天皇と民の禊祓いを通し、皇運扶翼に邁進しよう
神宮参拝禊会のこと
今年もまた春まだ浅い三月九日早朝、伊勢の神宮・五十鈴川で青年たちに交じって禊を実修してきた。「神宮参拝禊会」――男たちに交じり若干の女性も含めて総勢百二十名、私は最年長クラスの一員である。三月とはいえ午前五時の気温は零度近いが、一向に寒さを感じないのも不思議だ。
昭和五十年代初頭に始めた禊会は青年学生が中心、敢えて大寒の頃を選び、水中で大祓を三巻奏上するという荒行だった。暫くの中断を経て再開したのが平成十四年のこと。古い同志の大野康孝(天草・本渡諏訪神社宮司)を代表・道彦に、南英雄(神都)と私が(皇都)世話人を務めている。再開した「神宮参拝禊会」は世話人共通の恩師・中村武彦先生の講演を謹聴しし、禊の見届けて頂くことを無情の誇りとした。中村先生は「神宮参拝禊会の禊は自己一身の罪穢れを祓い清めるのみならず、国の禊祓いを実行しようという戦闘的青年の禊である」と端的に意義付けをして頂いた。
禊の神歌に「朝夕に神の御前にみそぎして
すめらが御代に仕えまつらむ」(川面凡児)とあるが、毎朝夕に禊祓いして、赤子に生まれ変り、天子様のお役にたつ人物になることを誓う。最後に水中で天照大神鎮まります内宮御正殿に向かって君が代の大合唱、全員が熱い涙を流す。禊を終えた後の御垣内参拝は実に清々しい。
陛下御親拝に剣璽御動座
天皇陛下は皇后陛下を伴われ、3月25日から28日にかけて神宮参拝のために伊勢に行幸された。三日間とも内宮・斎館にお泊りである。新幹線にご乗車の折や宇治山田駅に降り立たれる際に、陛下の後に黒い箱を捧げ持つ侍従がいたのをご記憶の方も多いだろう。三種の神器の剣と玉が収められている。これを「剣璽御動座」という。大原康男国学院大学名誉教授は5月5日付『産経新聞・正論』で、「皇室伝統祭儀の公的意義を謳え」と、剣璽御動座について次のように解説している。
――三種の神器は八咫鏡 (やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)を指し、皇位を象徴する最も大切なお品として悠久の昔から皇室に伝えられてきた。このうち、「鏡」と「剣」は伊勢神宮と熱田神宮にご神体としてそれぞれ祀られ、「鏡」のご分身は宮中三殿の賢所に奉安、一方、「剣」のご分身と「玉」は併せて「剣璽」と称され、ふだんは両陛下のお住まいである皇居内の御所の「剣璽の間」に安置されている――。
GHQの「神道指令」の圧力によって、久しく途絶えていた古儀が復活したのは、昭和49年11月、第60回式年遷宮を終えた神宮に先帝陛下が御親拝の折だった。葦津珍彦先生の提唱、ご指導で剣璽御動座復活運動が強力に展開された。私もその末端にいたことを鮮明に思い出し、感激は一入だった。
愛子さまを天皇に?
昨年末、女系女性天皇論者の大御所にして「国史の泰斗」とかいう田中卓氏(元皇学館大学学長)が『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか――女性皇太子の誕生』(幻冬舎)という新書を出版した。一読し唖然とするばかり、「老先生、それはなりません」。
曰く「『次代の皇太子』不在が日々切迫。開かれかけた『女性皇太子・天皇への道』が〈男系男子絶対固執派〉のゴリ押しによって閉ざされた。皇室の祖神である天照大神は女性。〈男系固執派〉が女性天皇を否定するのは、明治以来の皇室典範に底流する〝男尊女卑〝思想。直系・父子継承の伝統、徳仁天皇(現皇太子)系を差し置いて傍系天皇(男子)に移るのは無理がある。現典範第一条の皇位継承権者は『男系男子』を『子孫』に改正するだけで事足りる。東京オリンピックの年に18歳になられる愛子様の立太子を準備すべし」――。
余りに衝撃的な(?)提案ゆえか、ご本人の「学者生命をかけた戦い」との決意も空しいほど反響は乏しい。論壇では全く問題にされず、田中門下の学者神道人も音なしの構え。老先生、晩節を汚したなというのが神社界の総意のようだ。沈黙、無視はご老体には堪えるだろう。
天皇の祭りとは
「神道の社会的防衛者・弁護士」を任じられた葦津珍彦先生は「皇位は皇祖神への祭り主としての地位である」と強調された。
「祭り主としての天皇は、神武天皇いらいの皇統のなかから次々と継承されることに定まってをり、皇統以外のいかなる者もみとめられない。その皇統は、男系の血統による継承で、女系の継承ではない。三種の神器を継承されことが、皇位継承にとっては、欠くべからざることとされた。神鏡は、皇祖神を斎きまつるものであり、唯一のものであって、分割したり、皇位継承者以外のものへの譲渡ということは絶対にありえない。神器の継承とは、祭祀継承の意である」(『天皇・神道・憲法』昭和29年、神社新報社刊)。
女系女帝容認論者の高森明勅君などが葦津先生の論考の一部を摘み食いして、「元皇族の復帰には葦津ですら反対していた」と声高に唱えるのは、曲学阿世の学者擬きでみっともない。葦津先生の真意は「女帝は常に配偶者の現存せざる場合に限られてゐたのであって、女系子孫の制度を認める思想は全然存在しなかった。日本皇室の万世一系とは、男系子孫一系の意味であることは論を待たぬ。然るに、女系の子孫に対して、皇位が継承せられるとすれば、それは万世一系の根本的変革を意味する。われわれは断じて承認しがたいところである」(前掲書)と明白である。
葦津先生の説く天皇祭祀の意義には皇室自らの頽廃を祓い清めることもあるという。
「日本の天皇の祭りにおいては、罪けがれを『みそぎ』『はらう』―禊祓が、特に重んぜられる。いかなる祭りも、禊祓いをともなう。しばしば皇室周辺も汚染され頽廃して、その存亡の憂えられた時代もあったのは、皇朝史を精緻に直視すれば明らかである。しかし禊祓いを重んぜられる祭りの伝統が生きつづけることによって、汚染頽廃を祓い浄めて、その生命力を復活して来た」
「外国の王朝にも、政治権力者にも、偉大なる思想はあった。建国の思想が頽廃して行くと、復元するバイタリティーがなくて亡び去ってしまった。それは人間の優劣の差ではなくして、その初めの理想を守り、頽廃すればそれを克服し復活しようとする祈り(大祓)、祭りの優劣の差だったと思う」(『天皇―昭和から平成へ』)
我が国は上は天皇が禊祓いして皇祖神へのお祭りを厳修なされ、下は国民が禊して「すめらが御代に仕えまつらむ」とする。まさに君民一体にして皇運扶翼に邁進する、これが国体の精華であろう。
戦後未曾有の国難が押し寄せ来る今日、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」を固く誓い、維新回天、日本再生に突き進みたいと思うこと痛切である。
犬塚博英(いぬづかひろひで 民族革新会議議長。昭和23年福岡県生れ。長崎大学一年次に学内民族派運動に加わり、全国学協書記長などを経て、同47年卒業と同時に上京、一水会結成に参画。中村武彦先生に師事し、一水会退会後に八千矛社を再興継承(同52年)。民族革新会議に加盟し、維新公論会議などで民族派の情報交換・連携、理論的深化を目指す。楠公祭、尊攘義軍12烈士女慰霊祭などの世話人を務め、正統右翼活動家の育成に励む)