
●砂利が大事な貨物だった頃
全線複線電化で一直線が目立つ、今でいえば「フル規格の新幹線」を思わせる立派な線路を自慢にしていた小田原急行鉄道。しかしその反面、まだ畑の目立った世田谷から、神奈川県の沿線人口の少ないところばかりを経由する電鉄会社の台所事情は苦しかった。貨物収入は小田原線開業翌年にあたる昭和3年(1928)度に5万1088円1銭というささやかなもので、現在の物価に大雑把に換算すれば1億円強といったところだろうか。
そこで小田急では貨物の増収を狙って相模川の砂利採取販売を手がけることにした。『小田急五十年史』(昭和55年発行)によれば、昭和8年(1933)11月には神奈川県知事から「相模川敷砂利採取」の認可を受け、同年から翌9年にかけて現在の相模原市南部にあたる麻溝(あさみぞ)村および新磯(あらいそ)村に鉱区を契約し、直営の砂利採取事業を開始した。鉱区は新田宿(しんでんじゅく)と新磯の2か所で、このうち新田宿鉱区は10万坪(33.06ヘクタール)、採取船2隻とガソリン機関車2台、鍋トロ(砂利を積む小さな鍋型トロッコ)が20台、運搬用軌道延長3キロを敷設した。砂利は新座間駅(現座間)までトラックで運ばれ、本線上を貨車で東北沢駅まで輸送した。当時同駅のエリアはまだ世田谷区に編入されて間もない頃で、ここで販売業者に直売したという。
もうひとつの新磯鉱区は30万坪(99.17ヘクタール、ほぼ1平方キロ)と大きく、採取船も3隻、ガソリン機関車は6台を擁し、鉱区から座間駅(現相武台前)までは4キロにわたる専用軌道を敷設、直販と業者への卸売りの二本立てで販売した。ところが昭和12年(1937)に陸軍士官学校が市ヶ谷から移転してきた際、一部の軌道敷が校地にかかったためこれを廃止して相模鉄道の座間新戸(ざましんど・現相武台下)駅からの軌道に変更、さらにトラック輸送の採算がとれなかった新田宿鉱区からも相模鉄道に新たに設置された入谷貨物駅(昭和10年6月23日開業)に向けて軌道を敷設、いずれも相模鉄道経由で砂利を輸送する体制とした。
残念ながらこれらの専用軌道は1:25,000地形図「原町田」や「座間」には描かれていない。なぜなら、両図ともに専用軌道が登場する以前の「昭和4年鉄道補入」に出て以来、次の改訂は線路が廃止された後の昭和29年(1954)修正版であり、四半世紀も地形図の修正が行なわれなかったためである。
ところが諦めていたある日、たまたま私が講師をつとめていた講座の受講生が、昭和12年(1927)修正の陸地測量部による集成地形図「相模原」の実物をお持ちで、そこにこの専用軌道が載っていた。私の喉から手が出ていたのを受講生に気付かれたかもしれないが、以下はそのコピーである。
図1 地形図に描かれた「小田急砂利軌道」。1:25,000「相模原」昭和12年修正
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図右端の「中原」の隣に見える駅が当時の座間駅(現相武台前)で、砂利軌道の南側にある「相武台」が陸軍士官学校である。当時は軍機保護法(昭和12年改正)により図上の軍施設が擬装されているので、建物などは真実の姿にはなっていない。旧座間駅を出ると本線を跨いで西側へ出て、そのまま北西へ進んでいく。現在の詳しい地図を見ると、このあたりの線路跡はこのカーブの通りに家が連なる住宅地になっていて、旧線跡をたどれる箇所もある。軌道は相模鉄道(現JR相模線)の下をくぐって上磯部駅(昭和19年廃止)をかすめ、川原へ出て砂利の採取現場まで続いていた。この軌道は前述の通り昭和12年(1937)の陸軍士官学校の移転を機に廃止されているから、同年修正のこの図にギリギリ掲載されたのだろう。
図2 「砂利会社専用軌道」は座間遊園駅(現座間)から相模川の河川敷へ通じていた。1:25,000「相模原」昭和12年修正
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図によれば小さい方の鉱区である新田宿へ向かう軌道は「砂利会社専用軌道」とあるが、こちらはトラック輸送から切り替えられた後の状態だ。軌道は新座間(現座間駅)まで続いているが、相模鉄道に寄り添った線の終点が座間貨物駅(当時)で、その後は昭和18〜19年頃に旅客を扱うようになったらしい(昭和19年6月1日には戦時国有化で相模線)。
