日顕宗・法華講慈本寺の迷妄を破す(結び)
妄説:
【総括】
そもそも学会は、僧(殊に代々の御法主上人)の法力を信じられないようだが、どのように日寛上人は本尊を書写されたのか?
なぜ、代々の御法主上人がしたためられる御本尊は【日蓮が魂】となるのか?
学会とは破門によって無関係であるのに、何もわざわざ江戸時代の、大石寺の教義の中心人物(中興の祖)である、日寛上人の本尊を持ち出す必要が、どこにあるというのだ。
日寛上人の本尊は拝んでも、説かれる教義は認めないでは、学会の正義は成り立たないではないか。
学会に正義がないと悟った方は、一刻も早く脱会すべきである。
破折:
1. 御本尊は〝相承の有無〟を顕す
① 「師子奮迅之力」及び「一心浄念」
「僧(殊に代々の御法主上人)の法力」とは、何とも御大層なことである。宗門は、尊大・傲慢なる表現でしか、法主という存在を形容できないのであろう。
ここで「法力」の意は、〝御本尊書写〟に尽きるであろう。少なくとも日顕・日如には、それ以外に何もないのであるから。
大聖人は御本尊書写につき、「師子奮迅之力」を以て為されたと仰せである。
「日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず、経に云く『師子奮迅之力』とは是なり」(経王殿御返事・一一二四㌻)
さらには「一心浄念」を以て専心しなければならない。
「本尊書写は、筆の巧拙にのみよるものでなく、一心浄念に身心一如になさるべき」
(五十九世堀日亨師『富士日興上人詳伝(下)』聖教文庫 P227)
② 日顕の心の内を描く本尊
それでは、次の例はどうか。元・日蓮正宗御用達仏師「赤沢朝陽」社長の証言である。
◇
日顕が書写する御本尊は、実は、不注意で御文字が抜けていることが多い。私どもは、こと御本尊のことでは、一切、間違いがあってはいけないとの厳格な姿勢できました。日顕が末寺や法華講の板御本尊用に書写した和紙が、本山から届いた段階で、謹刻する前に必ず、一体一体を点検するんです。すると、本来あるべき御文字が抜けていたり、名前などの御文字が間違っているんです。細かいのもあげれば、預かった御本尊の一割近くになるかもしれません。……
日達上人の時代には、考えられないことです。なかには「十羅刹女 阿闍世王 大龍王」の三つを一遍に書き忘れていたり、「奉書写之」を抜かしていることもありました。……
もう一つ、重大なことを申し上げます。実は、日顕は、御本尊の首題の御題目の字が、真っすぐ書けないんです。特に、「華」の字が、なぜか左のほうに曲がってしまうのです。学会の二百カ寺建立寄進が始まって間もなくの昭和六十年ごろから、末寺などの御本尊に、その傾向がひどくなってきました。……
ある時、日顕もそれに気づいて、なんと「これは自分の癖だ。そっちで真っすぐに直して彫ってくれ」と、面倒くさそうに言ったんです。これには本当に驚きました。とんでもないことを言うものだと思いつつも、私どもは、言われるままに御文字を真っすぐになるように曲尺(かねじゃく)で修正しながら、謹刻したんです。
(『聖教新聞』1993年10月14日)
題目の文字が曲がっているのを修正した御本尊は、七、八十体ほどあったという。日顕がどれほど書いても、肝心の題目の字が曲がってしまうのである。
「体曲れば影ななめなり」(諸経と法華経と難易の事・九九二㌻)
これが信心なき姿である。彫師に直させた字であれば、書写とは言えないではないか。
◇
昭和五十七年ごろ、日顕の奥番をしていた改革同盟の宮川雄法さんによると、日顕は、御本尊を書写する合間、書きかけの御本尊を何枚も畳の上にも並べっぱなしにして、中座して風呂に入っては、ステテコ姿で庭で休憩しているとか、オートメーションの“作業”のように書いているとか。信心を微塵も感じられない姿であったということです。
(同『聖教新聞』 発言者:谷川青年部長)
この有り様を以て「代々の御法主上人がしたためられる御本尊は【日蓮が魂】となる」と、誰が納得できよう。もっともこれは、日顕が真実の「御法主上人」ではなかったことを如実に表わすものである。ニセ法主が【日蓮が魂】を御本尊に込められる道理はない。
③ 日如の本尊は日顕に反発
相承を受けていない日顕が書いた本尊が上記の有様なら、後継者である日如の本尊は、いかなる様相であるか。
◇
ニセ法主2世・早瀬日如が模写した御守本尊に誤字がある――「奉書写之」と書くべきところを「奉書字之」と書いているため意味不明だと、本紙一〇六三号で指摘した。写真を付けて指摘したので宗門側の関係者は弁解も反論も出来ず、屁理屈や逃げ口上も言えずに沈黙している。(中略)
本紙ではニセ法主が本尊を書くのを「模写」と呼んでいる。だが、日顕は生意気にも「書写」と称し、日如は「書字」というらしい。
(『フェイク』第1064号 発行2009.10.27)
「誤字」については日顕を踏襲したものか、詐称上人らしいことである。だが、日如の本尊を一見して愕然とすることは、まさしく「サインペン本尊」そのものであり、他に類例を見ない(だが二度と見るに堪えず、写真は載せない)。
いったい書写した歴代上人がどなたであろうと、相承に基づいた御本尊であれば、拝したときに「師子奮迅之力」「一心浄念」が醸し出されるはずである。だが日顕が書く本尊から感じるものは、おのれの筆法を誇示せんとばかりの自己顕示欲であり、また日如の場合は、いかにも〝習字の下書き〟との印象である。
この通り〝詐称上人〟の書く本尊は、相承を受けていないことが見て取れる。以下の記事に詳しい。
◇
また老僧たちは、別な面から「あれ(日顕)はニセモノだ」と噂し、見抜いていたという。別な面とは、御本尊書写についてである。御本尊書写については、宗門の僧侶であれば一応書写方法は知っている。しかし、ひとたび猊座につくと、自己流に書写したりはしないものなのだ。どうしても前の猊下の書写を真似る形となる。心構えが、自然に「先師の如く」と謙虚になり、そうなってしまうのだという。
例えば昭和三十五年から三十六年頃の登座当初の日達上人の御本尊は、先師日淳上人にそっくりの書写であったし、日淳上人も登座当初の御本尊は先師日昇上人に筆跡がよく似た御本尊であった。
ところが日顕は、最初から達筆な筆さばきで書写していた。
「(相承を)受けていないんだから、ああなってもしようがないだろう」と、老僧をして言わしめている。
(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
「先師の如く」との謙虚さが、相承を正しく伝えようとする心へと収斂する。その逆の例が日顕である。
日顕が先師・日達法主の建立した堂宇伽藍をことごとく破壊したこと、また立宗の日を一年に二回挙行する等、それまで先師が遵守してきた宗内行事を一変させた等の要因として、先師から相伝を受けなかった引け目が劣等感となり、逆恨みして先師を怨む心となったことが、根底にある。これらの行為はその負い目を打開しようと、奇矯な行動に出た例である。
また日如が書く本尊は、日顕の本尊とまるで似ていない。元々相承を受けていない法主から受けるべき相伝は無いのは、至極当然である。逆に、日顕が先師・日達法主に反発してきたことは、日如が日顕の本尊とは全く似ない本尊を書く状況を以て、受け継がれている。
2.現宗門は日寛上人の敵
「日寛上人の本尊を持ち出す必要が、どこにある」と問われれば、すなわち日寛上人は大聖人の真実義を著され、殊に『末法相応抄』を以て〝造仏義〟を打ち払われたことは、我ら学会員が仰ぐ御本尊に相応しい事跡である。
「謂く、凡(およ)そ本尊とは勝(すぐ)れたるを用ゆべし。然るに色相の仏を以って若(も)し法に望むれば、則(すなわ)ち勝劣宛(あたか)も天地の如し云云」(『六巻抄』聖教新聞社刊 P169)
「若し興師の正義は、全く絵像木像を以て本尊と為さず、唯(ただ)妙法の五字を以て本尊と為すなり云云」(同 P188)
ここに日寛上人は、はっきりと「絵像木像を以て本尊と為さず」と示されているではないか。曼荼羅御本尊は「絵像木像」すなわち「正像の本尊」ではないと言われるゆえに、開眼は不要である。この通り、日寛上人は常に、学会員の御味方である。
日寛上人は、日興上人が造仏義を否定されたことを理論として著わされた。ところが宗門は、十箇寺以上の末寺に仏像を造立した大謗法法主・十七世日精を宣揚する。
すなわち宗門は日寛上人の敵である。ゆえに学会の離山後、日寛上人御書写の御本尊は、創価学会の中より出現されたのである。
3.日顕宗は〝相伝の裏付け〟の無い新興宗教
次に法華講は、学会が「説かれる教義は認めない」と言うが、学会は宗門が古来より説いてきた法義を実践し、遵守してきた。だが問題は、日達法主や日顕の代から〝初めて言い出したもの〟についてである。
今でも宗門が学会を誹謗する根拠に「御本尊謹刻」を持ち出すが、次の証言がある。
◇
日達上人からは、「御本尊は受持した人のものですから、信心の上で大切にするのであれば、板御本尊にするのは自由です。他の人がとやかく言うものではありません。紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」という趣旨の、お話があったのです。これが真相です。
(『聖教新聞』1993年9月15日 発言者:秋谷会長)
宗門においては、まっさきに巧みに策動する者が〝真実〟を左右してしまう。第一次宗門事件においては、上記の証言にある通り、日達法主は学会の御本尊謹刻を事前に承認していたが、これに正信会の悪侶が激しく反対し、法主が突き上げられていた。この状況を打開し、日達法主を救うために、あえて学会が泥を被ったのが事実である。だが、彼らはこのことを盾に取り、〝学会が謗法を犯した〟と決めつけた。このことは次の記事に詳しい。
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:90」を破折する 連載130回
ゆえに学会は「説かれる教義を認めない」のではない、「日顕宗の言うことは歴代諸師の教義から逸脱した〝捏造〟に過ぎないから、認めない」、かつ「相承を受けていない日顕の教義は、認めない」のである。
日顕宗の言う「開眼」にしろ「法魂」にしろ、いずれも相承によらない創作教義である。
我らは〝日蓮正宗の教義〟を学んできた。だが、現宗門は全く〝新興宗教・日顕宗の教義〟と化している。陰陽師もどきのオカルト説法など、噴飯ものであり、そのような邪教は大聖人の仏法を破壊するものであり、断固打ち破らなければならない。
まして日顕は〝大御本尊否定〟の大謗法を犯したゆえに、日顕の教説は何から何まで、大聖人に違背したものとなっている。
ここまで日顕の正体を明かした以上、言わねばならない。すなわち、
「日顕宗・慈本寺法華講に正義がないと悟った方は、一刻も早く脱講すべきである」と。
日顕宗・法華講慈本寺の迷妄を破す ―了―
妄説:
【総括】
そもそも学会は、僧(殊に代々の御法主上人)の法力を信じられないようだが、どのように日寛上人は本尊を書写されたのか?
なぜ、代々の御法主上人がしたためられる御本尊は【日蓮が魂】となるのか?
