「汚い花。」と表現されます。それは、物理的作用を表現した言葉ではありません。主観的印象を表現した言葉です。 従って、『明るい』は、光合成の直接の原因になることはできません。『明るい』という価値判断が原因となって、光合成が起こることはありません。これの直接の原因になることができるのは、『光が当たる。』という物理的作用のみです。動詞で表現されている物理的作用のみです。これだけが、必要条件です。 日常、使っている、「明るいから光合成が起っている。」という慣用的表現は正確ではありません。正確には、「光合成が起っている現場を観察すると、『明るい』と感じる。」です。あくまでも、観察結果です。「明るいから。。。」は結果論です。副作用から、結果を推測しているだけです。 なお、物理的に正確な表現は、「光が当たると、光合成が起こる。」です。この表現だと、物理的作用の因果関係は成り立ちます。物理的実験によって、再現可能です。 人間の感性を表現した言葉と、物理的作用の因果関係を表現した言葉では、その用法が大きく異なっています。人間の感性は、形容詞を使った名詞の修飾として表現されますが、物理的作用は、物理的な動きなので、動詞として表現されます。 |
現象名 | 品詞 | 原因 | 結果 | 因果関係 | |
価値観を使った説明 | 形容詞 | 明るい | -> | 光合成 | × 成り立っていない |
物理現象 | 動詞 | 光が当たる | -> | 光合成 | ○ 成り立っている |
自然選択説 | 形容詞 | 生存にいい | -> | 自然選択 | × 成り立っていない |
自然選択説についても、『生存にとって都合がいい。』という価値判断は、主観的感想であって、現象の観察結果です。物理的作用ではありません。確かに現象を観察すれば、生き残っている生物は、どれも巧妙に環境に適応しているように見えます。これは、疑いのない事実です。しかし、このような感想は、それ自体、観察結果であって、物理的作用ではありません。だから、生物進化の原因になることはできません。つまり、「いい。わるい。」の価値判断が原因となって、自然選択という物理現象が生起することは不可能です。そのような物理現象は起きません。 「そのような価値判断機能と同様な機能を、自然も持っている。それによって、自然選択が行われているのだろう。だから、自然選択の結果と、我々の判断結果は一致する。」という推測は、人間と自然の素朴な同一視、即ち、自然の擬人化です。 人為選択の類推から、自然選択説が作り出されたことからも理解できるように、その背景には、「『いい。わるい。』の価値判断には、何か、普遍的真理が存在しているはずだ。だから、それは、自然界においても成り立っているはずだ。自然も我々人間と同様な選別機能を持っているはずだ。」という前提が隠れています。その先入観を使って、「いいものが選択された。だから、我々の観察結果と一致する。」と説明しています。人間と自然を同一視した素朴な類推です。 そのような『いい。わるい。』の観察結果を、『都合のいいものが自然選択された結果だろう。』と説明するのは、同義語の反復、即ち、トートロジーです。 同じ価値観が、判断結果と、その説明の両方を生み出しています。「この花は綺麗だから、綺麗に見えるのだ。」と説明しているのと同じです。 人は、「綺麗、汚い」という価値観を持っています。それを使って、目の前の花を観察するから、綺麗と感じることができます。綺麗と感じているのは、自らの価値観を使った価値判断結果です。そのような価値観を持っていなければ、そのような判断結果も生まれません。そして、ここが最も巧妙なトリックなのですが、その同じ価値観を使って、「綺麗だから。」と、綺麗に見える理由を説明しています。同じ価値観が、価値判断結果と、その説明の両方を生み出しています。 |
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進化現象も、人は、「いい。わるい。」の価値観を持っているので、「都合がいい。」と価値判断できます。その判断結果を、「都合のいいものが選択された結果だろう。」と説明するのは、この「いい。わるい。」の価値観を使った推理です。 同じ「いい。わるい。」の価値観が、価値判断結果と、その説明の両方を生み出しています。同じ価値観が2度、繰り返されています。1回目は判断結果を生み出す為に、2回目は、その判断結果を説明する為に使われています。同義語の反復(トートロジー)です。 どこかが、根本的に狂っています。どこかに、錯覚があります。 |
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このように、自然選択説は、論理的に、あまりにも、お粗末です。物理的作用の因果関係については、何も説明出来ていません。とても、自然科学の理論と呼べるような代物ではありません。しかし、もちろん、だからと言って、生物進化の事実そのものを、否定するつもりはありません。 進化は、もっと、別の仕組みによって起っています。現代の乏しい情報からでも、ある程度は、その仕組みが推測可能です。今西錦司氏の『棲み分け理論』と、木村資生氏の『中立説』を、物理学の『場の理論』や、『制御工学』の知識を使って統一すれば、大進化のメカニズムの定性的な説明が、ある程度、可能となります。作業規模が大きくなってしまうのですが、ただ単に、進化現象だけを問題にするのではなくて、もっと、深く掘り下げて、生命現象そのものを対象とします。生命現象に関する物理学理論を作って、その一部として生物進化の現象を説明すれば、うまく説明出来ます。当たり前のことですが、生物進化の現象は、生命現象の一部です。その枠組みの中で起こっている現象です。 ここでは、まず、最初に、ネオ・ダーウィニズムのトリックの仕組みについて解説します。100年以上に渡って、一流の哲学者や、生物学者を騙し続けてきた騙しのテクニックの仕組みを、ニュートン力学との比較で説明していきます。 ニュートン力学の部分は、生物学とは無縁で、退屈だとは思いますが、その論じられている内容が、あまりにも異質であることを、雰囲気で、感じて頂ければ幸いです。だから、この部分は、あまり、真面目に読む必要はありません。読み流して下さい。雰囲気を感じて頂けるだけで充分です。説明も、それ程、厳密には行っていません。 なお、このような価値観を使ったトリックは、不思議なことに、まだ、誰も気が付いていません。人類は、まだ、この問題を克服できていません。いや、むしろ、逆に、まだ、夢中になっています。 自然選択説だけではありません。哲学や、科学、宗教など、我々人間の生活全体が、これで満ち溢れています。世の権威筋や、正統性を主張している思想は、だいたいが、これです。現代の文明そのものが、これで覆われています。その正体を知ったら、一大スキャンダルになると思います。 この原因は、非常に根が深く、我々人間という動物の脳の進化過程に起因しています。ただ単に、現代の哲学者のように人間としての哲学だけでは克服できません。もっと深く踏み込む必要があります。人間という動物の生き物としての性や宿命にまで、踏み込む必要があります。 この為、一部、現代哲学の限界を超えて、話が深く入り過ぎている場合があります。意味不明の場合は読み流して下さい。本来は、未知の新しい知識を使って説明すべき問題なのですが、それが使えないので、現代の常識的知識と言葉だけを使って説明しています。できるだけ、誤解を招くような新しい知識は避け、既存の知識だけで、論理的に正確に表現するように努めたのですが、飛車角落ちで将棋をするような、じれったい禅問答になっている部分もあります。 もし、新しい知識を遠慮なく使えるときが来たら、改めて、説明し直します。今よりも、説明が単純化します。遥かに、少ないステップ数で、問題の本質をえぐりだすことが可能となります。(時間が残っていたらの話ですが。) |
ニュートン力学 自然科学の理論は、物理的作用の因果関係に基づいて記述されています。 我々が観察する自然現象は、物理的作用の因果関係の上に成り立っています。『原因』と、『結果』の関係から構成されています。従って、ニュートン力学を始めとした、物理学理論も、この物理的作用の因果関係について記述されています。 古典力学として有名は、ニュートン力学は、『運動の第一法則』、『第二法則』、『第三法則』、『万有引力の法則』の合計4つの仮説から成り立っています。たった、4つの仮定だけで、天体の運動を始めとした、身の回りの複雑な物理現象を、高い精度で論じることが可能です。 有名な万有引力の法則は、言葉で表現すれば、次のように表現されます。注目して頂きたいのは、この主張には、『いい。わるい。』の価値観、即ち、言語文法上、形容詞は、使われていないことです。『力、重さ、長さ、時間』といった計りで測れる物理量と、『引く、押す、動く、働く』といった動詞で表現された物理的作用のみから構成されています。 |
万有引力の法則 |
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@ | 質量を持った2つの物体の間には、引力が働いてる。 |
A | その力の強さは、2つの物体の質量の積に比例する。 |
B | その力の強さは、2つの物体間の距離の2乗に反比例する。 |
