電探の重要性を帝国海軍軍令部が真から気づいたとき
海軍電測学校の開校は1944年9月1日からである。初代の学校長は高橋雄治大佐。 あまりにも遅きに失した。 これは 「あ号作戦」の大敗で後がなくなった時期であった。 海軍が開発した電探(レーダー)はこちら
南太平洋海戦(1942年10月26日)、日本の空母艦載機の攻撃を受け大きく傾いた空母「エンタープライズ」 すでに、艦橋や櫓にはレーダーアンテナが観察できる。
FDレーダー ドップラー効果による機速測定用レーダーである。もう一つは
対空見張用SCレーダーアンテナ。
早くから実戦経験を積み重ね1年8カ月後のマリアナ沖海戦で空戦管制システムを完成させたのである。
日本海軍でも昭和16年(1941)12月には艦船に搭載する対空見張用レーダー二号一型の試作機が完成する。 そして、1942年12月二号二型の量産が決定されたが、艦政本部はその資材を充分に提供しなかった。  紆余曲折をえながらもマリアナ沖海戦(1944年6月19〜20日)の主要艦艇である戦艦や巡洋艦には二号一型が1台, 海上見張用の二号二型が1〜2台。空母には二号一型が1〜2台設置されていた。すなわち数だけは揃っていた。 ところが海軍はこの新たに出現した電子テクノロジーの活用についての研究と指針を持ち合わせなかった。 レーダーを搭載された側はその思いつきで、夜間や濃霧の時に使うということで航海科が主管したり、 電波を発するので無線装置だとして通信科が担当するなどした。  海軍のレーダー開発組織はこちら
レーダーは航海に利用できるが、戦闘艦に搭載するからには、接近して来る敵機や、 忍び寄る潜水艦を発見するための兵器であり、それらの早期発見につながれば、対空戦闘に万全を期することに使える兵器だった。
アメリカはレーダーを、部隊指揮する兵器として位置付けたが、日本海軍はあくまで補助兵器として扱った。 レーダーの特性を知ろうとしない Imperial Navy のリーダーたちであったから、 実戦の場でどのように利用、活用すればよいのか、多くの軍人がわからないまま装備された。 やがて、海防艦に乗っている連中(兵学校出身者は乗らなかった)が、潜水艦発見兵器の要望を熱望し電探が取り付けられるようになった。
また、官僚的セクト主義の弊害も目立つ。例えば航空機と艦船のあいだで使う敵味方識別装置(IFF)も航空機側は航空本部,艦船側は基本的に艦政本部の所管だった。 結局両者間での共同開発,設置調整が付かず装備されることはなかった。 海軍という同一体なのだが、官僚化の壁が開発に立ちはだかっていた。 現在もこのような弊害は随所で散見される。保育園と幼稚園の所轄官庁が違うことがその一例である。 農水省が、農道という道路を必要以上に造っているのも、国交省との調整の結果ではない。国(農水省と国交省),県,市町村道が入り乱れ学童の通学道にまでその影響が及ぶとされている。過去を笑えない現実が今日にもある。

作戦・用兵の事項を掌る海軍統帥に関する中央統轄機関として軍令部があった。 軍令部は天皇に直属し、その統帥を輔翼(ほよく)する立場から、海軍全体の作戦・指揮を統括する。 戦闘艦など用兵と作戦は軍令部が行った。  よって、航空本部がどんな斬新で立派な兵器を開発しても、軍令部がその要諦をしっかり見極め、 前線の用兵・作戦担当者に使わせる必要があった。
また、その逆に戦訓で兵器の改善を必要とすることがらが、研究開発あたる艦政本部や、 航空本部に伝わらなかったら改善されることに繋がらない。 このフィードバックが機能しなかった大きな要因は開発担当技術者を軍艦に乗せたがらず、 技術者もそのことで実戦の実状実相を知る道が断たれていた。 これらが、電探という兵器の工業生産力の低さと相まって電探の脆弱性に繋がった。
また、国内に四鎮守府が置かれたが、鎮守府司令長官(大・中将)は軍政に関しては海軍大臣の、 作戦計画に関しては軍令部長(軍令部総長)の指示を受けた。余談だが、下士官兵はいずれかの鎮守府に属し、士官は海軍省に属した。大企業の支店採用と本社採用の違いと思えばわかりやすい。

国を挙げての戦争をキッチリこなす組織体ではなかった。  株式会社の一般的組織を念頭に置いて考えて頂ければ、海軍全体の組織がいびつであったことをご理解頂けるだろう。
あるとき、突然代表権のない会長(海軍省)から、経営の根幹に係わる命令がおりてきて、 次の日代表取締役(軍令部)から、会長の命令に反する指示がおりたとき、現場は混乱するだけである。  米国の戦争遂行組織を見るにつけ勝てないと実感するだろう。
電探開発は艦政本部に直属する海軍技術研究所であり、全体は海軍省の外局の一つであった。