学会とは破門によって無関係であるのに、何もわざわざ江戸時代の、大石寺の教義の中心人物(中興の祖)である、日寛上人の本尊を持ち出す必要が、どこにあるというのだ。
日寛上人の本尊は拝んでも、説かれる教義は認めないでは、学会の正義は成り立たないではないか。
学会に正義がないと悟った方は、一刻も早く脱会すべきである。
破折:
1. 御本尊は〝相承の有無〟を顕す
① 「師子奮迅之力」及び「一心浄念」
「僧(殊に代々の御法主上人)の法力」とは、何とも御大層なことである。宗門は、尊大・傲慢なる表現でしか、法主という存在を形容できないのであろう。
ここで「法力」の意は、〝御本尊書写〟に尽きるであろう。少なくとも日顕・日如には、それ以外に何もないのであるから。
大聖人は御本尊書写につき、「師子奮迅之力」を以て為されたと仰せである。
「日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず、経に云く『師子奮迅之力』とは是なり」(経王殿御返事・一一二四㌻)
さらには「一心浄念」を以て専心しなければならない。
「本尊書写は、筆の巧拙にのみよるものでなく、一心浄念に身心一如になさるべき」
(五十九世堀日亨師『富士日興上人詳伝(下)』聖教文庫 P227)
② 日顕の心の内を描く本尊
それでは、次の例はどうか。元・日蓮正宗御用達仏師「赤沢朝陽」社長の証言である。
◇
日顕が書写する御本尊は、実は、不注意で御文字が抜けていることが多い。私どもは、こと御本尊のことでは、一切、間違いがあってはいけないとの厳格な姿勢できました。日顕が末寺や法華講の板御本尊用に書写した和紙が、本山から届いた段階で、謹刻する前に必ず、一体一体を点検するんです。すると、本来あるべき御文字が抜けていたり、名前などの御文字が間違っているんです。細かいのもあげれば、預かった御本尊の一割近くになるかもしれません。……
日達上人の時代には、考えられないことです。なかには「十羅刹女 阿闍世王 大龍王」の三つを一遍に書き忘れていたり、「奉書写之」を抜かしていることもありました。……
もう一つ、重大なことを申し上げます。実は、日顕は、御本尊の首題の御題目の字が、真っすぐ書けないんです。特に、「華」の字が、なぜか左のほうに曲がってしまうのです。学会の二百カ寺建立寄進が始まって間もなくの昭和六十年ごろから、末寺などの御本尊に、その傾向がひどくなってきました。……
ある時、日顕もそれに気づいて、なんと「これは自分の癖だ。そっちで真っすぐに直して彫ってくれ」と、面倒くさそうに言ったんです。これには本当に驚きました。とんでもないことを言うものだと思いつつも、私どもは、言われるままに御文字を真っすぐになるように曲尺(かねじゃく)で修正しながら、謹刻したんです。
(『聖教新聞』1993年10月14日)
題目の文字が曲がっているのを修正した御本尊は、七、八十体ほどあったという。日顕がどれほど書いても、肝心の題目の字が曲がってしまうのである。
「体曲れば影ななめなり」(諸経と法華経と難易の事・九九二㌻)
これが信心なき姿である。彫師に直させた字であれば、書写とは言えないではないか。
◇
昭和五十七年ごろ、日顕の奥番をしていた改革同盟の宮川雄法さんによると、日顕は、御本尊を書写する合間、書きかけの御本尊を何枚も畳の上にも並べっぱなしにして、中座して風呂に入っては、ステテコ姿で庭で休憩しているとか、オートメーションの“作業”のように書いているとか。信心を微塵も感じられない姿であったということです。
(同『聖教新聞』 発言者:谷川青年部長)
この有り様を以て「代々の御法主上人がしたためられる御本尊は【日蓮が魂】となる」と、誰が納得できよう。もっともこれは、日顕が真実の「御法主上人」ではなかったことを如実に表わすものである。ニセ法主が【日蓮が魂】を御本尊に込められる道理はない。
③ 日如の本尊は日顕に反発
相承を受けていない日顕が書いた本尊が上記の有様なら、後継者である日如の本尊は、いかなる様相であるか。
◇
ニセ法主2世・早瀬日如が模写した御守本尊に誤字がある――「奉書写之」と書くべきところを「奉書字之」と書いているため意味不明だと、本紙一〇六三号で指摘した。写真を付けて指摘したので宗門側の関係者は弁解も反論も出来ず、屁理屈や逃げ口上も言えずに沈黙している。(中略)
本紙ではニセ法主が本尊を書くのを「模写」と呼んでいる。だが、日顕は生意気にも「書写」と称し、日如は「書字」というらしい。
(『フェイク』第1064号 発行2009.10.27)
「誤字」については日顕を踏襲したものか、詐称上人らしいことである。だが、日如の本尊を一見して愕然とすることは、まさしく「サインペン本尊」そのものであり、他に類例を見ない(だが二度と見るに堪えず、写真は載せない)。
いったい書写した歴代上人がどなたであろうと、相承に基づいた御本尊であれば、拝したときに「師子奮迅之力」「一心浄念」が醸し出されるはずである。だが日顕が書く本尊から感じるものは、おのれの筆法を誇示せんとばかりの自己顕示欲であり、また日如の場合は、いかにも〝習字の下書き〟との印象である。
この通り〝詐称上人〟の書く本尊は、相承を受けていないことが見て取れる。以下の記事に詳しい。
◇
また老僧たちは、別な面から「あれ(日顕)はニセモノだ」と噂し、見抜いていたという。別な面とは、御本尊書写についてである。御本尊書写については、宗門の僧侶であれば一応書写方法は知っている。しかし、ひとたび猊座につくと、自己流に書写したりはしないものなのだ。どうしても前の猊下の書写を真似る形となる。心構えが、自然に「先師の如く」と謙虚になり、そうなってしまうのだという。
例えば昭和三十五年から三十六年頃の登座当初の日達上人の御本尊は、先師日淳上人にそっくりの書写であったし、日淳上人も登座当初の御本尊は先師日昇上人に筆跡がよく似た御本尊であった。
ところが日顕は、最初から達筆な筆さばきで書写していた。
「(相承を)受けていないんだから、ああなってもしようがないだろう」と、老僧をして言わしめている。
(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
「先師の如く」との謙虚さが、相承を正しく伝えようとする心へと収斂する。その逆の例が日顕である。
日顕が先師・日達法主の建立した堂宇伽藍をことごとく破壊したこと、また立宗の日を一年に二回挙行する等、それまで先師が遵守してきた宗内行事を一変させた等の要因として、先師から相伝を受けなかった引け目が劣等感となり、逆恨みして先師を怨む心となったことが、根底にある。これらの行為はその負い目を打開しようと、奇矯な行動に出た例である。
また日如が書く本尊は、日顕の本尊とまるで似ていない。元々相承を受けていない法主から受けるべき相伝は無いのは、至極当然である。逆に、日顕が先師・日達法主に反発してきたことは、日如が日顕の本尊とは全く似ない本尊を書く状況を以て、受け継がれている。
2.現宗門は日寛上人の敵
「日寛上人の本尊を持ち出す必要が、どこにある」と問われれば、すなわち日寛上人は大聖人の真実義を著され、殊に『末法相応抄』を以て〝造仏義〟を打ち払われたことは、我ら学会員が仰ぐ御本尊に相応しい事跡である。
「謂く、凡(およ)そ本尊とは勝(すぐ)れたるを用ゆべし。然るに色相の仏を以って若(も)し法に望むれば、則(すなわ)ち勝劣宛(あたか)も天地の如し云云」(『六巻抄』聖教新聞社刊 P169)
「若し興師の正義は、全く絵像木像を以て本尊と為さず、唯(ただ)妙法の五字を以て本尊と為すなり云云」(同 P188)
ここに日寛上人は、はっきりと「絵像木像を以て本尊と為さず」と示されているではないか。曼荼羅御本尊は「絵像木像」すなわち「正像の本尊」ではないと言われるゆえに、開眼は不要である。この通り、日寛上人は常に、学会員の御味方である。
日寛上人は、日興上人が造仏義を否定されたことを理論として著わされた。ところが宗門は、十箇寺以上の末寺に仏像を造立した大謗法法主・十七世日精を宣揚する。
すなわち宗門は日寛上人の敵である。ゆえに学会の離山後、日寛上人御書写の御本尊は、創価学会の中より出現されたのである。
3.日顕宗は〝相伝の裏付け〟の無い新興宗教
次に法華講は、学会が「説かれる教義は認めない」と言うが、学会は宗門が古来より説いてきた法義を実践し、遵守してきた。だが問題は、日達法主や日顕の代から〝初めて言い出したもの〟についてである。
今でも宗門が学会を誹謗する根拠に「御本尊謹刻」を持ち出すが、次の証言がある。
◇
日達上人からは、「御本尊は受持した人のものですから、信心の上で大切にするのであれば、板御本尊にするのは自由です。他の人がとやかく言うものではありません。紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」という趣旨の、お話があったのです。これが真相です。
(『聖教新聞』1993年9月15日 発言者:秋谷会長)
宗門においては、まっさきに巧みに策動する者が〝真実〟を左右してしまう。第一次宗門事件においては、上記の証言にある通り、日達法主は学会の御本尊謹刻を事前に承認していたが、これに正信会の悪侶が激しく反対し、法主が突き上げられていた。この状況を打開し、日達法主を救うために、あえて学会が泥を被ったのが事実である。だが、彼らはこのことを盾に取り、〝学会が謗法を犯した〟と決めつけた。このことは次の記事に詳しい。
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:90」を破折する 連載130回
ゆえに学会は「説かれる教義を認めない」のではない、「日顕宗の言うことは歴代諸師の教義から逸脱した〝捏造〟に過ぎないから、認めない」、かつ「相承を受けていない日顕の教義は、認めない」のである。
日顕宗の言う「開眼」にしろ「法魂」にしろ、いずれも相承によらない創作教義である。
我らは〝日蓮正宗の教義〟を学んできた。だが、現宗門は全く〝新興宗教・日顕宗の教義〟と化している。陰陽師もどきのオカルト説法など、噴飯ものであり、そのような邪教は大聖人の仏法を破壊するものであり、断固打ち破らなければならない。
まして日顕は〝大御本尊否定〟の大謗法を犯したゆえに、日顕の教説は何から何まで、大聖人に違背したものとなっている。
ここまで日顕の正体を明かした以上、言わねばならない。すなわち、
「日顕宗・慈本寺法華講に正義がないと悟った方は、一刻も早く脱講すべきである」と。
日顕宗・法華講慈本寺の迷妄を破す ―了―
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日顕宗・法華講慈本寺の迷妄を破す(その6)
妄説:
【学会の言い訳③】
「脇書を削除した」について宗門も脇書を削除
宗門の古刹寺院の中には歴代法主の御形本御本尊を多数、所蔵している寺院がありますが、歴代法主書写の御本尊から御形本御本尊を作る際に、授与者名前を取る場合があります。そうした先例に基づいて、浄園寺所蔵の日寛上人御書写の御本尊を御形本解本尊にする際にも、授与者の名前を取っています。
それに対して、日顕らは「御本尊の脇書を取ったのは大謗法」と難癖をつけていましたが、それでは宗門も大謗法となります。なぜなら、平成六年十一月、「天晴」という会社の社員三名が本山の総一坊、総二坊を訪れ、安置された板御本尊計四体の脇書部分の「願主 法華講総議頭 池田大作」という文字を跡形もなく消してしまいました。
また、日顕の息子・阿部信彰が大修寺の住職を務めていた際に、全国の末寺に先駆けて、本堂の板御本尊から名誉会長の文字を削除しました。
この一連の脇書削除によって、脇書が御本尊の本体でないこと、また、脇書きを消しても御本尊の功徳には変わりがないことを宗門自らが証明したのです。
【破折】
本宗の御本尊はすべて日蓮大聖人の魂魄であり、御本仏の当体だから、大聖人の仏法を受け継がれている御法主上人の許可なく、勝手に取り扱うことは厳しく戒められている。
今回の学会のように、御本尊の授与書きを勝手に削り、勝手にコピーして販売することは、大聖人の御意に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪となる。
学会が、自らの謗法の念慮をもって勝手に脇書を削った事と、御法主上人の允可のもと、退転した池田の名を削った事と同列に論じること自体、不遜なのである。
『本因妙抄』に
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(全集869頁)
と御教示のように、御本尊に関することはすべて血脈相承の御法主上人にその権能がある。
『本因妙抄』を偽書と言う輩もいるが、学会の御書にもある以上それは詭弁でしかない。
破折:
1.「先師の相承」を受けてこそ〝法主〟
言うに事欠き、「大聖人の仏法を受け継がれている御法主上人」とは、よくも言えたものである。それでは、その人はどこに居るのか。居るはずがない、六十六世日達法主は、誰にも相承しないまま急逝したからである。
今にして思えば、法主が面授相承を行なうことなく逝去した事実を、宗門が正直に公表し、改めて新法主を選出していたなら、後々まで尾を引く問題が生じることはなかった。ところが、日顕が一世一代の〝猿芝居〟を打ち、それが通ってしまったのである。
日達法主が逝去した翌朝、ただちに本山の一室で緊急重役会議が開かれた。
◇
重役会議とは日蓮正宗の責任役員会のことで、本来、出席者は管長、総監、重役の三人。管長の日達上人亡き後、構成員は総監の日顕と重役の椎名の二人だけであったが、ここにあえて日顕は、正式メンバーではない日慈を招集したのである。日慈自身、予想外の出席要請に驚き、「何で俺が行くんだ」としきりにぼやきながら、重い腰を持ち上げたという。
