密室の芝居がかった協議は、もうやめたらどうだろう。

 集団的自衛権の行使容認をめぐるきのうの与党協議で、自民党は次の協議が予定される13日に、行使容認のための閣議決定の文案を示したいと公明党に提案した。

 公明党は「党内調整に時間がかかる。時間がほしい」と難色を示した。当然だろう。

 集団的自衛権の行使が必要になるとしたら、どんなケースが考えられるか。政府が示した「事例」をもとに、具体的に意見交換を始めたのはようやくきのうのことだ。

 結果は物別れといっていい。それなのに、自民党はもう結論の文案を出したいという。公明党が席を蹴らなかったのが不思議なぐらいだ。

 自民党が急いでいるのは、22日までのいまの国会中に閣議決定ができるように、安倍首相に指示されたからだ。この締め切りは、国民にとっては何の意味もない。

 政府の憲法解釈を変え、集団的自衛権の行使を認める――。首相の意思は最初からはっきりしているのだから、与党協議はそれを公明党に認めさせるための舞台に過ぎない。政府が示した事例はその小道具だ。

 ただ、舞台は閉ざされたドアの向こう側にある。ネットやテレビで中継され、議事録が残る国会とは決定的に違う。

 その日の協議が終われば、自民、公明、政府のそれぞれの担当者から、何十人もの記者団に簡単な説明はある。だが、だれが、何を、どんなニュアンスで話したかは分からない。

 話し合いの主題は、憲法9条を実質的になくしてしまうかどうかということだ。

 日本人を守るためにそれが必要だというなら、衆参両院で3分の2以上の賛成を得たうえで国民投票に問うしかない。

 こうした憲法改正手続きと、衆院議員会館の地下の会議室で行われる与党協議。この落差はあまりに大きい。

 しかも政府は、集団的自衛権を認める憲法解釈の根拠を、9条のもとでの「必要な自衛の措置」を認めた72年の政府見解に求めようとしている。

 だが、この見解は「集団的自衛権の行使は許されない」と結論づけている。どこをどうひねれば百八十度違う結論が出てくるのか。

 こんなやり方で日本の針路を変えてしまって、後の世代に責任が持てるのだろうか。

 公明党が平和の党を任じるのなら、自民党の振り付けに合わせる必要はあるまい。