2014/06/11  うつせみ



現代の集団遺伝学を背景とした進化論の記述について。


  
古典的表現:
生存に都合のいい変異が選択された。(結果、生物は進化した。)』

集団遺伝学を背景とした現代の表現:
変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある(選択)』(wikipedia より)

 現代の進化論は、古典的表現を使わないで、反論し辛い表現を使っていますので、その騙しのテクニックについて、解析します。

 なお、この現代の進化論を表現した文章は、引用元によって、微妙に異なると思いますので、wikipedia の文章を使います。言葉の違いは、たいして問題になりません。多分、どこから引用しても結果は同じだと思います。
 重要なことは、自然科学なので、物理現象に言及する必要があります。それに、言及出来ているか、いないかだけです。現代進化論は、全て、言及できていません。



現代進化論は、三流の恋占いです。


変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある(選択)』(wikipedia より)

という現代進化論の主張は、一種の占いみたいなものです。ここで使われてる騙しのテクニックを使って、恋占いを作ってみました。

世の中には色々なが女性(変異)がいる。その中には、君に好意(生存確率)を寄せてくれる女性もいる。

又は、『
その中には、恋愛確率に差が生じる女性もいる。

と、言われても、ムッときて、「金返せ。」となるだけだと思います。

 重要なことは、「どうやって、彼女を振り向かせるか?」です。「花束をプレゼントするのか。」「食事に誘うのか。」それとも、もっとストレートに、「お金」なのか、その具体的方法が知りたいのです。

 この主張は、具体的な物理現象については言及していません。物理的作用の因果関係に関する記述がありません。自然科学の最低限の要件を満たしていません。だから、評価のしようがありません。唯一、評価を下せるとしたら、『これは、自然科学の主張ではない。』だけです。

 ただ漠然と、「好意を寄せてくれる女性もいる。」とか、「生存確率に差を与えるものがある。」とか、抽象的な可能性の話をされても、返答に困ってしまいます。
 確かに、占いとしては、間違ったことは言っていません。しかし、同時に、役に立つことも、言っていません。可能性の話をしているだけです。当たり障りのない一般論が述べられているだけです。

 素朴な疑問なのですが、こんなんで、納得して、キチンと占い料を払って頂けるのでしょうか?




印象と特徴


1.狡い文章です。

 主張している内容が、故意に曖昧に表現されています。
 占いと同じで、どのようにでも、解釈できます。
 印象操作で、相手のミスリードを狙っています。
 反論されても、言葉尻を変えたら、逃げれるようなっています。


2.よっぽど、使いたくない言葉があるみたいですね。

 その苦労がヒシヒシと伝わってきます。
 少しでも解り易くしようと、文章を弄ると、途端に、その都合の悪い単語が顔を覗かせてしまいます。
 これが限界ギリギリです。都合の悪い単語を使わないで、それなりの印象を与えることが出来る。これ以上、言葉を曖昧にすると、印象操作が出来ませんし、これ以上、具体的に述べようとすると、途端に、忌まわしい単語が飛び出してしまいます。
 実に、絶妙のバランスです。


3.大阪ニセ夜間金庫事件

 逆に、この狡さを、逆手にとれば、反論は、一言で完了してしまいます。

これ、生物進化の主張じゃないよね。どこにも、進化とか、それに類する言葉が使われていないから。

 この主張は、もう一歩踏み込んで、具体的な結果を説明する為に、『進化』とか、『変化』とかの単語を持ち出すと、『いい』とか、『選択』とかの使いたくない単語も、顔を覗かせて、破綻してしまいます。そこを、皮肉るつもりでした。

 ところが、なんと『次世代に残せる子の数』という言葉が、さりげなく、挿入されていました。「残せる子の数も変わるので、結果も変わる。」のですね。これが、『進化』の意味だったのですね。『選択』という作為的な言葉を使いたくないので、『残せる子の数も変わる』と、さりげなく、選択の結果だけを記述したのですね。

