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ご挨拶

「脱原発知事を実現する会」は、これまで長年にわたって、また3.11の福島原発事故を契機に脱原発運動に取り組んできた個人や文化人の集まりです。2014年1月23日に告示された東京都知事選挙の記者会見と街頭演説で、候補者の細川護熙さんは、以下のように述べました。

「都知事の第一の任務は生命と財産を守ることです。東京から100~200キロにある浜岡、東海第二、柏崎刈羽などでも、もし事故が起こったら都民の生命、財産は壊滅的な打撃を受けます。オリンピックや消費税、TPPどころではないんです。すべてのものが吹き飛んでしまうわけですから、原発問題こそ最重要テーマであることは疑う余地がありません。」

「原発の安全性の問題や、核のごみの問題を考えたら、原発とは早くここで区切りをつけて、欧米の先進国がやっているように、自然エネルギーなどに変えていくほうが、よほど生産的だし、新しい雇用や技術を生み出していくきっかけになると思います。今ここで原発ゼロの方向というものを明確に打ち出して、再稼働に向けてスタートを切っていく。自然エネルギー大国日本というものを打ち出していく。そういう方々の先頭に立って、日本の新しい国づくりに邁進していきたい。」

私たちは、細川さんやその熱烈な支援者で「原発の即時ゼロ」を訴える小泉元総理大臣が言うように、いま日本は歴史の大きな転換点にあると考えます。そして、この都知事選は「原発をなくして再生エネルギーで活力のある日本をつくっていくか。それとも今までのコストの高い、リスクのある原発というものにしがみついて、日本という国の衰退にかけるか。そのどちらを選ぶか」という大事な選挙です。

私たちは、「脱原発・再稼働反対」を東京から実現するために立ち上がった細川護熙候補を全面的に支持し、応援します。同時に、全国の脱原発を切望している皆さんにも、各地でたくさんの勝手連を作っていただき、その声を東京の有権者の皆さんに向かって届けていただけることをお願いするものです。この希少な機会を活かして、「脱原発と再稼働反対」の大きな民意のうねりを、この夏にも原発の再稼働を狙う自公政権にぶつけましょう!

脱原発都知事を実現する会
代表世話人 鎌田 慧
 同   河合弘之

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【総括2】信頼を基にした市民の主体的な運動を実現しよう。

2014 年2月に行われた知事選は、宇都宮健児氏、舛添要一氏、細川護煕氏(届け出順、以下敬省略)が立候補、自公が舛添、社共、新社会、緑の党などが宇都宮、小泉純一郎及び脱原発市民運動が細川を支持する、というこれまでにない枠組みとなって争われたのは周知の通りである(田母神氏の「善戦」については触れない)。

結果は「世界一のオリンピック」を主張した舛添知事の出現を許し、安倍自公政権の暴走ともっとも危険な原発推進勢力を勢いづかせてしまった。この一戦に敗北すれば、惨憺たる状況を招くという危機感が、統一候補実現に懸けたわたしたちの悲願の背景だった。残念ながら、結果は運動の分裂と細川、宇都宮両候補の敗退となった。

なぜ、脱原発派の統一ができなかったのか、どうすればつぎは選挙で脱原発派が勝利を収めることができるのか。その分析と未来構想をつくりだすことが、選挙に勝てなかったものの責任だ、と思う。以下は、「脱原発都知事を実現する会」がなんどか討論し、時間軸に沿って経過を厳正に調査してまとめた事実である。

この聞き取り調査(新聞記事等の精査を含む)で判明したのは、いくつかの市民運動が統一候補を探している間に、すでに政党が意中の候補の擁立を準備し、発表のタイミングを狙っていたという事実だった。これはほとんどの人たちの知らない政治状況だった。わたしたちがいまこの事実を明らかにするのは、決して暴露 のための暴露ではない。つぎの運動を生み出すための避けて通ることのできない苦しみとしてである。候補統一への動きにたいする執拗な非難は、これらの隠された事実があったからだったと、いま理解出来る。

市民運動はひとりひとりが対等の関係にあり、ひとりひとりが責任を持ち、支配されず支配せず、公明正大、ガラス張りでの話し合いによって、辛うじて成立するもののはずである。

