ミクロ経済学の教科書あるいは労働経済学の教科書でも、書かれていない場合があります。労働供給曲線は右上がり、ということを初めから想定して議論を始めています。
なぜ労働者が労働供給をしてもいいと思う賃金は、時間に対して増加するのか(この時間は「1日のうちの時間」でも「日数」でもかまいません。以下ではわかりやすくするために「時間」と考えます)?
経済学では個人の「効用」を計算するとき、労働に関しては労働の「不効用」として、つまり、労働を「マイナスの」効用として計算することが普通です。その「不効用」という言葉から、労働供給曲線が右上がりなのは、労働にともなう「苦痛」や「疲労」のためだと思われるかもしれません。長時間働いていると苦痛や疲れが増していくので、それに見合う賃金の増加がなければ、仕事なんてやってられない! だから労働者がさらに働いてもよいと思う賃金は増加する。
たしかに、労働にはそういうところもあります。
しかし、労働供給曲線を右上がりにしている――労働者が労働してもいいと思う賃金が労働時間に対して増加していく―― 一番大きな要因は 機会費用 です。
労働を行うということは、その時間の間、他の活動ができなくなる、ということです。そして、労働時間が長くなれば長くなるほど、労働することでできなくなる他の活動も多くなります。
1日24時間のうち最初の1時間を労働に当てても、残りの23時間は自由に使えます。その時間でいろいろなことができます(残念ながら『24-Twenty Four』 を「リアルタイム」で見ることはできなくなりますが ・・・)。だから最初の1時間の賃金は低くなるのです。しかし、24時間のうち22時間を労働に当ててしまうと、残りは2時間だけになってしまいます。そうなると非常に多くの活動を犠牲にすることになります(『ターミネーター1』は見れますが、『ターミネーター2』は見れません [注1])。そして23時間57分を労働に当ててしまうと、カップラーメンすら食べることができなくなります(リケンのわかめスープならまだ間に合います)。カップラーメンすら食べることができなくなると、人間は確実に死にます。日清食品がマウスで実験しているはずです(近々、ネーチャー誌に載るとか。それ以前に睡眠時間はどうなったんだ? 15時間目ぐらいで出てくるんですが、最初と最後の1時間を強調したかったので飛ばしました)。
だから、労働時間が長くなるにつれて、労働のために犠牲にしなければならない重要な活動が多くなる、つまり労働の「(機会)費用」が高くなる。したがって、その労働時間に対して労働者が要求する賃金も高くなるのです。
そして、労働の「費用」(不効用)――つまり、労働によって犠牲にされているものについて考えること――は、とても重要です。なぜなら、労働者にとって賃金が高いこと(これは労働時間が長いことと言い換えてもいい)は、「必ずしも」いいこととは言えないからです。賃金が高ければ確かに購買力が増し生活は楽になります。しかし、労働の「費用」が高いために賃金が高くなっているとしたら、それは賃金は高いけれど、労働のために多くのことを犠牲にしている、あるいは「やりたいことができていない」ということを意味するからです。
労働者にとって幸せ(効用、更生)を図る尺度は賃金ではなくて、余剰 = 賃金 ― 費用(不効用) なのです。
経済学が最低賃金のような価格規制をあまり肯定的に考えないのも、労働の「費用」を考えるからです。
生産性が同じAさんとBさんがいるとしましょう。Aさんはその仕事が好きなので(労働の「費用」が低いということ)低い賃金で働いもいいと思っていて、Bさんはこの仕事が嫌いなので(労働の「費用」が高いということ)高い賃金でなければ働きたくないと思っているとしましょう。
通常、このような場合、Aさんが雇われます。なぜなら、この賃金なら働いてもよいという留保賃金が低いからです。しかし、最低賃金のような賃金規制を設けてしまうと、場合によっては、Aさんが雇われずに、Bさんが雇われるということが起こるかもしれません。
しかし、Aさんが雇われたほうが、Aさん自身にとっても社会全体にとっても望ましいのです。その理由は、まず、Aさんが雇われたほうが、余剰(賃金―費用)が大きくなるからです。次に、消費者にとっても、労働の生産物の価格が低くなるので、消費者の余剰が増えるからです。
確かにBさんが雇用されないのはBさんにとってはつらいことです(Bさんの留保賃金が高いのは養わなくてはいけない家族がいるからかもしれません)。しかし、Bさんは、より賃金が高い他の職業――できれば自分の好きな仕事――で雇われたほうが望ましいのです(そうなればBさんの余剰も高くなります)。
つまり、市場には、ある仕事に関して、労働の「費用」が低い人から雇われるようにする機能がある、ということです。例えば、求められている仕事が好きなので賃金は低くてもいい、あるいは、その仕事から得られる体験が貴重なので賃金は低くてもいい、という人がいたら、そのような人から雇用される、ということです。
そして、(繰り返しになりますが)これは労働者にとっても社会にとっても望ましいことなのです。理由は(これも繰り返しになりますが)労働の「費用」が低くなるからです。労働の「費用」が低いということは、労働者にとって本当にやりたい有意義な活動が犠牲にされていない――そのような有意義な活動の割合が多くなっている――ということです。
ところで、労働の費用を低くするというと、まず労働自体を減らして、他のやりたい有意義な活動(いわゆる余暇)を増やす、ということが思い浮かびます。
しかし、労働の「費用」を低くする、それ以上に重要な行動は、「好きな仕事をする」ことです。今やっている仕事が好きなために、あるいはやりたい仕事に就いているために、仕事自体が労働者にとって価値がある活動になっていれば、労働のために犠牲にされる他の活動の価値は相対的に低くなります(つまり、労働の機会費用あるいは不効用を減らすことになるわけです)。
「好きな仕事を選ぶ」、「やりたい仕事に就く」ということは、たぶん多くの人が考えているより――それを精神論や人生論、生き方論としてとらえる人が多いと思うので――経済や社会全体にとって重要なのです[注2]。今回の論点からはずれますが、好きな仕事についたほうが生産性だって高くなる、という点から考えてもそうです。
(堀江貴文氏が『ゼロ』で好きな仕事選ぶのが重要だと主張しているようです。もしかすると最近日本で出版された「労働」に関する本で一番いいものかもしれない。と言いながら、読んでいないのですが ・・・)
最初の残業代の話はどうなったんだ? 残り時間が少なく、それについて書くと労働の「費用」が高くなるのでやめます。そうしないと、言っていることと行動が矛盾している、という批判が来ます。
注1) 『ターミネーター1』は1時間45分ぐらい。『ターミネーター2』は2時間半ぐらい。
ちなみに私の基準では、アーノルド・シュワルツネッガーのターミネーターが受けたからといって今度はシュワルツネッガーを「スカイネット側」(敵)ではなくて「人間側」に変えた『ターミネーター2』は、2番煎じ以下の駄作で見る価値がなく、見ることができなくなっても効用の低下がほとんどないので、ここで挙げる例としてはまったく不適切です。
脱線ついでに、サマー・グローのターミネーターはいいなあ。これで「ストーリー」が面白ければ最強無敵なんだけど・・・ ↓車にひかれた後。"Please remain calm." "Oh my god."
注2) また、日本では多くの人が「あきらめるのが早い」と思うからです。大学生の時点で、「収入が安定しているから」といって公務員、保険会社、銀行を選ぶ社会はまちがった方向に進んでいる、と思いません?