(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
日顕が早瀬能化を呼んだのには、深謀があった。当時の宗門は、「法器会」の早瀬家と、日達法主の弟子の「妙観会」の二大派閥が対立し、かねてから宗内では、「法器会」の領袖・早瀬日慈こそ次の法主の最有力候補と目されていた。
ゆえに日顕は早瀬に、新法主が選出されるこの場での証人となってもらう必要があったのである。
◇
日顕は一世一代の勝負に出る。会議が始まったとたん、日顕が口火を切った。
「今日まで、どなたにも秘してきたが……」
日顕はすでに考えていたシナリオを慎重に言葉にした。問題は相承を受けた日だ。この日なら、確実に日達上人は本山にいたはずだ。
「実は昨年四月十五日、総本山大奥において猊下と自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に、御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜わったことを御披露する」
「えーっ! そんな」
日顕のいきなりの自己申告に、重役の椎名は思わず、声をあげた。しかし、その瞬間、
「いや、何をおっしゃる。これでお山は安泰だ。南無妙法蓮華経……」
早瀬日慈が日顕に向かって合掌した。六十七世法主が誕生した瞬間であった。
早瀬日慈も法主候補の一人であったが、日顕が先に名乗り出た以上、仕方ない。早い者勝ちだった。
(『転落の法主』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著 エバラオフィス 2004年4月出版)
日蓮正宗が「唯授一人相承」「血脈付法」を主張できる前提が「面授相承」であり、世に言う〝金看板〟である。ところが日達法主の急逝により、それが断絶する危機感が宗内にあった。
それに加え、日顕は具体的な日付まで出してきた。早瀬は日顕の言い分を嘘と承知しながら、あえて呑み込まざるを得なかったのである。
今一歩のところで日顕に出し抜かれてしまった早瀬は、煮えたぎる腹をおさえ、かろうじて仮通夜にだけは顔を出したが、それが終わるや、さっさと本山を後にし、東京に戻ってしまった。
◇
日顕が登座して、しばらくしてからのことです。ある時、私たちが聞いたわけではないのに、日顕は問わず語りにこう言いだしたのです。「ワシは、もしかしたら早瀬日慈さんあたりが(相承を)受けているのではないかとも思ったが、しばらく待っていても(早瀬が)何も言い出さないので、自分から言い出して登座したんだ」と。この話は私だけでなく、当時、本山にいた何人もの若手僧侶が聞いています。
(前出『法主詐称』より 発言者:吉川幸道住職)
口にしまりのない日顕らしく、「してやったり」の高揚感のまま、相承の無かった秘密をあっさりと漏らしてしまったのである。
◇
正信会から相承をめぐる裁判を起こされ、揺れに揺れていた昭和五十六年頃のことです。本山から名古屋への帰り、新幹線で京都に帰る椎名日澄師と一緒になったのです。その時、椎名師から直接聞いたのですが、「猊下も大変だねえ。ただ自分がそう言うだけで、相承を受けたという証拠が何もないんだから」と言うんです。早瀬日慈さんにも出席してもらって、三人で重役会議をやり、しかも仮通夜の席で重大発表をした張本人が、こんなことを言い出したので驚きました。
(前出『法主詐称』より 発言者:中島法信住職)
日顕は日達法主との間に「内々に、御相承の儀に関するお言葉があり」云云と説明したが、立会人(証人)はただの一人も居ない。「先に言った者勝ち」であった。
これにて宗門の「組織論」における、管長選出という問題は解決したが、「仏法上」は、何も為されないままであった。
いったい、「血脈相承の御法主上人」とは重要なポイントを含み、言い得て妙なる語である。すなわち〝法主〟とは血脈相承すなわち〝先師の相承〟を有する者とされるのであり、逆に相承を受けていなければ、法主を名乗る資格は、さらさら無い。六十六世日達法主は、誰にも相承を授けずに急逝した。これにて、血脈相承は断絶したのである。
2.ニセ法主に「権能」(ちから)は無い
前項の通り、日顕は管長の座を認めさせることに成功し、猊下と呼ばれるに至った。しかし正確に言えば、日顕は猊座を「簒奪」し、六十七世を「僭称」したのである。
「簒奪」の語義は、「本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること」あるいは「継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事」である。
また「僭称」とは「自分の身分を超えた称号を勝手に名乗ること」である。つまり簒奪と言うも、僭称と言うも、すべては〝相伝を承けていない〟ことに惹起する。
前述した通り「組織論」からは、宗門が認証すれば簒奪者であろうと僭称者であろうと、「管長」と見なされる。しかし「仏法上」は、実際には相伝を受けていないのに、相伝を授かったと妄語を宣した「詐称法主」でしかない。
よって日顕は「血脈相承の御法主上人」の資格を有さず、正しく法主を名乗れる者は、永久にいなくなったのである。
「御本尊に関することはすべて血脈相承の御法主上人にその権能がある」とは、正しく「血脈相承」が為されていれば、その通りであろう。だが今、宗門に居坐っているのは、二代にわたる〝血脈詐称の上人〟である。
「御本尊の授与書きを勝手に削り」とは、あたかも学会を咎めだてできる「権能」(ちから)を持っているかの口吻である。
ここで「組織論」によれば、組織内では何事であろうと、上位者に従わざるを得ない。ことに宗門の「組織論」は、はなはだ勝手で一方的な規則(ルール)である。以下がその要旨である。
◇
「もう一度言うぞ。たとえ“白”でも、猊下が“黒”と言えば、黒だ。わかったか!」
「は、はい」
中一たちにはどういう意味なのか、よくわからなかった。なぜ、白が黒になるのか。何の説明もない。明らかに矛盾している論理だ。その中三は、自分も得度三日目で先輩から同じことを言われて強烈な印象を受けたことを思い出しながら、言葉を続けた。
「つまり、猊下の言葉は絶対だということだ。わかったか!」
「はい」
(『実録小説 大石寺・大坊物語』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著 一部抜粋)
これが、宗内の「組織論」の根幹である。もちろん上記のように理不尽な論理は、閉鎖された集団内でしか通用しない。
まして離山した我らにとって、今さら宗門から何らの制約を受けるいわれは無く、ましてやニセ法主に「仏法上」の「権能」があるはずもない。我らは仏法を守る上から、絶対にニセ法主に従ってはならないのである。
話をあらためれば、そもそも御形木御本尊は〝授与書き〟の箇所を御形木にはしない。もしも授与書きをそのまま写したら、御形木御本尊となりえない。昭和四十年代に授与された御形木御本尊も、書写年代こそ異なるものの、同じく日寛上人御書写の御本尊であり、やはり授与書きはなかった。当然のことである。
学会は御本尊の授与書きの箇所を印刷しないだけであるが、宗門は不遜にも御本尊を手に掛け、実際に授与書きを削り取った。「謗法の念慮」とは、この蛮行を指して言うのである。
3.宗門の「謗法」及び「退転」
「大聖人の御意に背き」とあるが、宗門は「大聖人の御意」を何と心得るか。
「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(兵衛志殿御返事・一〇九一㌻)
「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(曾谷殿御返事・一〇五六㌻)
すなわち「大聖人の御意」とは、謗法を呵責して止まない、不自惜身命の御精神である。
戦前・戦中に軍部政府による宗教弾圧があった際、宗門は「大聖人の御意」に随ったとしたら、法主は国家諫暁を行なったか、宗門は神札を拒否したか。
「各各我が弟子となのらん人人は一人もをく(臆)しをもはるべからず」(種種御振舞御書・九一〇㌻)
しかし、宗門は大聖人の仰せに従うことは絶えてなかった。その替わり宗門が行なったことは、以下の通りである。
(1)昭和十六年八月二十四日、宗務院の院達により、御書の発刊を禁止。また本地垂迹説の引用を禁止。また同年九月二十九日、教学部長名で、御書の本地垂迹説にかかわる十四か所の字句を削除し、引用しないことを通達。
(2)昭和十七年十月十日、院達により、毎年十月十七日の伊勢神宮神嘗祭には、午前十時を期して神社を遥拝することを檀信徒に徹底。
(以上引用元:『暗黒の富士宗門史』著者 河合一 第三文明社刊 1997年12月初版)
次の御文は(1)で削除された御書の一節である。
「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(聖人知三世事 九七四㌻)
日寛上人は、この御文を「日蓮大聖人が末法の御本仏であられる文証」の一つに挙げられた。だがこの御文を削除したことは、大聖人を末法の御本仏と仰ぐ信心を否定したに等しい。
また(2)は日興上人の御遺誡に真っ向から背く。
「檀那の社参物詣を禁ず可し」(日興遺誡置文 一六一七㌻)
よって宗門は日興上人の門流ではなくなり、神社参詣を許した五老僧の末流となったのである。
だが、宗門は謗法を尽くすうちに、最も肝心な大聖人の御誡(おんいまし)めでさえも、忘れてしまったようだ。
「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(曾谷殿御返事・一〇五六㌻)
昭和二十年六月十七日、本山に大火災が発生し、管長の六十二世鈴木日恭が焼死した。厳しい因果律の果報である。この宗門全体の謗法を未だに認めない宗門は、「師檀ともに」の御文通り、後生は師匠たる日恭に続き、奈落へと陸続と堕ちゆくことは、論を俟たない。
また「退転」とは大聖人の御意に背くことであり、「御本尊に敵対すること」である。大御本尊を〝ニセ物〟と誹謗したのは日顕である。すなわち「退転者」とは日顕の異名であり、その日顕に従う宗門は与同罪である。
「謗法と申すは違背の義なり」(唱法華題目抄・四㌻)
「いかなる智者聖人も無間地獄を遁るべからず、又それにも近づくべからず与同罪恐るべし恐るべし」(新池御書・一四四一㌻)
日顕と「同列に論じること自体、不遜」とあるが、勿論のこと〝正法誹謗〟〝相承詐称〟の日顕と同列にされてはたまらない。我らは与同罪を恐れる者である。
4.〝後加文〟は大聖人のお言葉ではない
学会は『本因妙抄』そのものを問題視してはいない。本抄末尾の「日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」云々の箇所は、〝後加文〟であると主張しているのである。大聖人のお言葉でなく、誰が書き加えたかも不明であるものを、どれほど有難がらねばならないのか。
その意味からも、『御書全集』を編纂した堀日亨師は「大聖人の真蹟でなく、後世の加筆である」ことを示すために、後加文の活字を小さくし、区別したのである。堀師のこれほどの配慮を、宗門はどう受け止めているのか。歴代上人の行為であれば、さすがに無視はできないであろう。
それを指摘すれば、宗門は『本因妙抄』から話題をそらして『身延相承書』を持ち出してくる。大聖人が滅後の弘法を日興上人に託されたこと、それは間違いない、だがそれは、末代の法主が大聖人と同じ〝権能〟を有するなどの曲論につながるものでは決してない。
大聖人の権能(ちから)は、正しく御本尊に御座される。正師・日寛上人御書写の御本尊と学会員との、信心の境地冥合において、大聖人のお力が顕現されるのである。
それにひきかえ、「正法誹謗」「相承詐称」の日顕に、いかなる権能があると言うのか、嗤(わら)わせてはいけない。
妄説:
【学会の言い訳③】
「脇書を削除した」について宗門も脇書を削除
宗門の古刹寺院の中には歴代法主の御形本御本尊を多数、所蔵している寺院がありますが、歴代法主書写の御本尊から御形本御本尊を作る際に、授与者名前を取る場合があります。そうした先例に基づいて、浄園寺所蔵の日寛上人御書写の御本尊を御形本解本尊にする際にも、授与者の名前を取っています。
それに対して、日顕らは「御本尊の脇書を取ったのは大謗法」と難癖をつけていましたが、それでは宗門も大謗法となります。なぜなら、平成六年十一月、「天晴」という会社の社員三名が本山の総一坊、総二坊を訪れ、安置された板御本尊計四体の脇書部分の「願主 法華講総議頭 池田大作」という文字を跡形もなく消してしまいました。
また、日顕の息子・阿部信彰が大修寺の住職を務めていた際に、全国の末寺に先駆けて、本堂の板御本尊から名誉会長の文字を削除しました。
この一連の脇書削除によって、脇書が御本尊の本体でないこと、また、脇書きを消しても御本尊の功徳には変わりがないことを宗門自らが証明したのです。
【破折】
本宗の御本尊はすべて日蓮大聖人の魂魄であり、御本仏の当体だから、大聖人の仏法を受け継がれている御法主上人の許可なく、勝手に取り扱うことは厳しく戒められている。
今回の学会のように、御本尊の授与書きを勝手に削り、勝手にコピーして販売することは、大聖人の御意に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪となる。
学会が、自らの謗法の念慮をもって勝手に脇書を削った事と、御法主上人の允可のもと、退転した池田の名を削った事と同列に論じること自体、不遜なのである。
『本因妙抄』に
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(全集869頁)
と御教示のように、御本尊に関することはすべて血脈相承の御法主上人にその権能がある。