今 回の選挙は事前に想像されたように、脱原発派ふたりの候補と舛添候補との票差がわずか一割という結果に終わった。即時原発ゼロを願うわたしたちは、原発ゼ ロを敢然と掲げ、原発隠し選挙に挑戦した細川候補を推して戦った。が、ついに統一できず、力の分散が票の拡大を阻害していた。

とすれば、次回選挙は、市民運動のオープンな候補者選びと協力関係の構築なしに勝つことはできない。政党による潜航的かつ強力な指導による運動から、信頼を基にした市民の主体的な運動へ。その実現の追求がわたしたちに必要な総括である。

                        2014年5月 

【総括3】「 2014都知事選をめぐる市民運動の動き」(年表)

はじめに

2014年 の東京都知事選では、自公推薦の候補が当選しました。この結果は、市民運動においても多くの問題点を浮き彫りにしました。それは、今改めて選挙戦を初めから振り返ったとき、「統一候補をだせなかった」現状に突き当たります。私たち にとって最も重要な問題として「脱原発」を大同団結に掲げる候補を統一の最優先候補者として推し上げることができなかったことで、分断された選挙戦になって しまったことが悔やまれるところです。大同団結で合意した一人の候補を推す事ができなかったことで、 今回の敗戦が条件づけられてしまったと言えます。大きな選挙ほど最初の枠組みが決定的な要因となります。

具体的には、統一候補選出調整に関して、民主的な 手続き・運営が損なわれたこと、また「信義則違反」としか言いようのない行為も見受けられました。市民運動とその延長線上にあるべき市民参加の選挙にとって、あってはならないこれらの行為は、候補者選出に関する調整がある範囲内の人々あるいはグル-プによって閉ざされた中で行われたこと、たとえ日程が差し迫っていたことを考慮するにしても、看過することのできない本質的な問題だと思われます。このことを問い、記録することは、市民モラルが踏みにじられたという問題を越えて、勝つための唯一の可能性がどのように潰えたのかを検証する行為でもあります。


また、特定の候補者支持表明や候補者統一を求めた 人々に対し誹謗中傷がおこなわれた結果、その後の脱原発などの市民運動に大きな傷を与え、修復困難な状況を生み出してしまいました。今後は多くの人々に開かれたかたちで、共に応援できる候補者を擁立する必要があります。今回の都知事選を教訓にし、あらゆる政局での選挙戦において再び同じ過ちを犯さないため、事実関係を年表として記録する事にしました。

 

以下の年表は「脱原発都知事を実現する会」のプロジェクトチームで作成しました。関係者に直接取材し、関連団体の文書や新聞記事などから情報 を収集し、事実関係を精査し作成したものです。

候補者擁立に動いた「東京を。プロデュース」、2012年都知事選宇都宮勝手連から発展してつくられた「1.13東京連絡会」、候補者一本化に動き 後に細川護煕氏の勝手連になった「脱原発都知事を実現する会」の動きを整理し、2014年都知事選をめぐる市民運動の動きを追っています。

                        2014年5月作成

【総括3】「2014年と知事選をめぐる市民運動の動き」(年表)
                           2014年5月
右上の矢印マークでページがめくれます。


以下のリンクから、この年表のPDFデータがダウンロードできます。
各A4サイズ×5枚です。

1ページ目:2005年〜2013年12月21日
2ページ目:2013年12月23日〜27日

3ページ目:2013年12月27日〜2014年1月15日

4ページ目:2014年1月15日〜2月2日

5ページ目:2014年2月2日〜5月



参考資料:

 (1)「 1.13東京連絡会 2014年東京都知事選の総括」1.13東京連絡会 世話人会、2014年3月30日 

(2)「2014都知事選挙総括と今後」(プレゼン資料)1.13東京連絡会 世話人会、2014年3月30日 

※リンク先からファイルをダウンロードできます。

(3)2012 年都知事選~2014 年都知事選の結果を受けての東プロ総括

2014/3/25 東京をプロデュース
※リンク先からファイルをダウンロードできます。

(4)「森友義よりみなさんへ 候補者擁立の事実経緯」1.13連絡会世話人 森友義、2014年2月26日

(5)1.13連絡会世話人各位」人にやさしい東京をつくる会 会計責任者 豊田栄一郎、2014年3月20日


【総括1】脱原発に希望はあるか ―都知事選を振り返って―

                                                                        脱原発都知事を実現する会

1.脱原発勢力は敗れてはいない

2.細川護熙候補の敗北の原因をさぐる

3.脱原発候補の一本化について

4.選挙の敗北を噛み締める

5.運動の展望を見出すために

舛添氏が当選したことは残念ながら事実であるが、客観的に得票を分析すると次のとおりとなる。

前回の都知事選挙では猪瀬氏が430万票(65%)、宇都宮氏は97万票(15%)、全体の投票率は62%で約644万票。今回の都知事選では、舛添候補+田母神候補合計が270万票(55%)、細川候補+宇都宮候補合計で約194万票(40%)、全体の投票率は46%で約487万票。

投票者数は前回よりも157万票減ったが、舛添+田母神票は猪瀬氏と比較し160万票も票を減らしている。つまり脱原発を政策とする候補に投票した人たちが2倍になっただけではなく、自民・公明・石原派が大きく後退している。

そして、前回の脱原発票は宇都宮票(97万票)に集約されていたのだが、細川氏の立候補によってそれとほぼ同数の脱原発票が新たに上乗せされてきたことは、保守からの脱原発への参加の成果として高く評価されるべきであろう。

また、有力候補3人の中では舛添氏の211万票に対して脱原発候補宇都宮氏、細川氏の合計票は194万票と肉薄(差は1割以下)している。

後に論じる不十分な選挙運動にかかわらずこのような票数を得たことは、潜在的な脱原発派が決して少なくないことを示している。マスメディアは「舛添氏圧勝!!」と伝えるが、脱原発票は進展したか、脱原発への希望はあるかといえば、まさにイエス!!である。

それに付け加えるならば、舛添氏に「私も脱原発」といわざるを得ない状況にさせたことは、細川氏の立候補とその原発ゼロ政策にある。我々の戦いは進んだ。

2.【細川護熙候補の敗北の原因をさぐる】

しかし、我々脱原発都知事を実現する会(細川勝手連)が応援した細川氏は、僅差とはいいながら3位となり敗北した。その原因は以下のとおりである。

(その1)細川選挙事務所の混乱

当初の選挙事務所の幹部は支援しようとする我々市民に警戒的であり、受容的ではなかった。

我々は第一線に立っている立場から様々な提案、ポスター、ハガキの改善、個人演説会、こまめな街宣、確認団体カーの活用等々をしたが、ことごとく謝絶された。我々は全てを自力でやろうとする選挙事務所を見て、「そういうやり方もあるのかもしれない」と思い、「それなら、きっと完璧な作戦で見事に勝ってくれるだろう」と期待していた。そして控え目な勝手連的活動に終始した。ところがその期待は見事に裏切られ、劣勢が明らかになった選挙期間の中盤に、選挙事務所の幹部が総入替になった。そこで我々は細川選挙事務所には何の秘策も確信もなかったのだということを知った。

それでも我々は、選挙事務所の新しい幹部の人たちと力を合わせ、何とか劣勢を挽回しようとしたが、新体制の幹部も我々への対応はぎこちなく、一部では硬直な方針、例えば国会議事堂前の演説の無効化などを維持した。

細川選挙事務所の幹部のミスは誠に致命的であって、一週間の沈黙、ポスター・ハガキへの政策未記載などに現れている。今回の選挙を通じて、細川氏に責任があるとすれば選挙事務所の幹部の人選の誤りであろう。

(その2)1月14~22日の間の沈黙(空白の一週間)

1月14日の出馬表明でブレークしたにもかかわらず1月22日午後5時まで何のメッセージも発しなかったし、何のイベントも催さなかった。この期間は告示前だからマスメディアは自由に活溌に取り上げたはずである。ここで小泉氏の人気、発信力を爆発的に発揮させるべきだった。この機会を失ったことは致命的だった。1月22日午後5時の政策発表の模様は、告示日1月23日の朝刊に他の候補と同列で報ぜられたにすぎなかった。

