神か魔か。奇跡の男の物語『アウトサイド・サタン』は今年の暫定No.1映画
アウトサイド・サタン (日本公開未定)
HORS SATAN/OUTSIDE SATAN
2011/フランス/<未> 監督/ブリュノ・デュモン 出演/ダヴィド・ドゥワエル/アレクサンドラ・ルマートル
フランスはブリュターニュ半島の沿岸、荒涼とした寒村にひとりの放浪者がやって来、祈りと自給自足の日々を送っている。
その禁欲的な画に、この男は何者であるか、目的は何であるのか、と、詮索的な考えを巡らせることすら忘れていると、男は自分に懐いている少女とともに、農家から出てきたおっさんをライフルで射殺する。あまりにもぶっきらぼうで淡々とした殺人に、観客の思考が停止しているのを尻目に殺して、男と少女は草地に肩を寄せて座る。陽は高い。
放浪者は、「村から悪霊を一息で追い出し、世界を悪魔の手から守る」者であると、各所の作品紹介では記されている。
先に銃殺の憂き目に遭ったおっさんは、義娘に性的虐待を繰り返していたけだものであった。それをば法を以てせずワガの一存で断罪した男は何なのか、神なのか? と、素朴なる問い掛けを忌避するかのごときに、男は、唐突に全裸になってセックスを要求してくる女とまぐわい、その口から何かを吸引すると、吐き出す。女、正気に戻る。というエピソードも挿入されていたりする。
この男の正体が神か魔か勘繰るのは、映画的に正しいし、映画的に間違っている。悪徳を抱えた人間たちを荒野に臨むのは神の座にある観客のメタ視点であるし、男こそが神の側に位置する者とすれば、監督兼脚本のブリュノ・デュモンの一存にて、観客の視点は専制的な感想記述のための視野狭窄に過ぎぬと断ずることも出来るからだ。だから長年(2年くらいだが)この映画を待ち望み、やっと観られる光栄に浴した我と我が身の一律の矜持として、本作を娯楽映画として消費し、讃えたいと思う。今年観た映画の中では紛れも無い天位だ。
上に本作との接点を測るのは難しいと書いた以上偉そうなことは言えないが、まあ、偉そうに言うと、男の――便宜的にこう呼ぶが――「悪魔祓い」に、なるべく小さなカタルシスと、なるべく小さな反感を、なるべくいっぱい集めねば総体としての枠組み、或いはジャンルとの呼応を見逃してしまいそうにもなるのだけれども、男が起こす奇跡の数々の中でも最も抽象的で、かつ意図的に撮られたシーン……牧草地の火事を止めんがため、祈りを込めて付き添う少女に貯水池のコンクリート縁を渡らせるシーンに、タルコフスキーの『ノスタルジア
』の火と水の魔を観、遡って、ひとびとの悪心を浄化する男の自然詩めいた姿を再認識してのち、別段、男が聖別化されているわけでもいないことに思い当たってしまうのも本作の愉しみ。そうなると、悪魔憑き、悪霊の祟りという疑惑の元、悪行に血塗られた村人たちも相対的に神秘主義に侵されていたわけではないとなるのだが、最後の最後、ひとつの蹂躙行為に遭遇した男の、極めて人間的な感情、によって、物語が幕となるところに娯楽映画としての最高潮のカタルシスがあり、また、この終わり方の肌触りは世界の始まりでも終焉でもなく、存続の心地良さに類するものだ。

青空への祈りと、悪人に対する暴力行為を天秤にかけ相反するものとしていないのは極めて映画的な作為であると言える。何故なら男が行なう浄化は常に肉体性を伴ったものであり、エロスとタナトスの必然から成り立っているからだ。銃殺に撲殺、性交と、常に男の祓いは人間が出来る範疇での行為に留まっており、一見デモニックにも見える暴力でサタンの誘惑を退け、また、自身もサタンのごときに、この極めて狭い世界、寒村をデザインしてゆく。サタンの最良の友は教会であると同時に、神の最良の友は咎人である。喪われたヒューマニズムは放浪者という属性と自由性を帯びて拡張してゆく。が、本作前後に何があったかを考えてみると、むしろ放浪者は悲劇を最小限に留めてきたのであろう。説明の欠落が、一抹の世界に対する希望を与えている。そこにもの申せる映画観は、いまだ私の中には無い。