『本因妙抄』を偽書と言う輩もいるが、学会の御書にもある以上それは詭弁でしかない。
破折:
1.「先師の相承」を受けてこそ〝法主〟
言うに事欠き、「大聖人の仏法を受け継がれている御法主上人」とは、よくも言えたものである。それでは、その人はどこに居るのか。居るはずがない、六十六世日達法主は、誰にも相承しないまま急逝したからである。
今にして思えば、法主が面授相承を行なうことなく逝去した事実を、宗門が正直に公表し、改めて新法主を選出していたなら、後々まで尾を引く問題が生じることはなかった。ところが、日顕が一世一代の〝猿芝居〟を打ち、それが通ってしまったのである。
日達法主が逝去した翌朝、ただちに本山の一室で緊急重役会議が開かれた。
◇
重役会議とは日蓮正宗の責任役員会のことで、本来、出席者は管長、総監、重役の三人。管長の日達上人亡き後、構成員は総監の日顕と重役の椎名の二人だけであったが、ここにあえて日顕は、正式メンバーではない日慈を招集したのである。日慈自身、予想外の出席要請に驚き、「何で俺が行くんだ」としきりにぼやきながら、重い腰を持ち上げたという。
(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
日顕が早瀬能化を呼んだのには、深謀があった。当時の宗門は、「法器会」の早瀬家と、日達法主の弟子の「妙観会」の二大派閥が対立し、かねてから宗内では、「法器会」の領袖・早瀬日慈こそ次の法主の最有力候補と目されていた。
ゆえに日顕は早瀬に、新法主が選出されるこの場での証人となってもらう必要があったのである。
◇
日顕は一世一代の勝負に出る。会議が始まったとたん、日顕が口火を切った。
「今日まで、どなたにも秘してきたが……」
日顕はすでに考えていたシナリオを慎重に言葉にした。問題は相承を受けた日だ。この日なら、確実に日達上人は本山にいたはずだ。
「実は昨年四月十五日、総本山大奥において猊下と自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に、御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜わったことを御披露する」
「えーっ! そんな」
日顕のいきなりの自己申告に、重役の椎名は思わず、声をあげた。しかし、その瞬間、
「いや、何をおっしゃる。これでお山は安泰だ。南無妙法蓮華経……」
早瀬日慈が日顕に向かって合掌した。六十七世法主が誕生した瞬間であった。
早瀬日慈も法主候補の一人であったが、日顕が先に名乗り出た以上、仕方ない。早い者勝ちだった。
(『転落の法主』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著 エバラオフィス 2004年4月出版)
日蓮正宗が「唯授一人相承」「血脈付法」を主張できる前提が「面授相承」であり、世に言う〝金看板〟である。ところが日達法主の急逝により、それが断絶する危機感が宗内にあった。
それに加え、日顕は具体的な日付まで出してきた。早瀬は日顕の言い分を嘘と承知しながら、あえて呑み込まざるを得なかったのである。
今一歩のところで日顕に出し抜かれてしまった早瀬は、煮えたぎる腹をおさえ、かろうじて仮通夜にだけは顔を出したが、それが終わるや、さっさと本山を後にし、東京に戻ってしまった。
◇
日顕が登座して、しばらくしてからのことです。ある時、私たちが聞いたわけではないのに、日顕は問わず語りにこう言いだしたのです。「ワシは、もしかしたら早瀬日慈さんあたりが(相承を)受けているのではないかとも思ったが、しばらく待っていても(早瀬が)何も言い出さないので、自分から言い出して登座したんだ」と。この話は私だけでなく、当時、本山にいた何人もの若手僧侶が聞いています。
(前出『法主詐称』より 発言者:吉川幸道住職)
口にしまりのない日顕らしく、「してやったり」の高揚感のまま、相承の無かった秘密をあっさりと漏らしてしまったのである。
◇
正信会から相承をめぐる裁判を起こされ、揺れに揺れていた昭和五十六年頃のことです。本山から名古屋への帰り、新幹線で京都に帰る椎名日澄師と一緒になったのです。その時、椎名師から直接聞いたのですが、「猊下も大変だねえ。ただ自分がそう言うだけで、相承を受けたという証拠が何もないんだから」と言うんです。早瀬日慈さんにも出席してもらって、三人で重役会議をやり、しかも仮通夜の席で重大発表をした張本人が、こんなことを言い出したので驚きました。
(前出『法主詐称』より 発言者:中島法信住職)
日顕は日達法主との間に「内々に、御相承の儀に関するお言葉があり」云云と説明したが、立会人(証人)はただの一人も居ない。「先に言った者勝ち」であった。
これにて宗門の「組織論」における、管長選出という問題は解決したが、「仏法上」は、何も為されないままであった。
いったい、「血脈相承の御法主上人」とは重要なポイントを含み、言い得て妙なる語である。すなわち〝法主〟とは血脈相承すなわち〝先師の相承〟を有する者とされるのであり、逆に相承を受けていなければ、法主を名乗る資格は、さらさら無い。六十六世日達法主は、誰にも相承を授けずに急逝した。これにて、血脈相承は断絶したのである。
2.ニセ法主に「権能」(ちから)は無い
前項の通り、日顕は管長の座を認めさせることに成功し、猊下と呼ばれるに至った。しかし正確に言えば、日顕は猊座を「簒奪」し、六十七世を「僭称」したのである。
「簒奪」の語義は、「本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること」あるいは「継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事」である。
また「僭称」とは「自分の身分を超えた称号を勝手に名乗ること」である。つまり簒奪と言うも、僭称と言うも、すべては〝相伝を承けていない〟ことに惹起する。
前述した通り「組織論」からは、宗門が認証すれば簒奪者であろうと僭称者であろうと、「管長」と見なされる。しかし「仏法上」は、実際には相伝を受けていないのに、相伝を授かったと妄語を宣した「詐称法主」でしかない。
よって日顕は「血脈相承の御法主上人」の資格を有さず、正しく法主を名乗れる者は、永久にいなくなったのである。
「御本尊に関することはすべて血脈相承の御法主上人にその権能がある」とは、正しく「血脈相承」が為されていれば、その通りであろう。だが今、宗門に居坐っているのは、二代にわたる〝血脈詐称の上人〟である。
「御本尊の授与書きを勝手に削り」とは、あたかも学会を咎めだてできる「権能」(ちから)を持っているかの口吻である。
ここで「組織論」によれば、組織内では何事であろうと、上位者に従わざるを得ない。ことに宗門の「組織論」は、はなはだ勝手で一方的な規則(ルール)である。以下がその要旨である。
◇
「もう一度言うぞ。たとえ“白”でも、猊下が“黒”と言えば、黒だ。わかったか!」
「は、はい」
中一たちにはどういう意味なのか、よくわからなかった。なぜ、白が黒になるのか。何の説明もない。明らかに矛盾している論理だ。その中三は、自分も得度三日目で先輩から同じことを言われて強烈な印象を受けたことを思い出しながら、言葉を続けた。
「つまり、猊下の言葉は絶対だということだ。わかったか!」
「はい」
(『実録小説 大石寺・大坊物語』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著 一部抜粋)
これが、宗内の「組織論」の根幹である。もちろん上記のように理不尽な論理は、閉鎖された集団内でしか通用しない。
まして離山した我らにとって、今さら宗門から何らの制約を受けるいわれは無く、ましてやニセ法主に「仏法上」の「権能」があるはずもない。我らは仏法を守る上から、絶対にニセ法主に従ってはならないのである。
話をあらためれば、そもそも御形木御本尊は〝授与書き〟の箇所を御形木にはしない。もしも授与書きをそのまま写したら、御形木御本尊となりえない。昭和四十年代に授与された御形木御本尊も、書写年代こそ異なるものの、同じく日寛上人御書写の御本尊であり、やはり授与書きはなかった。当然のことである。
学会は御本尊の授与書きの箇所を印刷しないだけであるが、宗門は不遜にも御本尊を手に掛け、実際に授与書きを削り取った。「謗法の念慮」とは、この蛮行を指して言うのである。
3.宗門の「謗法」及び「退転」
「大聖人の御意に背き」とあるが、宗門は「大聖人の御意」を何と心得るか。
「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(兵衛志殿御返事・一〇九一㌻)
「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(曾谷殿御返事・一〇五六㌻)
すなわち「大聖人の御意」とは、謗法を呵責して止まない、不自惜身命の御精神である。
戦前・戦中に軍部政府による宗教弾圧があった際、宗門は「大聖人の御意」に随ったとしたら、法主は国家諫暁を行なったか、宗門は神札を拒否したか。
「各各我が弟子となのらん人人は一人もをく(臆)しをもはるべからず」(種種御振舞御書・九一〇㌻)
しかし、宗門は大聖人の仰せに従うことは絶えてなかった。その替わり宗門が行なったことは、以下の通りである。
(1)昭和十六年八月二十四日、宗務院の院達により、御書の発刊を禁止。また本地垂迹説の引用を禁止。また同年九月二十九日、教学部長名で、御書の本地垂迹説にかかわる十四か所の字句を削除し、引用しないことを通達。
(2)昭和十七年十月十日、院達により、毎年十月十七日の伊勢神宮神嘗祭には、午前十時を期して神社を遥拝することを檀信徒に徹底。
(以上引用元:『暗黒の富士宗門史』著者 河合一 第三文明社刊 1997年12月初版)
次の御文は(1)で削除された御書の一節である。
「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(聖人知三世事 九七四㌻)
日寛上人は、この御文を「日蓮大聖人が末法の御本仏であられる文証」の一つに挙げられた。だがこの御文を削除したことは、大聖人を末法の御本仏と仰ぐ信心を否定したに等しい。
また(2)は日興上人の御遺誡に真っ向から背く。
「檀那の社参物詣を禁ず可し」(日興遺誡置文 一六一七㌻)
よって宗門は日興上人の門流ではなくなり、神社参詣を許した五老僧の末流となったのである。
だが、宗門は謗法を尽くすうちに、最も肝心な大聖人の御誡(おんいまし)めでさえも、忘れてしまったようだ。
「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(曾谷殿御返事・一〇五六㌻)
昭和二十年六月十七日、本山に大火災が発生し、管長の六十二世鈴木日恭が焼死した。厳しい因果律の果報である。この宗門全体の謗法を未だに認めない宗門は、「師檀ともに」の御文通り、後生は師匠たる日恭に続き、奈落へと陸続と堕ちゆくことは、論を俟たない。
また「退転」とは大聖人の御意に背くことであり、「御本尊に敵対すること」である。大御本尊を〝ニセ物〟と誹謗したのは日顕である。すなわち「退転者」とは日顕の異名であり、その日顕に従う宗門は与同罪である。
「謗法と申すは違背の義なり」(唱法華題目抄・四㌻)
「いかなる智者聖人も無間地獄を遁るべからず、又それにも近づくべからず与同罪恐るべし恐るべし」(新池御書・一四四一㌻)
日顕と「同列に論じること自体、不遜」とあるが、勿論のこと〝正法誹謗〟〝相承詐称〟の日顕と同列にされてはたまらない。我らは与同罪を恐れる者である。
4.〝後加文〟は大聖人のお言葉ではない
学会は『本因妙抄』そのものを問題視してはいない。本抄末尾の「日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」云々の箇所は、〝後加文〟であると主張しているのである。大聖人のお言葉でなく、誰が書き加えたかも不明であるものを、どれほど有難がらねばならないのか。
その意味からも、『御書全集』を編纂した堀日亨師は「大聖人の真蹟でなく、後世の加筆である」ことを示すために、後加文の活字を小さくし、区別したのである。堀師のこれほどの配慮を、宗門はどう受け止めているのか。歴代上人の行為であれば、さすがに無視はできないであろう。
それを指摘すれば、宗門は『本因妙抄』から話題をそらして『身延相承書』を持ち出してくる。大聖人が滅後の弘法を日興上人に託されたこと、それは間違いない、だがそれは、末代の法主が大聖人と同じ〝権能〟を有するなどの曲論につながるものでは決してない。
大聖人の権能(ちから)は、正しく御本尊に御座される。正師・日寛上人御書写の御本尊と学会員との、信心の境地冥合において、大聖人のお力が顕現されるのである。
それにひきかえ、「正法誹謗」「相承詐称」の日顕に、いかなる権能があると言うのか、嗤(わら)わせてはいけない。
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗・法華講慈本寺の迷妄を破す
日顕宗・法華講慈本寺の迷妄を破す(その5)
妄説:
【学会の言い訳②】
「開眼していない」について御本尊は開眼する側であり、開眼されるものではない。
御書の中には、御本尊の開眼については全く述べられていません。なぜなら、大聖人は、
「法華経の題目は一切経の神。一切経の眼目なり」(同一〇六〇頁)
「今末法に入って、眼目とは所謂未曾有の大曼荼羅なり、此の本尊より外には眼目無きなり。」(同八四一頁)
と仰せであり、御本尊自体が、仏の眼目であり、魂そのものだからです。ゆえに、他宗の仏像のような開眼の儀式などは一切、必要ないのです。