また、この1月14~22日の間、脱原発派または中間派市民は細川氏の正式政策発表の遅れに不信・失望をつのらせ離反するか舛添氏、宇都宮氏支持にまわった。敗北した原因のひとつはこの一週間の沈黙にある。

(その3)ポスターと公選ハガキの政策未記載について

ポスターと公選ハガキは顔と名前だけで政策やスローガンは全く記載されていなかった。脱原発を最優先政策に掲げて立候補するのに脱原発に全くふれていない。これを見た市民は脱原発派も含め失望を感じた。これを我々が批判したところ、選対の初期の幹部からは「まずイメージを売込むのだからこれでいいのです」。との答えがあった。これは、愚民政策といわれても仕方がない。

しかし、ポスターについては、選挙事務所の担当者の変更もあってか、選挙終盤になり新しいものを製作しての張り替えが間に合った。このポスターは私たちの要望したデザインとなっていたことは言うまでもない。また、製作宣伝ビラについても、製作をすることになり、これについても私たちの要望がと入れられた内容であった。

(その4)地道な、こまめな宣伝活動の不足

個人演説会や郊外駅頭や住宅地での街頭演説の回数が他候補に比較して圧倒的に少なかった。空中戦だけでは勝てない。少時間のものを多数回繰り返すべきだった。確認団体カーに有力な支援者を乗せて、もっと精力的に街頭宣伝をすべきであった。このことについても、選挙戦後半になって細川候補の演説回数が増加し、支援者の応援演説も次第に増加したことを記しておきたい。

(その5)ネット選挙の不十分

解禁後本格的ネット選挙にもかかわらず、その利用が不十分であった。若者でネットを見ない人はほとんどいないし、中高年層もかなり見る。ネット戦略不存在のため若い人々の多くの票を失ったと考えるべきだ。中盤以降勝手連によるテコ入れにより大幅に改善されたが及ばなかった。

(その6)「脱原発都知事を実現する会」(細川勝手連)の対応について 

我々は小泉氏支援のもとでの細川氏立候補を聞いて、良心的保守勢力と革新勢力の合同による脱原発を予感し、奮い立ち、勝手連的運動に立ち上った。

しかし、前述のとおり細川選挙事務所の非友好的対応に失望感、落胆を禁じ得ず、情熱的に運動を展開することができなかった。その後に選挙事務所幹部の変更があり、当初よりは改善されたと理解するが、不十分であったことは事実である。脱原発という大義のためとはいいながら、選挙の応援というものは無償の行為であり、候補者の選挙事務所との連帯感や綿密な打ち合わせがなければ爆発的に展開できないものであることも事実となる。

また、脱原発候補の一本化ができなかったことに対する脱原発支持者の戸惑いや失望感があった。その結果我々のする駅頭でのビラ配り、各戸へのポスティング、電話かけに不十分性がみられたことは否めない。

3.【脱原発候補の一本化について】

(1)小泉純一郎氏の原発ゼロ発言

小泉氏が原発ゼロ発言を熱心に始めたと聞いた時、我々は非常に感動した。保守政治の中核にいた元首相しかも人気のある大政治家が脱原発を声高に主張し始めたということには歴史的な意味がある。保守政治家も真摯にこの問題と向き合えば脱原発という結論になるということが明らかにされたのだ。これによって保守政党の政治家、支持者の脱原発派が増加し、しかも堂々と主張できるようになった。現に中小企業の経営者達の多くは、「小泉さんの話は説得力がある。自分も脱原発派になった。革新陣営が言っているだけでは信用しなかったが、小泉さんが言うのだから原発はやはりやめた方がいい」と言い出した。自分でリスクを取って会社経営をしている人達ほど多くがそうなっていた。

我々はそこに歴史的意義を見出した。今までの脱原発運動は、いわゆる革新陣営、環境派、人権派、左翼などによって行われてきた。我々もその一部なのだろうが、それは一定の成果(原発乱造の阻止、反対運動による緊張感の醸成など)を上げてきたが限界があった。脱原発まで行かないのだ。保守勢力が脱原発に変換しないかぎり原発ゼロの実現は難しいはずだ。