電探の重要性を帝国海軍軍令部が真から気づいたのは トラック島大空襲(1944/2/17〜18)の甚大な損害に色を失っ結果であった。 それは、昭和19年(1944)2月のことであった。 それまでに、 ミッドウェイ海戦(1942/6)で、たまたま戦艦日向搭載の仮称一〇三号(マイクロ波)が 悪天候の一寸先も見えない濃霧海域の航行に威力を見せたので、早速、松田尊睦艦長は内地帰還後レーダーの有効性を軍令部や艦政本部に具申したが取り上げることはなかった。  また、第三次ソロモン海戦(1942/10/12) 21:30 時 重巡青葉、古鷹は敵艦を視認することなく一方的に米艦電探射撃で撃沈されたが、それでも海軍は日本人の黒い眼ん玉はレーダーに勝るとほざいていた。
すでに、その頃になると資源を持たない日本は真空管に使う稀少金属にも枯渇を来たし、 香港で入手していたニッケル貨幣などが転用されるほどになっていた。
更に現在にも尾引く組織上の問題があった。同じレーダーでも航空機用は航空機技術廠、 艦艇用は海軍技術研究所でバラバラに製造・研究していた。
国家としてのグランド・ストラテジー(Grand・Strategy 大きな戦略)を推進することもままならなかった天皇の補弼機関大本営は、斬新な技術開発と運用に無関心であった。戦争のための電子工学に限っても、

-- 海軍としての開発管理体制 --
一、研究推進(兵器としての位置付け)のマネージメント不足。 それが
二、計画性の欠如となり、 それが
三、技術の芽を評価展開する実行者不在につながり、 それが
四、専門技術者の確保と養成を行わず、 そしてその必要性を認識した後
五、少ない技術者を陸軍・海軍、さらにそれぞれの組織内で(海軍:空技敞,海技研,鎮守府)で奪い合い、
そのことが
六、斬新な技術革新の相互啓発を阻んだ。 そして結果は
七、量産体制の未熟さを招き。 そして結果は
八、国土の荒廃と原爆投下の悲惨さを味わった。 それは
九、科学音痴大量養成機関だった海軍兵学校教育に根源があった。

開発技術者も
受信部に小型のマグネトロンを用いた超再生方式を採用した。 これは
一、真空管を用いるスーパーヘテロダイン方式が部品の供給と信頼性に不安があった。 これだと
二、電圧・磁界と物理的な構造から発振周波数が決定され、外部回路による周波数の微調整は困難。
三、発振モードは非常に不安定で、熟練者が入力と電圧とを始終調整し、やっと動作できる代物だった。
そのことが
四、兵器としての操作性と部品の互換性は不可能となり。 そのことが
五、受信機の調整には高度に訓練された熟練の要員が必要とされ。 そのことが
六、用兵側に電波で居場所を知られるだけの使い物にならない兵器とされた。