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この物理的作用の因果関係は、言葉による定性的な説明だけでなく、数式としてキチンと、下記のように定量的に記述可能です。逸話で有名な、地球とリンゴの間に働いている重力の強さを表した式です。 万有引力の法則:F = G( M * m / r*r) F :働いている力の強さ G :比例定数(単位系の辻褄を合わせる為のテクニカル定数です。 一般に、万有引力定数と呼んでいます。) M :片方の物体の質量です 例:地球の質量 m :もう片方の質量です。 例:リンゴの質量 r :2つの物体間の距離です。 例:地球の半径 (約 6400Km) 一方、力が働いていると、運動が発生します。 その運動の速度の変化の度合い、即ち、加速度 a は、運動の第2法則で、次のように記述されます。質量m の物体に、力F が働くと、加速度a で動くことを表した式です。 運動の第2法則: F = a * m F :働いている力の強さ a :加速度 m :質量(例:リンゴの質量) |
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物は、引っ張られると、動き始めます。引っ張り続けると、だんだん、速度が速くなります。ゴムひもを付けて、動かす場合を想像してみて下さい。最初は、ゆっくり動きますが、だんだん早くなります。その速度の速くなる度合、即ち、加速度は、加える力に比例し、その物の重さ(質量)に反比例します。同じ力で引っ張った場合、重たいほど、動きは遅くなります。強く引っ張った方が、速く動きます。 これと、先ほどの万有引力の法則を組み合わせると、地表での重力加速度が計算できます。 F= a * m = G( M * m / r*r) 左辺=運動の第2法則 F= a * m 右辺=万有引力の法則 F= G( M * m / r*r) 両辺を リンゴの質量 m で割ると、 F/m = a = G( M / r*r) = G( 6,000,000,000,000,000,000,000トン / (6400Km * 6400Km) ) = 約 9.8 m/s2 となり、加速度が求まります。 実際に、上の式に、具体的な値を代入すると 具体的な加速度の値が求まります。M に地球の質量(約 6*10^24 kg)を、r に地球の半径(約 6400Km)を代入すると、地表での重力加速度の値は、約 9.8 m/s2 となります。地球の質量とか、半径といった、とてつもなく大きな数値を使って計算しているのに、得られた結果が、人間サイズの馴染みやすい数値になっているのは、元々、物理量の単位が、日々の日常生活を基準にして作り出されている為です。 地球の質量も、地球の半径も、日常生活とは無縁ですが、しかし、重力加速度は、コップを落としたり、物を投げたりする時などのように、日々の生活と、常に深く係っています。だから、人間のサイズに合わせて、馴染みやすい数値と単位になっています。その辻褄合わせをしているのが、比例定数G(万有引力定数)です。 |
物理量のオーダーを、人間のサイズと比較した場合。 | ||
地球の質量 | 6*10^24 kg | ゼロが24個もつくようなとてつもなく大きな数 |
地球の半径 | 6400Km | 日本列島の約2倍の非常に大きな数 |
重力加速度 | 9.8 m/s2 | 約10m ≒ 人間の身長の数倍の平凡な大きさ |
スカイダイビングの場合、飛び降りると、地上に向かって、毎秒、9.8m の割合で、スピードが速くなっていきます。ものすごい勢いで落下スピードが、どんどん速くなっていきます。しかし、実際には、空気抵抗があるので、釣り合って、
200〜300Km/h 程度で安定します。落下時の姿勢にもよりけりですが、だいたい、新幹線のスピードと同じ程度です。それ以上は、速くなりません。 ちなみに、空気抵抗のない宇宙空間では、これがそのまま当てはまります。どんどん、早くなります。隕石は、猛烈なスピードで、大気圏に突入して、流れ星となります。時速に直すと、3万〜10万Km/h 程度で突入してきます。スカイダイビングの100〜300倍〜 のスピードです。 加速度が解っていると、その加速度を時間で積分することによって、速度が求まります。速度が解っていると、その速度を時間で積分することによって、位置が求まります。もともと、微積分の計算テクニックは、このような要求に基づいて発達してきました。 なお、微分は、積分の逆演算です。足し算に対応する引き算みたなものです。実際の計算テクニックも、積分は微小変位を積算しているので、足し算の親玉ですし、微分は差分を求めていますので、引き算の親戚です。 位置を時間で微分すると、速度が求まり、速度を時間で微分すると、加速度が求まります。表現が、ちょうど、逆になります。逆演算なので、当たり前ですね。 |
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実際に、枝にぶら下がっているリンゴは、(落ちれば、)1秒後には、約、4.9m程度、下に落ちています。加速度を、時間で2回積分すれば、落下位置が求まります。理論的予測と実験結果は、ほぼ、合っています。 ちなみに、ニュートン力学が主張している原理は、ほんのごく少数です。たった4つの仮説から構成されているのみです。しかし、現実の物理現象は、多様性に富んでいます。たった4つの仮説から、多様な現実を説明できるのは、積分の度に、積分定数が発生してしまう為です。 ニュートン力学は、上の図で言えば、左端の『加速度』に関連した記述です。一方、我々が観察している現実は、右端の『位置』に関連した現象です。ニュートンの原理を、2回、時間で積分しないと、我々が観察している現象の姿になりません。その度に、積分定数と呼ばれる不定要素が混入してしまいます。 積分定数は、物理的には、運動の初期状態、即ち、初期値を意味しています。初期状態の与え方によって、多様な現象が出現してしまいます。理論の単純さと、現実の多様性の間にあるギャップは、この積分という演算に秘密があります。 実際にも、積分定数の与え方によって、現象の姿は様々に変わります。 リンゴも枝にぶら下がって止まっている限り、いずれは、下に落ちるしかありませんが、もし、初期値として、猛烈なスピードで、横に移動していれば、例えば、秒速8Km 程度で、リンゴの木を丸ごと車に乗せ、水平に移動させれば、地球は丸いので、落ちる力と、慣性力(遠心力)が釣り合って、地球の周りを周り続ける人工衛星になります。それ以上、速いと、真っ直ぐ飛んでいって、地球を飛び出してしまいます。初期状態の与え方によって、必ずしも、枝から離れたリンゴは、地面に落ちるとは限りません。初期値の与え方によって、様々な現象が出現します。 |
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万有引力が働いている筈なのに、月が地球に落ちてこないのも、これが原因です。重力と遠心力が釣り合っているので、永遠に回り続けます。地球の重力から飛び出すほど速くもなく、落ちるほど遅い訳でもなく、そこそこのスピードで回っているので、回り続けています。なぜ、そのような初期値を持ってしまったのは、解りません。『神のぞ知る。』です。 このようにして、万有引力の法則から、天体の位置や運動を正確に記述できます。時間でシミュレートすることによって、月や地球、太陽などの位置が正確に求まります。その計算精度は、結構高いので、次回、東京で、皆既日食が見れるのはいつかも、正確に予測できます。皆既日食は、太陽と地球と月が、一直線に並んだ時に起りますが、そのような位置関係になるのは、いつか、正確に計算可能です。 一般に、物理学では、理論は、物理的作用の因果関係に基づいて記述されます。「2つの質量を持った物体の間には、万有引力が働いているので、この力によって、運動が発生する。」と言った主張です。 ニュートン力学のように、定量的にキチンと、数式で記述されている場合もあれば、もっと、原始的に、言葉だけで、定性的に記述されている場合もあります。 定量的に数式を使って記述されている場合は、多くの場合、時間と空間の関数となっていますので、時間で積分することによって、未来の位置や姿を予測可能となっています。 実際の関数は、4次元関数になっています。空間は縦横高さの3つの自由度をもち、時間の自由度はひとつですので、合計4つの自由度(4つの変数)を持っています。 |
物理学の一般的記述形式: | 物理現象= 関数(空間,時間) = f(x,y,z,t) |
このように、物理学理論では、物理的作用の因果関係について、延々と無味乾燥な話が展開されていきます。およそ、「いい。わるい。」の価値観とは、無縁の世界です。 言語文法上も、形容詞は使われることなく、動詞によって表現されます。 |