 素晴らしい。この文章考えた人、天才です。能動的表現を使わないで、受動的表現を使うことによって、作為で結果が決まったのではなくて、自然に運命が決まるかのような印象を与えています。能動的なら、その結果が決まった理由を説明する必要がありますが、受動的運命なら、その必要がありません。
 自分は、てっきり、自然科学の説なので、仕組みを能動的に、積極的に記述しているものとばっかり思っていました。考えている選択の仕組みには言及しないで、その仕組みが予測する結果だけを、『残せる子の数も変わる。』と、受動的に客観的に表現すればいいのですね。これだと、ボロが出にくいです。

 解って、思い出すと、この手口に似たものに、思い当たる節があります。銀行の夜間金庫詐欺事件(注)です。本物の夜間金庫には、故障の張り紙を貼って、偽の金庫を設置して、夜間金庫にお金を入れにきた人を、偽金庫に誘導して騙した事件です。ポイントは、張り紙の文章でした。誰も不審に思わないで、指示された通りに、偽金庫にお金を入れてしまいました。解説本には、『張り紙などの文言は、出来るだけ、事務的にする。』と書いてありました。
 事務的文章は、結果だけを、淡々と述べる傾向にあります。右に曲がってほしい場合、角が立つので、「次は、右に曲がって下さい。」と指示しないで、「次は、右です。」と、結果だけを淡々と伝えます。
 生存確率の説明も、「変異によって生存確率が決まります。だから、結果として、変異によって、生存確率に差が生じます。」と、理由を説明しないで、結果だけを、「変異によって、生存確率に差が生じます。」と説明します。
 行動を指示されると、意図を疑って本能的に警戒しますが、結果だけを、淡々と事務的に示されると、警戒しないで、指示された結果に沿った行動をとります。結果として、騙す側の意図した通りの行動になります。それと、似た手口です。


  能動的表現   受動的表現
 事務的文章  次は右に曲がって下さい。  次は右です。
 進化論の表現  いい変異が選択された。  生存確率に差が生じる
 次世代に残せる子の数が変わる
注意)
ポイントは、起った理由や、意図、目的は説明しないで、結果だけ、事務的に表現します。
この表現方法のメリットは、あたかも、客観的に見えることです。
この表現テクニック、覚えていて損はないです。


 受動的に、結果だけをポンと出されると、作為を感じさせません。『都合のいい個体変異が選択される。』と能動的に表現しないで、選択された結果だけを受動的に、『生存確率』と表現すれば、作為なく結果が生じたかの印象を与えます。これだけだと、一代限りなので、次の世代が選択される過程も、選択の結果だけを、『残せる子の数も変わる。』と受動的に表現すれば、いいのです。ポイントは、結果を生じさせる仕組みには言及しないで、その仕組みから予想される結果だけを、事務的に、受動的に表現すれば、いいのです。

 「よっぽど、使いたくない言葉がある」と感じたのも、この為かもしれません。徹底して、能動的表現は使わないで、受動的表現が使われています。能動的表現に翻訳した時に顔を出す言葉を、使いたくない言葉と錯覚したのかもしれません。確かに、能動的表現だと、突っ込まれますから。

 う〜。改めて、素晴らしい。こんな手口もあったのですね。目からウロコです。この主張を読んだ時から、デジャブを感じながら、その一方で、今までとは違うパタンだったので、微妙な違和感が喉元に残っていました。どうしても、その正体が解りませんでした。世間は広い。まさか、自分の知らない騙しのテクニックが、まだ、あったなんて、感動ものです。やっぱり、進化論は、騙しのテクニックの宝庫です。これだけで、一冊の本が書けそうです。

注)自分が読んだ解説本は、多分、この事件に関するものだと思います。記憶と、事件の内容が一致します。有名な話だったのですね。
大阪ニセ夜間金庫事件wikipedia




4.言葉が問題になるのは、自然科学でない間接的な証拠です。

 言葉こそ命。
 多分、別の人は、また、微妙に異なった内容を主張していると思います。そして、その微妙な違いが、あたかも、決定的な違いであるかのように主張をしていると思います。
 「言葉が違うので、言っていることも違う。」と主張されても、返す言葉もありません。反論されて都合が悪くなると、言葉を変えて、逃げ回っているだけのような気がします。