宗門は『本絵二像開眼之事』等を引用して、"開眼する前の御本尊は木絵であり、法主の開眼が必要"と躍起になっていますが、この御書は、真言宗が当時行っていた木絵二像(木や画で描かれた仏像)の開眼を痛烈に非難された内容であり、御本尊に開眼が必要などとは、一言も仰せではありません。
そもそも、御本尊が木絵二像であろうはずはなく「一切経の眼目」である御本尊は、他のものに開眼されるべきものではありません。
さらに、大聖人は『報恩抄』で「天台宗の人人画像木像の開眼の仏事をねらわんがために日本一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり」と"開眼の仏事"自体を厳に戒められています。
【破折】
御書には、
『但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ』(『真間釈迦仏御供養逐状』全集950頁)
とある。
大聖人は、「開眼」によってはじめて「生身の教主釈尊」(仏)と成る。ここでは「法華経一部」を読むことによって開眼供養できると説かれている。
大聖人も、弟子に命じて開眼をさせている。だからといって誰が開眼してもよいのではない。あくまでも師の命によって行うところに、血脈が流れ開眼の意味が生まれるのである。
もし、在家の身で勝手に「法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて」開眼できるのであれば、わざわざ「伊よ房」に「いそぎいそぎ」開眼を命じる必要もない。
この御文からすると、【御本尊は開眼する側であり開眼されるものではない】との学会の見苦しい言い訳は破綻している。
また、姑息にも「眼目」と「開眼」は同義であるが如く論じて会員を欺いているが、全くの別物である。
破折:
1.日興上人は「絵像・木像の仏・菩薩」の造立を否定
まず確認しておかねばならないことは、今回は「大聖人御図顕の御本尊」につき、その開眼の有無について論じているはずである。しかるに、法華講の引用した『真間釈迦仏御供養逐状』(九五〇㌻)は、富木常忍が「釈迦仏像」を造立した信心を賞でられ、その開眼供養について指導された御書である。
つまりは、対象を全く異にする御書であり、学会への反証になりようはずがない。いつも通り、話をはぐらかす手法である。
あらためて論ずれば、大聖人が佐渡において御本尊を開顕されて以降、「絵像・木像の仏・菩薩」の造立は全く無益のものとなった。それは日興上人が仰せである。
「日興が云く、聖人御立(ごりゅう)の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(富士一跡門徒存知の事・一六〇六㌻)
宗門が日興上人の門流を自認するならば、正像の残滓である「絵像・木像」は潔く捨て去り、大聖人御図顕の御本尊にのみ帰依しなければならない。
その御本尊の正しい相貌は日興上人が伝持され、相伝によって伝えられてきた。その相伝によらない本尊が、すなわち「ニセ本尊」である。
その例が、前回までに紹介した通り、造仏義の「悪心」を込めた十七世日精、相伝によらず「我見」を以てした六十世日開(日顕の父)、そして「不相伝」すなわち番外の日顕・日如が書く本尊である。
さらに括目すべきは、「御自筆の本尊」の開眼を述べられた御書など、一切存在しない事実である。日顕・日如は不相伝であるに加え、本尊の開眼という捏造義を説き、聖者を装う現代の詭弁婆羅門である。
2.「遊戯雑談」の輩に説得力は皆無
さらに法華講は「在家の身で勝手に(中略)開眼できるのであれば、わざわざ『伊よ房』に『いそぎいそぎ』開眼を命じる必要もない」と言う。しかし、学会は「御本尊に開眼は不要」と言っているのであり、学会が開眼するいわれも、またする必要もない。
開眼したいのは、宗門の側であろうが。日顕・日如の誤字・脱字だらけで相伝のない本尊には、鬼が入り魔が入ることは必定であり、開眼との名目で〝御祓い〟しなければ、恐ろしかろう。だがそれはかえって、謗法を深める結果となる。
「在家の身で勝手に」とは、僧俗差別を強調したいわけであろう。だが、自分たちは〝御書にあるべき僧侶〟であると、恥じることなく言えるのか。
「一、先師の如く予(よ)が化儀も聖僧為(た)る可し、但し時の貫首(かんず)或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も衆徒に差置く可き事。」(日興遺誡置文・一六一九㌻)
法華講は日興上人の御文を拝したうえで、以下の記事を読むが良い。
「元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾(めかけ)を置き又大宮(=富士宮)其他附近に出でては飽くまで不品行を恣(ほしいまま)にして恥ぢぬ程の者」
(『静岡民友新聞』明治四十一年十月二日付「日応の人となり」)
これが、現法主・日如の曽祖父、五十六世大石日応である。日興上人の弟子として「聖僧」たるべきが、それも法主でありながら、明治時代の宗門で真っ先駈けて妻帯した。それに止まらず当時の新聞記事には、妾(めかけ)狂いのため寺の財産を使い込み、「一万円にも及べる借財」(現在の相場に換算し約一億円)を為したと報じられる。文字通りの「色魔」と言えよう。
法主自ら範を垂れたわけで、その後の六十一世水谷日隆もまた、妾のために現在相場で日応とほぼ同額(約一億円)を使い込み、全国紙(『読売新聞』昭和五年十二月二十九日付)で指摘されている。
しかしこれらの法主が「衆徒に差置く可き」として降格されることはなかった。宗門においては、法主は絶対に批判されない存在とされるからである。だが、日興上人は何と仰せであるか。
「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず」(日興遺誡置文・一六一九㌻)
すでに彼らは、日興上人に義絶された存在なのである。
また戦後の日顕は、妻帯・蓄妾には面白味がなかったのか、買春を常態としていたと伝えられる。宗門幹部(教学部長)となってもその性癖は治まらず、宗門初の海外出張御授戒という栄誉ある伝道の途上にあって、街娼と行為に及び警察沙汰となり、結局は当地の学会婦人部員に保証人となってもらい、ようやく釈放されたのである。
「遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし」(松野殿御返事・一三八六㌻)
宗門は「法師の皮を著たる畜生」の棲家となっている。近年では〝相承〟を受けず、見よう見まねで〝御本尊書写の真似事〟をする「猿」が棲息し、そこに君臨する。
だが、「猿」とはしょせん〝人の似非物(えせもの)〟であり、〝相承の簒奪者〟である。我らは、「似非物」「簒奪者」に仕えることは、肯(がえ)んじ得ない。
学会授与の御本尊は、歴代上人中の正師・日寛上人の御書写による。相伝のない日顕・日如の及ぶところではないのである。
3.宗門は〝正像の残滓〟に拘泥
話を戻せば、法華講は「『眼目』と『開眼』は同義であるが如く論じて会員を欺いている」と学会を誹謗するが、これまた意味不明である。学会の側は、そのようなことを言っていない。
もう一度、学会の主張を読んでみるがよい、「御本尊は開眼する側であり、開眼されるものではない」と。これは大聖人が釈迦仏造立につき、法華経の梵音声を以て開眼された史実を言ったもので、ここで法華経とは御本尊である。
「眼とは法華経なり此の大乗経典は諸仏の眼目と」(御義口伝巻下・七六二㌻)
「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(本尊問答抄・三六六㌻)
〇「眼目」: 一切経の眼目(法華経)
〇「開眼」: 木絵二像に眼目(法華経)を入れる行為
「眼」の一字が共通なだけで、両者は同義どころか、立場は真逆である。「会員を欺いている」のは、法華講慈本寺の方ではないか。おのれの行為を他者に転嫁する、宗門・法華講の所業を「姑息」と言うのである。
彼らがどうしても〝正像の残滓〟である開眼に拘泥するなら、もはやこの末法に存在する意義も無い。現世を忌避したい法華講は、どうぞ、おのれ自身をかき消されたい。
妄説:
【学会の言い訳②】
「開眼していない」について御本尊は開眼する側であり、開眼されるものではない。
御書の中には、御本尊の開眼については全く述べられていません。なぜなら、大聖人は、
「法華経の題目は一切経の神。一切経の眼目なり」(同一〇六〇頁)
「今末法に入って、眼目とは所謂未曾有の大曼荼羅なり、此の本尊より外には眼目無きなり。」(同八四一頁)
と仰せであり、御本尊自体が、仏の眼目であり、魂そのものだからです。ゆえに、他宗の仏像のような開眼の儀式などは一切、必要ないのです。
宗門は『本絵二像開眼之事』等を引用して、"開眼する前の御本尊は木絵であり、法主の開眼が必要"と躍起になっていますが、この御書は、真言宗が当時行っていた木絵二像(木や画で描かれた仏像)の開眼を痛烈に非難された内容であり、御本尊に開眼が必要などとは、一言も仰せではありません。
そもそも、御本尊が木絵二像であろうはずはなく「一切経の眼目」である御本尊は、他のものに開眼されるべきものではありません。
さらに、大聖人は『報恩抄』で「天台宗の人人画像木像の開眼の仏事をねらわんがために日本一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり」と"開眼の仏事"自体を厳に戒められています。
【破折】
御書には、
『但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ』(『真間釈迦仏御供養逐状』全集950頁)
とある。
大聖人は、「開眼」によってはじめて「生身の教主釈尊」(仏)と成る。ここでは「法華経一部」を読むことによって開眼供養できると説かれている。
大聖人も、弟子に命じて開眼をさせている。だからといって誰が開眼してもよいのではない。あくまでも師の命によって行うところに、血脈が流れ開眼の意味が生まれるのである。
もし、在家の身で勝手に「法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて」開眼できるのであれば、わざわざ「伊よ房」に「いそぎいそぎ」開眼を命じる必要もない。
この御文からすると、【御本尊は開眼する側であり開眼されるものではない】との学会の見苦しい言い訳は破綻している。
また、姑息にも「眼目」と「開眼」は同義であるが如く論じて会員を欺いているが、全くの別物である。
破折:
1.日興上人は「絵像・木像の仏・菩薩」の造立を否定
まず確認しておかねばならないことは、今回は「大聖人御図顕の御本尊」につき、その開眼の有無について論じているはずである。しかるに、法華講の引用した『真間釈迦仏御供養逐状』(九五〇㌻)は、富木常忍が「釈迦仏像」を造立した信心を賞でられ、その開眼供養について指導された御書である。
つまりは、対象を全く異にする御書であり、学会への反証になりようはずがない。いつも通り、話をはぐらかす手法である。
あらためて論ずれば、大聖人が佐渡において御本尊を開顕されて以降、「絵像・木像の仏・菩薩」の造立は全く無益のものとなった。それは日興上人が仰せである。
「日興が云く、聖人御立(ごりゅう)の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(富士一跡門徒存知の事・一六〇六㌻)
宗門が日興上人の門流を自認するならば、正像の残滓である「絵像・木像」は潔く捨て去り、大聖人御図顕の御本尊にのみ帰依しなければならない。
その御本尊の正しい相貌は日興上人が伝持され、相伝によって伝えられてきた。その相伝によらない本尊が、すなわち「ニセ本尊」である。
その例が、前回までに紹介した通り、造仏義の「悪心」を込めた十七世日精、相伝によらず「我見」を以てした六十世日開(日顕の父)、そして「不相伝」すなわち番外の日顕・日如が書く本尊である。
さらに括目すべきは、「御自筆の本尊」の開眼を述べられた御書など、一切存在しない事実である。日顕・日如は不相伝であるに加え、本尊の開眼という捏造義を説き、聖者を装う現代の詭弁婆羅門である。
2.「遊戯雑談」の輩に説得力は皆無
さらに法華講は「在家の身で勝手に(中略)開眼できるのであれば、わざわざ『伊よ房』に『いそぎいそぎ』開眼を命じる必要もない」と言う。しかし、学会は「御本尊に開眼は不要」と言っているのであり、学会が開眼するいわれも、またする必要もない。
開眼したいのは、宗門の側であろうが。日顕・日如の誤字・脱字だらけで相伝のない本尊には、鬼が入り魔が入ることは必定であり、開眼との名目で〝御祓い〟しなければ、恐ろしかろう。だがそれはかえって、謗法を深める結果となる。
「在家の身で勝手に」とは、僧俗差別を強調したいわけであろう。だが、自分たちは〝御書にあるべき僧侶〟であると、恥じることなく言えるのか。
「一、先師の如く予(よ)が化儀も聖僧為(た)る可し、但し時の貫首(かんず)或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も衆徒に差置く可き事。」(日興遺誡置文・一六一九㌻)
法華講は日興上人の御文を拝したうえで、以下の記事を読むが良い。
「元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾(めかけ)を置き又大宮(=富士宮)其他附近に出でては飽くまで不品行を恣(ほしいまま)にして恥ぢぬ程の者」
(『静岡民友新聞』明治四十一年十月二日付「日応の人となり」)
これが、現法主・日如の曽祖父、五十六世大石日応である。日興上人の弟子として「聖僧」たるべきが、それも法主でありながら、明治時代の宗門で真っ先駈けて妻帯した。それに止まらず当時の新聞記事には、妾(めかけ)狂いのため寺の財産を使い込み、「一万円にも及べる借財」(現在の相場に換算し約一億円)を為したと報じられる。文字通りの「色魔」と言えよう。