自然選択説 自然選択説は、物理的作用の因果関係に基づいて記述されていません。 一方、自然選択説は、どうでしょうか。 この説は、物理的作用の因果関係について記述されていません。当然、数式を使って定量的に記述もされていません。従って、これを時間で積分しようとしても、積分できず、何らかの結果を得ることもできません。もっと原始的に、定性的に言葉によって、思考シミュレーションを行おうとしても、行うことができません。 話の様相が、ニュートン力学と、かなり異なってきます。ここでは、物理的作用の因果関係が話題に上らないで、「いい。わるい。」の価値観が、話の中心になります。現象の観察結果を、この「いい。わるい。」の価値観を使って説明することが興味の中心となります。「『生存にとって都合がいい。』理由が、ついに、科学的に証明された。」「原因をついに見つけた。」というのが、いつもの決まり文句になっています。 皮肉な事に、この為に善悪が明確で、話のキレがよくなります。日頃使っている思考パタンとも合致して、ある意味、直感的で非常に理解しやすい世界が展開します。 一般的に、価値観を使った文章は、白黒が明確で、話のキレがよく、日々の思考パタンとも一致して、非常に理解し易くなります。理想的な文章になります。その代表が、マルクスや法華経です。 自然選択説は、次のように主張しています。 「生存にとって都合のいい個体が自然選択され、その結果、生物は進化した。」 (注:現代生物学では、別の表現が使われています。「変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある。」その騙しのテクニックの解析も行いました。解析の結果、言葉は違っていますが、言っている内容は同じだったので、ここで述べている内容も修正の必要はありませんでした。) 非常に、解りやすい主張ですね。「いいものが残った。」という主張は、「正義が勝った。」という主張と同じで、善悪が明確て、我々の道徳観にも適っており、非常に理解しやすいものです。これほど、真理を簡潔に表現した言葉は、他にはありません。 しかも、この彼らの主張は、一見、因果関係が成り立っているように見えます。「生存にとって都合がいい」が原因となって、「自然選択」という物理現象が起こり、「生物進化という結果が生まれた。」と読めます。 |
自然選択説が主張している因果関係 |
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現象の原因 | :生存にとって都合がいい |
起こった現象 | :自然選択 |
現象の結果 | :生物は進化した |
この彼らの主張は、本当に、因果関係が成り立っているのでしょうか。ここにトンデモナイ落とし穴が潜んでいます。思索のプロであるはずの哲学者も、論理的思考に慣れている筈の物理学者も、そして、生命現象の現実と向き合っている筈の生物学者も、見過ごしてしまっている重大な論理の盲点が潜んでいます。100年以上にも渡って、見過ごされてきた論理の盲点です。 「生存にとって都合がいい」は、物理的作用ではありません。 彼らが現象の原因だと思い込んでいる「都合がいい」という記述は、物理的作用を表現した言葉ではありません。 これは、我々人間という動物が持っている「いい。わるい。」の価値判断です。言語文法上、形容詞が使われていることから理解されるように、我々人間の心の中に生じている価値観です。現象を観察した結果、心の中に生じている主観的印象です。物理的作用ではありません。 従って、これが原因となって、物理現象が起こることはありません。「いい悪いの価値判断が原因となって、自然選択という物理現象が生じた。そして、生物進化という物理的結果が生じた。」という彼らの主張は、論理的に破綻しています。原因と結果の因果関係が成り立っていません。『物理的作用でないもの』、即ち、『心の中の事象』は、物理現象の原因となることはできません。 このことは、植物の光合成を例にとれば、その意味が解りやすいと思います。この現象は、「光が当たる。」という物理的作用が原因となって起こります。「明るい」といった人間の主観的判断が原因になって起っている訳ではありません。「明るい。」とか、「暗い。」といった価値判断は、植物が光合成を行っている現場を観察して、その結果、人間の心の中に生じてくる主観的感想です。 光合成を観察して「明るい。」と判断しているように、進化現象を観察して「都合がいい。」と判断しているのは、あくまでも心の中に生じている結果、感想です。「いい。わるい。」の価値判断は、あくまでも結果であって、原因ではありません。だから、これは、物理現象の原因になることはできません。そもそも、心の中の事象は、物理現象の原因になることはできません。 |
現象名 | 物理的原因 | 価値判断結果 | 結果 |
光合成 (物理現象) | 光が当たる | でんぷん | |
光合成 (観察結果) | 明るい | ||
生物進化(物理現象) | {未知の作用} | 生物進化 | |
生物進化(観察結果) | 生存に都合がいい |
生物進化の現象を観察して、「都合がいい。」と感じるのは、あくまでも、現象を観察した結果、生じる価値判断です。主観的感想です。それは、物理現象の原因ではありません。 「そのような、価値判断と同じものを、自然も持っており、それによって、自然選択が行われている。だから、自然選択の結果と、人間の価値判断結果は一致する。」と、現代の生物学者は考えていますが、しかし、これは、自然と人間の素朴な同一視、即ち、『自然の擬人化』です。この類推の前提には、「自然も、我々人間と同様の価値判断機能か、それに相当する類似の機能をもっている。」という仮定が潜んでいます。 人間の行動の場合、原因と結果の因果関係は、「いい。わるい。」の価値判断の上に成り立っています。「いい。わるい。」の価値判断が原因となって、肉体上の行動が起こり、結果が生まれます。綺麗な花には、手を差し伸べ、醜い花からは、目を背けます。人間の場合は、確かに、価値判断が原因となって行動が起っています。 それと同じ説明法を、物理現象であるはずの生物進化の現象にも適用しています。自然選択説は、「生存に都合がいい」が原因となって、自然選択という機械的選別が行われ、その結果、生物は進化したと主張しています。 その論理構成が同じです。人間の行動様式を説明する方法を使って、生物進化という物理現象も説明しようとしています。どちらも、「いい。わるい。」の価値観を使って説明しています。自然も、人間と同じだと錯覚しています。一見、「機械的」という言葉が使われているので、客観的と思えますが、「選別」という行為自体は、人間の行いです。 「人間が行っているのと同様なことを、自然も行っているだろう。」という類推は、素朴な自然と人間の同一視、即ち、自然の擬人化による説明です。彼らは、「自分もそうだから、自然もそうだろう。」と、素朴に信じています。 |
自然の擬人化プロセス | ||||
思考対象 | 原因 | (品詞) | 現象 | 結果 |
人間の行為 | 綺麗な花という価値判断 | 形容詞 | 手を伸ばす | 摘み取る |
自然選択説 | 生存に都合がいいという価値判断 | 形容詞 | 自然選択 | 生物進化 |
光合成(参考) | 光が当たるという物理的作用 | 動詞 | 光合成 | でんぷん |
なお、生物進化を支えている物理的作用については、まだ、自分にも、よく分かりません。データ不足から、薄ぼんやりとしか、理解できません。解っている範囲を記しましたので、興味のある方は、進化論概要をご参照下さい。理論本体は、作成中です。今西錦司氏の『棲み分け理論』と、木村資生氏の『中立説』を、物理学の『場の理論』や、『制御工学』の知識を使って統一したものです。 生命現象に関する物理学的考察作業をベースにして、情報を処理しています。現代の哲学と科学は、素朴すぎて、思考の為の道具としては、使い物になりませんでした。哲学も、数学も、物理学も、生物学も、全て、根底から、作り変えてしまう必要がありました。従って、発想の枠組みが、現代のそれと、かなり異なっています。多分、ほとんどが、始めて出合う思考形式だと思います。抵抗感があるかもしれません。 できるだけ、新しい知識がなくても、現実に目を冷たく向けさえすれば、理解できるように務めたのですが、やはり、『飛車角落ち』は厳しいです。 |
自然選択説は、何だったのか? さて、それでは、自然選択説は、一体、何だったのでしょうか。なぜ、こんな単純なトリックに引っかかってしまったのでしょうか。 実は、自然選択説には、別の重大なメッセージが隠されています。その裏のメッセージに従って、生物学者を始めとした多くの方々が奔走されています。 自然選択説は、「どうやったら、うまく説明できるか。」という説明方針を説いています。物理的作用の因果関係については、何も説明していませんが、しかし、説明手法は説いています。説いているものが、ニュートン力学とは異なっています。 説明方針:「いい。わるい。」の価値観を使った結果論で説明しなさい。 この「いい。わるい。」の価値観を使った説明は、結果論に陥りやすい傾向を持っています。価値判断自体が、現象を観察した結果、心の中に生じてくるものなので、常に、その説明は、「結果ありき」に成りがちです。「なぜ、そんな行動をとった?」と問い詰められたら、「正しと思ったから。」と答えます。「なぜ、生物は進化した?」と問われれば、「都合のいいものが選択されたから。」と答えてしまいます。 価値判断結果を説明するのに、その判断結果を生み出した自らの価値観を使っています。同義語の反復(トートロジー、)です。「都合がいい」と判断しているのは、自らの価値観に基ずく判断結果ですし、「そのような都合のいいものが自然選択された結果だろう。」と説明するのは、その価値観を使った説明です。価値判断と、その説明に同じ価値観が、2度、繰り返し使われています。 |
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価値観を使ったトートロジーの仕組み | ||
判断 | 都合がいいように見える | 「いい。わるい。」の価値観を使った判断です。 |
説明 | いいものが自然選択された | 「いい。わるい。」の価値観を使った説明です。 |