しかし、小泉発言によって状況は変わった。保守・革新一体による脱原発という可能性がでてきたのだ。ドイツでメルケル率いる保守政党キリスト教民主同盟が緑の党と連帯して脱原発に踏み切ったように、小泉発言は大きくマスコミに取り上げられ、自・公政権に激震が走った。「小泉氏は新自由主義者だから脱原発といえども同調できない」という人がいる。小泉氏が今も新自由主義者かどうかは別としても、そのことについては、「新自由主義者」でさえ脱原発を強く主張し始めたということを前向きにとらえるべきなのだ。

(2)細川氏の都知事選立候補

このような流れの中で猪瀬都知事の辞任、都知事選挙ということになった。そして細川氏が小泉氏の支援を受けて立候補するのではないかという噂が流れた。

我々は千載一遇のチャンスと考え細川氏の出馬表明を待ったが、その間に宇都宮氏が早々と立候補を表明した。その結果、脱原発運動をしてきた多くの人々が宇都宮陣営にとりあえず入っていった。「細川さんが立候補したらそちらに回ることになるかも」という人も多かったと思う。しかし細川氏の出馬表明は遅れに遅れ、その間に宇都宮陣営の運動は本格的に展開されていった。とりあえず運動に入っていた人々も後戻り出来にくい状況になっていったと思われる。

細川氏の出馬表明(非正式)は1月14日となった。そのことは小泉氏とのツーショットもまじえ大きく報道されたが、そこで初めて脱原発候補が2人立候補することになり、脱原発票が割れることが憂慮される事態となった。

脱原発を希望する多くの都民、そして全国の人々から「脱原発候補を一本化できないのか、脱原発票が割れて細川+宇都宮の票が舛添を上まわるのに舛添が当選したらどうするのか」、という声が届いた。その声は非常に広範かつ強いものであり、到底無視できるものではなかった。脱原発運動にかかわる者として、この強い要請の声に誠実に対応せざるを得ないと、我々は考えた。

(3)一本化の働きかけ

我々は1月15日、第一回の会合を開いたが、そこには今まで脱原発運動をしてきた諸団体の代表格の人や個人が多く参加した。ただちに細川支持を表明すべしという意見もあったが、それよりもまずは双方に一本化のための話し合いを求めるべきという意見が大勢を占めた。そこで同日、我々は「脱原発都知事を実現する会」を立ち上げ、脱原発候補統一のための話し合いを求める「申入書」を双方に送付した。宇都宮陣営からは即日回答があり、「公開討論をしたい」という点に重点を置いた内容であった。しかし、我々は公開の場で討論して「統一」という結論が出ることはありえないことと考えた。細川陣営からは1月17日に「いかなる政党、団体からも支持を受けないで戦いたい」「調整には賛同できないが、各々の立場で支持いただきたい」との回答があった。双方に口頭での説得も試みたが功を奏せず、一本化の働きかけはとりあえず頓挫してしまった。

1月20日にそのことを発表する記者会見を行い、そのことをふまえて、当会としては細川候補を勝手連として支援することを宣言する。

(4)細川氏政策発表までの空白の一週間

 その後、細川氏の政策発表は数回延期され、1月22日午後5時となった。その間、宇都宮陣営はそのことを「政策討論をなぜしないのか、フェアでない」と攻撃し、対抗心を強めていった。この空白の一週間は小泉氏、細川氏の知名度、発信力を爆発的に発揮させる機会を失ったという意味でも、分裂の深刻化という意味でも痛恨であった。

(5)選挙の告示

1月23日、都知事選挙の告示が行われた。その日の午後5時以降は立候補の辞退が許されないので、法律上の一本化は不可能となった。

(6)再度の試み

それでも脱原発候補の一本化への要請は迷っている脱原発志向の都民から、そして全国の脱原発を願う人々、有力な知識人、社会運動家から殺到していた。

しかし、「脱原発都知事を実現する会」としては既に細川氏支援を宣言し、運動している建前から、同会として一本化を双方に呼びかけることは筋違いなので、一部有志とその周りの人々が「脱原発都知事候補に統一を呼びかける会」を立ち上げた。そして2月3日に両候補に統一の要請文を出し、記者会見をしてその旨発表した。2月6日には両候補から統一は不可能である旨の丁寧な回答があった。