このように電探開発には用兵側も開発側にも問題があった。 明治維新以降、先進技術を欧米に依拠した日本で斬新で柔軟な発想(思考)が出来なかったことに尽きるだろう。

チーム活動不向きな文化的背景として、幕藩体制に帰結できそうである。  この体制は横の連帯を蛇蝎以上に忌避し、おらが道のみ許容した。 一国一城の主でなければならなかった。  その結果、カラオケボックスの独唱は得意だが、合唱団活動はどちらかといえば不得手で不人気である。
残念だが米国に見られる新技術や新兵器を総合的に研究し開発する国家部局は最後まで作られなかった。   「必勝の信念」「大和魂」 が最高で、かつ究極の武器だった。
ABDA(米・英・蘭・豪)ラインによる貿易禁止策での斃死を避けるためと称して南方資源獲得のための、自存自衛の戦争だ。と豪語したが、 資源獲得後の輸送を全く考えてもいなかったし、対応も考えていなかった。
艦隊輪形陣の内側から米潜の雷撃を喰らうようになって、潜水艦探知機を作ってくれとの現場要望に対し、 1943年後半からアクティブソナー(Active Sonar・音響探信儀)に転換されたが探知用音源発射を極度に忌避し実戦に活用されなかった。
資源さえ確保すれば、戦争は勝ったも同然と考えていた。  実際のところ輸送船が撃沈されるのは稀(まれ)なことだと信じていた。   だが船舶喪失の実態はこのように悲惨だった。
アクティブ(Active:自発)タイプとパッシブ(Passive:受動)がある。 ソーナー、ソナーの両語が用いられる。
レーダーに関して一歩先を歩く英国はそのノウハウを米国に教え、米国は、
斬新な兵器開発や新薬研究は科学研究開発局(OSRD)が一元管理し、 最盛期には3万人の科学者と技術者を擁した。ご存じのように原子爆弾さえ完成させた。
トラック島大空襲(1944/2/17)の4カ月後、米によるサイパン島奪取を巡る攻防がマリアナ沖海戦であった。 敵将は知将と云われた第五艦隊長官スプールアンス(Spruance)。 彼は艦隊司令長官マーク・ミッチャー(M・Mitscher・空母特別任務部隊)の助言を入れサイパン島の沖合で待機する。日本軍が隙を突いてサイパン島に来られない位置に機動部隊をつけた。 この敵(日本軍)の出方待つ作戦はスプールアンスがレーダーの機能を高く評価していたからだと云う。 このレーダーのおかげで敵を必死に探す手間が省け、空母艦上で戦闘機の出撃体制を組み、搭乗員は スタンバイ・ルームで待機させるだけでよかった。スプールアンスは兵器としてのレーダーを高く 評価しそれを活用(無駄なエネルギーを使わない)した作戦を立てただけであった。 やがて防御でガッチリ 固めた艦隊に日本機は殺到??した。 その憎っくき敵艦隊旗艦レキシントンのCIC(集中戦闘司令室) には、多くの電探操作員を交替で監視を続けさせるだけでよかった。 そしてレーダーに敵影(日本機)が 映し出されたのが日本時間 09:30 200Km先に機影を捉えた。 対空高度測定用電探「CXBL」は 日本機の高度 3,500m。 スタンバイ・ルームの戦闘機パイロットに出撃が命令された。 4,200mで占位せよ!
米軍はレーダーで電波を出しまくったが、日本側はその電波を捉えられなかったであろう。
例えば、空母艦載機に必要な方位測定帰投装置も国産はなく、米クルシー方式(ク式)とドイツの テレフンケン方式(T式)の両方を機種,船型に応じて使っていた。1941年に一式空3号無線帰投方位測定器 ば米ク式を国産化したもので、この改良型(T式を含め)実戦使用された痕跡がない。 [日本海軍史 巻七]
レーダー波を照射されているか知る電波探知機の実用機は敗戦まで戦場に出現していない。よって潜水艦など夜間浮上し蓄電池の充電を行ったが 電波照射を感知できなかった。
今でも、アメリカ転(こ)ければ日本も転(こ)ける。といわれているが、松岡洋右外相や 陸軍参謀本部瀬島龍三,海軍軍令部石川信吾あたりは、日本に信頼に足りる多品種,多岐に及ぶ潤滑油の製造技術がなかったこと。 電波に係る総合的製造技術や研究体制がなかったことなど 承知していたのか知りたい。筆者はモタリゼーシヨンの発展を目の当たりにしてきたが、 初期のガソリン使用のレイプロエンジンでは中波帯のAMラジオさえ雑音で聴取不能だった。このように、 送受信機が製造可能でもトータルとして品質管理(航空機を含めて)がなされなかったら使い物になる 兵器は生まれない。
よって、九三式魚雷のエンジンはすごいだの、大和の主砲は遠くえ飛ぶだのという次元の 単純なことで戦争は語れない。
VT信管
 米国のこの技術開発は「セクションT」と呼ばれた。1942年3月にはこの研究のみに1,000人近い科学者と技術者が 開発に携わった。正式には Proximity Fuse (近接信管)であるが、悟られないため、Variable Time Fuse と 呼称された。それぞれの頭文字。直訳すれば「可変型時限式信管」金属感知近接信管のことである。 銃砲弾が機体命中しなくともある範囲の金属を検知すると爆発する。 それまで、艦船より発射される銃砲弾は対航空機に1万発に1発程度命中とされたものが飛躍的に向上した。 ましてや防弾構造となっていない日本機にはVT信管は致命的打撃を与えた。
「セクションT」では
 T−1 光電近接信管。T−2 音波近接信管。T−3 電波近接信管。
の三種類が同時研究され、最初の実験は昭和18年(1942)8月12日にニューメキシコで行われた。 最初の実戦使用は1943年(昭和18年)1月5日、ガダルカナル近海で巡洋艦「ヘレナ」による日本機撃墜が最初。
[technology] 内の各 htm ファイル
沖縄突入艦から除かれていた対空駆逐艦秋月型 specification,矢矧など   旧 Imperial Navy のバカどもが最終的に行き着いたコンクリート船   巨象は虚像だったImperial Navy   マリアナ沖海戦真の敗因 (日本海軍に存在した防御軽視の大弊害)   伊52 模倣国家日本の縮図   期待と結果が無惨に食いちがった戦闘の経過   マリアナ沖海戦参加艦艇   レーダーを取り外して惨敗したバカども。   水から航空ガソリンが出来ると信じたバカ。   日本海軍の製作した電探 レーダー   艦上攻撃機天山 ・ 艦上爆撃機 彗星   犬の遠吠え思想だった大和搭載主砲

太平洋戦争取材班
E-mail   お問合せ、ご質問はこちらへ
ADDRESS *******************
Version 1.00 (C)Copyright 1999/2001

JOY Searcher   Yahoo!JAPAN   大和目次に戻る