生物学者は、まず、最初に「都合がいい。」という観察結果があって、それから、その判断結果を説明できる理由を探しています。 生物進化の現象自体は、物理現象ですから、それは、物理的作用の因果関係の上に成り立っています。そこでは、冷酷な物理現象が成り立っています。その現実は、誰にも否定できません。だから、じっくり観察すれば、必ず、都合のいい物理現象は見つかります。都合のいい科学的説明は可能です。 しかし、同時に、それが、本当に都合がよかったのかどうかは、本当のところは誰にも解りません。「生物進化」は、やり直すことができません。歴史や、過ぎ去った過去に、「もしも」がないのと同じです。だから、もう一度、その『いい』という判断結果を再検証することはできません。冷酷な結果が横たわっているのみです。 半信半疑のまま、その冷酷な結果を、主観的に、「都合がいい」と主張できれば、全ては、その結果論で説明が可能になります。結局、「生き残ったものが、都合がよかったのだ。」「都合がいいことが、生き残りという結果を生み出したのだ。」「いいものが選択されたから、結果もいいと判断できるのだ。」と、主張すれば、誰にも過去は再検証できませんから、全ての反論を完全に封じることが可能となります。しかも、結果論ですから、結果は、絶対に間違っていません。表面的には、物理現象に言及しているので、あたかも、科学的に見えます。 最後の一瞬に、「いい。わるい。」の問題にすり替えれば、完璧です。「ついに、『都合がいい』科学的理由を見つけた。」「『都合がいい』ことを、科学的に証明することに成功した。」と、主張できれば、完璧です。 『いい』という価値判断が顔を覗かせている時点で、もう、既に、アウト。自然科学から逸脱してしまっているのですが、誰も、この一瞬のすり替えトリックに気がつきません。 このようにして、この説明方針に従うと、全ての物事を説明可能となります。「都合のいい理由」を全て、説明することに成功するので、自然選択説は、正しいと信じられています。まさか、「結果論だから、全て説明可能だった。」とは、夢にも、思っていません。 結果論だったら、別に自然選択説でなくてもいい訳ですが、自然選択説が正しいから、説明に成功すると頑なに信じられています。 ポイントは、科学的に物理現象に言及しながら、最後の一瞬に、「いい。わるい。」の価値判断にすり替えてしまうことです。この価値観を使った結果論で説明することです。 「このような都合のいい物理現象が起っているから、生物は進化できたのだ。」と主張することです。「都合のいい物理現象」を見つけ出して、「だから、進化できたのだ。」と説明することです。 物理現象に人々の興味を引き付けておいて、それを『いい。』と説明できれば、完璧です。「都合がいい。」とか、「科学的」といったドレッシングを、論理にふりかけて、スパイシーを効かせれば、申し分ありません。この説明法だと、一瞬、科学的だと錯覚するので、多くの方々の支持を得ることが出来ます。 |
なぜ、進化論争は不毛に陥るのか? そして、ここに、現代の進化論争が不毛に陥る原因があります。 皆様も、進化論争で、言い知れない無力感に襲われたことがあるのではないでしょうか。「言った。言わない。」の水かけ論にも似た、際限のない論争の泥沼に引き摺り込まれて、最後には、自分自身、何を言っているのか、訳が分からなくなってしまいます。 考えれば、考えるほど、泥沼にはまってしまいます。正直者は、ついつい、色々な可能性を考えてしまうので、とても、耐えられません。無批判に、何の迷いもなく、「いい。」を主張できる人だけが生き残ります。ある意味、信念の世界です。 進化論争が不毛に陥るのは、「いい。わるい。」の価値判断の基準が論争の対象になってしまうからです。 もともと、価値観は、人によって、或いは、立場によって変わるものです。それは、心に生じている主観的感想ですから、判断主体が変われば、判断結果も変わります。戦争や、宗教では、味方の主張は、正義です。敵の主張は、悪です。敵から見れば、自分は、敵ですから、自分の主張は、悪魔の主張になってしまいますが、でも、自分の立場では、やはり、正義です。味方にとっての正義が、敵にとっての悪になるのは、欲望が対立している為です。欲望が対立していると、視点も異なってしまうので、価値判断結果も対立してしまいます。 ある人が、「これが都合のいい原因だ。」と主張しても、別の人は、「別のケースでは、必ずしも、都合がいいとはいえない。」と反論します。有名な話がコウモリの羽(手)です。「羽が大きいと飛ぶのに有利だから、どんどん大きくなった。」と、ある人は主張しますが、別の人は、「原始的哺乳類からコウモリに進化する中途半端な状態は、はたして、本当に、都合が良かったと言えるのだろうか。」と反論します。すると、相手を論破する為に、必死になって、その中途半端な状態が、実は、生存にとって、都合がよかったのだという奇想天外な理屈を作り始めます。半ば、頭の体操状態です。 価値判断は、このように、立場が変われば、結果も変わってしまいます。見る角度が異なれば当然、変わります。ある方向から見た場合の「都合がいい。」という感想も、別の角度から見れば、都合がわるくなることも、しばしばです。 人間は、頭が大きくて、知能が高いから、生存に都合がいいと信じられていますが、それは現象の一面に過ぎません。物事には、表があれば、必ず裏もあります。頭が大きれければ、その分、エネルギー消費も増えるので、飢餓には弱いかもしれません。 生物は、食糧があれば、ある分だけ増えてしまうので、結局、結果的には、いつも慢性的な飢餓状態です。余分な食糧があれば、その分、個体数も増えてしまいますから、結果として、食糧不足に陥ってしまいます。常に、エネルギー問題や、資源問題に悩まされ続けています。そのような飢餓状態だと、エネルギー消費が少ない方が、遥かに有利かもしれません。 「いや、そんなことはない。その素晴らしい能力を使って、新たな食糧源を見つけることができるから、やはり、有利だ。」と反論したい方もおられるかもしれませんね。いわゆる、スーパーマン万能神話です。 スーパーマンは、確かに高い能力を持っていますが、その分、その能力を維持する為に、エネルギー消費も多くなってしまいます。充分なエネルギーを調達できなれば、その素晴らしい能力も発揮できません。慢性的な飢餓状態の中では、スーパーマンは、ただの凡人です。腹が減ったら、力は出ません。人より、余分に食べなけれいけない分、不利です。 進化論では、とかく、生物のカタログ性能だけが問題にされますが、そのような能力がカタログ通りに発揮されるのは、あくまでも、腹が減ってなく、病気にかかっていない場合だけです。能力を維持するだけの充分なエネルギーが獲得できる場合だけです。スーパーマンも、病気になると、充分な能力を発揮できません。 食糧が不足すると、栄養状態も悪くなりますから、病気にも罹りやすくなります。病気になると、速く走れません。病気で死ぬことも多くなります。自然に、個体数は減少していきます。 栄養状態を維持する方法は、一通りではありません。速く走って、食糧をたくさん手に入れることもひとつの方法ですが、丈夫な消化器官を持つことも、また、別の解決策です。 効率よくエネルギーを吸収できれば、少ない食糧でもやっていけます。消化の悪いものでも、食糧にできるなら、結果として、より多くの食料が手に入ります。常に、慢性的な飢餓状態の中では、いづれ、消化のいい食糧は、足の速い個体によって、食い尽くされます。その結果、足の速い個体は、食糧危機に陥って、病気になり、動きが鈍くなります。のろまだけど、丈夫な消化器官を持った個体との競争にも、負けて、死に絶えてしまうかもしれません。 結局、「進化において最も重要な要因は何ですか?」と聞かれた時、「丈夫な消化器官を持つことです。」「エネルギー問題です。」という笑うに笑えない結論に達してしまいかねません。 「いい。わるい。」の判断は、こうように、立場を変えれば、どうにでも、変わってしまいます。次から次へと、様々な可能性が噴出して、際限のない水かけ論に発展してしまいます。結局、「生き残ったものが、よかったのだ。」という結果論に落ち着いてしまいます。 このように、価値観は、判断主体や、視点によって変わってしまう相対的なものです。それが、価値観の置かれている現実です。このような価値観の多様性は、人生経験豊富な人なら、経験として理解していると思います。 『いい。わるい。』だけでは、片づかない厳しい現実が横たわっていることは、体で痛い思いをして、始めて、いやいや、理解できることです。厳密には、頭が理解する問題ではなくて、体が覚える問題です。何度も、何度も、騙され、何度も、何度も、裏切られ、痛い思いをして、やっと、(体が)学習できることです。「納得はできないけれども、現実だから受け入れざるえない。」と、いつも、苦渋の選択に苛まれています。 「いい。わるい。」の価値観が、いかに、欺瞞に満ちたものであるかを、嫌という程、思い知らされてきました。 ところが、哲学者を含めて、多くの方々は、そうは思っていません。この価値観に対して、絶対的信仰を持っています。自分の持っている価値観や価値判断には、「何か、絶対的真理や、根拠が潜んでいるはずだ。」と、素朴に、信じています。だから、「生存にとって都合がいい。」と言われれば、「『いい』という真理が背景にあるはずだ。その背景にある真理に従って、生物進化が起っているはずだ。」と思ってしまっています。それを探究することが、学問だと思っています。 「生存にとって都合がいい。」という進化論争の時も、一般論では、生物学者全員が、この思いを共有することができます。「『いい』という絶対的真理が存在しているから、生物は進化出来たのだろう。」と思っています。ところが、具体的問題に突き当たると、この「いい。」の基準を巡って、困惑してしまいます。見る方向や、立場によって、その「いい。」の具体的内容は異なってしまうからです。 お互いに、「いい。」という真理を、論争によって、明らかにしようとしているのですが、論争すれば、するほど、色々な立場、可能性が噴出してしまって、混迷し、途方に暮れてしまいます。しかも、厄介なことに、いつのまにか、議論は白熱して、我を忘れ、論争の目的が忘れ去られてしまいます。相手を論破して自己満足に浸ることが、目的と化してしまっています。 進化論争が不毛に陥るのは、「生存にとって都合がいい。」という価値判断の基準が論争の対象となってしまうからです。価値観についての論争は、宗教論争と同じで、真理には辿り着けません。判断の基準を巡って、混迷するだけです。難問だから、議論が白熱しているのではありません。 「何が生存にとって都合がいいのか」とか、「何がわるいのか」が、もし、論争の対象になっているなら、それは、宗教論争と一緒で、永遠に結論がでません。速やかに、その場から立ち去ることが賢明です。 それとも、価値観の絶対性を信じて、ドン・キホーテを繰り返しますか。敵は風車です。 |