かくして脱原発候補の一本化の試みは最終的に失敗に終わった。

(7)まとめ

振り返ってみると、我々の「脱原発候補一本化」の願いは脱原発を願う圧倒的市民、知識人からの支持、要求があったにも拘わらず両候補からは顧みられることは全くなかった。

この根本原因は、①宇都宮氏が政党の推薦を受けつつ早期に立候補を宣言して運動を展開したこと。②細川氏が立候補を決意し宣言したのが遅すぎたため、立候補宣言の時点では既に宇都宮氏に立候補取りやめを要請できるような情勢ではなく、また細川氏としてもそのような要請をする意思がなかった。以上の二つのことにある。

我々の一本化の要請は双方から完全に拒否されたのである。それにもかかわらず二度にわたって一本化の要請をしたことの評価については後述する。

4.【選挙の敗北を噛み締める】

 今回の都知事選での運動を評価し総括するにはいくつかの仮定を立ててみることが有益であるように思われる。

(1)仮定1[細川氏が立候補しなかったらどのようになったか]

宇都宮陣営の一部からは「細川氏が立候補しなければよかったのだ」という意見が聞こえてくる。

しかし、我々は決してそのようには思わない。小泉氏の支持を受けて細川氏が立候補したことには前述のとおり歴史的な意義がある。もし細川氏が立候補しなければ脱原発はクローズアップされることなく、昨年の選挙と同じく総花的なもので終わったであろう。従来の脱原発派は宇都宮氏支持にまわったであろうが、新しい脱原発票の掘りおこしはほとんどできず宇都宮氏の得票も前回の得票数プラスαに止まり、当選する事はあり得なかった。

細川氏が立つことにより、脱原発が大きく論争の対象となったことは今後の脱原発運動にとって重要だった。

また、脱原発候補が当選すれば小泉氏が支持する細川氏しかありえないというのが下馬評であったこと(結果としては宇都宮陣営の大健闘により宇都宮氏2位、細川氏3位となったが)は否めない。勝つチャンスがある時に勝ちに行くということは当然である。「良い運動」を目指すのか「勝利」を目指すのかが、両陣営の根本的違いであった。

(2)仮定2[脱原発候補の一本化の努力をしなかったらどうなったか]

前述のとおり一本化の努力は宇都宮、細川両陣営から全く顧みられなかった。しかし、心ある多数の都民、全国の人々(特に原発立地で原発反対運動をしている人々)、有力知識人から「一本化してほしい。一本化して勝ってほしい」との切なる要求があった。東京で脱原発運動をしてきた我々にとっては対応せざるを得ない要求であった。もし一本化の努力をしないで敗れれば、「なすべき努力もしないで分裂を放置して敗れた。無責任だ。」という非難をその方々から受け、今後の運動に大きな不信感と失望感を残したであろう。一本化の努力の経過とその失敗の原因の分析が今後の教訓になり、有効な戦略を立てることに役立つだろうと思われる。

宇都宮陣営にとって、一本化とは立候補辞退要請のように聞こえ感情的反発を惹起したことは残念に思うが、脱原発運動を長年やってきた我々にとっては止むを得ない行動であった。

(3)仮定3「我々が細川支持を表明し、勝手連的活動をしなかったらどうなったか」

我々が細川支持の活動をしたことを非難する脱原発派の人もいる。しかし我々は小泉・細川連合に脱原発都知事実現→脱原発勝利の可能性を見た。多くの人々がそうであろうと思う。脱原発候補が当選するとすれば「小泉が応援する細川しかありえない」というのが支配的な見方であったことは事実である。勝つチャンスがあると見たときに勝ちに行くのは当然である。「より良い運動、正しい勢力を拡張する運動」を目指すのか、「勝利」を目指すのかが宇都宮陣営と我々の違いであったように思われる。僅差の3位に終わったのは結果論であり、我々が勝利の可能性にかけたことは決して誤りとは言えないと考える。