こうして言葉に困ると言いながら言葉をずらずら並べ立ててしまっている事こそが、腹の底からひとつの映画を認めてしまった人間の弱味というもので、民主的に均一化されてしまう現代の映画にはこの程度の断絶を以てして悪平等を断ち切るエッジの鋭さが求められる。
本作は、映画と、映画を断定する孤独な群衆の関係にも似ている。
暴力が人間を壊すのは、そこに物語があって、加害者/被害者の文法と記述があるからだ。映画を断定するのはどうしようもなく独裁的で主観的な行為であり、個人主義に均されたわたくしどもは本当はそんなことないのに、神か魔の力を入手したがごときに脚本を殺し、演出を殺してゆく。映画の死体を背に、天に「明日いいことありますように」と祈る。断罪した映画が人格を持っていたかのように、攻撃的な万能感に容易く酔い痴れてしまう。本作『アウトサイド・サタン』の悪行が悪霊によるものだと仮定するのならば、映画だって現実の悪霊たり得る。だが、現実に映画の悪霊を取り除いてくれる人間は存在しない。ならばせめて本作で中和を。ささやかな解毒を。言葉に詰まっている間は、人間は善行も悪行も成し得ないのだから。
青空への祈りと、悪人に対する暴力行為を天秤にかけ相反するものとしていないのは極めて映画的な作為であると言える。何故なら男が行なう浄化は常に肉体性を伴ったものであり、エロスとタナトスの必然から成り立っているからだ。銃殺に撲殺、性交と、常に男の祓いは人間が出来る範疇での行為に留まっており、一見デモニックにも見える暴力でサタンの誘惑を退け、また、自身もサタンのごときに、この極めて狭い世界、寒村をデザインしてゆく。サタンの最良の友は教会であると同時に、神の最良の友は咎人である。喪われたヒューマニズムは放浪者という属性と自由性を帯びて拡張してゆく。が、本作前後に何があったかを考えてみると、むしろ放浪者は悲劇を最小限に留めてきたのであろう。説明の欠落が、一抹の世界に対する希望を与えている。そこにもの申せる映画観は、いまだ私の中には無い。
こうして言葉に困ると言いながら言葉をずらずら並べ立ててしまっている事こそが、腹の底からひとつの映画を認めてしまった人間の弱味というもので、民主的に均一化されてしまう現代の映画にはこの程度の断絶を以てして悪平等を断ち切るエッジの鋭さが求められる。
本作は、映画と、映画を断定する孤独な群衆の関係にも似ている。
暴力が人間を壊すのは、そこに物語があって、加害者/被害者の文法と記述があるからだ。映画を断定するのはどうしようもなく独裁的で主観的な行為であり、個人主義に均されたわたくしどもは本当はそんなことないのに、神か魔の力を入手したがごときに脚本を殺し、演出を殺してゆく。映画の死体を背に、天に「明日いいことありますように」と祈る。断罪した映画が人格を持っていたかのように、攻撃的な万能感に容易く酔い痴れてしまう。本作『アウトサイド・サタン』の悪行が悪霊によるものだと仮定するのならば、映画だって現実の悪霊たり得る。だが、現実に映画の悪霊を取り除いてくれる人間は存在しない。ならばせめて本作で中和を。ささやかな解毒を。言葉に詰まっている間は、人間は善行も悪行も成し得ないのだから。
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20140608 │ 映画 │ コメント : 0 │ トラックバック : 0 │ Edit