2種類の説明方法 申し訳ないのですが、哲学や、宗教、科学の建前を、根底から覆します。身も蓋も無い、冷たい話です。 宗教的偏見にも、科学的迷信にも惑わされることなく、人間という動物の行動を冷たく観察してみて下さい。野生動物を観察するように、いち動物の習性として観察してみて下さい。 この動物は、何にでも理屈を付けたがる習性を持っています。アライグマの習性にも似た、この動物の習性は、哲学や、科学、宗教の原動力となっています。 この習性を観察していると、そこに、本質的に異なった2種類の方法が使い分けられていることに気が付きます。 その第一の方法は、「いい。わるい。」の価値観を使って説明する方法です。もうひとつは、「原因と結果の因果関係」に基づいて説明する方法です。 |
2種類の説明方法 | |
第一の方法 | :「いい。わるい。」の価値観を使って説明する。 |
第二の方法 | :「原因と結果の因果関係」に基づいて説明する。 |
第一の方法は、主に、童話や、宗教、政治的イデオロギーで使われいます。人間という動物の行動を説明する場合に、よく使われています。 童話の「赤ずきん」は、「よいこの赤ずきん」と「わるいオオカミ」の2者より、物語が構成されています。多くの童話は、「いい。わるい。」の価値観と、道徳の上に物語が組み立てられています。道徳自体も、「よい行い。」と「わるい行い。」を説いていますから、これもやはり『いい。わるい。』の価値観の上に組み立てられています。 マルクスの「資本論」は、「労働」に絶対的価値を見出して、資本家と労働者の欲望の対立を、労働者の側に立って正当化しています。これも、童話同様、「いい。わるい。」の絶対的価値を主張しているので、学者好みの物語りに仕上がっています。 しかも、その価値判断の基点が、「労働」と具体的に明示されたので、真理が解き明かされたかのような錯覚を覚えました。今までは、「神」とか、「真理」といった形而上学的言葉で表現されていた価値観の絶対性が、具体的に、「労働」という言葉で示されたので、みんな熱狂してしまいました。神からの解放、科学的社会主義誕生の瞬間です。 それ以後、商売敵である宗教は、排斥されていくことになります。マルクスも、宗教も、結局は、同じものだったので、人の心を巡って、奪い合いが起り、『宗教はアヘンだ。』と言って、焚書事件に発展しました。共存できませんでした。 宗教は、「神」という絶対的価値のもと、教団にとって都合のいいものを「善」とみなし、都合のわるいものを「悪魔」とみなしています。「いい。わるい。」の価値観を使って、教団の欲望を正当化しています。その正当化を、より確かなものにする為に、崇高な教義作りに余念がありません。挙句の果てに、「神」と、「教団の欲望」を、微妙にすり替えて、『ついに、真理に到達した。』という幻想を作り出すことに成功しました。だから、「神」の意思だと言ってるけど、実際は、「組織の欲望」だったりする訳です。神と教団の区別がついていません。「神の子」を名乗る組織は、マフィアと同じで、みな、銃を手にしています。神の名を語って、殺人を正当化しています。組織の欲望が、教団を恐ろしいバケモノに変身させてしまっています。 物事は、言葉によって明らかになっている訳ではありません。「欲望」と、そこから生み出される「行い」によって、「結果」が生じているに過ぎません。言葉は、その欲望を正当化する為に、総動員されているだけです。この正当化作業の中心を担っているのは、「いい。わるい。」の価値観です。 組織自体は、欲望の産物です。それが、「教団」と呼ばれているから尊い訳ではありません。「マフィア」と呼ばれているから、邪悪な訳でもありません。抗争事件を観察していると、宗教が絡んだ時の方が、遥かに、大規模で、凄惨です。 欲望の正当化は、欲望の対立を生みます。対立あるところに、争いが生まれます。争いあるところに、血塗られた歴史があります。 正義の戦いは惨いものです。「正しい。」と思っているので、どんな残忍なことでも可能です。憎しみが、背中を押してくれるので、さらにエスカレートします。 憎しみは、拡大再生産を繰り返して、すぐに大きくなってしまいます。憎しみが憎しみを生み、最後は、手が付けられないバケモノになってしまいます。誰も、その呪縛から逃れることができません。 唯一、キリストだけが、「右の頬をぶたれたら、左の頬を差しだしなさい。」と、そこから逃れる方法を説いてくれました。殴られたら、殴り返してはいけないのですね。誰かが、この拡大再生産を、そこで止めなければいけないことは、解っているけど、でも、でも、これって、辛い方法ですよね。 あ、もうひとつ、ありました。憎しみの連鎖から開放される道が 。。。。。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 第二の方法は、自然科学の分野や、一般の日常生活でよく使われています。物理現象を説明する場合に、よく使われます。 物事は、「原因」と「結果」の「因果関係」から成り立っています。なぜ、これが成り立っているのか、その真の理由は解りませんが、ただ、経験として、これを理解しています。 だから、物事を説明する場合も、この「原因と結果の因果関係」に基づいて行っています。 植物の光合成は、「光が当たる。」という物理的作用が原因となって起こります。 地球が太陽の周りを回っているのは、「万有引力」が働いているからです。 ドミノ倒しは、最初の一個を誰かが倒してしまったからです。それが連鎖して、壮大なイベントに発展します。 物事には、必ず、原因があります。原因あるところに、結果が生まれます。その結果は次の現象の原因となり、次の結果を生みます。こうして、「ドミノ倒し」は、永遠に続いていくことになります。 物理学では、この原因と結果の因果関係は、時間軸に沿って流れていきます。時間軸に沿った流れが、定量的に数式でキチンと記述されているので、計算によって、未来の姿を予測可能です。 |
結論 ところで、本題に戻るのですが、自然選択説の説明手法は、どちらでしょうか。 もう、お解りですね。非常に残念ですが、これは、第一の手法、すなわち、「いい。わるい。」の価値観を使った説明法です。「生存にとって都合がいい」という価値判断が、論理の主体になっています。従って、自然科学の理論ではありません。童話や宗教と同じものです。厳しい表現を使うなら、それは、『いい。わるい。』の価値観を使った進化童話です。『赤ずきん』と同じ、論理構成です。 現代は、科学教の時代です。人々の心を支配している価値観が、『神』から『科学』に代わっただけです。人々は、『科学』という神を信じています。相変わらず、価値観の奴隷である現実は、何ひとつ変わっていません。心は、価値観という檻に閉じ込められたままです。その檻が、『神』か『科学』かの違いだけです。まるで、カゴの鳥です。 人々は、浜辺のヤドカリが、新しい殻を求めて彷徨っているように、新しい価値観を求めて彷徨っています。次から次へと新しい殻に住み替えています。そして、新しい殻を見つけることが、進歩だと錯覚しています。宿命に翻弄され、そのままに生きています。 その殻を脱ぎ捨て、自由になる道もあります。我々人間という動物の未来には、価値観によって心を組み立てるのではなくて、原因と結果の因果関係に基づいて心を組み立てていく、もうひとつの別の道もあります。心を、価値観の檻から解放することが大切です。生物進化の宿命を乗り越えて、価値観に頼らない行動様式を身に着けることが大切です。 どのような民族、宗教にも、「現実に目を向ける。」ことの大切さを説いた教えは存在します。「いい。わるい。」の価値観や言葉に翻弄され、右往左往するのではなく、目の前の現実と向き合い、「原因と結果の関係」を観察するこが大切です。言葉によって作り出されている全ての物事は、哲学も科学も宗教も、それ自体は、先入観にすぎません。 くどいようですが、物事は、言葉によって明らかになっている訳ではありません。「欲望」と、そこから生み出される「行い」によって、「結果」が生じているに過ぎません。「言葉」は、その「行い」の元となった「欲望」を正当化するのに、一生懸命です。 物事は、「行い」と、その「結果」によって判断されます。「行い」が同じなら、「言葉」が違っていても、「結果」は同じです。科学的であることが、宗教的であることよりも、優れている訳ではありません。価値観に振り回されていたら、同じです。もちろん、「僕の乗り物の方が優れている。」と思いたい気持ちは解りますが。しかし、そのような思いとは裏腹に、「結果」は、常に「行い」から生み出されています。 |