砂利会社専用軌道の連絡駅の名は座間遊園となっているが、昭和12年(1937)〜16年まで4年少々だけそのように称していた。こちらは小田原線開業と同時に開園した向ヶ丘遊園と同様に直営遊園地としてオープンする構想であったが、着工されないまま日中戦争から太平洋戦争へと時局が悪化したため断念している。これにより昭和16年(1941)には駅名を現在の座間に改め、遊園地予定地も戦後に宅地開発が行われたため、今や完全に幻の遊園地だ。図でも遊園地の名称は記されているが、丘陵地の雑木林と湿地の谷間が描かれているばかりである。
●登戸に「砂利受け渡し線」を建設
当時の多摩川は相模川以上に砂利採取のメッカであったが、昭和10年(1935)前後からの需要の急増で資源が枯渇しつつあり、これに代わる砂利の供給地として相模川が脚光を浴びるようになったのである。小田急では砂利の大需要地である京浜工業地帯の中心である川崎方面へ相模川の砂利を供給するため、小田急では稲田登戸駅(現向ヶ丘遊園)から南武鉄道(現JR南武線)へ砂利を受け渡すための側線の敷設を決めた。これらの貨物増収策により、小田急の貨物輸送は砂利採取事業を始めた昭和6年(1931)度に約17.6万円であったのが、同11年度には約27.5万円と順調に増えている。
工第三六九号
昭和十年十月三十日
東京市渋谷区千駄ヶ谷五丁目八六弐番地
小田原急行鉄道株式会社
取締役社長 利 光 鶴 松
鉄道大臣 内 田 信 也 殿
南武鉄道線トノ連絡仮側線敷設及停車場設備変更認可申請
南武鉄道線ト小田原急行線トノ間ニ、左記理由ニヨリ貨物ノ連絡輸送ヲ計ルタメ、南武鉄道線宿河原駅ト弊社線稲田登戸駅トノ間ニ連絡仮側線ヲ敷設シ、之ニ伴ヒ停車場設備一部変更致シ度(たく)候ニ付、御認可被成下度(なしくだされたく)関係図書相添ヘ此段申請候也。
追而(おって)南武鉄道側連絡側線敷設認可申請ハ別途同会社ヨリ提出可致(いたすべく)候。
理 由
一、小田原急行線ヨリ南武鉄道経由川崎及横浜方面ヘ砂利輸送計画ノ為メ、両社線路ノ連絡ヲ必要トセルニヨル
仮設物使用期限
一、御認可ノ日ヨリ向壱ケ年間
図3 戦後の地形図に載っている南武鉄道への「砂利受け渡し線」。すでに当時は使用されていなかったのか、線路は途切れている。1:10,000地形図「登戸」昭和30年修正
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ちなみに図の時期は南武線がすでに国有化された後であるが、これと連絡している小田急の駅名は「登戸多摩川」となっている。昭和2年(1927)4月1日の開業以来ずっと稲田多摩川駅(開業当時の稲田村にちなむ)と称していたが、図が修正された昭和30年(1955)4月1日に登戸多摩川と改められたばかり。さらに3年後の同33年4月1日には国鉄に合わせて現在の登戸と2度目の改称を行なって今に至っている。
●ロマンスカーの原型「週末温泉急行」
ついでながら、開業以来の稲田登戸駅は隣駅と同時に「向ヶ丘遊園」と改められた。遊園地そのものは小田原線の開業と同じ日で、駅前から伸びる軌道の記号は当時運転されていた「豆汽車」である。これは稲田登戸駅から遊園地入口まで全長1.1kmほどの「鉄道」で、開園2か月後の6月14日に開業した。戦時中の一時廃止を経て昭和25年(1950)には復活を遂げているが、道路拡張のため昭和40年(1965)に廃止、翌41年にはほぼ同じルート上を走るモノレール(ロッキード式・跨座式)に取って代わられたが、平成12年(2000)にはモノレールも車両故障を機に運休、翌年に廃止されて遊園地ともども今はない。
昭和14年(1939)に小田原急行鉄道が発行した「沿線案内」の裏面では、向ヶ丘遊園を次のように紹介している。
自然の風致保存に意を注ぎたる当社経営にかかる丘陵公園、子供遊園休憩所グラウンド等完備し春は桜、初夏はつつじ、秋は紅葉、梨もぎ、芋掘り等、御家族連のピクニツク、遠足等に絶好なり。
此の辺(あたり)より西生田、柿生に至る一帯は近郊随一の果実王国とも云ふべく、春の苺(いちご)を初めとして桃、梨、栗、柿と四季を通じて味覚の行楽地、各季節には各園開放され、もぎとりの催(もよおし)をなす。また枡形(ますがた)山城址、丸山教会、戸隠不動、稚児の松、長者穴等、当駅付近には名所甚だ多し。