法主自ら範を垂れたわけで、その後の六十一世水谷日隆もまた、妾のために現在相場で日応とほぼ同額(約一億円)を使い込み、全国紙(『読売新聞』昭和五年十二月二十九日付)で指摘されている。
しかしこれらの法主が「衆徒に差置く可き」として降格されることはなかった。宗門においては、法主は絶対に批判されない存在とされるからである。だが、日興上人は何と仰せであるか。
「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず」(日興遺誡置文・一六一九㌻)
すでに彼らは、日興上人に義絶された存在なのである。
また戦後の日顕は、妻帯・蓄妾には面白味がなかったのか、買春を常態としていたと伝えられる。宗門幹部(教学部長)となってもその性癖は治まらず、宗門初の海外出張御授戒という栄誉ある伝道の途上にあって、街娼と行為に及び警察沙汰となり、結局は当地の学会婦人部員に保証人となってもらい、ようやく釈放されたのである。
「遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし」(松野殿御返事・一三八六㌻)
宗門は「法師の皮を著たる畜生」の棲家となっている。近年では〝相承〟を受けず、見よう見まねで〝御本尊書写の真似事〟をする「猿」が棲息し、そこに君臨する。
だが、「猿」とはしょせん〝人の似非物(えせもの)〟であり、〝相承の簒奪者〟である。我らは、「似非物」「簒奪者」に仕えることは、肯(がえ)んじ得ない。
学会授与の御本尊は、歴代上人中の正師・日寛上人の御書写による。相伝のない日顕・日如の及ぶところではないのである。
3.宗門は〝正像の残滓〟に拘泥
話を戻せば、法華講は「『眼目』と『開眼』は同義であるが如く論じて会員を欺いている」と学会を誹謗するが、これまた意味不明である。学会の側は、そのようなことを言っていない。
もう一度、学会の主張を読んでみるがよい、「御本尊は開眼する側であり、開眼されるものではない」と。これは大聖人が釈迦仏造立につき、法華経の梵音声を以て開眼された史実を言ったもので、ここで法華経とは御本尊である。
「眼とは法華経なり此の大乗経典は諸仏の眼目と」(御義口伝巻下・七六二㌻)
「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(本尊問答抄・三六六㌻)
〇「眼目」: 一切経の眼目(法華経)
〇「開眼」: 木絵二像に眼目(法華経)を入れる行為
「眼」の一字が共通なだけで、両者は同義どころか、立場は真逆である。「会員を欺いている」のは、法華講慈本寺の方ではないか。おのれの行為を他者に転嫁する、宗門・法華講の所業を「姑息」と言うのである。
彼らがどうしても〝正像の残滓〟である開眼に拘泥するなら、もはやこの末法に存在する意義も無い。現世を忌避したい法華講は、どうぞ、おのれ自身をかき消されたい。
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗・法華講慈本寺の迷妄を破す
日顕宗・法華講慈本寺の迷妄を破す(その4)
妄説:
【学会の言い訳①】
「本山から下付されていない」について
日達法主の時代は、
豊島区・法道院から御本尊を直接発送
昭和三十年代に授与されていた日寛上人の御形木御本尊は、東京・池袋の法道院で印刷し、全国の末寺に直接、発送されていました。宗門が言うような、本山での法主の開限など御形木御本尊については全く行われていなかったのです。それは日達法主の時代まで続きました。日顕の代になり、本山に御本尊を扱う「第三課」という部署が出来ましたが、御本尊の印刷は、外部の印刷会社が行っています。
そして印刷会社が運んで来た御本尊を僧侶が印刷の状態を確認して箱に詰め、各末寺に運送会社を使って発送しています。その際に「開眼」などの特別な儀式などしていません。これが歴史的事実なのです。
【破折】
過去の法道院における御形木御本尊の下附は、法道院が独自に行っていたものではない。当時、印刷技術等の問題を含め、種々の状況を鑑みられた総本山第六十六世日達上人の御命によりなされたものであり、御本尊の一切の権能を御所持される御法主上人の允可のもとで行われた事である。
その上で当時の法道院主管・早瀬日慈上人は、御形木御本尊の開眼をまとめて本山にお願いされていた。
丑寅勤行の折に開眼の御祈念をなされ、さらに各末寺において丁重に御宝前にお供えをしてから下付されていたのである。
また、日顕上人は印刷・確認された形木本尊(本紙)を丑寅勤行の際、御宝前に御供え申上げ、開眼供養されていた。
学会は意図的に隠しているが、開眼供養された後、本山指定の表具店に本紙を渡して表装申し上げている。
学会のペラペラ一枚刷りコピー本尊とは、全く異なっているのである。
日顕上人は、「総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。」(創価学会の偽造本尊義を破す59頁)と甚深の御指南をされている。
日顕上人がここで仰せの開眼の意義は、大聖人の御内証たる唯授一人血脈相承の御境界よりなされる開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わることを仰せになられているのであり、「法道院から末寺へ御本尊が送られていていつ開眼供養したんだ。」などの邪推は、木っ端微塵に吹き飛ぶ。
以上からわかるように、一時期、法道院がご本尊の授与をしていたから創価学会が勝手にやっていいという道理は一切ない。
したがって、退転して邪宗となってしまった創価学会のニセ本尊は、何の許可も無く勝手に正宗の御本尊を盗み印刷し販売している紙切れでしかない。
破折:
1.〝餓鬼〟に末法の御本尊は見えず
御本尊に対し奉り、法華講が「紙切れ」等と誹謗するのを以てして、つくづく彼らは本尊の「材料」「表装」等しか見えぬ輩であると知れるのである。これは彼らが御本尊出現以前の正像時代に留まっていること、すなわち〝末法の御本尊〟の相貌を見ることが出来ない境涯に沈んでいるのである。
これは「造仏」の大謗法を犯した十七世日精を評価する宗門が、先祖返りの邪教となったことを象徴する事例でもある。
法蓮抄(一〇五〇㌻)にいわく、
「今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり」
宗門の輩が餓鬼界に堕在していることは、前世の果報ゆえか。
「名利を貪(むさぼ)るが為に不浄説法する者此の報を受く」(十法界明因果抄・四二九㌻)
(出家でありながら名声と私利私欲とを貪るために、汚れた説法をする者は餓鬼界に堕ちる)
まさに日顕宗を言い当てた御文である。〝餓鬼〟の境涯なら御本尊の正意が見えず、「ペラペラ一枚刷り」などと〝紙質〟しか見えないのも、納得いくことである。
2.「ペラペラ一枚刷りコピー本尊」 ~ 学会に太刀打ちできない精一杯の反抗
「勝手に正宗の御本尊を盗み印刷し販売している」と誹謗の言葉を並べ立てる。だが、「販売」される本尊の例としては、身延の門前町において「不特定多数の観光客」を対象とする本尊は、土産物店で「販売」される商品である。
しかし、学会授与の御本尊が、どこの〝土産物店〟で、いかなる〝観光客〟に「販売」されると言うのか。
このことは、弘法大師空海が法華経を誹謗した際、兎に対し〝角がある〟と難癖を付けるに等しい、およそ根拠の無い言い掛かりをつけた故事を想い起こさせる。
「亀の甲には毛なしなんぞ長短をあらそい兎の頭には角なし・なんの有無を論ぜん」(聖密房御書・八九八㌻)
(亀の甲には毛はないのに、なんでその長い短いを争い、兎の頭には角はないのに、なんで角の有無を論ずるのだろうか)
だが、このような言い掛かりなど、彼らにとってはなまやさしいほうである。もっと悪辣な中傷を投げつけることが、もう日ごろの商売なのだから。何故かなら、宗門は経文でも御書でも、また道理においても学会に及ばない、何ら対抗できる手段を持たないからである。
今後、宗門は身延と同様に、観光地として生き延びるしか経営の方法は無かろう。宗門が頼みとする法華講員は、年に何度となく登山を強要され、本山に行けば奉安殿前の広場で炎天にさらされ、或いは風雨に打たれ、御開扉料を払い続け、疲弊し切っている。
だが講員の忍耐にも、限度と言うものがある。いずれ本山は、観光地化せざるを得なくなる。そのためか、学会が離山したとたん、宗門は身延の坊主らと、人目もはばからず親交を深めている。
その身延の門前町の土産物店を参考に、御本尊の表装に関心を高めたのであろう、思いついたことは、日顕・日如が書いた字では、本尊としてあまりに貧相である、そこで学会の本尊と差をつけるには、表装で見栄えを良くするに限る、と。
本尊の表装に凝って自信を付けたか、学会を誹謗する言葉が「ペラペラ一枚刷りコピー本尊」。これが、法義でも論釈でも学会に敵(かな)わない、宗門・法華講の涙ぐましき精一杯の反抗である。だが、事は御本尊への冒涜であり、重大な違背である。
「謗法と申すは違背の義なり」(唱法華題目抄・四㌻)
「何(いか)に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし」(曾谷殿御返事・一〇五六㌻)
学会誹謗のためには謗法もいとわずとは、哀れさえ催す。法主とともに奈落に堕ちるのが分かっているだけに、大層な覚悟である。これが本尊を材質でしか見ようとせず、正像の本尊に頭を乗っ取られた者の末路である。
これを以てしても、彼ら宗門の輩が、江戸時代に仏像や御影像を盛んに造立した、十七世日精の末裔であることは明白である。
3.「法魂」は〝子供だまし〟に及ばず
日顕が言い出した「法魂」とは、五十六世日応の『弁惑観心抄』に
「此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し、本尊の極意を伝えるものなり、これを真の唯授一人と云ふ」
とあるところから引っ張り出したものらしい。
しかしこの文において「法魂」とは、「法水写瓶」「伝持」の意で用いていることは明らかである。これに対し日顕の用いる意は、「呪法」「妖力」である。
「開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わる」とは、いかなる経文・論釈に依拠し、どの御書に則ったものか、答えられようはずはない。
「何なる経文ぞや、若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事(ひがごと)をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり」(祈祷抄・一三五五㌻)
いくら邪教であろうと、仏教徒なりの言葉使いがあろう、もう少し気の利いた口上があっていい。〝子供だまし〟と言うが、これでは幼稚すぎて子供にも通用しない。
〝幼稚〟と言うと、次の逸話が思い出される。
◇
秋谷 幼稚といえば、数年前、日顕に目通りした時、得意満面で、しゃべっていたことがある。なんと日顕は、テレビで相撲を見ていて、自分が好きな力士が土俵に上がると、〝題目を送ると勝つんです〟と言うんです。
辻 ということは、日顕にとってテレビが御本尊で、それに祈っていたということになる。それじゃ、日顕が祈ったら、その力士は、全勝優勝できるのか。負けたら、どうするんだ。あまりにも子供じみている。幼児以下だね。
(『聖教新聞』1993年10月14日)
だが、日顕の場合は幼稚というより、〝脳を病んでいる〟とも言える。〝自分に法力がある〟と信じ込む、自己中心主義の妄想患者の症例である。
「時間・空間を超えて」云云と、奇矯な言葉を駆使し、「邪推は、木っ端微塵に吹き飛ぶ」とうそぶくとは、脳の構造は日顕以下、同程度のものと言える。宗門も法華講慈本寺も、〝寺院〟ではなく〝病院〟だったのである。
4.ニセ法主が「ニセ本尊」とわめく可笑しさ
「ニセ本尊」とは、「ニセ法主が書く本尊」のことを言うのである。ここで「書く」としたのは、日顕の場合は誤字・脱字等の見落としが多すぎ、「書写」まで到達しないため、また日顕・日如ともに詐称法主ゆえ〝相伝〟を写せられず、「書写」とは言えないのである。
よって日顕・日如は三十二相に満たない「ニセ本尊」しか書けず、それは「木絵二像」であり、鬼や魔の入る巣窟となる。
「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば……鬼入て人の命をうばふ……魔入て功徳をうばふ」(木絵二像開眼之事・四六九㌻)
ゆえに宗門が〝開眼〟と言って御祓いをするのは、日顕・日如の書くのが〝正像の本尊〟であることを知っており、御文の怖ろしさを実感するからであろう。
ともかく学会は離山することで、日顕の謗法に〝与同罪〟となる懸念は、全て払拭した。これを宗門は「退転して邪宗となって」と言うようだが、日顕の魔窟を脱し、真の大聖人の門下となったのである。
広宣流布は、学会授与の御本尊流布によってのみ叶う。宗門という不純物を廃し、いよいよ大聖人の御遺命たる広宣流布が実現するのである。
日寛上人の享保五年御書写の御本尊は、淨圓寺の所蔵する寺宝であり、その淨圓寺は宗門から離脱した単立寺院で、裁判で確定した独立法人である。ゆえに、宗門が「何の許可も無く」と、泣こうと叫ぼうと、もはや彼らの手の届かないところにある。
「良観房悦びな(泣)いて七日の内に雨ふらすべき由にて、弟子百二十余人頭(こうべ)より煙を出(いだ)し、声を天にひびかし……良観房は涙を流す。弟子・檀那同じく声をおしまず口惜(くや)しがる」(頼基陳状・一一五八㌻)
現代の良観房・日顕が、悔しがって頭から煙を出し、泣く声が天にひびこうと、覆水盆に返らずで、宗門は日寛上人に義絶され、見放されたのである。