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冷たい言い方ですが、生物進化の現象を、自然科学として捉えたいなら、「物理的作用の因果関係」に基づいて仕組みを主張すべきです。ニュートン力学のように、第二の手法を使って説明すべきです。 「いい。わるい。」の価値観を使って説明すべきではありません。価値観への執着は、欲望の産物です。その説明は、この欲望を逆手にとった騙しです。自分を納得させているだけです。 |
追記(突然変異説の騙しのテクニック) 同様な批判は、ネオ・ダーウィニズムを支えているもうひとつの重要な概念、『突然変異』説についても可能です。これも、やはり同様に、現象の因果関係に、問題を抱えています。 この騙しのテクニックについて、直感的に理解出来るように、その概要を述べます。これも、全員が騙されています。 その詳細は、本文で詳しく述べていますので、そちらを参照下さい。 突然変異説の騙しのテクニックを要約すると、それは、因果関係を無視するテクニックです。 解りよい例をあげると、『卵が先か、鶏が先か。』の話を思い出して下さい。この話は、原因と結果の関係が循環しています。卵は鶏が産み、その鶏は卵から生まれます。そして、その卵は、鶏から産まれます。この関係が永遠に繰り返されます。原因と結果の因果関係が鎖のように繋がって、そもそもの始まりが、どちらか解らなくなっています。歴史上の難問になっています。突然変異説は、この難問を解決する為の騙しのテクニックです。 この難問をクリアする為には、次のような仮定を導入すれば解決します。 『最初の卵は、丸い石から、突然(偶然)に発生した。』(生命誕生神話) かなり大胆ですね。大胆すぎて、嘘がバレバレです。あえて、解りやすいように、コミカルに大胆に表現してみました。 でも、このように主張すれば、全ての問題は解決します。卵は、もう鶏から生まれる必要がなくなります。なぜなら、偶然や突然には、因果関係が存在しないからです。偶然になら、丸い石から卵が生じるような、突拍子もない突然の現象も可能かもしれません。 進化論でも、論理の出発点に、『突然変異』を持ってきているので、もう、それ以上、因果関係について、考慮する必要がなくなっています。突然変異の前の状態、即ち、突然変異の原因を問う必要がありません。(何の前触れもなく)突然に起こった出来事なのですから。このようにして、永遠に続くはずの因果関係の鎖を断ち切ることが可能になっています。 もっとも、ネオ・ダーウィニズムの主張は、自分よりも、遥かに巧妙です。自分の嘘が簡単にバレたのは、「丸い石が、突然、卵になった。」と、大きな偶然が、突然、何の前触れもなく起ったと主張したからです。大きな偶然は、滅多に起こりません。だから、誰にも信じてもえらませんでした。 そこで、この偶然を、無限に細かく裁断して、その小さな偶然が無限に積み重なったら、どうでしょうか。小さな偶然(変異)なら、幾らでも起ります。だから、誰でも信じます。それが、無限に積み重なったら、「ひょっとして。」と思ってしまいます。 この『無限』という言葉も、曲者です。偶然同様、人智を超えたときに、使っているからです。有限な状態は、想像できますが、無限な状態は、自分の限界を超えているので、想像できません。だから、無限回、繰り返せば、何か凄いことが起るかもしれないと思えてしまいます。無限が持っている無限大の可能性を誰も否定できません。無限には、無限大の可能性があるので、突拍子もないことも、起るかもしれません。 成功の秘訣は、偶然を無限に細かく裁断して、それを、無限に積み重ねたことです。小さな偶然なら、「起るかもしれない。」と思わせ、それを無限に繰り返して、何かとてつもないことが起るかもしれないと思わせています。 「小さな偶然が、繰り返し起った。無視できる程、微小な突然変異が、何回も何回も、無限と思えるほど、繰り返し、それが、自然選択で選別され、積み重なった。この結果、生物は進化した。魚が両生類になるような、大きな変化も、『少しづつ』の積み重ねによって、可能となった。」と言えば、多くの人は、信じると思います。自然選択は、現象に方向性を与える重要な薬味の働きをしています。料理に、胡椒や、ドレシングを振り掛けるのと同じです。 言葉のあや、言葉の曖昧さを利用した微妙な論点ずらしを各所で行って、その気にさせていますが、大筋は、人智の及ばない超人的な働きをする『偶然』と『無限』という言葉を3重に被せて、論理を組み立てています。『無限』という言葉は、『無限に細かく裁断(微小な突然変異)』と、『無限に積み重ねる』と、手を変えて、2回も使われています。人智の及ばない言葉を、偶然*1、無限*2と、3重に重ねています。 実に、巧妙な手法です。 このような騙しが成り立つ背景には、言葉に対する人間の先入観があります。 哲学者は、言葉には、何か真理か、絶対的根拠が隠されているはずだと思っています。だから、その言葉を探究することが、真理への道であり、哲学的行為だと思っています。ハイデッガーは、『存在と無』という言葉に拘って、この言葉を探究することが、形而上学だと思い込んでいました。 しかし、言葉は、決して、哲学者が思い込んでいるような理想的なものではありません。言葉は、真理を表現しているのではなくて、その言語体系を作り出してきた民族の歴史と、話している当人の欲望を表現しています。 民族の歴史や、欲望を起点にして理解した時に、始めて、言葉の意味は理解できます。哲学的探究からは、何も生まれません。 有名な「私は、嘘をつきません。」という言葉も、これを何か真理か、真実を表現していると考えるなら、既に、この言葉自身、破綻しています。この言葉自身が、既に、嘘だからです。 話している当人の欲望を表現していると理解するなら、みんな、ニンマリと納得できると思います。「嘘をついて、騙したいのだな。」と。そこには、当人の意図が滲み出ています。 言葉は、人間という動物の『生きる。』という行為から生み出された道具です。だから、常に、そこには、この動物の生き様が反映されています。血と汗が染み込んだドロドロしたものです。神の言葉が肉化したのではなくて、人生の血と汗が言葉に変身しています。即ち、肉が言葉化しています。順番が逆です。いい意味でも、悪い意味でも。 言葉は、人生が混沌としているように、常に、多くの欲望と、それに基づく先入観と、曖昧さ、不条理さを抱え込んでいます。人生が混沌としているので、そこから生み出された言葉も、同様に混沌としています。洗っても、洗っても落ちない臭いがこびり付いています。 この動物は、全ての状況が、理解できている訳ではありません。自分の理解できない状況、自分の能力の及ばない状況にも、頻繁に直面しています。当然、言葉は、この動物の生き様を表現しているので、そのような状況を説明する言葉も存在しています。 山や川のように、手で掴める実体に対応して発生した言葉だけではありません。それ以外にも、愛や憎しみ、幽霊や死後の世界、神のように、人生の様々な局面を表現した言葉も存在しています。人は、理解できない状況に直面した時に、はたしてどうような言葉を使っているでしょうか。 「それは、偶然さ。」「予期しないことが、突然、起った。」と言います。偶然とか、突然という言葉を使っています。この動物は、因果関係を理解できない状況に直面した時に、このような言葉を使って説明しています。だから、この言葉が使われいる場合には、正直に、「理解できません。」と告白しているようなものですが、しかし、例によって、この動物は、そうは思っていません。「因果関係が存在しないから。」と思っています。「因果関係が存在しない今の状況をうまく説明できる言葉が見つかった。」と喜んでいます。 まさか、「自分の限界に突き当たった。」などとは、夢にも、思っていません。惨めな現実など、認める訳にはいかないからです。言葉に対するこの動物の先入観と、それが置かれている現実の間には、非常に大きなギャップがあります。 突然変異説の騙しのテクニックは、このような言葉の先入観と曖昧さを利用した、因果関係を無視するテクニックです。 論理の出発点に、このような『偶然』や『突然』といった言葉を持ってくると、そこで、因果関係の鎖を断ち切ることが可能となります。『そもそもの始まり』に辿り着けたような錯覚に陥ります。『生命誕生神話の始まり』が解ったような気になります。これで、多くの人々を、煙に巻くことが可能となりました。 これに関連して、もうひとつ、触れておく必要がある重要な問題があります。それは、時間尺度の問題です。 現代の進化論は、時間尺度の問題を無視しています。我々が観察している物理現象は、原因と結果の因果関係の上に成り立っていますが、この原因から結果に至る時間間隔は、一定ではありません。 振り子時計の振り子のように、数秒周期で、繰り返す現象もあれば、季節の変化のように、一年周期でゆっくり繰り返す現象もあります。ローソクの炎のように、穏やかに燃える現象もあれば、火薬のように、瞬間的に連鎖反応が起って、膨大なエネルギーが、瞬時に解放される爆発現象もあります。 全ての現象には、それぞれ固有の原因から結果に至る時と時の間隔、即ち、時間(時の間)が存在しますから、現象を観察する場合には、必ず、この時間尺度の問題を考慮する必要があります。 いま問題になっている生物進化の現象は、非常に時間尺度の長い現象です。数十万年から、数百万年かけて起こります。最少目盛の単位は、ひいき目に見ても、1000年です。1000年間、観察し続けて、やっと、進化の兆候を観察できるかもしれない程度です。つまり、進化の振り子時計の周期は、1000年です。1000年単位で、チックタックと時が刻まれている現象です。 一方、我々人間の一生は、高々、100年です。進化現象に比べたら、ほんの一瞬に過ぎません。この為に、目の前で起こっている進化現象の原因を確認できません。あたかも、原因もなしに、突然、起った現象に見えてしまいます。 