戦後の小田急といえば誰もが思い浮かるのが「ロマンスカー」であるが、昭和10年(1935)6月1日にはその前身となる「週末温泉急行」が走り始めている。所要時間は新宿〜小田原間を急行列車と同じ90分ながらノンストップで走るもので、新宿発が毎週土曜日の13時55分、小田原には15時25分に着くダイヤであった。
ノンストップだけあってトイレ付きのクロスシート車が用いられ、通常の急行が2両編成だった当時において4両の堂々たる編成だったという。車内放送では新宿の軽演劇場として人気のあった「ムーランルージュ」のスター明日待子が吹き込んだSPレコード盤により沿線案内を行なうなど話題になった。営業成績が振るわなかったことは『五十年史』も認めながら、「ロマンスカーの小田急の原型となった」ことは確かである。ついでながら箱根登山鉄道の箱根湯本駅までロマンスカーが直通するようになるのは戦後昭和25年(1950)になって小田原〜箱根湯本間に三線軌条が敷設され、小田原〜箱根湯本間の昇圧(600ボルトから1500ボルト)が済んでからの話である。
●相模原軍都計画と関連駅の設置
昭和6年(1931)の満州事変以来、日本政府は徐々に戦時体制を強化していく。同8年には満洲進出をめぐって「列強諸国」から非難を浴びて国際連盟も脱退した。このような状況下で、急速な航空技術の発達にも影響を受けて防空の重要性が唱えられ、また都心部の施設が手狭になったこともあって、軍の基地や工場などの郊外移転が相次ぐようになる。
いわゆる「相模原軍都計画」はその文脈の中で進められた計画で、当時の神奈川県高座郡に所属していた上溝(かみみぞ)町・座間町・相原村・新磯(あらいそ)村・大沢村・大野村・田名村・麻溝(あさみぞ)村の2町6村が国の主導により昭和16年(1941)に合併したのが相模原町である(現在の相模原市。旧座間町は後に分離独立、現在は座間市)。
その軍都計画の中心として最初に進出したのは陸軍士官学校であった。昭和11年(1936)に広大な用地の買収が半ば強制的に行なわれ、翌12年には従来の市ヶ谷から移転開校している。それ以後、当地には臨時東京第三陸軍病院・相模陸軍造兵廠・陸軍兵器学校・電信第一聯隊・陸軍通信学校・相模原陸軍病院・陸軍機甲整備学校などが相次いで進出した。
このうち陸軍士官学校は座間駅(現相武台前)に近く、陸軍通信学校は小田原・江ノ島両線分岐点の大野信号場に近接していた。さらに電信第一聯隊も線路に近かったので、大野信号場を停車場に改め、電信第一聯隊の近くに新駅を設置する申請が昭和12年(1937)10月1日に鉄道大臣中島知久平宛に提出されている。
大野信号場ヲ停車場ニ変更及電信隊前停留場新設ノ件認可申請
大野信号場ヲ停車場ニ変更、通信学校前停車場ト改名シ、又小田原本線登戸起点一二哩一一鎖九〇節(引用者注=19.55km)ノ位置ニ電信隊前停留場新設致シ度候ニ付、御認可被成下度(なしくだされたく)関係図面相添ヘ此段申請候也
理 由 書
通信学校駅付近ニ陸軍通信学校新設セラレ、又相模原駅付近ニ電信隊ノ移転決定セシタメ、軍部ヨリノ要求ニ依リ両駅ヲ新設セルモノニシテ、連動装置ノ変更ハ之ニ伴フモノナリ。
電信隊前停留場はその後昭和12年(1937)12月24日の追願によって相武台と名称を変更している(現在の相武台前駅ではない)。ただしその後は駅名を相模原と再度変更した。最初に進出した陸軍士官学校の最寄りとなった旧座間駅が士官学校前と改称されたのは昭和12年(1937)6月1日のことで、翌13年3月1日には最初に「電信隊前」とされて改めた相模原駅(現小田急相模原)が開業、さらに4月1日には大野信号場改め通信学校(前の字は申請後に削除された)駅と相次いで開業・改称されたことにより、駅の並びを見ても「軍都・相模原」の電車らしくなった。
図4 軍都らしい通信学校・士官学校前の駅名が健在だったのは3年程度であった。『沿線案内』小田原急行鉄道 昭和14年発行
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相次ぐ陸軍施設・学校の進出に伴い、開業以来ずっと閑古鳥の鳴いていた小田急の乗客は必然的に急増する。しかし列車本数を増やすためには車両の増備や変電所の新設が必要で、これを鉄道省に認めさせるため、小田急は沿線陸軍諸学校・施設に現状を確認してもらう「御願」を送付した。これに同意を取り付けたものが公文書に綴じ込まれている。