「御本尊を盗み」とは、「猊座を盗んだ」者が口にすることか。「猊座泥棒」が「泥棒」と喚(わめ)く姿は、まさしく噴飯ものである。
この様相を譬えれば、猿が鏡に映し出されたおのれの醜悪な姿を見たために、腹を立て歯を剥き出し、おのれに向かって罵倒するようなものである。この「猿」とは〝相承〟を受けておらず、見よう見まねで〝御本尊書写の真似事〟をする者のことであり、人に笑われる存在をいう。
「わづかにのこれる叡山・東寺等の諸僧は俗男俗女にあなづらるること猿猴の人にわらはれ俘囚が童子に蔑如せらるるがごとし」(撰時抄・二七四㌻)
今日では日顕宗が、この御文の「猿猴」に該当する。
「此の人人・天に向つて唾(つば)を吐き地を爴(つか)んで忿(いかり)を為す者か」(常忍抄・九八〇㌻)
学会授与の御本尊を誹謗する者は、天に吐いた唾は必ずおのれへと還る道理に背かず、自らを亡ぼすこととなるのである。
妄説:
【学会の言い訳①】
「本山から下付されていない」について
日達法主の時代は、
豊島区・法道院から御本尊を直接発送
昭和三十年代に授与されていた日寛上人の御形木御本尊は、東京・池袋の法道院で印刷し、全国の末寺に直接、発送されていました。宗門が言うような、本山での法主の開限など御形木御本尊については全く行われていなかったのです。それは日達法主の時代まで続きました。日顕の代になり、本山に御本尊を扱う「第三課」という部署が出来ましたが、御本尊の印刷は、外部の印刷会社が行っています。
そして印刷会社が運んで来た御本尊を僧侶が印刷の状態を確認して箱に詰め、各末寺に運送会社を使って発送しています。その際に「開眼」などの特別な儀式などしていません。これが歴史的事実なのです。
【破折】
過去の法道院における御形木御本尊の下附は、法道院が独自に行っていたものではない。当時、印刷技術等の問題を含め、種々の状況を鑑みられた総本山第六十六世日達上人の御命によりなされたものであり、御本尊の一切の権能を御所持される御法主上人の允可のもとで行われた事である。
その上で当時の法道院主管・早瀬日慈上人は、御形木御本尊の開眼をまとめて本山にお願いされていた。
丑寅勤行の折に開眼の御祈念をなされ、さらに各末寺において丁重に御宝前にお供えをしてから下付されていたのである。
また、日顕上人は印刷・確認された形木本尊(本紙)を丑寅勤行の際、御宝前に御供え申上げ、開眼供養されていた。
学会は意図的に隠しているが、開眼供養された後、本山指定の表具店に本紙を渡して表装申し上げている。
学会のペラペラ一枚刷りコピー本尊とは、全く異なっているのである。
日顕上人は、「総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。」(創価学会の偽造本尊義を破す59頁)と甚深の御指南をされている。
日顕上人がここで仰せの開眼の意義は、大聖人の御内証たる唯授一人血脈相承の御境界よりなされる開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わることを仰せになられているのであり、「法道院から末寺へ御本尊が送られていていつ開眼供養したんだ。」などの邪推は、木っ端微塵に吹き飛ぶ。
以上からわかるように、一時期、法道院がご本尊の授与をしていたから創価学会が勝手にやっていいという道理は一切ない。
したがって、退転して邪宗となってしまった創価学会のニセ本尊は、何の許可も無く勝手に正宗の御本尊を盗み印刷し販売している紙切れでしかない。
破折:
1.〝餓鬼〟に末法の御本尊は見えず
御本尊に対し奉り、法華講が「紙切れ」等と誹謗するのを以てして、つくづく彼らは本尊の「材料」「表装」等しか見えぬ輩であると知れるのである。これは彼らが御本尊出現以前の正像時代に留まっていること、すなわち〝末法の御本尊〟の相貌を見ることが出来ない境涯に沈んでいるのである。
これは「造仏」の大謗法を犯した十七世日精を評価する宗門が、先祖返りの邪教となったことを象徴する事例でもある。
法蓮抄(一〇五〇㌻)にいわく、
「今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり」
宗門の輩が餓鬼界に堕在していることは、前世の果報ゆえか。
「名利を貪(むさぼ)るが為に不浄説法する者此の報を受く」(十法界明因果抄・四二九㌻)
(出家でありながら名声と私利私欲とを貪るために、汚れた説法をする者は餓鬼界に堕ちる)
まさに日顕宗を言い当てた御文である。〝餓鬼〟の境涯なら御本尊の正意が見えず、「ペラペラ一枚刷り」などと〝紙質〟しか見えないのも、納得いくことである。
2.「ペラペラ一枚刷りコピー本尊」 ~ 学会に太刀打ちできない精一杯の反抗
「勝手に正宗の御本尊を盗み印刷し販売している」と誹謗の言葉を並べ立てる。だが、「販売」される本尊の例としては、身延の門前町において「不特定多数の観光客」を対象とする本尊は、土産物店で「販売」される商品である。
しかし、学会授与の御本尊が、どこの〝土産物店〟で、いかなる〝観光客〟に「販売」されると言うのか。
このことは、弘法大師空海が法華経を誹謗した際、兎に対し〝角がある〟と難癖を付けるに等しい、およそ根拠の無い言い掛かりをつけた故事を想い起こさせる。
「亀の甲には毛なしなんぞ長短をあらそい兎の頭には角なし・なんの有無を論ぜん」(聖密房御書・八九八㌻)
(亀の甲には毛はないのに、なんでその長い短いを争い、兎の頭には角はないのに、なんで角の有無を論ずるのだろうか)
だが、このような言い掛かりなど、彼らにとってはなまやさしいほうである。もっと悪辣な中傷を投げつけることが、もう日ごろの商売なのだから。何故かなら、宗門は経文でも御書でも、また道理においても学会に及ばない、何ら対抗できる手段を持たないからである。
今後、宗門は身延と同様に、観光地として生き延びるしか経営の方法は無かろう。宗門が頼みとする法華講員は、年に何度となく登山を強要され、本山に行けば奉安殿前の広場で炎天にさらされ、或いは風雨に打たれ、御開扉料を払い続け、疲弊し切っている。
だが講員の忍耐にも、限度と言うものがある。いずれ本山は、観光地化せざるを得なくなる。そのためか、学会が離山したとたん、宗門は身延の坊主らと、人目もはばからず親交を深めている。
その身延の門前町の土産物店を参考に、御本尊の表装に関心を高めたのであろう、思いついたことは、日顕・日如が書いた字では、本尊としてあまりに貧相である、そこで学会の本尊と差をつけるには、表装で見栄えを良くするに限る、と。
本尊の表装に凝って自信を付けたか、学会を誹謗する言葉が「ペラペラ一枚刷りコピー本尊」。これが、法義でも論釈でも学会に敵(かな)わない、宗門・法華講の涙ぐましき精一杯の反抗である。だが、事は御本尊への冒涜であり、重大な違背である。
「謗法と申すは違背の義なり」(唱法華題目抄・四㌻)
「何(いか)に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし」(曾谷殿御返事・一〇五六㌻)
学会誹謗のためには謗法もいとわずとは、哀れさえ催す。法主とともに奈落に堕ちるのが分かっているだけに、大層な覚悟である。これが本尊を材質でしか見ようとせず、正像の本尊に頭を乗っ取られた者の末路である。
これを以てしても、彼ら宗門の輩が、江戸時代に仏像や御影像を盛んに造立した、十七世日精の末裔であることは明白である。
3.「法魂」は〝子供だまし〟に及ばず
日顕が言い出した「法魂」とは、五十六世日応の『弁惑観心抄』に
「此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し、本尊の極意を伝えるものなり、これを真の唯授一人と云ふ」
とあるところから引っ張り出したものらしい。
しかしこの文において「法魂」とは、「法水写瓶」「伝持」の意で用いていることは明らかである。これに対し日顕の用いる意は、「呪法」「妖力」である。
「開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わる」とは、いかなる経文・論釈に依拠し、どの御書に則ったものか、答えられようはずはない。
「何なる経文ぞや、若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事(ひがごと)をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり」(祈祷抄・一三五五㌻)
いくら邪教であろうと、仏教徒なりの言葉使いがあろう、もう少し気の利いた口上があっていい。〝子供だまし〟と言うが、これでは幼稚すぎて子供にも通用しない。
〝幼稚〟と言うと、次の逸話が思い出される。
◇
秋谷 幼稚といえば、数年前、日顕に目通りした時、得意満面で、しゃべっていたことがある。なんと日顕は、テレビで相撲を見ていて、自分が好きな力士が土俵に上がると、〝題目を送ると勝つんです〟と言うんです。
辻 ということは、日顕にとってテレビが御本尊で、それに祈っていたということになる。それじゃ、日顕が祈ったら、その力士は、全勝優勝できるのか。負けたら、どうするんだ。あまりにも子供じみている。幼児以下だね。
(『聖教新聞』1993年10月14日)
だが、日顕の場合は幼稚というより、〝脳を病んでいる〟とも言える。〝自分に法力がある〟と信じ込む、自己中心主義の妄想患者の症例である。
「時間・空間を超えて」云云と、奇矯な言葉を駆使し、「邪推は、木っ端微塵に吹き飛ぶ」とうそぶくとは、脳の構造は日顕以下、同程度のものと言える。宗門も法華講慈本寺も、〝寺院〟ではなく〝病院〟だったのである。
4.ニセ法主が「ニセ本尊」とわめく可笑しさ
「ニセ本尊」とは、「ニセ法主が書く本尊」のことを言うのである。ここで「書く」としたのは、日顕の場合は誤字・脱字等の見落としが多すぎ、「書写」まで到達しないため、また日顕・日如ともに詐称法主ゆえ〝相伝〟を写せられず、「書写」とは言えないのである。
よって日顕・日如は三十二相に満たない「ニセ本尊」しか書けず、それは「木絵二像」であり、鬼や魔の入る巣窟となる。
「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば……鬼入て人の命をうばふ……魔入て功徳をうばふ」(木絵二像開眼之事・四六九㌻)
ゆえに宗門が〝開眼〟と言って御祓いをするのは、日顕・日如の書くのが〝正像の本尊〟であることを知っており、御文の怖ろしさを実感するからであろう。
ともかく学会は離山することで、日顕の謗法に〝与同罪〟となる懸念は、全て払拭した。これを宗門は「退転して邪宗となって」と言うようだが、日顕の魔窟を脱し、真の大聖人の門下となったのである。
広宣流布は、学会授与の御本尊流布によってのみ叶う。宗門という不純物を廃し、いよいよ大聖人の御遺命たる広宣流布が実現するのである。
日寛上人の享保五年御書写の御本尊は、淨圓寺の所蔵する寺宝であり、その淨圓寺は宗門から離脱した単立寺院で、裁判で確定した独立法人である。ゆえに、宗門が「何の許可も無く」と、泣こうと叫ぼうと、もはや彼らの手の届かないところにある。
「良観房悦びな(泣)いて七日の内に雨ふらすべき由にて、弟子百二十余人頭(こうべ)より煙を出(いだ)し、声を天にひびかし……良観房は涙を流す。弟子・檀那同じく声をおしまず口惜(くや)しがる」(頼基陳状・一一五八㌻)
現代の良観房・日顕が、悔しがって頭から煙を出し、泣く声が天にひびこうと、覆水盆に返らずで、宗門は日寛上人に義絶され、見放されたのである。
「御本尊を盗み」とは、「猊座を盗んだ」者が口にすることか。「猊座泥棒」が「泥棒」と喚(わめ)く姿は、まさしく噴飯ものである。
この様相を譬えれば、猿が鏡に映し出されたおのれの醜悪な姿を見たために、腹を立て歯を剥き出し、おのれに向かって罵倒するようなものである。この「猿」とは〝相承〟を受けておらず、見よう見まねで〝御本尊書写の真似事〟をする者のことであり、人に笑われる存在をいう。
「わづかにのこれる叡山・東寺等の諸僧は俗男俗女にあなづらるること猿猴の人にわらはれ俘囚が童子に蔑如せらるるがごとし」(撰時抄・二七四㌻)
今日では日顕宗が、この御文の「猿猴」に該当する。
「此の人人・天に向つて唾(つば)を吐き地を爴(つか)んで忿(いかり)を為す者か」(常忍抄・九八〇㌻)
学会授与の御本尊を誹謗する者は、天に吐いた唾は必ずおのれへと還る道理に背かず、自らを亡ぼすこととなるのである。
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日顕宗・法華講慈本寺の迷妄を破す(その3)
妄説:
学会が名前を挙げた『木絵二像開眼之事』で大聖人様は、他宗が一念三千を盗んでも一念三千の教えの肝心である草木成仏を知らない事を批判したうえで、さらに「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」(全集468頁)と仰せである。
少なくとも「法華を心得たる人」の開眼が必要だと大聖人様が教示されていることは一目瞭然である。
続きは「今真言を以て日本の仏を供養すれば、鬼入て人の命をうばふ。鬼をば奪命者といふ。魔入て功徳をうばふ。魔をば奪功徳者といふ。」となるが、ここで「真言を持って」と言うのは、ここではただ「法華を心得ていない人」の代表であげられているのである。
そうなると、法華を心得ていない人が開眼しても、逆に全く誰にも開眼がなされなくても、本尊には魔や鬼が入るという事なのである。
まさか、学会員も「法華を心得た人」は池田や学会と強弁するほど増上慢でもあるまい。
以上を総括して言えることは、大聖人が【"開眼の仏事"自体を厳に戒められています】との学会の言辞は、大聖人の御意をねじ曲げた大謗法である。
大聖人が「御本尊の開眼は不要」と教示された御書がどこにあるというのだ?