 そもそも、このような、言葉尻を気にして、微妙な言い回しの違いで、意味が変わってしまうような曖昧な表現や論法は、これが、自然科学ではない事の間接的な証明にもなっています。

 自然科学の理論なら、現実が目の前にあるので、言葉尻を工夫する自由度は、それ程、高くはありません。現実を記述するだけなので、表現の仕方は、固定されてきます。現実はふらつかないので、人によって、表現がふらつくこともありません。見る角度によって、見え方が異なるので、それによる言葉の違いが生じるだけです。

 現実に目を向けないで、反論を恐れて、空想が先走って、微妙な言い回しに、終始しているだけのように見えます。
 まるで、宗教上の教義論争です。



【問題点1】具体的な物理現象には、全く、言及されていない。


例)光合成    :光が当たれば、光合成が起り、デンプンができる。
  万有引力の法則:質量をもった2つの物体の間には、万有引力が働いている

 言葉は、現実の物理現象に置換できなければいけせん。
 光合成の『光が当たる。』という言葉は、実際には、太陽の光が、降り注いでいる物理現象に置換できます。『万有引力』は、リンゴが落ちる事で確認できます。
自然科学の言葉や数式には、対象とする物理現象が存在しています。だから、言葉と、その物理現象は、必ず、対応関係になっているはずです。

 現代の進化論は、この対応関係が曖昧で、ほとんど、見えてきません。抽象的可能性が述べられているだけです。一般論として、抽象的に「明るければ、光合成が起る。」と、漠然と、当たり障りのないことが述べられているだけです。

 ひょっとしたら、現代生物学には、このような発想自体が無いのかもしれません。でないと、こんな詭弁に騙される理由が理解出来ません。
 いくら、言葉を工夫しても、肝心の現実が記述できていなければ、無意味です。現実と比較したときに、破綻してしまいます。それが破綻しないのは、現実に目を向けていないからと思えます。



【問題点2】変異と、生存確率の関係が述べられていない。


 肝心の生存確率の決定方法が述べられていません。
 原理や原則として、この関係が述べられていません。
 本来なら、自然科学の理論なので、この原理は、物理的作用の因果関係として記述される必要があります。

 物理的原理が説明されていないので、この『変異と生存確率の関係』を論じようとすると、どうしても、何らかの判断基準を導入せざる得なくなります。『有利、不利』とか、『適応、非適応』とか、『いい。わるい。』と言った判断基準を持ち出す必要があります。その判断に基づく『選択』を行う必要があります。

 結局、有利な変異は、生存確率が高くなり、不利な変異は、生存率が低くなるという主張になってしまいます。『生存に都合のいい個体が選択される。』と同じになってしまいます。これが、嫌で、今の文章になったはずです。文章を途中で止めて、結果を曖昧にしているのも、ここに触れたくない為と思われます。




騙しのポイント


 このトリックのポイントは、『
生存確率』という言葉にあります。

 この言葉が、使いたくない単語を遮蔽して、それと同等の効果をもたらす役割を担っています。『選択する。』という能動的な表現ではなくて、選択された結果を受動的に表現する『生存確率』という言葉を使っています。だから、『生存確率の高い個体は生き残り、進化が起こるか。』かのような印象を受けます。

 この説明では、肝心の生存確率の具体的決定方法が述べられていません。

 そもそも、生存確率を、前もって、決める方法はあるのでしょうか?卵を前にして、或いは、雛を前にして、この鶏の生存確率を決定する方法があるのでしょうか?この方法が見つかれば、変異が、進化に繋がる説明も可能になります。
 いや、これこそが、最終的解答です。これ以上の余分なものは必要ありません。

 ところが、実際には、運命は、神にしか解りません。従って、生存確率を、前もって知りたければ、神に聞くしかありません。
 一方、後で知るのは簡単です。既に、運命が決まっているからです。結果論として、生存確率を論じることは簡単です。既に、結果が出ているので、絶対に間違うことはありません。