陸軍通信学校長殿
御 願
曩(さき)ニ貴校ガ当社沿線ニ移転セラレ候以来、当社線列車ノ御利用頓(とみ)ニ増加致、加フルニ時局ノ影響ヲ受ケ一般旅客モ亦逐日増加ノ実状ニ有之(これあり)候ニ就テハ、之ガ輸送緩和ノタメ客車増結又ハ列車増発ノ必要ニ迫ラレ居候モ、当社ニ於ケル車両使用状況ハ別記ノ如ク現有車両並ニ設備ハ略(ほぼ)其極度ニ達シ居候為、其ノ意ヲ不得(えず)。従テ時ニ甚敷(はなはだしく)御迷惑相掛居(あいかけおり)候段、寔(まこと)ニ恐縮ニ不堪(たえず)候。
就テハ此際輸送力増加策トシテ至急客車ノ新製並ニ変電所ノ拡張ヲ計画致、監督官庁ニ出願仕度(つかまつりたく)候条、前掲ノ実状ヲ左記ニ御証明被成下度(なしくだされたく)奉懇願(こんがんたてまつり)候也。
これら共通の和文タイプの文章(場合によっては「貴校」が「貴所」などに変わる)に続いて「右相違ナキコトヲ証明ス」と朱書きされ、「昭和拾四年五月拾九日 陸軍通信学校長 川並 密」の印、それに校長印が捺されている。以下同文の「御願」にはそれぞれ「陸軍士官学校長 山室宗武」「陸軍工科学校長 和田盈」「電信第一聯隊長 川村﨣」「臨時東京陸軍第三病院長 吉植精逸」「陸軍造兵廠東京工廠相模兵器製造所長 渡辺望」がいずれも同じ5月19日に署名捺印されている。
雑木林や畑の広がる広大な相模原に相次いで進出した軍施設への通勤客とその家族の乗車は、まさに「救いの神」だったに違いない。
●防諜のために駅名を改称
ただしその後、軍の施設をことさらに宣伝するかのような駅名は防諜上いかがなものか、との当局の指示もあったようで小田急では昭和16年(1941)1月1日付で通信学校駅を相模大野、士官学校前駅を相武台前と改めている。いわゆる「防諜改称」については小田急だけでなく全国的な規模で行なわれ、その過程でたとえば昭和15年(1940)には湘南電気鉄道(現京急)の横須賀軍港駅が横須賀汐留(現汐入)に、軍需部前が按針塚(現安針塚)に改称されるなど、時期的に数年のばらつきはあるものの、昭和12年(1937)の日中戦争後から太平洋戦争開戦前までの間に、あらかた改称が行なわれている。
ただ改称の理由が理由なので、公文書に改称の経緯を記したものはほとんど残されていないようで、私がこれまで公文書の中で見つけたのは、昭和15年(1940)9月18日認可の富山市電(現富山地方鉄道富山市内軌道線)の2つの停留場の改称だけである。聯隊前を五福、練兵場前を県立富山工業学校前に改めるものであるが、その理由が珍しく次のように掲げてあった。
「時局柄防諜関係上、兵営其ノ他軍事施設ノ名称ヲ標示シ其ノ所在ヲ殊更発表スルガ如キコトハ、此際変更サレタキ旨□(1文字不明)本県警察部ヨリ申入レノ次第モ有之」とあった。
士官学校前から改められた相武台は陸軍士官学校の「別名」といった位置づけで、しかも昭和天皇が命名したものとされている。相模原の地にあって「最も武を練り鋭を養うに適した土地」であることから、「武を相(み)る」の意を込めて名付けられたものという。最初は小田急も「相武台」としたかったらしいが、これについては陸軍側と一悶着あったそうで、『小田急五十年史』によれば「なにぶんにも陛下のご命名という由来があるだけに軍は難色を示し、結局、相武台ではイカンが相武台前ならまアよかろう、ということでやっと認可になった」という。その駅名は、戦後になって米軍の座間キャンプとなって今に至るも変わっていない。
ちなみに相模原市と座間市にまたがる付近の町名には現在「相武台」の名が付けられているが、座間市の相武台(旧称座間入谷・座間・栗原)は昭和36年(1961)から、相模原市側の相武台(旧称新戸・新磯野)は同44年から名乗り始めた戦後の町名なので、前のあるなしを気に懸ける人はいなかったのかもしれない。相変わらず前を付けた小田急の駅名だけが「天皇の時代」を今に伝えている、ということだろうか。
*引用した公文書は読みやすさを考慮して漢字を新字に改め、適宜句読点を補い、必要と思われる箇所で改行を行った。それ以外は国立公文書館収蔵の原本の通りである。