破折:
1.『木絵二像開眼之事』は何を対象として説かれたか
法華講が引用した『木絵二像開眼之事』について、はっきりさせておかねばならないことが二点ある。
第一に、この御抄は何を対象とされたか。正像の「木絵二像の釈迦仏像造立」について説かれたか、あるいは佐渡以降の「大聖人御図顕の曼荼羅御本尊」のことを言われるのか。
第二に、本抄はいつの御述作であるか、それによって、上記の答えが判明する。御書講義録を繙けば、以下の通りである。
◇
本抄の御述作は、文永元年(一二六四年)とも文永九年(一二七二年)とも、また弘安五年(一二八二年)の説もある。しかし、木絵の二像について述べられるのは、弘安五年はあまりに時代が下り過ぎている感がする。文永元年と文永九年の説は多くとられているが、文永七年(一二七〇年)ごろ、釈迦仏像造立に関しての御書があり、このころ仏像についての質問が大聖人のところにきていたことも考えられ、もしそうした質問への返事の草案として本抄がまとめられ、したためられたとすれば、文永九年ごろの御述作と考えられる。本抄は御手紙の体裁になっていない。したがって、こうした質問一般に対する返事の草案として、準備されたものと考えられる。ただ、これは推定であって、文永元年説を否定するものではない。
(『日蓮大聖人御書講義』第六巻下 昭和56年11月18日発行)
大聖人は文永十年四月二十五日、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』を御述作され、曼荼羅御本尊にかかる深義を御教示された。世にいう「佐渡始顕本尊」(最初に顕された御本尊)のご図顕は、その三か月後であるとされる。
『木絵二像開眼之事』の系年は諸説ある上で「文永九年ごろの御述作と考えられる」との結論に至ったことは、大聖人御図顕の御本尊建立以前、すなわち「木絵二像の釈迦仏像造立」にかかる御書である。
よって導き出せることは、本抄は〝曼荼羅御本尊の開眼にかかる御書〟ではないとの事実であり、法華講の主張は前提から崩れ去ったのである。
2.「鬼」や「魔」が入るのは日顕・日如が書いた本尊
『木絵二像開眼之事』には、法華経の開眼供養が為されない時の「造仏」の恐ろしさが説かれる。
「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば……鬼入て人の命をうばふ……魔入て功徳をうばふ」(木絵二像開眼之事・四六九㌻)
この御文は、正像の時代に造立した釈迦仏像の開眼供養にかかる内容であるが、宗門はこの法門を、末法の曼荼羅御本尊にまで援用しようとする。だが、いかに「読み替え」を得意とする宗門であろうと、さすがにこれは通用しない。曼荼羅御本尊そのものが〝諸仏の眼目〟だからである。
「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄・三六六㌻)
もっとも日顕・日如の本尊は、〝先師の相伝〟に拠らず〝我見〟で書くのであるから、鬼が入り魔が入るのは必定である。開眼の真似事をしなければ、祟りが恐ろしかろう。
このようなニセ法主はさて措き、六十六世に至るまでの歴代諸師の御本尊は、全て先師の相伝に従い書写されたのである[注]。御本尊として建立されて以降は、大御本尊の分身である。
正師の御本尊に「魔や鬼が入る」わけがあろうか。学会授与の日寛上人御書写の御本尊を冒涜する宗門は、すなわち大御本尊を冒涜する輩である。
[注]歴代諸師のうち、十七世日精および六十世日開(日顕の父)は、相伝に反する本尊を遺した。
3.「法華を心得た人」
「法華を心得た人」とは誰かと問われれば、正しく〝大聖人と意を同じくする人〟である。
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(諸法実相抄・一三六〇㌻)
「日蓮がごとく身命をすてて強敵の科(とが)を顕せ」(閻浮提中御書・一五八九㌻)
戦前・戦中の王法による弾圧の際、敢然と護法に殉じた人は、牧口会長と戸田理事長(当時)であった。それゆえに学会授与の御本尊には、功徳が生ずるのである。
歴代会長が王法の弾圧から法灯を守り抜いたゆえに、大聖人の仏法が今日に伝えられたのである。その対極が、軍部政府の弾圧に屈し、謗法の限りを尽くした宗門であった。委しくは後述したい。
だが、牧口会長が獄中で逝去した翌年、本山に大火災が生じ、管長の六十二世日恭が焼死した。これにより一時、管長代務者となった中島廣政(日彰)は次の通り説いた。
「然し金口嫡々の法主上人が此くの如き御最期を御遂げになったと云ふことは僧俗共に深く考へなければならぬことで是は大聖人大慈の御誡(おんいましめ)であります」
(昭和二十年九月の妙光寺彼岸会において)
本山が焼け、管長が死んだことは、宗門を謗法まみれにした罰であった、と認めたのである。「法華を心得た人」とは、宗門ではないことが分かったであろう。
宗門への罰は、まだ終わらない。地獄界の大火災に続き、餓鬼界を現出したのである。
農地改革が施行され、大石寺の土地は六分の一に激減し、宗門は経営の基盤を失った。これにより本山の所化たちは、当時のお仲居とともに畑を開墾しなければ、食糧を得ることもできなかった。これらの有様は、日達法主や当時の所化が回顧するところである。
弘法に殉じた学会幹部を見殺しにし、軍部に魂を売り、謗法を窮め、ようやく王法の難を避け得た宗門であった。しかし、仏法の厳しい因果律を免れることは、できなかったのである。
これが「大聖人の御意をねじ曲げた」者達の末路である。法華講に籍を置く人は、これらの事実を知っておかねばならない。そしていささかも大聖人に続く志があるなら、急ぎ、退講届を提出すべきである。
4.御書に背き己義を構える
「『御本尊の開眼は不要』と教示された御書がどこにある」とあるが、それでは「御本尊に開眼は必要」と教示された御書が、どこにあると言うのか。戦時中、様々の〝謗法の毒〟を受け入れてきた果ての、世迷い事か。
遡れば、十七世日精のもたらした造仏義は、日興上人の富士の清流に毒を投げ入れたものであった。正像の仏像への執着が宗門の根底にあり、日顕が御本尊への開眼を言い出す素地となったのである。
すなわち、これまで宗門に沈潜していた謗法の毒が一気に噴出し、日顕宗となったのである。末法の世にあって開眼を説くことは、すなわち〝新たな造仏義の再来〟であることに他ならない。
5.今も謗法のただ中にある宗門
「何(いか)に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり」(曾谷殿御返事・一〇五六㌻)
法華経如来寿量品第十六に「毒気深入(どっけじんにゅう) 失本心故(しっぽんしんこ)」(毒気は深く入(い)って 本心を失えるが故に)とあり、毒薬を飲んで苦しむ子らに、父が良薬を服せしめて治したと説かれる。
しかし宗門・法華講の〝狂児〟らは、父(大聖人)から与えられた良薬(正法)に、「造仏」だけでなく、戦時中の「御書削除」「神札甘受」「神宮遥拝」等々、あらゆる謗法を混じてきた。すでに彼らが伝えるものは、良薬であったはずが毒薬へと変じており、今も謗法容認の姿は変わらない。
創価新報の最新号(2014年6月4日付)に、大石寺檀家総代の井出氏が、富士宮市内の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが、2013年年頭に発覚した。それでも渦中の井出氏は、同年11月14日の本尊遷座の際、法主・日如らを先導し、大石寺境内を練り歩いている。僧俗ともに、謗法などどこ吹く風である。
日興上人の身延離山の御精神に、真っ向から違背した姿である。その責任は、すべて法主・日如に帰結する。
だが、過去から現在に至るまで、宗門は犯してきた種々の謗法に対し、何らも反省することがない。宗門においては、歴代諸師は決して批判されず、罰されることもないのである。
しかし、御本尊はご照覧である。
「謗法不信の失(とが)を見ながら聞きながら云わずして置かんは必ず無間地獄へ堕在す可し」(御講聞書・八四二㌻)
宗門・法華講ともに、永劫に毒気の癒えることのない、奈落の底に沈み行くことは、御文の通りである。
妄説:
学会が名前を挙げた『木絵二像開眼之事』で大聖人様は、他宗が一念三千を盗んでも一念三千の教えの肝心である草木成仏を知らない事を批判したうえで、さらに「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」(全集468頁)と仰せである。
少なくとも「法華を心得たる人」の開眼が必要だと大聖人様が教示されていることは一目瞭然である。
続きは「今真言を以て日本の仏を供養すれば、鬼入て人の命をうばふ。鬼をば奪命者といふ。魔入て功徳をうばふ。魔をば奪功徳者といふ。」となるが、ここで「真言を持って」と言うのは、ここではただ「法華を心得ていない人」の代表であげられているのである。
そうなると、法華を心得ていない人が開眼しても、逆に全く誰にも開眼がなされなくても、本尊には魔や鬼が入るという事なのである。
まさか、学会員も「法華を心得た人」は池田や学会と強弁するほど増上慢でもあるまい。
以上を総括して言えることは、大聖人が【"開眼の仏事"自体を厳に戒められています】との学会の言辞は、大聖人の御意をねじ曲げた大謗法である。
大聖人が「御本尊の開眼は不要」と教示された御書がどこにあるというのだ?
破折:
1.『木絵二像開眼之事』は何を対象として説かれたか
法華講が引用した『木絵二像開眼之事』について、はっきりさせておかねばならないことが二点ある。
第一に、この御抄は何を対象とされたか。正像の「木絵二像の釈迦仏像造立」について説かれたか、あるいは佐渡以降の「大聖人御図顕の曼荼羅御本尊」のことを言われるのか。
第二に、本抄はいつの御述作であるか、それによって、上記の答えが判明する。御書講義録を繙けば、以下の通りである。
◇
本抄の御述作は、文永元年(一二六四年)とも文永九年(一二七二年)とも、また弘安五年(一二八二年)の説もある。しかし、木絵の二像について述べられるのは、弘安五年はあまりに時代が下り過ぎている感がする。文永元年と文永九年の説は多くとられているが、文永七年(一二七〇年)ごろ、釈迦仏像造立に関しての御書があり、このころ仏像についての質問が大聖人のところにきていたことも考えられ、もしそうした質問への返事の草案として本抄がまとめられ、したためられたとすれば、文永九年ごろの御述作と考えられる。本抄は御手紙の体裁になっていない。したがって、こうした質問一般に対する返事の草案として、準備されたものと考えられる。ただ、これは推定であって、文永元年説を否定するものではない。
(『日蓮大聖人御書講義』第六巻下 昭和56年11月18日発行)
大聖人は文永十年四月二十五日、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』を御述作され、曼荼羅御本尊にかかる深義を御教示された。世にいう「佐渡始顕本尊」(最初に顕された御本尊)のご図顕は、その三か月後であるとされる。
『木絵二像開眼之事』の系年は諸説ある上で「文永九年ごろの御述作と考えられる」との結論に至ったことは、大聖人御図顕の御本尊建立以前、すなわち「木絵二像の釈迦仏像造立」にかかる御書である。
よって導き出せることは、本抄は〝曼荼羅御本尊の開眼にかかる御書〟ではないとの事実であり、法華講の主張は前提から崩れ去ったのである。
2.「鬼」や「魔」が入るのは日顕・日如が書いた本尊
『木絵二像開眼之事』には、法華経の開眼供養が為されない時の「造仏」の恐ろしさが説かれる。
「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば……鬼入て人の命をうばふ……魔入て功徳をうばふ」(木絵二像開眼之事・四六九㌻)
この御文は、正像の時代に造立した釈迦仏像の開眼供養にかかる内容であるが、宗門はこの法門を、末法の曼荼羅御本尊にまで援用しようとする。だが、いかに「読み替え」を得意とする宗門であろうと、さすがにこれは通用しない。曼荼羅御本尊そのものが〝諸仏の眼目〟だからである。
「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄・三六六㌻)
もっとも日顕・日如の本尊は、〝先師の相伝〟に拠らず〝我見〟で書くのであるから、鬼が入り魔が入るのは必定である。開眼の真似事をしなければ、祟りが恐ろしかろう。
このようなニセ法主はさて措き、六十六世に至るまでの歴代諸師の御本尊は、全て先師の相伝に従い書写されたのである[注]。御本尊として建立されて以降は、大御本尊の分身である。
正師の御本尊に「魔や鬼が入る」わけがあろうか。学会授与の日寛上人御書写の御本尊を冒涜する宗門は、すなわち大御本尊を冒涜する輩である。
[注]歴代諸師のうち、十七世日精および六十世日開(日顕の父)は、相伝に反する本尊を遺した。
3.「法華を心得た人」
「法華を心得た人」とは誰かと問われれば、正しく〝大聖人と意を同じくする人〟である。
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(諸法実相抄・一三六〇㌻)
「日蓮がごとく身命をすてて強敵の科(とが)を顕せ」(閻浮提中御書・一五八九㌻)
戦前・戦中の王法による弾圧の際、敢然と護法に殉じた人は、牧口会長と戸田理事長(当時)であった。それゆえに学会授与の御本尊には、功徳が生ずるのである。
歴代会長が王法の弾圧から法灯を守り抜いたゆえに、大聖人の仏法が今日に伝えられたのである。その対極が、軍部政府の弾圧に屈し、謗法の限りを尽くした宗門であった。委しくは後述したい。
だが、牧口会長が獄中で逝去した翌年、本山に大火災が生じ、管長の六十二世日恭が焼死した。これにより一時、管長代務者となった中島廣政(日彰)は次の通り説いた。
「然し金口嫡々の法主上人が此くの如き御最期を御遂げになったと云ふことは僧俗共に深く考へなければならぬことで是は大聖人大慈の御誡(おんいましめ)であります」
(昭和二十年九月の妙光寺彼岸会において)
本山が焼け、管長が死んだことは、宗門を謗法まみれにした罰であった、と認めたのである。「法華を心得た人」とは、宗門ではないことが分かったであろう。
宗門への罰は、まだ終わらない。地獄界の大火災に続き、餓鬼界を現出したのである。
農地改革が施行され、大石寺の土地は六分の一に激減し、宗門は経営の基盤を失った。これにより本山の所化たちは、当時のお仲居とともに畑を開墾しなければ、食糧を得ることもできなかった。これらの有様は、日達法主や当時の所化が回顧するところである。
弘法に殉じた学会幹部を見殺しにし、軍部に魂を売り、謗法を窮め、ようやく王法の難を避け得た宗門であった。しかし、仏法の厳しい因果律を免れることは、できなかったのである。
これが「大聖人の御意をねじ曲げた」者達の末路である。法華講に籍を置く人は、これらの事実を知っておかねばならない。そしていささかも大聖人に続く志があるなら、急ぎ、退講届を提出すべきである。
4.御書に背き己義を構える
「『御本尊の開眼は不要』と教示された御書がどこにある」とあるが、それでは「御本尊に開眼は必要」と教示された御書が、どこにあると言うのか。戦時中、様々の〝謗法の毒〟を受け入れてきた果ての、世迷い事か。
遡れば、十七世日精のもたらした造仏義は、日興上人の富士の清流に毒を投げ入れたものであった。正像の仏像への執着が宗門の根底にあり、日顕が御本尊への開眼を言い出す素地となったのである。
すなわち、これまで宗門に沈潜していた謗法の毒が一気に噴出し、日顕宗となったのである。末法の世にあって開眼を説くことは、すなわち〝新たな造仏義の再来〟であることに他ならない。
5.今も謗法のただ中にある宗門
「何(いか)に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり」(曾谷殿御返事・一〇五六㌻)
法華経如来寿量品第十六に「毒気深入(どっけじんにゅう) 失本心故(しっぽんしんこ)」(毒気は深く入(い)って 本心を失えるが故に)とあり、毒薬を飲んで苦しむ子らに、父が良薬を服せしめて治したと説かれる。
しかし宗門・法華講の〝狂児〟らは、父(大聖人)から与えられた良薬(正法)に、「造仏」だけでなく、戦時中の「御書削除」「神札甘受」「神宮遥拝」等々、あらゆる謗法を混じてきた。すでに彼らが伝えるものは、良薬であったはずが毒薬へと変じており、今も謗法容認の姿は変わらない。
創価新報の最新号(2014年6月4日付)に、大石寺檀家総代の井出氏が、富士宮市内の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが、2013年年頭に発覚した。それでも渦中の井出氏は、同年11月14日の本尊遷座の際、法主・日如らを先導し、大石寺境内を練り歩いている。僧俗ともに、謗法などどこ吹く風である。
日興上人の身延離山の御精神に、真っ向から違背した姿である。その責任は、すべて法主・日如に帰結する。
だが、過去から現在に至るまで、宗門は犯してきた種々の謗法に対し、何らも反省することがない。宗門においては、歴代諸師は決して批判されず、罰されることもないのである。
しかし、御本尊はご照覧である。
「謗法不信の失(とが)を見ながら聞きながら云わずして置かんは必ず無間地獄へ堕在す可し」(御講聞書・八四二㌻)
宗門・法華講ともに、永劫に毒気の癒えることのない、奈落の底に沈み行くことは、御文の通りである。
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