 結局、我々は、神でないので、生存確率を、結果でしか判断できません。
「生き残ったものが、生存確率が高かった。」「生き残った個体が、都合のいい変異を持っていたので、生存確率が高かったのだろう。」としか、推測できません。

 現代の進化論も、具体的な仕組みについては、何も主張していないので、当然、未来予測は不可能です。生存確率同様、結果論でしか物事を説明できません。
 実際の現代進化論の説明手順も、そのようになっています。まず、結果を確認して、次に、過去の経緯に目を向け、結果を説明するのに都合のいい物理現象を探します。そして、見つかったら、それを使って、結果をうまく説明します。結果に説明を合わせる結果論になっています。だから、絶対に正しい説明になっています。

@ まず、結果を確認する。
A 過去の経緯に目を向け、結果を説明するのに都合のいい物理現象を探す。
B 見つかったら、それを使って、結果をうまく説明する。

 この主張の恐ろしいところは、「変異が、生存確率に差を与える。」と、「変異が生存確率を前もって決定している。」かの印象を与えていることです。
 「変異が生存確率を決定している。」と能動的に表現すれば、直ぐに、「では、その決定方法は?」と、反論されてしまいます。そこで、変異によって決定された結果を、事務的に、「変異が、生存確率に差を与える。」と受動的に表現しています。このように表現すると、差が生じたのは運命的、自然な成り行きに思えてしまいますから、「では、差を与える方法は?」と、反論し辛くなります。 差が生じたのは、成り行きの結果でしかないからです。
 例えは、変異が生存確率を決定している場合、変異Aは、生存確率Aとなります。変異Bは、生存確率Bとなります。変異によって、生存確率に差が生じます。そこで、『変異が、生存確率を決定している。』と能動的に表現する代わりに、結果に差が生じている点に着目して、『変異によって、生存確率に差が生じる。』とか、『変異が、生存確率に差を与える。』と、(生じている)結果だけを受動的に表現します。このように表現すると、(差が生じている)結果だけを指摘しているので、結果が生じた理由を説明する必要がありません。この手口、どこかの新興宗教で見た気がするのですが、思い出せません。


意図していること。
  
@ 生存に都合のいい変異が選択される。
  
『いい。わるい。』の価値観を、『確率が高い、低い』の価値観に言い換えます。
確率は、『高いか、低いか』の選択肢しかありません。
それ以外の選択肢はありません。
  
A 生存にいい変異は、生存確率が高くなる。
  
B 変異が生存確率を決定している。
  
C いい変異Aは、生存確率Aと高くなる。
  悪い変異Bは、生存確率Bと低くなる。
  
差が生じている結果に着目して
この差が生じている事実だけを、事務的に受動的に表現する。
重要事項の言及はしない。(『Cの差が生じている仕組み』について)
  
D 変異によって、生存確率に差が生じる。 又は
  変異が、生存確率に差を与える。    と表現する。
  
結果、受身表現なので、生存確率は、自然に決まったかのように錯覚する。
重要事項Cの説明は省略しています。
だから、差が生じる理由に関する質問や反論もうけない。
この為、解ったような、解らないような、煙に巻かれた印象を受けます。

 つまり、@〜Dは、同じ内容にも関わらず、Dは、重要事項の説明を省いているので、しかも、受動表現なので、論争上、下記の違いが生じます。同じ内容も、表現方法を少し変えるだけで、大きな差が生まれます。


表現方法   表現から受ける印象、効果
@ 都合のいい変異が選択される  いいの判定や、選択の仕組みを突っ込まれる
B 変異が生存確率を決定している 生存確率を決定している仕組みを突っ込まれる。
D 変異が生存確率に差を与える 仕組みに言及していないので、
それに関する質問や反論がない。
作為がなく、自然に決まったかの印象を与える。


 このようにして、説明義務を回避しながら、現象の始まる前に、既に、変異によって、生存確率が決定しているかのような印象を与えています。
 この言葉で、過去と未来を、巧妙にすり替えています。本来は、結果論でしか説明できないはずの進化論を、あたかも、一種の運命論か、未来予測であるかのように、錯覚させています。