我々が細川支持の運動を展開しなかったら細川陣営は孤独な戦いを展開して、更に少ない票数しか獲得できず孤立感を持ったであろう。そして小泉・細川氏らによる良心的保守に属する脱原発派の政治家やその支持層と我々従来からの脱原発市民層の連帯は生まれず、今後の保・革の連合で脱原発」の方向は生まれなかったであろう。

今回我々が細川氏の支援活動をする事により、小泉・細川陣営=良心的保守の脱原発層の人々は我々に対する違和感や警戒感を解き、その実力を認識してくれることに期待する。また我々も今回の支援運動を通じて、保守層の人々の考えややり方を理解することができた。また良心的保守層との人脈も多く築かれた。私達と良心的保守の脱原発層との連帯の基礎ができたと思う。

「保守・革新の連合で脱原発」という脱原発運動の第二段階に入ることができたのは、我々が及ばないながらも細川氏の支援運動を行ったからである。

(4)まとめ

我々は「脱原発都知事を実現」という大きな夢を掲げて立ち上がり、小さな結果に終わった。色々な不運や、ボタンの掛け違いにより十分な戦いはできなかったが、将来への希望の種は生み出すことができたというべきであろう。

5.【運動の展望を見出すために】

(1)大きな方向を見出す

良心的・有力保守層が脱原発に立ち上がったことの意味は限りなく大きい。我々はこの勢力と連帯して脱原発運動を進めるべきである。

(2)選挙の戦い方

脱原発の戦い方は裁判、デモ、首長への働きかけ、脱原発法制定運動、住民投票等々あるが、特に重要なのは選挙である。それは強大な原子力ムラを根底から覆し、原発復活の根を断ち切ることができるからである。

首長選挙と議員選挙とで戦い方が違うが、いずれにせよ今回の失敗をくり返さないようにすることが大事である。

すなわち、脱原発候補が競合する恐れがある場合は一方が先行して立候補を表明することなく良く調整をして一本化してから立候補するようにすることである。一方が先行してしまえばその候補自身、支援政党、支援者は利害的にも感情的にも時間がたつほどに撤退が困難になることは今回の経過が教える所である。

(3)保守・革新の連合で脱原発の展開を

前述したごとく、保守と革新の連合で脱原発の新しい段階に我々は到達した。この

ことは単純に選挙だけではなく、他の分野についてもいえることである。

裁判(差止訴訟、損害賠償、刑事告訴など)、デモ、原発立地首長への働きかけ、脱原発法制定運動、住民投票、さらには原発被災者への支援運動など全ての分野において保守と革新の連合、良心的保守層を巻き込んでいくことが必要である。

(4)従来の脱原発運動グループの再度の団結

今回の都知事選挙において、従来の脱原発運動のグループの間で、すなわち宇都宮支持グループと細川支持グループの間で若干の摩擦や感情的行き違いがあった。しかし双方ともフェアに戦ったので回復不能な亀裂ではない。我々は数十年の間、連帯して戦ってきたので再び力を合わせて脱原発実現を目指して前進すべきである。

脱原発運動には希望がある。

以上                      2014年5月


             全文のダウンロードはこちらから

安次富浩さん

核のゴミを沖縄に持ってくると政府は言い出している。
米軍基地も、核のゴミ・原発もいらない!がんばろう!
(沖縄・名護 ヘリ基地反対協)

樋口健二さん(フォトジャーナリスト)

「原発の最大のアキレス腱は原発下請け労働者の放射線被曝にあり、それを問わなければ反原発ではない。」

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原発下請け労働者の取材を始め、被曝問題を追求して41年。世界で初めて点検中の原子炉内の撮影をする。 自称〈売れない写真家〉76歳。

原発被曝労働者という原発問題の核心に迫る渾身の記録を取り続けた男。原発と高度成長期の産業の犠牲者たち、全ての労働者たちの真実を41年以上に渡って撮り続けた報道写真家。