毎朝、東の空からのぼる太陽も、わずか一日しか寿命のない生物にとっては、一生に一度起こるかどうかの青天の霹靂です。 現代の生物学者は、この『原因を確認できない。』という事実と、『そこには、原因が存在しない。』という思い込みを、混同して、同一視しています。目の前で起こっている現象を、原因もなしに、突然起った、『突然変異』だと思っています。 一方、生物には、もうひとつ変異する原因があります。 生物自身は、非常に精巧な仕組の精密機械です。だから、当然、故障も起こります。化学物質による破壊や、紫外線などの放射線による破壊、あるいは、物理的力による破壊、生物汚染による破壊と、破壊の理由には、事欠きません。生命の一生は、常に、多様な事故のリスクに満ち溢れています。 このような破壊活動による変異も、当然、その原因は、特定し辛く、あたかも、原因もなしに生じてしまった『突然変異』に見えてしまいます。 この生きる為の変異(進化、適応)と、生きることを否定する変異(奇形)を、同一視しています。「自動車を壊せば、飛行機になるはずなのに、実際には、動かなくなってしまった。」「突然変異の殆どは、生存に不利である。」という話をよく耳にしまが、これなどは、ほとんど、漫才です。壊して、その結果を観察しているのですから。 このような誤解が生まれるのは、現象の時間尺度の問題を無視しているからです。無視して、自分の目に映った現実を、絶対視して、それを真理だとみなして、そこを出発点にして、説明しようとしているからです。だから、『生きる』ための変化と、『死ぬ』ための変化という全く正反対の意味を持った変化が同じに見えてしまいます。全てが、原因もなしに、突然、起ってしまった突然変異のように見えてしまいます。 自分の目に映ったものは、確かに現実ですが、真実ではありません。現象のいち断面に過ぎません。見る方向が違えば、また、違って見えます。見えているものの背後には、膨大な見えないものが隠れています。見えているものは、ほんの一部です。氷山の一角に過ぎません。 見えているものだけを絶対視すると、膨大な見えない現実を、切り捨てて仕舞いかねません。注意深い対応が必要です。 注)上の時間尺度の話の中で、『突然』という言葉が、ごく、自然に、違和感もなく使われているこに気づいて頂けましたか。『卵が先か、鶏が先か。』の趣旨に沿った使い方です。確かに、因果関係を誤魔化すには、便利な言葉ですね。使って、始めて分かる便利さです。 |
追記(脳の進化と情報処理の関係) お読み頂きまして、ありがとうございました。 しかし、まだ、半信半疑かもしれませんね。理屈では何となく判った気がするけど、実感としては、受け入れることができないと思います。「いい。わるい。」の価値観への呪縛から離れることができないと思います。 実は、人間の理解の仕方には二種類あります。男と女では、物事を信じる時の心のメカニズムが異なっています。女は、実感できるものを信じますが、男は納得できることを信じます。もちろん、厳密な区分ではなくて、大雑把な傾向です。 彼も『わが闘争』で述べています。「大衆は女だ。」と。女性は、皮膚感官をベースとした実感によって、物事を信じる傾向が強いですが、大衆も同じように、実感によって動くことを指摘した言葉です。女性は、子供を抱きしめる時のように、肌の温もりを実感することが大切みたいです。 男は、悲しいことですが、『掟』(ルール)に従います。物事が、自然の掟や、組織の掟に従って起っている場合には、納得してしまいます。猟師は、自然の掟に従い罠をしかけ、その場所で、獲物が掛かると、自分の信じている自然の掟が、正しいと確信します。男の職業は、洋の東西を問わず、だいたいが、こんな感じです。狩が基本です。掟に従ったある行動が実証されると、掟全体を信じてしまいます。 彼のような、大衆操作の手法に優れた政治家は、やはり、そこを見抜いていたのですね。「演説のときには、女性に話すように、(感覚で)実感できる話し方をしろ。」と。「いい。わるい。」の問題は別にして、それだけではないことに驚かされます。 今の状態も、彼が指摘したように、体で実感できるか、頭で納得できるかの微妙なところだと思います。 価値観への呪縛は、実感として、死の恐怖と背中合わせなので、非常に強力です。おいそれとは、そこから離れることはできません。ただ単に、理性的な思考だけでは、克服できないと思います。この問題の根の深さは、実はここにあります。 価値観の崩壊は、大きすぎると、死の恐怖を生みます。小さい場合は、不安を生みます。だから、その入り口に立った時に、本能的に回避してしまいます。それが、健康な人間の姿ですので、とやかく言うつもりはありませんが、ただ、今回は、それが障害になっています。自我への執着と、その拠り所である価値観への拘りから離れる必要があります。それに伴って生じる死の恐怖や不安を克服する必要があります。 これらの執着と欲望は、生物としての宿命から生まれているものです。人間個人の意志を超えた、もっと大きなところから来ています。 このことを、理解する為には、動物の脳の進化過程を理解する必要があります。それは、人類永遠の謎である『知的生命体』の秘密に関する知識です。これらの問題は、そこから生じています。 我々動物の脳の進化は、模式図にすると、下記のようになります。模式図なので、厳密には、現実と合わない面もありますが、この模式図は、問題の本質を簡単に表現しています。 |
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脳は、本来、この肉体の生存と行動を支える為の制御システム系であって、それ以上の意味は持っていません。従って、動物の行動様式と、それを支える脳の構造の間には、非常に密接な関係があります。 知性の象徴である「意識された行動」の段階では、パラダイムシフトが起っています。見たこともない構造図になっています。これを、これから、順を追って、説明していきます。 最も、基本的な脳のモデルは、本能と環境の間で、情報がフィードバックしているモデルです。脳の関与した現象を論ずる場合は、物体としての脳だけでなく、現象全体、即ち、本能と環境との間で起っている情報のフィードバック過程を、問題とする必要があります。このような情報のフィードバックによって、自己保存系が構成されています。脳は、この自己保存系を具体的に実行する片方の構成要素、即ち、制御システムです。 従って、今後は、脳と言った場合は、頭がい骨の中の物体としての神経組織を指すのではなくて、脳の関与した現象全体、即ち、自己保存系全体を問題としていきます。この制御システム系全体の具体的働きに注目していきます。 なお、唯物論由来の誤解があるかもしれないので、念の為付け加えておきます。『環境』は脳の一部です。現象を構成している一部です。物体としての脳と環境を一体のもの、不可分なものとして、捉える必要があります。 『本能的行動』の段階では、生きる為に必要なプログラムの全てが、既に、本能として、遺伝的に決定されています。パソコンも脳も、(その動作原理は異なっていますが、)動かす為には、何らかのプログラムを組み込む必要がありますが、そのようなプログラムが、製造(胚発生)段階で、ROM(本能)の形で、既に組み込まれて場合の例です。 しかし、実際には、学習作用を持っていない神経組織は存在しませんので、純粋に、このモデルが適用可能は動物は存在しないと思います。多かれ、少なかれ、神経組織自体は、学習作用を持っています。そこで、ここでは、大雑把に、昆虫たちのように、学習に対する依存度が、非常に低いケースを想定して下さい。 この段階のモデルでは、プログラムを変更しようとしたら、進化する必要があります。遺伝的に決定されている内容を変更する為には、進化しか方法がないからです。このプログラムの変更に、進化する必要があることが、この段階の脳の特徴です。 第二段階の『学習された行動』のモデルは、基本的で重要なプログラムは、今まで通り、本能として遺伝的に決定してるが、残りは、体験を通して、自分で組み込む必要がある場合です。鳥や、哺乳類の場合、学習に大きく依存しており、学習機会を失ったら、生存に著しい障害が発生してしまいます。 この段階のモデルの特徴は、『学習は、本能の代用物』だということです。従って学習結果は、本能を補完するように、本能の周りを覆っています。 生物進化の上では、この段階のモデルの特徴は、プログラムの変更が、個々の個体の体験学習によって可能だということです。進化する必要がないことです。この為、適応速度も速くなり、ひとつの種を保ったまま、広い環境に適応していくことも可能となります。時間的環境の変動も、地理的環境の多様性も、個々の個体にとっては、体験の差としかならないからです。 これは、興味深いことです。プログラムの変更が、種の進化ではなくて、個体の体験学習で可能となったからです。案外、生物にとって、進化の境界線は、混沌としたものかもしれません。進化現象と、他の生命現象を隔てる明確な定義は存在しないかもしれません。 やっと、本題に入れます。 第三段階の『意識された行動』のモデルは、今までの話しと大きく流れが異なります。パラダイムシフトが起っています。しかし、厄介なことに、それを理解する為には、第一段階、第二段階に関する平凡な知識が必要です。だから、くだらない事を改めて述べてきました。ここでの結論は、生物学的には、『意識は、学習の代用物』です。表面的には、パラダイムシフトが起っていますが、基本的原理は、延長線上にあります。 この段階でのモデルには、2組の独立した制御システム系が、一個の脳の中に存在しています。