変異によって、生存確率が決まる。だから、進化を語ることが出来る。

かのような印象を与えています。理解力がある人間なら、あるほど、そのように、先走って、趣旨を理解してしまいます。能動的文章に翻訳して、仕組みを理解しようとします。

 ところが、反論しようとして主張をチェックすると、何処にも、「変異によって、生存確率が決まる」とは書いていないのです。全ての表現が、受動的運命論なのです。成り行きで結果が生じているかのような表現になっています。反論不可能に陥ってしまいます。




集団遺伝学の詭弁


B変異によって、生存確率が決まる。

 この仮定、よくよく、考えたら、集団遺伝学の大前提でした。集団遺伝学では、この前提と、確率論を組み合わせて、集団内に変異が定着する割合を論じていました。最初、読んだ時、余りにも、胡散臭い内容だったので、そのまま、忘れていました。その胡散臭さの正体がこれだったのですね。やっと、あの時の違和感の理由が解りました。『運命の確率は、前もって決まっている。』ことを前提しないと、集団遺伝学のシミュレーションは、成り立ちません。

 このような話を、世間一般では、「たらたら話」と言います。「○○と仮定したら。。」「△△と仮定したら。。」と、仮定を前提とした議論を総称した呼び名です。早い話が『胡散臭い話』の総称です。
 集団遺伝学も、『変異によって、生存確率が決まる。』と仮定したら、そこから先は、確率論を使って、色々な事を論じることが可能となります。ところが、実際には、生存確率は、結果でしか知ることが出来ません。結果が出てみないと、実際の生存確率は計算できません。結果論です。その結果が、議論の出発点で、既に決まっていることを前提にして、集団遺伝学の話は始まります。結果論と運命論を、すり替えて、あたかも運命論であるかの顔をしています。

 『生存確率』という言葉の中には、既に、『いい変異は生存確率が高い。』、即ち、『いい変異が選択された。』という暗黙の前提があります。だから、もし、その暗黙の前提が正しいなら、『変異が生存確率を決める。』方法さえ分かれば、既に、進化の説明を完了していることになります。わざわざ、この後、確率論を持ち出して、話をややこしくする必要はありません。
 即ち、
集団遺伝学の大前提そのものが、我々の知りたい最終回答です。


 もう一度、話を整理します。

 予め、変異によって、生存確率が決まっていると仮定したら、
 即ち、変異によって、生存確率の差が生じているなら、
 そこに、確率論や統計論を適用して、ゲンプル内での遺伝子の浮遊や定着を論じることが可能となります。

 逆に、前もって、生存確率が決まっていないないなら、確率論や統計論を適用できませんから、集団遺伝学の話も成り立ちません。

 一方、『変異が生存確率を決定する仕組み』そのものが、進化の仕組みであって、それが
我々の知りたい最終解答です。

 つまり、集団遺伝学の主張は、『進化の仕組みが解っていれば、集団遺伝学の議論も可能です。』と同じになってしまいます。「答えが解っていたら、答えられます。」と言っているようなものです。


集団遺伝学の前提: 進化の仕組みが解って、
変異が生存確率に差を生じさせる仕組みが解れば、
 
即ち、生存確率が前もって、確定していると仮定するなら、

集団遺伝学の表主張: それを前提として、その後は、確率論を使って、
各遺伝子の確率的振る舞いや、
ゲンプルー内での浮遊を論ずることが可能となる。

逆に、生存確率が、前もって決まっていないなら
 
集団遺伝学の裏主張: 確率論を適用できませんから、それ以後の話も出来ません。
 
未来の運命は、神にしか解りません。



 進化の仕組みが分かったら、それを前提とし。。。。何か、気のせいか、同義の反復、即ち、トートロジーに陥っているような気がします。

 気になるのは、現代進化論では、やたらと、このような仮定を前提とした議論が多いような気がします。気のせいですかね。ひょっとしたら、進化論自体が、壮大な「たらたら話」の集合体ではないですよね。まさか、「信じられるのは、ウソだけ。」の世界ではないですよね。闇が深い。知れば知るほど、恐ろしくなってきました。



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