エジプトの民主革命から3年あまり。自由と変化を求めた、あの熱狂は何だったのか。

 新しい大統領に、前国防相のシーシ氏が就いた。昨夏のクーデターを率いた元軍司令官が、そのまま政権を担う。

 この1年間、エジプトはまるで時計の針を戻すように、革命前の古い秩序へと回帰した。

 3年前よりもむしろ、自由の幅は狭まった。革命の立役者だった若者たちは、もはや勝手に街頭デモもできない。

 革命後の政権を支えたムスリム同胞団は、テロ組織として弾圧されている。次々に投獄され、大量の死刑判決が出た。

 これがシーシ氏のいう「責任ある形の自由」なのだろうか。治安の回復という名目でこのまま反動の政治を続けるようでは安定への道筋は描けない。

 シーシ体制を見つめる国民の目は冷めている。先月の大統領選挙は、当局の圧力にもかかわらず、有権者の半数も投票に行かなかった。

 強権政治を黙認しているように見えても、変革を求める民意は社会の底流に生き続けていることを忘れてはならない。

 長引く混乱は望まないが、軍が国を仕切る現実に心は躍らない。そんな心境ではないか。

 シーシ氏は空港建設や鉱山開発などに巨費を投じるという。そこには、国民の空腹を満たしさえすれば国は安定するとみる古い発想がかいま見える。

 革命が求めたものは、政治と経済の両輪の改革だ。仕事とパンのみを求めた暴動ではない。ものを言い、表現し、批判する自由や、民意を映す統治を渇望して立ち上がったのだ。

 軍、富裕層、経済界、司法界などからなる特権階級が、革命から何を学んだのか。それが新体制の命運を決めるだろう。

 政権がまず進めるべきは、何より国民対話である。ムスリム同胞団への迫害をやめ、市民の政治活動に扉を開き、挙国一致の体制をめざすべきだ。それなしに長期安定はありえない。

 アラブ世界が上ってきた革命の階段はいま、踊り場にある。チュニジア、リビアなど旧体制が倒れた国はどこも新しい統治を探る過渡期が続いている。

 シーシ氏は就任に際し、「アラブ世界の治安と安定に貢献する」と語った。ならば、民主化の潮流を踏まえ、穏健なイスラム運動とも調和する新しい統治モデルを発信してはどうか。

 自分を支援してくれるサウジアラビアやアラブ首長国連邦など旧来の圧政国に迎合するだけなら、もはや「アラブの盟主」とは言いがたい。