話を混乱させない為に、フロイトの流儀に従って、元からあった本来のシステムを、『システム1』、意識器官によって、新たに発生したシステムを、『システム2』と呼ぶことにします。このシステム2の働きを解明することが、人類永遠の謎であった、『知性の謎』を解明することになります。 フロイトは、『夢判断』の中で、「意識は、自己の心的システムを知覚対象とした感覚器官の一種だ。」と述べています。即ち、「意識する。」とは、「意識知覚する。」ことを意味しています。その知覚対象は、心の中に存在する様々なイメージです。この特殊な感覚器官は、システム2の感覚器官を構成しています。五感が、システム1の感覚器官を構成していることに対応しています。 では、このシステム2は、生物学的にどのような意味と働きを持っているのでしょうか。それは、動物を未知の状況(迷路の前)に置いた時に明らかとなります。その行動を観察することによって、システム2の生物学的意味を理解することができます。 動物たちは、未知の状況に対応する為のプログラムを、どのようにして、作り出しているのでしょうか。 ネズミを、迷路の前に置くと、肉体を使った探究反射、即ち、試行錯誤を始めます。何度も、何度も繰り返すうちに、やがて、迷路を抜けるプログラムが完成して、迷わず、抜けることが可能となります。ネズミは、試行錯誤によって、新しい状況に対応するプログラムを作り出しています。 我々人間の場合はどうでしょうか。もちろん、中には、ネズミと同じように、突然、行動に移る人もいますが、多くの場合、一旦、立ち止まって考えます。あれや、これやと考えます。頭の中で、試行錯誤を繰り返して、解決策が見つかると、それに従って行動に移ります。 この2つの行動を比較すると、何処かが似ていて、何処かが異なっている事に気が付きますね。ネズミも人間も、未知の状況に対応する為のプログラムを作り出す原則は同じです。探究反射、即ち、試行錯誤です。しかし、使う器官は、異なっています。ネズミは肉体を使いますが、人間は、頭を使います。 これは、驚くべきことです。ネズミも人間も、未知の状況に対応する為のプログラムを作り出す原理は同じだったからです。探究反射を使っています。このことは、『考える』という知性の象徴と思っていた行為が、実は、『肉体の架空の試行錯誤行為』即ち、『架空の探究反射』に過ぎないことを示しています。 この意識感覚器官によって、構成されている『システム2』は、肉体の架空行動を制御しています。それは、システム1が、肉体の現実行動を制御しているのに対応しています。即ち、システム2は、肉体の架空行動を支える為の制御システム系です。 我々は、この『肉体の架空行動』を、『考える行為』と呼んでいます。その本来の目的は、プラグマティズムでパースが主張しているように、未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出すことです。システム2を使ったシミュレーション、即ち、考えるという行為によって、新しいプログラムを作り出しています。 人間は、このようにして作り出された新しいプログラムを、システム1を使って、肉体上で実行しています。このような一連の流れを、知性の働きと呼んでいます。即ち、考えてから、行動しています。 このように、『意識』の生物学的存在理由と機能は、驚くほど、単純です。人類永遠の謎であったはずの『知的生命体』の答えは、驚くほど、簡単です。しかし、それにも関わらず、哲学的には、非常に恐ろしい内容を含んでいます。哲学や科学、宗教だけでなく、現代文明そのものを、根底から、揺さぶってしまいます。その副作用は、極めて甚大です。その方向が、我々の欲望が期待している方向と異なっているから、なお、厄介です。 『意識』は、自己の心的システムを知覚対象とした感覚器官の一種です。意識知覚している事象は、脳内部に作り出されたイメージです。外部感覚器官から流入した信号によって作り出された架空の信号群(イメージ)です。 この意識知覚している架空世界は、『時間、空間、物質』という価値観から構成されています。時間、空間、物質は、この架空世界を構成している基本的な価値構造です。「いい。わるい。」の価値観と同様な価値観によって構成されています。だから、当然、それは存在する実体ではありません。唯物論者が執着しているような実体世界ではありません。もちろん、観念論者が主張しているような観念の世界でもありません。知覚対象は存在しています。その知覚対象が、実体ではないだけです。脳内部に作り出された架空の信号群(イメージ)であるだけです。 意識知覚している全ての事象は、実体ではありません。言葉も、その言葉が作り出している哲学も科学も宗教も、時間も空間も物質も、愛も憎しみも、生も死も、それ自体は、意識にとっての知覚対象であるがゆえに、実体ではありません。言葉で表現されている全ての事象は、言葉と結びついているがゆえに、実体ではありません。自らが、自らの心の中に生じさせてしまったものです。それらは、全て欲望から生じているものです。 「世界は、世界に非ず。ゆえに、世界と名づく。」と、金剛般若経で述べていますが、まさに、その通りです。あなたが意識知覚している『世界』という事象は、あなたが思い込んでいるような、実体としての『世界』ではありません。だから、この事象には、『世界』という言葉の名前が付いているのです。言葉も、その他の事象も、共に、意識にとっての知覚対象であるゆえに、即ち、同じ現象界に存在するものであるがゆえに、互いに結びつくことが可能です。(意識知覚している全てのもの、)(言葉と結びついている全てのもの、)「一切は、空。」です。実体のないものです。 |
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現代文明は、全て、意識が生み出したものです。その先入観に支配されています。言葉と、言葉が指し示すものに、唯物論者は執着しており、それを実体だと思い込んでいます。言葉が作り出している世界の中だけで、右往左往しています。その世界の中だけが、全知全能だと思っています。 言葉を超えた世界が、そこに広がっていることに気が付いていません。言葉と、言葉が指し示している世界の限界に気が付いていません。知的生命体の宿命と限界に気が付いていません。恐ろしいことです。 人間という動物の不幸は、『自ら生じさせたもの』に執着して、それが『自らの死と共に消滅してしまう。』ことに、怯えていることです。意識が作り出している自らの架空世界が、死と共に、消滅してしまうことを恐れています。その恐怖から逃れる為に、消滅しないもの、絶対なものを、必死になって探し求めています。 この不幸は、アダムとイブが、智慧の実を手にした時に始まります。なまじ、中途半端に、知性を持ってしまったが為の不幸です。 そもそも、一個の肉体の上に、2組の独立した制御システム系が乗っかっていること自体が諸悪の根源です。一個の肉体を巡って、奪い合いと葛藤が起っています。この問題を、人間の脳は、まだ、うまく、処理できていません。生物学的に、まだ、進化程度が低い為なのかもしれません。そこまでは、進化していません。 制御システム系として見た場合、まだ、多くの不具合と、中途半端さが目に付きます。それゆえ、精神科医の方にとっては、宝の山です。このようなシステムの不完全性は、様々な心の病の原因になっているからです。そして、同時に、現代の哲学や、科学、宗教の混乱の原因にもなっています。 しかし、それに触れると、泥沼にはまるので、ここでは、これ以上、深入りはしません。正確な内容は、「心の構造」を参照して下さい。 価値観を使った情報処理の生物進化の起源について、話します。 価値観の原型は、我々生物が、外部感覚器官を持った時に始まります。進化的に非常に古い情報の処理形式です。外部感覚器官から流入した情報を分別する機能です。もちろん、その程度の差は大きくて、現在の人間が認識しているような『価値観』という言葉で表現できるものと同一とは限りません。ただ、機能面だけに着目すれば、明暗の識別と、それに基づく行動ができる程度の神経組織なら価値観の原型とも呼べる機能は持っていると見なせます。サカナの神経組織程度なら、その原型を充分に認めることが出来ます。 一方、「原因と結果」の思考様式は、進化上は、比較的新しい情報処理の形式です。鳥や哺乳類などの高等生物(?)に見られる機能です。明確に確認できるのは、サルや人間のみです。 この情報の処理形式は、『意識世界』に依存しています。生理学的には、大脳前頭葉に依存しています。 意識器官は、シミュレーションの為に、現実世界に関する膨大なデータが必要ですが、『原因と結果の因果関係』に関する知識は、このようなシミュレーションの場(架空世界)を駆動する為のデータの一種です。このデータを使って、仮想環境を駆動しています。 このように、「価値観を使った行動様式」と、「原因と結果の思考様式」とは、生物進化の過程上、非常に大きな時間差があります。最低でも、数億年の時間的隔たりがあります。さらに、ややこしいのは、この価値観は、感覚器官の宿命として、意識感覚器官をも強く拘束しています。意識知覚している架空世界そのものが、価値観によって構成されています。時間も、空間も、物質も、価値観です。 この為、価値観を使った行動様式の方が、原因と結果の思考様式よりも、我々動物の心を強く支配しています。それらの支配力は、欲望という形となって表れています。価値観を使った行動様式の方が、より強い欲望によって支配されています。 「いい、わるい。」の価値観を使った自然選択説が、簡単に克服できないのは、このように、我々人間の宿命が大きく関わっている為です。その欲望を克服することは、宿命への兆戦となってしまいますので、並大抵ではありません。 |